2022/12/09

執着と一切皆苦

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その10」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

仏教では、執着しないこと、執着を捨てること教えます。私はその考え方が好きです。地位や財産や名声を追い求めない。そういうものに執着しないで生きていきたいと思います。

以前は欠かさず買っていたジャンボ宝くじも買わなくなりました。お金はとりあえず暮らしていけるだけあればいいかと。でも、べつに貧乏や清貧に執着しているわけでもありません。無いものねだりしないだけです。

セイラーボブは、地位や財産や名誉に執着するなとか、金を追い求めるなとか、そういうことは言いません。でも、「私は実在しない」と教える非二元の教えは、執着するなと教えているのと同じではないでしょうか。金や地位や名声を持つ「私」がいないということは、執着元がないということではないでしょうか。

仏教では「一切皆苦」といって、生きることは苦しみだと説きますが、セイラーボブは、生の背景にあるのは至福だと説きます。これは一見仏教で教えていることと違うように思えます。

でも、仏教で人生は苦しみだという理由は、諸行無常だからです。すべては去ってしまうから、苦しみだと言っています。それだったら、非二元も同じことを教えているのではないでしょうか。仏教も、その教えを理解した先にあるのは涅槃です。盤珪が言うように、もともと不生ならば、至福の状態にいるといってもいいのではないでしょうか。

2022/12/08

雲の後ろに空がある

;第692回「心を師とせざれ」2022/11/29【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

これが禅の神髄。ほとんどセイラーボブの話と同じです。

2022/12/07

行為者の不在の説明のしかた

昨日のブログ中のカットの説明はとても興味深いものでした。行為者の不在を説明するために、仏教で言うところの縁起と同じ理屈で説明していました。縁起という言葉は使いませんでしたが、その説明はまさしく縁起でした。セイラーボブが今までにああいうふうに行為者の不在を説明するのを聞いた記憶はありません。

そこで、今日はセイラーボブがどういうふうに行為者の不在を説明するのか書いておきます。ここで言う「行為者の不在」とは、「『私』は実在ではない」「『あなた』実在ではない」という意味です。

セイラーボブは二通りの説明をします。一つ目は、「実在の定義は何ですか?」から始まって、「実在とは永遠不変のものです」、「体は永遠不変ではありません」と言います。そして、「あなたの体は土・水・火・空気・空間という要素でできています。体から火を取り除くことはできますか? 体から水を取り除くことはできますか? 体を空間と切り離すことはできますか? できません!」と説明します。

この要素(元素)の考え方は原始仏教の中にもあるし、古代インド哲学の中にもあります。体から要素を切り離すことはできないという説明は一種の縁起です。そして、この場合、体という存在を認めています。体は永遠不変のものではないとしても、とりあえずは存在すると認めた上で、それは永遠不変のものではないから実在ではないと説きます。また、まわりのものとは切り離せず一体のものだから実在ではないと説きます。

そしてもう一つの説明は、具体的な説明はなく、例え話によるものです。例え話はたいてい鏡か映画のスクリーンです。「鏡に映る像はそこにあるように見えても何もない。あるのは鏡だけ」「映画のスクリーンには世界が広がっているが、映画が終わればそこにはスクリーンがあるだけ」。この場合、体は幻影であるとして、その存在を認めません。セイラーボブの説明はたいていこの二通りです。量子力学を持ち出して説明するときもありますが、それほど頻繁ではありません。

不思議なことに、無我という言葉で行為者の不在を説く仏教においても二通りの説明があり、その説明はセイラーボブの説明とほとんど同じです。一つ目は縁起による説明。これは初期仏教で用いられます。すべての物事は縁起によって起こるのであり、そこには「私」はおらず、私を構成する五蘊(ごうん)があるだけであると説きます。この場合も、一応体はあると認めます。

そしてもう一つの説明は大乗仏教で登場した空(くう)の思想です。唯識では、体も何もない、一切は空だと説きます。佐々木閑先生はスクリーンと鏡の説明を使ってみえました。この鏡の説明は、おそらくヴェーダから来ているものであり、仏教でも使われます。大乗仏教による「空」の説明は他にもいろいろあるのですが、ここでは書ききれないので、興味のある方はこのブログにある龍樹や唯識のところを読んでみてください。なお、仏教(アビダルマ)にも粒子論的なものがあります。興味のある方は仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を読んでみてください。

セイラーボブの教える非二元も、佐々木閑先生や横田南嶺老師の説く仏教も、同じような説明をしているのはとても興味深いことです。私は、この行為者の不在が腑に落ちるまでずいぶんと時間がかかりました。最初の頃は、特別な理解が起きて、自分が消えるような体験が起きるのではないかというトンデモな想像をしていて、さっぱり理解できませんでした。

セイラーボブの教える非二元は、極端なことを言えば、「行為者の不在」と「時間の不存在」が腑に落ちれば理解すべきことはそれで終わりです。ただ、それが理解できたからといって、心理的な苦しみが即座に全部消えるわけではないことは言うまでもありません。

私はセイラーボブの説くやり方も、佐々木閑先生や横田南嶺老師の説くやり方も素晴らしいものだと思っています。それで十分納得できますが、個人的には唯識のところで書いた説明が一番しっくりきています。さらに、以前このブログで取り上げた前野隆二先生の説明(脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳)も好きです。

「行為者の不在」の理解の仕方は人それぞれでいいと思います。極端なことを言えば、「直観でそう思う」というのでもかまいませんし、「私は一瞥した」とうのでもかまいません。本人が心底納得すればいいだけの話です。なぜなら、どこまで突き詰めても、今のところ科学的な証明は不可能ですし、それを実際に体験することはできないからです。

一番大切なことは、自分で調べて納得することであり、それには説明や理屈は不要です。説明や理屈は、あくまでもマインドのための補助的な材料でしかありません。

2022/12/06

どうやったら行為者なしで行為をすることができますか?

2022.6.5ミーティング
1:02:00から

参加者:私が繰り返し思うのは、もし行為が起こっていても、それをやっていると信じている私がいて、自由意志はないという観念を受け入れることができません。私は行為者が私を存在することから連れ出してしまうと信じています。それで、(質問は)どうやったら自由意志なしで、また、行為者なしで行為をすることができるのかということです。

ボブ:ただ、やってみてください。(一同笑い) それがうまくいくかやってみてください。それがあなたのやることです。

カット:そのプロセスが起こるのを実際に目撃していると、たくさんの信じられない発見があります。選択や決定を見守るとき、そこに決断したり選択したりする私がいると決めてかからないで、周囲の状況を認識することなく、ただ空(から)のマインド、空の空間でいると、どうやって選択が起きるのかを発見する喜びが起こります。

たとえばレストランへ行ってピザかサラダかを選択する時、どうやってそれがやって来るのか。興味を持って、それがやって来るの待ちます。そして何が起きるのか見ます。二つの思考が浮かんできます。一つは感情に訴えるもの。それは唾液が出てきて、もう一方は出ないかもしれません。その時、誰が決定を下しますか? 

どうやってその思考は意識のフィールドに現れますか? それが起こるのを見る時、実際に命が瞬間瞬間行為なしで、行為者なしで、奇跡のように起こるのを見て、あなたは本当に驚くでしょう。どうして体はどうしたらよいのか知っているのか? どのように決定は起きるのか? どのように思考は起こるのか? どのようにあなたは生かされているのか? どのようにあなたの髪の毛は伸びているのか? 

どうやってあなたの心臓は鼓動しているのか? 意識の中で、どうやってあなたの行動は起こるのか? そしてこれは、私は無であり、自身の人生を選択することはできない、ここで私は一体何をしているのか、私は死にたいといったような、力を奪ってしまう抑圧的な考えを許すということではありません。

今あなたは、その力やパワーはその背後で互いに依存しあっているということを発見します。例えば、ピザにするかサラダにするかの選択は宇宙全体が関係しています。ムード、生理、あるいはホルモンのレベル、あなたの育ち、子供の頃、一年生の時誰かがいじめたこと。天気、季節、宇宙のあるゆることが関係しているのです。

その全能のもの。全能。あなたが本当に完全に行為者という考えを落とすと、あなたはその全能のものから分離してはいないということを理解します。実際、それが本当のあなたなのです。あなたが宇宙です。あなたが星や太陽をめぐらせいて、あなたは細胞やすべてです。そしてそれは力を奪うのではなく、完全に力を与えているのです。なぜなら、(あなたは)すべてとして存在すること、そして無として存在することだからです。それは同じ一つのものです。

なぜなら、そこには存在があり、そこには実在があり、あなたがそれであるということを否定することはできないからです。そしてその存在は何からも分離していません。そのため、あなたは「私は無である」と言うことはできないのです。誰がそう言っているのですか? そう言う時でさえ、そこには何かがあります。あなたは個人の体の中の個人の行為者ではありません。

あなたはあらゆる行為の背後にある命なのです。全能、偏在。あなたは体を通して一つの体の存在を体験することができます。というのも感覚器官があるから。あなたはここに(自分の体を触って)皮膚を感じます。(猫に触って)ここに皮膚を感じます。でもそれは単なる見本です。なぜなら、実在は体験できるものではないからです。実在は純粋な可能性です。

体の中で、それは認識されます。体の外にも、実在は存在します。それは現実化、あるいは認識されないだけです。最初、「私には自由意志がない」というのは悪い知らせです。でも、究極的にはそれは、何か悪い行為の束縛や罪悪感からの解放なのです。なぜなら、ひどい人たちが他の人を傷つけたとしても、それもまた全宇宙が同じように彼らを創造したのです。彼らは心の奥底からそれ以上の良いやり方を知りません。彼らは何か他のやり方でやることはできなかったのです。

もし彼らが別の国、別の母親のもとに生まれ、たとえそれがヒットラーやその他の人たちのもとであっても、彼らはそれをやらなかったでしょう。なぜなら、彼らは行為者ではないからです。それはまたグッドニュースです。もし私が行為者ではないなら、誰も行為者ではありません。もし誰かが私に唾を吐いても、私をいじめても、彼らは行為者ではないのです。私は彼らを悪く思うことはできません。

私はただエネルギーの領域を見つめ、戦争、愛、喜び、悲しみの中でダンスをするのです。そしてもしそれが非個人的なことであっても、それでももちろん体は痛みより喜びを好みます。体は空腹よりもお腹が満たされることを、寒さより暖かさを好みます。でもそれは、そのようにできているからにすぎません。それが、世界全体が続いていくようにしているやり方であり、学習するやり方であり、世界で生き残っていくやりかたです。

それが私たちが心配しなくて済むようにするやり方です。なぜならそれはもともと自身の世話をするようにプログラムされているからです。もちろん、うまくいかない時もあります。短期的には間違った判断も正しい判断もあります。というのは、このコンピューター(頭を指して)はそのデータベースを経験によって絶えずアップデートしているからです。でも、それが非個人的である時、それは本当に衝撃的です。それを見ていることは楽しみです。たとえそれが、昼と夜、喜びと痛み、冬と夏、上と下などすべてであったとしても。

でもその質問は本当にすばらしい質問です。行為者。最初に、認めるべきことは正しく認めるというのは良い訓練です。私たちは訓練を勧めているわけではありません。なぜなら誰も訓練する人はいないからです。でもそれは認識する一つのやり方です。オーケー、これが起こった。この体が誰かに仕返しをした。誰かを蹴った。あるいはガラスを割った。この時、認めるべきは、どこに行為者がいるかです。生が生じる事の、あるいは起こる事の全体を仕組んだのです。

ボブ:クリシュナムルティはこのことを簡潔に、「選択なきアウエアネス(意識)」と言いました。あなたは今意識がありますか? その時、自然に選択がやってきます。選択はなされ、行為は行われますが、そこに行為者はいません。それはすべて自然に起こっているのです。

2022/12/05

無知から苦しみが生まれる

第680回「無知から苦しみが生まれる」2022/11/17【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

 

「無知から苦しみが生まれる」というフレーズは、セイラーボブと同じです。
仏教では、無知を無明といいます。無明とは、「私は実在ではない」ということを知らないことです。

2022/12/04

正念(マインドフル)

昨日の佐々木先生のYouTubeには驚きました。私はマインドフルネス瞑想が仏教から来たものだということを全く知りませんでした。そして、正しいヴィパサナ瞑想や座禅とはどういうものかということを初めて知りました。

私は仏教が説く修行の話は避けてきましたが、自分の理解がいかに浅かったかを思い知らされました。昨日も書きましたが、座禅やヴィパサナ瞑想は、あくまで仏教の教え(諸行無常・諸法無我)とセットになっていることだとわかりました。


Wikipediaで調べると、マインドフルネスはパーリ語の仏教用語サンマ・サティ(漢語:正念)のサティ(念)の英訳とあります。
では、その「念」とは何かというと、昨日の佐々木先生の話では、念とは、身・受・心・法であり、もっとわかりやすく言うと体・感じたもの・マインド・万物です。

佐々木先生の説明では、仏教で教えているのは、正念と正知がセットになっているということ。正念とは何かというと、念を正しく見ること。正しく見るとは、体・感じたもの・マインド・万物は、永遠不変の実在ではないということを知ること。つまり、諸行無常・諸法無我であるということをしっかりと知ること。

そして正知とは、あらゆる行為を片時も逃さず観察すること。要するに正念・正知とは、体や万物は実在ではないということに反するような考え方や行動をとっていないかを片時も忘れずに観察、あるいは気づいているということです。

私が今までやってきた瞑想は、正知ではあっても、正念が欠けていました。非二元的に言うならば、「あらゆるものが実在ではない」や、「『私』は実在ではない」ということをしっかり理解した上で、それを片時も忘れずに体や呼吸や思考を観察、あるいは気づいているということだと思います。

「ただそれだけ」のp105には、「間断なき瞑想ならざる瞑想」という瞑想が出てきますが、これはゾクチェン(チベット仏教)の瞑想ですから、おそらく同じことを言っているのではないでしょうか。

私はセイラーボブの教えている非二元は正確に理解したつもりです。でも、自身の生活が、その教えに則してしているかというと、そうではありません。「私」はたびたび登場するし、怒ったり、落ち込んだり、人と比べたりする「私」がいます。そのたびに「私」はいないと確かめています。

非二元の教えもマインドフルネスと同じで、身につくまではある種のトレーニングが必要だと思います。「私は理解した」で終わっていたら、何も変わらない。いつも、自分は正しく理解しているか、自分の考え方や行動は非二元の教えにのっとっているかを絶えず観察していく必要があるのではないでしょうか。

逆に、人を憎んだり差別したりしている自分に気づいたら、自分はまだまだ非二元の教えがちゃんと身についていないとわかるのではないでしょうか。いくら非二元の教えを正しく理解していても、心理的な苦しみがなくならず、周りの人を差別したり苦しめたりするなら、それでは何のために非二元を学んでいるのかということになります。

私がセイラーボブの教える非二元を学んでいる第一の理由は、心理的な苦しみから解放されたいからです。随分と解放されました。そして、人と争ったり、人を傷つけたり、人を憎むようなことはもうたくさんだと思うからです。そういう思いや行動が少しでもあるうちは、まだまだ学ぶ必要があると思っています。

そして、できるだけ多くの人にセイラーボブの教えを知ってもらいたいと思っています。私はセイラーボブの非二元しか知らないので、非二元全体のことをこのブログで語っているつもりはありません。あくまでもセイラーボブの教える非二元だけです。

「正念」という言葉が気に入ったので、机の上のいつも見るところに小さな文字で書いておきました。いつも「正念」を忘れないでいようと思います。

2022/12/03

マインドフルネスの本来の意味

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その9」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

私はマインドフルネスの本来の意味を知りませんでした。過去に何度か佐々木先生がマインドフルネスの話をされたことはありましたが、その本来の意味を詳細に説明されたのは今回が始めてです。

マインドフルネスという言葉そのものは、もうずっと以前から知っていました。私の今までの解釈では、マインドフルネス瞑想は、自分の身体、呼吸、思考などを見つめる瞑想というものでした。技法的にはヴィパサナや座禅と同じものだと思っていました。

でも、今回の佐々木先生の説明を聞いて、もともとは仏教の技法であり、単なる瞑想ではなく、その前提として、「私は体ではない」「諸行無常・諸法無我」ということを理解した上で、自分の考えや行動がそこから外れてはいないかと確かめる技法だということを知りました。

Wikipediaでマインドフルネスを調べたら、ちゃんとそう書いてある。もともとは仏教の技法だったものを、仏教的な教えを取っ払い、アレンジして瞑想だけに焦点を当てた技法として西洋社会で広まったもののようです。なんともったいない。一番大切な非二元的な部分を取っ払って、単なるストレス解消法になってしまっている。

私は、マインドフルネス瞑想と似たような瞑想をさんざんやってきたので、もう瞑想は卒業だと思っていましたが、その前提として無我や諸行無常を知った上でやる瞑想だと知った今、話が全然違ってきました。そういうことなら、私は24時間、一種のマインドフルネス瞑想をやっているつもりです。

また、座禅に対する認識も変わりました。禅僧たちは、日ごろ仏教を学んでいて、当然、諸行無常・諸法無我という仏教の教えを学び、そのかたわらで座禅をしているわけです。座禅は、あくまでも仏教の教えとセットになっているのであり、仏教の教えていることを理解して座禅することが大切だとわかりました。

2022/12/02

生の初期設定

盤珪の言う「不生の仏心」や、セイラーボブの言う「自然な状態」というのは、言うならば生まれたままの状態ということですよね。だとすると、人間の初期設定は何なのだろうかと考えます。さらに、人生、人間も含め命の初期設定は何のでしょうか?

