2023/07/14

どうやって空間が部屋の中に入ったのか?

2023.7.9ミーティング 1:10:32から

ジェームズ:これは大切なことだと思うのですが、少し前までははっきりとした質問になっていませんでした。何か言わなくてはいけないと思って自分のことで精いっぱいだったからです(20分ほど前に、どうして質問するのはこんなに怖いのかという質問をした)。でも、今は質問があります。(一同笑う)

ある種の理解を得るために必死なのですが、同時に、そのことに対して大きな抵抗があります。先週ここに来た時、心に浮かんできたのは、どうして私はここにいるんだろう、誰が探しているんだろう、何を探しているんだろう、なぜ私はここにいるんだろう、そしてそれをやっているのは誰なのだろうということです。もし、私たちはすでにそのことに気づいているのなら、なぜ私たちはここにいるのだろうかということです。

ジェーン:理由はないのですよ。カビーシャが歌の中で見事に歌ったように、それは神聖なこと。それはラベルなのですが、同じ波長の人とともにいることは、何かすばらしいことです。たとえあなたが自分を連れて行ったとしても、実際には実在があなたを連れて行っているのです。どこへ行っても、あなたが連れていっているのではないのです。あなたと共鳴する人たちといることになるのです。

カビーシャ:滋養を与えているのです。輝くのです。あなたがそれを育てるのを助けてくれる人たちとともにいることが良いことなのです。あたかも私たちは皆一つの庭の中、仲間の中にいて、アウエアネスを成長させているようなものです。

アニータ:そしてまたこれは経験的なことです。これは経験です。私たちは時々観念的な議論しますが、実際これは観念的なことではなく、直接の現在進行形の体験なのです。そして体験している人たちの中にいるということは何かとてもすばらしいこと。あなたが経験したことは、全くの喜びです。それを経験したくない人がいるでしょうか? それは現在進行形の体験であり、マインドではありません。

アンディ:省略

ボブ:何かが共鳴するのです。それが内側の性質です。内側にもともと内在する何かがあなたを引き寄せるのです。それをマインドで知ることはできないかもしれませんが、何かがあなたに共鳴してもっと聞きたくなるのです。(不鮮明のため一部省略)あなたに内在する知性がそれを認識、あるいは認識しようとするのです。それをそのままにして、流れに任せ、それがあなたをどこへ連れて行くのか見てください。

カット:あなたが、「なぜ私が」と尋ねた時、あなたが本当にそう尋ねていると感じました。でも、何が起こったかを見てください。突然皆がそれぞれに異なる物語で質問に答えたがったのです。なぜなら、それが「なぜ」がやることだからです。マインドは、なぜあなたがここにいるかを正当化しようとするのです。

生(life)があなたをここへ連れてきたのです。あなたではありません。あなたには何の選択権もありませんでした。あなたが考えたことが動機になっているのではありません。それが、生が展開する究極の神秘なのです。どうして私たちは行為を行うのか。たくさん正当化することもできます。子供の時のことや、天候やなんかのせいすることもできます。

でも真実は、私たちは行為者ではないのです。私たちは何かを手に入れるためや、何かを理解するため、参加するために来たのか。いいえ。私たちが来たのではありません。なぜなら、私たちは行為者ではないからです。ただ、生がそのように表現しているにすぎません。

なぜ自分がここにいるのかと尋ねる時、誰が尋ねているのか見てください。そこ誰がいるのか。
(雑談が不鮮明のため省略)

ギルバート:ある時ある人が、アーバン・グル・カフェの件で電話をしてきました。何年も前、デーヴィット・ゴッドマンという男と連絡を取りました。彼は、アルナンシェラ(インド)の図書館で図書館員の長をしながら、ラマナなどの本を書いた人です。彼がニサルガダッタのミーティングのたくさんのテープを送ってきたのです。その多くは音が不鮮明でしたが。(誰かの問いに答えて)ええ、ニサルガダッタです。ラマナではありません。ラマナは語りませんでした。

それはアーバン・グル・カフェにあるのですが、そのテープの中で、若い探求者がミーティングの中でニサルガダッタに、「どうして私はここにいるのでしょうか?」と尋ねたのです。どうして私がここにいるのか。するとニサルガダッタが言いました。「どうやって空間が家の中、部屋の中に入ったのか? どうやって空間が部屋の中に入ったのか?」。空間が部屋の中に入ったのではなく、空間の中で何かが家を建てている、と彼は言いました。現在形でです。

空間の中で何かが家を建てている。それはポインターとしてはとても微妙です。メンタルの活動の中で、何かが「私」という構築物や家などを建てているのです。でも、そうした物のうちで変化しないものは空間です。空間のような意識。なぜ私はここにいるのか? 私はここで何をしているのかというのは素晴らしい質問です。

パパジにも別の話があります。彼はラマナの生徒という言い方もできます。ある時彼がラマナを訪ねると、ラマナは、「どうやってここへ来た?」と聞きました。するとパパジは、「リキシャで来ました」と答えました。するとラマナは、「ではそのリキシャは今どこにいる?」と言いました。

「去りました」と答えると、「その前は?」とラマナ。「タクシーです」。
「そのタクシーは今どこにいる?」。「去りました」。
「その前は?」。「マドラスから列車に乗ってきました」。
「その列車はどこにいる?」。「去りました」。

わかりましたか? 私たちは、どうやってここへ来たかという物語を手に入れます。そしてそれが苦しみとなります。なぜなら、あなたはいつもずっと「ここに」いたからです。本質として、実際には一つの意識(consciousness)あるいはアウエアネスがあるだけです。そこには、どうやってここへきたかという物語はありません。

ボブ:空間の中のどこかに中心を指摘することができますか?ここだという場所を指摘することができますか?

ギルバート:いいえ。それゆえ、自己の中心という言葉はフィクションなのです。空間に静止した点がないというのに、自己の中心という静止した点がありえるでしょうか? 留まることなく、無の中を漂っているのです。つまり、「私」を支えているすべての物語はフィクションなのです。それがすぐにわかればわかるほど良いのですが(笑い)。