セイラーボブの教え(詳しく)を①から読む方はこちらから
最終回
今回の「詳しく」では以下の点を重点的に何度も書きました。
・エンライトメント(覚醒)はフィクションである。
・セイラーボブの教えを理解しても何かが起きるわけではないし、非二元の世界を体験するわけでもない。
・セイラーボブの教え(アドヴァイタ)は、経験したり体験したりして手に入れることとは関係がなく、「今ここにある意識」を理解することである。
・セイラーボブの教えは未来に起きるエンライトメントではなく、今ここにある意識である。
・「今ここにある意識」だけが実在であり、それがセイラーボブの教えていることである。
ブログを書くためにボブ関連の本をあちこち読んでいて思ったのは、ボブの教えは結局、金太郎飴のようなもので、どこを切り取っても結局は awareness アウエアネス(今ここにある意識)の話になるということです。
それを考えていて、なぜセイラーボブが自分でテキストになるような本を書かないのかがわかった気がしました。ボブの教えていることは、体系化するようなことではないし、言葉で教えるようなことでもないのではないかと思います。
awareness アウエアネスも、私は便宜上、「意識」という訳をあててブログを書きましたが、特定の和訳を与えた時点で、固定化、概念化が始まります。ボブはそれを避けるために、「知性エネルギー」「認識する空」「空間のような意識」など、多様な形で表現します。
もしボブが自分でテキストを書けば、それが固定化され、概念化されて聖典となり、人々が誤解し始めます。それが多くの宗教で起こったことではないでしょうか。
セイラーボブに限らず、多くの非二元、アドヴァイタの師たちが、対話形式での伝達を好むのはそのためではないでしょうか。
ボブや他の師たちの教えていることは、概念化できないこと、概念化や固定化された時点で死んでしまうようなことなのではないでしょうか。
私はこのブログで誰かを、「もう助けが要らないところ」まで導けたかどうかには自信がありません。でもおそらく何人かの人はボブの教えを正確に理解されたのではないでしょうか。
そういう方たちにお願したいのは、私がブログで使った言葉や概念を固定させることなく、自らの言葉でセイラーボブの教えを広めていっていただけたらと思います。
ボブは「あなたは理解した、私は理解していない」という言い方を嫌います。「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」という言い方をします。
でもあえて書かせていただくと、私は私のブログだけがボブの教えとしてまかり通るのは健全な姿だとは思いません。ボブの教えの理解にはそれなりの自信を持っていますが、私がブログで使った言葉や説明がそのまま概念化して固定化することを望みません。
そもそも、たった一つのことを言っているだけなので、「教え」という言い方さえもおかしいのではないかと思っています。また、「セイラー・ボブ・アダムソンの教え」という書き方も、図々しいかなと思っています。でもそうしないと、ネット上で検索してもこのサイトにたどり着けない。できるだけたくさんの人にこのブログを読んでもらって、もっとたくさんの人が、「セイラー・ボブ・アダムソンの教え」について書くようになればいいと思います。
もっともっとたくさんセイラーボブの本が翻訳出版されて、もっともっと多くの人がボブに関するサイトを立ち上げて、もっともっと多くの人がセイラーボブの教えについて語って欲しいと考えています。英語の世界ではそれが起こっています。中には、「ボブはネオアドヴァイタだ」「ボブは覚醒してないから十分ではない」という批判もあります。でもネガティブな批判もあるのが健全な姿だと思います。
私は「それ」をセイラーボブという入り口から学びました。でも今回ブログを書いているうちに、まったく同じことを違う表現、違うやり方で説いている非二元・アドヴァイタの師たちが他にもたくさんいるということを再認識しました。このブログがセイラーボブの教えに限らず、非二元・アドヴァイタの教え、さらには禅などに広がっていけばいいなと思っています。
多少の世界観の違いはあっても、言っていることが同じなら構わないと思っていますが、非二元・アドヴァイタなら何でもいいかというとそういうわけではなく、自分なりの基準としてはおおむね次のとおりです。
・エンライトメントはない。
・エンライトメント、目覚めをエサにして客寄せない。
・何かになることではなく、すでにあるものを説いている。
・いまここにある意識がすべてである。
・私も世界も実在ではない。
・込み入った瞑想やメソード、覚醒体験で客寄せしない。
・私は理解した、あなたは理解していないといった上下関係がない。
・グルではなくメッセンジャー。
・メッセンジャーは反社会的ではなく、いわゆる普通の人である。
・メッセンジャーは金や名声に執着しない。
話をセイラーボブに戻します。
セイラーボブの教えは、ただ単に理解して終わりでは何の役にも立ちません。
いくら「私はいない」と思っていても、マインドと体があるかぎり、「私」という基準点は繰り返し戻ってきます。そうしたら、何度も何度もセイラーボブの教えを思い出してください。
それを実践していくうちに、セイラーボブのように「もう何が起こっても大丈夫」となるのだと思います。
「(あなた)が考える(あなた)という存在は幻影です。何か、もしくは分離した誰かとしての(あなた)がいるという考えは、自分の周知のことと関連させて、物事を受け入れたり拒絶したりする原因となります。幻影が自らを欺く話をしています。知る人と知ることというのは、自然な概念化されない知る行為そのもの(knowing)を見かけ上分割した概念にすぎません。(私はいる)という思考を信じることは、絶えず変化し続ける客体としての世界に見せかけの現実味を与えますが、それでもすべては本質においては変化することのない自然な知る行為そのもの(knowing)に他なりません。思い起こし、思い出し、さらに思い出してください。私はそれであり、それが私です( I am That I am.)。それは意識。誰に対してどんな活動、思考、出来事や事件が起こるというのでしょうか。出来事や活動はあたかも草が自然に生えるように、誰が優っているとか劣っているかではなく、そういうふうにしか起こりようがないということを理解してください。自ら働きかける知性エネルギー、まさにそのもの、それ以外のものではありません。自ら輝く今ここにある意識は努力の結果ではありません。その意識が突然そこにあることを期待して何かをする必要があるわけではありません。今ここにある意識はあなたが気づいていなくても、うわべ上見えなくても、いつも今ここにあります。それは作り出したり破壊したりする何かではありません。概念上の思考は雲のようなもので、見かけ上では太陽を見えなくします。概念化されない自然な状態でくつろぐのはいつも今ここにある意識です。何度も何度も何度も思い出してください。何が現われようが消えようが、それを認識することはいつもそうなのです。自ら認識し、自ら輝く。ただそれだけ、他には何もありません」
Sailor Bob Adamson
長い間読んでいただきありがとうございました。
私はこの「詳しく」の中で、言葉(英語)の壁がなかったら、ボブの教えをもっと早く理解できたのではないかと書きました。でも、私はボブの教えを完全に理解できるまでの4年の間に、ボブのミーティングに何回も出ましたし、日本に帰ってからもボブの本を何度も読みました。YouTubeも何回も繰り返し見ました。同じ話をそれこそ何十回も聞き、読みました。
ここまでの私のブログを読んで理解したつもりでも、実感が持てないと思ってみえる人は多いのではないでしょうか。私もそうでしたが、セイラーボブの言葉を何度も何度も繰り返し読んでいるうちに機が熟し、何かが共鳴して、確信、理解が起きるのではないかと思います。
そしてそれはエンライトメントや何か特別なことが起きる理解ではなく、普通の自然な理解です。そういう意味を込めて、次回からThe Spiel でセイラーボブの家の居間へご案内します。
2019/02/18
2019/02/16
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑳
非二元・アドヴァイタ
この「詳しく」を書くにあたり、非二元やアドヴァイタを全面に出して書くことはしないようにと思っていましたが、セライーボブの教えは非二元の教えでありアドヴァイタの教えであると再認識しましたので、そのあたりのことを少し書いておきます。
セイラーボブ関連の本の中に、現代のアドヴァイタの教師たちが時々出てきます。
・ダグラス・ハーディング Presence awareness の中で、「ダグラス・ハーディングは頭さえないと言っている」と引用。
・ネイサン・ギル Living Reality の中でジェームズが「clarity」を読んだといったところ、ボブがそれは良いと言った。また、ボブが2018.9.23のミーティングでも言及した。
・レオ・ハートン Living Reality の中でジェームズが「Awakening To The Dream」を読んだと言ったところ、ボブが良い本だと言った。
・ジョーン・トリフソン Living Reality の中に、ボブがアメリカで会う予定だと書いてある。実際に会ったかどうかは書いてないが Living Realty の推薦文を書いている。
・グレッグ・グッド Living Reality の推薦文を書いている。
・鈴木大拙 「Zen Buddhism」の話がLiving Realityの中で関係者から。ギルバートからも聞いたことがある。
私が今まで、ここに書いた人の本で読んだことがあるのはダグラス・ハーディングだけです。それ以外はまったく読んだことはありません。時々参考にさせていただいたヒロさんのブログで、名前ぐらいは見たことはあったのですが、書店に行ってもなるべく読まないようにしていました。というのは、ボブ以外の非二元やアドヴァイタの教えを読むと混乱するのではないかと思っていたからです。
もう十分にセイラーボブの教えを理解した今、もう読んでも混乱することはないだろう、また、セイラーボブの本の中で引用されているなら、どんなことを言っているのか見ておくべきだろうと思って、先日いつも行く名古屋の丸善の精神世界のコーナーで、非二元関連の本を何冊か立ち読みしました。
立ち読みした本
ネイサン・ギル「すでに目覚めている」
トニー・パーソンズ「オープンシークレット」「何でもないものがあらゆるものである」
グレッグ・グッド「ダイレクトパス」
ルパート・スパイラ「プレゼンス」
立ち読みして驚いたことが二つあります。
①非二元関連の本に何が書いてあるのかをはっきりと理解できること。おそらく、これらの本を、セイラーボブの教えを完全に理解する前に読んでいたら、はっきりとは理解できなかったと思います。
②これらの本はセイラーボブが説いていることと同じことを説いているということ。こういう人たちがネオアドヴァイタと呼ばれていることは、ヒロさんのブログで知りました。グレッグ・ウッドの「ダイレクトパス」だけは、いろんな方法が書かれていて、詳しく検討する時間がなく、セイラーボブと同じことを言っているのか、はっきりわかりませんでした。でも、それ以外の人は確実にセイラーボブと同じことを説いています。な~んだ、そういうことだったのか、と思いました。
今私はこのブログをセイラーボブだけに限定して書いています。でも、多くの現代の非二元の教師たちが同じことを言っているなら、セイラーボブに限定しないで、非二元・アドヴァイタというくくりでこのブログを書いていったほうが幅広く学べるし、楽しいのではないかと思います。
説き方は違うだろうし、方法も違うかもしれません。世界観も多少は違うでしょう。でも今なら混乱せずに受け止めることができると思います。
まだ当分はセイラーボブを中心に書いていくつもりですが、もっと視野を広くもって、非二元・アドヴァイタ、可能なら禅などにも広げていく予定です。
現代の非二元の教師たちの情報を入手する有益なサイトを書いておきます。
・resonanz360塩人間の海底探検(ヒロさん・古閑博丈さんのブログ)
・シンプル道の日々(高木悠鼓さんのブログ)
・Advaita 通信 このサイトはアドヴァイタがどういうものかを学ぶのに良いサイトです。特に「ただそれだけ」をおすすめしてくださっているのがうれしい。
日本の非二元・アドヴァイタはまだまだ始まったばかりで、十分な情報がない中、これらのサイトは重要な情報源だと思います。
高木悠鼓さん古閑博丈さんには、もっともっと非二元関連の本を翻訳していただきたいな、できればセイラーボブをもっと翻訳していただきたいなと思っています。
海外のサイト
・ギルバート・シュルツのサイトthe urban guru's cafe(非二元論関連)
・セイラーボブの古いHP(linkが参考になる)
これは非二元・アドヴァイタ関連ではないのですが、もう一つ驚いたことがあります。
同じコーナーに、瞑想を何十年もやった人の本があったのでついでに立ち読みしました。
その人は、非二元・アドヴァイタとはまったく関係なく、瞑想を長年することによって、「エンライトメントはない」「瞑想は必要なかった」「今ここにある意識がすべてである」という境地に達したと書いていました。
その人はチベットやオショー(旧名ラジニーシ)アシュラムなどで何十年も瞑想した日本人の方で、最終的に「エンライトメントはない」「瞑想は必要なかった」「今ここにある意識がすべてである」という境地に達したと本に書いてみえました。メモしたわけではないので、表現が多少違うかもしれません。厚い本だったので立ち読みした範囲の理解ですので、書名は書きません。
私はこの本を読んでとても驚きました。というのは、私の考えでは、いくら瞑想しても、エンライトメントはないということを気づく人はいないのではと思っていましたから。瞑想すること事自体がエンライトメントを求めてするものなので、この本には本当に驚きました。
こうなると、どの道を行ったとしても、ちゃんとゴールにたどり着く人はいるのだな、と痛感しました。そしてまた、善意に解釈するなら、エンライトメントを説くマスターの中には、本当はそんなものはないと知りながら、それに気づかせるための方便として瞑想を説くマスターもいるのではないかとも思いました。
というのも、エンライトメントはないのだから瞑想は無駄だと最初から何もしなかったら、この人のような境地にはたどりつけません。
私も、最初から、エンライトメントなんてないのだよ、と言われたら、精神世界になんて興味がなかったかもしれません。私も含めて、メルボルンでボブの周りにいた人たちの多くは、何年も何らかの瞑想や探求をしたことのある人たちでした。瞑想、探求の末にセイラーボブにたどり着いたからこそエンライトメントなんてないというメッセージがどんなに大切なものかが実感できるのだと思います。
そして今、多くの人たちがエンライトメントや「目覚め」はフィクションであると気づき始めたということではないでしょうか。
以下は Living Reality.p.174から
ケリー:ボブ、私があなたにラメッシの教えの話をするなんて何か変ですね。あなたに会いに来て、ほかの師の話をするなんてまったく失礼に思えます。でも私が話す気になったのは、私が彼から学んだことと、あなたから学んだことを結びつける必要があったからです。私はラメッシもあなたも両方尊敬しています。
ボブ:ええ。大切なことは、最終的にあなたは私たち両方ともを後にするということです。ラメッシのもとを去り、私のもとを去る。あなたは自分の二本の足で立つために十分な理解を持っています。私はニサルガダッタの教えを理解したあとは彼を必要としませんでした。一年後に一度だけ彼を訪ねました。そして今もまだ彼のことを考えます。彼は私の根底にあったものすべてを蹴り出したのです。彼は私の概念のすべてを蹴り出しました。そのあと彼は私が彼のまわりをうろつくことを望みませんでした。
この「詳しく」を書くにあたり、非二元やアドヴァイタを全面に出して書くことはしないようにと思っていましたが、セライーボブの教えは非二元の教えでありアドヴァイタの教えであると再認識しましたので、そのあたりのことを少し書いておきます。
セイラーボブ関連の本の中に、現代のアドヴァイタの教師たちが時々出てきます。
・ダグラス・ハーディング Presence awareness の中で、「ダグラス・ハーディングは頭さえないと言っている」と引用。
・ネイサン・ギル Living Reality の中でジェームズが「clarity」を読んだといったところ、ボブがそれは良いと言った。また、ボブが2018.9.23のミーティングでも言及した。
・レオ・ハートン Living Reality の中でジェームズが「Awakening To The Dream」を読んだと言ったところ、ボブが良い本だと言った。
・ジョーン・トリフソン Living Reality の中に、ボブがアメリカで会う予定だと書いてある。実際に会ったかどうかは書いてないが Living Realty の推薦文を書いている。
・グレッグ・グッド Living Reality の推薦文を書いている。
・鈴木大拙 「Zen Buddhism」の話がLiving Realityの中で関係者から。ギルバートからも聞いたことがある。
私が今まで、ここに書いた人の本で読んだことがあるのはダグラス・ハーディングだけです。それ以外はまったく読んだことはありません。時々参考にさせていただいたヒロさんのブログで、名前ぐらいは見たことはあったのですが、書店に行ってもなるべく読まないようにしていました。というのは、ボブ以外の非二元やアドヴァイタの教えを読むと混乱するのではないかと思っていたからです。
もう十分にセイラーボブの教えを理解した今、もう読んでも混乱することはないだろう、また、セイラーボブの本の中で引用されているなら、どんなことを言っているのか見ておくべきだろうと思って、先日いつも行く名古屋の丸善の精神世界のコーナーで、非二元関連の本を何冊か立ち読みしました。
立ち読みした本
ネイサン・ギル「すでに目覚めている」
トニー・パーソンズ「オープンシークレット」「何でもないものがあらゆるものである」
グレッグ・グッド「ダイレクトパス」
ルパート・スパイラ「プレゼンス」
立ち読みして驚いたことが二つあります。
①非二元関連の本に何が書いてあるのかをはっきりと理解できること。おそらく、これらの本を、セイラーボブの教えを完全に理解する前に読んでいたら、はっきりとは理解できなかったと思います。
②これらの本はセイラーボブが説いていることと同じことを説いているということ。こういう人たちがネオアドヴァイタと呼ばれていることは、ヒロさんのブログで知りました。グレッグ・ウッドの「ダイレクトパス」だけは、いろんな方法が書かれていて、詳しく検討する時間がなく、セイラーボブと同じことを言っているのか、はっきりわかりませんでした。でも、それ以外の人は確実にセイラーボブと同じことを説いています。な~んだ、そういうことだったのか、と思いました。
今私はこのブログをセイラーボブだけに限定して書いています。でも、多くの現代の非二元の教師たちが同じことを言っているなら、セイラーボブに限定しないで、非二元・アドヴァイタというくくりでこのブログを書いていったほうが幅広く学べるし、楽しいのではないかと思います。
説き方は違うだろうし、方法も違うかもしれません。世界観も多少は違うでしょう。でも今なら混乱せずに受け止めることができると思います。
まだ当分はセイラーボブを中心に書いていくつもりですが、もっと視野を広くもって、非二元・アドヴァイタ、可能なら禅などにも広げていく予定です。
現代の非二元の教師たちの情報を入手する有益なサイトを書いておきます。
・resonanz360塩人間の海底探検(ヒロさん・古閑博丈さんのブログ)
・シンプル道の日々(高木悠鼓さんのブログ)
・Advaita 通信 このサイトはアドヴァイタがどういうものかを学ぶのに良いサイトです。特に「ただそれだけ」をおすすめしてくださっているのがうれしい。
日本の非二元・アドヴァイタはまだまだ始まったばかりで、十分な情報がない中、これらのサイトは重要な情報源だと思います。
高木悠鼓さん古閑博丈さんには、もっともっと非二元関連の本を翻訳していただきたいな、できればセイラーボブをもっと翻訳していただきたいなと思っています。
海外のサイト
・ギルバート・シュルツのサイトthe urban guru's cafe(非二元論関連)
・セイラーボブの古いHP(linkが参考になる)
これは非二元・アドヴァイタ関連ではないのですが、もう一つ驚いたことがあります。
同じコーナーに、瞑想を何十年もやった人の本があったのでついでに立ち読みしました。
その人は、非二元・アドヴァイタとはまったく関係なく、瞑想を長年することによって、「エンライトメントはない」「瞑想は必要なかった」「今ここにある意識がすべてである」という境地に達したと書いていました。
その人はチベットやオショー(旧名ラジニーシ)アシュラムなどで何十年も瞑想した日本人の方で、最終的に「エンライトメントはない」「瞑想は必要なかった」「今ここにある意識がすべてである」という境地に達したと本に書いてみえました。メモしたわけではないので、表現が多少違うかもしれません。厚い本だったので立ち読みした範囲の理解ですので、書名は書きません。
私はこの本を読んでとても驚きました。というのは、私の考えでは、いくら瞑想しても、エンライトメントはないということを気づく人はいないのではと思っていましたから。瞑想すること事自体がエンライトメントを求めてするものなので、この本には本当に驚きました。
こうなると、どの道を行ったとしても、ちゃんとゴールにたどり着く人はいるのだな、と痛感しました。そしてまた、善意に解釈するなら、エンライトメントを説くマスターの中には、本当はそんなものはないと知りながら、それに気づかせるための方便として瞑想を説くマスターもいるのではないかとも思いました。
というのも、エンライトメントはないのだから瞑想は無駄だと最初から何もしなかったら、この人のような境地にはたどりつけません。
私も、最初から、エンライトメントなんてないのだよ、と言われたら、精神世界になんて興味がなかったかもしれません。私も含めて、メルボルンでボブの周りにいた人たちの多くは、何年も何らかの瞑想や探求をしたことのある人たちでした。瞑想、探求の末にセイラーボブにたどり着いたからこそエンライトメントなんてないというメッセージがどんなに大切なものかが実感できるのだと思います。
そして今、多くの人たちがエンライトメントや「目覚め」はフィクションであると気づき始めたということではないでしょうか。
以下は Living Reality.p.174から
ケリー:ボブ、私があなたにラメッシの教えの話をするなんて何か変ですね。あなたに会いに来て、ほかの師の話をするなんてまったく失礼に思えます。でも私が話す気になったのは、私が彼から学んだことと、あなたから学んだことを結びつける必要があったからです。私はラメッシもあなたも両方尊敬しています。
ボブ:ええ。大切なことは、最終的にあなたは私たち両方ともを後にするということです。ラメッシのもとを去り、私のもとを去る。あなたは自分の二本の足で立つために十分な理解を持っています。私はニサルガダッタの教えを理解したあとは彼を必要としませんでした。一年後に一度だけ彼を訪ねました。そして今もまだ彼のことを考えます。彼は私の根底にあったものすべてを蹴り出したのです。彼は私の概念のすべてを蹴り出しました。そのあと彼は私が彼のまわりをうろつくことを望みませんでした。
ラベル:
セイラーボブの教え(詳しく),
非二元その他,
非二元の教師たち
2019/02/14
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑲
ビフォーアフターセイラーボブ
私がセイラーボブの教えを完全に理解したと感じたのは、2018年10月末ぐらいで、まだそれほど日がたっていません。教えそのものを理解したのは2014年の年末頃でしたが、教えそのものに確信が持てず、その時点では大きな変化はありませんでした。
エンライトメントはないということはわかったものの、ではどうしたら、ボブの言っていることに実感、確信が持てるだろうかと漠然と思っていました。2018年10月末に完全に理解してからは、いろいろと大きな変化がありました。まだそれほど日が経ってないので、その変化を客観的に見るにはもう少し時間がかかると思うのですが、一応今現在の変化と心境を思いつくままに書いておきます。
私は長年生きているので、人並みに不幸なことはたくさん経験してきました。自然に生きていれば普通の人生だったと思うのですが、人生を何とかコントロールしたいと思った「私」のせいで、あまり普通とは言えない人生を歩いてきました。
ストーリーを語ってもしかたがないので詳しくは書きませんが、メンタルの不調、転職、身内の死、人との別れ、経済的な破綻、パワハラ、介護などなど。
全員がそうだとは言いませんが、スピリチュアルに魅かれる人の多くは何か問題を抱えてそういう世界に入っていくのではないでしょうか。
いろんな出来事が起こって、本当に苦しい時期を過ごした時期もありました。でも不思議なことに、自殺しようと思ったことは一度もありませんでした。自殺する勇気がなかったといえばそれまでですが、それ以上に、いつかエンライトメントが起きれば、すべてがチャラになるだろうという希望があったからです。そういう意味ではエンライトメントは私を長年助けてくれました。そのエンライトメントも最終的にはセイラーボブによって蹴り出されたわけですが。
スピリチュアルなことばかりやって生きてきたわけではないのですが、私の最大の願望はエンライトメントであり、苦しい人生から抜け出すためにそれを得ようと多くの時間やお金を費やして生きてきました。人から見れば、普通に生きているように見えたかもしれませんが。
エンライトメントを求めていたころは、ジェームズ・ブラハと同じで、気持ちよく目覚めたことなど、ほとんどありませんでした。いつも自分は不完全でエンライトメントしないかぎりは幸せになれないと思っていました。
毎日欠かさず瞑想をしていた頃は、何かの都合で瞑想できないと一日中イライラして、何のために瞑想しているのかよくわからない状態でした。エンライトメントを追うことに嫌気がさして、瞑想をしなくなってからは、毎日人生を無駄に生きている感覚が離れませんでした。
当時やっていた仕事は全く生きがいを感じられるようなものではなく、毎日ただ金をもらうためだけに時間と人生を浪費している感覚しかありませんでした。
セイラーボブの教えを理解して一番大きく変化したのは、エンライトメントなんてないと知った解放感です。それを知ってから、人生を無駄に生きているという感じがなくなりました。その感覚は、ボブの教えを完全に理解してから強くなりました。
エンライトメントを得るための焦りや苛立ちというのは完全に無くなりました。今思うと、どれだけそれが自分を苦しめていたのかがわかります。メンタルの面ではずいぶんと楽になりました。
もともと不眠症のような状態でしたが、最近はよく眠れるようになったし、眠らなくても全然気にしなくなりました。以前だったら、眠れないことそのものよりも、眠れないことへのいら立ちの方が大きかったのに、今はそれがありません。
睡眠をコントロールしようという「私」がいないのです。以前だったら、眠るためにはどうしたらいいのか、何時に床につけばいいのか、コーヒーは午後からは飲まない、などあれこれ考えて、それでも眠れないといらいらしていたのですが、今は毎夕食後にコーヒーを飲んでいます。それでも不思議と熟睡できて、仮に眠れなくても全然気になりません。
私もブラハと同じで、朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。何か人生の宿題を終えたような気分で、あとは楽しんで生きていけばいい、今日もまた一日始まるぞ、みたいな気分で起きます。