私が考えるに、生の初期設定はポジティブなもの、善、良、喜び、光なのではないかと思います。それは、言うならば、ネガティブの反対としてのポジティブではなく、反対のないポジティブ。悪の反対ではない善、良。悲しみの反対ではない喜び。闇の反対ではない光ではないでしょうか。

もし、そうでないなら、「不生の仏心」や「自然な状態」でいる意味はなく、頑張って、善、良、喜び、光の存在になるべく努力しなくはいけません。もちろん、「不生の仏心」や「自然な状態」であるためにだって努力が要ると思いますが、それはまた別の努力になると思います。

私たちは本来、仏心一つで生まれ、自然な状態にいたはずです。それが、社会や環境の条件づけによって、「不生の仏心」や「自然な状態」が見えなくなります。それを見えなくしてしまうのが「私」であり、「私」にまつわる欲望です。

生の初期設定がポジティブなものだと思う理由は、TVやネットで動物の動画を見ている時です。動物には人間のような高度な思考はないはずですから、過去のことをあれこれと思い出したり、明日のことを思い煩ったりしないはずです。でも、何の不自由もなく生きています。

動物の親は誰に教わらなくてもちゃんと子供を育て、仲間を助けます。ウミガメは生まれた瞬間に海の方角へわき目もふらずに歩いていきます。人間も同じです。生まれた瞬間に自分で空気を吸って呼吸を始めます。乳首をあてがってやれば、お乳を飲み始めます。

生存のための本能は、誰に習うこともなく、自然に働くような初期設定になっています。そして、その初期設定は、人生を通して働いているのではないでしょうか。その初期設定を見えなくしてしまうのが、「私」です。「私」があれこれ考え、悩み、条件づけが植え付けられ、初期設定を見えなくしてしまう。

ウミガメは産卵の時期がくれば砂浜に戻ってきます。サケも戻ってきます。人間も、生存のための本能は、利用可能な情報と照らし合わせた上で、最良の答えを選択するように初期設定されているのではないでしょうか。

動物には条件付けが全くないかというと、そうとは言えないと思います。虐待されたペットを見ると、怯えていたり、反抗的であったりします。でも、そうしたペットも、もともとはそうではなかったと思うのです。その初期設定は肯定的なものではないでしょうか。

私達には、見えなくなった初期設定を再認識すること、条件付けの解除が必要です。でも、難しく考えないで、日常的に非二元の教えを学ぶ一方で、何か迷った時は、自然な直観、フィーリングを信頼して行動すればいいのではないでしょうか。何か気が進まない時は止めておくとか、思考はこっちを選びたがっているけど、フィーリングはこっちという場合は迷わずフィーリングに従うという態度が大事な気がします。

恋人になったり、友達になったりする時は、相手を理由づけして選ぶなんてことしませんよね。なんの理由もなく人を好きになるし、なんとなく気の合う人と友達になる。何かの理由で人に近づいても、あんまり良い人間関係は作れません。それと同じで、日々の行動や選択も、初期設定を信頼して自然に任せればいいのではないでしょうか。

そうして選択したら、後であれこれジャッジしないこと。もし直観やフィーリングに従って行動して失敗しても、それがベストな結果なのかもしれません。生の初期設定を信頼して生きることが大切なのではないでしょうか。

2022/12/01

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第16回 (2022年11月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第16回 (2022年11月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

鏡の例えがまた出てきました。

2022/11/30

病気で苦しい時に平気でいられるか

昨日のブログの佐々木閑先生の話で、病気の苦しみを精神的な苦しみにしないという話がありました。それはとても大切な話だと思うのですが、自分はどうなのだろうかと考えると、そう簡単ではない気がします。

少し前に、市の定期健康診断があって、肝臓の数値が基準値を超えていて再検査となりました。再検査をして、その結果が出るまでの日々、結構あれこれと心配して落ち込みました。ネットで肝臓の病気をあれこれ調べたり、人に相談してみたり。再検査の結果は異状なしでしたが、もし重病だったら、とても平然としてはいられなかっただろうと思います。

昨日の話を聞いて、篠沢秀夫さんのことを思い出しました。篠沢秀夫さんは元学習院大学の教授で、テレビのクイズダービーでも活躍された方です。ある時テレビを見ていたら、篠沢さんがテレビに映っていて、ベッドで呼吸器のようなものを付けて奥さんに冗談を言いながらにこやかに会話されていました。

それで、篠沢さんが筋萎縮性側索硬化症 (ALS) を患っていると知りました。ALSという病気は、徐々に体が動かせなくなっていく病気です。でも、その時点の篠沢さんは、クイズダービーに出演していた頃と同じように、にこやかに笑いながら楽しく奥さんと話をしていました。

その後、自力呼吸が困難になり、喉を切開して呼吸の器械を装着したため声を出すことができなくなりました。それでも、パソコンを使って、時には講演もされていたようです。数年の闘病生活の末、2017年に亡くなられました。

私は、テレビで見た篠沢さんの平然とにこやかにされていた態度に驚きました。篠沢さんが亡くなられた時、奥さんが、喪失感が激しいとコメントされた記憶があります。勝手な想像ですが、病床にあっても決して傍らで介護する奥さんにあたったりせずに、にこやかに精一杯生きられたのではないかと思います。

非二元や仏教で教えていることは、病気や困難な時こそ平然と生きていける道を教えているのではないでしょうか。「体は私ではない」ということを深く理解したなら、病気の受け止め方も違うのではないでしょうか。

セイラーボブはロスリバーウイルス感染症に苦しみながらも「だいじょうぶ、万事うまくいくだろうという明瞭な感覚があった」と言っています。また、「どんな困難が押し寄せてきても、その下には常に一種の幸福感があった」とも言っています。(『ただそれだけ』p66)

病気や、困難な状況にある時こそ、自分が本当に非二元の教えを理解しているかどうかが試される時なのではないでしょうか? 病気や困難に心まで負けないようにして、周りの人に明るく接し、希望を捨てず、平然と生きていきたいものです。

正岡子規は結核に倒れ、34歳で亡くなりました。寝たきりになりながらも、薬で痛みを散らしながら、死の直前まで創作活動を続けました。そして、こう書き残しました。

「私は今迄いわゆる悟りという事を誤解していた。
悟りという事は、いかなる場合にも、平気で死ねる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きている事であった」 正岡子規「病床六尺」より

2022/11/29

肉体的な苦しみを心の苦しみにしない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その8」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」という言葉を思い出しました。

2022/11/28

不生の物心とは

【曝涼展:生誕四百年を迎えて、改めて盤珪禅師に学ぶ】臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老大師猊下

これもすばらしい。

2022/11/27

佐々木閑先生のYouTubeの索引

当ブログに掲載させていただいた佐々木閑先生のYouTubeの索引を作りました。このYouTubeを通して見ていただくと、仏教の中にある非二元がよくわかると思います。

「禅・Buddhismni」に掲載したもの

「仏教その他」に掲載したもの(☆印は特におすすめ)

この索引は随時追加の上、「禅・Buddhism」にリンクを掲載します。

2022/11/26

横田南嶺老師のYouTubeの索引

当ブログに掲載させていただいた横田南嶺老師のYouTubeの索引を作りました。(☆印は特におすすめ)

般若心経に学ぶ 花園大学総長 横田南嶺 全六回☆☆☆

この索引は随時追加の上、「禅・Buddhism」にリンクを掲載します。

【第5回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺

【第5回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年11月8日(火)

これはもうまるっきる非二元の話です。「二元的世界」「量子力学」という言葉も出てきます。ぜひ見てください。まったくすばらしい。

2022/11/25

仏教のどこに非二元があるのか

仏教と言っても、釈尊誕生以来二千数百年の歴史があり、その全部が非二元の教えだと言ってしまうのはちょっと乱暴なので、具体的に仏教のどこに非二元が鮮明にあるのかについてまとめてみたいと思います。

今現在世界で残っている仏教を大きく分けると、南伝仏教と北伝仏教ということになります。南伝仏教は、スリランカ、タイ、ミヤンマーなど東南アジアに伝わった仏教であり、北伝仏教は三蔵法師などによって、中国、韓国、日本へ伝わった仏教です。

南伝仏教と北伝仏教では、その成立年代と内容が異なります。二千数百年前に釈尊が亡くなるとすぐに、弟子たちの手によって、経典の編纂(最初は口承)が始まります。そうしてできた一連の経典を阿含経(あごんきょう)と言い、それはそのまま釈尊が説いた教えです。阿含経のことをニカーヤとも呼び、それがスリランカ、タイ、ミヤンマーなどへと伝わり、今日でも生きています。この時代の仏教を初期仏教とも言います。

それから数百年後、紀元前後になると、仏教は変異して、インドで大乗仏教が起こります。それがどのようにして起こったかはあまりはっきりわかっていません。もともと一つの教えだった仏教が様々な教えの仏教へと変異し、その総称を大乗仏教と呼びます。

やがてインドでは大乗仏教が主流となっていきます。その後、大乗仏教は三蔵法師などの手によって中国へと伝わり、さらに韓国、日本へと伝わって今日でも生きていますが、インドではヒンドゥー教の台頭やイスラム勢力の侵入により十世紀ごろに消滅しました。

非二元という視点に立って、南伝仏教と北伝仏教の違いについて書きます。ここからは、南伝仏教は阿含経がメインなので、阿含経と呼び、北伝仏教は大乗仏教なので、大乗仏教と呼ぶことにします。阿含経は釈尊の説いた教えです。大乗仏教は突然変異して登場した仏教なので、釈尊の教えそのままではありません。

阿含経では体の存在を認めます。つまり、体は実体があるものとして存在することを認めます。でもそれは五蘊(ごうん)といって、「私」を構成する構成要素の一つにすぎないと説き、「私」は構成要素の集まりであり、そこに実体のある「私」はいないと説きます。要するに、体は存在するが、「私」は存在しない。

大乗仏教では、体も存在しないと説き、体も「私」も実在ではないと説きます。これは、そこには何もないという「空」の思想です。体の実在を認めるかどうかの違いはあるものの、阿含経も大乗仏教も、「私」は実在ではないと説きます。それを「無我」と言います。仏教の根本教説は、無我です。無我とはつまり、「私はいない」ということです。

日本に伝わった仏教は、密教の一部を除くと全て大乗仏教です。当然その教えは無我の教えということになります。

では仏教のどこにその無我の教えが具体的に説かれているかというと、まずは阿含経です。そして大乗経典です。大乗経典の代表は般若心経です。そして、大乗仏教の中のキーワードを挙げるなら、龍樹(りゅうじゅ)、唯識(ゆいしき)、禅です。唯識の中では世親(せしん)であり、禅の中では盤珪(ばんけい)です。

私は、なんとかしてそうした仏教関係の書籍から学べないかと、あれこれの本を読んで、禅・Buddhismを書きました。たしかにそこには非二元の教えがありました。でも、この作業はけっこう大変でした。どれも原典を自分で読めるわけではないので、学者か僧侶の方が書かれた解説本を読むことになりますが、それでも難しい。

仏教の中にある非二元を詳しく学ぼうと思われる方は、禅・Buddhism と、仏教その他 の中にあるYouTubeで学ばれることをお勧めします。それを見たうえで、わからないところを自分で調べるという方法が一番近道だと思います。

仏教の「無我」と非二元の「行為者の不在」を一緒にするなと言われる方もみえるかもしれません。でも、私は同じことを言っていると思っています。これは私だけでなく、セイラーボブをはじめ、多くの欧米の非二元の語り部たちが仏教を引き合いに出して語り始めていることからも明らかではないでしょうか。

セイラーボブは「行為者の不在」を自分で調べて確かめなさいと言います。自分で調べなさいという人はまだ良心的ですが、たいていの人は何の説明もなく「私はいない」と繰り返すか、「私は体験した」の一点張りです。ある意味、説明に深みがありません。

そこへいくと仏教は、たくさんの説明を持っています。その時代や経典によって説明は様々で、深みがあり、納得できるものが多い。私は、非二元の説き方の潮流は仏教をベースにしたものに移っていくのではないかと思っています。

2022/11/24

行動は自然に起こっている

2022年7月10日ミーティング
45:18から

(参加者の男性、ジョゼフが自然な状態ついて質問します。質問の要旨は、もし、結婚相手の女性に魅力を感じなかったら、自分自身に正直でいることと、結婚生活を維持するということは相容れない。自然な状態とはどういう状態なのか混乱しているというもの。次にマイクを取った女性が、思考以前に意識や認識は起こっているという発言をします。そして、次に別の男性、ラッキーがマイクと取って発言します)

50:36から

ラッキー:ちょっと付け足したいと思います。たぶん10年ほど前、こうしたことに興味を抱く前の記憶がひらめたのですが、その頃私は何かを理解しようとしていました。脳のどこでニューロンが始動するのかに関する心理学の本を読んでいました。その本では、もし人が行動を起こそうとする時、あるいは、誰かがあなたに対して行動を起こす時、脳の中の行動を指示するパートが最初に始動して、そして次に脳の一部の前頭葉が思考を生むそうです。

つまり、行動が起きたあとで思考がやって来て、言葉によって、自分がなぜそれをやったかを説明するのだそうです。それを読んでも納得することができませんでした。というのも、行動の後で思考がやってくるということに驚いたからです。そして、そのことは、思考は
理論的に独立してあるのではないということを発見したのだと理解しました。それは文字通り肉体的な事実なのです。

思考は後でやってきて、自分が何をしたかを説明したり、自分が存在することや、自分が知っていることを説明したります。それはまるで誰か他の人が行為を行い、その後で脳の一部がやって来て、これは私がやった。あれやこれやの理由で私がやったと言うようなものです。でも実際は、行動は起こり、その行動の後でそれを説明し、その説明を真実だと思っているのです。そのことが突然はっきりとわかりました。10年前には納得できなかったことです。なぜだかわかりませんが。

(他の人の発言 省略)

59:00から

カット:何人かからコメントが届いています。アマナから。静寂と愛の言語には言葉はない。ラムから。時間を超えた意識を現象と置き換えるのは無知、幻想、マーヤーの誕生だ。JBから。すばらしい発言だった。思考が起きる前の認識はとてもシンプルなため見逃されてしまう。キャリンから。エゴは実際には見つからない。発見者もいない。(コメントおわり)

みなさんがジョゼフの質問に既に答えましたが、私も一言付け加えます。しばしば人々は、非二元とは何だろう、非二元の道徳的立場は何だろう、その特別な宗教は何と言うのだろうと、こっそりとのぞき見しようとここへやって来ます。というのも、あなたはキリスト教へ行き、一夫一婦制でいなさい、同性に興味を持つな、というようなことを言われるからです。イスラム教へ行けば、奥さんは4人までと言われるでしょう。どんな社会も、あなたがどういうふうに生きるべきかという異なる概念を持っています。

でも、非二元では「すべき」だという言葉は使いませんし、「すべき」だとも言いません。なぜなら、その「すべき」に従うあなたはいないからです。私が書いた本のアマゾンのレビューで見つけたのですが、私が倫理的、あるいは道徳的な事柄について書いてないというものがありました。それは不利な点かもしれません。

話は戻りますが、非二元は本質的に、どのように生きるべきかということをあなたに言いません。なぜなら、根本的な理解として、あなたがあなたの人生を生きているのではないからです。生(life)があなたを生きているのです。生があなたを条件づけて、あなたは例えば同性愛などに魅かれます。それはおそらく、条件付けであり、例えば母親が妊娠中のことかもしれず、社会に出てからのことではないかもしれません。集合的な影響です。

それとも、あなたは生まれつき一夫多妻なのか、あるいはその他の何かかもしれません。それが何であろうと、生があなたを通して、認識や行動として表現しているのです。そこで、社会的、文化的条件づけのうわべによって、ラッキーが言ったあの有名なリベットの実験の解釈をもたらします。実際あの実験は多くの大学において繰り返され、行動の約0.5秒後に物語がやってくることが明らかになっています。

今もし、条件づけが、あなたは罪人だと告げたとします。なぜなら、二人以上の女性に魅かれるからです。でも、誰にわかるでしょうか? それは生がそれ自身の物語を表現するやり方の一部なのです。そのせいであなたはそれに溺れるかもしれないし、ひどく苦しむかもしれません。その苦しみのせいで刑務所に入れられ、あなたの母親が悲しむかもしれません。

そして、どこかでさざ波効果が起きて、意識が対応するでしょう。というのも、他の人があなたと交流するでしょうから。あるいは、あなたが明晰さを持つようになり、思考が何と言おうと、それは思考が言っているにすぎないと気づくでしょう。体は条件付けられたように行動します。でもそれは、マインドが、オーケー、どこへでも好きなところへ行って、何でも好きなことをしろ、という意味ではありません。

自由にどこかへ行って人を殺したりレイプしたりしてもいいということではありません。なぜなら、それもまたあなたができることではないからです。なぜなら、自由にどこかへ行って人を殺したりレイプをするあなたはいないからです。あなたが愛、充足感、完全性の感覚を経験する時、もはやあなたは欠乏を感じることはなく、あなたは不完全な可哀そうな私ではなく、自身を修正する必要もありません。

誰かがまちがっていると証明したいとか、誰かから何かを盗まなくていけないとか、誰かを傷つけなくてはいけないという感じは消えてなくなります。なぜなら、そうした衝動はすべて、不完全さと自己の中心からやってくるからです。それは完全なものにならなければいけないという思いからやってくるからです。もしあなたに欲望がなかったら、どうして人の物を盗むでしょうか? 

