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2025/08/17

3 months later... Pointers on S with few snippets of Bob's life 2016-2021


S-START(始める)
ボブ:真実から始めてください――あなたが今この瞬間にそう認識しているかどうかのかかわらず――「あなたはもともとそれなのです」。何かや誰かになろうとして探求する必要はまったくありません。もしあなたが今、もともとあなたはそれなのだということを受け入れるなら、うわべ上でそれを見えにくくしているのは何なのかに気づくだけでいいのです。私たちがここで話しているのは非二元についてです。一なるもの、非二元、二つではないもの。あらゆるものが、その一つものです。もっと正確に言うなら、一つでさえないのですが、それはまた後にします。今、あらゆるものはそれです。何も除外されておらず、あなたも除外されてはいません。SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality

***********

これは三ヶ月前に公開されたものです。お馴染みのポインター満載です。

2025/08/09

6 months later... Pointers on S and A plus snippets of his life in 2022-2023


S-Separation. Split.(分離 分割)
ボブ:私たちに推論する力がつき始めると、分離の感覚がやって来ました。「私」という思考がやってくるやいなや、その反対、「私ではないもの」や「私以外」がやって来ました。それとともに、分離したものと、「私」以外のものを信じるようになりました。

他にもたくさんのポインターが出てきます。

2023/10/06

意思の果たす役割は何ですか?

ミーティング2023.10.10 36:53から

質問者:意思の果たす役割は何ですか? 私の言っているのは、注意を意図的に向ける能力、意思のことです。

ボブ:もしそこに生(life)がなかったら、あなたに意思はありますか?

質問者:ですから私はあなたにそのことについて話してもらいたのです。それが重大な鍵だと知っています。それは未解決の質問です。

ボブ:あなたは今、生きていますか? それで、あなたの役割は何ですか?

質問者:私は今、認識しています。

ボブ:あなたの役割は、その質問をすることです。

質問者:そうなんですか?

ボブ:よくわかりませんが、あなたは質問しています。

質問者:どのようにして、ボブという人間が、自分はそれであるということを知るようになったのですか? その当時それが起こった時、ボブの注意力の果たす役割は何でしたか?

ボブ:私が指摘するのは、役割があると思っていたボブには、役割はなかったということです。彼には役割があると思っていたために、問題をかかえていました。そこに誰かがいると思っているときは、いつも問題があります。そこには、ただ生(life)だけがあり、あなたはその生(life)なのです。あなたのまわりに現れているあらゆるものは、その生(life)の表現です。誰、あるいは何がそれから分離しているでしょうか?

質問者:私に尋ねているのですか? それとも(一同笑い)

カット:ええ、それは考えるまでもないことです。でも、それはたびたび尋ねられる重要な質問、自由意志という幻想についてです。それはたやすく見破ることができます。たとえば、意思が注意力となって、特定のものをボブ、花、部屋として見つめます。そこには選択をしている誰かがいるのか? それとも、単なる思考が意識の中に現れているのか? そしてその思考に続いて、意識の中に行動がやってくるのか? 自身が、特定の物事が存在するということの信者であることを選んだのか? 特定の音楽や食べ物の好みを自分で選んだのか? 

それともそれは、体の条件付けによって、単に意識の中に現れたのか? 私たちがその中に深く入っていくことによってそれがわかります。行為者、コントローラー、自己という幻想が、いかに余分なものであるかということがわかります。生ははるかにシンプルなことです。幻想が邪魔しなければ、生はもっとシンプルに展開していきます。なぜなら、苦悩も邪魔しなくなるからです。

動物を見てみると、どうやって獲物を捕まえるのか? たとえば、ライオンがアンテロープの群れを襲う時、どうやって一匹を選ぶのか? そこに意思、意識的な選択があるのか? いいえ、それは本能です。体の条件づけによって獲物を選び、本能的にそれを追いかけるのです。私たちも同じです。でも大きな違いがあります。私たちの頭の中にはコメンテーターがいて、いつも物語を語っています。

そこには、食べる事、交尾をする事などへの欲求があります。そしてそこにはコメンテーターがいて、「いや、これは私だ。私がやっている。私が選択している」と言います。そして、幻想の「私」にだまされるのです。その「私」は物語の中にだけ存在します。それが人間の条件付けとなり、苦悩、感情的心理的苦悩を生み出すのです。

途中省略

1:04:25から、カビーシャが、スーフィの詩人ハーフェズの詩の歌を歌いました。

Beyond the idea of right doing.
Beyond the idea of wrong doing.
There is a field.
A beautiful field.
I'll meet you there.

善悪の思考を超えたところにある場所
そこには美しい場所がある
そこであなたと会いましょう

****************
ボブが lifeと言う時、「命」と訳した方がいいのか、「生(せい)」と訳した方がいいのか、いつも迷います。時には「命」と訳し、時には「生」と訳しています。いわゆる生物ではないものも lifeの現れとして現れているとボブが言う時、命と訳すと違和感があるような気がします。
あらゆるものが、一つの lifeあり、一つの生、一つの命なのだという意味です。言葉には限界があります。

2023/09/29

もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる

2023.9.24ミーティング  59:55から

ギルバート:調査することは不可欠です。そして、その調査は誰がやっているのか? でも、ただ単にそれは印象(impression)にすぎないと認識することです。まわりを見渡してみると、印象がどこかに現れています。観念としては、それはここ(自分を指さして)、私、自身、何と呼んでもいいですが、「私」がそれを見ているとなります。

でも、おそらくそれは真実ではありません。おそらく、印象は、まさしくそれがある場所で起こっています。例えば猫を見る時、猫という印象は、まさしく猫がいる場所に現れています。でも、それはここ(自分を指して)に現れているという催眠にかかっています。そして、「私が見ている」というのは、分離した考えです。

なぜなら、顕現の中のどんなものの間にも実際には距離はないからです。それは、アウエアネス(意識)、あるいはコンスシアスネス(意識)の動的な現れであり、それには分離はないからです。あなたはそれです。それゆえ、私は分離した存在・人であるという思考は催眠術のようなものです。それは泡のようなものであり、はじけます。きれいな泡がはじけると、消えてしまい、子供は泣きます。

あるいは虹。虹を見つけて掴もうとしても、消えてしまいます。あなたが子供だったら、虹のふもとにあるはずの壺に入った金貨が掴めなくて、がっかりします。でも、その印象はどこに現れているのかを調べると、そこには分離はありません。知る働きは、エネルギーの動きであり、意識の動きです。すべてはそれなのです。分離はなく、すべては知る働きの活動なのです。

その活動は、私たちが見る世界の活動と同じものです。私たちは犬が野原を横切るのを見ます。それは同じものの同じ活動なのです。それは物ではありません。すると、すべてのものは分離しているという考えは崩壊します。それは、時間と空間の中の出来事ではないのです。

最近、インタビューを受け、「あなたの旅はどうでしたか?」「あなたの物語は何ですか?」と尋ねられましたが、それは間違っています。そうやって人々は個人に関連づけるのです。彼らは物語を聞きたいのです。「どうやってそれを手に入れましたか?」「それはどんなものですか?」。そうしたことは、誰かに投影した物語にすぎません。

「ボブ、あなたはエンライトメントした。それはどんなものか、教えてください」「エンライトメントするとはどんなふうですか?」といった具合です。私たちは、真似をすることで話すことを学びます。親が話すのを聞いて、音を真似します。鳥や動物たちも同じことをします。私たちには真似する能力があります。でも、それは私たちの本性ではありません。

私たちの本性は、すでに完成されたものです。それに何かを付け加えたり、取り除いたりする必要のないものです。それは輝いています。すべての人からその知性エネルギーが輝いています。いわゆる憂鬱や苦悩のせいで、曇っているように見える人もいますが、それは単なる幻影です。

空(そら)にとどまる雲はありません。太陽を不鮮明にする雲はありません。太陽ははるか遠くにあります。ボブが指摘したように、太陽が雲を作ります。海から水が蒸発して、水蒸気となり、雲となります。望遠鏡で雲を見ると、とても興味深いものが見えます。それは静止しておらず、動いています。水蒸気が空間の中へと消え、 空間から水蒸気が現れています。大きな白い球が絶えず変化しています。

宇宙には、どこにも静止した地点はありません。でも、自己の中心という思考が、うわべ上の静止した地点となり、あらゆる苦悩を引き起こします。それは実在ではありません。誰が問題を手に入れているのかを調べてみてください。何年か前に、ボブに向かって何か不満を言った時のことを覚えています。ボブは私にこう言いました。

「もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる」(笑い)

2023/09/22

それは言葉によるものです

2023.9.17ミーティング 0:37から

ボブ:みなさん、おはようございます。みなさんに会えてうれしいです。生(life)、そしてエネルギーがこの部屋の中に現れているのがわかります。私たちみんな、それぞれが、それをこの部屋にもたらしています。そしてそれが、私たちの話している非二元についてです。世界で最もシンプルなことです。非二元、二つではない。

それは、いにしえのすべての聖典で語られています。異なる言葉で語られ、うわべ上では分割しているように思えますが、それでもそれは非二元について語っているのです。一つのもの。もしそれが指し示していることが本当なら、どこへ行って、何をする必要があるでしょうか? もし、一つのものしかないのなら、探求をする必要があるでしょうか?

それが、それ以外のものとなることができるでしょうか? それから何かを取り去ることができるでしょうか? それは、私たちの目の前にあるのに、認識されておらず、無視されています。というのも、私たちは言葉を学んだからです。言葉によって、その他の観念、思考を手に入れ、分割できないとはっきり言われているものを、うわべ上で分割したからです。

それは、互いに依存しあっています。あらゆるものが、何か他のものと依存しあっています。そうしなければ、存在しえなかったし、これからも存在しえません。でも、言葉を使うために、分割できないものを、うわべ上では分割しています。

一つは、究極のものです。二つはそれ以外のものであり、それが一以外のものとなって現れ、問題となります。もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? 物事は起こり続けています。それは死んだものや終わったもの、静止したものではりません。機能は働き続けています。一つのものを分割することができるでしょうか? 