以前は一日の半分は過去の出来事を後悔して、残りの半分は未来の心配をするような生活で、まったく今ここを生きていませんでしたが、今は過去のことも未来のこともあまり考えません。無理にそうしているわけではなく、過去を悔んだり、責めたりする「私」がいないのです。未来をコントロールしようという「私」もいません。
遠い将来に計画を立てることもなくなりました。少し前までは、もう一度セイラーボブに会いに行って、そのあとあれをしてこれをしてという計画で、がんじがらめだったのに、今は自然に任せています。
以前は私を散々苦しめてきた強迫観念もどこかへ行ってしまいました。抵抗する「私」も、それをなんとかしようとする「私」もいなくなりました。恐怖や恐れが無くなったというのではなく、そういうことを考えるのを忘れてしまったような感じです。恐れる「私」がいないのだから当然なのかもしれません。
以前はあった孤独感がまったくなくなりました。孤独を感じる「私」もいません。そのかわりに、あらゆるものに神が宿っているのを実感するようになりました。今までは何とも思わなかった犬や猫にも自分と同じものが宿っていると実感して、かわいいと思うようになりました。草や木々にも神が宿っているのを感じます。万物に神が宿っているというのはこういうことなのかと思うようになりました。
人に対して抱いていた劣等感も優越感もなくなりました。人のことを好き嫌い、良い悪いで判断していたのが、今はただその人も表れとして現われているだけで、そこに独立した何かが存在するとは思えなくなくなりました。争う必要も見下す必要も卑屈になる必要もなくなりました。
電車に乗って大勢の人込みを歩いても、そこにいる人々は自然に生まれ、自然に死んでいく自然現象の一部にすぎないと思うようになり、何か、いとしい気がします。
以前は白髪を嫌って染めていたのですが、今では、何でそんな無駄なことをしていたんだろう、不自然じゃないかと思うようになりました。汚れた格好をしようとは思いませんが、清潔であれば外見はどうでもよくなりました。人が何と思おうと気にしません。「人」も「私」もいないのですから。
愛想は相変わらず悪いのですが、人に対する受け止め方が以前とはまるで違います。他の人も私と同じように実在ではなく、自分の役割を演じているにすぎず、私と同じものです。争う必要も見下す必要もない。困っていたら助けてあげればいい。
ジョギングを毎日30分欠かさずするようになりました。ただ気持ちいいから。走っていると、景色が鮮明に見えるようになりました。視力が良くなったわけではないと思うのですが、どんな景色もすばらしい一枚の幻影に見えます。その景色の中に犬を散歩させる人がいて、遊んでいる子供たちがいて、彼らは一種の自然現象で、実際にはそこには誰もいない。わけもなく幸せです。
いろんなことを臨機応変にやるようになり、直感を信じて迷わなくなりました。以前は計画して心配して石橋を叩いて、それでいて渡らないみたいなことばかりしていましたが、今は自然に任せています。
嫌な思考や悩み事、心配事も時々やってきますが、そんなに真剣に相手をしなくなり、いつの間にか去っていきます。
今までの人生を振り返ってみると、セイラーボブの言うように、どんな時も、そこには意識がありました。苦しい事や嫌なことはあったけど、それは去って行き、意識(アウエアネス)だけが残っています。
これからもいろんなことが表面上は起こってくるでしょう。でもそれは見せかけであり去って行くものだと知っています。
もう何があっても大丈夫です。
私がセイラーボブの教えを完全に理解したと感じたのは、2018年10月末ぐらいで、まだそれほど日がたっていません。教えそのものを理解したのは2014年の年末頃でしたが、教えそのものに確信が持てず、その時点では大きな変化はありませんでした。
エンライトメントはないということはわかったものの、ではどうしたら、ボブの言っていることに実感、確信が持てるだろうかと漠然と思っていました。2018年10月末に完全に理解してからは、いろいろと大きな変化がありました。まだそれほど日が経ってないので、その変化を客観的に見るにはもう少し時間がかかると思うのですが、一応今現在の変化と心境を思いつくままに書いておきます。
私は長年生きているので、人並みに不幸なことはたくさん経験してきました。自然に生きていれば普通の人生だったと思うのですが、人生を何とかコントロールしたいと思った「私」のせいで、あまり普通とは言えない人生を歩いてきました。
ストーリーを語ってもしかたがないので詳しくは書きませんが、メンタルの不調、転職、身内の死、人との別れ、経済的な破綻、パワハラ、介護などなど。
全員がそうだとは言いませんが、スピリチュアルに魅かれる人の多くは何か問題を抱えてそういう世界に入っていくのではないでしょうか。
いろんな出来事が起こって、本当に苦しい時期を過ごした時期もありました。でも不思議なことに、自殺しようと思ったことは一度もありませんでした。自殺する勇気がなかったといえばそれまでですが、それ以上に、いつかエンライトメントが起きれば、すべてがチャラになるだろうという希望があったからです。そういう意味ではエンライトメントは私を長年助けてくれました。そのエンライトメントも最終的にはセイラーボブによって蹴り出されたわけですが。
スピリチュアルなことばかりやって生きてきたわけではないのですが、私の最大の願望はエンライトメントであり、苦しい人生から抜け出すためにそれを得ようと多くの時間やお金を費やして生きてきました。人から見れば、普通に生きているように見えたかもしれませんが。
エンライトメントを求めていたころは、ジェームズ・ブラハと同じで、気持ちよく目覚めたことなど、ほとんどありませんでした。いつも自分は不完全でエンライトメントしないかぎりは幸せになれないと思っていました。
毎日欠かさず瞑想をしていた頃は、何かの都合で瞑想できないと一日中イライラして、何のために瞑想しているのかよくわからない状態でした。エンライトメントを追うことに嫌気がさして、瞑想をしなくなってからは、毎日人生を無駄に生きている感覚が離れませんでした。
当時やっていた仕事は全く生きがいを感じられるようなものではなく、毎日ただ金をもらうためだけに時間と人生を浪費している感覚しかありませんでした。
セイラーボブの教えを理解して一番大きく変化したのは、エンライトメントなんてないと知った解放感です。それを知ってから、人生を無駄に生きているという感じがなくなりました。その感覚は、ボブの教えを完全に理解してから強くなりました。
エンライトメントを得るための焦りや苛立ちというのは完全に無くなりました。今思うと、どれだけそれが自分を苦しめていたのかがわかります。メンタルの面ではずいぶんと楽になりました。
もともと不眠症のような状態でしたが、最近はよく眠れるようになったし、眠らなくても全然気にしなくなりました。以前だったら、眠れないことそのものよりも、眠れないことへのいら立ちの方が大きかったのに、今はそれがありません。
睡眠をコントロールしようという「私」がいないのです。以前だったら、眠るためにはどうしたらいいのか、何時に床につけばいいのか、コーヒーは午後からは飲まない、などあれこれ考えて、それでも眠れないといらいらしていたのですが、今は毎夕食後にコーヒーを飲んでいます。それでも不思議と熟睡できて、仮に眠れなくても全然気になりません。
私もブラハと同じで、朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。何か人生の宿題を終えたような気分で、あとは楽しんで生きていけばいい、今日もまた一日始まるぞ、みたいな気分で起きます。
以前は一日の半分は過去の出来事を後悔して、残りの半分は未来の心配をするような生活で、まったく今ここを生きていませんでしたが、今は過去のことも未来のこともあまり考えません。無理にそうしているわけではなく、過去を悔んだり、責めたりする「私」がいないのです。未来をコントロールしようという「私」もいません。
遠い将来に計画を立てることもなくなりました。少し前までは、もう一度セイラーボブに会いに行って、そのあとあれをしてこれをしてという計画で、がんじがらめだったのに、今は自然に任せています。
以前は私を散々苦しめてきた強迫観念もどこかへ行ってしまいました。抵抗する「私」も、それをなんとかしようとする「私」もいなくなりました。恐怖や恐れが無くなったというのではなく、そういうことを考えるのを忘れてしまったような感じです。恐れる「私」がいないのだから当然なのかもしれません。
以前はあった孤独感がまったくなくなりました。孤独を感じる「私」もいません。そのかわりに、あらゆるものに神が宿っているのを実感するようになりました。今までは何とも思わなかった犬や猫にも自分と同じものが宿っていると実感して、かわいいと思うようになりました。草や木々にも神が宿っているのを感じます。万物に神が宿っているというのはこういうことなのかと思うようになりました。
人に対して抱いていた劣等感も優越感もなくなりました。人のことを好き嫌い、良い悪いで判断していたのが、今はただその人も表れとして現われているだけで、そこに独立した何かが存在するとは思えなくなくなりました。争う必要も見下す必要も卑屈になる必要もなくなりました。
電車に乗って大勢の人込みを歩いても、そこにいる人々は自然に生まれ、自然に死んでいく自然現象の一部にすぎないと思うようになり、何か、いとしい気がします。
以前は白髪を嫌って染めていたのですが、今では、何でそんな無駄なことをしていたんだろう、不自然じゃないかと思うようになりました。汚れた格好をしようとは思いませんが、清潔であれば外見はどうでもよくなりました。人が何と思おうと気にしません。「人」も「私」もいないのですから。
愛想は相変わらず悪いのですが、人に対する受け止め方が以前とはまるで違います。他の人も私と同じように実在ではなく、自分の役割を演じているにすぎず、私と同じものです。争う必要も見下す必要もない。困っていたら助けてあげればいい。
ジョギングを毎日30分欠かさずするようになりました。ただ気持ちいいから。走っていると、景色が鮮明に見えるようになりました。視力が良くなったわけではないと思うのですが、どんな景色もすばらしい一枚の幻影に見えます。その景色の中に犬を散歩させる人がいて、遊んでいる子供たちがいて、彼らは一種の自然現象で、実際にはそこには誰もいない。わけもなく幸せです。
いろんなことを臨機応変にやるようになり、直感を信じて迷わなくなりました。以前は計画して心配して石橋を叩いて、それでいて渡らないみたいなことばかりしていましたが、今は自然に任せています。
嫌な思考や悩み事、心配事も時々やってきますが、そんなに真剣に相手をしなくなり、いつの間にか去っていきます。
今までの人生を振り返ってみると、セイラーボブの言うように、どんな時も、そこには意識がありました。苦しい事や嫌なことはあったけど、それは去って行き、意識(アウエアネス)だけが残っています。
これからもいろんなことが表面上は起こってくるでしょう。でもそれは見せかけであり去って行くものだと知っています。
もう何があっても大丈夫です。
2019/02/12
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑱
1998年アムステルダムでのTVインタビュー
(32秒後に英語でのインタビューが始まります。このビデオは「ただそれだけ」p82に出てくるアムステルダムでのドイツのテレビ局によるインタビューです)
聞き手:ようこそ、ボブ。
ボブ:サンキュウ。
聞き手:あなたは内側の世界だけでなく、世界もまた多少旅してみえるわけですが、それは別にしても、セイラーボブというのは興味深い名前ですね。
ボブ:そうですね。
聞き手:あなたはオーストラリア人ですか?
ボブ:ええ、オーストラリア人です。オーストラリアのメルボルン出身です。
聞き手:オーストラリアは広大な国ですが、そこも旅されましたか?
ボブ:ええ。羊毛刈りの他に・・・。
聞き手:え? あ、羊のことですね。
ボブ:ええ。そして炭鉱でも働きました。
聞き手:きつい仕事ですね。
ボブ:ええ、きつい仕事です。他にもそういった仕事などをしました。
聞き手:私が説明しなくてはいけないことの一つは、あなたはたくさんの探求者を引き付けていますが、探求はあなたのメッセージではなく、あなたのメッセージは、私たちは探求する必要がないということです。
ボブ:そのとおりです。
聞き手:どうして私たちは探求する必要がないのでしょうか?
ボブ:なぜなら、あなたはもうすでにあなたが探しているものだからです。いにしえの聖典は教えています。神は全能、全知・・・、全能であると。そうであれば、その他の人や物に、どういった余地が残されていますか?
聞き手:それは、私たちは神の一部、つまり、私たちは神であるということですね。
ボブ:ええ、私たちは神です。
聞き手:たいていの人にとって、それを理解するのは難しいことです。というのも、私たちはそれほど幸せではないと思っていて、常に物質的な物や愛情、そういったものを求めているからです。あなたの人生において、それはどのように起こったのですか? あなたはまだ、「私は探求者ではない」と偶然にも、ええ、たぶん偶然にだと思いますが、言った時の話をしていません。
ボブ:私の人生では自己破壊的になっていた時期がありました。何年もアルコールの問題がありました。私は若いころから、神、高次の力、何と呼んでもいいのですが、どんな信仰も持っていませんでした。言い方を変えれば、そういった分野は閉ざされていました。でも最終的に、「12ステップ」の集まりに出会いました。
聞き手:それはとてもよく知られているものですね。12ステップとはアルコールや薬物中毒者向けの自己認識プログラムのことで、12ステップと呼んでいるのですね?
ボブ:そうです。そのステップの一つは、自分以外の力を信じなくてはいけないということです。なぜなら、その解決は霊的なものだからです。でも話したように、私には信仰がありませんでした。それでも驚いたことに、この集まりに出会い、私は酒をやめることができました。そして、「Sobriety and Beyond by a Catholic priest(カソリック神父による禁酒と超越)」という本を読みました。そこで、「私たちアルコール中毒者は人生において、もう一度チャンスが与えられている」という短い一節に出会い、それは正しいと思いました。なぜかというと、そのころの私は働くにも適さず、無職で、絶望してどうしようもない状態で、そんな時にその集まりに出会ったからです。なんとか酒はやめたものの、しばらくしてエゴの傲慢さが戻ってきて、また酒に手を出しました。でもこの本を手にして「私たちアルコール中毒者は人生において、もう一度チャンスが与えられている」と読み、なんとなくそれが私に必要・・・。
聞き手:それがあなたに必要だったのですね。
ボブ:それは必要でした。それは、まるでお腹を一蹴りされたようなものでした。根底にあったのは、そのもう一度のチャンスをどうやって活かしたらいいのかという問いでした。私がもう一度のチャンスを与えられたと思った時、私はまだ今日のような状態ではなく、そうなりたいと思っていましたが、それでも酒に手を出し、以前と同じような生活に戻る可能性もありました。というのも、そういう生き方を条件付けられていて、それが唯一の生き方だったからです。
聞き手:率直に言わせてください。あなたは酒をやめた。仕事もなく、収入もなく、やめざるえなかった。そして、12ステップに参加して、酒をやめると決心した。でも実際のところは強制的にそうせざるえなかったのであって、あなたの内側からのものではなかった。
ボブ:ええ。それは全く選択の余地のある行為ではありませんでした。もし選べるなら、また酒に手を出していたでしょう。どうしたら、もう一度のチャンスを活かすことができるだろうという問いがまた私を襲いました。その考えが起こった時思ったのは、そのもう一度のチャンスを活かす唯一の方法でした。そして私は、私にもう一度のチャンスを与えたのは何物なのかを探しました。神というようなものがいるのだろうかと。
聞き手:並外れた力?
ボブ:真実、もしくは実在です。それが調査の始まりです。
聞き手:その時何歳でしたか?
ボブ:まだ32歳でした。
聞き手:あなたはまだ若かったが、いくつかの苦難のために探求者になった。私たちはそう呼ぶのですが。そうでしょう?
ボブ:ええ、今はそれが自分の決断ではなかったとわかるのですが。
聞き手:それは起こったのですね。
ボブ:ええ、そうです。
聞き手:それは起こった。それは多くの人に起こった。私たちの多くは探求者です。そして悲しいことに生涯探求者のままです。私たちはある本から別のグルへ、サードチャーチへ、カルトへと、常に探求しています。今日でさえ新聞を開けば、とても多くの魅力的な見出しに出会います。「これは真実です」と。そして私は読み始め、失望するのです。なぜかというと、その本を書いている本人がそれを実践していないからです。
ボブ:ええ。
聞き手:それからあなたは世界を巡り始めたのでしたか? それとも、オーストラリアの街を探索したのですか?
ボブ:ええ、私は西洋人ですから、当然キリスト教を最初に調べました。そこでたくさんの救いをえましたが、何かに引っ張られかのように、1962年だったと思いますが、マハリシがオーストラリアに来た時・・・。
聞き手:それは、マハリシ・マヘッシ・ヨギですね?
ボブ:ええ。
聞き手:超越瞑想ですね?
ボブ:ええ。私が彼に会ったのは、彼がまだビートルズに会って有名になる前でした。彼の話を聞いた時、何か内側で響くものがあり、自分でテクニックを試して実行したところ、ある程度結果が出たのですが、一日か二日で普通に戻ってしまいました。マハリシは帰りましたが、メルボルンにはグループがあって、もしそう言いたければ、一連の偶然というものがあって、私が新聞を見て、誰かが街に来るか、何か催しがあるかと調べていたところ、小さな広告が載っていて、ヨーガに興味のある人は誰でもこのアドレスへとありました。訪ねてみるとそこで、私がマハリシから聞いた同じ話を録音したものを聞きました。その時は躊躇せずに入門しました。それは私の最初の霊的な経験でした。霊的な経験と霊的な目覚めには大きな違いがあります。
聞き手:そのことについて説明してください。あなたはそのテクニックを試しました。基本的にはマントラですね。彼らはあなたにマントラを授けた。そしてあなたはあなたのマインドの中でそれを繰り返し、最初は大きな声で、そして静かに。そしてそれは浮かんでくるすべての思考を追い払う。あなたはその理論を調べて、マントラを授かり、それでマインドを掃除した。それは機械装置ではないが、トリック、瞑想的手法によって、あなたのマインドを掃除して、普段の最優先の、お金や生活などの心配事の思考を追い払う。それはまるで、空間がやって来て、あなたをもっと幸せにする。ええ、霊的に目覚めるわけではないのですが、それは良い感じ、ええ、私はやったことはないのですが、それは素晴らしいテクニックですね。
ボブ:ええ。それは究極の答えではありませんでしたが、それによって、驚くような経験をして、それが私の人生を完全に変えてしまいました。私はそこで入門し、狭い部屋の中へ入り、マントラを授かり、あなたが想像するような普通のくだものと布切れを受け取りました。テーブルの上には彼のグルの写真がありましたが、わたしはちらっと見ただけで、それ以上注意を向けませんでした。というのも、私はテクニック、マントラに興味があり、それに取り組んでいましたから。それから二、三日後に、私は電車に乗ろうと家から駅まで、それは歩いて20分ぐらいですが、通りを歩いていたところ、写真にあった顔のイメージが私の内側で広がって乗っ取られるように感じました。それはとても大きな・・・。
聞き手:それはマハリシの写真でしたか?
ボブ:いいえ。マハリシのグルでした。
聞き手:それは誰でしたか?
ボブ:名前も知りません。
聞き手:でもそれはインド人?
ボブ:ええ。私は写真に注意を払わず、ちらっと見ただけだったのですが、そのイメージは彼に間違いありません。それがはっきりと私の知覚に侵入してきました。私はどんな薬も服用していませんでした。それはまるで光に照らされているような感じでしたが、その当時はその手のことをよく知らなかったので、何かに乗っ取られるように感じて、それを追い出しました。
聞き手:何か悪霊かなんかを見たと?
ボブ:ええ。でもそれは私の人生を全く変えてしまうほどパワフルでした。その日はそのあとで仕事に行きました。当時私は不安、心配、みじめさ、憂鬱でいっぱいで、とても怒っていて世間に憤慨していました。職場の同僚が変化に気づいて、「恋でもしているのか?」と聞きました。「そうだよ。でも女性じゃなくて、世界にだよ」と言いました。その時は一番高いビルから空中を歩いて降りられるような気分でした。しばらくはマハリシのテクニックを続けましたが、あまり良くなりませんでした。それでも調査は続けました。
聞き手:あなたが言ったあなたの人生の特別な瞬間のことですが、そのイメージはあなたを光で満たした。私たちはしばしばエンライトメントという言葉を使いますが、これは例えば、白い光とかそんな感じのものですか?
ボブ:ええ・・・。
聞き手:それはあなたの内側を変えたのですか、外側も変えたのですか?
ボブ:ええ、そうです。おそらく、説明できるとすれば、純粋な愛のようなものでしょうか。ごめんなさい。はっきり言えなくて。慣れてないので。
聞き手:それは視覚的な経験ですかそれとも肉体的な経験ですか?
ボブ:それは、肉体的視覚的そしてすべての時間、メンタル・・・。でもそれはロバの前にぶら下がったもののように、調査に対する興味を掻き立てるものでした。
聞き手:でもあなたは、それ以前は酒を飲んでいました。時々人々は酔っぱらって興奮状態になって幻覚を見ることがあります。ある人は、しばしば酒を飲む理由は、何と言えばいいか、何か他のものを見るためだと言います。あなたが現在達成した事やあなたが探していたことと、以前酒を飲んでいたこととは、おそらく潜在的に関係しているのではないですか?
ボブ:ええ、おそらく関係はあるでしょう。外側の世界を探す一つの方法として、最初は酒など手近なものに答えがあると思ったものですが、この出来事は、何か内側の世界というものがあるという最初の情報でした。今日では内側には心配症の人はもういません。
聞き手:ええ、もちろん私たちは最後には外側と内側を統合するのはわかるのですが、世界から麻薬やアルコール中毒者として見られている人々も、真摯に何かを探したいと思っているのではありませんか? あなたは、酒は全く生産的ではないと?
ボブ:最初の「イズム・主義」が私たちにやって来た時に二元性がやってきます。アルコールイズム、ドラッグイズム、キャピタリズム、コミュニズム、すべての「イズム」は二元性です。
聞き手:二元性が、私とあなたという分離を生むと。
ボブ:ええ、二元性は私と他者です。分離した自己と考えます。
聞き手:話を探求に戻します。超越瞑想を実践したあと、次のステップは何でしたか?
ボブ:いろんなことを調べました。1960年代に活躍した西洋人の神秘家ジョエル・ゴールドスミスにしばらくかかわり、1970年までにまた、いろんな出来事が続けて起こりました。そうした小さな出来事のつながりが納まるべき場所に納まるのは驚くべきことで、それはまるで今日私がこうしてここにいるなんて思いもしなかったのにそれが起こったようなものです。一つの出来事が別の出来事へと導き、私はジョエル・ゴールドスミスを知り、1970代の終わりに、新聞にインド人のグルの写真が載っていて彼がメルボルンに来ることを知りました。それもまだ彼が有名になる前でしたが、それがムクタナンダでした。写真を見た時に何かが、「この人に会わなくてはいけない」と言ったのです。そして彼に会ったのですが、私は彼を飛行場で出迎えた中の一人でした。そして1973年にインドにある彼のアシュラムへ行きました。そしてそこに、いわゆる悟りを開くまでいるつもりでしたが、一か月しか続きませんでした。雰囲気が強烈で受けつけませんでした。
聞き手:あなたは強烈と言いますが、あなたはオーストラリア人の船乗りで、たぶん多少荒っぽい男でしょう。あなたはインドに行き、そこは極端な世界で、貧困、富、寒さ、極端な暑さの世界。それに馴染めなかった?
ボブ:雰囲気がとても強烈で、怒りや憤慨などを掻き立てました。それはどこかに根深くあった・・・。
聞き手:それは、興味深い意見ですね。あなたはアシュラムへ行き、アシュラムに泊まることはいとわなかった。そしてあなたは怒りを感じて、それが掻き立てられて、あなたの中にあったものが外に出てきた。
ボブ:もしあなたがそう言いたければ、そこで起こっていたのは浄化のプロセス・・・。
聞き手:あなたはそれを得る前に、怒りと向き合わなくてはいけないのでは。
ボブ:それから私は帰国して、結婚しました。
聞き手:大きな変化ですね。どうして?
ボブ:当時45歳でしたが、その5年前に妻と出会い、付き合っている間はいくぶん山あり谷ありでしたが当時は安定していて他になすべきこともなかったので結婚しました。でも1975年までに、結婚生活があまりうまくいかなくなりました。私たちは別れ、その時もまだムクタナンダを師事していたので、彼のアシュラムへ戻りました。でもその時はすべてがまったく違いました。そこへ着くやいなや、やすらぎを感じ、雰囲気に馴染みました。おそらく、もしそう言いたければ、馴染むほど十分に浄化されていたからだと思います。そして私はアシュラムの規律に従いました。
聞き手:ちょっと待ってください。最初にアシュラムに行った時は、強烈すぎて帰った。そしてあなたは結婚を経験した。それは必要でしたか?
ボブ:ええ、でも私は一定の瞑想などをずっとしていましたから、探求そのものは1973年から1975年までは続けていました。それが私を開き、浄化したのかもしれません。本も読みました。1975年から1976年の3月の終わりまで、アシュラムで規則正しく熱心に誠実に修養しました。アシュラムの中には私を掻き立てて怒らせるような人もいましたが、グルへの忠誠心のため気になりませんでした。そしてある日私はボンベイの本屋に行ったところ、店員が「I am that」を手渡し、「この本を読むべきですよ」と言いました。私はこれもまた何度か私を導いた偶然の一つかもしれないと思いました。というのも何度も人から勧められたのに読まなかった本だったからです。何ページかめくってみたら、胸に響くものがありました。
聞き手:それは誰の本でしたか?
ボブ:それはニサルガダッタによって書かれたものではなく、モーリス・フリードマンによって翻訳された本でした。それは、ニサルガダッタの講話と質疑応答の本でした。
聞き手:その名前は初めてですね。彼の名前はニサルガダッタ? インド人のグルですか?
ボブ:そうです。
聞き手:彼はムクタナンダと関係ありますか?
ボブ:いいえ。全く関係ありません。全く違います。ムクタナンダはクンダリーニです。
聞き手:クンダリーニはヨーガのテクニックですか?
ボブ:ええ。シャクティパットを通じてクンダリーニを目覚めさせるテクニックです。
聞き手:それは肉体的なことですか?
ボブ:ええそうです。それは肉体的な経験です。たくさんの種類の違った霊的な経験をします。
聞き手:あなたはニサルガダッタの本を読んだ。彼はニサルガダッタ・マハラジと呼ばれていたのですね? それは偉大な師という意味ですか?
ボブ:ええ、それが彼の名前ですが、彼はボンベイの狭い家に住んでいて、ちょうどこのカメラのところぐらいまでの。そこは毎日何万という人たちが家の前を通る場所でしたが、誰も彼のことを知りませんでした。それでも人々は彼を見つけて世界中からやってきました。
聞き手:そしてあなたは彼に会った。
ボブ:ええ、本がそれほど助けにならないとわかったので直接会いました。
聞き手:それは興味深いですね。あなたが最初に彼に会った時、何か特別なことが起こりましたか? それとも・・・。
ボブ:ええ。
聞き手:私が何か特別な事と言うのは、とても素晴らしいグルで、とても有名で、後光がさしているとか・・・。
ボブ:ええ。彼は私に、「私」は私が信じているような人ではないとはっきり理解させてくれました。
聞き手:彼はあなた自身が見える鏡を差し出してくれたということですか?