つまり、非二元の道徳的側面は明晰さがやって来た時は自明のこととなります。そしてそれは即座に起きることではありません。というのも、明晰さは少しずつ現れてくるからです。そして人を傷つけるという古い条件付けが依然として残っています。あるいは、明晰さは一回の爆発で起こるかもしれません。でも、身体とマインドという装置の再条件づけを定着させるにはしばしば時間がかかるものです。どんな物語が現れれようと、どんな状況も新鮮で新しいものです。

でも、もしあなたが、その状況で私はどうすべきか、何が適切かという非二元的スタンスや意見を探しているなら、あなたがそれをここで見つけることはありません。なぜなら、私達はうわべ上の社会的な条件付けや道徳上の教え、宗教のようなものを教えているわけではないからです。私たちはそうしたことを超えた真実を見つけ、その人為的ではない単一性の真実の中でくつろぐのです。そこでのあなたはもはや体でもマインドでもありません。

そして、あなたは自分が意識すなわち空間であると認識し、体とマインドの活動は、副次的なものになります。その意識の空間からの行動はより非個人的なものとなります。自己判断や自己嫌悪、罪悪感という重荷は軽くなります。それによって、あきらかに傷つかなくなり、重荷からより解放されます。そして、もしあなたがパートナーをだましているなら、自身がパートナーをだましていることに気づくでしょう。でも、たとえあなたの体が条件付けや観念から行動したとしても、本当のあなたは空間のような意識なのです。ある時は観念から、ある時は条件づけから行動したとしても、それは同じものの二つの側面です。

2022/11/23

それは日常の単なる純粋な普通のありふれた意識です

あなたに必要なのは、その普通の目覚めた状態で座ることだけです。それはそこにあります。それは一番近くにあります。どんな観念化もされず、今まさにあなたと共にあります。それは日常の単なる純粋な普通のありふれた意識です。私たちは、それとともに座るのではなく、マインドでそれを理解しようとします。

                        ーセイラーボブー

2022/11/22

すべてがそれなのです

2022年7月31日ミーティング
53:28から

(思っていることを一人一人が順番にシェアしていく中で)

ギルバート:もしすべてのものがそれであるなら、他には何もない。ただ一つのものがあるだけで、他には何もない。この、自己の中心という考えは実際にはフィクションです。それならそういうふうに見えなくてはいけないのですが、自己の中心が存在するという信念のために、すべてのものが分離しているように見えます。そしてそれは言葉やラベルなどによって分割されています。

そしてその自己の中心という信念は、たとえそれがフィクションであっても、うわべ上の限界、自己の中心が保持しているでっちあげた考えや言葉に依存しています。たとえもしそれが実在ではなかったとしても、現れ続けます。つまり、それは見せかけです。そして、見せかけはマーヤーです。つまり、見せかけは実在ではありません。顕現は見せかけです。そして、非顕現が実在です。実在は決して現れません。そのため、自己と呼ばれるもの、すなわち「私」を見つけることができないのです。

「私」を探しても、物語や記憶しか見つからないのです。そして記憶は全く信頼できません。(一同笑う)記憶は過去です。この「私」という考えは、他の人の描写や意見、私に対して考えていることなどに依存しています。物事の常として、この「私」を本当に見つけることができるかを調査することが不可欠です。そして、もし、見つからなかったら、何回調査しなくてはいけないのか? それが実在でないと確実にわかるまでです。

そしてこの分離、分離しているという信念は、精神的な苦悩の原因です。心理的な苦悩は不要です。そして私は誰もどこにも精神的苦悩を歓迎する人を知りません。おそらく、どこかのバカが(苦悩)しようとするでしょうが、それは不必要です。ボブは指摘しています。それは知性エネルギー。知性エネルギーがすべてを行っていると。それが単一性として自身を表現していると言うことができます。

そしてすべてのものは、たとえ限界でさえも知性エネルギーなのです。それがパターンとなって現れています。自己の中心の限界は、エンライトメントしようとすることや、自己を束縛から解放しようとすることなども幻想の一部だということです。なぜなら、もともとそれは最初から存在していないから。どうしてそれを解放することができるでしょうか? 

あなたが実際には入ってない牢屋から外にでることはできないのです。あなたは刑務所の設計図を持っていて、それを調べてトンネルを掘ろうとするかもしれません。私はあの物語が好きです。あの名前は何だったか……。モンテクリスト伯。彼は刑務所の中にいて、ある独房から地面を掘って、別の独房に出てしまい、最終的にはその男が死ぬのを待って、その男が体を包んで海に投げ捨てられたあとで、その死体を引き上げて自分の独房に入れて、穴を戻したあとで自分を包んで海に飛び込んだ。そうやって自由になった。

それは全く複雑だった。でもそれが私に希望を与えた。もし、私がすべてを整えたら、私は解放されると。でも、自己の中心はフィクションです。それは、あらゆる種類の限界を持っているように見える。でももしその限界を調べてみると、それはフィクションです。というのも、それはすべて空想上のキャラクターだからです。つまり、すべてがそれなのです。

私がそれなのです。そしてすべの顕現が自然の中の美しいものとなって現れているのです。例えば、昆虫や鳥などを調べてみると、それはすばらしいものです。でも、彼らには心理的な苦悩がありません。鳥や動物。そこにいる猫。それには心理的苦悩がありません。それは単なる存在で、心地良く動いたりしていて、いわゆる人間的な心理的苦悩がありません。ええと、永久に(話を)続けられそうですが……。

参加者:続けて(笑い)

ギルバート:どうぞ続けてと言われても、もうない。(笑い)最初、ボブの最初の本で、最初の一行は、「もはや今以外に神はいない」だったと思います。そしてそれをタイプしている時、それはとても興味深いことだと思いましたが、それ以上はもうありませんでした。私たちは、もっと欲しがります。私たちは少なくではなく、もっと欲しい。自分をもっと安全で安心するようにもっと欲しい。でもそれはフィクションです。もし本当にそれが実在ではないとうすうす感じたり、味見をしたりして、重荷が降りたような感じがしても、それでもドラマは起こってくるのです。あらゆる種類のドラマが続きます。それは心理的な苦悩です。

2022/11/21

そこには選択者はいません

選択肢が現れ、選択や好みがそこにあるかもしれませんが、そこには選択者はいません。決定は下されますが、その決定を下している存在はいません。
                                                                          -セイラーボブー

2022/11/20

【第4回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺

【第4回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年10月11日(火)


今回も素晴らしい内容でした。海と泡の例えは非二元の話を聞いているようでした。

2022/11/19

「あなた」は虚構のキャラクター

2022年8月7日ミーティング
1:07:28から

(一人一人が考えていることを順番にシェアしていく中で)

ギルバート:人が認識できる一つのことは、見ること、見る活動は自然に起こっているということです。そして、「私」は何もしていません。そこには見ることをやっている人はいない。ただ自然に起こっているだけ。それは知る働きにも同じことが言える。認識活動は自然に起こっている。そしてこれを認識すると、ものごとはそのように起こっているとわかる。生そのものが自然に起こっている。

そして私たちはそれに意味を与え、組み立て、個人の物事を付け加える。でも、私がかつて最初の瞬間とよく呼んでいた瞬間は、自然の見ること、知ることがあるだけで、そこには何も存在しない。最初の自然な動きの中には何か存在がいるという観念はない。そして、社会や他の人と接触することによって「私」という考えが生まれる。でも、役に立つ質問は、私はどこから見ているかというもの。実際に私はどこから見ているのか? 

そして、「私」はフィクション、物語だということがわかる。物語は何も見ることはできない。言葉は何も見ることはできない。考えは何も見ることはできない。つまり、「私」は何も見ることはできない。でも、物事の性質上、「私」は見ることを借りてきて、生き残るために自身の物語を組み立てる。というのも、人生は外の世界ではジャングルのようなものだから。でも、自然に起こる現象の性質に立ち返ると、それをやっているのは私ではない。そこにはそれをやっている「私」はいない。それはフィクション。

あなたは何もすることができない。それが、それの現れるやり方。そして、それに逆らうのは意味がない。でも、あなたはそれをあるがままに見ることはできる。すると、そこには解放感がある。というのも、あなたはたいてい選択できるから。あなたは「私」の思考に従う必要はない。というのも、それはいつもトラブルやドラマへと導くから。「私」は生き残らなくていけない。

たとえば、トイレットペーパーのパニックを覚えているでしょう。なんと奇妙なことだったことか。誰もかれもがあらゆるトイレットペーパーを買いあさった。それはとても奇妙な生き残り競争だった。人々は自分の尻を拭かなくてはいけない。それが最も大切なこと。(別の参加者が何かジョークを言うが聞き取れず)。いずれにしても、どこから私が見ているのか、それは本当に役にたつ質問です。そしてあなたは実際にはそれに答えることはできない。でも、見ることは起こっている。

参加者:私はあなたが例えとして使うミッキーマウスが好きよ。物語上のキャラクターについての話。

ギルバート:私が子供の頃、随分昔。私が子供だった頃。ミッキーマウスは漫画の大きな存在だった。映画を見にいくといつもミッキーマウスの漫画だった。グッフィや他もいた。ミッキーマウスは虚構のキャラクターだ。それは「私」のようなもの。「私」も虚構のキャラクター。でも、あなたは漫画を見ることができる。ミッキーマウスがスクリーンを飛び出して、あなたのアイスクリームやポップコーンをつまむことはない。そんなことは起きない。つまり、ミッキーマウスはキャラクターだ。「自己」というイメージも同じ。

自己というイメージも、固定された永遠にあるというものではない。それは絶えず変化している。そしてそれはとてももろい。誰か他の人がそのイメージに何か意義を唱えたり侮辱したりしただけで大騒ぎになる。「私」は単なるミッキーマウスにすぎないと理解するのはいいことだ。ウオルト・ディズニー。ディズニーランドは巨大だ。たくさんのものがある。何を求めてディズニーランドに行くのか。ミッキーマウスの衣装を着た人が歩いていさえする。それは子供たちにとってはすごいこと。でも、大人になったら……。

参加者:コスチュームパーティ。

2022/11/18

探求が終わっても古い頑固な習慣が消えるわけではない

2022年11月6日ミーティング
1:01:38から

(ある女性『サロジャ』が、ボブの話を聞いて楽になる時はあるが、ハートのあたりに重苦しい感じがあって、それがどうしても去らないと質問します。それに対して周りの人があれこれコメントしたあとでカットが発言しました)

カット:みなさん素晴らしいコメントをありがとう。サロジャ、一言だけボブがいつも強調して言うことをもう一度繰り返して言いたいと思います。私たちはもともと存在しているものを理解します。その時、何の障害もなく、思考の雲もなく、重苦しい感じもありません。それは自然な状態ですが、その自然な状態は時々何かが注意のフィールドに入ってきて邪魔をして不鮮明となります。それはひょっとすると肉体的な重苦しい感覚かもしれません。

もしそれが、物語を伴わない感覚にすぎないのなら、医療関係の専門家に診てもらうというのは良い考えかもしれません。それが何か肉体的なものかどうかは誰にもわかりません。というのは、通常、感覚がやってきた時、それは体の中で何かが注意を要求しています。それは調べてみる価値があることかもしれません。もしそれが肉体的なものでないなら、思考がやっています。たとえば、「私には価値がない」「私は自身の可能性を浪費している」「私はそれを手に入れられないだろう」。

そうした思考があなたの魂を押しつぶし、ハートを閉じさせているのです。私の人生もほとんどそういう状態だったからわかるのです。そしてそれがひどい重苦しさを生み出すのです。でも、それは思考です。そしてその思考は、存在意識の静寂の側から認識されるのです。あなたは、重苦しさを、重苦しさを超えた地点から認識しているのです。あなたはそれを一個の物として描写します。あなたは思考を一つの対象物として描写します。そしてあなたは純粋な主体性です。

実のところあなたは、たとえひどく押しつぶされそうな苦悩のさ中であっても、それを平安な場所から見ているのです。そして、もともといつも存在する場所へ戻り続けるだけでいいのです。なぜなら、もともとあなたはその自然な状態であり、それはもともと存在するものだからです。それは誰も判断しない解放された空間であり、そこには好き嫌いはありません。空間はすべてを含んでいて、すべてを歓迎し、すべてを愛しています。それが本当のあなたです。それはもともとここにあります(自分の胸を指さす)。

その中のその重苦しさは、やって来て去っていきます。幸運にもそれを聞けて私は嬉しいです。それはやって来て、去っていき、小休止が訪れます。あなたのハート全部、注意力全部を、その小休止の瞬間を見抜くために注いでください。何が、そしてどうやってそれが不鮮明にしているのかを見てください。最初にボブが重要なアドバイスをしました。そこには私がいるように見えて、それが行為をやっているように見えますが、そうではありません。それは単に共鳴しているにすぎません。

マインドを見つめて、それがどのように機能するか、何をしているかを見てください。何がそれを引き起こしているのか? 興味を持ってください。それは、現象として現れた生の本質が形となって現れていて、それが唯一のやり方なのです。あなたの体が一番近くにあるものであり、それがあなたの乗り物なのです。それがあなたに見るための目を提供しているのです。それが唯一密接に知っているものです。そのプロセスを楽しんでください。というのは、あなたがその調査に全力でハートを注げば、それはいとも簡単に明らかになるからです。

私の場合もボブの場合も他の人の場合も、それはとても大きな瞬間(ではなく)、それは一回の花火の爆発のようなものではありません。というのも、それは何かが突然あなたに付け足されるような瞬間ではありません。それは単に重しが落ちるようなものです。それは突然雷に打たれてショックを受けて、解放されて、神聖になるといったそういうものではありません。全然そんなことはありません。

それはまるで何か重荷を下ろすようなものです。大多数の人にとって、それは徐々に起こります。そうした瞬間が少しづつ頻繁に起こるようになり、思考ももっとしばしば認識されるようになります。たとえボブや私が、うわべ上の自己、構築物は即座のものであると見破ったあとも、思考は依然としてやってきました。思考は依然としてしばらくはぶらついています。何年も経つ間に、ぶらつきは減っていきます。なぜなら、思考はエネルギーから燃料を得るからです。思考は注意を引かなくなり、エネルギーを得ることは減っていきます。

もし、イメージの解体が即座ではなかったとしても、行動や反応のパターンは崩れて消えていきます。7年前、私は依然として狂信的にヴィーガンを信じていました。それは真実(だと思っていました)。もちろんそうではありませんでした。もしあなたが誰かにその考えは真実かと聞けば、ノーと言うでしょう。でも私はそれを疑問に思いませんでした。今でもそれを疑問に思ったことはありませんが、今はその信念が不在なのです。もうそれはありません。そうした生きた例が真実として働きます。ジェーンが言ったように・・・・真実が嘘を食べ尽くすのです。それはある意味、石や障害物を取り除くようなものです。それは自然な光を邪魔しているヴェールを取るようなものです。

