2022/12/04

正念(マインドフル)

昨日の佐々木先生のYouTubeには驚きました。私はマインドフルネス瞑想が仏教から来たものだということを全く知りませんでした。そして、正しいヴィパサナ瞑想や座禅とはどういうものかということを初めて知りました。

私は仏教が説く修行の話は避けてきましたが、自分の理解がいかに浅かったかを思い知らされました。昨日も書きましたが、座禅やヴィパサナ瞑想は、あくまで仏教の教え(諸行無常・諸法無我)とセットになっていることだとわかりました。


Wikipediaで調べると、マインドフルネスはパーリ語の仏教用語サンマ・サティ(漢語:正念)のサティ(念)の英訳とあります。
では、その「念」とは何かというと、昨日の佐々木先生の話では、念とは、身・受・心・法であり、もっとわかりやすく言うと体・感じたもの・マインド・万物です。

佐々木先生の説明では、仏教で教えているのは、正念と正知がセットになっているということ。正念とは何かというと、念を正しく見ること。正しく見るとは、体・感じたもの・マインド・万物は、永遠不変の実在ではないということを知ること。つまり、諸行無常・諸法無我であるということをしっかりと知ること。

そして正知とは、あらゆる行為を片時も逃さず観察すること。要するに正念・正知とは、体や万物は実在ではないということに反するような考え方や行動をとっていないかを片時も忘れずに観察、あるいは気づいているということです。

私が今までやってきた瞑想は、正知ではあっても、正念が欠けていました。非二元的に言うならば、「あらゆるものが実在ではない」や、「『私』は実在ではない」ということをしっかり理解した上で、それを片時も忘れずに体や呼吸や思考を観察、あるいは気づいているということだと思います。

「ただそれだけ」のp105には、「間断なき瞑想ならざる瞑想」という瞑想が出てきますが、これはゾクチェン(チベット仏教)の瞑想ですから、おそらく同じことを言っているのではないでしょうか。

私はセイラーボブの教えている非二元は正確に理解したつもりです。でも、自身の生活が、その教えに則してしているかというと、そうではありません。「私」はたびたび登場するし、怒ったり、落ち込んだり、人と比べたりする「私」がいます。そのたびに「私」はいないと確かめています。

非二元の教えもマインドフルネスと同じで、身につくまではある種のトレーニングが必要だと思います。「私は理解した」で終わっていたら、何も変わらない。いつも、自分は正しく理解しているか、自分の考え方や行動は非二元の教えにのっとっているかを絶えず観察していく必要があるのではないでしょうか。

逆に、人を憎んだり差別したりしている自分に気づいたら、自分はまだまだ非二元の教えがちゃんと身についていないとわかるのではないでしょうか。いくら非二元の教えを正しく理解していても、心理的な苦しみがなくならず、周りの人を差別したり苦しめたりするなら、それでは何のために非二元を学んでいるのかということになります。

私がセイラーボブの教える非二元を学んでいる第一の理由は、心理的な苦しみから解放されたいからです。随分と解放されました。そして、人と争ったり、人を傷つけたり、人を憎むようなことはもうたくさんだと思うからです。そういう思いや行動が少しでもあるうちは、まだまだ学ぶ必要があると思っています。

そして、できるだけ多くの人にセイラーボブの教えを知ってもらいたいと思っています。私はセイラーボブの非二元しか知らないので、非二元全体のことをこのブログで語っているつもりはありません。あくまでもセイラーボブの教える非二元だけです。

「正念」という言葉が気に入ったので、机の上のいつも見るところに小さな文字で書いておきました。いつも「正念」を忘れないでいようと思います。