ボブ:ええ。そう言えると思います。彼は私に示してくれました。もし私が自分の信じているもの、考え、概念を見て調べれば、虚偽は調査に耐えることができません。そして彼は、私が信じているものはそうではないとはっきりと示してくれました。
聞き手:ちょっと待ってください。あなたは彼に会い、彼はあなたにそれを教えたと言いました。それはどんなふうに起こったのでしょうか? それは認識が起こったのでしょうか?
ボブ:ええ。最初の日に外に出て「もう二度とマインドには捕らえられないぞ」と言いました。私ははっきりと理解しました。でも習慣のパターンはとても強力で、当然私がドアを出るやいなや、それはまた戻ってきました。でもそれは、もう二度と同じではありませんでした。それは、つかまる場所を失ったのです。
聞き手:あなたは、以前はマインド、自分の考えに閉じ込められていたと言うのですか?
ボブ:ええ。
聞き手:それが止まったと。そして、あなたがドアから出ると、それがあまり活発ではなくなったと言うのですか? それは普通そんなふうに起きるのですか? 人々は強烈な経験をしてそしてそれが去り・・・。
ボブ:そんなふうには去りません。思考はすべて習慣的なパターンとして起こってきますが、その時以降、根底には常に幸福感、つまり何も悪くはなく、すべてうまくいっているという感覚があります。
聞き手:何も悪くない。
ボブ:悪い習慣が、つかまる場所を失ったら、何も悪いことはありません。どうして以前のままでいられるでしょうか。
聞き手:オーケー。(手元の文書を読みながら)「私は誰かに話しかけいるわけではありません。私がマインドに話しかけているわけでもありません。私はその(私はいる)に話しかけています。それが私、今ここにある意識です。そしてそれはマインドに(私はある)という思考となって現れます。それが私であり、他のものではありえません。それは自然な状態、実在、汝それなりへの直接かつ即時の手引きです。これはセイラーボブが表明していることの一つです」。さてこれは、ある文書にある文章で、これは世界中で読まれています。そして人々はあなたの教えに引き付けられています。それが、あなたが最近行っていることですね。あなたは世界をまわり、この「私は誰か」を教えています。
ボブ:教えるということではなく、人々に彼らが自分自身であると信じているものがそうではないと指摘しているにすぎません。私は自分で調べるようにと言っているだけです。私は誰にも何も教えはしません。
聞き手:あなたの教えの本質は、彼らが自分だと思っているものは投影にすぎないと?
ボブ:私の教えの本質は、誰も自身の存在を否定することはできないということです。自分が存在するという事実は彼らが絶対に否定できない唯一の現実です。誰も自身の存在を否定することはできません。みなそれぞれ、「私はいる」と知っています。その思考の「私はいる」は実在ではありません。それが、あなたがマインドでそれの一番近くまで行けるところです。
聞き手:でもそれはマインドですね。「私はいる」と言うのはマインドですね。
ボブ:「私はいる」と言うのはマインドですが、実在は思考の「私はいる」より以前にあります。私たちは一日中、「私はいる」「私はいる」と言っているわけではありません。知る働きは常にそこにあります。でも、それは「私はいる」という思考となってマインドに現われます。そして、思考となってマインドに現われやいなや、それは二元性です。「私はいる」が現れるやいなや、あなたや他の人もいるにちがいないとなるからです。
聞き手:ということは、あなたがあなたの存在、「私はいる」を認めるやいなや、あなたは直接の経験から離れてしまう?
ボブ:ええ。
聞き手:でもその何がいけないのですか? たいていの人は世間に出て、「私はいい恰好をしていない」「ちゃんと髭を剃らなかった」などと言って行動したり、行動を変えたりします。そのどこがいけないのですか?
ボブ:もしあなたが現実は実在ではなく見せかけにすぎないということを理解していれば、何も悪いことはありません。もしそう言いたければ、すべては純粋な知性エネルギーです。それは知る働きの活動です。その知る働きがマインドを通して現れるやいなや、それはそのように見えるだけで、それはもはや実在ではありません。あなたがそれは実在ではないと理解している限り、何の問題もありません。それは現れ続けます。あたかも私たちが外に出て、きれいな青い空だと言うようなものです。でもあなたも私も空が青くないことを知っています。私は二週間前にここへオーストラリアから数千マイルを飛行機で飛んで来ましたが、青さが消えることはなく、はるかかなたにありました。空は空間であり、そこには青さはありません。青さは見せかけにすぎません。私たちは真実を知っています。あなたも私も、なんてきれいな青い空と言いますが、私たちは真実を知っています。それでもまだ、それは青く見えます。でも私たちはもうそれに縛られることはありません。もし・・・。
聞き手:でもあなたの人生の物語によれば、私は酒浸りだ、私はこれだという自分のイメージを持っていて、今やそれは見せかけにすぎないと手放した。その見せかけは私の一部で、マインドが私に対して観察、判断しているにすぎない。
ボブ:その見せかけも、実在以外のものではありません。でもそれは実在とは違って現れています。あなたは腕輪、ブレスレット、イアリングを手に入れます。それらの本質は何ですか? それらは金でできています。その本質は金です。あなたは腕輪を溶かして腕輪にすることはできません。それを溶かせば金になります。この見せかけが何であろうと、それは全能、全知、偏在から外れることはありません。それは、他に何もない一つのものです。ヒンズーの言葉では、他になにもない一つのものと言います。仏教の最高の教えのゾクチェンの言葉では、ただそれだけ、今ここにある意識と言います。
聞き手:超越瞑想の話に戻りたいと思います。それはマインドのラベルを押しのけるテクニックですね。なぜなら、私たちが「私はいる」と言っても、それはラベルにすぎないとあなたは言いました。私たちはそれを調べて、そこには私はいないということを調べなくてはいけない。そのテクニックでそれを押しのけて、一定の静けさを達成する。もし全く名前を付けたり枠にはめたりレベルを貼ったりせずに、このアウエアネスの中で生きると私たちはとても静かで幸せに暮らせるとおっしゃるのですか?
ボブ:いいえ。瞑想の対象となるものは何もありませんし、私は瞑想したいとも思いません。その点から見れば、あなたが瞑想していなかった時はありません。それは継続的な瞑想です。私たちが、どんなに懸命にどんなに長く探してもマインドの中には答えはないと知ってマインドの中を探し続けなければ、それでもそこにはマインドはあるのですが、それがあなたを苦しめることはもうありません。
聞き手:無くなりますか?
ボブ:ええ。
聞き手:もし、「あれをしろ、これをしろ」「これは良い、あれは悪い」「このテーブルはこうしなくて」というようなマインドの中のこの継続的なプロセスを、もし私たちがこうした思考、投影を脇に置くことが出来れば。でも、そうなると、私たちは空の貝殻のようになりませんか? 私はわかりやすく、空の貝殻と言ったのですが。
ボブ:実在はこの瞬間です。それが命です。私たちが昨日に縛られて、明日を憂いて生きるなら、今を生きていません。完全にここにいて、今ここを生きていることにはなりません。もし、私たちが昨日に縛られて、明日を憂いて生きるなら、今この瞬間にいる機会を失います。あなたが頭の中にいようがいまいが、まさにこの瞬間だけが現れです。すべてのことがありのままに現れています。純粋な知性がすべてとなって現れています。聞く働き。あなたは私の声だけを聞いているわけではありません。外の他の物音も聞いています。あなたは単に見ているだけではありません。あなたは私を含めてすべてを見ています。あなたはこの部屋の中のあなたの周りのいろんな色や物などを見ています。すべてはありのままに現れています。それはありのままなのです。それは変えることも修正されることも正されることもありません。人間の思考がやってきてやろうとするのは、過去のイメージや未来の想像に基づいてそれを変えようとしたり、修正しようとしたり、正そうとしたりすることです。どうして私たちはそうあるべきではないと考えるのでしょうか? なぜそのままではいけないのでしょうか? その比較上の観点からすべてが判断され、見かけ上、私たちは瞬間から遠ざかり、見ているものをありのままに見ることがありません。私たちは、それがこうあるべきだというふうに物事を見ます。そしてそれが葛藤を生みます。私たちは葛藤の中にいます。
聞き手:さて、このメソッド、教えは、マインドを捨て去るとは言いませんが、それは私たちの一部であり、それ自体は物ではないと知ることです。あなたはヨーガの教えについては話しませんが、ヨーガはもっと体全体を感じて、その他の物事を取り除く。もし我々を体、ハートか感情、マインドと分けた場合、ハートと体はマインドよりも重要ではなく、それも脇に置くべきだと思いますか?
ボブ:この体を見てください。今この瞬間、それは何の努力もなく機能しています。今この瞬間私の髪の毛、私の髪とは言いませんが、私の髪の毛は成長しています。私の指の爪も成長しています。細胞は置き替えられています。私は呼吸し、心臓は拡大収縮しています。でも私はそれをするためにいかなる努力もしていません。それは努力なく起こり、純粋な知性エネルギーが機能しています。そして思考も起こっています。そしてその思考を通して、それを私がやっていると思っています。その自己の中心である「私はいる」という思考がそれをやっていると信じています。そしてそれはこのショー全体を支配していると思っています。もしあなたがこの存在、つまりアウエアネス無しでは一片の思考も持てないと理解したら・・・。私たちの体は子宮の中で成長します。子宮の中で脳が形成される以前に、マインドが形成される以前に心臓は自然に鼓動しています。
聞き手:でも生まれ出てから、エゴを必要とし、発達させ、そしてそれを私たちは「私」と言います。そしてそれは「私はいる」「これは私の体」「私はこれをしている」と言います。もし私たちがそのエゴを無くすと、エゴと一緒に良い事も無くすことになりませんか。ドライブをしたり、世界を変えたり、貧しい人たちに食べ物を与えたりとか。
ボブ:あなたは、エゴは幻影であると知るでしょう。あなたにお尋ねします。あなたは今見ています。あなたは今聞いています。あなたの目は「私は見ている」と言いますか? あなたの耳は「私は聞いている」と言いますか? 答えはノーです。「私は見ている」「私は聞いている」という思考は起こってきます。でも、その「私は見ている」という思考は見ることができますか? 「私は聞いている」という思考は聞くことができますか? できません。「私は見ている」という思考は見ることはできません。ということは「私は見ている」という思考には力がありません。それはアウエアネスすなわち意識、あなたが使いたければどんな表現でもかまいませんが、思考はそれに頼っています。それはまるで私たちがコンピューターの中にすべての情報を持っているのに電源がオンになっていなかったら、どんな情報も引き出せないのに似ています。同じことが思考の「私」にも言えます。私たちが「私」という思考を信じるやいなや、その単なる「私」という思考にすべての過去の経験や条件付けが付加されます。それが自身のイメージを形成し、エゴとなります。自身が自分対して抱いているイメージは過去の出来事や経験に基づいています。
聞き手:でもあなたはそれを取り除くことができるとおっしゃいました。それは理解しました。
ボブ:それは取り除くということではなくて・・・。
聞き手:それは架空のものであると? それはマインドの構築物であると。わかります。
ボブ:ええ。それは空のようなもので、それをあなたはどうする必要もありません。あなたはそれを理解してそれをありのままに見ることです。そうすればそれは以前のようにあなたを縛りつけることはなくなります。
聞き手:オーケー。さて、人々があなたを求め、あなたが説明していることは、あなたがニサルガダッタという人に会って、あなたのエゴが変化した。もしくは、あなたはエゴではないと理解した。それは強烈な変化です。たくさんの人が世界中からやってきてあなたの話を聞きましたが、彼らはそういう強烈な変化を感じていません。彼らは依然としてエゴに縛られています。彼らは依然としてエゴに取り組んでいます。例えば、ボブは、エゴは私の主人であるべきではない、それを現実の中で調べるべきだ、と言っている。それは理解した。でも、それを達成するには恐怖があります。私たちはエゴ無しでは生きられません。私が幼い時、それはよく機能しました。泣かなかったら食べ物にありつけません。もっと泣けばママは食べ物やなんかをくれます。それはとてもよく機能しました。なぜ私たちはこの幻影を片付けなければいけないのでしょうか?
ボブ:あなたはそれを片付ける必要はありません。顕現はマインドを通してやってきます。私たちが唯一持っている道具はマインドです。それが、唯一私たちが持っているものです。そしてもしそれが理解されれば、それはとても創造的は道具となります。あらゆる芸術や美などすべてがマインドからやってきました。このビルも誰かのマインドにあった考えです。それが現れているのを見てください。私たちはそれをどうする必要もありません。そうでなければ自己破壊的になります。その「私」という思考が全体になりたいと思った時、その「私」という思考が最初にすることは、最初の分離を生むことです。それがマインドにやって来るやいなや、マインドは反対の極に向けて考えるようにと機能するからです。もしそれが過去、それは記憶、でなければ未来、それは想像の期待。その間で機能します。善悪、肯定否定、幸不幸、なんでも。マインドをありのままに見ることができれば、マインドがあなたを拘束することはもうありません。あなたはもう分離していません。そこにもはや分離はありません。「私」という思考がやって来るやいなや、分離は差し迫った不安となります。それは差し迫った傷付きやすさです。それがやってくる二歳のころ、私たちは安全を探し始めます。私たちは幸福を探します。そして条件付けが起こります。誰かが悪いわけではありません。両親や誰かが悪いわけでもありません。私たちはそれを探すように条件付けられています。何よりもまず暖かい家族が「私」の周りにいれば、「私」はもっと安心します。そして「私」がお金、富、良い車、良い家、良い人間関係を手に入れれば、これらのことはもっと安心感を与えます。そしてそうしたことがもっと起きるようにと思うようになります。そして私たちは神を創造しました。もしそれをこの一生で手に入れられなければ・・・。
聞き手:次の一生?
ボブ:そうです。でもそういったことはすべて期待であり想像、概念です。
聞き手:人々はあなたのところへ話しを聞きに来て、あなたがそうであったように、彼らはこの理解を手に入れることができるでしょうか? というのも、あなたが「マインドにやってくる」と言う時、私はそれを聞いてそれが自分のマインドにやってきて、その感覚を手に入れて、毎回私の指の間をすべって落ちるような感じがしてこう言っています。「ちょっと待って。私の存在を受け入れているのは私で、それを片付けるのも私です」。それが「私」、エゴに支配されない状態に恒久的になりえるでしょうか?
ボブ:その「私」を、もしありのままに見ることができれば、もうそれに縛られることはありません。それがそこにあるかないかは問題ではありません。あなたは、そこに「私」という思考があろうとなかろうと、機能は以前と同じように続いているということを理解しなければいけません。私が言ったように、それは今も起こっています。普段の状態で、呼吸など命に関わる事でマインドが果たしている役割はほんのわずかです。「私」という思考はそこにあります。それは利用できます。それが何を捕らえていようと、それは本当の私ではないという認識があれば、私が言ったように、青い空や、私たちが美しい日の出と言う時、太陽が東から登って西に沈むのは真実ではなく、地球が太陽の周りをまわっているという真実を知っていれば、私たちはもうそれに縛られることはありません。それでも私たちは言うでしょう・・。
聞き手:美しいと。
ボブ:ええ。それを認識することで、自己の中心への束縛はすべて落ちていきます。もし私が自己の中心がここにないと理解すれば、他者にもそれはないと理解するはずです。そうなれば、誰が私よりも優れているのでしょうか? 誰が私より劣っているのでしょうか? 分離の感覚はもはやありません。
聞き手:でも今でも私は例えばアンドリュー・コーエンのような人たちがやっていることを耳にします。彼は世界中を巡り、エンライトメントに関する本を書いて、エンライトメントした人と、エンライトメントしていない人がいると言っていて、その本にはどうやってそれを手に入れるかについて書いてあります。コーエン氏がそれを成し遂げたと仮定して他の何人かもそれを成し遂げたと仮定して、私はそういったことに少し反感を感じます。なぜかと言うと、あなたは私とは違うし、私たちはアンドリュー・コーエンとは違う。目覚めた人がいて、目覚めていない人がいるというように、世界を分けて見るようなことがどうして可能なのでしょうか? もし神が、あなたが言うように私たちみんなの中にいるのなら、私たちはみんなエンライトメントしているのではありませんか? でもそんなふうには見えません。
ボブ:そのとおりです。エンライトメントなどというものはありません。それは作り話です。もし私がいなければ、もしここに(自己の)中心がなければ、そこに分離はありません。もし分離がないのなら、誰がそこにいるのですか、つまり、誰がエンライトメントするというのですか?
聞き手:ということは、私たちはありのままなのですね、
ボブ:あなたはあなたのままです。あなたはもうすでにあなたが探しているものなのです。あなたはずっとそうでした。自分は分離しているという考えがあなたの束縛です。あなたがその考えを調査すれば、それは単に思考であり、それは何の力も持っていないとわかるでしょう。「私」に何ができるでしょうか。もしここに自己の中心がなければ、今までも無かった。そして、人生におけるすべての活動は起こりました。私の人生で起こったことは私の個人的な意思で起こったわけではありません。それは偶然に起こりました。私はアルコール中毒になろうとしてなったわけではありません。私は精神世界の探求者になろうとしてなったわけでもありません。それはそんなふうに起こり、私をさまざま出来事へと連れていったのです。私が今いるところに話を戻しますが、実際には何が起こったのでしょうか? 概念、経験、呼びたければ何と呼んでもいいのですが、それは見せかけのことであり、私の本質は何も変わっていません。誰も何も変化しません。私が言ったように、腕輪であろうとブレスレットであろうとイアリングであろうと、それは依然として金なのです。それがどんなふうに見えようと。
聞き手:現実的な事に戻りましょう。これはあなたがニサルガダッタに会った1976年に起きました。私たちは今、1996年にいます。えっと、1998年にいます。その22年間に何が起きましたか?
ボブ:インドから帰ったのは1977年の初めだと思いますが、このことを話したいと思っていて、そして話し始めました。それ以来話し続けています。
聞き手:あなたは、それについて話すとおっしゃる時、あなたが、それとも人々があなたを見つけるのですか、そして人々が質問するのですか? それともあなたが私にしたのと同じ話をするのですか?
ボブ:ええそうです。
聞き手:人々はどんな質問をするのですか?
ボブ:私は様々な異なることから始めます。ドラッグやアルコールの問題を抱える人がやって来ます。
聞き手:それが一つの視点ですね。別の視点は探求している人々ですね。
ボブ:ええ、探求している人は、自分が分離しているという思考を抱えて常にやって来ます。それを抱えてすべての人がやって来ます。そして彼らにこう指摘します。分離などというものはありません。どんな分離もありません。それは現れにすぎません。調査してそれを彼ら自身で見ることによって。ええ、見ることはとてもシンプルです。そこに分離というものがあるというのはあなたが抱いているイメージにすぎません。あなたは自身を空気と分離することはできません。あなたは自身を地球と分離することはできません。
聞き手:ボブ、現実の話をします。ローマ法王は、反宗教者たちのことについて人々に向けて手紙を書いたばかりです。その中でこう言っています。(手元の文書を読みながら)「ニューエイジの考え方や東洋の哲学はとても悪い。なぜならそれは人々が神と等しいと感じさせてしまうからです。そして我々教会としてはむしろ教義に基づく保護者的な考えを信じてもらいたい。私たちは何が真実か告げるので、あなたたちはそれに従わなければなりません。すべてのニューエイジ思考、(ええ、実際にはオールドエイジの思考だと私は認めますが)東洋の思想は良くありません」。あなたは西洋と東洋両方を旅しました。どうしてローマ法王はこんなことを言うのでしょうか?
ボブ:もし彼が神は全能、全知、偏在であると理解するなら、変えようとしている彼は誰なのですか? 彼は何を変えようとしているのですか?
聞き手:でもあなたがインドを旅した時、このメッセージはヒンズーの人々や仏教徒の人たちにとってはより理解しやすいものでしたか?
ボブ:いいえ、彼らが立ち止まって自分自身を調べ始めないかぎり簡単ではありません。私たちは外を見るように条件付けられています。そして答えは決して外にはありません。それは単に向きを変えて、自分が信じているものが何なのかを調べるということです。これが私の条件付け、これが社会の条件付けと。最初に家族、そして部族、国家と調べます。国家は不安感、分離の感覚のために戦争を起こします。でも立ち止まって調べてください。虚偽は調査に耐えません。いったんあなたが調べて見始めると、そこには私たちが自分だと思っているイメージがあり、それは何の力も持っていません。火の中の鉄の例え話があります。ひとかたまりの鉄を火の中に入れると、それは火のように赤くなります。それは火のように熱くなってあなたが掴むと火のようにやけどします。でもそれを火の外に出すと、それに何ができるしょうか? この「私」という思考に何ができるでしょうか? あなたはそれが見ることも意識することもできないことを知っています。「私」に何ができるでしょうか?
聞き手:それは戦争を起こしました。それは貧富の差をもたらしました。
ボブ:そう信じられているだけです。それは調査されていません。もし調査されれば、それには何の力もありません。
聞き手:でもボブ、人々は言います。私たち二人はここアムステルダムの西に座っていて、今朝朝食を食べました。適度に暖かいし、私たちは世界の中でも比較的裕福です。でももし私がインドにいて、とても貧しい男で、何も食べてなくて飢えていたら、私は言うでしょう。「マスターボブ、あなたの言うことはわかるが私はお腹が空いています」。そしたらどうしますか? あなたのメッセージによれば、「ああ、お腹は空いている。でもそれは思考にすぎない」と言うべきですか? 思考は現実ではありません。現実は空っぽのお腹です。世界の現実の問題にはどう対処したらよいのでしょうか?
ボブ:でもそれは現実に起こっていることです。私がこれを理解する時、すべては見せかけです。実際には何が起こっていますか? それでも私は本質からは離れていません。もしそれが起きるなら、起きるのです。なんと説明したらいいでしょうか・・・。
聞き手:でも現実にあなたはインドを旅しました。そこにはとても貧しい人々がいます。そのことについてはどうでしたか? あなたは彼らにお金をあげましたか?
ボブ:もし私がお金を持っていて、彼らにあげる気が起きればあげるでしょう。もし持っていなければあげません。何がやってこようと、自然の機能が何をここに運んでこようと、それは起きます。
聞き手:それは現実的なことですね。例えばそれが私の人生の中で私に起こったら、もし私が貧しい人に会ったら、私は彼らを助けるでしょう。私たちはそれほどはっきりと自分たちの外のことを考えてはいません。例えば、もしインドに行って人々に会ったらお金をあげるかとか、テレビでアフリカの貧しい人びとを見てお金をあげたことがあるかとか。それはマインドのゲームだということには同意します。でも実際の状況では私たちと、私たちが毎日会う人では違いがあります。あなたはそれが真実ではない、違いはないと言いうのですか?
ボブ:私は、違いはないと言います。それでもすべては現れです。それでもそれは一つの実在で、それは決してそれ以外ではありませんでした。見せかけはそう見えているだけです。
聞き手:でもどうしたらいいか教えてください。もし私がお金を持っていても、物乞いの前を通り過ぎるべきでしょうか?
ボブ:あなたは物乞いの前を通り過ぎたいのですか? それとも通り過ぎたくないのですか? ある時は通り過ぎたいと思い、また別の時は通り過ぎたくないと思う。何があなたを私にインタビューする気にさせたのですか? あなたは私のことを知らなかったし会ったこともなかった。
聞き手:それは起こりました。私が選択したのではないと言うことはできると思います。なぜなら、それは起こり、私は人生で起こったことを良かれ悪しかれ喜んで受け入れます。
ボブ:それを人々がやることに適用できると思いませんか? 金持ちであろうと貧しかろうと。私もあなたと同じように選択権があると思っていました。そして私は、「私」には選択権がないと知っています。それは起こっています。
聞き手:話を元に戻すと、あなたの言うのは、人生を自分で変えられるという考えを求めること、霊的な師を探してエンライトメントを得るということは幻想ということですか? 私たちは仕事に精を出し、必要なことをすべきなのですか?
ボブ:ええ、あなたは仕事をして、何であれ必要なことをします。でも、あなたに選択権はありますか? いいえ。もしあなたが探求者なら、そういうところへ行くのもいいでしょう。私たち、いわゆる人間は、「私」がとても重要だと思っています。でも、何千人という人々が、蚊が原因の病気やネズミが原因の疫病などで、あちこちで亡くなっています。私たちはそれに注意を払いますか? すべてのことは私たちが自分に対して抱いている自己の中心のイメージに帰結します。それが基準点となり、すべては基準点に関連しています。でもその基準点は真実ではありません。なぜならそれはまだ、意識(consciousness or awareness)の内側にあるからです。あなたが物事を判断しようとすれば、真実の基準点から見る必要があり、そうするためには意識の外に出なければなりません。でもそれは不可能です。そんなに前ではないのですが、太陽に関するビデオがありました。それは拡大鏡を建設した時のビデオで・・・。
聞き手:望遠鏡?