ジェーン:一言添えたいのですが、カット。かつて私は「アイ・アム・ザット」を読んで、ボブの話を聞き始めました。私はその時点で自身の探求が終わったことを知りました。というのも、私は見破ることができたからです。あなたが言ったように、私は、「私」、仮定の私の物語を見抜くことができたからです。でもそれは、頑固な古い習慣が消えたということではないのです。そこには、二歳半ごろから続いている分離した自己に対するたくさんの自己同化がありました。つまり、自己の探求は終わったと知ったにもかかわらず、古い習慣がしつこく続くというシナリオが確かにあったのです。でもひとたびボブ(の言葉)と本当に共鳴したら、彼が本当のことを言っていると知りました。なぜなら、あなたが言ったように、私たちはもともとそのことを知っていたからです。私たちは皆そうした瞬間があります。なぜなら、もともと一度も分離したことはなかったからです。

カット:まさしく。すばらしい言葉でした。その点を見てください。とても上手に言葉にしました。「おー、私はエンライトメントを達成した」と言う代わりに。そこには達成する私はいません。でも、探求は落ちていきます。終わったのです。探すものは何もありません。なぜ? なぜならそこには何かを探す誰かはいないからです。それが解放です。そこに、何か違うものを欲しがる人はいません。そこには、違ったものになるようにと、頭に髪の毛が一本欲しい人は誰もいないのです(ボブの頭をなでる)。このあごひげ。(一同笑う)。違ったものになる必要は何もないのです。なぜなら、そこには、この完璧な瞬間、今この瞬間に対して抵抗する人は誰もいないからです。それが歯痛であろうと、老齢であろうと、すべて。それに抵抗する人はいないのです。それが解放です。それが自己からの解放です。でも、それは自己のためではありません。そこには解放される自己はいないのです。

2022/11/17

佐々木閑先生と横田南嶺老師に感謝します

昨日の横田南嶺老師のYouTubeはまことにありがたいものでした。私は、仏教関係者の方たちが、悟りをどういうものと思っているのか、もっと詳しく知りたいと常々思っていました。仏教学者の方たちが悟りをどうとらえてみえるのかは、過去にこのブログで書きました。(参照:悟り)

学者の方たちは、悟りとは、いわゆる突然至福に包まれるようなエンライトメント、覚醒のようなものではない、とおっしゃっているのは知っていました。仏教関係の本を読んでも、学者の方で、いわゆる突然のエンライトメントや覚醒を悟りととらえて書いてみえる人はいないように思います。

ところが、ある時ネット上で、ある僧の説く座禅のことを読んだところ、その僧が言うには、座禅は必ず悟り体験をした人から学べというのです。それを読んだ時、「この人は何もわかっとらん」と思ったものです。でも、ひょっとすると、悟りをそうした突然の体験ととらえている僧がたくさんいるのではないかと思うようになりました。

それ以来、僧侶の人たちは悟りをどういうものと考えているのだろうと思うようになりました。それが、昨日の横田老師の話を聞いてスッキリしました。円覚寺は臨済宗のお寺であり、座禅を教えていて、かつては鈴木大拙も参禅したほどの名刹です。その由緒正しい円覚寺の管長から、はっきりした言葉をいただいて、やはり悟り体験などないと納得しました。

仏教の中に非二元の教えがあると聞いてから、仏教関係の本を読み始め、確かに初期仏教や唯識の中には非二元と同じ教えがあるとわかりました。そうした本を書いてみえる学者も僧侶もたくさんあります。諸法無我、私は実在ではないという教えです。それで、そうした本を題材に禅・Buddhismをブログに書いていきましたが、なかなか非二元的なくだりに行き着けず時間ばかり過ぎて苦労しました。

そのうちに佐々木閑先生のYouTubeを見るようになり、そこには非二元の教えがわかりやすく説明されていると知りました。もちろん佐々木先生は非二元なんて言葉は使いません。でも、内容は非二元そのものです。最初から佐々木先生のYouTubeを知っていたら、禅・Buddhismを書くことはなかったと思います。

そこで、改めて仏教その他というラベルを作って佐々木先生のYouTubeをたくさん載せるようにしました。その関係で横田南嶺老師を知り、老師のYouTubeを見てまた驚きました。老師は盤珪や般若心経を題材にして無我を教えてみえて、それがまたわかりやすい。お二人とも、コロナのせいで講義や法話ができずにYouTubeを始められたそうです。私はお二人のYouTubeがなかったら、仏教の中にある非二元をこれほどクリアには理解できなかったと思います。

改めて佐々木閑先生と横田南嶺老師に感謝します。おかげで、仏教の中にある非二元を深く知ることができました。佐々木先生のYouTubeは全部見ていますし、今でもフォローしています。老師のYouTubeも毎日見ています。

佐々木先生や横田老師のYouTubeからは、どうしても私のブログに載せた方がいいだろうと思われるものだけを載せているのですが、本当はもっとたくさん載せたいと思っています。例えば、佐々木先生のYouTubeは、私が最後にブログに載せたもの(佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その4」)からもうすでに二回分新しいものが公開されています。

その二回分のどちらも、見ようによっては非二元の教えに通じるもので、ブログに載せようか迷った挙句、止めました。というのも、あまり仏教のYouTubeばかり載せても、興味のない人は見てくれないような気がするのと、セイラーボブの非二元についてのブログが、仏教のブログになってしまいそうに思えたからです。

今後は、どうしても載せるべきだと思うものに限って載せていくことにします。横田老師のブログにも、載せようか迷ってやめたものがたくさんあります。仏教に興味のある人はぜひご自分でフォローしてください。きっともっと仏教に対する理解が深まると思います。

2022/11/16

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第15回 (2022年11月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第15回 (2022年11月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

15:09から抜粋

(現実の世界は夢であるという話に続いて)

夢の中で気がついたと言っても、それもまた夢の悟りにしかすぎない。本当の悟りというのは、夢の中で悟ったというんじゃなくて、その夢の終りでございます。自分自身を悟った!と、そんなことを言う人が、こうよくあります。

座禅の修行をするとよくございます。私はどこどこで悟りを開いた、見性したと。だいたいそういうのは夢の中で夢を悟っているようなもんでございまして、そういうことは、そういう夢が一切終わりを告げると、悟ったの悟らないの、うんぬんということは全く言わない、そんな沙汰が止んだ時こそが真の安らぎなのでございましょうけれども、夢の中でどこかで座禅して、見性した悟ったと、それもまた空の悟り。

空の悟りだとわかればまだいいのでありますが、本当に悟ったと思っているんですね。それでまた苦しみを生み出します。お前は悟ってないからダメだ、なんてことを言い出すのでございまして、なかなか人間というのは難しいもんでございます。

***************

いや~、よくおっしゃって下さいました! 一瞥体験や悟り体験を自慢げに説くどこかのクソ坊主に聞かせたい。(格調高いブログを目指しているのに、つい汚い言葉を使ってしまって申し訳ありません。あまりに痛快だったものですから)
今回もまったくすばらしい内容でした。

日本にはこんなにも素晴らしい非二元の教えがあるのに、学ばない手はないと思います。私たちは、外来の非二元だけではなく、仏教から学ぶべきではないでしょうか。ある意味、その方がわかりやすく、近道だと思います。仏教なら何でもいいわけではありません。おすすめは佐々木閑先生と横田南嶺老師です(私はそれしか知りません)。この二人の教えはセイラーボブの説く非二元の教えと何ら矛盾しておらず、根本的には同じことを説いています。

2022/11/15

世界(十二処)のどこにも「私」はいない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その4」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)


この話は一見非二元とは関係ないように思えますが、「執着」「すべてのものをプレーンに見る」といったフレーズは、非二元と大いに関係がある気がします。

私も執着のかたまりです。ドリアンはそれほど好きではないのですが、パパイヤは大好き。
いくら信心銘で「区別はいかん!」と言われても、区別してしまうし、セイラーボブが「好きとか嫌いのラベルを貼るな」と言っても好き嫌いもある。現象の世界にいるんだから、まあ、しょうがないですね。

2022/11/14

物は実在か

昨日のブログの佐々木閑先生のYouTubeはとても有意義な内容でした。そこで、物は実在かということについてもう一度考えてみたいと思います。今までこのブログで何度も書いてきたことと重複しますが、重要なところですので、どうぞお付き合いください。

私は、初めてセイラーボブのミーティングに出たころ、エジプトのピラミッドは本当にあるのかと、よく考えていました。それは私の意識の中にしかないのなら、実在しないことになる。でも、私がピラミッドのことを考えたとたんにピラミッドは出現するし、飛行機に乗って見に行けばちゃんとある。じゃあ、私が寝ている時はどうなのか。そんなことを考えて混乱していたのを思い出します。このあたりが、非二元の教えが一般の人に敬遠される原因なのではないでしょうか。

体は実在か。この問いを、佐々木閑先生の説く仏教でおさらいしてみると、仏陀は、体はあると言った。初期仏教の阿含経(ニカーヤ)でも体はあると説いた。体はあっても、それは構成要素(五蘊)にすぎず、そこに実体のある「私」はいないと説いた。そして大乗仏教が登場し、唯識の教えが現れると、体もない、すべては無であり、空であると説いた。初期仏教の阿含経でも、唯識でも、実体のある「私」はいないと説いている。

セイラーボブはどうか。セイラーボブは、阿含経の時もあるし、唯識の時もある。例えば、「実在の定義とは永遠に変わらないものです。体もやがては消えていく。実在ではない」と説く時もあれば、鏡や映画のスクリーンを例に出して、「あるように見えているにすぎない」という時もある。私は、初期の段階では、じゃあ一体、セイラーボブは、体はあると言っているのかないと言っているのかどっちなんだと思ったものです。

現象の世界にある体は存在していて、やがて消えていくけれど、実在の世界ではもともと体は存在しないというのが非二元的な説明なのでしょうけど、こんな説明は何かダブルスタンダードな気がします。

現代の科学は、どちらかというと、唯識に近い方向、そこには物質はないという方向に向かっています。私個人はどう思っているかというと、世界(物や体)は人間が勝手に脳の中で構築しているものにすぎないと思っていますが、その真偽は確かめようがないと思っています。

どこまで突き詰めて考えたとしても、私たち人間は、五感と意識という道具でしか世界を認識できません。五感も意識もなくて、そこには何があるのか? 先日掲載したミーティングの質問にもありましたが、地球上から意識のある生物が消えたら、そこに世界はあるのか? それは、誰にも確かめようがないことです。もし、五感も意識もなしで確かめようと思ったら、体の外に出て、外から五感以外の方法で確かめなくてはいけないのですが、それは誰にもできません。

ピラミッドが実在かどうかは、誰にも確かめようがないことです。私たちは、五感と意識で世界を認識しています。もし、私たちが視覚を失ったら、ピラミッドは見えません。でも、手で触れば石があるのがわかるじゃないか、と言うかもしれません。では触覚を失ったらどうですか? いや、視覚も触覚もなくても、見たり触ったりできないだけで、ピラミッドはあるだろう、と言うかもしれません。

でも、ピラミッドがあるだろうと推定しているのは意識です。その意識も失くした時に、そこにピラミッドはあるでしょうか。視覚も触覚も意識もなくても、ピラミッドはあるだろうと言うかもしれません。でも、あるだろうと想像しているのは、あなたの今ある意識です。その今ある意識がなかったら、どうですか?

それでもそこには何かがあると言われる方は、量子力学のYouTubeでも本でもかじってみれば、私たちが意識でイメージしているような物は存在しないと知って驚くに違いありません。あのピラミッドは、私たちが石や空というものを知っていて、それを脳の中で組み立てているにすぎません。極端なことを言えば、一人一人のピラミッドはそれぞれ別々のものなのです。

あの三角推の、石でできたピラミッドは、私たちの意識の中にしかありません。そして、そこにあるものが本当はどういうものなのか知る方法は、今のところありません。確かめようがないのです。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。

唯識の教えが、脳科学や量子力学などの現代科学、そして非二元の教えと同じことを説いているのは驚くべきことです。昨日の佐々木先生のYouTubeは、非二元を理解する上でも非常に重要なところだと思います。非二元の世界を見た人は誰もいません。阿頼耶識を証明できないのと同じです。

物は実在か。それは誰にも確かめようがありません。でもそれは「行為者の不在」、「私は実在か」を知るうえでは、あえて言うなら、どちらでもいいことです。物が実在であろうとなかろうと、体が実在であろうとなかろうと、「私」が実在ではないことに変わりはありません。「私」が実在ではないということを理解することが最も重要なことです。

2022/11/13

「私」とは予想にすぎない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その3」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

佐々木先生が唯識の教えを説明するのに、「(世界)全体が映画のスクリーンのようなもので、終わってしまえばそこにはスクリーンしかない」と言って、世界を映画のスクリーンに例えられたのには驚きました。

非二元の教えは唯識の教えに近いのですが、それでも最終的には予測が残ります。非二元も、詰まるところは、それを見ることも体験することもできません。ただ、そこに至る思考の過程はセイラーボブの教える非二元も佐々木先生の教える仏教もよく似ていておもしろいです。
このYouTubeは殿堂入りです。今まで私が仏教について書いてきたエッセンスがここにある。すばらしい!

2022/11/12

私(我)はどのように生まれるか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その2」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

仏教では、我(私)はどこにもないということを説明するために、五蘊や十二処を使うという説明が印象深かったです。これも素晴らしい話でした。

仏教の話はあまり載せないでおこうと思ったのですが、この際、佐々木先生の素晴らしい話が続く間は載せていこうと思います。仏教における「行為者の不在」の説明は、非二元論者の通り一遍の説明と違って、深くて論理的な気がします。

2022/11/11

十二処・人はどのように世界を認識しているのか

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その1」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)


諸法無我(私は実在ではない)の論理的説明です。
この話は、現代の脳科学に近いものがあり、かつそれよりも論理的な気がします。
個人的には、行為者の不在の説明は、非二元やアドヴァイタよりも、佐々木先生の教える仏教の方がはるかに論理的で納得できる気がします。

2022/11/10

どうしたら、あなたが見ているものを見ることができますか?

2022年8月21日ミーティング
34:44から

ボブ:これくらいで(spiel:講話は)十分ですね。カットのところへ質問が来ていると思います。そして、みなさんも、もし質問や疑問があったら、言うことをためらわないでください。あなたが掴んだことや理解したことを言うことをためらわないでください。みなさんは全員、しばらくはここへ通っている人です。もしみなさん全員がちゃんと理解したなら、もう戻っては来ないはずです。それで、あなたたちは一体何をしにここに来ているのですか!(一同爆笑)

参加者:あなたを愛しているからです!(一同笑う)

ボブ:自分を愛してください(笑う)。とにかく、始めましょう。

カット:今日は20人がオンラインで参加していますが、質問は来ていません。今日のミーティングは(ここにいる)あなたたちのものです。

途中省略 50:04から

参加者:私はいまだに実現することが難しいのです。私はあなたの言うことを理解しました。私はこのことをあなたに言ったのですが、私はその状態に入って行くことを(いつまでも)やり続けたくはないのですが、未だに……。私はそれを感じたい。私はそれを実現したい。でも、私は未だに、その実現、その感覚に入っていくのが難しいのです。私はやりたくないのですが、私のやっていることの何が間違っているのでしょうか? 私は間違ったことは何もやろうとしてはいないのです。サットサングなどを聞いている時はとても良い状態です。でも、そこから出て、他の家事をやる時、もうそこには私は全くいなくて、家事にかかりきりになってしまいます。でも、私はそこにいたいのです。私はあなたが見ているものを見たいのです。私はあなたがいる場所にいたいのです。どうやって……。私の何が間違っているのでしょうか?

ボブ:(それを)やろうとすることです。(一同笑う)

カット:ええ、素晴らしい。

ボブ:たとえば、あなたがそのことを考えている間、呼吸を止めましたか? 

参加者:呼吸はしています。

ボブ:感じることを止めましたか? あらゆる知覚は働き続けています。でも、あなたはそれを、想像上の個人の感覚、私に結びつけています。あなたは依然として見て、聞いています。食物は消化されています。それは外の自然のようなものです。地球は太陽のまわりを回っています。

地球は、自分が太陽のまわりを回っていることについて何か知っていますか? 知りません。それは回り続けています。そして太陽は地球のことを何も知りません。自発的な自然の機能が起こり続けているのです。それは自発的な自然の命なのです。それがあなたであり、そこで生きているのです。

でも、言葉を学んだ時、私たちは観念や考えを手に入れ、それが現実だと思ったのです。それを、ありのままに見てください。もしそのことを考えなかったら、今何が問題ですか? それでも、試みなければ、思考を止めることさえできません。あなたは考えることを止めようとしますが、できません。でもあなたは、止めようとわずらう必要はなく、そのままにしておけばいいのです。

作為のない単一性の中に休止させておけばいいのです。地球が依然として太陽の周りを回っているように、あなたの心臓は依然として鼓動し続け、髪の毛や爪も依然として伸び続けています。あらゆる命が自然に動き続けています。観念や考えをそれに固着させないで。その状態になろうという考え、この存在、すなわち個人が何かになる必要があるという考えに囚われないで。その存在とは何ですか? あなたは誰ですか? 