一つのものが存在しなかったら、他のものは存在するでしょうか? 私たちは、エンライトメントしようとか、何かを成就しようと考えます。でも、もしあなたが、もうすでにそれだったとしたら、何になろうとして、何を成就しようというのですか? それゆえ、今それに気づいていようがいまいが、あなたはそれであるという事実から始めなさいと言われているのです。

どんな方法であろうと、そのことを認識していれば、それが存在するすべてあるということが絶対的に確かなことです。そしてそれがパターンとなり、無数の異なる姿形となって現れています。でも、それを分解してみると、すべては生(life)、エネルギーなのです。私たちはそれに異なるラベルを貼り付けます。神、偉大な存在、劣った存在、あれやこれや。そうした言葉によって、それを分割します。

みなさんの中に、自分は分離して存在していると思っている人はいますか? 調べてみてください。それは不可能だとわかるでしょう。そこには何か別の異なるものがあるように思えるですが、それはすべて一つのものです。そこには、異なる別のものはありません。そして、それは真実です。それは、何の中にありますか? 調べてみてください。この部屋の中の「私」や人々は今、この部屋の中にいますか?

その部屋は、何の中にありますか? それは空間(space)の中にあります。では、空間とは何ですか? 空間には中心がありますか? 境界は? ここから始まったという場所や、終わりはありますか? それとも、それはただあるがままですか? いわゆるこの体はパターン、姿形となって現れています。それは一見強固なものに見えますが、それを顕微鏡で見てみると、そこにはたくさんの隙間、空間があるということがわかります。

空間は、無/何ものでもないもの(no thing)です。中心や境界を見つけることはできません。私たちは、あちこちで空間を見ますが、その中心を見つけることができますか? 一羽の鳥が空を飛んで、空間の終りまで飛ぶぞと言うようなものです。それはどこにたどり着くことができるでしょうか? どこが終わりでしょうか? 始まりは? 無/何ものでもないものは認識する空と呼ばれています。空間は空です。

空。無/何ものでもないもの(no thing)。無/何ものでもないものから、何かがやってくることができるでしょうか? もし、私たちみなが、空間の内容物であるなら、空間の外へどうやって出ることができるでしょうか? できません。それは確かなことであり、いつもそうでした。でも、思考、感情、感覚によって観念化が始まります。それを見失って、あらゆる種類の観念、イメージが起こります。それは言葉によるものです。

2023/09/15

言葉は決してそれではありません

2023.9.10ミーティング 50:26から

ギルバート:何年も前、ボブはよくオークの木のどんぐりの話をしました。それぞれのどんぐりは、オークの木で地球をおおう潜在能力を持っています。それを臼にいれて粉々にすると、それは粉末になって吹き飛ばすことができます。すると、その潜在能力はどうなるのか?と、ボブはよく言ったものです。

それはどこからやってきたのか。一本のオークの木には、おそらく2000から3000のどんぐりが実ります。それらはお互いのことを知りません。彼らは、とても似かよった兄弟姉妹です。でも、何らかの共通点があります。それらは、地球、つまり大陸をおおう潜在能力があるのです。

では、私の潜在能力はどこにあるのか? あらゆるものが現れ出る究極・無限の潜在能力とは何なのか? そして、私はそれと分離しているのか? どうして私がそれと分離することができるだろうか?  観念上では、自身をそれから分離することはできます。可哀そうな私は何にもなりませんが、もし私がどんぐりだったら、オーストラリアをおおうことができるでしょう。

自身を調べてみることは、必須のことであり、本質的なことです。もし、苦難と混乱の人生を歩みたくないのなら、内側へ向きを変えて、見てください。目を閉じて、内側へ向きを変えて、その空間を見るのです。その空間には、後ろも左右も上下もありません。そしあなたが実際に注意深く調べてみると、それは空です。それは、あたかも空の舞踏場のようなものです。

そこでは、誰も自転車に乗っておらず、街角で枯れ葉をはいている人もいません。単なる空です。それは死んだ空ではなく、認識する生きている空であり、生(life)そのものです。おそらく、体は現れておらず、感覚が現れているかもしれません。目を開けた時だけ、体が形となって現れますが、すでに指摘されたように、私は体でもマインドでもありません。

私が体でもマインドでもないとしたら、私とは何なのか? 私とは何なのかを、対象物として実際に知ることはできません。それは純粋な主体、無限の潜在性の現れに違いありません。それは、一粒の種のようなものです。ニサルガダッタが言ったように、それは意識の種なのです。それは永遠に新鮮で永遠に新しいものが自身を表現しているのです。

オークの木を切り倒して、小さな破片にしても、それはどんぐりには戻りません。過去を未来にすることも、未来を過去にすることも、オークの木をどんぐりに戻すこともできません。また、その必要もないのです。なぜなら、生(life)が私たちとして、永遠に新鮮で永遠に新しいものとして、観念なしで、言葉なしで表現しているからです。

「私」とは何か? それを否定することはできません。言葉では、言葉がやってくるところのものを表現することはできません。今までの人生で語ったことすべてを、取り戻すことはできません。それは表現です。良いものもあれば、それほど良くないものもあるでしょう。そういったたわ言に対して、自らを罰することも可能です(笑い)。他の人が私を罰することでしょう(笑い)。ええ、実際そうでした。

「私」とは何なのか? 「私」とは何なのかを、対象物として知ることはできません。それは主体であり、無限の潜在能力。常に自身を表現する永遠に新鮮で、永遠に新しいもの。過去に語られたすべての言葉をもってしても、それを言い表すことはできません。誰かによって語られ、あるいは書かれたものでも、永遠に新鮮で、永遠に新しいものを言い表すことはできません。それは、腐ってしまうような、新鮮で新しいパンではないのです。

それは毎瞬毎瞬新鮮で新しいもの。毎瞬という言葉さえ時間を意味せざるえませんが、それには時間はありません。時間も死もない存在(spirit)なのです。私たちは言葉でそれを表現しますが、言葉は決してそれではありません。

2023/09/08

誰が努力をするというのですか?

2023.9.03ミーティング 46:13から

参加者:ボブ、ありがとうございます。あなたがおっしゃることには多くの気づきがあり、理性的なレベルではよくわかります。でも、それを体験的に習得することは私には困難です。私は聞きたいのです。私はインドの出身ですが、私たちは、言うならば異なる思想体系や内面の技術に接してきました。

長年かかって発展してきたヨーガ、タントラ、あるいはダルマなどの体系には価値がなく、そうしたことを試みることは的はずれだと、おっしゃるのですか? 私たちが理解、把握すべきことは、今この瞬間、ここだけであり、どんな努力も無駄だとおっしゃるのですか?

ボブ:あなたが調査をして、努力をする人がフィクションであるということがわかったなら、誰が努力をするというのですか? でも、一方では、あなたがそれをやると信じています。あなたが、あなただと信じているものが、くるりと向きを変えて調べるのですが、そもそも、生の本質(life essence)があなたを通して働かなければ、その行為もまったく起こりません。

生(life)があなたの行くべきところへ運んでいくのです。それが常に働いています。経典の中では、私たちの問題は無知であると言っています。それは私たちが鈍いとか愚かだと言っているのではなく、目の前にあることに背を向けていると言っているのです。あなたはそれであり、それがすべてだと言っているのです。でも、私たちはそれを信じることなく、その前にあれをやらなくては、これをしなくてはと言うのです。調べて、見てください。

ギルバート:あなたは、あらゆるやり方で、あらゆることを分割することができます。でも、段階的な道、例えばヨガ、宗教、キリスト教、善良なら天国へ行けるといったことはどれもみな、未来のことです。そこには、何かをしなくてはいけない誰かがいます。そして、このメッセージは、段階的な道を信じている人にはまったく人気がありません。

なぜなら、人々はエネルギー、時間やお金を段階的な道に費やしているからです。そうした人々は、「私はスピリチュアルな道の上を歩いている」と言います。でも、彼らはあなたに、その道の上にある小石一つさえ見せることはできません。なぜなら、それは比喩的な道だからです。

スピリチュアルな道などというのもは存在しません。それは単なる言葉です。そして、人生をスピリチュアルな道に捧げるというのは罠なのです。なぜなら、あなたが将来なろうとして費やしている人というのは、費やす必要のないものだからです。

「あなたはもともとそれなのだ、というところから始めなさい」とボブは言います。そして、あなたをそのことからそらしてしまうものを見てください。私たちを、それから引き離してしまうのは思考なのです。思考の流れが過去や未来へと導くのです。それは、この瞬間の直接性の中に存在することはできません。

なぜなら、実際には持続する時間はないからです。それは単なる微妙なバイブレーションです。でも、私たちはそうした思考に巻き込まれます。一つ例をあげると、誰かが、「私は良くない。私は何も達成していない」と言います。これはマントラです。仏陀は、「私たちは思考によって世界を創造する」と言いました。

誰かが、「私は良くない。私は何も達成していない」と言う時、それがマントラとなって、人生の体験を形成します。そしてその体験が、人をこのマントラの罠にはめるのです。マントラは、あなたのマインドが絶えずあちこちへとさまよっている時にはとても有効なものです。もしあなたに、グルや誰かから授かったマントラがあると、とても有益なものとなります。

なぜなら、あなたがマントラを唱えている間は、思考の流れが引き起こす通常のナンセンスに関わらずに済むからです。マントラを唱えている間は、成就の可能性が高いように見えるのです。アウエアネスはいつでも束縛はされていないのですが、本当の私を認識するということが、マントラを唱えている間は、よりたやすく思えるのです。

でも、思考の流れに囚われて、絶えず未来に何かを達成しようと努力していると、たとえば、瞑想やヨガ、教会へ行って祈るとか、そうしたことをすることで、「私」という未来の存在に関わることになるのです。ですから、ボブが言うように、この『私』が見つかるか調べてください。

彼がよく語るように、愚か者がやってきて、「ボブは『私』はいない言っている。彼は正しいのか間違っているのか?」と言うのです。あなたは自分で調べなくてはいけません。誰もあなたの代わりにはやってくれません。そしてそれは、実はとてもシンプルなことです。内側へと向きを変えて、見てください。この「私」を見つけることができるのか? あなたがそれを見つけることはありません。なぜなら、それはフィクションだからです。

そのフィクションの奴隷でいることは、まったく不要なことです。あらゆる心理的な苦悩がそこからやってきます。あらゆる可哀そうな「私」は、この分離した存在からやってきます。でも、分離は存在しません。ボブは、最初の本やその他の本の中で明確に指摘しています。「子供は、この『私』という言葉を学び、ある時点で外側の世界に目を向けると、そこには、『私』ではないものがある。それから傷つきやすさが生まれます」。なぜなら、あらゆるものが「私」ではないからです。

もしあなたが傷つきやすければ、この「私」という考えの周りに何らかの砦を築こうとします。でもそれは苦悩となるだけです。それは実在ではありません。でも、このことは人気がありません。ニューヨークタイムズも7時のニュースも取り上げません。ニュースの対象にはなりませんが、このメッセージはとてつもなく驚くべきものです。そしてそれはとてもシンプルです。私の言うべきことは以上です。

2023/09/01

Stop it!