ボブ:ええ。望遠鏡は宇宙のはるかかなたに到達して地球が小さな点に見えるまで倍率を上げました。そこにはよく知られた太陽系の姿はありませんでした。そして、私は、ここオランダのどこかで裏庭に出て、コップ一杯の水を汲みました。その中にはあらゆる種類の生命がいました。その小さな微生物たちには人間の70年、80年という一生を想像することはできません。外の世界、例えば240億光年のはるかかなたに行って、振り返ってみれば、それはほんの一瞬のことかもしれません。それはちょうど人間が昆虫の一週間を理解できないようなものです。すべての物事は基準点に関連していて、どこに基準点があってもそれは真実ではありません。世界の矛盾を見る時も、それは言葉に基づいたイメージにすぎません。そして言葉は決して現実ではありません。私は「水、水」と残りの一生で言い続けることはできますが、それで喉の渇きをいやすことはできません。「火、火」と言っても口をやけどしません。私が「私」という時、それは何のことを言っているのでしょうか? 私は自分自身のイメージを持っています。それは言葉です。昔のことわざに「棒や石は骨を砕くかもしれないが、言葉は少しも私を傷つけない」というのがあります。もし誰かが私を侮辱したとします。そうしたら私はどうするでしょうか? 私は何週間も何週間もその言葉のことを考えて、それが怒りとなります。それはどんどん大きくなって動き始めます。私は言葉に支配され、たたきのめされます。でももし私が殴られて傷や打撲を負っても、もっと早く治っているでしょう。
聞き手:それは現れに私たちの人生を支配することを許すことになる。今日はボブ・アダムソンから学ぶことができました。現れはそのように見える。「私」という私たちが思っている内側の存在は想像、投影であり、ありのままの私ではありません。それは思慮深いメッセージです。サンキュー、ボブ。
ボブ:サンキュウ。
(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)
(32秒後に英語でのインタビューが始まります。このビデオは「ただそれだけ」p82に出てくるアムステルダムでのドイツのテレビ局によるインタビューです)
聞き手:ようこそ、ボブ。
ボブ:サンキュウ。
聞き手:あなたは内側の世界だけでなく、世界もまた多少旅してみえるわけですが、それは別にしても、セイラーボブというのは興味深い名前ですね。
ボブ:そうですね。
聞き手:あなたはオーストラリア人ですか?
ボブ:ええ、オーストラリア人です。オーストラリアのメルボルン出身です。
聞き手:オーストラリアは広大な国ですが、そこも旅されましたか?
ボブ:ええ。羊毛刈りの他に・・・。
聞き手:え? あ、羊のことですね。
ボブ:ええ。そして炭鉱でも働きました。
聞き手:きつい仕事ですね。
ボブ:ええ、きつい仕事です。他にもそういった仕事などをしました。
聞き手:私が説明しなくてはいけないことの一つは、あなたはたくさんの探求者を引き付けていますが、探求はあなたのメッセージではなく、あなたのメッセージは、私たちは探求する必要がないということです。
ボブ:そのとおりです。
聞き手:どうして私たちは探求する必要がないのでしょうか?
ボブ:なぜなら、あなたはもうすでにあなたが探しているものだからです。いにしえの聖典は教えています。神は全能、全知・・・、全能であると。そうであれば、その他の人や物に、どういった余地が残されていますか?
聞き手:それは、私たちは神の一部、つまり、私たちは神であるということですね。
ボブ:ええ、私たちは神です。
聞き手:たいていの人にとって、それを理解するのは難しいことです。というのも、私たちはそれほど幸せではないと思っていて、常に物質的な物や愛情、そういったものを求めているからです。あなたの人生において、それはどのように起こったのですか? あなたはまだ、「私は探求者ではない」と偶然にも、ええ、たぶん偶然にだと思いますが、言った時の話をしていません。
ボブ:私の人生では自己破壊的になっていた時期がありました。何年もアルコールの問題がありました。私は若いころから、神、高次の力、何と呼んでもいいのですが、どんな信仰も持っていませんでした。言い方を変えれば、そういった分野は閉ざされていました。でも最終的に、「12ステップ」の集まりに出会いました。
聞き手:それはとてもよく知られているものですね。12ステップとはアルコールや薬物中毒者向けの自己認識プログラムのことで、12ステップと呼んでいるのですね?
ボブ:そうです。そのステップの一つは、自分以外の力を信じなくてはいけないということです。なぜなら、その解決は霊的なものだからです。でも話したように、私には信仰がありませんでした。それでも驚いたことに、この集まりに出会い、私は酒をやめることができました。そして、「Sobriety and Beyond by a Catholic priest(カソリック神父による禁酒と超越)」という本を読みました。そこで、「私たちアルコール中毒者は人生において、もう一度チャンスが与えられている」という短い一節に出会い、それは正しいと思いました。なぜかというと、そのころの私は働くにも適さず、無職で、絶望してどうしようもない状態で、そんな時にその集まりに出会ったからです。なんとか酒はやめたものの、しばらくしてエゴの傲慢さが戻ってきて、また酒に手を出しました。でもこの本を手にして「私たちアルコール中毒者は人生において、もう一度チャンスが与えられている」と読み、なんとなくそれが私に必要・・・。
聞き手:それがあなたに必要だったのですね。
ボブ:それは必要でした。それは、まるでお腹を一蹴りされたようなものでした。根底にあったのは、そのもう一度のチャンスをどうやって活かしたらいいのかという問いでした。私がもう一度のチャンスを与えられたと思った時、私はまだ今日のような状態ではなく、そうなりたいと思っていましたが、それでも酒に手を出し、以前と同じような生活に戻る可能性もありました。というのも、そういう生き方を条件付けられていて、それが唯一の生き方だったからです。
聞き手:率直に言わせてください。あなたは酒をやめた。仕事もなく、収入もなく、やめざるえなかった。そして、12ステップに参加して、酒をやめると決心した。でも実際のところは強制的にそうせざるえなかったのであって、あなたの内側からのものではなかった。
ボブ:ええ。それは全く選択の余地のある行為ではありませんでした。もし選べるなら、また酒に手を出していたでしょう。どうしたら、もう一度のチャンスを活かすことができるだろうという問いがまた私を襲いました。その考えが起こった時思ったのは、そのもう一度のチャンスを活かす唯一の方法でした。そして私は、私にもう一度のチャンスを与えたのは何物なのかを探しました。神というようなものがいるのだろうかと。
聞き手:並外れた力?
ボブ:真実、もしくは実在です。それが調査の始まりです。
聞き手:その時何歳でしたか?
ボブ:まだ32歳でした。
聞き手:あなたはまだ若かったが、いくつかの苦難のために探求者になった。私たちはそう呼ぶのですが。そうでしょう?
ボブ:ええ、今はそれが自分の決断ではなかったとわかるのですが。
聞き手:それは起こったのですね。
ボブ:ええ、そうです。
聞き手:それは起こった。それは多くの人に起こった。私たちの多くは探求者です。そして悲しいことに生涯探求者のままです。私たちはある本から別のグルへ、サードチャーチへ、カルトへと、常に探求しています。今日でさえ新聞を開けば、とても多くの魅力的な見出しに出会います。「これは真実です」と。そして私は読み始め、失望するのです。なぜかというと、その本を書いている本人がそれを実践していないからです。
ボブ:ええ。
聞き手:それからあなたは世界を巡り始めたのでしたか? それとも、オーストラリアの街を探索したのですか?
ボブ:ええ、私は西洋人ですから、当然キリスト教を最初に調べました。そこでたくさんの救いをえましたが、何かに引っ張られかのように、1962年だったと思いますが、マハリシがオーストラリアに来た時・・・。
聞き手:それは、マハリシ・マヘッシ・ヨギですね?
ボブ:ええ。
聞き手:超越瞑想ですね?
ボブ:ええ。私が彼に会ったのは、彼がまだビートルズに会って有名になる前でした。彼の話を聞いた時、何か内側で響くものがあり、自分でテクニックを試して実行したところ、ある程度結果が出たのですが、一日か二日で普通に戻ってしまいました。マハリシは帰りましたが、メルボルンにはグループがあって、もしそう言いたければ、一連の偶然というものがあって、私が新聞を見て、誰かが街に来るか、何か催しがあるかと調べていたところ、小さな広告が載っていて、ヨーガに興味のある人は誰でもこのアドレスへとありました。訪ねてみるとそこで、私がマハリシから聞いた同じ話を録音したものを聞きました。その時は躊躇せずに入門しました。それは私の最初の霊的な経験でした。霊的な経験と霊的な目覚めには大きな違いがあります。
聞き手:そのことについて説明してください。あなたはそのテクニックを試しました。基本的にはマントラですね。彼らはあなたにマントラを授けた。そしてあなたはあなたのマインドの中でそれを繰り返し、最初は大きな声で、そして静かに。そしてそれは浮かんでくるすべての思考を追い払う。あなたはその理論を調べて、マントラを授かり、それでマインドを掃除した。それは機械装置ではないが、トリック、瞑想的手法によって、あなたのマインドを掃除して、普段の最優先の、お金や生活などの心配事の思考を追い払う。それはまるで、空間がやって来て、あなたをもっと幸せにする。ええ、霊的に目覚めるわけではないのですが、それは良い感じ、ええ、私はやったことはないのですが、それは素晴らしいテクニックですね。
ボブ:ええ。それは究極の答えではありませんでしたが、それによって、驚くような経験をして、それが私の人生を完全に変えてしまいました。私はそこで入門し、狭い部屋の中へ入り、マントラを授かり、あなたが想像するような普通のくだものと布切れを受け取りました。テーブルの上には彼のグルの写真がありましたが、わたしはちらっと見ただけで、それ以上注意を向けませんでした。というのも、私はテクニック、マントラに興味があり、それに取り組んでいましたから。それから二、三日後に、私は電車に乗ろうと家から駅まで、それは歩いて20分ぐらいですが、通りを歩いていたところ、写真にあった顔のイメージが私の内側で広がって乗っ取られるように感じました。それはとても大きな・・・。
聞き手:それはマハリシの写真でしたか?
ボブ:いいえ。マハリシのグルでした。
聞き手:それは誰でしたか?
ボブ:名前も知りません。
聞き手:でもそれはインド人?
ボブ:ええ。私は写真に注意を払わず、ちらっと見ただけだったのですが、そのイメージは彼に間違いありません。それがはっきりと私の知覚に侵入してきました。私はどんな薬も服用していませんでした。それはまるで光に照らされているような感じでしたが、その当時はその手のことをよく知らなかったので、何かに乗っ取られるように感じて、それを追い出しました。
聞き手:何か悪霊かなんかを見たと?
ボブ:ええ。でもそれは私の人生を全く変えてしまうほどパワフルでした。その日はそのあとで仕事に行きました。当時私は不安、心配、みじめさ、憂鬱でいっぱいで、とても怒っていて世間に憤慨していました。職場の同僚が変化に気づいて、「恋でもしているのか?」と聞きました。「そうだよ。でも女性じゃなくて、世界にだよ」と言いました。その時は一番高いビルから空中を歩いて降りられるような気分でした。しばらくはマハリシのテクニックを続けましたが、あまり良くなりませんでした。それでも調査は続けました。
聞き手:あなたが言ったあなたの人生の特別な瞬間のことですが、そのイメージはあなたを光で満たした。私たちはしばしばエンライトメントという言葉を使いますが、これは例えば、白い光とかそんな感じのものですか?
ボブ:ええ・・・。
聞き手:それはあなたの内側を変えたのですか、外側も変えたのですか?
ボブ:ええ、そうです。おそらく、説明できるとすれば、純粋な愛のようなものでしょうか。ごめんなさい。はっきり言えなくて。慣れてないので。
聞き手:それは視覚的な経験ですかそれとも肉体的な経験ですか?
ボブ:それは、肉体的視覚的そしてすべての時間、メンタル・・・。でもそれはロバの前にぶら下がったもののように、調査に対する興味を掻き立てるものでした。
聞き手:でもあなたは、それ以前は酒を飲んでいました。時々人々は酔っぱらって興奮状態になって幻覚を見ることがあります。ある人は、しばしば酒を飲む理由は、何と言えばいいか、何か他のものを見るためだと言います。あなたが現在達成した事やあなたが探していたことと、以前酒を飲んでいたこととは、おそらく潜在的に関係しているのではないですか?
ボブ:ええ、おそらく関係はあるでしょう。外側の世界を探す一つの方法として、最初は酒など手近なものに答えがあると思ったものですが、この出来事は、何か内側の世界というものがあるという最初の情報でした。今日では内側には心配症の人はもういません。
聞き手:ええ、もちろん私たちは最後には外側と内側を統合するのはわかるのですが、世界から麻薬やアルコール中毒者として見られている人々も、真摯に何かを探したいと思っているのではありませんか? あなたは、酒は全く生産的ではないと?
ボブ:最初の「イズム・主義」が私たちにやって来た時に二元性がやってきます。アルコールイズム、ドラッグイズム、キャピタリズム、コミュニズム、すべての「イズム」は二元性です。
聞き手:二元性が、私とあなたという分離を生むと。
ボブ:ええ、二元性は私と他者です。分離した自己と考えます。
聞き手:話を探求に戻します。超越瞑想を実践したあと、次のステップは何でしたか?
ボブ:いろんなことを調べました。1960年代に活躍した西洋人の神秘家ジョエル・ゴールドスミスにしばらくかかわり、1970年までにまた、いろんな出来事が続けて起こりました。そうした小さな出来事のつながりが納まるべき場所に納まるのは驚くべきことで、それはまるで今日私がこうしてここにいるなんて思いもしなかったのにそれが起こったようなものです。一つの出来事が別の出来事へと導き、私はジョエル・ゴールドスミスを知り、1970代の終わりに、新聞にインド人のグルの写真が載っていて彼がメルボルンに来ることを知りました。それもまだ彼が有名になる前でしたが、それがムクタナンダでした。写真を見た時に何かが、「この人に会わなくてはいけない」と言ったのです。そして彼に会ったのですが、私は彼を飛行場で出迎えた中の一人でした。そして1973年にインドにある彼のアシュラムへ行きました。そしてそこに、いわゆる悟りを開くまでいるつもりでしたが、一か月しか続きませんでした。雰囲気が強烈で受けつけませんでした。
聞き手:あなたは強烈と言いますが、あなたはオーストラリア人の船乗りで、たぶん多少荒っぽい男でしょう。あなたはインドに行き、そこは極端な世界で、貧困、富、寒さ、極端な暑さの世界。それに馴染めなかった?
ボブ:雰囲気がとても強烈で、怒りや憤慨などを掻き立てました。それはどこかに根深くあった・・・。
聞き手:それは、興味深い意見ですね。あなたはアシュラムへ行き、アシュラムに泊まることはいとわなかった。そしてあなたは怒りを感じて、それが掻き立てられて、あなたの中にあったものが外に出てきた。
ボブ:もしあなたがそう言いたければ、そこで起こっていたのは浄化のプロセス・・・。
聞き手:あなたはそれを得る前に、怒りと向き合わなくてはいけないのでは。
ボブ:それから私は帰国して、結婚しました。
聞き手:大きな変化ですね。どうして?
ボブ:当時45歳でしたが、その5年前に妻と出会い、付き合っている間はいくぶん山あり谷ありでしたが当時は安定していて他になすべきこともなかったので結婚しました。でも1975年までに、結婚生活があまりうまくいかなくなりました。私たちは別れ、その時もまだムクタナンダを師事していたので、彼のアシュラムへ戻りました。でもその時はすべてがまったく違いました。そこへ着くやいなや、やすらぎを感じ、雰囲気に馴染みました。おそらく、もしそう言いたければ、馴染むほど十分に浄化されていたからだと思います。そして私はアシュラムの規律に従いました。
聞き手:ちょっと待ってください。最初にアシュラムに行った時は、強烈すぎて帰った。そしてあなたは結婚を経験した。それは必要でしたか?
ボブ:ええ、でも私は一定の瞑想などをずっとしていましたから、探求そのものは1973年から1975年までは続けていました。それが私を開き、浄化したのかもしれません。本も読みました。1975年から1976年の3月の終わりまで、アシュラムで規則正しく熱心に誠実に修養しました。アシュラムの中には私を掻き立てて怒らせるような人もいましたが、グルへの忠誠心のため気になりませんでした。そしてある日私はボンベイの本屋に行ったところ、店員が「I am that」を手渡し、「この本を読むべきですよ」と言いました。私はこれもまた何度か私を導いた偶然の一つかもしれないと思いました。というのも何度も人から勧められたのに読まなかった本だったからです。何ページかめくってみたら、胸に響くものがありました。
聞き手:それは誰の本でしたか?
ボブ:それはニサルガダッタによって書かれたものではなく、モーリス・フリードマンによって翻訳された本でした。それは、ニサルガダッタの講話と質疑応答の本でした。
聞き手:その名前は初めてですね。彼の名前はニサルガダッタ? インド人のグルですか?
ボブ:そうです。
聞き手:彼はムクタナンダと関係ありますか?
ボブ:いいえ。全く関係ありません。全く違います。ムクタナンダはクンダリーニです。
聞き手:クンダリーニはヨーガのテクニックですか?
ボブ:ええ。シャクティパットを通じてクンダリーニを目覚めさせるテクニックです。
聞き手:それは肉体的なことですか?
ボブ:ええそうです。それは肉体的な経験です。たくさんの種類の違った霊的な経験をします。
聞き手:あなたはニサルガダッタの本を読んだ。彼はニサルガダッタ・マハラジと呼ばれていたのですね? それは偉大な師という意味ですか?
ボブ:ええ、それが彼の名前ですが、彼はボンベイの狭い家に住んでいて、ちょうどこのカメラのところぐらいまでの。そこは毎日何万という人たちが家の前を通る場所でしたが、誰も彼のことを知りませんでした。それでも人々は彼を見つけて世界中からやってきました。
聞き手:そしてあなたは彼に会った。
ボブ:ええ、本がそれほど助けにならないとわかったので直接会いました。
聞き手:それは興味深いですね。あなたが最初に彼に会った時、何か特別なことが起こりましたか? それとも・・・。
ボブ:ええ。
聞き手:私が何か特別な事と言うのは、とても素晴らしいグルで、とても有名で、後光がさしているとか・・・。
ボブ:ええ。彼は私に、「私」は私が信じているような人ではないとはっきり理解させてくれました。
聞き手:彼はあなた自身が見える鏡を差し出してくれたということですか?
ボブ:ええ。そう言えると思います。彼は私に示してくれました。もし私が自分の信じているもの、考え、概念を見て調べれば、虚偽は調査に耐えることができません。そして彼は、私が信じているものはそうではないとはっきりと示してくれました。
聞き手:ちょっと待ってください。あなたは彼に会い、彼はあなたにそれを教えたと言いました。それはどんなふうに起こったのでしょうか? それは認識が起こったのでしょうか?
ボブ:ええ。最初の日に外に出て「もう二度とマインドには捕らえられないぞ」と言いました。私ははっきりと理解しました。でも習慣のパターンはとても強力で、当然私がドアを出るやいなや、それはまた戻ってきました。でもそれは、もう二度と同じではありませんでした。それは、つかまる場所を失ったのです。
聞き手:あなたは、以前はマインド、自分の考えに閉じ込められていたと言うのですか?
ボブ:ええ。
聞き手:それが止まったと。そして、あなたがドアから出ると、それがあまり活発ではなくなったと言うのですか? それは普通そんなふうに起きるのですか? 人々は強烈な経験をしてそしてそれが去り・・・。
ボブ:そんなふうには去りません。思考はすべて習慣的なパターンとして起こってきますが、その時以降、根底には常に幸福感、つまり何も悪くはなく、すべてうまくいっているという感覚があります。
聞き手:何も悪くない。
ボブ:悪い習慣が、つかまる場所を失ったら、何も悪いことはありません。どうして以前のままでいられるでしょうか。
聞き手:オーケー。(手元の文書を読みながら)「私は誰かに話しかけいるわけではありません。私がマインドに話しかけているわけでもありません。私はその(私はいる)に話しかけています。それが私、今ここにある意識です。そしてそれはマインドに(私はある)という思考となって現れます。それが私であり、他のものではありえません。それは自然な状態、実在、汝それなりへの直接かつ即時の手引きです。これはセイラーボブが表明していることの一つです」。さてこれは、ある文書にある文章で、これは世界中で読まれています。そして人々はあなたの教えに引き付けられています。それが、あなたが最近行っていることですね。あなたは世界をまわり、この「私は誰か」を教えています。
ボブ:教えるということではなく、人々に彼らが自分自身であると信じているものがそうではないと指摘しているにすぎません。私は自分で調べるようにと言っているだけです。私は誰にも何も教えはしません。
聞き手:あなたの教えの本質は、彼らが自分だと思っているものは投影にすぎないと?
ボブ:私の教えの本質は、誰も自身の存在を否定することはできないということです。自分が存在するという事実は彼らが絶対に否定できない唯一の現実です。誰も自身の存在を否定することはできません。みなそれぞれ、「私はいる」と知っています。その思考の「私はいる」は実在ではありません。それが、あなたがマインドでそれの一番近くまで行けるところです。
聞き手:でもそれはマインドですね。「私はいる」と言うのはマインドですね。
ボブ:「私はいる」と言うのはマインドですが、実在は思考の「私はいる」より以前にあります。私たちは一日中、「私はいる」「私はいる」と言っているわけではありません。知る働きは常にそこにあります。でも、それは「私はいる」という思考となってマインドに現われます。そして、思考となってマインドに現われやいなや、それは二元性です。「私はいる」が現れるやいなや、あなたや他の人もいるにちがいないとなるからです。
聞き手:ということは、あなたがあなたの存在、「私はいる」を認めるやいなや、あなたは直接の経験から離れてしまう?
ボブ:ええ。
聞き手:でもその何がいけないのですか? たいていの人は世間に出て、「私はいい恰好をしていない」「ちゃんと髭を剃らなかった」などと言って行動したり、行動を変えたりします。そのどこがいけないのですか?
ボブ:もしあなたが現実は実在ではなく見せかけにすぎないということを理解していれば、何も悪いことはありません。もしそう言いたければ、すべては純粋な知性エネルギーです。それは知る働きの活動です。その知る働きがマインドを通して現れるやいなや、それはそのように見えるだけで、それはもはや実在ではありません。あなたがそれは実在ではないと理解している限り、何の問題もありません。それは現れ続けます。あたかも私たちが外に出て、きれいな青い空だと言うようなものです。でもあなたも私も空が青くないことを知っています。私は二週間前にここへオーストラリアから数千マイルを飛行機で飛んで来ましたが、青さが消えることはなく、はるかかなたにありました。空は空間であり、そこには青さはありません。青さは見せかけにすぎません。私たちは真実を知っています。あなたも私も、なんてきれいな青い空と言いますが、私たちは真実を知っています。それでもまだ、それは青く見えます。でも私たちはもうそれに縛られることはありません。もし・・・。
聞き手:でもあなたの人生の物語によれば、私は酒浸りだ、私はこれだという自分のイメージを持っていて、今やそれは見せかけにすぎないと手放した。その見せかけは私の一部で、マインドが私に対して観察、判断しているにすぎない。
ボブ:その見せかけも、実在以外のものではありません。でもそれは実在とは違って現れています。あなたは腕輪、ブレスレット、イアリングを手に入れます。それらの本質は何ですか? それらは金でできています。その本質は金です。あなたは腕輪を溶かして腕輪にすることはできません。それを溶かせば金になります。この見せかけが何であろうと、それは全能、全知、偏在から外れることはありません。それは、他に何もない一つのものです。ヒンズーの言葉では、他になにもない一つのものと言います。仏教の最高の教えのゾクチェンの言葉では、ただそれだけ、今ここにある意識と言います。
聞き手:超越瞑想の話に戻りたいと思います。それはマインドのラベルを押しのけるテクニックですね。なぜなら、私たちが「私はいる」と言っても、それはラベルにすぎないとあなたは言いました。私たちはそれを調べて、そこには私はいないということを調べなくてはいけない。そのテクニックでそれを押しのけて、一定の静けさを達成する。もし全く名前を付けたり枠にはめたりレベルを貼ったりせずに、このアウエアネスの中で生きると私たちはとても静かで幸せに暮らせるとおっしゃるのですか?
ボブ:いいえ。瞑想の対象となるものは何もありませんし、私は瞑想したいとも思いません。その点から見れば、あなたが瞑想していなかった時はありません。それは継続的な瞑想です。私たちが、どんなに懸命にどんなに長く探してもマインドの中には答えはないと知ってマインドの中を探し続けなければ、それでもそこにはマインドはあるのですが、それがあなたを苦しめることはもうありません。
聞き手:無くなりますか?
ボブ:ええ。
聞き手:もし、「あれをしろ、これをしろ」「これは良い、あれは悪い」「このテーブルはこうしなくて」というようなマインドの中のこの継続的なプロセスを、もし私たちがこうした思考、投影を脇に置くことが出来れば。でも、そうなると、私たちは空の貝殻のようになりませんか? 私はわかりやすく、空の貝殻と言ったのですが。
ボブ:実在はこの瞬間です。それが命です。私たちが昨日に縛られて、明日を憂いて生きるなら、今を生きていません。完全にここにいて、今ここを生きていることにはなりません。もし、私たちが昨日に縛られて、明日を憂いて生きるなら、今この瞬間にいる機会を失います。あなたが頭の中にいようがいまいが、まさにこの瞬間だけが現れです。すべてのことがありのままに現れています。純粋な知性がすべてとなって現れています。聞く働き。あなたは私の声だけを聞いているわけではありません。外の他の物音も聞いています。あなたは単に見ているだけではありません。あなたは私を含めてすべてを見ています。あなたはこの部屋の中のあなたの周りのいろんな色や物などを見ています。すべてはありのままに現れています。それはありのままなのです。それは変えることも修正されることも正されることもありません。人間の思考がやってきてやろうとするのは、過去のイメージや未来の想像に基づいてそれを変えようとしたり、修正しようとしたり、正そうとしたりすることです。どうして私たちはそうあるべきではないと考えるのでしょうか? なぜそのままではいけないのでしょうか? その比較上の観点からすべてが判断され、見かけ上、私たちは瞬間から遠ざかり、見ているものをありのままに見ることがありません。私たちは、それがこうあるべきだというふうに物事を見ます。そしてそれが葛藤を生みます。私たちは葛藤の中にいます。
聞き手:さて、このメソッド、教えは、マインドを捨て去るとは言いませんが、それは私たちの一部であり、それ自体は物ではないと知ることです。あなたはヨーガの教えについては話しませんが、ヨーガはもっと体全体を感じて、その他の物事を取り除く。もし我々を体、ハートか感情、マインドと分けた場合、ハートと体はマインドよりも重要ではなく、それも脇に置くべきだと思いますか?
