2022/12/10

あなたは今認識しています

2022.11.27ミーティング
41:20から

参加者:ボブ、こんにちは。しばらくの間、あなたに会いたいと思っていたので、ここへ来れたことをとても喜んでいます。私は全くバカなので、ゆっくり教えてください。このことをあるゆる角度から調べましたが、まったく理解できないようです。何か根本的に間違ったことをやっているのか、何かにはまってしまっているのかよくわかりません。とてもイライラしたので、ここへあなたに会いにきたのです。

私は観察する段階を超えていくことができないようです。物事がやって来るのを感じることはできます。物事が現れた時、思考がどこからやってきたのかと感覚器官を遡ってみても、それがどこからやってきたのかはわかりません。それでも、そこには依然として、分離した見る働きがあります。

もしそのことを考えなかったら、そこには分離の理由はありません。理由がないということは分離したものはないということです。でも、そこに観察行為があるということは、見ているものから分離した何かがあるということを意味します。

それで、どうしたらいいのかわかりません。他の調査の方法があるのか? 何か別の方法で座ったらいいのか、わかりません。何か指導していただけるといいのですが。

ボブ:それをやろうとしている「私」を落としてください。それでもあなたには見る働きがあります。あなたはそれです。(笑い)

参加者:ええ、そうすべきだと思います。私はそれと一体になろうとは思ってはいないのですが、そこには絶えず一つの視点があるのです。私の場合それは常に視覚的なものです。目を開けていても閉じていても、それは、ある視点から見ています。私はその視点を落とせるようには思えないのです。

また別の例をあげると、私を絶えず悩ますナレーションが続いています。あらゆる時にそれがあるのです。人は私に思考の合間を見ろというのですが、私の場合は思考が絶えずつながっていて、合間はどこにもないように見えます。まるで私の頭の中で言葉の下痢がずっと続いているような感じです。そこでもまた分離しているように思えますが、何も見つかりません。

ボブ:ええ、何も見つかりません。ニサルガダッタは言いました。「あなたがそれを観念で理解しようとする失敗する。あなたは必ず失敗する。なぜならそれは、非観念の意識だからだ」。その意識を観念で置き換えないでください。あなたは自分が存在するということを否定することはできません。あなたは、「私はいない」ということはできません。でもそれが何かと言うこともまたできません。なぜなら、そうするとそれは観念になってしまうからです。

参加者:でも、何かをする時、何かを言ったり感じたりする時、論理的に考えたりする時、時々は分離がそこにあることを忘れます。私が体験していることに対しては、分離しているという理由が見つかりません。それがどうしてなのか理解できません。

ボブ:なぜそれが見つからないかといえば、分離はないからです。

参加者:でも、私は分離があると認めている気がします。あるいは、分離を創り出しているか、あるいは起こっていうように見えます。そこにそれがあるべきではないという理由がありません。何か別の見方があるのですか? 何か別の方法で感じるやり方がありますか? わからないのです。何かヒントか秘訣を教えてもらえないでしょうか? 提案していただけるといいのですが。

カット:ボブはそれを、自然な状態と呼びます。自然な状態とは、自然の中のような状態という意味です。木のことを考えてみてください。風を感じる木は、風を感じない木と何の違いもありません。そこの二匹の猫を見ると、彼らも特別な目から見ています。認識は常に直接のものです。空間の中では、自然全体が機能するためには、どこかに感覚を感じる場所が必要であり、それがなくなることはありません。

かつてここに、古代の文書を研究しいる男の人がいて、その人は、誰も、ボブもいわゆるエンライトメントしていないと確信していました。なぜなら、ボブは壁にぶつかることなく、ドアのあるところを通るからです。明らかにボブには体の位置の感覚があるからドアを通ることができるのです。

彼は期待していました。突然彼の脳が活動を止めて、目も活動を止めて、彼は回りのものと同質なものとして輪郭が消え、音も聞こえず、見ることもできなくなると期待していました。人々は時々こんな質問をします。「どうして私はニューヨークの雪を見る事ができないのでしょうか?」。それが体の機能だからです。