2023.8.27ミーティング 48:13から

ギルバート:それは、「私」にまつわる悲しい物語です。悲しい悲しい「私」の物語。あたかも、自身のイメージが地面深くの箱に入っているようなものです。誰かがやってきて、「私」をこの箱から出してくれないかと期待しているのです。

それは悲しい物語です。というのも、誰もそれを掘り起こしてはくれないからです。すなわち、自分以外は誰も調査をすることができないからです。それは、「私」ではないのですが、それでも私にかかっています。意識それ自体が調査しなくてはいけないのです。

抑圧(depression)という言葉は、何かが押しつぶされているということを意味します。私は抑圧されているという時、調べてみるのです。誰が抑圧されているのか? 誰が悲しんでいるのか? 誰がその物語にふけっていて、その奇妙な楽しみを得ているのか? 以前誰かが私に、「誰も楽しんでいないのならどうなるのか?」と言いました。

でも、自己を中心とした活動にふけるということは、何らかの見返りを受け取っている何かがいるに違いありません。その見返りを受け取っているものを見つけてみると、それは「私」であり、フィクションなのです。

あなたは、悲しい「私」の物語と一緒に生きたまま箱に入って埋められていますか? 私はあなたに二語の言葉を贈ります。「メモする必要がありますか?」。いいえ。たった二語だけです。

Stop it!

2023/08/25

あなたに選択権がありますか?

2023.8.20ミーティング  52:23から

ギルバート:ボブの最初の本には数百のポインター(ヒントとなる言葉)があり、その中の一つに、「言葉は物ではありません。水という言葉を飲むことはできません」というものがあります。水という言葉を文字で書くことはできます。パソコンで千回書いて、一万回プリントアウトすることもできますが、それが水になることはなく、水という言葉を飲むことはできません。

言葉は実在(being)ではありません。思考は実在ではありません。そして、アウエアネス(意識)には思考がありません。誰しも同じです。もしそれを深く考えると、何が起こるでしょうか? アウエアネスには思考がありません。明晰さ(clarity)。明晰さは、手に入れる特質ではなく、すでにあるものです。それを普遍的な特性、あるいは存在という事もできます。

すべては明晰で明らかです。そして、人は何ものにもなることはできません。実際それは蜃気楼(mirage)にすぎません。蜃気楼の中の水を飲むことはできません。あなたが人を探しても、見つけることはできません。それは単なる思考、イメージ、記憶のかたまりにすぎません。「私」という記憶が犯人のように見えるのです。その「私」が、記憶の図書館の長なのです。

その私は、うわべ上では好みがあります。ある物事を思い出すのを好み、他の出来事を忘れるのを好みます。でも、「私」の記憶はフィクションです。存在(being)のことを、人は究極のものと呼びますが、それを何と呼ぼうと、ラベルはそれではありません。そして、非実在から実在への旅は実在ではありません。

分離した存在という幻想は実在ではなく、それをあなたはどうすることもできません。実在が非実在に対して何かしなくてはいけないことがあるでしょうか? それに何ができるでしょうか? それが何かをする必要はありません。非実在は決して実在になることはありません。

「What's wrong with right now if you don't think about it.」の最後がこの話だったと思いますが、それは、「くつろいで、ありのままでいなさい(Relax, and be what you are.)」という大文字です。そして、あなたに選択権がありますか?(Do you have a choice?)

2023/08/18

恐怖には理由がありません

2023.8.13ミーティング 1:06:06から

アニータ:私は実際に自分に尋ねてみました。そして、ここには(体を指さして)何もないということは明らかです。皆さんがどう見ているのかは知りませんが、それは私にとっては知的なものです。でも、ここには何ないということは明白です。だとすると、どうして私は、自分が私だと思っている人とこれほどまでに同化しているのでしょうか?

私が同化しているのは、この体の中にある何かだと思えるのです。体があって、その体が「私」はいると信じているようなものです。そのことを確認するために座って瞑想して、体の境界を消すのです。私にはその訓練が必要に思えます。というのも、そうすると、そこには何もないということがはっきりするからです。でも、この自己同化がどこからくるのかわかりません。

カット:思考です。

アニータ:何?

カット:それは思考からやってきます。もしあなたがそのことを考えなかったら、それは存在しません。

アニータ:そのとおりです。

カット:思考がなければ、あなたは同化することはできません。あなたは、自分が存在するということを知っています。でも、思考なしでは、自分が誰なのか、それが何なのか、どこにあるか、大きいのか小さいのか、宇宙全体なのか、無なのか。思考なしでは何ひとつわかりません。でも、あなたは、自分が存在するということは知っています。

アニータ:そのとおりです。そして、そこにはたくさんの恐怖があるということを認めます。

カット:どうしてそれが恐怖だとわかるのですか? あなたはそれにラベルを貼り付けています。

アニータ:ええ、ちょっと子供っぽくありたいと思っている時があります。たくさんの恐怖が根底にあって、それが体に痛みとして現れているように感じるのです。そしてここへやってくると、そのことに意識的になる助けになります。

ピーター:それが助けになっている。

アニータ:そうです。夜、家に一人でいる時にはそういう恐怖があるとか、子供っぽい瞑想は全くしません。たくさんの恐怖があって、私が深く入っていくのを止めているように思います。深く入っていくと、恐怖がやってきて、それができなくなるのです。

カット:あなたはそれを恐怖と呼んでいますが、ボブの言うことを信頼していますか? あるいは、このことを理解している他の人の言うことを信頼していますか? そうした人たちが指摘していることが信頼できると思っていますか?

アニータ:ええ、完全に全く信頼していますが、しかし、

カット:「しかし」。いいですか。その「しかし」によって信頼を放棄して、ポインターを見失っているのです。あなたは聞いたことがないかもしれませんが、ボブは何度も指摘しています。恐怖は観念であり、ラベルです。でも、それはまた肉体的な要素もあって、知覚を伴い、心臓が激しく打つかもしれないし、呼吸が激しくなるかもしれません。でも、そうしたことは、すべて思考がもとになっていることです。例えば、サーベル・タイガーが実際に部屋にいるような場合を除けば、恐怖には理由がありません。

恐怖がそこに依然としてあるなら、それは思考がもととなっています。それはとても繊細な思考です。ボブが何度か他の人にアドバイスをしているのを聞いたことがありますが、恐怖に直面した時の最悪のシナリオは、あなたが気を失うことです。あなたは死にはしません。ほんの数秒気を失うだけです。あなたが受け入るべきことは、数秒気を失うだけのことです。でも、それはおそらく起きません。

なぜなら、たくさんの人たちがここへやって来て、「OK、私は見続けることにしよう。真実のため、真実が成就するために喜んで死のう」と言いました。でも、最悪のシナリオは、マインドがはったりを利かして、「おまえを殺す。それは危険だ。やめろ。私と一緒にいろ。同化していろ」と言います。でもあなたがはったりを見抜いて、「OK、私は見つける」と言います。そして、あなたは、決してそれが起きないだろうと知ります。

私がみんなから聞いたことによると、あなたがはったりを見抜くと、マインドがあなたを気絶させることは決してありません。あなたはそれを見抜き、マインドはリラックスして、何も起きません。恐怖には根拠がありません。もしボブの言うことが信頼できるなら、自分で確かめてみてください。自分で見てください。

あるいは、その恐怖に明け渡して、調査することを止めて悩んでもかまいません。その後で恐怖に直面してみてください。そしてそれがあなたを殺すと言うのなら、何を殺すのですか? 体? マインド? それはソフトウエアにすぎません。では、何が殺されるのですか? 

ギルバート:ストーリー。

カット:ええ、ストーリーです。

ギルバート:恐怖は常に未来にあります。

カット:ええ、良い指摘です。恐怖は未来、未知です。

2023/08/11

どんな言葉もそれではありません

2023.8.6ミーティング 43:43から

ギルバート:顕現の中には距離があります。「ここ」、「あそこ」があります。そして、私はまだ「あそこ」にはいないと考えます。でも、「あそこ」は存在しないのです。なぜなら、私が「あそこ」へ歩いていくと、「あそこ」が「ここ」になって、実際には「ここ」から出ることはできません。

たとえもしマインドの中で、夢の中へ入っていこう、あるいは、望んだ目的地に行こうと思っても、この直接性の外に出ることはできないのです。なぜなら、その直接性こそが生、永遠の命なのです。生には時間は存在しません。生はどこからやってきたのですか? 命はいつ始まりましたか? 科学者は、それはビッグ・バンだと言います。彼らは望遠鏡を打ち上げて、時間を遡ってそれを探そうとしますが、唯一存在する時間は今だけです。

直接性があり、時間は観念なのです。私たちは時間を想像することができ、うわべの上では空間も見ることができます。でも、空間を見ることができますか? 私たちは大きさを見ることができますが、部屋の大きさは空間の中にあるのです。目は空間の中に現れています。そして、最初に見るのが空間なのです。

そして、私とは何なのか?私はどこから見ているのか?見ているのは誰なのか?というのは、とても重要な問いです。それが直接指し示しているのは、見ることは自然に起こっているということです。あなたが、見ることを起こしているわけではありません。

朝目覚めると、見る働きはすでにそこにあります。ほんの一瞬、自分がどこにいるかわからないかもしれません。部屋の中にいて、ラベルが戻ってきます。ああ、起きてシャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、仕事に行かなくてはいけない。どんなストーリーがやってきたとしても、存在意識の直接性の中には、ストーリーも「私」もありません。そして、それを認識することは可能です。そして、それが実在のすべてです。