ボブ:この体を見てください。今この瞬間、それは何の努力もなく機能しています。今この瞬間私の髪の毛、私の髪とは言いませんが、私の髪の毛は成長しています。私の指の爪も成長しています。細胞は置き替えられています。私は呼吸し、心臓は拡大収縮しています。でも私はそれをするためにいかなる努力もしていません。それは努力なく起こり、純粋な知性エネルギーが機能しています。そして思考も起こっています。そしてその思考を通して、それを私がやっていると思っています。その自己の中心である「私はいる」という思考がそれをやっていると信じています。そしてそれはこのショー全体を支配していると思っています。もしあなたがこの存在、つまりアウエアネス無しでは一片の思考も持てないと理解したら・・・。私たちの体は子宮の中で成長します。子宮の中で脳が形成される以前に、マインドが形成される以前に心臓は自然に鼓動しています。
聞き手:でも生まれ出てから、エゴを必要とし、発達させ、そしてそれを私たちは「私」と言います。そしてそれは「私はいる」「これは私の体」「私はこれをしている」と言います。もし私たちがそのエゴを無くすと、エゴと一緒に良い事も無くすことになりませんか。ドライブをしたり、世界を変えたり、貧しい人たちに食べ物を与えたりとか。
ボブ:あなたは、エゴは幻影であると知るでしょう。あなたにお尋ねします。あなたは今見ています。あなたは今聞いています。あなたの目は「私は見ている」と言いますか? あなたの耳は「私は聞いている」と言いますか? 答えはノーです。「私は見ている」「私は聞いている」という思考は起こってきます。でも、その「私は見ている」という思考は見ることができますか? 「私は聞いている」という思考は聞くことができますか? できません。「私は見ている」という思考は見ることはできません。ということは「私は見ている」という思考には力がありません。それはアウエアネスすなわち意識、あなたが使いたければどんな表現でもかまいませんが、思考はそれに頼っています。それはまるで私たちがコンピューターの中にすべての情報を持っているのに電源がオンになっていなかったら、どんな情報も引き出せないのに似ています。同じことが思考の「私」にも言えます。私たちが「私」という思考を信じるやいなや、その単なる「私」という思考にすべての過去の経験や条件付けが付加されます。それが自身のイメージを形成し、エゴとなります。自身が自分対して抱いているイメージは過去の出来事や経験に基づいています。
聞き手:でもあなたはそれを取り除くことができるとおっしゃいました。それは理解しました。
ボブ:それは取り除くということではなくて・・・。
聞き手:それは架空のものであると? それはマインドの構築物であると。わかります。
ボブ:ええ。それは空のようなもので、それをあなたはどうする必要もありません。あなたはそれを理解してそれをありのままに見ることです。そうすればそれは以前のようにあなたを縛りつけることはなくなります。
聞き手:オーケー。さて、人々があなたを求め、あなたが説明していることは、あなたがニサルガダッタという人に会って、あなたのエゴが変化した。もしくは、あなたはエゴではないと理解した。それは強烈な変化です。たくさんの人が世界中からやってきてあなたの話を聞きましたが、彼らはそういう強烈な変化を感じていません。彼らは依然としてエゴに縛られています。彼らは依然としてエゴに取り組んでいます。例えば、ボブは、エゴは私の主人であるべきではない、それを現実の中で調べるべきだ、と言っている。それは理解した。でも、それを達成するには恐怖があります。私たちはエゴ無しでは生きられません。私が幼い時、それはよく機能しました。泣かなかったら食べ物にありつけません。もっと泣けばママは食べ物やなんかをくれます。それはとてもよく機能しました。なぜ私たちはこの幻影を片付けなければいけないのでしょうか?
ボブ:あなたはそれを片付ける必要はありません。顕現はマインドを通してやってきます。私たちが唯一持っている道具はマインドです。それが、唯一私たちが持っているものです。そしてもしそれが理解されれば、それはとても創造的は道具となります。あらゆる芸術や美などすべてがマインドからやってきました。このビルも誰かのマインドにあった考えです。それが現れているのを見てください。私たちはそれをどうする必要もありません。そうでなければ自己破壊的になります。その「私」という思考が全体になりたいと思った時、その「私」という思考が最初にすることは、最初の分離を生むことです。それがマインドにやって来るやいなや、マインドは反対の極に向けて考えるようにと機能するからです。もしそれが過去、それは記憶、でなければ未来、それは想像の期待。その間で機能します。善悪、肯定否定、幸不幸、なんでも。マインドをありのままに見ることができれば、マインドがあなたを拘束することはもうありません。あなたはもう分離していません。そこにもはや分離はありません。「私」という思考がやって来るやいなや、分離は差し迫った不安となります。それは差し迫った傷付きやすさです。それがやってくる二歳のころ、私たちは安全を探し始めます。私たちは幸福を探します。そして条件付けが起こります。誰かが悪いわけではありません。両親や誰かが悪いわけでもありません。私たちはそれを探すように条件付けられています。何よりもまず暖かい家族が「私」の周りにいれば、「私」はもっと安心します。そして「私」がお金、富、良い車、良い家、良い人間関係を手に入れれば、これらのことはもっと安心感を与えます。そしてそうしたことがもっと起きるようにと思うようになります。そして私たちは神を創造しました。もしそれをこの一生で手に入れられなければ・・・。
聞き手:次の一生?
ボブ:そうです。でもそういったことはすべて期待であり想像、概念です。
聞き手:人々はあなたのところへ話しを聞きに来て、あなたがそうであったように、彼らはこの理解を手に入れることができるでしょうか? というのも、あなたが「マインドにやってくる」と言う時、私はそれを聞いてそれが自分のマインドにやってきて、その感覚を手に入れて、毎回私の指の間をすべって落ちるような感じがしてこう言っています。「ちょっと待って。私の存在を受け入れているのは私で、それを片付けるのも私です」。それが「私」、エゴに支配されない状態に恒久的になりえるでしょうか?
ボブ:その「私」を、もしありのままに見ることができれば、もうそれに縛られることはありません。それがそこにあるかないかは問題ではありません。あなたは、そこに「私」という思考があろうとなかろうと、機能は以前と同じように続いているということを理解しなければいけません。私が言ったように、それは今も起こっています。普段の状態で、呼吸など命に関わる事でマインドが果たしている役割はほんのわずかです。「私」という思考はそこにあります。それは利用できます。それが何を捕らえていようと、それは本当の私ではないという認識があれば、私が言ったように、青い空や、私たちが美しい日の出と言う時、太陽が東から登って西に沈むのは真実ではなく、地球が太陽の周りをまわっているという真実を知っていれば、私たちはもうそれに縛られることはありません。それでも私たちは言うでしょう・・。
聞き手:美しいと。
ボブ:ええ。それを認識することで、自己の中心への束縛はすべて落ちていきます。もし私が自己の中心がここにないと理解すれば、他者にもそれはないと理解するはずです。そうなれば、誰が私よりも優れているのでしょうか? 誰が私より劣っているのでしょうか? 分離の感覚はもはやありません。
聞き手:でも今でも私は例えばアンドリュー・コーエンのような人たちがやっていることを耳にします。彼は世界中を巡り、エンライトメントに関する本を書いて、エンライトメントした人と、エンライトメントしていない人がいると言っていて、その本にはどうやってそれを手に入れるかについて書いてあります。コーエン氏がそれを成し遂げたと仮定して他の何人かもそれを成し遂げたと仮定して、私はそういったことに少し反感を感じます。なぜかと言うと、あなたは私とは違うし、私たちはアンドリュー・コーエンとは違う。目覚めた人がいて、目覚めていない人がいるというように、世界を分けて見るようなことがどうして可能なのでしょうか? もし神が、あなたが言うように私たちみんなの中にいるのなら、私たちはみんなエンライトメントしているのではありませんか? でもそんなふうには見えません。
ボブ:そのとおりです。エンライトメントなどというものはありません。それは作り話です。もし私がいなければ、もしここに(自己の)中心がなければ、そこに分離はありません。もし分離がないのなら、誰がそこにいるのですか、つまり、誰がエンライトメントするというのですか?
聞き手:ということは、私たちはありのままなのですね、
ボブ:あなたはあなたのままです。あなたはもうすでにあなたが探しているものなのです。あなたはずっとそうでした。自分は分離しているという考えがあなたの束縛です。あなたがその考えを調査すれば、それは単に思考であり、それは何の力も持っていないとわかるでしょう。「私」に何ができるでしょうか。もしここに自己の中心がなければ、今までも無かった。そして、人生におけるすべての活動は起こりました。私の人生で起こったことは私の個人的な意思で起こったわけではありません。それは偶然に起こりました。私はアルコール中毒になろうとしてなったわけではありません。私は精神世界の探求者になろうとしてなったわけでもありません。それはそんなふうに起こり、私をさまざま出来事へと連れていったのです。私が今いるところに話を戻しますが、実際には何が起こったのでしょうか? 概念、経験、呼びたければ何と呼んでもいいのですが、それは見せかけのことであり、私の本質は何も変わっていません。誰も何も変化しません。私が言ったように、腕輪であろうとブレスレットであろうとイアリングであろうと、それは依然として金なのです。それがどんなふうに見えようと。
聞き手:現実的な事に戻りましょう。これはあなたがニサルガダッタに会った1976年に起きました。私たちは今、1996年にいます。えっと、1998年にいます。その22年間に何が起きましたか?
ボブ:インドから帰ったのは1977年の初めだと思いますが、このことを話したいと思っていて、そして話し始めました。それ以来話し続けています。
聞き手:あなたは、それについて話すとおっしゃる時、あなたが、それとも人々があなたを見つけるのですか、そして人々が質問するのですか? それともあなたが私にしたのと同じ話をするのですか?
ボブ:ええそうです。
聞き手:人々はどんな質問をするのですか?
ボブ:私は様々な異なることから始めます。ドラッグやアルコールの問題を抱える人がやって来ます。
聞き手:それが一つの視点ですね。別の視点は探求している人々ですね。
ボブ:ええ、探求している人は、自分が分離しているという思考を抱えて常にやって来ます。それを抱えてすべての人がやって来ます。そして彼らにこう指摘します。分離などというものはありません。どんな分離もありません。それは現れにすぎません。調査してそれを彼ら自身で見ることによって。ええ、見ることはとてもシンプルです。そこに分離というものがあるというのはあなたが抱いているイメージにすぎません。あなたは自身を空気と分離することはできません。あなたは自身を地球と分離することはできません。
聞き手:ボブ、現実の話をします。ローマ法王は、反宗教者たちのことについて人々に向けて手紙を書いたばかりです。その中でこう言っています。(手元の文書を読みながら)「ニューエイジの考え方や東洋の哲学はとても悪い。なぜならそれは人々が神と等しいと感じさせてしまうからです。そして我々教会としてはむしろ教義に基づく保護者的な考えを信じてもらいたい。私たちは何が真実か告げるので、あなたたちはそれに従わなければなりません。すべてのニューエイジ思考、(ええ、実際にはオールドエイジの思考だと私は認めますが)東洋の思想は良くありません」。あなたは西洋と東洋両方を旅しました。どうしてローマ法王はこんなことを言うのでしょうか?
ボブ:もし彼が神は全能、全知、偏在であると理解するなら、変えようとしている彼は誰なのですか? 彼は何を変えようとしているのですか?
聞き手:でもあなたがインドを旅した時、このメッセージはヒンズーの人々や仏教徒の人たちにとってはより理解しやすいものでしたか?
ボブ:いいえ、彼らが立ち止まって自分自身を調べ始めないかぎり簡単ではありません。私たちは外を見るように条件付けられています。そして答えは決して外にはありません。それは単に向きを変えて、自分が信じているものが何なのかを調べるということです。これが私の条件付け、これが社会の条件付けと。最初に家族、そして部族、国家と調べます。国家は不安感、分離の感覚のために戦争を起こします。でも立ち止まって調べてください。虚偽は調査に耐えません。いったんあなたが調べて見始めると、そこには私たちが自分だと思っているイメージがあり、それは何の力も持っていません。火の中の鉄の例え話があります。ひとかたまりの鉄を火の中に入れると、それは火のように赤くなります。それは火のように熱くなってあなたが掴むと火のようにやけどします。でもそれを火の外に出すと、それに何ができるしょうか? この「私」という思考に何ができるでしょうか? あなたはそれが見ることも意識することもできないことを知っています。「私」に何ができるでしょうか?
聞き手:それは戦争を起こしました。それは貧富の差をもたらしました。
ボブ:そう信じられているだけです。それは調査されていません。もし調査されれば、それには何の力もありません。
聞き手:でもボブ、人々は言います。私たち二人はここアムステルダムの西に座っていて、今朝朝食を食べました。適度に暖かいし、私たちは世界の中でも比較的裕福です。でももし私がインドにいて、とても貧しい男で、何も食べてなくて飢えていたら、私は言うでしょう。「マスターボブ、あなたの言うことはわかるが私はお腹が空いています」。そしたらどうしますか? あなたのメッセージによれば、「ああ、お腹は空いている。でもそれは思考にすぎない」と言うべきですか? 思考は現実ではありません。現実は空っぽのお腹です。世界の現実の問題にはどう対処したらよいのでしょうか?
ボブ:でもそれは現実に起こっていることです。私がこれを理解する時、すべては見せかけです。実際には何が起こっていますか? それでも私は本質からは離れていません。もしそれが起きるなら、起きるのです。なんと説明したらいいでしょうか・・・。
聞き手:でも現実にあなたはインドを旅しました。そこにはとても貧しい人々がいます。そのことについてはどうでしたか? あなたは彼らにお金をあげましたか?
ボブ:もし私がお金を持っていて、彼らにあげる気が起きればあげるでしょう。もし持っていなければあげません。何がやってこようと、自然の機能が何をここに運んでこようと、それは起きます。
聞き手:それは現実的なことですね。例えばそれが私の人生の中で私に起こったら、もし私が貧しい人に会ったら、私は彼らを助けるでしょう。私たちはそれほどはっきりと自分たちの外のことを考えてはいません。例えば、もしインドに行って人々に会ったらお金をあげるかとか、テレビでアフリカの貧しい人びとを見てお金をあげたことがあるかとか。それはマインドのゲームだということには同意します。でも実際の状況では私たちと、私たちが毎日会う人では違いがあります。あなたはそれが真実ではない、違いはないと言いうのですか?
ボブ:私は、違いはないと言います。それでもすべては現れです。それでもそれは一つの実在で、それは決してそれ以外ではありませんでした。見せかけはそう見えているだけです。
聞き手:でもどうしたらいいか教えてください。もし私がお金を持っていても、物乞いの前を通り過ぎるべきでしょうか?
ボブ:あなたは物乞いの前を通り過ぎたいのですか? それとも通り過ぎたくないのですか? ある時は通り過ぎたいと思い、また別の時は通り過ぎたくないと思う。何があなたを私にインタビューする気にさせたのですか? あなたは私のことを知らなかったし会ったこともなかった。
聞き手:それは起こりました。私が選択したのではないと言うことはできると思います。なぜなら、それは起こり、私は人生で起こったことを良かれ悪しかれ喜んで受け入れます。
ボブ:それを人々がやることに適用できると思いませんか? 金持ちであろうと貧しかろうと。私もあなたと同じように選択権があると思っていました。そして私は、「私」には選択権がないと知っています。それは起こっています。
聞き手:話を元に戻すと、あなたの言うのは、人生を自分で変えられるという考えを求めること、霊的な師を探してエンライトメントを得るということは幻想ということですか? 私たちは仕事に精を出し、必要なことをすべきなのですか?
ボブ:ええ、あなたは仕事をして、何であれ必要なことをします。でも、あなたに選択権はありますか? いいえ。もしあなたが探求者なら、そういうところへ行くのもいいでしょう。私たち、いわゆる人間は、「私」がとても重要だと思っています。でも、何千人という人々が、蚊が原因の病気やネズミが原因の疫病などで、あちこちで亡くなっています。私たちはそれに注意を払いますか? すべてのことは私たちが自分に対して抱いている自己の中心のイメージに帰結します。それが基準点となり、すべては基準点に関連しています。でもその基準点は真実ではありません。なぜならそれはまだ、意識(consciousness or awareness)の内側にあるからです。あなたが物事を判断しようとすれば、真実の基準点から見る必要があり、そうするためには意識の外に出なければなりません。でもそれは不可能です。そんなに前ではないのですが、太陽に関するビデオがありました。それは拡大鏡を建設した時のビデオで・・・。
聞き手:望遠鏡?
ボブ:ええ。望遠鏡は宇宙のはるかかなたに到達して地球が小さな点に見えるまで倍率を上げました。そこにはよく知られた太陽系の姿はありませんでした。そして、私は、ここオランダのどこかで裏庭に出て、コップ一杯の水を汲みました。その中にはあらゆる種類の生命がいました。その小さな微生物たちには人間の70年、80年という一生を想像することはできません。外の世界、例えば240億光年のはるかかなたに行って、振り返ってみれば、それはほんの一瞬のことかもしれません。それはちょうど人間が昆虫の一週間を理解できないようなものです。すべての物事は基準点に関連していて、どこに基準点があってもそれは真実ではありません。世界の矛盾を見る時も、それは言葉に基づいたイメージにすぎません。そして言葉は決して現実ではありません。私は「水、水」と残りの一生で言い続けることはできますが、それで喉の渇きをいやすことはできません。「火、火」と言っても口をやけどしません。私が「私」という時、それは何のことを言っているのでしょうか? 私は自分自身のイメージを持っています。それは言葉です。昔のことわざに「棒や石は骨を砕くかもしれないが、言葉は少しも私を傷つけない」というのがあります。もし誰かが私を侮辱したとします。そうしたら私はどうするでしょうか? 私は何週間も何週間もその言葉のことを考えて、それが怒りとなります。それはどんどん大きくなって動き始めます。私は言葉に支配され、たたきのめされます。でももし私が殴られて傷や打撲を負っても、もっと早く治っているでしょう。
聞き手:それは現れに私たちの人生を支配することを許すことになる。今日はボブ・アダムソンから学ぶことができました。現れはそのように見える。「私」という私たちが思っている内側の存在は想像、投影であり、ありのままの私ではありません。それは思慮深いメッセージです。サンキュー、ボブ。
ボブ:サンキュウ。
(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)
2019/02/10
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑰
Live spontaneously・起こるに任せて自然に生きる
セイラーボブは、私たちの意識をスクリーンに、そしてそのスクリーンに映し出される映像を世界に例え、何も起こっていない、映画が終わればすべては消える、起こっていることに意味などない、と言います。
また、セイラーボブの教えや、アドヴァイタの教えでは、物事は起こってくるものであり、私たちに選択権や決定権はない、私もあなたも実在ではなく、物事は自然に起こっているにすぎない、と説きます。これを聞いて多くの人が、同じような反応を示します。
・何も起こっていないなら、好き勝手に何をしてもいいという考えにならないか。
・自分たちの意思にかかわりなく物事が起こってくるなら、生きている意味がないではないか。そんなことを言われると、何もする気にならず、厭世的になる。
・アドヴァイタの教えは人の命や人生を粗末に扱うことにならないか。
・何も起こっておらず、決定権もないのなら、困っている人を助けたり、世の中を良くしたりしようとする努力は無駄なことなのか。
ある時ミーティングで、体の不自由な子供たちのいる施設で働く女性が、言いました。
「私はあの子供たちを見ていると、かわいそうで、とても何も起こっていないなんて思えない」
そしたらボブは、
「あなたが同情するのは自然なことだよ。そういう子供たちを助けようと思えば手を差し伸べればいい」という内容のことを言いました。
そんな時セイラーボブはいつも、何も起こっていないのだからと知らないふりをするのではなく、起こるに任せて自然に行動すればいいと言います。
野生動物には意識はあるでしょうが、マインドはない。でもマインドがなくても、例えばトラの母親は外敵が現れれば、外敵から子供を守ろうとする。鳥だって、自然に巣作りをして子育てをする。
どうせ何も起こってないのだから、子供を守らないということは起きない。自分たちに決定権はないから、子供にエサを与えないというふうにはならない。本能が自然に働くようになっている。
ライオンのオスは自分のテリトリーに別のオスが入ってくれば、全力で追い払う。野生の猿は人から食べ物を奪う。こうしたことは、彼らのマインドから起こる行動ではなく、自然の本能です。彼らには「私」というマインドがない。人間だけが「私」を持っていて、その「私」はもっと何か持っていれば幸せになれると思っている。
努力して幸せになりたい。困っている人を助けたい。より良い社会や未来を作りたい。それは人間の持って生まれた自然な本能だと思います。
例えばあなたの友人や愛する人が苦境にある時に、セイラーボブの教えを説いたり、「私たちはいない」とか、「世界は幻だ」と説いたりするのが役に立つかというと、まったく役に立つたないばかりか返ってその人を苦しめることになります。
そんな時は、そっと寄り添って、話を聞いてあげる方が、よっぽどその人の助けになる。内発的で自然な行動に任せておけば、自然と行動は起きてきます。
私たちの生きる映画の結末はもう決まっているのだから、努力などしても無駄というのも違うと思います。努力することが自発的に自然に起こってくる。それは人間の本能のようなもの。セイラーボブの教えは運命論ではないし、結果も決まっていません。
何か悪い事が起きると、(結果は決まっていた)と思うかもしれません。でも、何か良い事が起こった時はどうですか? それも(結果は決まっていた)のですか? あるのは、今ここにある意識だけです。何も決まっていないし、次の瞬間に何が起きるかは誰にも予測できないことです。
どうせ何も変わらないのだからとネガティブを引き起こすのはマインドであり、「私」です。自分自身を「私」という個人に限定しなければ、どんな可能性だってあると思います。今この瞬間には未来のことは未定であって、結果は決して同じではなく、努力次第で未来は変わると思います。厳密なことを言えば、未来などというものは無く、今しかないのですから、未来が変わるという表現は適切ではないでしょうけど。
私たちが生きている現実が夢だったしても、それが夢であると理解した上で、良い夢を見て、努力するのは悪いことではないし、それによって夢の内容は変わってくると思います。顕現の世界には無限の可能性がある。ただ一つ覚えておかなければいけないのは、それは顕現であり、実在ではないということ。それをわかっていて顕現の世界を楽しむのは何も悪いことではありません。
人を助けることも、結果はどうあれ、手を差し伸べたいという気持ちが自然に起こってくるなら、手を差し伸べればいい。あなたも私も実在しないのだから、と言って知らんぷりするのが自然な人なんていないと思います。
アドヴァイタの教えは、私たちに選択権はないのだから努力しても無駄であるというような厭世的な教えではなく、起こってくる出来事にあまりシリアスに巻き込まれないで距離を置いて見ることを教えているのだと思います。
ボブが知性エネルギーと呼ぶのは、そこに何らかの知性があるから。という事は、その知性エネルギーに起こるに任せて自然な行動をとれば、厭世的になったり、ネガティブになったりすることもないと思います。投げやりになったりネガティブなったりするのは「私」です。その「私」はマインドがでっちあげた架空のものです。
私たちは海の一つの波のようなもので、死んだら海に帰るだけで、また次に同じ波として現れることはない。来世も次の一生もない。あるのはこの瞬間だけ。私はアドヴァイタの教えを学んで、命や人生を粗末に考えるどころか、だからこそ逆にこの命が大切なものであり、人生を大切に生きていかなければならないと思うようになりました。
「あなたはあなたが世界と呼ぶものの夢を見ているということを理解して、出口を探すのをやめなさい。夢があなたにとって問題なのではない。問題はあなたが夢のある部分が好きで、ある部分が嫌いだということだ。全体を好きになるか全部を嫌うかして、不平を言うのをやめなさい。あなたがその夢を夢だと理解する時、あなたのすべきことは終わる」
Sri Nisargadatta Maharaj
「自らの自然な状態を思い出してください。基準点(自己の中心)を持たず、いかなる実体も独立した存在形式も持たない、純粋で、偏在、空間のような、現われ続ける、自然な今ここにある意識を。自然な状態(顕現と空、空間と内容物の統一体)を思い出さなければ、錯覚が起き、見せかけへの執拗な固着、私と他者、うわべの二元性、が起きます。固着がなければそこには自然な状態としての自由があり、錯覚は消え均等性(非二元)が残ります。それは自然な状態であり、それがあるだけで、他には何もありません。自然さ(平静)として自然に残るのは、誰にも何に対しても瞑想することのない自然な(努力の要らない)瞑想です。何かを得ようとしたり避けようとしたりすることのない、今までもずっとそうであった努力の必要のない実在。それを何度も何度も繰り返し思い出してください」
Sailor Bob Adamson
セイラーボブは、私たちの意識をスクリーンに、そしてそのスクリーンに映し出される映像を世界に例え、何も起こっていない、映画が終わればすべては消える、起こっていることに意味などない、と言います。
また、セイラーボブの教えや、アドヴァイタの教えでは、物事は起こってくるものであり、私たちに選択権や決定権はない、私もあなたも実在ではなく、物事は自然に起こっているにすぎない、と説きます。これを聞いて多くの人が、同じような反応を示します。
・何も起こっていないなら、好き勝手に何をしてもいいという考えにならないか。
・自分たちの意思にかかわりなく物事が起こってくるなら、生きている意味がないではないか。そんなことを言われると、何もする気にならず、厭世的になる。
・アドヴァイタの教えは人の命や人生を粗末に扱うことにならないか。
・何も起こっておらず、決定権もないのなら、困っている人を助けたり、世の中を良くしたりしようとする努力は無駄なことなのか。
ある時ミーティングで、体の不自由な子供たちのいる施設で働く女性が、言いました。
「私はあの子供たちを見ていると、かわいそうで、とても何も起こっていないなんて思えない」
そしたらボブは、
「あなたが同情するのは自然なことだよ。そういう子供たちを助けようと思えば手を差し伸べればいい」という内容のことを言いました。
そんな時セイラーボブはいつも、何も起こっていないのだからと知らないふりをするのではなく、起こるに任せて自然に行動すればいいと言います。
野生動物には意識はあるでしょうが、マインドはない。でもマインドがなくても、例えばトラの母親は外敵が現れれば、外敵から子供を守ろうとする。鳥だって、自然に巣作りをして子育てをする。
どうせ何も起こってないのだから、子供を守らないということは起きない。自分たちに決定権はないから、子供にエサを与えないというふうにはならない。本能が自然に働くようになっている。
ライオンのオスは自分のテリトリーに別のオスが入ってくれば、全力で追い払う。野生の猿は人から食べ物を奪う。こうしたことは、彼らのマインドから起こる行動ではなく、自然の本能です。彼らには「私」というマインドがない。人間だけが「私」を持っていて、その「私」はもっと何か持っていれば幸せになれると思っている。
努力して幸せになりたい。困っている人を助けたい。より良い社会や未来を作りたい。それは人間の持って生まれた自然な本能だと思います。
例えばあなたの友人や愛する人が苦境にある時に、セイラーボブの教えを説いたり、「私たちはいない」とか、「世界は幻だ」と説いたりするのが役に立つかというと、まったく役に立つたないばかりか返ってその人を苦しめることになります。
そんな時は、そっと寄り添って、話を聞いてあげる方が、よっぽどその人の助けになる。内発的で自然な行動に任せておけば、自然と行動は起きてきます。
私たちの生きる映画の結末はもう決まっているのだから、努力などしても無駄というのも違うと思います。努力することが自発的に自然に起こってくる。それは人間の本能のようなもの。セイラーボブの教えは運命論ではないし、結果も決まっていません。
何か悪い事が起きると、(結果は決まっていた)と思うかもしれません。でも、何か良い事が起こった時はどうですか? それも(結果は決まっていた)のですか? あるのは、今ここにある意識だけです。何も決まっていないし、次の瞬間に何が起きるかは誰にも予測できないことです。
どうせ何も変わらないのだからとネガティブを引き起こすのはマインドであり、「私」です。自分自身を「私」という個人に限定しなければ、どんな可能性だってあると思います。今この瞬間には未来のことは未定であって、結果は決して同じではなく、努力次第で未来は変わると思います。厳密なことを言えば、未来などというものは無く、今しかないのですから、未来が変わるという表現は適切ではないでしょうけど。
私たちが生きている現実が夢だったしても、それが夢であると理解した上で、良い夢を見て、努力するのは悪いことではないし、それによって夢の内容は変わってくると思います。顕現の世界には無限の可能性がある。ただ一つ覚えておかなければいけないのは、それは顕現であり、実在ではないということ。それをわかっていて顕現の世界を楽しむのは何も悪いことではありません。
人を助けることも、結果はどうあれ、手を差し伸べたいという気持ちが自然に起こってくるなら、手を差し伸べればいい。あなたも私も実在しないのだから、と言って知らんぷりするのが自然な人なんていないと思います。
アドヴァイタの教えは、私たちに選択権はないのだから努力しても無駄であるというような厭世的な教えではなく、起こってくる出来事にあまりシリアスに巻き込まれないで距離を置いて見ることを教えているのだと思います。
ボブが知性エネルギーと呼ぶのは、そこに何らかの知性があるから。という事は、その知性エネルギーに起こるに任せて自然な行動をとれば、厭世的になったり、ネガティブになったりすることもないと思います。投げやりになったりネガティブなったりするのは「私」です。その「私」はマインドがでっちあげた架空のものです。
私たちは海の一つの波のようなもので、死んだら海に帰るだけで、また次に同じ波として現れることはない。来世も次の一生もない。あるのはこの瞬間だけ。私はアドヴァイタの教えを学んで、命や人生を粗末に考えるどころか、だからこそ逆にこの命が大切なものであり、人生を大切に生きていかなければならないと思うようになりました。
「あなたはあなたが世界と呼ぶものの夢を見ているということを理解して、出口を探すのをやめなさい。夢があなたにとって問題なのではない。問題はあなたが夢のある部分が好きで、ある部分が嫌いだということだ。全体を好きになるか全部を嫌うかして、不平を言うのをやめなさい。あなたがその夢を夢だと理解する時、あなたのすべきことは終わる」
Sri Nisargadatta Maharaj
「自らの自然な状態を思い出してください。基準点(自己の中心)を持たず、いかなる実体も独立した存在形式も持たない、純粋で、偏在、空間のような、現われ続ける、自然な今ここにある意識を。自然な状態(顕現と空、空間と内容物の統一体)を思い出さなければ、錯覚が起き、見せかけへの執拗な固着、私と他者、うわべの二元性、が起きます。固着がなければそこには自然な状態としての自由があり、錯覚は消え均等性(非二元)が残ります。それは自然な状態であり、それがあるだけで、他には何もありません。自然さ(平静)として自然に残るのは、誰にも何に対しても瞑想することのない自然な(努力の要らない)瞑想です。何かを得ようとしたり避けようとしたりすることのない、今までもずっとそうであった努力の必要のない実在。それを何度も何度も繰り返し思い出してください」
Sailor Bob Adamson
2019/02/08
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑯
presence awareness・今ここにある意識
presence awareness は、「存在意識」「臨在意識」と訳すのが正確なのかもしれません。また、自分が存在するという感覚という意味で使われる場合もあります。でも私は存在意識、臨在意識と訳すとわかりづらくなるので、「今ここにある意識」という訳にしています。
要するに、私たちの日常の普通の意識のことで、アウエアネス、知性エネルギーのことです。
セイラーボブの教えを理解する時に、あれこれと難しく考えないで、この presence awareness (今ここにある意識) を理解することに焦点を合わせると理解しやすいと思います。
例えば「時間はない」ということについていうと、今この瞬間の (今ここにある意識) の中に昨日はありますか? 記憶としての昨日はあります。でも、それは単なる記憶なのであって、実際の昨日ではありません。また明日はどうですか? それも、 (今ここにある意識) の中では、想像することはできても、実際の明日はありません。
いや、昨日はあったとあなたは言うかもしれません。でも本当にあったのですか? 一年前の昨日、あなたは何をしていましたか? それは本当にありましたか? 過去は記憶となった瞬間に脚色され、いくら正確に覚えていても実際とは異なります。本当にそれがあったかどうかは、わからないのではないですか?