命は分割できないのです。私の命、ボブの命、木の命は一つのエネルギーです。(天井を指さして)電球のエネルギーが一つの電気であるのと同じようなものです。でも、この電球はこの方角を照らし、あの電球はあっちの方角を照らしています。そしてそれは決して変わりません。

ですから、見破ることによってすべては変わるが、同時に何も変わらないと言うのです。なぜなら、もともとそうだからです。もしそれがもともとそうであるなら、あなたはもともとその角度から見ているのです。そして私はこの角度から見ています。それが意味することは、20年前、30年前、もともとそうだったということです。

自己はもともと想像されたものです。もしその自己が想像されたものだったとしても、見る事はそれでも同じように起こっています。視覚に何かが起こるはずだという理解しがたい期待があります。それは奇跡と呼ばれる時もあれば、ビジョンと呼ばれる時もあります。ビジョンはあなたが分離を見通すことを可能にします。

でも、あなたの体が分離して現れないということではありません。でも、私たちは、これは顕現であると知っています。それは、あなたが夜見る夢のようなものです。そこで体は空間の中で分離しています。その他のものも空間の中で分離しています。でも、夢が終わると、あなたは、そこには分離はなかったと気づきます。

それは単に一つのイメージが起こったのでした。そして、これも(この世界も)また分離しているように現れていますが、本質として、それは真実を知る働きであり、それはすべて振動です。それが振動して体となり、音となり、光の粒子となり、それが、この機械(頭を指して)、コンピューターによって翻訳されます。それはすべて分割することができないものです。

あの猫も同じです。犬も木もそうです。それが自然な状態です。しばしば、エンライトメント、明晰さ、目覚めという言葉が、あまりにも多くの混乱をもたらしました。それは私の場合もそうでした。私はエンライトメントを追い求めていました。私はハイになりたい。24時間ハイになりたい。恍惚として至福に満たされたい。絶え間のない快楽に優るものはありません。

もちろんそれは、いわゆるエゴが手に入れたいと思っている夢です。なぜなら、そのメカニズムがエゴと呼ばれるものであり、エゴなんてないからです。それはそういう物語と同化しています。その物語と同化したアイデンティティがやる仕事は、もっと快楽を見つけて、痛みを避けることです。それが、不可能なことを拡大化させて、エンライトメントは絶え間のないエクスタシーやオーガズムや何かだと想像しているのです。

でも、それはまた、あれやこれやという思考であり、コントロールできないプログラムにすぎないのです。あなたがソフトウェアを調べたら、もちろん笑うはずです。それは快楽を追い求めています。(後ろを指さして)向こうでシャクティが猫にエサを与えていますが、猫は一つ一つのエサを追い求めて楽しんでいます。それが好きなのです。それが楽しいのです。それが機械が働くやり方です。

でも、彼らには物語がありません。お腹が一杯になると、追い求めるのを止めます。私達には物語があり、それは常により多くを欲しがるように設計されています。でも、その明解さは、ボブが言うように、私たちはもともとそれであり、私たちはもともと自分がそうであるということを知っています。

他にも、私達が知っていることで、退けていることがあります。例えば、ここへよく来ていた男の人のように、もしビジョンを達成したら、世界が完全に消えるだろうということ。ええそうです。体が完全に死んだ時にそれが起こるでしょう。(笑い)それか、深い眠りの時にそれが起きるでしょう。

でも、今この瞬間、聞くことや、見ることがある特定の方角から起こっているなら、それがそれなのです。それはもともとそうなのです。それとは違ったようにあるべきだと思っているのは思考にすぎません。この瞬間は完全ではない、それは何かになるべきだ、例えば、私は、エンライトメントすべきだ、もっとこの瞬間が快感であるべきだ。いいえ、これがそれです。これ以外に本当に何もないのです。