メッセージとしては、それを調べてみることです。もしあなたが心理的に苦悩しているのなら、その苦悩している「私」は誰なのかを調べてみるのです。実際に調べてみると、「私」は見つかりません。なぜなら科学は、宇宙のどこにも静止した地点はないと告げているからです。それは動きであり、絶えざる変化の流れです。しかし、その絶えざる変化は、変化しないものの上に現れています。

noumenon(本体:哲学用語で現象の反対にあるもの)は顕現となって現れることはありません。存在(being)、知る働き(knowing)など、すべての可能性はnoumenon(本体)の中にあり、あなたがそれを体験することはありません。それはマインド、体験を超えたところにあります。でも、あなたはそれを否定することはできません。

昔ある人が、「神は死んだ」と言いました。その本が書かれた時、いかれた知識人たちがそれに飛びつき、神は死んだ、いや生きていると議論しました。それは単なる観念です。あなたは、自分が存在することを否定することはできません。あなたが誰であろうと、あなたが存在しているということを否定することはできません。というのも、私たちはみな存在そのものだからです。

あなたは、それが何なのかを対象物として描写することも知ることもできません。なぜなら、それは主体だからです。それは一つのものであり、唯一の主体だからです。それを神と呼ぼうと、呼びたければ「私」と呼ぼうと、それは問題ではありません。どんな言葉もそれではありません。

2023/08/04

あなたはそれを理解する必要はありません

2023.7.30ミーティング 45:19から

カット:コメントが来ています。彼女いわく、「物事が静止した世界の中を私が動くというより、私はいつも変わらずにいて、私の中を物事が動いていくという表現が好きです」。ええ、また私たちは過去数回のzoomミーティングで、似たような理解について話をしていますが、それは、命が私たちを生きているということです。すなわち、目や体は命によって生かされているということです。

私たちは、体が動くのを見ると、それを見たマインドがコメントをするのです。ええ、そのようにデザインされているからです。心臓は血液を送るようにデザインされています。体は危険を避けて心地良さと安全を求めるようにデザインされています。そしてマインドはコメントをするようにデザインされています。

そして、そのいずれもが、いかなる存在によっても行われてはいません。誰も行為者を見つけた人はいません。これはある人から受け取ったすばらしい認識ですが、言ってよいかどうかわからないので名前は伏せておきます。そのシンプルなポインターがマインドを最終的に開かせるのです。

あなたが真実を見破れば、そこには何かをする誰かはいません。それは確固たることです。命が体を生きています。そのことが、あなたにそのほかの単一性のあるゆることを明らかにしてくれます。そこに誰もいなければ、そこには分離、分割、分断する人は誰もいません。そしてまた、今朝、eメールでお便りが届きました。

これも誰からかは言いませんが、理解は、あるがままを認識することからやってくるというものです。あなた(ディーン)が言ったように、変えず、修正せず、正さない。ただ、あるがまま。そして思考。思考が、私が言った、私が聞いた、私がやった、私が影響を与えたと言います。でも、それは単なる思考です。それもその一部です。

そうした思考がなければ、それは単にあるがままです。そして思考は、でも、そこには依然として「私」はまだそれを理解していない、どうしたらボブやカットのようにそれが確かなものになるのかと言います。私にはその確かさがないというのは、すべて思考です。そこには確かな人は誰もいません。確実に理解している人がそこにいると考えても、そこには誰もおらず、空です。それは単なる思考、ブルシットです。なんと明らかなことでしょう。

それがわかると、マインドが開きます。そしてその件は終わります。それは脇に置かれ、あ~あ、それは今この瞬間だ、永遠に新鮮で永遠に新しく、生きている。そして思考。私が見ている。これが私だ。私が聞いている。などなど。それです。そういうわけで、私はこの集まりの話には、それがあふれていて好きなのです。ボブが話の終りに語ったように、誰もがそれを垣間見ていて、誰もが自然な状態に生まれるのです。

誰もが、かつては言葉より先にいました。誰もが、完全に感覚器官の体験に注意を向け、物語が入ってこないで、自由な注意力が起きるような瞬間にいたのです。みんな、夢の中へと落ちて、無からどういうふうに世界がやってくるかを見るのです。ディーンが指摘したように、顕現全体、姿形、対象物は名づけられていて、マインドによって解釈されています。

目を閉じると、同じことが起こります。昨日のことを思い出すと、その中に世界全体が現れます。それは完全に意識の中にあります。意識のアウエアネス、存在の中に、世界全体が現れるのです。あなたは誰なのですか? その存在の中の想像上の生命体ですか? それとも、存在ですか? それを否定することはできません。

そしてまたコメントが来ています。ルチカ。「世界全体が、私たちの中に投影されたものであるということを理解するのはとても難しいです。そのことで何か考えを。ボブ、カットありがとう」。

カット:すばらしい考えですね。でも、注意しなくてはいけないのは、中とか外とかはないということです。なぜなら、私たちの内側に投影されたという考えもまた、投影されたものだということです。中も外も投影です。それを行っている人は誰もいません。それは単に根底にあるソフトウエアが投影して見ているにすぎないということです。昨日ミーティングをしましたが、ある友人がその投影のことを詳しく説明しました。同じ根底にあるパターン、二元性。あらゆるものの根底にあるもの。体、空、ハッブル望遠鏡、動物の行動の中、あらゆるものの中にあるもの。

白と黒、幸せと不幸はどこにでもあります。それを理解するのは難しいことです。そして、ありがたいことに、あなたはそれを理解する必要はありません。

2023/07/28

虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません

2023.7.23ミーティング 40:22から

ギルバート:昨日、ボブのためにパーティをしました(95歳の誕生日パーティ)。そして私はチョコレートケーキを作りました。

カット:あれは美味しかった。

ギルバート:あれはしびれるほど美味しいチョコレートケーキだった。今まで、それほどたくさんのケーキを作ったわけではないのですが、作ってみようと思ってやってみたら、よくできました。そして何人かの人にレシピを聞かれました。それは内緒にしておきます。でも、もし誰かに、このこと(ボブの教えていること)に対するレシピを聞かれたら、ボブのポインターの一つを教えます。

それは、マインドを見つめ、それがどのように機能するか調べなさいということです。それはとても強力なポインターです。マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べるのは実に強力なポインターです。そして、アウエアネス(意識)には思考がないということを付け加えたいと思います。その二つのポインターが一緒になれば、それで十分です。

マインドを見つめ、それがどのように機能するかを調べてみてください。そして、アウエアネスには思考はありません。うわべ上で物語、ストーリー、お祝い、死などに囚われているキャラクターは、意識(consciousness)の上に観念として現れているものです。では、その意識(consciousness)に気づいているものは何なのか? それに気づいているものは何なのかというのが鍵です。

それに名前を付けることはできません。また、否定することもできません。それが本当のあなたです。それが本当の私たちです。そしてそれは、他には何もない一つのもの。一つの意識(consciousness)であり、私の意識ではありません。あなたの意識であり、ボブの意識であり、カットの意識です。それは分割されてはいません。それを分割することはできません。何も分割されません。

それについて考える時、どうして観念が何かを分割することができるでしょうか? 思考や観念には実体や独立性がありません。ボブが言うように、あなたが調査すると、それは調査には耐え得ません。それは粉々になります。それゆえ、マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べることには潜在的な可能性があります。その潜在的可能性は仮想(numenon)、非顕現からやってきます。

顕現、見せかけには力がありません。それは夢なのです。そして夢の中にも夢があります。夢の中で見ている夢が「私」、私という信念なのです。その「私」は実在ではないということを知ると夢は落ちていきますが、意識(consciousness)という夢は残ります。しかし、その意識に気づいているものは夢を見ていません。ボブ、誕生日おめでとう。

マンジュ:ボブ、質問があります。どうして私たちは完全に自身のことを忘れてしまうのでしょうか? 私がこのことを理解した時、どうして私は自分のことをマンジュだと考えてしまうほど愚かなのかと思ったのです。一体、どうしてこれが私たち皆に起きるのでしょうか? そして最後には、皆がそのことをを理解するのですが、どうしてそのことを完全に忘れてしまって、自分のことを人だと思うのでしょうか? そしてその人が世界に出て、死ぬまで生きていると思うのでしょうか?

カット:ええ、ボブに聞いているのですね。(ボブに向かって)どうして私たちは、本当の自分を完全に忘れてしまうのでしょうか?

マンジュ:完全に。(誰かが、完全にではないと言った)

ボブ:私たちは言葉を身に着けます。言葉を学び、学校へ行き、さらに言葉を学びます。それぞれの言葉には違った意味があります。そして私たちは言葉を信じるようになります。でも、言葉は物ではありません。言葉とは何ですか? 言葉は音です。音とは何ですか? それは波動です。そこにはエネルギーの波動があります。同様に、体は土、空気、水、火、空間といった構成要素でできています。あなたは空気なのか、あなたは火なのか。あなたはその構成要素のいずれでもありません。

構成要素は亜粒子原子、純粋なエネルギーへと分解することができます。つまり、体とマインドはエネルギーに他ならないのです。エネルギーとは何ですか? 波動、動きです。波動として振動しているものが、実在であるかのように現れているにすぎません。海を見てください。海は動かないように見えますが、近寄ると何かが動いています。たくさんの小さな波があります。その一つ一つの波は水以外の何ものでもありません。それは決して変化しません。私たちは、言葉によってすべてを変えてしまいます。

聖書では、始めに言葉があったとあります。言葉が神とともにあり、言葉が神でした。あらゆる神は言葉なのです。あらゆるものが彼によって、言葉によって作られました。言葉によってあらゆるものを手に入れたのです。言葉無くしては、マインドには何もありません。私たちはそうした言葉を学び、言葉を信じたのです。信念という言葉を調べてみてください。信念は実在ではないとわかるでしょう。辞書で信念の定義を調べてみてください。

理由もなく、調べもしないで受け入れているものです。私たちはそれを調べもせず実在だと受け入れたのです。親が何かを告げると、調べもしないでそれを受け入れたのです。確かな知識や証明なしに、理由もなく、調べもしないで言われたことを受け入れたのです。それが真実なのか嘘なのか、それが真実に耐え得るのか調べてみてください。

海へ行って、バケツ一杯の青い水を汲んでくださいと言ったら、あなたは何と言うでしょうか? 馬鹿なことは言わないでと言うでしょう。というのも、海は青くはないと知っているからです。でも、海は青く見え続けます。空は青く見えます。でも、空は単なる空間にすぎません。蜃気楼の中の水。そして有名な、ロープがヘビに見える話。一本のロープがヘビだったことがあるでしょうか? いいえ。暗闇でロープを見て、ヘビだと思う人がいます。その信念ゆえに震えやあるゆる種類の反応が起こります。