参加者:私はそれです。

ボブ:それ。その通りです。その中へ入っていくと、それは何ですか?

参加者:それは無です。

ボブ:それは無であり、すべてです。あれは椅子。あれはカーペット。あれは私。この部屋にいるすべての人がそれです。木や花、全部がそれです。自身がそれであるとわかりますか? そして何が起こるのか見てください。その中へと落ち着いてください。あなたの顔にも笑顔がやってきました。(笑う)

カット:そしてまた探求者に一般的な特徴として、時々私はそれとともにいて、連れ出されたあとは、それとともにはいない、家事で忙しい時、それは去ってしまうというものがあります。残念なことにそこには信念があって、それは、私が瞑想している時は成し遂げていて、心地良い感覚があるのに、皿洗いをしている時、そこには心地よい感覚がないというものです。

でもそれは、その心地良い感覚や喜びや光を見つけてキープしなくてはいけないというものではないのです。それは、命は意識の解放的な空間であり、常にあるということを理解するということなのです。それは、あなたが忙しかろうと、座っていて何かを体験していようと、常にあるものです。それはあらゆる体験以前にあるものです。あなたは、ボブが見ているものを見て感じたいと言いましが、私たちが指し示しいるものは、ボブが体験している感覚的な体験以前にあるもののことです。

それは、心地良いとか心地よくない以前にあるものです。この生き生きとしたもの、この存在。ボブがあなたに、「今、意識がありますか?」と聞く時、あなたには常に意識があります。でも時々は、より意識的であり、時々は意識的ではないかもしれませんが、意識が本当のあなたです。そして、マインドが見ているとかいないとかしているものは、それではありません。

それは、根底にある空間にくつろいで入っていくということなのです。ボブが言うように、「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」。何も問題ではありません。その根底にあるものは常にそこにあるのです。でも、探求するマインドは言います。「でも、今はまだその状態にない」。でも、今あなたがその状態にないのなら、あなたは死体です。それはそこにあります。

それがあなたの心臓で鼓動しています。それが、いつも、ずっとそこにいて呼吸しています。でもマインドはイメージを持っていて、「いいえ、それはエンライトメントではない。それは自由ではない。私は笑っていない。私は幸せではない」と言います。ええ、いいでしょう。それはそこにあります。でも、それ以外の場所はどうですか? そこには何か別のものがあります。そこには微妙な考えがあります。

これは良くない。これは十分ではない。私はボブが言うような状態にならなくてはいけない。私は何か別のものにならなくてはいけない。これはいつもそこにあるのです。あれもいつもそこにあるのです。その上で、いいえ、これでは十分ではない。まだ私は到達していない。ここにはまだ「私」がいる。私はそれを取り除かなくていけない。私はあれこれをしなくてはいけない。そうしたことは心理的なおしゃべりなのです。それは内側のトークです。

そしてボブが「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」と言うように、あなたが考えなかったら、おしゃべりはどこかへ行き、私はまだそこに到達していない、ボブは私とは違う何かを見ているという考えは消えます。そこにはそういった考えはありません。すると今、ふ~。そのリラックスの瞬間、あ~。それです。でもマインドは言うでしょう。「いや、それはそれではない。私はまだ至福を経験していない。それはそれではない」。

でも、それなのです。そのように、ハートの本質に、ある意味でなること、あ~、となることがもっとも大切なことであり、マインドが言うことが大切なのではありません。生き生きとしたものを直接体験することが成熟してきます。というのも、マインドは空全体を覆いたいのですが、マインドのあちこちの小さな割れ目から輝きがもれ始めて、小さな裂け目ができて、輝いて開き始めるからです。

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この動画の最後で、ズームによるミーティングは無料ですというアナウンスがあります。参加希望の方はボブのホームページで確認してください。

2022/11/09

そうかもしれないし、そうではないかもしれない

2022年10月30日ミーティング
56:35ぐらいから

参加者:ボブ、あの話をしていただけないかと考えていたところです。人生がどのように人を行くべき場所へと導いていくかという話です。ある男とケガをした息子のあの話をしていただけないかと。もし覚えてみるなら。

カット:中国の占いの人に関するもののことですか?

参加者:ええ、あれは素晴らしい話です。

ボブ:とてもシンプルです。中国の話です。ある農夫が一頭の馬を持っていました。近所の馬を持っていない貧しい農夫がやって来て言いました。「あなたは馬を持っている。素晴らしい。あれやこれやをすることができる」。農夫は答えました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。

二、三日すると、馬が囲いから逃げて姿を消しました。すると人々がやって来て同情して言いました。「あなたは馬を失った。それはとても不幸なことだ」。すると農夫は、「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と言いました。

数日後、逃げた馬が数頭の馬を連れて戻ってきました。すると人々は、「今や馬が4、5頭になった。これはすごいことになる」と言いました。すると農夫は、「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と言いました。

農夫の息子が馬を馴らそうと馬に乗って投げ出され、足の骨を折りました。人々はやってきて同情し、「これはひどいことになった。息子さんは足の骨を折って、あなたを手伝うことはできないだろう」と言いました。そうして話は続きます。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。

数日後、戦争中の兵士が徴兵にやって来て、人々を軍へと連行しました。村人たちの子供たち全員を連れていきましたが、足の骨を折っていた彼の息子は連行されませんでした。人々は「あなたは幸運だ」と言いました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。そういう話です。この話ですか?

参加者:ええ、そうです。(一同笑う)

カット:素晴らしい話です。みんなや私のそれぞれの人生で起こる好例です。もし何かが悲劇のように見えても、それが素晴らしい贈り物に変わる。それは解釈にすぎないのです。

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セイラーボブが「塞翁が馬」の話をミーティングでしたのを聞いたのはこれが初めてです。LIVING REALITY の中では出てきたと記憶しています。

この故事は、たいていの場合、「人生は何が起こるかわからない」とか、「災い転じて福となす」と解釈されているようです。でも、そうではなくて、「良いとか悪いとか判断するな」というのが本来の意味ではないでしょうか。少なくともボブはそういう意味で使っているようです。何かが起こって、それを良いことだ、悪いことだと判断しているのはマインドにすぎません。良いとか悪いとかラベル貼りをしなければ、それはあるがままであり、そのまま過ぎていく出来事にすぎません。

2022/11/08

あなたの想像以外、何もあなたを苦しめはしない

これはニサルガダッタ・マハラジの言葉です。

私たちは普段、人の評判や世間体をものすごく気にして生きています。でも、よくよく考えてみると、自分が人のことなどそれほど気にしていないのと同じように、人は私のことなど気にしていません。

でも、人が何か言うと大げさに考えて、傷ついたり怒ったりします。でも、その大半は自分の想像なんですね。人はそんなつもりで言ったのではなかったかもしれないし、一時の気持ちで何気なく言っただけなのに、勝手に想像を膨らませて、いつまでも傷ついていたり、怒っていたりします。

「私」が実在ではないのと同じように、「相手」も実在ではないのです。実在ではないものの言葉を、実在ではないものがマインドの中で勝手に想像しているだけ。それがわかると、人が何か言ったからといつまでも怒っているのがバカバカしくなります。

そしてまた、何か不安になるようなことがあると勝手に想像力を働かせて大惨事が起こるのではないか想像します。私はその傾向が強くて、少しでも体調が悪いとネットであれこれ調べて、がんセンターへ駆け込んで、さんざん検査してもらった挙句、がんノイローゼだと笑われたりします。

事が起こってから対処すればいいものを、起こる前に絶対起こらないような事まで想像して自分で自分を苦しめてしまう傾向があります。思い返してみると、想像して恐れていたことのほとんどは実際には起こりませんでした。中には実際に起こったこともあったでしょうけど、忘れてしまって、今日こうして無事に生きているということを考えると、それほどのことでもなかったとわかります。

私たちは死を恐れています。でも、実際に起こったら、それはひょっとしたら大したことではないのかもしれません。もういい加減、自分の想像で自分を苦しめるのはやめにしたいと思います。

日常生活で時々立ち止まって、「これは単なる想像じゃないだろうか?」と問い直してみたらどうでしょう。

2022/11/07

あなたは生かされている。生があなたを生きているのです。

セイラーボブの原文はこうです。

You're being lived. Life lives you.

直訳すると、「あなたは生きられている。命があなたを生きているのです」となります。でも、「生きられている」というのは日本語としておかしいし、「命があなたを生きている」とすると、そこに誰かがいるように解釈されて、非二元的ではないような気がします。

ちょっと意訳して、「生きているのはあなたではありません。生があなたを生きているのです」ぐらいがいいかもしれません。lifeという単語をネイティブが聞けば、命、生、人生、という言葉が同時に思い浮かび、その三つを同時に当てはめて理解していると思うのですが、日本語に訳す場合はそのどれかを選択しなくてはならず、厄介です。

いずれにしても、この人生を生きているのは、lifeなのであって、「私」ではありません。「私」は観念の塊にすぎず、実体のないものです。「私」が生きているのではなく、生(せい=命、人生)が生きているのなら、ジタバタしてもしょうがない。もう起こるに任せようと思うしかありません。

大抵の場合、「私」が何とかできると思ってジタバタするために問題を複雑にしています。病気や死は生のなせる業。さらに、人生で起こってくることはどれも、生のなせる業。私の人生はジタバタの連続なのですが、もうジタバタしたり、心配したりするのはやめにしたいと思います。自分を納得させるために、できるだけのことはやる。あとは生に任せる。

2022/11/06

誰もそこを去ってはいません

1:04:35から

参加者(外見とアクセントから、インド系の女性):お尋ねします。なぜ私たちは、私たちの家である「我はそれなり」を去って、はるばると長い道のり生死を繰り返し、サンサーラ(輪廻)の中で道に迷い、帰り道を探しているのでしょうか? どうして私たちは家を出たのでしょうか?

別の参加者:誰がそれを知りたがっていますか? 誰がその質問をしていますか?

カット:そしてまた、その質問にはいくつかの仮定が含まれています。ボブに答えてもらいたいですか? (ボブに向かって)どうして私たちは何千という生と死を繰り返し、肉体となり、生まれ変わり、サンサーラ(輪廻)へと入っていくのでしょうか? そこにとどまることもできたのに。

ボブ:あなたは実際にそこを去ったことがありますか? あなたは今この瞬間意識がありますか? 

参加者:意識しています。

ボブ:ええ、あなたはその存在意識です。それが表面上、観念や思考によって不鮮明になっているだけです。

カット:そうした観念が不鮮明にしたことによってできる観念は時間です。そこにあるのは過去生、来生ですが、それは想像上のものであり、あなたがそれを考えた時だけ存在します。思考がない瞬間には昨日はありません。そこには千年前はありません。そこには過去生はありません。それは生命の本質、単一性が、自身は体、マインドであり、時間の中にいるという夢を見て、幻想の中で自身を見失うのです。それは遊びです。それはリーラ、神聖な遊びです。それは、自分ではなく、何か他のものであるふりをしているのです。

何かの理由があってやっているわけではないのです。どうして私たちはこれをしたのか、どうして私たちは道に迷ったのかというような理由はないのです。それは、放蕩息子が父親の財産を全部持って放浪し、また父のもとに戻ってやっとわかり始めるという、あの話に似ています。なぜ、という質問に答える物語はたくさんあります。でも、それは実際に起こったのか、本質が実際に去ったのか、実際に迷い、輪廻を繰り返したのか、それとも、それはマインドの中の単なる思考であり、それが時間の中を旅するという幻想全部を作ったのか。

ボブ:ニサルガダッタは、あなたたちは世界と呼ぶ夢を見ていると言いました。彼は言いました。夢の出口を探すのをやめなさい。夢が問題なのではない。あなたの問題は、夢の一部を好み、他の一部を嫌うことだ。全部を好きになるか、全部嫌うかしなさい。私たちが、信じている夢を見始め、それがリアルだと考え、それを調べると、それはすべて起こっていなかったのです。夢なのです。そのように見えているだけなのです。それは現象的な顕現と呼ばれます。現象の定義はそのように現れているものです。すべてそれは見せかけにすぎません。

2022/11/05

どうして思考が思考を静かにすることができるでしょうか?

2022年9月4日ミーティング
37:42ぐらいから。

カット:(オンライン参加者のうちの)何人かからコメントが入っています。30人ぐらいの人がオンラインで参加しています。ターニャからです。思考がやってきて、起こっていることに不満を言っているように見えても、問題はありません。そして彼女はこう言っています。この思考がいまだにやって来て、緊張や収縮が現れるということは、いまだに「私」を信じているということであり、探求を終わらせるために、もっと満足のいく考えを求めているということです。今彼女は大声で笑っています(lol)。探求を終わらせて、最終的にそれが何であるかをはっきりさせたいのです。そこで質問です。でも、それが何であるかがわかりません。そして、平和以外に何を見る必要があるのかわかりません。このことで何かコメントしていただけますか?

ボブ:まず第一に、彼女は「問題ではない」(doesn’t matter)と言いました。matter(物質)は何か堅固なものです。精神と物質がありますが、それは分割されたものではありません。精神は本質です。自然な生命の本質、純粋な実在です。でもそれが堅固なものになると、それは物質となります。あたかも液体、水が氷になるように、物質、何か堅固なものになるようなものです。思考が問題となる時(When thought matter:思考が物質となる時)、それが問題となります。私たちは実際には問題には固着していないのですが、固着していると思っています。離れていてください。それはそのままにしておいて。固着させないで。固着させて問題を作らないで。それをあるがままにしておいてください。そうすればそれは自然と動いていきます。

カット:ええ、すばらしい。ターニャは強調しています。思考が現れて、それが何らかの反応を引き起こし、体の中に緊張を引き起こします。彼女は、別の思考がやってきて、その思考を止めてくれないかと思っています。彼女は、満足できる考えが探求を止めてくれないかと言っています。そこで彼女は、l-o-l (laugh out loud:大笑いしている)。彼女は笑っています。どうして思考が思考を静かにすることができるでしょうか? 

