そこで、今日はセイラーボブがどういうふうに行為者の不在を説明するのか書いておきます。ここで言う「行為者の不在」とは、「『私』は実在ではない」「『あなた』実在ではない」という意味です。
セイラーボブは二通りの説明をします。一つ目は、「実在の定義は何ですか?」から始まって、「実在とは永遠不変のものです」、「体は永遠不変ではありません」と言います。そして、「あなたの体は土・水・火・空気・空間という要素でできています。体から火を取り除くことはできますか? 体から水を取り除くことはできますか? 体を空間と切り離すことはできますか? できません!」と説明します。
この要素(元素)の考え方は原始仏教の中にもあるし、古代インド哲学の中にもあります。体から要素を切り離すことはできないという説明は一種の縁起です。そして、この場合、体という存在を認めています。体は永遠不変のものではないとしても、とりあえずは存在すると認めた上で、それは永遠不変のものではないから実在ではないと説きます。また、まわりのものとは切り離せず一体のものだから実在ではないと説きます。
そしてもう一つの説明は、具体的な説明はなく、例え話によるものです。例え話はたいてい鏡か映画のスクリーンです。「鏡に映る像はそこにあるように見えても何もない。あるのは鏡だけ」「映画のスクリーンには世界が広がっているが、映画が終わればそこにはスクリーンがあるだけ」。この場合、体は幻影であるとして、その存在を認めません。セイラーボブの説明はたいていこの二通りです。量子力学を持ち出して説明するときもありますが、それほど頻繁ではありません。
不思議なことに、無我という言葉で行為者の不在を説く仏教においても二通りの説明があり、その説明はセイラーボブの説明とほとんど同じです。一つ目は縁起による説明。これは初期仏教で用いられます。すべての物事は縁起によって起こるのであり、そこには「私」はおらず、私を構成する五蘊(ごうん)があるだけであると説きます。この場合も、一応体はあると認めます。
そしてもう一つの説明は大乗仏教で登場した空(くう)の思想です。唯識では、体も何もない、一切は空だと説きます。佐々木閑先生はスクリーンと鏡の説明を使ってみえました。この鏡の説明は、おそらくヴェーダから来ているものであり、仏教でも使われます。大乗仏教による「空」の説明は他にもいろいろあるのですが、ここでは書ききれないので、興味のある方はこのブログにある龍樹や唯識のところを読んでみてください。なお、仏教(アビダルマ)にも粒子論的なものがあります。興味のある方は仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を読んでみてください。
セイラーボブの教える非二元も、佐々木閑先生や横田南嶺老師の説く仏教も、同じような説明をしているのはとても興味深いことです。私は、この行為者の不在が腑に落ちるまでずいぶんと時間がかかりました。最初の頃は、特別な理解が起きて、自分が消えるような体験が起きるのではないかというトンデモな想像をしていて、さっぱり理解できませんでした。
セイラーボブの教える非二元は、極端なことを言えば、「行為者の不在」と「時間の不存在」が腑に落ちれば理解すべきことはそれで終わりです。ただ、それが理解できたからといって、心理的な苦しみが即座に全部消えるわけではないことは言うまでもありません。
私はセイラーボブの説くやり方も、佐々木閑先生や横田南嶺老師の説くやり方も素晴らしいものだと思っています。それで十分納得できますが、個人的には唯識のところで書いた説明が一番しっくりきています。さらに、以前このブログで取り上げた前野隆二先生の説明(脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳)も好きです。
「行為者の不在」の理解の仕方は人それぞれでいいと思います。極端なことを言えば、「直観でそう思う」というのでもかまいませんし、「私は一瞥した」とうのでもかまいません。本人が心底納得すればいいだけの話です。なぜなら、どこまで突き詰めても、今のところ科学的な証明は不可能ですし、それを実際に体験することはできないからです。
一番大切なことは、自分で調べて納得することであり、それには説明や理屈は不要です。説明や理屈は、あくまでもマインドのための補助的な材料でしかありません。