私たちは、あまりにも多くの信念を身に着けました。そして、恐怖、怒り、落胆によって自身を動揺させています。でも、それが本当かどうかを認識、質問、調べてみてください。虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません。

****************

この日もミーティングのあと、レストランでボブの誕生パーティをやるということで、ボブはスーツを着ています。そして、今まで見たこともないほど多くの人がミーティングに参加しています。

みんなで食べて歌って楽しそうです。
ボブ、95歳の誕生日、おめでとう。

2023/07/21

ネーティ、ネーティ

2023.7.16ミーティング 42:00から

ギルバート:在ること(being)と、何かになること(becoming)の違いは何なのか? 違いはあるのか? 何かになるとは、観念的なものです。在ることは全く観念ではありません。なぜなら、あなたは自らが存在することを否定できないからです。

でも、どんな思考であれ、起こってくるものは否定・拒絶することができます。私はこれではないと。つまり、ニサルガダッタが語ったように、「これでもない、あれでもない(ネーティ、ネーティ)」です。そしてそれを多くの人が誤って解釈しています。たしか「I AM THAT」だったと思いますが、それを初めて読んだ時、静かに座ってマインドを見つめました。

そして、どんな思考がやって来ても、「ネーティ、ネーティ」、私はそれではないとやったのです。どんな思考がやって来ても、私はそれではない。それを繰り返し続けたら、紙袋から何かを取り出すように、マインドが空になっていきました。

次の思考は何だろう。マインドを見つめて調べ、何がやって来ても、私はこれではない。存在することとは。意識(consciousness)とは。それはすべて意識なのですが、その意識に気づいているものは何なのか? それを突き止めることはできません。ボブが言うように、思考はあらゆるものとして、形や特徴となって現れます。なぜなら、そう信じられているからです。でも、もしあなたが、それを本当のあなただと受け入れなかったら、それは単なるマインドの内容物にすぎません。

そして、それを注意深く見ると、マインドの内容物は絶えず変化しています。そして、もし思考が止まっても、私が消えて無くなることはありません。イエスは砂漠に行き、そこで40日、40夜過ごしました。それは家具や家や動物や木々などがないということを象徴しています。砂漠には何もありません。命はあるものの、私たちの思考による家具などは何もありません。

皆さんが砂漠に行ったことがあるかは知りませんが、私はあります。それは全く当惑させられるものでした。360℃が平でした。ムーブラ(?)のロケット基地で働いていた兄を訪ねて行った時のことです。列車に乗っていると、男がやって来て、「君の降りる駅は次の駅だ。朝の5時30分着」と言いました。列車が止まり、私は小さな青いスーツケースを持って降りました。たしか18歳でした。

そして列車が見えなくなると、そこは砂漠の中に小さなプラットホームがあるだけでした。列車が消えて何も見えなくなるのを見ながら、私は取り残されました。まったくの一人ぼっちでした。道路があって、兄は約一時間あとに迎えに来てくれることになっていました。私はコップ半分ぐらいの水を持っていましたが、太陽が昇ってきて、とても暑くなり始めていて、ひどく心配になってきました。

そこに立っているのは妙に現実離れしていました。丸いとは知っているのですが、平な地球の上。砂漠の中を少し歩いて、古い骨などを見つけました。そこにあったのは、社会や、もろもろのことのない存在そのもの(beingness)でした。それは表面上ではひどく困惑してしまうものでしたが、また、他の人から離れてほっとするものでもありました。

確かジャン・ポール・サルトルの言葉ですが、「地獄とは他人のことだ」。(笑い)ええ、そうではありませんか? でも、存在(being)には全体が含まれています。すなわち一つのものであり、全体は分割されていません。決して分割されてはいないのです。うわべ上のマインドによって、他人や私、その他のものに分割されているにすぎません。現象が空であるということを知るのはとても簡単です。

それを知るのは簡単なのですが、私たちは、この、ここにあるパターンを(自分の体を指さして)それに含めることを忘れます。それもまた空なのです。それは恐ろしいことではありませんか? 誰が恐れているのでしょうか? 思考の「私」「自分」です。その「私」は幻想です。

ボブが本やミーティングの中で指摘しているように、「私」を見つけることができるかを自分で調べるのです。そしてそれを、「ああ、わかりました、わかりました」と言ってやり過ごすのは簡単です。そうした人々が、「『私』が戻ってきました」というのを聞いたことがあります。彼らは至福の中にいて、「私」が戻ってきましたというのですが、どうやって「私」が戻ってくることができるでしょうか? もし「私」は幻想であり、あなたがそれを見破ったなら、どうやってそれが戻って来ることができるでしょうか?

それはありふれた感覚であり、ボブが最初の本の中で言っていますが、「もしあなたが、何が真実、あるいは実在ではないと知ったなら、どうしてふたたびそれを信じることができるでしょうか?」。できません。子供は、サンタクロースは実在ではないと知っても、残りの人生で、サンタクローズは実在ではないということを問題にすることはありません。「サンタはいない、サンタいない」と人に言ってまわることはありません。「私」は実在ではありません。

そして、「私」「自分」、その他のものも実在ではありません。そしてそれは見せかけ、一時的な見せかけであり、実際には分裂はないと知った時、それを調査すれば、それは粉々に砕けます。それは調査に耐えることができません。つまり、在ることと何かになることの違いは、存在(在ること)が究極のもの、あるいは究極のものが分割されずに表現されたものということができるなら、何かになることは、未来の時間を含んだ夢なのです。そして、未来という時は存在しません。

2023/07/14

どうやって空間が部屋の中に入ったのか?

2023.7.9ミーティング 1:10:32から

ジェームズ:これは大切なことだと思うのですが、少し前までははっきりとした質問になっていませんでした。何か言わなくてはいけないと思って自分のことで精いっぱいだったからです(20分ほど前に、どうして質問するのはこんなに怖いのかという質問をした)。でも、今は質問があります。(一同笑う)

ある種の理解を得るために必死なのですが、同時に、そのことに対して大きな抵抗があります。先週ここに来た時、心に浮かんできたのは、どうして私はここにいるんだろう、誰が探しているんだろう、何を探しているんだろう、なぜ私はここにいるんだろう、そしてそれをやっているのは誰なのだろうということです。もし、私たちはすでにそのことに気づいているのなら、なぜ私たちはここにいるのだろうかということです。

ジェーン:理由はないのですよ。カビーシャが歌の中で見事に歌ったように、それは神聖なこと。それはラベルなのですが、同じ波長の人とともにいることは、何かすばらしいことです。たとえあなたが自分を連れて行ったとしても、実際には実在があなたを連れて行っているのです。どこへ行っても、あなたが連れていっているのではないのです。あなたと共鳴する人たちといることになるのです。

カビーシャ:滋養を与えているのです。輝くのです。あなたがそれを育てるのを助けてくれる人たちとともにいることが良いことなのです。あたかも私たちは皆一つの庭の中、仲間の中にいて、アウエアネスを成長させているようなものです。

アニータ:そしてまたこれは経験的なことです。これは経験です。私たちは時々観念的な議論しますが、実際これは観念的なことではなく、直接の現在進行形の体験なのです。そして体験している人たちの中にいるということは何かとてもすばらしいこと。あなたが経験したことは、全くの喜びです。それを経験したくない人がいるでしょうか? それは現在進行形の体験であり、マインドではありません。

アンディ:省略

ボブ:何かが共鳴するのです。それが内側の性質です。内側にもともと内在する何かがあなたを引き寄せるのです。それをマインドで知ることはできないかもしれませんが、何かがあなたに共鳴してもっと聞きたくなるのです。(不鮮明のため一部省略)あなたに内在する知性がそれを認識、あるいは認識しようとするのです。それをそのままにして、流れに任せ、それがあなたをどこへ連れて行くのか見てください。

カット:あなたが、「なぜ私が」と尋ねた時、あなたが本当にそう尋ねていると感じました。でも、何が起こったかを見てください。突然皆がそれぞれに異なる物語で質問に答えたがったのです。なぜなら、それが「なぜ」がやることだからです。マインドは、なぜあなたがここにいるかを正当化しようとするのです。

生(life)があなたをここへ連れてきたのです。あなたではありません。あなたには何の選択権もありませんでした。あなたが考えたことが動機になっているのではありません。それが、生が展開する究極の神秘なのです。どうして私たちは行為を行うのか。たくさん正当化することもできます。子供の時のことや、天候やなんかのせいすることもできます。

でも真実は、私たちは行為者ではないのです。私たちは何かを手に入れるためや、何かを理解するため、参加するために来たのか。いいえ。私たちが来たのではありません。なぜなら、私たちは行為者ではないからです。ただ、生がそのように表現しているにすぎません。

なぜ自分がここにいるのかと尋ねる時、誰が尋ねているのか見てください。そこ誰がいるのか。
(雑談が不鮮明のため省略)

ギルバート:ある時ある人が、アーバン・グル・カフェの件で電話をしてきました。何年も前、デーヴィット・ゴッドマンという男と連絡を取りました。彼は、アルナンシェラ(インド)の図書館で図書館員の長をしながら、ラマナなどの本を書いた人です。彼がニサルガダッタのミーティングのたくさんのテープを送ってきたのです。その多くは音が不鮮明でしたが。(誰かの問いに答えて)ええ、ニサルガダッタです。ラマナではありません。ラマナは語りませんでした。

それはアーバン・グル・カフェにあるのですが、そのテープの中で、若い探求者がミーティングの中でニサルガダッタに、「どうして私はここにいるのでしょうか?」と尋ねたのです。どうして私がここにいるのか。するとニサルガダッタが言いました。「どうやって空間が家の中、部屋の中に入ったのか? どうやって空間が部屋の中に入ったのか?」。空間が部屋の中に入ったのではなく、空間の中で何かが家を建てている、と彼は言いました。現在形でです。

空間の中で何かが家を建てている。それはポインターとしてはとても微妙です。メンタルの活動の中で、何かが「私」という構築物や家などを建てているのです。でも、そうした物のうちで変化しないものは空間です。空間のような意識。なぜ私はここにいるのか? 私はここで何をしているのかというのは素晴らしい質問です。

パパジにも別の話があります。彼はラマナの生徒という言い方もできます。ある時彼がラマナを訪ねると、ラマナは、「どうやってここへ来た?」と聞きました。するとパパジは、「リキシャで来ました」と答えました。するとラマナは、「ではそのリキシャは今どこにいる?」と言いました。

「去りました」と答えると、「その前は?」とラマナ。「タクシーです」。
「そのタクシーは今どこにいる?」。「去りました」。
「その前は?」。「マドラスから列車に乗ってきました」。
「その列車はどこにいる?」。「去りました」。

わかりましたか? 私たちは、どうやってここへ来たかという物語を手に入れます。そしてそれが苦しみとなります。なぜなら、あなたはいつもずっと「ここに」いたからです。本質として、実際には一つの意識(consciousness)あるいはアウエアネスがあるだけです。そこには、どうやってここへきたかという物語はありません。

ボブ:空間の中のどこかに中心を指摘することができますか?ここだという場所を指摘することができますか?