エジプトのピラミッドはどうですか? 写真で見たピラミッドや、昔旅行で行って見たピラミッドが (今ここにある意識) の中にあるのですが、それは実物ではありません。では実際に今この瞬間にピラミッドが存在するかと聞かれても、在るとも無いとも言えないのではないですか?
いや、ピラミッドはある、という時、それはマインドの中の記憶から引っ張り出してきて、おそらく今もあるだろうと推測しているにすぎません。たった数秒前に、テロリストが爆破してしまったかもしれません。
では、「私」は (今ここにある意識) の中にいますか? それはもう調査済みで、「私はいる・I am」という感覚があるだけで、体もマインドも実在ではありません。 (今ここにある意識) の中には、運動をした時や痛みがある時など以外は、体があるという感覚さえありません。
目の前に広がる視界の中の物はどうですか? 机、椅子、壁、それは実在ですか? 実在の定義は「変化しないもの」です。机や椅子や壁は、時間の経過とともに形を変えていきます。また、それが机、椅子だということは、後天的に学んだことであり、その記憶があなたのマインドの中に蓄えられていて、その記憶と照合して初めて認識できるものであり、もしその記憶がなかったら、それは何ですか? もっと言うなら、その物に焦点を合わせることも後天的に学んだことなので、もし焦点を合わせる記憶を無くせば、そこには何も見えません。
もしあなたが、今この瞬間に生まれたばかりで、すべてを学ぶ前の状態なら、そこにあるのは光と色彩はあるかもしれませんが、何があるかわからいないはずです。 (今ここにある意識) の中で、椅子や机はあるように見えますが、実在ではありません。
(今ここにある意識) だけが実在です。それはあなたが幼かった時も大人になってからも、そして今この瞬間にも変化せずにある。あなたがピラミッドを見た時も、部屋の机を見た時も変わらずあった。そして肉体の死の瞬間も、死んでからもある。
(今ここにある意識) の中にすべてがあります。
(何かになる)ことや何かを体験することではなく、 (今ここにある意識) がすべてです。答えはいつも (今ここにある意識) の中にあります。
例えばあなたはセイラーボブの教えを学んで、何か困った時にボブが何と言っていたかを思い出して、行動の指針にしょうと思うかもしれません。
でもそれは役に立ちません。それはもう記憶の中で概念化されたものであり、死んだものです。マインドの中にある概念に頼らず、 (今ここにある意識) に留まれば、答えは自然にやってきます。
私たちは、何か困ったことが起きると、ありもしない未来に向けてマインドの中であれこれと対策を立てたり、想定問答を繰り返したりします。でも答えはすべて (今ここにある意識) の中にあります。
いくら心配しても、未来は未確定です。一秒後に大地震が起きるかもしれなし、心臓麻痺で死ぬかもしれない。計画や予定を立てることは大切ですが、心配や不安は要りません。
あなたはセミナー、教室、リトリートで多くを学ぶかもしれません。このブログでセイラーボブの教えを学ぶでしょう。それは物事を理解するためには役に立つかもしれません。でも理解した瞬間から記憶となって概念化が起こります。そしてそれはもう死んだものとなります。あなたが頼るべきものは概念化した死んだ知識ではなく、 (今ここにある意識) だけです。そこにすべての答えがあります。
それはグルの臨在のもとで瞑想して手に入れるものではなく、普通の日常にある (今ここにある意識) です。
(今ここにある意識) を手に入れるために、訓練も練習も瞑想も必要ありません。
訓練や瞑想で、 (今ここにある意識) を高めたり、強化したりすることはできない一方で、失うこともありません。
覚醒体験が起きようが去っていこうが、 (今ここにある意識) はその前も後も変わらずにあります。
(今ここにある意識) を人に渡したり譲り受けたりすることはできません。
至福も豊さも答えも、あなたが求めるものはすべて (今ここにある意識) の中にあります。
(今ここにある意識) があなたであり、世界であり、それがすべてです。
真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできない。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。昨日理解したことは少しも役に立ちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)、すなわち、知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません」
– Sailor Bob Adamson
presence awareness は、「存在意識」「臨在意識」と訳すのが正確なのかもしれません。また、自分が存在するという感覚という意味で使われる場合もあります。でも私は存在意識、臨在意識と訳すとわかりづらくなるので、「今ここにある意識」という訳にしています。
要するに、私たちの日常の普通の意識のことで、アウエアネス、知性エネルギーのことです。
セイラーボブの教えを理解する時に、あれこれと難しく考えないで、この presence awareness (今ここにある意識) を理解することに焦点を合わせると理解しやすいと思います。
例えば「時間はない」ということについていうと、今この瞬間の (今ここにある意識) の中に昨日はありますか? 記憶としての昨日はあります。でも、それは単なる記憶なのであって、実際の昨日ではありません。また明日はどうですか? それも、 (今ここにある意識) の中では、想像することはできても、実際の明日はありません。
いや、昨日はあったとあなたは言うかもしれません。でも本当にあったのですか? 一年前の昨日、あなたは何をしていましたか? それは本当にありましたか? 過去は記憶となった瞬間に脚色され、いくら正確に覚えていても実際とは異なります。本当にそれがあったかどうかは、わからないのではないですか?
エジプトのピラミッドはどうですか? 写真で見たピラミッドや、昔旅行で行って見たピラミッドが (今ここにある意識) の中にあるのですが、それは実物ではありません。では実際に今この瞬間にピラミッドが存在するかと聞かれても、在るとも無いとも言えないのではないですか?
いや、ピラミッドはある、という時、それはマインドの中の記憶から引っ張り出してきて、おそらく今もあるだろうと推測しているにすぎません。たった数秒前に、テロリストが爆破してしまったかもしれません。
では、「私」は (今ここにある意識) の中にいますか? それはもう調査済みで、「私はいる・I am」という感覚があるだけで、体もマインドも実在ではありません。 (今ここにある意識) の中には、運動をした時や痛みがある時など以外は、体があるという感覚さえありません。
目の前に広がる視界の中の物はどうですか? 机、椅子、壁、それは実在ですか? 実在の定義は「変化しないもの」です。机や椅子や壁は、時間の経過とともに形を変えていきます。また、それが机、椅子だということは、後天的に学んだことであり、その記憶があなたのマインドの中に蓄えられていて、その記憶と照合して初めて認識できるものであり、もしその記憶がなかったら、それは何ですか? もっと言うなら、その物に焦点を合わせることも後天的に学んだことなので、もし焦点を合わせる記憶を無くせば、そこには何も見えません。
もしあなたが、今この瞬間に生まれたばかりで、すべてを学ぶ前の状態なら、そこにあるのは光と色彩はあるかもしれませんが、何があるかわからいないはずです。 (今ここにある意識) の中で、椅子や机はあるように見えますが、実在ではありません。
(今ここにある意識) だけが実在です。それはあなたが幼かった時も大人になってからも、そして今この瞬間にも変化せずにある。あなたがピラミッドを見た時も、部屋の机を見た時も変わらずあった。そして肉体の死の瞬間も、死んでからもある。
(今ここにある意識) の中にすべてがあります。
(何かになる)ことや何かを体験することではなく、 (今ここにある意識) がすべてです。答えはいつも (今ここにある意識) の中にあります。
例えばあなたはセイラーボブの教えを学んで、何か困った時にボブが何と言っていたかを思い出して、行動の指針にしょうと思うかもしれません。
でもそれは役に立ちません。それはもう記憶の中で概念化されたものであり、死んだものです。マインドの中にある概念に頼らず、 (今ここにある意識) に留まれば、答えは自然にやってきます。
私たちは、何か困ったことが起きると、ありもしない未来に向けてマインドの中であれこれと対策を立てたり、想定問答を繰り返したりします。でも答えはすべて (今ここにある意識) の中にあります。
いくら心配しても、未来は未確定です。一秒後に大地震が起きるかもしれなし、心臓麻痺で死ぬかもしれない。計画や予定を立てることは大切ですが、心配や不安は要りません。
あなたはセミナー、教室、リトリートで多くを学ぶかもしれません。このブログでセイラーボブの教えを学ぶでしょう。それは物事を理解するためには役に立つかもしれません。でも理解した瞬間から記憶となって概念化が起こります。そしてそれはもう死んだものとなります。あなたが頼るべきものは概念化した死んだ知識ではなく、 (今ここにある意識) だけです。そこにすべての答えがあります。
それはグルの臨在のもとで瞑想して手に入れるものではなく、普通の日常にある (今ここにある意識) です。
(今ここにある意識) を手に入れるために、訓練も練習も瞑想も必要ありません。
訓練や瞑想で、 (今ここにある意識) を高めたり、強化したりすることはできない一方で、失うこともありません。
覚醒体験が起きようが去っていこうが、 (今ここにある意識) はその前も後も変わらずにあります。
(今ここにある意識) を人に渡したり譲り受けたりすることはできません。
至福も豊さも答えも、あなたが求めるものはすべて (今ここにある意識) の中にあります。
(今ここにある意識) があなたであり、世界であり、それがすべてです。
真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできない。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。昨日理解したことは少しも役に立ちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)、すなわち、知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません」
– Sailor Bob Adamson
2019/02/06
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑮
「知的に」を取ってください
2015年春、最初のセイラーボブのミーティングから帰った時点で、私はセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。でも日にちがたつにつれて、その理解では十分ではないと思うようになりました。
心のどこかで、ボブの教えを理解したら、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。それでまた2016年にミーティングに行って、そんなものはないと納得したつもりで帰ったのに、帰ったらまた何か体験を探している自分がいました。
私はセイラーボブに、その理解とはどういう理解なのかを聞きました。でもそのたびにボブは「普通の理解です」というだけでした。何かが起きるのかと聞いても、「普通に理解するだけです」と言うばかりでした。私はボブの言う「普通の理解」という言葉をそのまま受け取ることをせず何かが起きるのではないかとずっと思っていました。
セイラーボブの教えを理解しても、何か特別な体験をするということはありません。エンライトメントや恍惚感や至福の体験が起きるわけではありません。特別な理解の体験も何も起きません。起きたとすれば、それはマインドが作り出したトリップです。
セイラーボブの教えの理解には、知的な理解以上の理解はありません。
セイラーボブは何度も何度も、
The answer is not in the mind. (答えはマインドの中にはありません)
と言っています。
その意味は、考えてもわからないということです。そこで人々は勘違いをします。考えてもわからないのだから、きっとエンライトメント(覚醒)が起きるのではないか、何か特別な理解の体験が起きるのではないかと。
エンライトメント(覚醒)も、特別な体験も起きません。何も起きません。知的な理解以上のものはありません。
「私は知的には理解しました。でも、」と言うと、セイラーボブは決まって、「(知的に)を取ってください」「(でも、)を取ってください」と言います。
また、「あなたは 2+2=4 を知的に理解しましたとは言わないでしょう? (知的に)を取ってください」と言います。
私は、この「知的に」を取るのに4年近くかかりました。そして多くの人がこの「知的に」を取ることができずにいます。なぜこの「知的に」が取れないかというと、理由は二つあります。一つ目は、多くの人が、理解した瞬間に何か体験が起きるはずだという根深い先入観(もしくは条件付け)を持っていること。二つ目は、「自分は実在しない」や「万物は一つの物」「そこには何もない」ということに実感や確信が持てないからです。
セイラーボブや非二元の教えにたどり着く多くの人は、様々な教えやグルをあちこち探求した果てにやってきます。ボブの居間にやって来るのは筋金入りのスピリチュアルオタクばかりで、彼らのスピリチュアルの知識には驚くばかりです。日本人のスピリチュアルオタクは英語という壁があるので、それほど幅広い情報を持っているわけではなく、翻訳したものに限られます。でも英語ネイティブの人たちは世界中の師から直接情報を収集できるために情報量が違います。私が持っているセイラーボブ関連の英語版の本は全部で11冊あります。彼らは好きなだけYouTubeでボブのミーティングを見ることができるし、また直接会いに行くことも自由にやっています。
今でこそ「非二元」の本は書店にたくさん並んでいますが、それはごく最近の話で、いわゆる「チャネルリング」や「引き寄せ」のブームのあとからだと思います。「チャネルリング」「引き寄せ」の前に書棚を占めていたのは「覚醒・瞑想」でした。
多くの人がこの「覚醒・瞑想」の影響を受けたまま、セイラーボブの世界にやってきます。そして、いくらセイラーボブが、「答えはマインドの中にはありません」「(知的に)を取ってください」と言っても、それができないのです。そして「エンライトメント」という言葉を「理解する体験」「実感」に置き換えて、また同じ轍(わだち)にはまるのです。
そして多くの人がまた別の師を探す旅に出ます。また「汝それなり」と言われる日まで。私は最初に「ただそれだけ」の中で、「汝それなり」と言われてもまた別のグルを探して12年間修行する人の話を呼んだ時、(馬鹿な人だな)と思ってのですが、自分のやっていることがその人と同じだということに、4年間気づきませんでした。
セイラーボブの教えには知的な理解以上の理解はありません。理解しても何も起きません。特別な体験も起きません。理解しても、以前と同じように、木を伐り薪を割る生活が変わらずに続くだけです。
私を含め多くの人は「覚醒・瞑想」本をたくさん読んでいる影響で、自分にも同じことが起きなくてはいけないと思っています。あっちのグル、こっちの師の覚醒体験、至福体験をたくさん読んで、それが起きるはずだと思い込んでいます。そうしているうちに、マインドがそれをでっちあげます。そしてその体験があなたに起きます。私にも起きました。でも、セイラーボブの教えているのは、そんな一時的な体験のことではありません。セイラーボブの教えているのは、そういった体験とは全く関係のないことです。
セイラーボブの教えているのは、「今ここにある意識」のことです。それは獲得したり、体験したり、わざわざ理解したりするものではなく、ずっとあるものです。セイラーボブは、理解は「する」ものではなく、「ある」ものだという言い方をする時もあります。
いくらそう言われても、マインドは探し続けます。「でも実感がない」「でも確信が持てない」と。
あなたが、それを実感、確信できるような体験は何も起きません。あなたの体とマインドがあるかぎり、基準点が完全に消えることはありません。あなたの体とマインドがあるかぎり、「私は実在しない」「世界は幻影である」「時間は存在しない」ということを実際に体験することはありません。非二元の世界を垣間見ることもありません。死後の世界と同じで、誰も非二元の世界を見たことがある人はいません。だからポインターで指し示すしかないのです。
セイラーボブが、「私は実在しない」「世界は幻影である」「時間は存在しない」ということを、科学的に説明したり、明確な証拠を示したりしたことを、私は聞いたことも読んだこともありません。すべてはポインターであり、月を指し示す指であって、月そのものではありません。
あなたが「知的に」や「でも」を取れば、何の理由もなく確信が持てる時期が自然とやってきます。それは、無理やり自分を納得させたり、盲目的に信じ込んだりすることとは違います。信じるのではなく、確信であり、理解です。私の場合はそうなるのに4年かかりました。
英語という壁はあったのですが、セイラーボブの言っていることの内容そのものはごく初期の段階で理解していましたから、日本語で聞いたとしても、確信、理解が起きるには一定の年月がかかったのではないかと思います。そしてそれを手に入れる唯一の方法は自分で調べること。何度も何度もセイラーボブの本を読んで、自分で調べることです。
本当に理解、確信したかどうかは、その理解、確信が日々の出来事の中で揺らがないかどうかでわかります。実感が持てなかったり、疑問があったり、矛盾を感じたりする場合は理解が十分ではありません。その場合はあきらめないで、機が熟すのを待つしかありません。忘れてはいけないことは、理解している人と理解してない人には、何の違いもないということです。私たちはもともとそれなのですから。
“Liberation is not an acquisition but a matter of courage, the courage to believe that you are free already and to act on it.” - Nisargadatta Maharaj
(解放とは獲得するものではなく、勇気である。あなたはもうすでに自由であると信じる勇気、そしてそれもとづいて行動する勇気のことである。ニサルガダッタ・マハラジ)
Full Stop!
2015年春、最初のセイラーボブのミーティングから帰った時点で、私はセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。でも日にちがたつにつれて、その理解では十分ではないと思うようになりました。
心のどこかで、ボブの教えを理解したら、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。それでまた2016年にミーティングに行って、そんなものはないと納得したつもりで帰ったのに、帰ったらまた何か体験を探している自分がいました。
私はセイラーボブに、その理解とはどういう理解なのかを聞きました。でもそのたびにボブは「普通の理解です」というだけでした。何かが起きるのかと聞いても、「普通に理解するだけです」と言うばかりでした。私はボブの言う「普通の理解」という言葉をそのまま受け取ることをせず何かが起きるのではないかとずっと思っていました。
セイラーボブの教えを理解しても、何か特別な体験をするということはありません。エンライトメントや恍惚感や至福の体験が起きるわけではありません。特別な理解の体験も何も起きません。起きたとすれば、それはマインドが作り出したトリップです。
セイラーボブの教えの理解には、知的な理解以上の理解はありません。
セイラーボブは何度も何度も、
The answer is not in the mind. (答えはマインドの中にはありません)
と言っています。
その意味は、考えてもわからないということです。そこで人々は勘違いをします。考えてもわからないのだから、きっとエンライトメント(覚醒)が起きるのではないか、何か特別な理解の体験が起きるのではないかと。
エンライトメント(覚醒)も、特別な体験も起きません。何も起きません。知的な理解以上のものはありません。
「私は知的には理解しました。でも、」と言うと、セイラーボブは決まって、「(知的に)を取ってください」「(でも、)を取ってください」と言います。
また、「あなたは 2+2=4 を知的に理解しましたとは言わないでしょう? (知的に)を取ってください」と言います。
私は、この「知的に」を取るのに4年近くかかりました。そして多くの人がこの「知的に」を取ることができずにいます。なぜこの「知的に」が取れないかというと、理由は二つあります。一つ目は、多くの人が、理解した瞬間に何か体験が起きるはずだという根深い先入観(もしくは条件付け)を持っていること。二つ目は、「自分は実在しない」や「万物は一つの物」「そこには何もない」ということに実感や確信が持てないからです。
セイラーボブや非二元の教えにたどり着く多くの人は、様々な教えやグルをあちこち探求した果てにやってきます。ボブの居間にやって来るのは筋金入りのスピリチュアルオタクばかりで、彼らのスピリチュアルの知識には驚くばかりです。日本人のスピリチュアルオタクは英語という壁があるので、それほど幅広い情報を持っているわけではなく、翻訳したものに限られます。でも英語ネイティブの人たちは世界中の師から直接情報を収集できるために情報量が違います。私が持っているセイラーボブ関連の英語版の本は全部で11冊あります。彼らは好きなだけYouTubeでボブのミーティングを見ることができるし、また直接会いに行くことも自由にやっています。
今でこそ「非二元」の本は書店にたくさん並んでいますが、それはごく最近の話で、いわゆる「チャネルリング」や「引き寄せ」のブームのあとからだと思います。「チャネルリング」「引き寄せ」の前に書棚を占めていたのは「覚醒・瞑想」でした。
多くの人がこの「覚醒・瞑想」の影響を受けたまま、セイラーボブの世界にやってきます。そして、いくらセイラーボブが、「答えはマインドの中にはありません」「(知的に)を取ってください」と言っても、それができないのです。そして「エンライトメント」という言葉を「理解する体験」「実感」に置き換えて、また同じ轍(わだち)にはまるのです。
そして多くの人がまた別の師を探す旅に出ます。また「汝それなり」と言われる日まで。私は最初に「ただそれだけ」の中で、「汝それなり」と言われてもまた別のグルを探して12年間修行する人の話を呼んだ時、(馬鹿な人だな)と思ってのですが、自分のやっていることがその人と同じだということに、4年間気づきませんでした。
セイラーボブの教えには知的な理解以上の理解はありません。理解しても何も起きません。特別な体験も起きません。理解しても、以前と同じように、木を伐り薪を割る生活が変わらずに続くだけです。
私を含め多くの人は「覚醒・瞑想」本をたくさん読んでいる影響で、自分にも同じことが起きなくてはいけないと思っています。あっちのグル、こっちの師の覚醒体験、至福体験をたくさん読んで、それが起きるはずだと思い込んでいます。そうしているうちに、マインドがそれをでっちあげます。そしてその体験があなたに起きます。私にも起きました。でも、セイラーボブの教えているのは、そんな一時的な体験のことではありません。セイラーボブの教えているのは、そういった体験とは全く関係のないことです。
セイラーボブの教えているのは、「今ここにある意識」のことです。それは獲得したり、体験したり、わざわざ理解したりするものではなく、ずっとあるものです。セイラーボブは、理解は「する」ものではなく、「ある」ものだという言い方をする時もあります。
いくらそう言われても、マインドは探し続けます。「でも実感がない」「でも確信が持てない」と。
あなたが、それを実感、確信できるような体験は何も起きません。あなたの体とマインドがあるかぎり、基準点が完全に消えることはありません。あなたの体とマインドがあるかぎり、「私は実在しない」「世界は幻影である」「時間は存在しない」ということを実際に体験することはありません。非二元の世界を垣間見ることもありません。死後の世界と同じで、誰も非二元の世界を見たことがある人はいません。だからポインターで指し示すしかないのです。
セイラーボブが、「私は実在しない」「世界は幻影である」「時間は存在しない」ということを、科学的に説明したり、明確な証拠を示したりしたことを、私は聞いたことも読んだこともありません。すべてはポインターであり、月を指し示す指であって、月そのものではありません。
あなたが「知的に」や「でも」を取れば、何の理由もなく確信が持てる時期が自然とやってきます。それは、無理やり自分を納得させたり、盲目的に信じ込んだりすることとは違います。信じるのではなく、確信であり、理解です。私の場合はそうなるのに4年かかりました。
英語という壁はあったのですが、セイラーボブの言っていることの内容そのものはごく初期の段階で理解していましたから、日本語で聞いたとしても、確信、理解が起きるには一定の年月がかかったのではないかと思います。そしてそれを手に入れる唯一の方法は自分で調べること。何度も何度もセイラーボブの本を読んで、自分で調べることです。
本当に理解、確信したかどうかは、その理解、確信が日々の出来事の中で揺らがないかどうかでわかります。実感が持てなかったり、疑問があったり、矛盾を感じたりする場合は理解が十分ではありません。その場合はあきらめないで、機が熟すのを待つしかありません。忘れてはいけないことは、理解している人と理解してない人には、何の違いもないということです。私たちはもともとそれなのですから。
“Liberation is not an acquisition but a matter of courage, the courage to believe that you are free already and to act on it.” - Nisargadatta Maharaj
(解放とは獲得するものではなく、勇気である。あなたはもうすでに自由であると信じる勇気、そしてそれもとづいて行動する勇気のことである。ニサルガダッタ・マハラジ)
Full Stop!