ボブ:ええ。私たちは、何ものにも固着していないということを理解してください。生は動いています。人々はやって来て、去っていきます。仕事が現れ、変化します。すべては絶えず変化して束の間のものです。私たちはそれを固定し、そこに留めようとします。そしてたくさんのトラブルを抱えることになります。

カット:そしてまた時々、(最初に)思考がやってきて、(そのあとで)体が反応するというやり方ではないことがあります。時々、激しい反応の動きが体の中にすでにあって、そこへ思考がやってきて、それを正当化します。例えば、体のどこかに荒い怒りのエネルギーがあって、そこへ思考、物語がやって来て、あいつのせいだ、彼だ。彼が俺を怒らせた。

でも、真実はエネルギーがここ(体を指さして)で動いていて、たとえば何か天気とかホルモンとか食べたものとか何かのせいかもしれません。私たちが知っているリベットの有名な実験のように、おおよそ0.5秒後にマインドがやって来て主張するのです。最初に衝動がやってきます。赤ちゃんを見ると、彼らには実際にはまだ思考はありません。彼らの泣きたいという衝動や笑いたいという衝動が体に現れるのです。

動物には観念的な思考がありません。でも自然な激しい衝動があります。(携帯の質問を見て)もしそこに何らかの収縮や何らかの反応があるなら、それは思考に対するものかもしれません。それは環境によって触発されたものかもしれないし、単に荒いエネルギーが思考によって(後から)解釈されたものかもしれません。いずれにしても、もしあなたが自然な世界をもう一度見ると、そこには収縮と拡張があります。

ボブが言うように、心臓や肺。あるいは季節の循環。すべてのものにはサイクルがあります。そのため、妨害されない、確かな至福の喜びの状態というようなものはありません。というのも、もしそんな状態があったら、あなたはそれを認識することも気づくこともできないからです。

気づいたり、認識したり、しなかったりできるものは、何か他の反対のものか中立のものをバックグランドとして現れる必要があるからです。そのため、中立の自然な状態には、喜び、苦しみという要素がありません。喜びと苦しみ、収縮と拡張はそれの上、あるいはそれの中、認識する意識の空間にやってきます。そこが、全世界が遊ぶ場所、ステージです。

ボブ:これを見て。(ボブの左手が小刻みに震える) 私はそれに固着していません。もし私が固着して、これを止めようとすると、もっとひどくなります。そのままにしておきます。そうすると治まります。(手の震えが止まる)

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この会話を掲載したのは、カットが「リベットの有名な実験のように」と言ったからです。私がリベットの実験を知ったのは、前野隆司さんのYouTubeを偶然見たからです。そのあとで、横田南嶺老師経由で佐々木閑先生が、下條信輔先生(リベットの本を翻訳)を無我の説明で引き合いに出されたと聞きました。

下條先生がリベットの実験の本を翻訳されたのは2005年7月です。カットが引き合いに出すぐらいだから、このリベットの実験は、スピリチュアルの世界ではかなり有名な話なんですね、きっと。

2022.12.12追記
カットは、彼女の著書SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityの中(書籍版p273,R-Rationality)でも、リベットの実験について触れています。

2022/11/04

あなたは空間のような意識です

セイラーボブは、space-like awareness という言葉を使います。このYouTubeの中でも言っています。(1:16:00あたりぐらいから)

「空間のような意識」という意味は、そこには空間があるだけで、何かを実行する行為者はいないという意味です。行為は起こっても、行為者はいない。あなたは空間のままでいるということです。

この話をする時、次にくる話は信心銘です。「ものごとを区別しなければ、道は難しくない。でも、ひとたび区別をすると、すべては天と地ほど離れる」。要するにマインドでジャッジ(判断)するなということです。次にくるのがシェイクスピアの話で、「良いとか悪いとかいうのは人間が勝手に決めていることで、もともと良いも悪いもない」。その次がニサルガダッタの言葉で「問題は、あなたが夢の一部を好み、一部を嫌うことだ。全部を好きになるか、全部を嫌うかにしなさい」。三つとも記憶で書いているので、言い回しは正確ではないかもしれません。

私たちのマインドは、何か問題が起きると大騒ぎをして、問題を複雑にしてしまう傾向があります。もともと問題などありはしないのに、マインドがそれを問題にしてしまうのです。たいていの問題は、そのままにしておけば自然に解決します。もちろん、病気を放置せよとか、働かないでブラブラしていろという意味ではありません。

問題には対処しなくてはいけないし、今日の食物がなければ何とかしなくてはいけないのですが、解決策は自然に起こってくるから、起こるに任せるということです。例えば、普通に暮らしていれば何とかやっていけるのに、老後資金が2000万円要るとニュースで聞いて株をやって大損してみたり、健康なのに、ちょっと体がだるいからと徹底的に糖質制限して油を取りすぎて肝臓を傷めたり、ちょっと悩みがあるからと悟りを求めてカルトにはまってみたり、あ、気を悪くしないでくださいね、これ全部私のことですから。

要するに、人間のやる失敗のほとんどは自滅というか、余計なことをすることから起こるのではないかと思います。その原因は「私」がいるからです。「私」が問題をこじらせてしまうのです。たいていのことは自然に任せておけば解決します。それが、空間のような意識を自覚するということだと思います。

一年ほど前に仏教のYouTubeをあれこれ見ていた時、中村元先生のYouTubeで、とてもおもしろいものがありました。もうどのYouTubeだったか記憶がないので正確な内容ではなく、おおよその話で書きますが、ある時中村先生が人から悩み事の相談を受けたそうです。

その内容は、職場でとても嫌な上司がいるが、どう接したらよいか、というものでした。私は以前職場でこっぴどいパワハラを受けて悩んでいた時期があったので、中村先生がどう答えるのか興味津々でした。そんな職場はやめろとか、もっと上の人に相談せよとか言うのかと思ったら、「そんなことを考えていてもしょうがないじゃないですか。嫌なやつはどこにでもいるんですから」という答えでした。

私はその答えに大笑いして、妙に納得しました。そういうことなのだと思います。私たちは何か意に沿わないことがあると、それを何とか変えようとします。でも、変えることができるのは自分の態度(反応)だけです。変えようとせず、正そうとせず、起こるに任せる。

あなたは空間のような意識です。

2022/11/03

存在することへの愛

第658回「心が作り出す世界」2022/10/26【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

   

私はこの白隠禅師の話が好きです。この話を聞くと、ニサルガダッタ・マハラジが語る、存在することへの愛(サット・チット・アナンダのアナンダ)を思い出します。生きているだけで至福なのではないでしょうか。それは手に入れるものではなく、私たちがもともと持っているものです。

2022/11/02

誰もあなたの代わりにはやってくれません

2022年10月23日ミーティング 39分30秒あたりから


カット:オンラインコミュニティへようこそ。30人の人が参加しています。おはようのメッセージがきています。みなさんおはようございます。そして、ターニャからの質問です。

「自身の自然な状態を完全には理解できないで、すべてのパターンから自由になることができずにいる人がいると思いませんか? というのも、とても強力な心理的パターンがあって、それを見破るのは難しいように思えるからです」

ボブ:それが信念です。そこには強力な心理的なゾーンがあります。

カット:パターン。

ボブ:パターン、心理的なパターンが繰り返しやって来ます。でも、いいですか。自身に尋ねてください。そのパターンにはどんなパワーがあるのか? 尋ねて、調べて、そこへ踏み込んで、それをテストしてください。もしそれが観念上のパターンなら、それにはどんな力もありません。

お腹が締め付けられたような感じがして、とても怖かった。それはとても強力で調べることができなかった。でも、私には調査する必要があると認識して調べ、テストして、これほど厳しいことをしたのは初めてだとなった時、それは解消します。

盤珪は言いました。「不生の仏心の中ではすべてが完全に解決している」。もしそれをあるがままにしておいて、調べ、自身の注意すべてをそれに注ぎ、注視するなら、もうそこへはエネルギーは行きません。すべてのエネルギーを見ることに注ぎ、見ることに集中するなら、すべてのエネルギーはもうそこへは向かわなくなり、自然に消滅します。そして笑って終わりとなります。

それがやってくるたびに調べて、それを見つめます。そしてあなたがそれを調べて理解します。もし、腕や体のどこかに傷や折れた場所があると、あなたはそこをピンポイントで指さして、ここを見てと言い、悪化しているのを感じるでしょう。でも心理的な思考がやってきたら、マインドのどこにそれがあるのかを指でピンポイントに指し示してみてください。

できません。なぜならそれはマインドが作り上げたものだからです。それはどれも思考であり観念です。ひとたびそれから自由になると、あなたは解放されます。それは人々にとって大変困難なことです。多くの人がやりたがりません。

かつては、やらない人が大勢座っていました。彼らに、自分でやるようにと尋ねました。彼らはやることができず、やろうとしませんでした。もうたくさんと言って、その状態に留まっていました。でも、他の人がそれをやることができません。自分を救うかどうかは、それぞれの人自身が自分でやるかどうかにかかっています。誰もあなたの代わりにはやってくれません。そういうものなのです。

あなたの観念、あなたの考えがパターンを形作ります。他の誰かではありません。自身を救うかどうかはあなた次第です。そこに何か実体のある独立した性質のある誰か、人がいますか?

2022/11/01

犀の角のごとくただ一人進め

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その31」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

まわりの人がなんと言おうと、『私はいない』という真実を見て、ただ一人犀(サイ)の角のごとく進め。

この話は非二元の話です。まったく素晴らしい。

2022/10/31

非二元の世界、現象の世界

セイラーボブの話には、現象の世界、あるいは顕現の世界という言葉がよく出てきます。非二元の世界と現象の世界(顕現の世界)とは何が違うのか?

非二元の世界と現象の世界の二つがあるという意味ではありません。二つの世界があるというなら、非二元ではなく、二元の世界になってしまいます。世界は一つであり、非二元です。では、現象の世界とは何なのかというと、私たちがマインドを通して見ている非二元の世界が現象の世界です。

そこにあるのは非二元の世界なのですが、私たちのマインドを通して見ると、現象の世界として現れているのです。非二元の世界は、私たちが見ることも体験することもできない世界です。それがどんな世界かと想像しても無駄な世界です。

仏教の唯識でも同じことを言います。唯識では、世界を認識するやり方には三通りあると説きます。詳しくは(三性説)を参照してください。簡単にいってしまうと、迷いの目で見る世界・縁起で見る世界・悟りの目で見る世界の三通りです。

迷いの目で見ている世界が現象の世界です。「『私』は実在する」「世界は実在である」という誤ったものの見方をしている世界であり、それが私たちが見ている世界です。そして、悟りの目で見る世界が非二元の世界(実在の世界)にあたるのですが、これは仏陀が見る世界であり、実際には見ることはできません。

ここで重要なことは、私たちが非二元の世界を見ることはできないということです。それができると主張する人たちは、エンライトメントある派であり、一瞥体験支持派です。このスタートラインでつまづくと、それを求めて終わりのない探求難民の旅が始まります。

そして私が時々違和感を感じる表現に、純粋意識という表現があります。書き手の方はおそらく、非二元の世界に広がる意識を純粋意識と呼び、現象の世界にある意識を単に意識と呼んでいると思われます。それはそれで、その使い分けを理解している人には問題はないのですが、それをはっきり理解していない人が読むと、普通の意識と純粋意識と二つの意識があるという誤解を生みます。そしてまた、それを手に入れなければならいないと思い始めます。

意識に二つの意識があるわけではなく、一つの意識です。私たちは純粋意識そのものなのですが、体とマインドがある限りはそれを体験することはできません。その純粋意識が体とマインドを通して普通の意識として現れています。私は単に「意識」(アウエアネス)とした方がわかりやすいのではないかと思います。

もし、純粋意識と普通の意識があって、純粋意識を手に入れなければならないと思っているのなら、それは非二元ではなく、二つの意識があることになります。

「森羅万象、あまねく宇宙の果てまで純粋意識が広がっている」。あるいは、「私たちは純粋意識の中にいる」「私たちは純粋意識である」という表現は可能です。でも、かえってわかりずらくしているような気がします。ただ単にアウエアネス(意識)と呼んだ方がいいような気がします。まあ、そもそも非二元の用語に統一されたものはないので、純粋意識と呼ぼうが意識と呼ぼうが、本質をわかっていればいいだけの話なのですが、どうも違和感を感じます。

私たちは現象の世界(顕現の世界)を見ています。そこには体もマインドもあるように見え、私もいるように見えます。私たちが持っている唯一の武器(道具)は体(五感)とマインドだけです。それを通してしか世界を見ることはできないのです。でも、実際にはそれは実体のないものであり、そこには何もない、あるいは、他には何もない一つのものだけがあるというのが非二元の教えです。それを純粋意識と呼ぼうが、アウエアネス、知性エネルギー、アートマン、ブラフマン、私は在る、神、何と呼ぼうがそれなのです。

2022/10/30

もし地球上に人間がいなかったら、アウエアネス(意識)はあるのですか?

 2022年10月9日ミーティング

1:23:52ぐらいから

参加者:こんにちは。質問、もしくは意見、あるいはその両方のようなものです。私は生命について考えていました。私たちは生命と、生命の持つアウエアネス(意識)についてたくさん話をしました。そして、宇宙には地球やたくさんの物があります。もし、地球に生命が存在しなかったら、つまり、植物、動物、人間がいなかったら、意識はどうなるのですか? 
というのは、もしアウエアネス(意識)が究極のものなら、意識を持つ存在たちがいなくなったら、世界はどうなるのでしょうか? すべてのものは存在すると思うのですが、私たちは自身のことを意識を持つ存在だと思っています。その場合、アウエアネスは誰が……、アウエアネスはどこから来るのでしょうか?

カット:ボブ、質問の意味はわかりましたか? もし人間や動物がいなかったらどうなりますか?

ボブ:今現在は何ですか? それは何ものでもないもの/無です。現象としての顕現が現れているにすぎません。現象の定義は、そのように現れているものです。それは単に人間というパターンの推論する能力のせいです。何も起こっていないのです。

カット:私はあの例え話が好きです。誰かがボタンを押して、もし地球が今爆発したら、人間や文明全部、いわゆる有機物は完全に蒸発するでしょう。でも、一つの粒子もなくなりはしません。そして、究極のもの、つまり、空間のようなアウエアネス(意識)は影響を受けません。神は自身を見るためにあなたを必要としていません。神はあらゆるものを経験し表現する収容力なのです。それを体験するために意識を必要としません。

ボブ:すべては自然に起こっています。

カット:それは経験することさえ必要としていません。というのも、それは空間なのです。私たちは、それを体験して表現するためには媒体が必要だと言いますが、それは私たちが体験するために必要なだけです。私たちはそれが必要だと言いますが、それは何も必要としていないのです。それは自由であり、必要としていません。でも、それが起こっていることです。私がいるから、見ること、聞くこと、味わうことが起こっています。

もし私がいなかったら、見ること、聞くことは、この体に起こりません。それで、私たちは考えるのです。もし私の目が見えなかったら。もし私が死んだら。もし私がショートヘアーになったら意識はどうなるのか? というのも、髪に知恵があると考えている人もいます。そうした質問はとても魅力的であり、あなたはそうしたことをたくさん思いつくことができます。そしてただ単に永久にマインドに留まるのです。

でも、非二元が真に指摘していることは、この瞬間の直接の今の体験なのです。そして、今この瞬間にいるのは人間と言われているものです。人間と言われているものが現れています。というのも、実際そこに人間がいるからです。ここでまた別の質問です。もしあなたが思考を止めたら、直接の体験は惑星や太陽系や銀河の存在を認識することができるでしょうか? いいえ。この太陽系や銀河系や惑星を認識するためにはあなたの思考が必要です。

でも、直接の体験は、存在意識がそれを体験することを含んでいます。意識がどうなるだろうかとか、それはどういうふうだろうかと想像することは、単なる可能性にすぎません。私たちは、意識(アウエアネス)が私たちの考えるように存在すると言うことさえできません。

それは私たちが思うようには存在しません。それはあたかも、電気のスイッチを切った時に、電気があるかと聞いているようなものです。可能性としてはそこにあります。でも、実際には電気は流れていません。それは電気が流れている時だけそこに電気があります。

意識も同じように、流れている時にだけあります。体が死んだり、人類全体が死んだらといいう可能性を言う時には、そこには意識はありません。あなたは、意識がそこにあるとも、ないとも言うことはできません。どうなるだろうという思索に入っていくことは、ありのままのこの瞬間を離れていくことになります。

思索の領域、想像の領域に入っていくことは、とても魅力的なことです。でもそれは、非二元が立つ視点に全く反することです。ただ単に直接認識してください。観念化したり、想像したり、自分の意見を信じるのではなく。

(質問に対する答えを)ボブは知りません。私も知りません。誰も知らないのです。というのも、私たちは直接起こっていることを知っているだけだからです。起こっていないことを話そうとしても私たちは知らないのです。でもこれは素晴らしい質問です。これは完全に哲学的な質問で驚くほど素晴らしいものです。

2022/10/29

修行、あるいは座禅

佐々木閑先生のYouTubeの話が、仏教における修行の話に入りました。佐々木先生は他の動画でも言ってみえるのですが、仏教は修行によって自己を変えていく教えなのだそうです。その方法として、精神集中やマインドフルネス瞑想などをあげてみえます。

横田南嶺老師は円覚寺(禅宗)の管長ですから、当然座禅こそが仏道の基本だと説かれています。座禅することによって、自分は実在ではないということを体得するのだそうです。

セイラーボブは、瞑想は推奨しておらず、日常的に思考に気づいているという、「間断なき瞑想ならざる瞑想」というのを説いています。

私は、個人的には三人のおっしゃっていることは全然矛盾なく受け入れていて、瞑想も座禅も間断なき瞑想ならざる瞑想もありだと思っています。

セイラーボブは厳格な非二元の教師なので、瞑想することは時間の観念を持ち込むことになる、と言って推奨しません。でも、その一方で、何度でも自分がいないということを調査することによって条件付けの解除がなされるとも言い、自分が実在ではないということが身に染みるには時間がかかると言っています。

気をつけなくてはいけないのは、セイラーボブが現象の世界(私たちがマインドを通して見ている世界)の話をしているのか、それとも実在の世界(非二元の世界:私たちが見ることのできない世界)の話をしているのかということです。実在の世界には時間はないのだから、将来何者かになろうとする瞑想は無駄だと言う一方で、現象の世界で条件付けを解除するためには何度でも自分は実在ではないということを調べなさいと言っています。

「私は在る」と「私は実在ではない」という話も同様です。実在の世界では私はいない。でも現象の世界では私は在る(私はいる)。私は最初、「私は在る」(I AM)がどういうことなのか理解できませんでした。