ギルバート:いいえ。それゆえ、自己の中心という言葉はフィクションなのです。空間に静止した点がないというのに、自己の中心という静止した点がありえるでしょうか? 留まることなく、無の中を漂っているのです。つまり、「私」を支えているすべての物語はフィクションなのです。それがすぐにわかればわかるほど良いのですが(笑い)。

2023/07/07

あなたは常にそれでした

2023.7.2ミーティング 1:06:50から

ギルバート:自然な状態には言語がありません。それには言葉はなく、静寂です。つまり、実在(being)には言語がありません。言葉を必要としないのです。でも、いわゆる人には言葉が必要です。心配したり、答えを見つけたりするためには言葉が必要です。でも、ボブが言うように、マインドの中には決して答えは見つかりません。

もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドには何が起きるでしょうか? もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドはどこにあるでしょうか? 

参加者:それはノーマインドです。

ギルバート:ええ、それはノーマインドです。では、ノーマインドに問題はありますか? 禅のいにしえの言葉に、"No mind, beginner's mind"(無心は初心)という言葉があります。ニサルガダッタは、「意識の意識でありなさい」と言いました。それを本で読んで、次の文章へ移ることもできます。でも、ポインターの持つ意味は、それが指し示すことが何なのかを理解してこそ価値があります。

意識の意識でありなさいという意味は、そこには一つの意識があるだけだということです。そこには、私の意識もあなたも意識もなく、一つの意識があるだけです。映画館には一つのスクリーンがあり、そこにコメディ、ドラマ、悲劇などが映し出されますが、スクリーンは変化しません。それは変化することはなく、同じスクリーンです。電気が消えると、真っ暗になりますが、スクリーンはそこにあります。

夜眠ると、意識(consciousness)が薄れ、休息します。精神は休息します。でも、アウエアネス(awareness:意識)は依然としてそこにあります。もし誰かが大きな音でドアを叩くと、何かがあなたを揺り動かし、あなたは起き上がってドアに応答します。なぜなら、アウエアネスは常にそこにあり、それには時間がなく、それは物ではないからです。

それは競争ではありません。スピリチュアリティ(精神世界)は巨大な競争のようなものになっていて、そこでは、人々は競ってグルの近くへ行って、グルの足にキスをするのです。人々がグルのもとに駆け寄ってキスするのを初めて見た時、彼らは何をやっているのだろうと思ったものです。(一同笑い)

そしてそのグルは至福の中にいるかのような表情でした。裸足の足にキスを受けて、天国にいるかのようでした。でも、そのシーンは、エゴそのものでした。でも、それも単なる意識(consciousness)なのです。意識が役を演じていて、人々はそれぞれの役を意識の中で演じているのです。それは、一つの意識です。

ニサルガダッタが言ったように、意識の意識で在ると何かが起こります。意識の意識で在るということは、マスターキーのようなものです。自己成就(self-realization)のマスターキーは、「私は在る」という認識です。それが、シッダ・ラメッシュヴァールが指摘したことです。でも、私たちの問題は、その「私は在る」に物事を付け加えてしまうことです。

「私はギルバート」「男性」「オーストラリア人」「いいやつ」「時々はちょっと扱いにくい性格」など(一同笑う)。でも、話を「私は在る」に戻すと、私は在るとは何なのか? 私は在る(I am)の am は、存在するという動詞(to be)です。「私(I)」とはアイデンティティです。私のアイデンティティとは何か? そこに存在(being)するということであり、それは自然に起こっているものです。

アウエアネス(意識)は自然に起こっているものです。それは「私」に依存しているのではなく、意識(aware)しようとしてそうなっているのではありません。アウエアネスはそこにあるものです。ボブはしばしば、「あなたに意識はないのか?(Are you not aware?)」と尋ねます。そしてもちろん、私には意識がある。そして次の質問は、「意識があるために何をしなくてはいけなかったのか?」です。

何もしていないのは明らかです。そして、「私」が何かをやっているという考えが、存在の基盤を歪めてしまうのです。「私」は行為者ではありません。意識(consciousness)がすべてを行っているのです。でも、手柄を横取りする「私」がやってきて、「私がこのことについて何らかの貢献している」というのです。ナンセンスです。

探求者は幻想です。それは幻想にすぎません。探求が問題へと変わるのです。探求者、「私」は幻想です。それは全部ナンセンスです。あなたはそれです。あなたは常にそれでした。あなたはそれ以外ではなく、ボブはそれをミーティングや本の中で指摘しています。それがすべてです。フルストップ! 

意識の意識で在ること。それを理解してください。それは無(nothing)ではありません。ニサルガダッタやボブ、その他の教師たちは、そうしたこと(覚醒・あるいはエンライトメントのことを言っていると思われます)を面白半分にでっち上げたりしません。それをやる人もいますが(一同笑い)。たとえば***。彼は面白がることが大好きでした。いずれにしろ、それは意識(consciousness)なのです。
(***は、とあるインド人の名を挙げていますが、諸事情により伏せておきます。興味のある方は聞き取ってみてください。1:12:58あたりです)

2023/06/30

もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります

2023.6.25ミーティング 40:15から

参加者:あなたがおっしゃったことを理解しようとしていますが、あなたがおっしゃったのは、考えていること自体が思考だということですか?

カット:いいえ。考えている人、つまり「私が考えている」という思考の「私」が考えているのではないということです。私が考えているという事自体が別の思考なのです。私が考えているという思考は、思考の内容であり、そこに考える人はいません。そこに「私」がいて、それが考えているというのは想像です。でも、真実は、そこには考えている「私」はおらず、「私が考えている」という思考にすぎません。そこには誰もおらず、他の思考と同じように、「私が考えている」という思考があるだけです。

ジュリア:ただ、そう主張しているだけです。あなたが考えているという主張があるだけです。この幻想の中で、うわべ上それが考えているように見えているだけです。ここには何かを考えている人は誰もいない。もし、あなたが考えていると言うのなら、思考が起こるのを止めるためにはどうしますか? 脳の中のシナプスが働いて思考が起こるのですが、あなたがシナプスを働かせているのですか? それともそれはただ起こっているのですか?

参加者:瞑想している時気づいたのですが、

ジュリア:あなたは瞑想しているの?(笑い)

参加者:いいえ。言葉のあやです。思考は私のせいではなく、起こっています。それはよくわかります。思考は私によって起こるのではありません。それがわかるのにしばらくかかりましたが、それははっきりとわかりました。でも、あなたたが言うことが理解できないのです。

カット:思考はあなたによって起こるのではないと言いましたね?

参加者:ええ。

カット:では、ボブの言ったことに対する質問は何ですか? もし、私が考えるという思考は、思考を考える人ではなく、単なる思考だというのなら、それを起こしている「私」はいないということになります。

参加者:オーケー。

カット:それはすでにあなたが理解したことです。そうでしょ。

参加者:どうしてこんな簡単なことが、ぼんやりとしか理解できないのかわかりません。

カット:もし体の他の機能を調べてみるなら、例えば髪が生えること、あなたが髪を生やしているのですか?

参加者:いいえ。

カット:でもあなたは、ええ、私は髪を伸ばしている、短く切ったけど、もっと長くするつもりだと言います。まるで、あなたが伸ばしているかのように。髪が自然に伸びるように、見る働きは自然に起こっています。思考は自然に起こっています。もちろん、あなたが髪の毛にとって健康なものを食べれば、健康な髪が生えるでしょう。あなたが幸せなら、思考は、より幸せなものとなるでしょう。見る働きなどもすべては相互に作用していて、外側で起こっていることと分離しているわけでありません。

あなたが髪を成長させていないのと同じように、あなたがあなたの思考を考え出しているわけではないのです。では、「私」は一体何をしているのか? それはそこにいる必要さえないというのに。おそらく「私」はまったく余分なものです。髪は自然に生え、思考はやってきて、見る働きも自然に起こっています。

ボブ:呼吸も。

カット:呼吸も自然に起こっています。「私」には何の仕事もありません。唯一の仕事は、自然がすでにやったことを自分の手柄にすることだけです。

参加者:ボブが語ったセンテンス、「もし思考の・・・」、いいえ、ええっと、彼は何と言いましたか?

カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。

参加者:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。

カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。私が考えていると言っている思考が、実際には考えていないのなら、どうなるのか? それは深淵な言葉です。もし、私は見ていると言っている「私」が見ていないとしたら、どうなるのか? ボブが言うように、思考の「私は見ている」には目がありません。体には目がありますが、私は見ているという思考には考えるための脳も見るための目もありません。思考は単なる音です。それは何もできません。

参加者:私が今この質問をしているのは、以前、一年ほど前のことですが、このことははっきりとわかっていました。それは、深い理解(realization)というより、いくぶん知的な理解(understanding)でした。見ることは起こっています。つまり、聞くことと一緒に起こっています。そこには、聞いている人はいません。それは聞く働きにすぎません。同様に、見る働きも同じだとわかります。そこには、見ている人はいません。見る働きがあるだけです。

でも、それは深い理解(realization)ではなく、シンプルなことで、つまり、どうして以前はこんなことがわからなかったのだろうという程度のものです。もしそれが真実なら、なぜ私は理解(realize)しないのでしょうか? 何が私の理解を邪魔しているのでしょうか? 私には、解消しなくてはいけない自己同化があまりにもたくさんあるからではないでしょうか?