2019/02/04
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑭
観念(concept)・マインド・ラベル
今あなたはパソコンか携帯、もしくは何らかの端末機器でこのブログを読んでみえると思います。その時、あなたはどこからこの文章を読んでいますか?
おそらく、「目から」と言うでしょう。では、あなたの目はいくつありますか? 「二つ」。本当にそうですか?
たとえば今、生まれてから今まで学んだことを突然全部忘れてしまったとします。その時、私のブログをどこから読んでいますか? 生まれてから今までに鏡を見て、目が二つあることや、人の顔を見て目が二つあると知ったことの記憶を無くし、学校かどこかで、物は目で見ているのだと教えてくれた記憶も無くした時、自分がどこから見ているかの判断ができますか?
鏡で自分の顔を見た記憶も無くしたとしたら、自分に目があるということがわかりますか?
自分に顔というものがあって、目が二つあって、そこから物を見ているということは、後天的に学んだことであって、もしそれを全部忘れてしまったとしたら。
そこには顔も目もないのではありませんか?
今、あなたの目の前に私のブログが見えていると思いますが、自分の目や頭は見えていません。その時、生まれてから今日まで学んだすべての概念を無くしてしまったとしたら、そこには頭も目もありません。「いや、ある」と言われるかもしれませんが、それは記憶を思い出して言っているのではありませんか? もしその記憶がなかったら、あるとも無いとも言えないのではないですか?
今、体と外部の境界はどこにありますか? 今この質問を読む瞬間まで、体と外部の境界は消えていたのではありませんか?目の前には私のブログを読むデバイスがあって、意識は目の前の視界だけにあり、自分の体、頭、目は消えていませんでしたか?
目を閉じて、体の境界がどこにあるか確かめてみてください。椅子か地面か体に触れていないところに境界はありますか? 今、体の境界を意識した瞬間に体が現れたと思いますが、それ以前には体はありませんでした。記憶をたどって、体を思い出したとたんに体が現れたのではないですか?
もし意識しなかったら、もし記憶していた観念が消えたら、体の境界はないのではないですか?
車に乗れば、自分の体の感覚は車の大きさまで広がっています。それで障害物を感じて避けています。
私たちは、自分の体の境界を、後天的に学んだ観念を貼り付けているにすぎません。
セイラーボブは脳(頭)や目が見ているのではない、空間が見ているのだ、と言ってダグラス・ハーディングを引用しています(Presence-awareness.p.112)。
私は20年以上前に高木悠鼓さんがダグラス・ハーディングを呼んで日本でやったセミナーに出たことがあります。当時は非二元なんて言葉さえ聞かない頃でしたが、エンライトメントを探していた私は、ダグラス・ハーディングがエンライトメントした人だと勝手に思い込んでそのセミナーに参加しました。紙袋の両端から二人で中を覗いて、どんな感じがするのかとかやりましたが、当時は何をやっているのかサッパリ訳がわかりませんでした。
それで今回ボブの本の中でダグラス・ハーディングの名前を読んで、改めてネットで調べていて、おもしろい実験のサイトをみつけたので、よかったらやってみてください。人によるかもしれませんが、頭なんて無い、目なんて無い、体なんて無いと理解する助けになるかもしれません。
ダグラス・ハーディング「頭がない方法」
私たちは、生まれてから今日までの体験を通して様々な事を学び、それに概念のラベルを貼りつけています。そして物を見る時、そのラベルによって判断しています。
これは Living Reality に出てくる話ですが、ある人類学者が、写真を生まれてから一度も見たことがない未開の部族の家族に、その家族の写真を見せたところ、それが何なのか誰も全く認識できなかったそうです。
マゼランが世界一周で南米最南端のフェゴ島に到着した時、マゼランたちが乗ってきた大きな帆船四隻が目の前の海に停泊しているのに、フェゴ島の原住民には全く見えなかったそうです。フェゴ島の原住民にとって見慣れた海がそこにあり、その景色の中に大型帆船があったのに、彼らは全くそれを認識できませんでした。
マゼラン一行は上陸用の小さな船で島に上陸したのですが、その船は原住民にも見えたそうで、マゼラン一行が突然現れたように見えた原住民は驚いたそうです。
マゼランが、いくら大型帆船を指して、どこからやって来たかを説明しても、原住民はそれを船として認識しなかったそうです。原住民はそれほど大きな船を見たことも想像したこともなく、そうした大きな船という概念がなかったために船を認識することができませんでした。
同じような話が日本の黒船来航の時にも残っていて、浦賀にやってきた幕府の役人たちはそれほど大きな船を見たことがなく、すぐには黒船を認識しなかったそうです。
これは旅先で出会った人が話していた話。その人は小さな道から大きな道に出る時、必ず左右を確認して出るそうですが、しょっちゅう車に轢かれそうになるそうです。その人曰く、遠くから来る車はよく見えるのに、なぜか近くの車が見えないそうです。
私たちが成長する過程で学んだ概念はマインドの中に記憶され、言語と密接に繋がっています。物を表現するためには名前が必要で、その名前に概念が張り付いています。その概念はその人が育った社会環境によって大きく違い、固定されたものではありません。
メルボルンのヴィクトリアマーケットの魚市場を見て歩くと、日本と別の概念を魚に貼り付けていておもしろいなぁ、と思ったことがあります。例えばヒラメとカレイ。日本ではヒラメとカレイは明確に分けていて、左に向いているのがヒレメで右に向いているのがカレイ。値段は雲泥の差がありますが、向こうだと区別せずに、どっちも flounder で表現しています。
同じような例は動植物の場合たくさんあって、例えばフランス語の場合、蛾と蝶を区別する概念がなく、どっちもパピヨン(papillon) だそうです。
植物の例でいえば、日本では楓とモミジは分けて言いますが、英語では maple だけ。
アマゾンに住む少数民族であるアモンダワ族の人々には、時間の概念がなく、「時間」や「日付」「月」「年」を表す言葉がないそうです。彼らはボブのミーティングに出て、「時間はない!」なんて言われても、「時間???」となるのでしょう。
私たちは、見ている世界をすべて観念で理解しているにすぎません。すべての観念を取り去ったら、そこに世界は見えるでしょうか? もっと言うなら、そこに世界はあるのでしょうか? 世界はマーヤーであり、幻影です。
セイラーボブは部屋の椅子を指さして、観念を取り去ったら、それは何なのですか? と聞きます。
また、セイラーボブがよく引用するシェクスピアの言葉にこういうのがあります。
良いとか悪いとか思考が勝手に決めているだけ。
また、ニサルガダッタ・マハラジの言葉を引用してこう言う時もあります。
あなたの想像以外、あなたを苦しめるものは何もない。
また、こんなことを言う時もあります。
人々はイラクで何人死んだと騒ぐが、メルボルンだけで毎日200人の人が死んでいます。
以下は Presence-Awareness.p.126から
私たちはラベルを現実と思っている
ボブ:「もうどうしょうもない」と言うのはかまわない。それはある意味逃げ出すということです。でも、あなたは理解しなくてはいけません。それは、「私は困っている」から始まります。何が起こっているのでしょう? あなたには意識があります。今ここにいるという意識があなたにありますね?
質問者:はい。
ボブ:それがどうやってマインドに現れていますか? 原初の思考は「私はいる」です。私が存在しているという感覚が言葉となって現れたものが「私はいる」です。マインドは「私はいる」を理解できません。なぜなら、そこには何もないからです。それは単にいくつかの言葉にすぎません。それに何か実体を与えるためには「私は困った」という観念を与えなくてはいけません。そして今あなたは、その「私はいる」という映像を手に入れました。何が起こったかわかりますか? ラベル貼りが起こったのです。今マインドは理解できるようなイメージを手に入れたのです。それはこんなイメージ。「これが私だ」「この困った、この困った感じ、この恐怖、そしてそれが私だ」。あなたは自然と「私はいる」を身につけます。「私はいる」は自分がいるという感覚にすぎません。それは思考。原初の思考にすぎません。私たちは自分自身の心理的イメージを構築するために、その思考に出来事や経験や条件付けを付け加える以外にありません。もしそういった出来事や経験や条件付けを加えなかったら、それは単に「私はいる」でしかない。「私はいる」とは何でしょう? 「いる」というのは「存在する」という動詞。そして「私はいる」というのは単に自分がいるという認識。あなたは自分がいることを認識するために「私はいる」と言う必要さえありません。あなたはその思考さえも捨て去ることができます。
質問者:はい。
ボブ:あなたは一日中「私はいる」と言ってまわることもできます。あなたは「私はいる」とさえ考えないこともできる。しかしあなたはどんな時でも、自分がいることは否定できません。
質問者:はい。
ボブ:すべては、あなたが自分に抱いている「私は困っている」に関連するようになりました。
別の質問者:私が「私はいる」に加えているのは、「私は肉体である」でした。
ボブ:ええ、それもまた別のラベルではありませんか? 「体」、その名前をどこから手に入れましたか?
質問者:社会から学びました。
ボブ:ええ、あなたはそのラベルを貼り付けました。みなさんは自分のことをこの体とマインドだと思っています。でも、体とは何ですか?
質問者:構成要素です。
ボブ:構成要素。構成要素とは何ですか? エネルギー。
質問者:エネルギー、はい、空間です。
ボブ:そうです。それには実体がなく、独立した存在でもありません。それで私たちはラベルでそれを判断し、そのラベルを実在だと思っています。あなたは体の中に中心を見つけることはできません。あなたが「ここから体が始まった」と言えるような場所はありません。そして、どんな構成要素がこの体のどこから始まったのですか? それはこの体から始まったのですか? 体の中にある空間と、体の外にある空間に違いがありますか?
質問者:いいえ。
ボブ:体の中にある空気と、体の外にある空気に違いはありますか?
質問者:いいえ。
ボブ:体の中の水と・・・。
質問者:いいえ。
ボブ:あなたはそれがこの体から始まったとは言えない。それは普遍的なものです。それがあなたです。そういうわけで、あなたが「私は体だ」という時、たわごとを言っているのです。あなたは無限のものに境界や限界を与えています。
今あなたはパソコンか携帯、もしくは何らかの端末機器でこのブログを読んでみえると思います。その時、あなたはどこからこの文章を読んでいますか?
おそらく、「目から」と言うでしょう。では、あなたの目はいくつありますか? 「二つ」。本当にそうですか?
たとえば今、生まれてから今まで学んだことを突然全部忘れてしまったとします。その時、私のブログをどこから読んでいますか? 生まれてから今までに鏡を見て、目が二つあることや、人の顔を見て目が二つあると知ったことの記憶を無くし、学校かどこかで、物は目で見ているのだと教えてくれた記憶も無くした時、自分がどこから見ているかの判断ができますか?
鏡で自分の顔を見た記憶も無くしたとしたら、自分に目があるということがわかりますか?
自分に顔というものがあって、目が二つあって、そこから物を見ているということは、後天的に学んだことであって、もしそれを全部忘れてしまったとしたら。
そこには顔も目もないのではありませんか?
今、あなたの目の前に私のブログが見えていると思いますが、自分の目や頭は見えていません。その時、生まれてから今日まで学んだすべての概念を無くしてしまったとしたら、そこには頭も目もありません。「いや、ある」と言われるかもしれませんが、それは記憶を思い出して言っているのではありませんか? もしその記憶がなかったら、あるとも無いとも言えないのではないですか?
今、体と外部の境界はどこにありますか? 今この質問を読む瞬間まで、体と外部の境界は消えていたのではありませんか?目の前には私のブログを読むデバイスがあって、意識は目の前の視界だけにあり、自分の体、頭、目は消えていませんでしたか?
目を閉じて、体の境界がどこにあるか確かめてみてください。椅子か地面か体に触れていないところに境界はありますか? 今、体の境界を意識した瞬間に体が現れたと思いますが、それ以前には体はありませんでした。記憶をたどって、体を思い出したとたんに体が現れたのではないですか?
もし意識しなかったら、もし記憶していた観念が消えたら、体の境界はないのではないですか?
車に乗れば、自分の体の感覚は車の大きさまで広がっています。それで障害物を感じて避けています。
私たちは、自分の体の境界を、後天的に学んだ観念を貼り付けているにすぎません。
セイラーボブは脳(頭)や目が見ているのではない、空間が見ているのだ、と言ってダグラス・ハーディングを引用しています(Presence-awareness.p.112)。
私は20年以上前に高木悠鼓さんがダグラス・ハーディングを呼んで日本でやったセミナーに出たことがあります。当時は非二元なんて言葉さえ聞かない頃でしたが、エンライトメントを探していた私は、ダグラス・ハーディングがエンライトメントした人だと勝手に思い込んでそのセミナーに参加しました。紙袋の両端から二人で中を覗いて、どんな感じがするのかとかやりましたが、当時は何をやっているのかサッパリ訳がわかりませんでした。
それで今回ボブの本の中でダグラス・ハーディングの名前を読んで、改めてネットで調べていて、おもしろい実験のサイトをみつけたので、よかったらやってみてください。人によるかもしれませんが、頭なんて無い、目なんて無い、体なんて無いと理解する助けになるかもしれません。
ダグラス・ハーディング「頭がない方法」
私たちは、生まれてから今日までの体験を通して様々な事を学び、それに概念のラベルを貼りつけています。そして物を見る時、そのラベルによって判断しています。
これは Living Reality に出てくる話ですが、ある人類学者が、写真を生まれてから一度も見たことがない未開の部族の家族に、その家族の写真を見せたところ、それが何なのか誰も全く認識できなかったそうです。
マゼランが世界一周で南米最南端のフェゴ島に到着した時、マゼランたちが乗ってきた大きな帆船四隻が目の前の海に停泊しているのに、フェゴ島の原住民には全く見えなかったそうです。フェゴ島の原住民にとって見慣れた海がそこにあり、その景色の中に大型帆船があったのに、彼らは全くそれを認識できませんでした。
マゼラン一行は上陸用の小さな船で島に上陸したのですが、その船は原住民にも見えたそうで、マゼラン一行が突然現れたように見えた原住民は驚いたそうです。
マゼランが、いくら大型帆船を指して、どこからやって来たかを説明しても、原住民はそれを船として認識しなかったそうです。原住民はそれほど大きな船を見たことも想像したこともなく、そうした大きな船という概念がなかったために船を認識することができませんでした。
同じような話が日本の黒船来航の時にも残っていて、浦賀にやってきた幕府の役人たちはそれほど大きな船を見たことがなく、すぐには黒船を認識しなかったそうです。
これは旅先で出会った人が話していた話。その人は小さな道から大きな道に出る時、必ず左右を確認して出るそうですが、しょっちゅう車に轢かれそうになるそうです。その人曰く、遠くから来る車はよく見えるのに、なぜか近くの車が見えないそうです。
私たちが成長する過程で学んだ概念はマインドの中に記憶され、言語と密接に繋がっています。物を表現するためには名前が必要で、その名前に概念が張り付いています。その概念はその人が育った社会環境によって大きく違い、固定されたものではありません。
メルボルンのヴィクトリアマーケットの魚市場を見て歩くと、日本と別の概念を魚に貼り付けていておもしろいなぁ、と思ったことがあります。例えばヒラメとカレイ。日本ではヒラメとカレイは明確に分けていて、左に向いているのがヒレメで右に向いているのがカレイ。値段は雲泥の差がありますが、向こうだと区別せずに、どっちも flounder で表現しています。
同じような例は動植物の場合たくさんあって、例えばフランス語の場合、蛾と蝶を区別する概念がなく、どっちもパピヨン(papillon) だそうです。
植物の例でいえば、日本では楓とモミジは分けて言いますが、英語では maple だけ。
アマゾンに住む少数民族であるアモンダワ族の人々には、時間の概念がなく、「時間」や「日付」「月」「年」を表す言葉がないそうです。彼らはボブのミーティングに出て、「時間はない!」なんて言われても、「時間???」となるのでしょう。
私たちは、見ている世界をすべて観念で理解しているにすぎません。すべての観念を取り去ったら、そこに世界は見えるでしょうか? もっと言うなら、そこに世界はあるのでしょうか? 世界はマーヤーであり、幻影です。
セイラーボブは部屋の椅子を指さして、観念を取り去ったら、それは何なのですか? と聞きます。
また、セイラーボブがよく引用するシェクスピアの言葉にこういうのがあります。
良いとか悪いとか思考が勝手に決めているだけ。
また、ニサルガダッタ・マハラジの言葉を引用してこう言う時もあります。
あなたの想像以外、あなたを苦しめるものは何もない。
また、こんなことを言う時もあります。
人々はイラクで何人死んだと騒ぐが、メルボルンだけで毎日200人の人が死んでいます。
以下は Presence-Awareness.p.126から
私たちはラベルを現実と思っている
ボブ:「もうどうしょうもない」と言うのはかまわない。それはある意味逃げ出すということです。でも、あなたは理解しなくてはいけません。それは、「私は困っている」から始まります。何が起こっているのでしょう? あなたには意識があります。今ここにいるという意識があなたにありますね?
質問者:はい。
ボブ:それがどうやってマインドに現れていますか? 原初の思考は「私はいる」です。私が存在しているという感覚が言葉となって現れたものが「私はいる」です。マインドは「私はいる」を理解できません。なぜなら、そこには何もないからです。それは単にいくつかの言葉にすぎません。それに何か実体を与えるためには「私は困った」という観念を与えなくてはいけません。そして今あなたは、その「私はいる」という映像を手に入れました。何が起こったかわかりますか? ラベル貼りが起こったのです。今マインドは理解できるようなイメージを手に入れたのです。それはこんなイメージ。「これが私だ」「この困った、この困った感じ、この恐怖、そしてそれが私だ」。あなたは自然と「私はいる」を身につけます。「私はいる」は自分がいるという感覚にすぎません。それは思考。原初の思考にすぎません。私たちは自分自身の心理的イメージを構築するために、その思考に出来事や経験や条件付けを付け加える以外にありません。もしそういった出来事や経験や条件付けを加えなかったら、それは単に「私はいる」でしかない。「私はいる」とは何でしょう? 「いる」というのは「存在する」という動詞。そして「私はいる」というのは単に自分がいるという認識。あなたは自分がいることを認識するために「私はいる」と言う必要さえありません。あなたはその思考さえも捨て去ることができます。
質問者:はい。
ボブ:あなたは一日中「私はいる」と言ってまわることもできます。あなたは「私はいる」とさえ考えないこともできる。しかしあなたはどんな時でも、自分がいることは否定できません。
質問者:はい。
ボブ:すべては、あなたが自分に抱いている「私は困っている」に関連するようになりました。
別の質問者:私が「私はいる」に加えているのは、「私は肉体である」でした。
ボブ:ええ、それもまた別のラベルではありませんか? 「体」、その名前をどこから手に入れましたか?
質問者:社会から学びました。
ボブ:ええ、あなたはそのラベルを貼り付けました。みなさんは自分のことをこの体とマインドだと思っています。でも、体とは何ですか?
質問者:構成要素です。
ボブ:構成要素。構成要素とは何ですか? エネルギー。
質問者:エネルギー、はい、空間です。
ボブ:そうです。それには実体がなく、独立した存在でもありません。それで私たちはラベルでそれを判断し、そのラベルを実在だと思っています。あなたは体の中に中心を見つけることはできません。あなたが「ここから体が始まった」と言えるような場所はありません。そして、どんな構成要素がこの体のどこから始まったのですか? それはこの体から始まったのですか? 体の中にある空間と、体の外にある空間に違いがありますか?
質問者:いいえ。
ボブ:体の中にある空気と、体の外にある空気に違いはありますか?