「私はいないはずなのに、どうして私は在る(I AM)のか」とボブに質問したところ、存在(実在)が「私が在る」という感覚となってマインドに現れているというのです。私は在る(I AM)は、存在の感覚(自分が存在するという感覚)であり、それがマインドで行ける最高地点だと教えてくれました。要するに、「私は在る」(I AM)は現象の世界でマインドが感じることであり、「私はいない」は実在の世界の話です。実際には「私」はいないのですが、いるような感じがするという意味であり、それが実在を感じるということです。(「ただそれだけp112あたり参照)

ですから、マインドの世界では、「私は在る」(私はいる)のです。その「私は在る」を超えたところが私のいない非二元の世界なのですが、それを私たちが体験することはできません。また、それがどういうものかと認識することもできません。私たちの意識がそれの現れなのですが、だからといって、意識が何のかをはっきり言うことはできません。

要するに、非二元の話は、実在の世界と現象の世界があって、それがパラドックスになっているのです。一方では瞑想は時間の観念を持ち込むものだから役に立たないと言っておきながら、一方では何度も自分がいないと調べなさいと言います。

座禅や修行と非二元の教えも、この関係にあると思います。実在の世界(非二元)の世界では私たちは完全な一つのものであり、修行も瞑想も不要です。でも、現象の世界(マインドを通して見た世界)にはマインドがあり、それを修行や座禅によって克服していく道があります。私としては、どちらも矛盾なく受け入れることができます。

佐々木先生も横田老師も、「私はどこにも実在しない」と説いておきながら、その一方で精神集中や座禅を推奨するという、非二元と同じパラドックスを抱えているのが面白いですね。セイラーボブは「行為は起こってくるが、行為者はいない」と言い、横田老師は「無我を体得するために座禅する」と言います。もともと無我なら座禅しなくてもいいような気もしますが、それを知るためにやるというパラドックスです。

私は瞑想も座禅も卒業しましたが、それが無我を体得する方法だという仏教の教えも否定しません。でも、このブログ上では、仏教の修行は取り上げません。そこへ入っていくと、宗教が全面に出てしまうことと、いろんな方法がある上、個人差のある体験の話になって、収拾がつかなくなってしまうからです。このブログは、修行ではなく、あくまでも理解(科学・哲学・思想)を主題にしています。

一年以上仏教について書いてきましたが、ちょっと仏教へ入り込みすぎたかなと思う今日この頃。あやうく出家するところでした。仏教関連のYouTubeをあれこれ載せすぎて、かえってわかりにくくしてしまった気もします。

そろそろセイラーボブに戻る時期がきたようです。もちろん、佐々木先生や横田老師のYouTubeで非二元的なものがあればこれからも掲載させていただきますが、セイラーボブ中心でいきますので、よろしくお願いします。

2022/10/28

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第14回(2022年10月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第14回 (2022年10月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2022/10/27

自己の本性とは何か

第642回「おおげさな話」2022/10/10【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2022/10/26

一瞥体験

日本人の書いた非二元関連の本やブログ(個人の体験を語っているもの)を読むと、「一瞥体験」という言葉が多く出てきて、一瞥体験というものをとても重要視している人がいるのがわかります。

私はこのブログの中で、一瞥体験というものがいかに意味がないかを書いてきましたが、もう一度書いてみようと思います。これはちょっと微妙なところですが、理解の瞬間を詩的な表現を使って、一瞥体験のように表現するのはありだと思います。ここで言う一瞥体験とは、自分がいない世界を、あたかも自分が実際に見てきたような体験をしたという意味での一瞥体験であり、それが非二元の理解の前提条件であるかのように語られる体験のことです。

なぜ人々が一瞥体験を重要視しているかというと、その背景にはエンライトメント、覚醒、悟りといったものに対する誤解があると思います。それを手に入れる前段階として一瞥体験をとらえているのではないでしょうか。

「私はエンライトメントした」「私は悟りを開いた」とはなかなか公言できませんが、「私は一瞥体験をした」というなら許されるだろうという思いがあるような気がします。一瞥体験をしたことで、自分を人より上位に置きたいのです。そしてその体験を非二元ビジネス・神聖ビジネスの客寄せ看板にするのです。

でも、そもそも非二元の世界とは、「私」がいない世界です。もし、「私は非二元の世界を一瞥した」「そこに『私』はいなかった」と言うなら、その体験を見た(あるいは記憶している)人は誰ですか? そこに誰かがいなければ、体験したことを思い出せないはずです。そこに自分以外の誰かがいたのなら、それは非二元ではなく、自分の他にそれを見ていた誰かがいたことになります。

非二元の世界は、何もない世界であり、それを体験することはできないのです。一瞥体験しようもありません。もし一瞥体験したというのなら、(そんな気がした)(あれがそうであるにちがいない)程度のものです。

鈴木大拙は、円覚寺で禅の修行をしているうちに、松の木と自分が一体であるという体験をします。でもそれは、大拙がアメリカへ行く予定が決まっていて、何かを体得したいと集中的に禅に取り組んでいた時に起こった体験です。

そして、それを見ていた大拙がそこにいて、あとでそのことを語っています。松の木と完全に一体なら、大拙は消えるはずですが、消えてはいないのです。松の木は松の木として、大拙は大拙として識別できる形で一体だったと言うのなら、それは一体ではなく、くっついているのすぎません。

U.G.クリシュナムルティが言うように、人間のマインドはどんなことでも作り出してしまいます。私たちが大拙と同じ体験をしたいと思って集中的に座禅に取り組めば、同じ体験をするかもしれません。でも、「私」が消えるわけではないのです。それはあくまでもマインドの中の出来事なのです。

私も以前は覚醒したいと思っていました。それだけを目指していたといってもいいくらいです。たくさん瞑想をやったし、人の一瞥体験にも耳を傾けました。でも今ではそうしたことに全く興味がありません。おとぎ話のカラクリに気づいてしまったからです。

私は、一瞥体験、覚醒、エンライトメントを説くマスターを全く支持していません。そうした人たちは、マインドの中の出来事に留まっているからです。そうした人たちは、覚醒した人と覚醒していない人という区別を作り出していて、非二元ではありません。

覚醒した人も覚醒していない人も何の違いもありません(そもそも覚醒などないと思っています)。一瞥体験した人も一瞥体験していない人も何の違いもありません。違うというのなら、それは非二元ではありません。非二元とは、体験の外にあるたった一つのもののことです。誰しもがそれなのです。それが非二元の根本思想です。

一瞥体験したい人はすればいいし、覚醒体験したい人はすればいい。でも、手に入れたものはいつかは失われます。それは単なる体験だからです。

いつまでも覚醒や一瞥体験を目指していたら、神聖ビジネスや非二元ビジネスのカモになり続けるだけです。「自灯明 法灯明」を胸に、自分で考えて生きていきたいと思います。

2022/10/25

相応部(サンユッタニカーヤ)蘊 篇・因縁編 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤

相応部(サンユッタニカーヤ)蘊 篇 I 

相応部(サンユッタニカーヤ)蘊 篇 II

相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇I

相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇II 以上 片山一良

佐々木閑先生のYouTubeで、阿含経相応部の素晴らしい話が続いていますが、非二元的な話はひとまず終わり、修行の話に移ったようです。修行の話は私のブログには合わないかなと思います。そこで、もっと非二元的な話はないかと、佐々木先生がネタ元にしてみえる原典を読みたくなったので、私の手におえるものかどうかを愛知県図書館に行って見ることにしました。買えばいいのですが、高い本なので。

これは、パーリ語(古代インド語)の経典を日本語に翻訳したものですが、出版が2014年~2016年ということもあって、わかりやすい現代語で書かれています。私でも読めます。ただし、読めるからといって内容が簡単に理解できるかというと、そうではありません。経の中の仏教用語が、いちいちわかりやすく解説されているわけではないので、それは別に調べる必要があると思われます。

また、用語を調べたとしても、今度はその経を正しく理解できるのかという問題が出てきます。各巻500ページ以上ある分厚い本で、これを読んで理解するのは相当骨の折れることですし、その中から非二元関連だけをピックアップするのはさらに骨の折れることのように思われました。

また、仮にそれができたとしても、著作権の問題があるので、おいそれとはブログに転載するわけにはいきません。ここはやっぱり佐々木閑先生のYouTubeを見るだけにしておいた方がよいという結論に至りました。ただ、最初期の仏教の経典の中に非二元の教えがぎっしりと詰まっているとわかっただけでよしとします。

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書) 下條信輔

2022年6月14日の当ブログ、「人は自己を変えることができるのか」の中で、横田南嶺老師は、「(佐々木閑先生は)最後に無我ということは、今日の脳科学でも証明されていると教えてくださいました。下條信輔先生の説を紹介して、「私」という固まった確固としたものはないというのであります。例えば、記憶というものを積み重ねることによって、私たちは自分というものを形成していますが、記憶というのはほとんど後付けでできているというのです。自分の都合のよいように作り変えているのだそうです。これという固まった自我がないことは脳科学でも実証されているということでありました」と述べてみえます。

そこで、下條先生の著作をあれこれ読んだのですが(参考:読書日記 視覚の冒険 サブリミナル・マインド サブリミナル・インパクト)、この本はまだ読んでなかったので読むことにしました。確かにこの本の中には「記憶は作り変えられている」というくだりがあります。また「意識(心)は他者との関係性の中で作られる」とも言ってみえます。

ただ、それが非二元的な文脈の中で語られているかというとそうではなく、「私はいない」とか「無我」というフレーズはどこにもありませんでした。この本から、下條先生が無我を説いていると解釈するのはちょっと無理があるような気がします。佐々木閑先生の講義を直接聞いたわけではないので、どういう文脈で語られたのかは不明ですが、おそらく、下條先生が翻訳された、「マインド・タイム」(ベンジャミン・リベット)の実験と、この本とを合わせて読んで、無我を説かれたのではないでしょうか。

私が下條先生を知ったのは佐々木閑先生経由ではなく、前野隆司先生のYouTubeを見て、ベンジャミン・リベットの実験を知り、前野先生の本(脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳)を読み、そこからリベットの実験のネタ元である「マインド・タイム」を読んだからです。その後で、円覚寺の横田老師のYouTubeで佐々木先生の講義の話の中でも下條先生を引用されていると知りました。

非二元と仏教、科学の接点は、ここらあたりが最先端なのではないかと思います。今後も佐々木閑先生、下條信輔先生はフォローしていきたいと思っています。前野隆司先生は「幸福学」の方へ行ってしまわれたのですが、一応フォローしていきたいなと思っています。

2022/10/24

悟りへの二つの道

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その23」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

私がいないということを、頭で理解するだけではダメ。それが身に染みて、それを生きるためにはどのような道があるのか。
直観による方法と知的理解による方法がある。

この話も非二元を学ぶ人にはとても参考になる話でした。まったくすばらしい。

2022/10/23

霊魂は存在しない

 佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その22」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


「私」がいないなら、霊魂は存在しない。
霊魂が存在しないなら人は転生しない。
転生するのは五蘊。人は転生しない。

*****
佐々木先生のYouTubeは全部載せているわけではなく、私の独断で非二元の理解の助けになると思われるものだけを載せています。全部見たい方はこちら(Shizuka Sasaki)でフォローしてください。

2022/10/22

エンライトメントする一番速い方法は何ですか?

2022年9月18日ミーティング


40:59から。太字はボブ。細字はカット。

時間を調べてみると、時間もまた心理的な観念であるとわかるでしょう。もし過去のことを考えなかったら、過去は存在しますか? 思考なしで、過去や未来があると言うことができますか? できません。でもあなたは私に、「私は過去に存在した」と言うでしょう。では私はあなたに、「昨日を生きてください」と言います。遡って、先週、去年、あるいは一瞬前を生きてください。思考なくしては、一瞬前でさえ生きることはできません。

未来も同じです。(思考なしでは)未来を期待することも考えることもできません。あるのはこの今だけです。この直接の自然に起こる生命の本質、常に新鮮で新しいもの。それが、私たちが調べてみる必要のあるものであり、自分でやらなくてはいけません。もし疑問や質問があれば(聞いてください)、あなたたちの何人かは、しばらくはここに通っているので、このことを既に知っているので、躊躇しないでください。私が使う言葉よりも理解しやすいかもしれません。

質問がある人もいるでしょう。そして、「私がこんな質問をしたら他の人はどう思うだろう」と恐れているかもしれません。他の人を恐れて、質問を避けているかもしれません。その束縛を見てください。それは必要のないものです。

もしあなたが究極のもので、すべてが究極のものであるなら、あなたは、誰もあなたより優れてはいないと知っています。誰もあなたより劣ってもいません。あなたはそれです。それなら、何を恐れる必要があるでしょうか? ではとにかく、始めましょう。

オンラインで30人が参加しています。シンガポールのサンティから、いくつかの質問が届いています。彼女は尋ねています。まず最初に、
「エンライトメントする一番速い方法は何ですか? 私たちには時間が残されていません」
エンライトメントの一番速い方法を答えてもらえますか?

「汝それなり」(You are That.)

(一同笑う)
もともとそうだということを認識してください。私は普段、質問の助けになるようにこう尋ねます。「あなたにとって、エンライトメントとは何ですか?」。というのも、エンライトメントは、ある種の超越的な状態であり、絶え間のないエクスタシー、オルガスムであると考えている人がいるからです。でも、それは全く不可能です。なぜなら、脳にはセロトニンショック防止システムがあって、それが気を失くさせるからです。

それは私が言ったほど速い(方法)ではないね。(笑い)

ええ、そうですね。そのとおり。私たちがここで指摘しているのは、自然な状態を認識するということです。それをエンライトメントと呼ぶ人がいますが、私たちはそれを自然な状態と呼んでいます。それは、おしゃべりや、何かになろう、どこかへ行こうという衝動の根底にもともと存在しているものです。

ある人にとってエンライトメントは、すべてが意識、認識の光にあふれ、知らないことを知るということです。知らないことは何かと知るということも認識するということです。また、他の人にとってのエンライトメントは、軽快さです。人生を航海のように軽快に生きること。まるで動物や鳥が歌い、雨を避け、流れとともに自然に生きているように。そしてそれが、脳による物語という妨害がなければ、どれほどすでに起こっているかを見てください。これが最初の質問。エンライトメントする一番速い方法。エンライトメントはもともとここにある、もしくは、あなたはもともとそれです。

二番目の質問。
「存在(presence)は、それを達成するために最も重要なことですか、それともマインドの状態が重要ですか?」
達成するためには、存在かマインドの状態かということですが、まず第一に、あなたは、もともと存在するものを達成することはできません。あなたは、何がそれを不鮮明にしているかを見ることができるだけです。そしてそれはマインドです。

つまり、存在はもうすでにここにあり、あなたはもう存在しています。それを理解するためには、マインドがあなたに、「私は存在していない。私は存在にならなくてはいけない」と言っているのを知ることです。それは真実ではありません。あなたは存在していないと信じていても、あなたは存在しています。

存在(present)という言葉を調べてください。それは、preーsence(感覚ー以前)です。感覚がやってくる前にこう言ってみてください。「この自然な瞬間の状態に何が問題なのか。以上」。

三番目の質問。
「中道(middle ground)の状態に到達するためにはどうやったらいいのですか?」。
これも同じですが、誰がどこへ行くのですか? サンティ、あなたは質問に対する答えをハートで聞くといいと思います。というのも、ボブの言うことは、誰しもがもともと持っている最も深い内側の知恵と共鳴するからです。誰しも、言語が作り上げたマインドの物語なしで赤ちゃんとして生まれます。そのため、最も深いレベルでは、私たちはもともと存在の明確さを知っているのです。私たちがそれを達成する必要はないのです。

「どうやってその状態に到達するのか?」。それは状態ではなく、ボブが言うように、感覚ー以前(pre-sence)にあるものです。マインドがそれに解釈を上塗りする前に、それはもうすでにそこにあるのです。それが、いわゆる中道です。

六つの質問があるのですが、四番目の質問です。
「忙しい人が日常的に行う儀式や方法はたくさんあるのですが、解放をもたらす簡単な演習は何ですか?」
サンティ、こうした質問を尋ねてくれたことに感謝します。たくさんの人たちもこの質問を共有していて、答えを望んでいます。簡単な演習は?