カット:ええ。そこには、「私」という観念があります。あなたは、「私」には見ることができず、見ることは起こっていると理解しています。その「私」は髪を伸ばすことはできず、髪は自然に伸びています。でも、あなたは、依然として、「私」が理解(realize)できると信じています。そこには誰もいないのに、どうしてそれが理解できるでしょうか? 「私」がいない時、そこには理解があります。

参加者:そのことはわかります。それはとてもシンプルです。そこには何もありません。でも、あまりにも私は自己同化しています。それは何かエネルギーのようなもの。それが何なのかはわかりませんが、悪い習慣です。どうやったら、その悪い習慣を乗り越えることができるでしょうか?

ギルバート:その習慣は単なる習慣だと知ることです。理解に到達するためには、理解すべきことの直接的な体験が必要です。この場合、今この瞬間、自分で思考を考え出すことができるかやってみることです。一つの思考を自分で考え出すことができるか。できますか? 

参加者:できるように思います。

ギルバート:オーケー。本当ですか? 

参加者:いいえ。

ギルバート:それが直接の体験です。あなたは、一つの思考も考え出すことはできないと体験しました。そうやって、理解は努力なく自然に変化していくのです。つまり、身に着けた誤った知識を消し去るための洞察力が必要なのです。その知識が「私」の元となっています。知識とは、実際には無知のことです。いにしえのインドの経典にあるように、avidya(アヴィジャ:知恵)と vidya(ヴィジャ:無知)は同じものです。彼らはそれ以上のことを言いませんが、それは深い理解であり、私たちには自分でそれを理解する必要があります。

あなたが自分だと思っているものや、蓄えたすべての知識は、無知以外の何ものでもありません。そしてそれがあなたに問題を引き起こすのです。それを調査することによって消し去る必要があります。ボブが言うように、「私」を見つけることができるかを、自身で調べることです。「私」を見つけることができますか? この「私」を、あなたは見つけることができません。

参加者:自己同化が起こるたびに、その「私」を探す必要があるということですね? 毎回。いつも、絶えず。

ギルバート:アイデンティティ(自己同化)とは何ですか? 「私」のアイデンティティとは何なのですか? この「私」が実在かどうか調べるために、「私」は何かに自己同化しますが、それは決して実在ではありません。人々、愛する誰か、物などに執着します。誰かが私の財布を盗んだ、あるいは車、その他の何かを盗んだとしても、それは私のアイデンティティではありません。私のアイデンティティとは何ですか? それは「私は在る」です。

「私は在る」という知識です。それは皆に共通のものです。でも、私たちはそんな風に生きることに慣れていません。すべては「私」に関わっています。自身が安全だと感じるために、物事を手に入れ、ため込むのです。でも、安全などというものはありません。というのも、それはすべてフィクションだからです。それは完全な全くのフィクションです。それはありふれた知識ではないので、新聞や7時のニュースではやりません。「私」はフィクションです。世界のあらゆる苦悩は、それが元となっています。

一つの思考を考え出すことができますか? あなたは、あらゆることを考え出すことができるアウエアネス(意識)、コンシャスネス(意識)から独立した存在ですか? いいえ。そこにあるのは意識(コンシャスネス)だけであり、その意識(コンシャスネス)がすべてを行っているのです。そこには、どこにも分離した存在はいません。

仏陀は空(くう)を見つけました。彼は、自我(self-nature)はどこにも存在しないと言いました。つまり、あらゆる苦悩の原因となる自己という観念、分離した個人は幻想なのです。それはとてもシンプルです。自身の空間、時間、プライバシーの中に、「私」を見つけることができるかを調べるのです。今それをやってみるのです。

見つかりません。なぜなら、それはフィクションだからです。それは、皆が信じているとてもありふれたフィクションです。そのため、世界は苦悩、戦争などで満ちていますが、それは幻想なのです。それはまったくの幻想です。

私たちは皆、一つの本質がうわべ上で別々の存在として現れたものです。その本質を知る必要があります。なぜなら、あなたはその本質だからです。「私は在る」は知識です。「私は在る」は実在の本質なのです。実在は静寂です。実在には言葉は不要です。実在は静寂であり、あなたはその静寂とともに座ることができます。

そしてあなたは、マインドを観察して、それが動きであり、じっとしていることができないということを理解することができます。瞑想することはできますが、マインドはじっとしてはいられないのです。というのも、それは生(命)であり、動いているからです。その静寂・実在の中に座って、マインドを見つめ、その動きを見て、自分はそのマインドが同化しているものではないと知ることができます。

あなたは、マインドが同化している何かではありません。あなたは、それを目撃者として見つめ、それが何をしているのかを見るのです。すると、あなたはマインドが何なのかを理解します。ニサルガダッタが言ったように、マインドは良い召し使いだが、悪しきマスターです。もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります。でも、苦悩する人は誰なのか? ごめんなさい。独占してしまいました。

カット:いいえ。すばらしかった。

2023/06/23

そこには行為者はいません

2023.6.18ミーティング 1:11:12から

ジーン:やってきては去っていく意識・思考を、そのままにしておくということは理解しました。それには賛成です。心理学をたくさん学んだせいかどうかはわかりませんが、感知することができる思考のさらに下に潜在意識としての信念が動いていると思います。

そのうちの、どれほどが広がっている感情、運命、あるいは何と呼んでもいいのですが、それを操作しているのでしょうか。それは、私が自分に植え付けたものかもしれません。つまり、成長する課程において、世界は安全・幸福な場所ではないと自身に植え付けた観念なのかもしれません。

そしてそれは実際、私がどうすることもできないレベルで動いています。そのため私はいつも中毒という問題を抱えています。ネガティブな感情から逃れようとして、どれほど何度もこの困難を乗り越えようと努力したことでしょうか。するとまた、別の中毒がやってくるのです。ムードを変えようとする行動のことです。

酒、ドラッグ、セックス、猛スピードでの運転、私は詳しくはありませんが、極端な情事などは、自分ではコントロールすることができない感情から逃れるためのものです。それはある感情であり、潜在意識下で起こっていることだと私は思っています。そして私は、この生活のやり方を、どうしたらいいのかわかりません。

カット:残念ながら、何もすることはできません。どんな生活のレベルにおいても、何もすることはできません。そしてそれが、このメッセージの断固とした基本です。そこには行為者はいません。何が起ころうと、たとえそれがPTSD、子供の時に遺棄されたことからくる根深い感覚であろうと、それは単なる解釈であり、その感覚は実際の世界で起こる必要はなかったものです。

もちろん、どんなことでも起こりえます。そしてそれが起きなかったとしても、そこには行為者はいません。それに対しては何もすることができません。認識することだけが唯一の道です。もし、ボブの人生のストーリーを見てみるなら、30歳の時、喧嘩をして歯を失いました。その時点で14年もの間、アル中でした。ホームレスの無職、就労不適格者、疲れて果てて道に横たわっていました。

彼にとって、世界が安全な場所だというのはジョークでした。しがみつく何ものもありませんでした。絶望してAA(断酒会)に戻りました。しらふになるためです。そして、8~9か月後にまたそこを出ました。そしてまた、酒を飲み続けたのです。なぜなら、そこには自己の中心だけがあったからです。そこにはその感覚だけがあったからです。そこにはエゴの感覚だけがあり、エゴは脅され、世界は安全な場所ではありませんでした。

そして、自分はどうしたらいいのか。鈍感になるためにできることは何でもやった。酒でもなんでもやった。「私」が中心にいる間は、何をやってもだめなのです。まったく無駄です。認識は、「私」を超えたところからやってきます。ボブの場合、何者かが自分に人生で二度目のチャンスを与えてくれた、ということは、自己の中心の外に何かがあるのかもしれない、それは神かもしれない、実在、あるいは生、知性かもしれないということから始まりました。

そして今、探求そのものは幻想、マインドの想像物です。それは、マインドの外にある何かです。でも、探求はボブを成熟、準備の整った地点へと連れていきました。疲れ切った思考のパターンが、探し求め、自らを苦しめ、夢を見させ、熱望させ、そして最後にギブアップして、やすらぎへと導いたのです。というのも、それにできることは何もなく、それは機械的なプログラムであり、何もできないからです。それはある意味、自己という視点からは完全に無力であり、何もできないということを受け入れるようなものです。

それは、生に対して理解が生まれるようなもの。生がいつもあなたにそうしてきたように、あなたの世話をいつもしているということへの理解。あなたは今ここにいて、あなたの心臓は脈を打っている。あなたは健康で、寝る場所がある。ボブは以前よりもひどい状態ですが、それでも生(命)は彼の世話をしています。

ミーティングの記事はここまで。

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ここからはどうでもいい話。
私はセイラーボブに会った初期の段階から、どうしてボブの英語はこんなに聞き取りにくいんだろうと思っていました。モゴモゴ言って、とっても聞き取りにくい。英語ネイティブの人にとっても聞き取りにくいのだそうです。YouTubeの自動字幕装置もほとんどお手上げです。

そしてもう一つ思っていたのは、ボブの歯が上下とも異常にきれいだということ。なんとなく、入れ歯かなぁと思っていたのですが、総入れ歯と思ったことはなく、それほど突き詰めて考えたことはありませんでした。でも、今回と前々回のミーティングの中でカットが語ったことによると、ボブがまだアル中だった頃にケンカをして、歯を全部なくしたと言っています。

それから考えると、ボブは少なくとも30代の前半から総入れ歯だったということになります。だからあんなにモゴモゴと不鮮明な話し方になるんですね。それにしても、ケンカをして歯を全部なくすとは、どれほど荒れた生活をしていたんでしょうか。よくそんな境遇から立ち直ったなぁと思います。

2023/06/16

草はひとりでに生える

2023.6.11ミーティング 36:18から

カット:(携帯を見ながら)今日は27人から30人ぐらいの人がオンラインで参加しています。質問はありませんが、いくつかのメッセージがきています。何人かの人から皆さんへおはようのメッセージが届いています。ラムから、「今日のボブは、まるで10年前のようで、エネルギーがみなぎっていた」。ギルバートから、「人々の欲求を満たすためではないポインター。自然ですばらしい。それを知的に理解しようとすれば失敗する。それで何も悪いことはない。あるがままは、あるがまま」。

そしてまたラム、「カットはボブに何を食べさせたのか」。(ボブに向かって)彼はあなたのエネルギーが良かったけど、何を食べさせたかですって。(笑い)ええ、もちろん愛情です。それに、皆さんからいただいたもの。ディーンの有機野菜園で作ったすばらしい作物などをスープや汁に、違った形の愛として入れています。JBから、「とてつもなく素晴らしいスピールでした」。そしてサラから、「ありがとう」。オンライン参加者からは質問は届いていません。誰か質問したい人やシェアしたい人はいますか? カビーシャ、質問ですか?

カビーシャ:質問かどうかはわからないのですが、ボブの話でちょっと感じることろがありました。何かをする必要はないというところです。それはとても強力でした。というのも、私は生涯を通して、善良であろうと努力したり、両親や教師にほめられるように努力してきたりして、子供の頃からそうするようにと社会に条件づけされてきたからです。

そのため、努力を要しない? ワオ! とてもショックでした。でも、私は天国へ行くつもりなのではないか? 私の言っていることがわかりますか? それは奮闘するエネルギーです。そして、あなたは、努力は必要ないと言いました。それが今日とても胸を打ちました。どうやってそうしたらいいのかわかりません(笑い)。

カット:あなたがやる必要はないのです。

カビーシャ:まさしく、そのとおりです。(笑い)ああ、どうしよう、私は努力しようとしている。(笑い)

カット:やらないようにと努力しなくていいのです。(笑い)

カビーシャ:ええ。サンキュー、ボブ。

ボブ:サンキュー。私も何年も努力しましたよ。

カビーシャ:そしてまた、スピリチャアルの道では、エンライトメントや、なんやかんやを達成するまで、努力することにエネルギーを注ぐことで手一杯です。それはたぶん、なんやかんやなのですが、それは、ただ在る状態にリラックスすることではありません。それは常に私たちを取り巻いているのに、私たちは夢の中で努力してその周りをかけずりまわっているのですね。サンキュー。

ボブ:サンキュー。

カット:すばらしいですね。努力するという概念は、その根底に様々な仮定を含んでいます。ありのままではいけない。何か違ったものになるため、変えるためには何かに向かって奮闘しなくてはいけない。そのため、この瞬間を受け入れるかわりに拒絶するのです。拒絶するということは、違うものになって、この瞬間から分離することになります。もはやあなたはこの瞬間にいません。この瞬間にある何かから、傷つけられたり抑圧されたりすることになります。

そしてまた、あなたが言ったように、努力、奮闘することは、将来、何かが起きること、成し遂げることを意味します。今、この瞬間がいけないというだけでなく、おそらく後でいつか別の瞬間が来るということを意味しますが、後はありません。どんな未来の瞬間も、今この瞬間の想像の中にあるだけです。そして、「私」と、この知る働きのフィールドには分離はありません。

でも、努力することは驚くべきことです。あなたは実際耳にしました。というのも、それはあらゆる苦悩、苦しみを含んでいるからです。私は人間であり、分離している。私の外にあるのは世界であり、それと折り合いをつけなくてはいけない。そして、世界は間違っていて、私はそれを変えるために努力をしなくてはいけない。そしてまた、私はよくない、自分を変えなくてはいけない。

カビーシャ:私たちは、原罪を背負っているために、それほど勝ち目がありませんでした。そうでしょ? 最初から背負っているのです。あなたは原罪とともに生まれた。ええ? 私は何もやっていなのに。私はただの赤ちゃんなのに。(笑い)

カット:原罪についてボブは、私たちが言葉を覚えたために天国から追い出されたと言っています。子宮から出た時ではないのです。その時点では原罪、分離はありません。でも、私たちは言葉を学びます。私たちは善悪の木から食べるのです。両親から、これは良くない、これは良い、私はここにいて、世界はここにあると学びます。

そうして分離が創造されます。たくさんの概念、たくさんの言葉。一歳半から二歳半の頃。それは言葉によります。ある言葉はより易しいでしょう。概念ができあがり、まわりの人を真似ることによってそれを学びます。それが、天国から追い出される瞬間です。善悪の知識、言葉によって、分離の感覚がやってきます。

42:32から55:40まで省略。

55:40から
カビーシャ:歌を歌ってもいいですか?(一同拍手)

[Spring comes and the grass grows by itself sitting silently doing nothing.]
(何もしないで静かに座ると、春がきて草はひとりでに生える)

あとはこの繰り返しで、みんなで合唱でした。

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カビーシャの歌の歌詞の出典は何だろうと思って、ネットで英文を検索してみました。すると、驚くことに、この言葉は松尾芭蕉の言葉であるという画像がたくさん出てきました。そこで、芭蕉の言葉を日本語で検索して、それらしい言葉か俳句があるかと探したがみつかりませんでした。

調べていくうちに、その情報源は、OSHO(ラジニーシ)の「草はひとりでに生える」であり、どうもOSHOが芭蕉の言葉であると誤って語ったことが、ネット上で拡散したものらしいとわかりました。(参考:草はひとりでに生える

もともとの出典は景徳伝灯録(中国、北宋の禅の書)のようです。(参考:茶席の禅語選黄檗宗大本山塔頭 宝善院) おそらく、カビーシャは禅の本から歌詞を取っていると思われます。

この言葉の禅的な解釈は禅の専門家にお任せして、非二元的な解釈をするなら、行為者の不在ということだと思います。私たちはもともとそれなのだから、必要なことは、ただ理解することだけです。
このミーティングの中のスピールでも、ボブは、「私」がそれをやるのではなく、生(命)が自然にそれ(理解)を起こすのだと言っています。カビーシャの質問も、そのスピールに対するものです。

2023/06/09

それは単なる感情、ラベルにすぎないと理解することです

2023.6.4ミーティング 36:17から

参加者:ボブ、カット。目覚め、個人の目覚め、つまり、自分自身になるために、マインドとトラウマが、どんな役割を果たすのか、少し話していただけますか?

カット:(ボブに向かって)何か話したいですか?

ボブ:いいえ。

カット:それは落とし穴のある質問ですね。なぜなら、まず第一に、個人が目覚めることはもちろんないからです。ええ、これは言葉のあやであるということはわかっています。ええ、条件付け、トラウマは、あなたも知っているように、存在します。例えば、動物にもトラウマがあります。でも、動物はそれを阻止したり増大させたりすることはありません。というのも、動物はいつも自然な状態にいるからです。

もし動物、例えばオオカミが罠にかかったら、あるいは、犬が虐待されたり、猫がいじめられたりしたら、彼らの脳は生存のための反応を身につけます。もちろん、それは結局は役に立たないものとなります。人間のトラウマを考えると、例えば退役軍人や虐待の犠牲者は、その瞬間を生きのびるために何らかの戦略を身につけますが、そうした戦略は、もはや役に立たなくなっても持ち運ばれます。そしてそれがさらなる苦悩を生み出すのです。

人間と同じように、動物にもトラウマがあるのは事実です。人間の特定の行為に対して、特定の反応をするように条件づけられます。そしてその反応がしばらくは続くのですが、時がたつと、抵抗や悪い感覚は消えていきます。そして、トラウマがあってもなくても、そこには自然な状態があります。

人間の場合は、トラウマを何度も生きることになります。私たちには物語という別のソフトウェアがあります。時には、トラウマをもう一度生きることは、トラウマの解消になることがありますが、トラウマを強めてしまうこともあります。一つのやり方がすべてに当てはまるとは言えません。

ボブは、そうした場合はいつも、本当のあなたである静寂の状態に戻って、何が自然に起こるか見守ってくださいと言います。というのも、顕現として現れるすべてのものには適所があるからです。セラピー、指圧、瞑想、何でも自然に起こってきます。物語だけが特定の物語を強化し続け、トラウマを持続させ、トラウマが「私」の目覚めを妨げているという物語さえ生みます。あらゆることが「私」が目覚めることを妨げているとなります。

もちろん、「私」が目覚めることは決してありません。どんな物語もそこにあります。それは実際には落とし穴のある質問ではありません。それはどんな場合も個人によって異なるという問題です。そしてそれは、トラウマをどう定義するかによります。もしあなたがボブに、彼の人生の前半30年について尋ねたら、どれほど多くのトラウマが起こったかを言うことはできないほどです。ケンカをしてほとんど全部の歯をなくした屈辱や、クビになったこと、虐待されたことなど、たくさんのことがありました。

トラウマ的な反応を一度も経験しなかった人が世界にいるのかは知りません。脳が発達して空間を観念化する途中で、母親や世話をしてくれる人を無くした人さえいます。それが(頭を指さして)、コンピューター、機械によってトラウマと翻訳されて反応を起こします。誰しも、ある程度はそうした反応を経験していて、それにトラウマというラベルを貼って非難して、その犠牲者となるのです。

そのかわりに、ボブが言うように、トラウマをあるがままに見つめ、もしそのことを考えなかったら、そこにトラウマはあるのか?と言うこともできます。もしそれにトラウマというラベルを貼らなかったら、もしそれに、汚れた重苦しいラベルを貼らなかったら、そこにトラウマはあるのでしょうか? それは単なる条件付けされた反応です。それがそのようになされても、自然はすべてを、無判断の清浄な空間のような意識によって、変えることなく、変更することなく、正すことなく解消します。それが解消のプロセスです。もちろん、それでも生き残るための手立ては必要です。あなた自身にはトラウマになるような経験や、トラウマについて熟考したことがありますか?

参加者:いいえ。今日ここへ車で来る途中、家族の集まりのことについて話していました。それはある意味、家系に引き継がれたトラウマのようなものです。それは行動の中の、何かパターン化されたようなもので、ある種の行動、条件づけされた振る舞いのようなものです。それは、誰か他の人からのものではなく、そのトラウマに直接悩まされるということではなく、遺伝的にあるもののことです。そのことについてずっと考えてきました。

もちろん、今この瞬間、空間の広がりの中には、何一つ固着したものはありません。でも、それでもやはり、収縮となるような行動はあります。そのために、それを理解したいと思ったのです。それで、あなたの考えに興味があったのです。

ボブ:思考、フィーリング、感情はどれも機能です。思考が最初にやってきて、フィーリングが感情をもたらします。そして私たちは、恐れ、怒り、不安と、どんなラベルも貼り付けます。ラベルとして貼り付けた言葉によって、実際よりも悪くしてしまうのです。それは単なる感情、ラベルにすぎないと理解することです。私たちは、それが絶えず変化しているということ見ようとせず、それにかまわずそのままにするかわりに、それに執着して、そこに留まるのです。それを続けて、最後には強化してしまうのです。