フルストップ! ピリオド!
そこ(マインド)へ行かないで。

ええ、マインドへ行かないで。誰が見ているのか調べてください。「儀式」? いいえ、儀式は必要ありません。儀式や演習は、そこに何かを達成する誰かがいることを前提としています。もしそこに誰もいないのなら、もともとそれはそれです。

そのため、あなたは自然の中に時間(が存在しないということ)を調べてみる必要があります。時間は何かを達成するためにあります。

ええ、未来です。もちろん。そしてまた、演習するということは、「あなたはそれではない。そしてたぶん未来に(それに)なるだろう」ということを意味します。未来は観念であり、想像したものです。体験しているのは今だけです。

五番目の質問。
「顕現について。顕現のマスター(支配者)になるためにはどうしたらいいでしょうか? どうぞ教えてください」
顕現のマスターになるためにはどうしたらいいですか?(笑い)

もし顕現が存在しないなら、誰がそのマスターになれると言うのですか? すべては空間の内容物として現れています。

質問はちょっと違っていて、「人間は不完全で価値がないと感じているので、それに何かを付け加えたい。私は人間であり、不足しているため、もっとお金や関係性が必要で、達成することや人々に認めてもらうことや賞賛が欲しい。そのため、私はそれを顕現として出現させる。それを外の世界に創造したい」ということだと思うのですが、生命の本質としてのあなたは、もともと源として完全なものであり、そこからすべてが現れています。

人間として、あなたは何かを変える必要があると思っている。というのは、あなたは完全だとわかっていないから。でも、あなたが人間として存在するという信念にリラックスして入っていくと、それ以外に何か違いをもたらす必要は何もないということがわかると思います。つまり、生として、あなたは顕現のマスターであり、何かを変える必要はないのです。

髪の毛、この禿げ頭は完璧です(ボブの頭をなでる)。(笑い)
参加者:注意して、(聞き取れず)
ええ、昨日facebookにすてきな小さなかつらとまつげをつけて投稿したの。

六番目の質問。
「グルは必要ですか? 会った時に、それがその人だとどうしてわかるのですか? また、どうやって探すのですか?」
グルは必要ですか?

グルとは、私たちの内側にある本質のことです。内在する知性は少し先を感知して、あなたを存在の中へと導き、それがあなたを生きています。あなたが開放的であれば、それはあなたが行くべき場所へ連れていくでしょう。もし私たちが、自分自身をいわゆるスピリチュアルな太陽光から遮断するなら、苦しむことになります。本当のあなたである内在する本質は、その完全さ、開放性とともに、そこにあります。

そして、あなたがもし何らかの理由で、もっと早く学ぶように条件付けられているか、あるいは、あなたがすでに知っていることを教えてくれる何らかの手段が人生において必要なら、それが共鳴して、生がそういう状況をもたらしてくれます。それはあなたが完全に信頼できるもののはずです。

2022/10/21

未来はすべて決まっているのか?

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その21」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


今日の話はとっても重要だと思います。自由意志はあるのか? 宿命はあるのか?

仏教は、私たちの意思も因果の要素であると考えるので、個人の意思の存在を認め、個人が何をするかによって未来は変わっていくのだと説きます。自分で自分を変えていく教えです。私はこの考え方が好きです。

セイラーボブも非二元は運命論ではないと言っています。

2022/10/20

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第13回 (2022年10月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第13回 (2022年10月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師


引用元サイト 盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む

今回もすばらしい話でした。

2022/10/19

龍雲寺ダンマトーク:鈴木大拙に学ぶ 

【龍雲寺ダンマトーク:鈴木大拙に学ぶ】| 野沢龍雲寺様主催法話会 横田南嶺老師


「肘外に曲がらず」とは、そういう意味だったのですね。
大拙は、無分別・無差別・霊性を説いています。
仏教(禅)も単一性、一つのものを説いているということがよくわかりました。
これもまたすばらしい話でした。

2022/10/18

龍雲寺ダンマトーク:今こそ盤珪禅師に学ぶ

龍雲寺ダンマトーク:今こそ盤珪禅師に学ぶ  臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老大師猊下

これはすばらしい。盤珪という人とその教えがよくわかりました。

2022/10/17

我に執着することが問題である

 第625回「どうして真理を得られないのか」2022/9/23【毎日の管長日記と呼吸瞑想】

2022/10/16

心理的な苦しみの解消

セイラーボブは、「ただそれだけ」の中で(p142)、「私」という参照点が消えると、心理的な苦しみを取り除くことができると言っています。

その他のボブの講話の中でも、非二元を理解すると(「私」という参照点が消えて)、心理的な苦しみが消えると何度も言っています。逆の言い方をすると、ボブの教える非二元を理解して起きることは、心理的な苦しみが消えることだけだということです。

最初私は、セイラーボブの言っていることを理解したら、エンライトメントが起きるのかと思っていました。でも、セイラーボブの言っていることを理解してもエンライトメントは起きません。精神がス~っとして世界が変わるとか、一瞥体験をするとかいうこともありません。意識がシフトするとか、体調が劇的に良くなるということもありません。引き寄せの法則が働いて、お金が入ってくるとか、物事がうまくいくようになるということもありません。

教えを理解しても、こちらの側で何かが突然起きるとか、何かが変わるということはありません。セイラーボブの教えていることは、何かになることや、何かを手に入れることではありません。

私はこのブログで「非二元」という言葉を使っていますが、私の知っている非二元はセイラーボブ経由のものだけです。そのため、他の非二元の教師たちが何を教えているのかを正確には知りません。もちろん、他の人の本も何冊かは読んだことがありますが、その人たちの説く非二元が、セイラーボブの説く非二元と正確に同じかどうかは知りません。

おそらく他の人たちは、「知性エネルギー」や「参照点」という言葉を使わないでしょう。覚醒や過去生があると説く人たちもいるでしょう。ただ、「行為者の不在」「時間の不存在」など、基本的な部分が同じなら、一応は広い意味で非二元の語り部として尊重したいと思いますし、彼らも基本的には同じことを教えているのだと思っています。

セイラーボブの教える非二元は、「心理的、あるいは精神的な苦しみからの解放」だけを主眼としています。世俗的な成功法則ではありません。そのため、あまり人気がありません。毎週日曜日に生中継されるボブのfacebookのミーティングを生中継で見ている人は、毎回、15~35人程度です。翌日配信されるYouTubeの再生回数は、累積でも500~1000回程度までです。世界中でたったそれだけです。

人気のない理由はいくつかあるのですが、一番大きな理由は、ボブが毎回同じような内容の話を繰り返すので、一度理解した人はそうたびたび見ないからです。ミーティングに参加している人の顔ぶれを見ても、入れ替わりが激しく、私が通っていた頃(7~8年前)の人はほとんど見かけません。

信者となって何回も聞かなければいけないような教えではないし、数回聞けば理解できる話です。私の場合は、英語力不足、何か特別なことが起きるのだと勝手に思い込んでいたこと、長旅の途中で時間があり、メルボルン滞在が楽しかったことなどの理由により、何度もミーティングに出ましたが、今となっては笑い話です。

また、もう一つの理由は、幸せに暮らしている人はボブのところへは来ないからです。人生が順調にいっていて、悩みもなく幸せなら、ボブのミーティングに参加して「あなたは実在しない」なんていう話を聞く必要はありません。人生が順調にいっている人たちが、もし何かのセミナーや教えに惹かれるとしたら、その幸せがもっと長く大きくなるような教え、言うならば、世俗的な成功法則のようなものに惹かれるはずです。ロンダバーンの本はメルボルンやシドニーの本屋で見かけましたが、セイラーボブの本は見たことがありません。

ボブが教えていることは、心理的・精神的な苦しみからの解放だけです。ボブの教えを理解しても、心理的な苦しみが終わるだけなのです。実際にはそう簡単にはいきませんが、ではどうして心理的な苦しみが終わるのでしょうか?

苦しみの根源である「私」は存在しないと知るからです。苦しみを「私」と結びつけている参照点が消えるからです。すべての問題の根源である「私」が消えるからです。極端なことを言えば、私が死んだらすべての問題はなくなります。でも、自殺しなくても、思考の「私」は死ぬことが可能だと教えているのです。それは、もともと生まれてさえいないと教えているのです。

ではどうやったらいいのか。
ボブは、エクササイズや瞑想を説きません。また、具体的な方法を教えるようなこともしません。せいぜいボブが教えるのは「フルストップ!」と「『私』が実在かどうかを何度も何度も調べる」ことだけです。

私の場合、「私」が完全に消えたわけではないし、苦しみも時々はやってきます。このブログを読んでいただいている人の多くも、具体的に非二元を生きるにはどうしたらいいのかと思ってみえるかもしれません。

「私」は実在ではない、ということを、日々の生活に活かしたり、具体的な悩みや苦悩にどう適応したりしていくかは、それぞれ個人にかかっていると思います。悩みや苦悩が多様なように、その対処の仕方も人それぞれだと思います。

私の場合、何か問題や苦しみが起こった時にやることは、「フルストップ!」と言って思考を止め、「私」が実在かどうかを何度も何度も調べることだけです。それで問題や苦しみが消える場合もあるし、少し和らぐだけの時もあります。

私たちは、心理的な苦しみから逃れるために、エンライトメントのような手軽で夢のような方法があったらと夢見るのですが、そんなものはないということは、少し考えればわかりそうなものです(私は30年以上もわかりませんでしたが)。心理的な苦しみを解消するためには、その苦しみを見つめ、それが実在なのか、誰が苦しんでいるのかを調べる以外に方法はないのだと思います。

非二元の教えを理解するのは難しいことではありません。でも、それを生きることは、そんなに簡単なことではないと思います。セイラーボブの教えを聞いた人すべてから、たちどころに心理的な苦しみが消えるなら、評判が評判を呼び、もっとたくさんの人が教えを聞きに押しかけてもいいと思うのですが、そうはなっていません。

教えが理解できないということではありません。ほとんのどの人が教えを理解します。でも、その教えに懐疑的な人もいます。また、それが真実だと思った人でも、心理的苦しみから解放されない人は大勢います。何が足りないのかといえば、「私」が実在かどうかを何度も調べることが足りないのだと思います。それが、非二元を生きるということです。そうした作業をしていく中で、苦しみが消えていくのだと思います。

私は今現在平穏に暮らしていて、もう何も探していませんし、以前ほどの心理的な苦しみもありません。でも、いつどんなことが起きるかは誰にもわからないことです。何か予期せぬことが起こった時、苦境におちいった時こそ、自分が非二元をちゃんと生きているのかわかる時だと思います。

私たちは、「私」、分離した存在、個人であるという催眠にかかっています。それは繰り返し繰り返し学ぶことによって強化されてきました。名前、性別、自己の役割…、そうしたことは繰り返しによって学んだものです。それが一夜にして消えることはありません。それを理解することは瞬時にできますが、習慣化された古いパターンは繰り返しやってきます。というのも、パターンは繰り返しだからです。それから抜け出すことも同じようにして起こります。何度も何度も再認識してください。(SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp262より)

あなたはその体であると、何度言われたことでしょう? もっとも効果的な学習方法は繰り返しによって学ぶことです。今、あなたは真実を見抜き始めていますが、世界全体があなたを幻影の中に連れ戻そうとしています。真実を見抜き続け、それを繰り返すことによって、それはあなたのものとなるでしょう。今、幻影があなたを明晰さから連れ出すかわりに、幻影を明晰さの中へ引き込めば、真実があなたの中で強化されるでしょう。(SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp263より)

参考:理解することがゴールではありません(2021.10.16ブログ)

2022/10/06

輪廻を信じるべきか?

 佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その17」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


仏教の教えを今の私たちに当てはめたらどうなるのか? 輪廻を信じるべきか? 地面の下に地獄があるのか?

私にもそんなジレンマがあったのですが、見事に解消されました。

2022/10/05

盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む 第12回

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第12回 (2022年9月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

実体がないとはどういうことか。
私という現象が現れているにすぎない。

鏡を使って空を説明するのはボブと同じで、おもしろいですね。

2022/10/04

仏教における悟りの段階

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その16」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


仏教の修行者(比丘)が修行を続けると、どういう段階をへて悟るのか。
仏教の悟りとは、突然に起きるものではなく、コツコツと自分を変えていくトレーニング。
トレーニングを積めば、最終的には悟りにたどり着く。どんな人でも確実に上がっていける。誰にでも道が開かれている。

これは非二元の教えにも通じると思います。
セイラーボブの教えを理解すると、「私」は実在ではない、ということがわかります。ああ、自分は理解した、もうこれで大丈夫だ、と思っても、ハネムーンはそう長くは続きません。日常生活で何か問題が起きると、すぐに「私」がやってきます。

そしてまた「私」がいるか調べて、「私」は実在ではないと理解します。でも、しばらくすると、また「私」はやってきます。そしてまた調べます。あとはこの繰り返しです。そして、少しずつ「私」はやって来なくなります。でも、完全に「私」がやって来なくなることはなく、「私」が実在かを調べることはずっと続くのであり、これは一種のトレーニングではないかと思います。

2022/10/03

「ある」とも「ない」とも言えない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その15」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

「『私』はいるように見えます。どうしたらよいでしょうか?」と、チャンナは阿南に尋ねます。

自己存在は縁起として成り立っている。
今回もすばらしい話でした。

2022/10/02

仏教と自死(自殺)

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その13」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

「五蘊は無常、苦であるから、厭離せよ」
「ヴァッカリよ、恐れるな。あなたにとって命の終りは決して悪いものとはならない」

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その14」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

自分の中に、「生きている人間と死んだ人間に対するの差別」があるのに気づかされました。

念のために書いておきますが、ここで言っている悟った人というのは、執着を捨て去ることができた人のことです。エンライトメントや覚醒のことではありません。

2022/10/01

アウエアネス(意識)

セイラーボブの言うアウエアネス(意識)とは、純粋な意識や特別な意識のことではなく、私たちの普通の意識のことです。私たちの日常、思考の背景にある普通の意識のことです。

「あなたはアウエアネス(意識)である」と聞くと、何か特別な意識、変性意識のようなものがあり、それを手に入れなくてはいけないと思ってつまづきます。私もそうでした。そんなものはありません。もともと私たちにある普通の意識のことです。

普通の意識と特別な意識があるわけではなく、一つの意識しかありません。もし、普通の意識と特別な意識の二つがあるなら、その時点で非二元ではなくなります。一つの意識しかないから非二元なのであり、別の意識を手に入れる必要はないのです。

では、なぜつまずくのでしょう? それだけ私たちの条件付けが根深いからです。その条件付けはどこから来ているのでしょうか? インドのグル、全米人気ナンバーワンの教師、悟りの解釈の間違い。それはわかりません。おそらく、そうしたことの積み重ねかもしれません。

でも、人々はそうした特別な意識があると思っていて、「汝それなり」と言われても理解できません。「汝それなり」と言われて、「どうやったらそれになれるでしょう?」と探求を始めます。

「あなたは人間である」と言われて、「どうやったら人間になれるでしょうか?」と尋ねる人はいません。自分が人間であることに理屈は要りません。人間になろうと探求する必要もありません。

汝それなり! フルストップ!

それを理解するために、特別な理解や最終理解は必要ありません。そんなものはありません。普通の理解です。何か特別なことが起きたり、達成しなくてはいけないゴールとしての理解があるわけではないのです。段階的な理解も幻想です。登るべき階段はありません。もうそこにいるのですから。

「探求」は幻想です。あなたは北極点にいるのに、北極点を探して右往左往するようなものです。探求すればするほど遠ざかります。もうそこにいるのですから。

一瞥体験や覚醒を説くマスターには注意してください。「あるがままのあなたで完全なもの」「そのままでいい」と説く一方で、一瞥体験や覚醒を説くことの矛盾に気づいてください。

一瞥体験や覚醒を説くということは、今のままのあなたでは不十分だと言っていることになり、今のあなたではない別の何者かになることを説いているのです。それでは非二元ではなく、二つのあなたがいることになります。

一瞥体験や覚醒を説く人たちは、いまだに1970年代・80年代のスピリチュアル・ムーブメントの延長線上で探求ごっこを続けている人たちです。非二元は、一瞥体験や覚醒とは関係ありません。非二元は、70年代、80年代の、覚醒を説くグルやマスターが教えていたことと同じではありません。その辺をごちゃまぜにしている人たちに注意してください。

名前はあげませんが、けっこう有名な人や、本が売れている人の中にも、そういう人がいます。見分け方は簡単で、一瞥体験や覚醒を売り物にして、高額な金を取る人たちです。非二元は、無料もしくは、わずかばかりのドネーションで学べることです。

「意識」に余分は形容詞をつけないでください。「理解」に余分な形容詞をつけないでください。余分な形容詞をつけるグルやマスター、セラピスト、教師たちに気を付けてください。手に入れなくてはいけないものは何もありません。私たちはもうすでに持っています。体験しなくてはいけないことは何もありません。私たちはもともとそれです。

なすべきことは、その意識を見えにくくしている雲(思考)に気づいていることだけです。問題が起きるたびに、私は実在かどうかを何度も調べることだけです。