質問者:いいえ。
ボブ:体の中の水と・・・。
質問者:いいえ。
ボブ:あなたはそれがこの体から始まったとは言えない。それは普遍的なものです。それがあなたです。そういうわけで、あなたが「私は体だ」という時、たわごとを言っているのです。あなたは無限のものに境界や限界を与えています。
2019/02/02
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑬
Living Reality 抜粋 パート4
第五章からの抜粋
二度と再び同じではない
二十歳の時、瞑想とエンライトメントを学んだ時から、私の脳裏を占める思考の流れがありました。それは朝目覚めた時に始まり、夜眠る時まで続く。そしてその強さが弱まることはありませんでした。それはもちろん、ある日、私の分離や不完全な感覚が、平和、すなわち、いわゆる至福やエンライトメントに置き換わるという望みでした。四十代後半までで、その達成の望みはひどく減少したものの、私の考えは変わりませんでした。しかし、ボブが到着して間もなく、解放への私の使い古した概念と望みは、私は二度とふたたび同じではないという結論に置き換わりました。実際その思考はボブが滞在した五週間の間、ちょっとしたマントラになりました。そして、ボブの非二元の教えを二、三日以上聞いた人からも、私同様の反応を聞きました。
驚いたことにそれは、体験することとは関係ありませんでした。それは単に理解することに関係していました。ボブの滞在の間、至福の伝達、トランスのような状態の瞑想、そして額へのタッピングもありませんでした。そこにあったのは単に、私たちが子供の頃からずっとともに生きてきた「私」という信念をボブの指示で調べたあとの反応だけでした。それは、過去と未来は単に心理的なイメージにすぎないということをはっきりと理解したことへの反応でした。もし過去と未来が架空のものなら、私たちの存在もそうであるということになります。もし過去も未来もなかったら、一体どうなりますか? 自分の内側を探して、独立した存在を体験するかわりに、空(くう)すなわち「何もないもの」を見つける結果になりました。すべてのものが完全に変化してしまったのに、「何もないもの」が生まれてからずっと私と一緒にあるなら、空(くう)すなわち「何もないもの」が私に違いない、という理解が生まれました。そういうわけで、本当の私は、そして今までもずっと、完全で完璧なものでした。そういうわけで、本当の私は、全知、偏在、全能のものでした。
三十代の十年間、私はワーナー・エアハードESTセミナーに参加しました。ワーナーはアドヴァイタの人ではありませんが、彼は優秀な先生でした。私は彼が何度も強調してこう言うのを聞きました。「それだ。こうやって人生を転換するのだ。違うものになろうと期待するのをやめなさい」。彼はまた、「人生に意味はない。慣れなさい。人生に意味はない。そして意味はない。意味はない」と言っていました。私は何年もの間、こんなコメントを真に理解できるというのはどんなふうだろうと思っていました。どういうわけか、セイラーボブにも違った言葉で似たようなメッセージがあります。でも彼は私が理解できるやり方で言ったのです。そしてそれはシンプルで苦痛のないものでした。それはまるで私たちが海に魅せられた幼い子供で、ボブから空バケツを渡されて、「行って私に海から青い水を汲んできておくれ。そして何が起きるか見てみよう」と言われたようなものでした。それは言いようのないほど刺激的なものでした。
この理解の影響はとてもシンプルで自然で取り立てて言うほどではない事から人生における根本的な変化までありました。私たちはここにいる自分たちのことを「ザ・ボブズ」と呼び、おまけに訪問客たちは家に流れ込んできて、私はとても忙しかった。そしてとても興奮していて、起こっている変化を完全に理解することができませんでした。でも、彼らが去って数週間後、私は明らかな「ビフォーアフター」効果に気づきました。ビフォー、アフターセイラーボブの生活。最も顕著な経験はまず、毎日目覚める時に起こります。ビフォーボブ。目が覚めて最初の私の思考は、分離した、限られた、不完全な感じでした。そしてそれはいつもそれに対応して、何か達成することができれば、おそらく問題は解決されるだろうというものでした。そこにはしばしば、差し迫った破滅や徹底的に悪化しそうな何かの感じがありました。これは普通、問題や潜在的な苦境に対してどうやって対応したらよいかという方策にともなって起きました。最高の時でさえ、いつも何かが欠けていて、いつも何かが必要でした。意外なことに、どんな望みが達成されても、分離して不完全な感じは決して和らぎませんでした。少しも。やすらぎをもたらさないものをいくら得ても十分ではありませんでした。それでも欲求は続きました。よく言われるように、精神異常の定義が、違う結果を期待して同じ行動をするということなら、もう何十年も前に私は精神病院に入れられていたでしょう。
アフターボブの教え。睡眠からの目覚めが根本的に違います。何かが欠けていたり修正したりしなければいけない感じのかわりに、完全さと達成感があります。何も欠けてなく、「何かになる」という感じもなく、心配もなく、未来に対する不安もありません。そこには決定的な一体感があります。たくさんの気にかかることのかわりに、必要な思考と注意すべきことへの欲求があり、そこには単に生活そのものがあります。それは今ここにある意識であり、毎瞬毎瞬のものです。その経験はとても普通で地味で、とりたてて言うほどのものではありません。でもそれが、以前の生活とは全く逆で、生活そのものは驚くばかりです。それは全く言いようもないほどです。
第六章からの抜粋
週末の会話
7月31日、日曜日、ボブは最初の広告宣伝した週末会合をしました。国中から人々がやってくる一方で、コネチカット、シカゴではボブがやって来るのを待っていました。十二人から十五人の人が最初の二週末の会合にやってきました。三回目は不運にも、2004年にフロリダを襲った記録的な4回のうちの最初のハリケーンによって中止となりました。やってきたのは明らかに熱心で誠実な人たちでした。彼らはまた、非二元にとても精通しているようでした。同時に何人かは私と一緒に二週間前からいた人たちで、ボブに解放や目覚めが起こったことを確かめるための劇的な体験を待っている人たちでした。また何人かは、宇宙的なパワー、とめどない至福、奇跡を生み出す力、などなど、今日のスピリチュアルムーブメントがもたらした非現実的な期待を抱いている人たちでした。
また何人かは、一定期間自由や平和の感覚を享受したが、その経験は束の間のものだったという人たちでした。それ以外の人たちは、しっかり理解している人たちでしたが、時折捕まってしまう執着や欲望をどうやって止めたらいいのかを知りたいという人たちでした。たいていの人たちは、探求することこそが問題であるという内容の本を読んだり、CDを聞いたりしたことのある人たちでした。彼らは「あなたはもうあなたが探しているものなのだ」ということを聞いたことがありました。でもどういうわけか、印刷された言葉だけでは十分ではありませんでした。彼らはもしかするとボブの話を直接聞けば助けになるのではないかと思ってやってきました。場合によっては助けになると私は考えています。私は、どれほど多くの人が、私がボブをアメリカに呼んだことを心から感謝してくれたかに感動しました。何人かは経費の提供を申し出てくれたほどでした。ボブを紹介する時、私は参加者に、すべての質問や疑問に返答があるまでは帰らないようにとアドヴァイスしました。私は彼らに、ボブの本やCDは好きなだけ読むことができるが、直接彼とやり取りすることとは比べ物にならないという私の深い経験を短く伝えました。私の知る限りでは、多くの人がボブのメッセージを理解しました。誰の探求が終わり、誰の探求が終わらなかったは定かではありません。私のお気に入りのトークは第三と最後の日曜日、その日はハリケーン・チャーリーのせいでほとんどの人がキャンセルしたのですが、に行われました。その嵐はロングボートキーからおよそ75マイル南のフロリダを襲い、確実に私たちの地域にとても近いコースをとって影響が出るだろうと思われました。その点に関して私たちは幸運でした。にもかかわらず、ボブとバーブが最初のハリケーン避難を経験する間、何日かのストレスに満ちた日に耐えなくてはなりませんでした。私たちは、木の枝払い、建物の外回りの安全確保、貴重品をまとめること、洪水に備えての家具の移動に丸一日を費やしました。次の日の朝早く、私たちは五歳の子供、犬、三人の訪問客(エメット、ボブ、バーバラ)と一緒に、三台の車に荷物や身の回り品をぎっしり詰めて、北にあるオーランドへ向けて出発しました。ヴァシティは勘が働くのですが、オーランドのホテルの予約がいっぱいになる前に予約を取っていました。不運にも、私たちがオーランドに着いた時、ラジオは嵐がまっすぐに私たちの方へ向かっていることを告げました。そのため私たちはイーストコーストを目指し、フォートローダーデールへと南下しました。激しい雨の中をその日のうちに10時間から12時間走りました。全部のホテルとレストランが閉まっていて、朝食を除いた最初の食事は夜遅くになりました。唯一良かったことは、ボブとバーブが南フロリダを見ることができたことと、何人かの親戚に会えたことです。ある時ボブは、その出来事は、私が書き始めようかと考えていた本の興味深いパートになるかもしれないと言いました。
翌日、土曜日の朝、私は電話のメッセージをチェックして驚きました。二人の女性がはるばるアリゾナからやってきて、ボブに会うことを熱望していました。そのため私たちは日曜日に会合を設定しました。そのミーティングは私のお気に入りの一つとなりました。というのも、その長年にわたる二人の探求者の熱意が明らかだったからです。多くの探求者が控えめであるのとは対照的に、彼女たちの解放に対する渇きは明らかで、それがボブを普段よりも駆り立てました。このあとに続くのは三つの週末すべての抜粋です。毎土曜日、ボブは20分から30分話したあと、質問を受けました。毎日曜日は質疑応答のみです。このあとに続くのは短い抜粋です。というのも、応答は、もうすでにこの本の中で紹介したものと非常に似かよっているからです。応答は非常に深い内容ですが、討議はボブが最初の二週間でやった内容とほとんど同じです。何人かの人は記名しました。名前のわからなかった人は「V]もしくは訪問者と表示しました。ボブは毎土曜日のトークを次のメッセージで始めました。
以上でLiving Reality 抜粋は終了です。
(参考:アセンション通信館(パリトーショさんのサイト) (Living Realityの紹介翻訳ありNo.442~520))
第五章からの抜粋
二度と再び同じではない
二十歳の時、瞑想とエンライトメントを学んだ時から、私の脳裏を占める思考の流れがありました。それは朝目覚めた時に始まり、夜眠る時まで続く。そしてその強さが弱まることはありませんでした。それはもちろん、ある日、私の分離や不完全な感覚が、平和、すなわち、いわゆる至福やエンライトメントに置き換わるという望みでした。四十代後半までで、その達成の望みはひどく減少したものの、私の考えは変わりませんでした。しかし、ボブが到着して間もなく、解放への私の使い古した概念と望みは、私は二度とふたたび同じではないという結論に置き換わりました。実際その思考はボブが滞在した五週間の間、ちょっとしたマントラになりました。そして、ボブの非二元の教えを二、三日以上聞いた人からも、私同様の反応を聞きました。
驚いたことにそれは、体験することとは関係ありませんでした。それは単に理解することに関係していました。ボブの滞在の間、至福の伝達、トランスのような状態の瞑想、そして額へのタッピングもありませんでした。そこにあったのは単に、私たちが子供の頃からずっとともに生きてきた「私」という信念をボブの指示で調べたあとの反応だけでした。それは、過去と未来は単に心理的なイメージにすぎないということをはっきりと理解したことへの反応でした。もし過去と未来が架空のものなら、私たちの存在もそうであるということになります。もし過去も未来もなかったら、一体どうなりますか? 自分の内側を探して、独立した存在を体験するかわりに、空(くう)すなわち「何もないもの」を見つける結果になりました。すべてのものが完全に変化してしまったのに、「何もないもの」が生まれてからずっと私と一緒にあるなら、空(くう)すなわち「何もないもの」が私に違いない、という理解が生まれました。そういうわけで、本当の私は、そして今までもずっと、完全で完璧なものでした。そういうわけで、本当の私は、全知、偏在、全能のものでした。
三十代の十年間、私はワーナー・エアハードESTセミナーに参加しました。ワーナーはアドヴァイタの人ではありませんが、彼は優秀な先生でした。私は彼が何度も強調してこう言うのを聞きました。「それだ。こうやって人生を転換するのだ。違うものになろうと期待するのをやめなさい」。彼はまた、「人生に意味はない。慣れなさい。人生に意味はない。そして意味はない。意味はない」と言っていました。私は何年もの間、こんなコメントを真に理解できるというのはどんなふうだろうと思っていました。どういうわけか、セイラーボブにも違った言葉で似たようなメッセージがあります。でも彼は私が理解できるやり方で言ったのです。そしてそれはシンプルで苦痛のないものでした。それはまるで私たちが海に魅せられた幼い子供で、ボブから空バケツを渡されて、「行って私に海から青い水を汲んできておくれ。そして何が起きるか見てみよう」と言われたようなものでした。それは言いようのないほど刺激的なものでした。
この理解の影響はとてもシンプルで自然で取り立てて言うほどではない事から人生における根本的な変化までありました。私たちはここにいる自分たちのことを「ザ・ボブズ」と呼び、おまけに訪問客たちは家に流れ込んできて、私はとても忙しかった。そしてとても興奮していて、起こっている変化を完全に理解することができませんでした。でも、彼らが去って数週間後、私は明らかな「ビフォーアフター」効果に気づきました。ビフォー、アフターセイラーボブの生活。最も顕著な経験はまず、毎日目覚める時に起こります。ビフォーボブ。目が覚めて最初の私の思考は、分離した、限られた、不完全な感じでした。そしてそれはいつもそれに対応して、何か達成することができれば、おそらく問題は解決されるだろうというものでした。そこにはしばしば、差し迫った破滅や徹底的に悪化しそうな何かの感じがありました。これは普通、問題や潜在的な苦境に対してどうやって対応したらよいかという方策にともなって起きました。最高の時でさえ、いつも何かが欠けていて、いつも何かが必要でした。意外なことに、どんな望みが達成されても、分離して不完全な感じは決して和らぎませんでした。少しも。やすらぎをもたらさないものをいくら得ても十分ではありませんでした。それでも欲求は続きました。よく言われるように、精神異常の定義が、違う結果を期待して同じ行動をするということなら、もう何十年も前に私は精神病院に入れられていたでしょう。
アフターボブの教え。睡眠からの目覚めが根本的に違います。何かが欠けていたり修正したりしなければいけない感じのかわりに、完全さと達成感があります。何も欠けてなく、「何かになる」という感じもなく、心配もなく、未来に対する不安もありません。そこには決定的な一体感があります。たくさんの気にかかることのかわりに、必要な思考と注意すべきことへの欲求があり、そこには単に生活そのものがあります。それは今ここにある意識であり、毎瞬毎瞬のものです。その経験はとても普通で地味で、とりたてて言うほどのものではありません。でもそれが、以前の生活とは全く逆で、生活そのものは驚くばかりです。それは全く言いようもないほどです。
第六章からの抜粋
週末の会話
7月31日、日曜日、ボブは最初の広告宣伝した週末会合をしました。国中から人々がやってくる一方で、コネチカット、シカゴではボブがやって来るのを待っていました。十二人から十五人の人が最初の二週末の会合にやってきました。三回目は不運にも、2004年にフロリダを襲った記録的な4回のうちの最初のハリケーンによって中止となりました。やってきたのは明らかに熱心で誠実な人たちでした。彼らはまた、非二元にとても精通しているようでした。同時に何人かは私と一緒に二週間前からいた人たちで、ボブに解放や目覚めが起こったことを確かめるための劇的な体験を待っている人たちでした。また何人かは、宇宙的なパワー、とめどない至福、奇跡を生み出す力、などなど、今日のスピリチュアルムーブメントがもたらした非現実的な期待を抱いている人たちでした。
また何人かは、一定期間自由や平和の感覚を享受したが、その経験は束の間のものだったという人たちでした。それ以外の人たちは、しっかり理解している人たちでしたが、時折捕まってしまう執着や欲望をどうやって止めたらいいのかを知りたいという人たちでした。たいていの人たちは、探求することこそが問題であるという内容の本を読んだり、CDを聞いたりしたことのある人たちでした。彼らは「あなたはもうあなたが探しているものなのだ」ということを聞いたことがありました。でもどういうわけか、印刷された言葉だけでは十分ではありませんでした。彼らはもしかするとボブの話を直接聞けば助けになるのではないかと思ってやってきました。場合によっては助けになると私は考えています。私は、どれほど多くの人が、私がボブをアメリカに呼んだことを心から感謝してくれたかに感動しました。何人かは経費の提供を申し出てくれたほどでした。ボブを紹介する時、私は参加者に、すべての質問や疑問に返答があるまでは帰らないようにとアドヴァイスしました。私は彼らに、ボブの本やCDは好きなだけ読むことができるが、直接彼とやり取りすることとは比べ物にならないという私の深い経験を短く伝えました。私の知る限りでは、多くの人がボブのメッセージを理解しました。誰の探求が終わり、誰の探求が終わらなかったは定かではありません。私のお気に入りのトークは第三と最後の日曜日、その日はハリケーン・チャーリーのせいでほとんどの人がキャンセルしたのですが、に行われました。その嵐はロングボートキーからおよそ75マイル南のフロリダを襲い、確実に私たちの地域にとても近いコースをとって影響が出るだろうと思われました。その点に関して私たちは幸運でした。にもかかわらず、ボブとバーブが最初のハリケーン避難を経験する間、何日かのストレスに満ちた日に耐えなくてはなりませんでした。私たちは、木の枝払い、建物の外回りの安全確保、貴重品をまとめること、洪水に備えての家具の移動に丸一日を費やしました。次の日の朝早く、私たちは五歳の子供、犬、三人の訪問客(エメット、ボブ、バーバラ)と一緒に、三台の車に荷物や身の回り品をぎっしり詰めて、北にあるオーランドへ向けて出発しました。ヴァシティは勘が働くのですが、オーランドのホテルの予約がいっぱいになる前に予約を取っていました。不運にも、私たちがオーランドに着いた時、ラジオは嵐がまっすぐに私たちの方へ向かっていることを告げました。そのため私たちはイーストコーストを目指し、フォートローダーデールへと南下しました。激しい雨の中をその日のうちに10時間から12時間走りました。全部のホテルとレストランが閉まっていて、朝食を除いた最初の食事は夜遅くになりました。唯一良かったことは、ボブとバーブが南フロリダを見ることができたことと、何人かの親戚に会えたことです。ある時ボブは、その出来事は、私が書き始めようかと考えていた本の興味深いパートになるかもしれないと言いました。
翌日、土曜日の朝、私は電話のメッセージをチェックして驚きました。二人の女性がはるばるアリゾナからやってきて、ボブに会うことを熱望していました。そのため私たちは日曜日に会合を設定しました。そのミーティングは私のお気に入りの一つとなりました。というのも、その長年にわたる二人の探求者の熱意が明らかだったからです。多くの探求者が控えめであるのとは対照的に、彼女たちの解放に対する渇きは明らかで、それがボブを普段よりも駆り立てました。このあとに続くのは三つの週末すべての抜粋です。毎土曜日、ボブは20分から30分話したあと、質問を受けました。毎日曜日は質疑応答のみです。このあとに続くのは短い抜粋です。というのも、応答は、もうすでにこの本の中で紹介したものと非常に似かよっているからです。応答は非常に深い内容ですが、討議はボブが最初の二週間でやった内容とほとんど同じです。何人かの人は記名しました。名前のわからなかった人は「V]もしくは訪問者と表示しました。ボブは毎土曜日のトークを次のメッセージで始めました。
以上でLiving Reality 抜粋は終了です。
(参考:アセンション通信館(パリトーショさんのサイト) (Living Realityの紹介翻訳ありNo.442~520))
2019/01/30
セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑫
Living Reality 抜粋 パート3
第二章からの抜粋
セイラーボブとバーブ到着
2004年7月14日
ボブとバーバラが、暖かいフロリダの夏の夜に到着する頃には、私と妻のヴァシティはとても興奮していました。およそ30数年前に探求を終えて、非二元の理解を持ち続ける師を我が家に迎えるという考えは、夢でも見ているに違いないという思いでした。
私は30年にわたってスピリチュアルの道を歩み、様々な活動に参加してきましたが、実際にグルと近くで接したことはありませんでした。またスピリチュアルの師の教えに対して、私がボブに感じたような心地良さを感じるのは久しぶりのことでした。現代における、あまりにも多くのいわゆる覚醒したマスターたちは、私の考えでは偽物でした。教師たちは活動を目立った愛と慈愛で始め、様々なスキャンダル、強欲、性的いたずら、権力の乱用で終えます。とりわけ、私が30代から40代の間の15年近くの間、エンライトメントは本当にあるのか、もしそうなら、あれほど多くのいわゆるグルたちが、ほとんど、もしくは全く不誠実で、時折とても悪い行いをするのはどうしてなのかと思っていました。
ボブに会った頃、行儀の悪いグルの問題は私にとって全く不満の種でした。21歳から27歳までの間、私は瞑想を教え、スピリチュアルのムーブメントに参加していました。やがて腹立たしい行いに幻滅するようになり、私は師のもとを去りました。それは悲しいできごとでしたが、その後数年間の悲しみを癒してくれるものはありませんでした。世界的に有名なグルたちがますます注目されるようになると、その出来事を何度も思い出しました。さまざまな悪行の間、その弟子たちの口づて、本、雑誌記事などによって、多くのグルたちが「排斥」されました。1980年代中頃までに私は、初めてヒンズーベーダ占星術の明確な本を書いたことで、形而学上のグループの間で有名になり、世界中の精神世界の探求者に対して占星術を始めました。そういうわけで私は、何らかの形でグルに幻滅を感じたり虐待を受けたりした人々から直接話を聞くようになりました。もちろん、どんな話にも二面性があり、誰もが長い間広まっている有名なグルの当惑させられる噂を信じているわけではないのですが、私は信じていましたし、今でも信じています。
私が信じるようになった大きな理由は別々の顧客から同じ教師の極めて似た話を繰り返し聞かされたからです。グルAに関して聞く話はいつも、性的な悪行でした。グルBに関する話ではたいてい嘘か金にまつわるごまかしでした。グルCに関しての話は、「エゴ退治」の名のもとにトラウマを負った弟子の間で飛び交っていましたが、その一方でその教師は弟子たちに彼を尊敬させ、神のごとくに崇拝させていました。
そんなふうに時間はすぎていきました。私が聞いた中で特筆すべきは、おそらく、私が聞いた、あまりに多くの出来事が、グルがかかわる中枢機関に長くかかわった側近の人からのものだったことです。私は、秘書、運転手、愛人、指導者たちの親しい友人たちなどから話を聞きました。私の知る限りにおいて、それほど多くの互いに無関係の人々が嘘をつくはずはないのです。
こういう疑問が長く私につきまとい、今までどれほど私の精神やエネルギーレベルでダメージを与えたかわかりません。何年もの間、こうした疑問は眠りつくまでの間、ほとんど毎日やってきました。そしてそれは第三次世界大戦とも思えるイラク戦争以降ますますひどくなっていました。
もちろん多くの人は、自身が殺されたり、拷問などされたりしなければ、利己的な態度をただ受け入れてやりすごしています。でも私はそんなふうにはできませんでした。誰かが苦しんでいる以上、今後どうやって幸せに生きていったらいいのかわかりませんでした。同情は別として、他の人に起こっていることが、簡単に私にも起こると知っていました。そうして、2004年には世界の情勢は猛スピードで悪化していき、私のジレンマは悪化する一方でした。私はセイラーボブが何らかの答えをくれることを期待していました。
7月15日。一日目。
ジェームズ:あなたは、基準点は偽りであると言いました。マインド、つまり思考は基準点だといえますか?
ボブ:そうです。でも、思考には実体がありません。あなたは思考を捕まえることはできません。それには独立した実体はありません。あなたは意識(awareness) 無しで思考することができますか? 思考は独立したものですか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:思考は基準点であると信じられています。なぜなら、私たちはそれを調べたことがないからです。幼い子供に思考がやってくるやいなや、「これが私だ」と信じ始めます。彼は考えるようになり、もし学校でうまくいかないと、「私は良くない」「私は賢くない」と考えます。こうした思考をため込むことによって、観念的な像を作り上げていきます。しかし、その「私」という思考は自分自身を理解できません。それは存在しません。基準点、すなわち自己の中心は思考の集まりにすぎません。それは独立したものではありません。私たちは幻影に追い立てられているのです。
ボブ:(笑いながら)ジェームズ、誰が知りたがっているのですか? それはまた偽の自己の中心です。あなたも私もとても優秀なので考える、すなわち、何か「そこにいるもの」が考えていると考えているのはまたエゴです。自然の中には一つのエナジーの動きがあるだけです。
ジェームズ:何がこの世界を作ったのですか?
ボブ:作られたのではありません。それは束の間のものです。私たちの基準点から、何十億年先の生命について考えて、それを概念化することはできます。でも、何も作られたわけではないのです。
ジェームズ:ということは、この会話は起こってないのですか?
ボブ:見せかけの上では起こっています。雲がやって来た時、それは空に張り付いていますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:ええ、それは概念があなたのマインドに入ってくるようなものです。空の雲には何が起きますか? それはやって来て去っていきます。「空間のような意識」という例えを使ってください。それは空間のようなもの。空(くう)です。でもそれは、空間のように何もない空ということではなく、「認識する空です」。それは認識する能力を持っています。それは自然の知性に満ちています。それは、あれこれを知っているという知性ではありません。純粋な知性。その同じ知性が宇宙を動かし、星を軌道に乗せ、風を起こすなどしています。その純粋な知性が木を成長させ、あなたの心臓を鼓動させ、あなたの爪を伸ばします。それが、それらのことをこの瞬間に同時にやっています。それがあなたの思考を起こしています。でもそれは空の雲のようなもので、どこにも張り付いていません。それはやってきては去っていきます。そのエネルギーは絶えず振動しています。
ジェームズ:私はそこに意識、一つのもの(oneness)があるという概念を持っています。
ボブ:そうです。あなたは概念を持っています。
ジェームズ:この、一つのものから、見せかけが起こってくる、そうでしょ? それが創造者である意識を作る、違いますか?
ボブ:海と波を例にとりましょう。海では、さざ波、つまり波が起きます。その波は高まり、飛び散ったり、しぶきとなったりしますが、一体それは何ですか? それは水にすぎません。それは水以外のものではありません。見かけ上は違っていても。
ジェームズ:オーケー、ということは、今あなたと私の間で起こっているのは、意識が会話となって現れているということ。
ボブ:意識を概念化しないでください。それは貼り付けられたラベルにすぎません。空(くう)が認識する能力を持っているのです。あれやこれを知っているとか、知識のことを言っているのではありません。そうではなくて、あなたが今ここにいるという認識のことです。それは思考よりも前にあります。純粋な認識。あなたはそれを否定することはできません。
ジェームズ:ということは、空は認識できるということですか?
ボブ:何かができる何かということではありません。その二つは実は一つの同じものです。「認識する空」もしくは「空なる認識」それがすべてです。
ジェームズ:認識するとは何ですか?
ボブ:単に見ることです。
ジェームズ:そう、単に見ること。背後に知性はないのですか?
ボブ:認識することは知性だということもできます。認識することは知性です。認識する人でも、認識される対象でもなく、純粋な認識。ですからそれは、認識の活動です。今、その認識はあなたとともにありますね?
ジェームズ:はい。
ボブ:認識することは、認識する人でも、認識される対象でもありません。それは実際のところ、今起こっている認識です。つまり、今も進行中です。その認識は活動でありエネルギーです。ええ、純粋な知性エネルギーは認識の活動です。それがすべてです。世界は認識の中に現われ、認識の中で消えていきます。認識とは純粋に知ることです。現われ、消えることは基準点、つまりは偽の信念によって概念となります。例えば、見ることを例にとりましょう。あなたは今見ていますね。そして「私は見る」という思考が起きています。でも実際の見る行為は思考の前に起こっています。思考によって、あなたは偽の見る人を作ったのです。あなたが、「私は木を見る」と言う時、あなたは偽の対象物を作ったのです。それは主体と客体という形でです。でも、見る人と見られる物は、見るという行為なしで存在できますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:それは単に私たちが貼り付けたラベルにすぎません。考える人と思考のように。ニサルガダッタが言ったことをいつも思い出してください。「あなたはそれを概念で理解しようとして失敗する。そうやって、あなたは必ず失敗する。なぜなら、あなたはそれを概念では理解できないからだ」。あなたは概念化することをやめなければいけません。
ジェームズ:ということは、すべてのことはただ起こっているだけですか?
ボブ:まさしく。すべてはひとりでに、あるように起こっているだけです。そして何も起こってはいません。
ジェームズ:何も起こっていないことはどう説明されるのですか?
ボブ:空間のような意識を使います。すべての顕現は空間の内容物です。あなたは、その空間の外には何も想像することはできません。ですから、顕現は空間の内容物なのです。もし空間が無なら、無から何かがやって来ますか?
ジェームズ:なぜそれはそんなにリアルなのですか?
ボブ:誰にとってですか?
ジェームズ:私の思考にとってです。
ボブ:ええ、そしてその思考もまた顕現の一部です。本質としては、顕現も実在です。なぜならそれは、いまここにある意識でできていて、それは実在です。蜃気楼がどんなにリアルに見えるか考えてください。もしくは海の青い色。知性エネルギーの中で、パターンは形作られ、顕現となって現われます。
ジェームズ:何年もの間私は、すべての恐ろしい戦争や拷問などを許すことができる神がどうして存在することができるかと考えていました。でももし顕現が見せかけなら、本当には何も起こってない、そうでしょ? 何も悲劇ではない、正しいですか?
ボブ:そのとおりです。人々は生まれたこともなければ、死ぬこともありません。彼らは単にエネルギーのパターンにすぎません。彼らは現われ、しばらくの間飛び回り、そして消えるのです。実は彼らもまた、一つの知性エネルギーにすぎません。それは決して変化しないのです。
ジェームズ:スポリチュアルな経験についての質問があります。時折、たいていは夜遅くベッドなかで、突然無限というか広大さを感じます。どんな境界も限界もないような。その翌日、私は妻か友人のケリーに言うのです。「私は経験した」と。でも実際起こったことは、いつも存在する感覚や思考が一旦消えてふたたび現れたものです。私が夜時々経験する無限の感覚は、実際はいつもあるものではないですか?
ボブ:そうです。でもあなたが経験というラベルを貼るやいなや、あなたはそれを基準点から受け取ることになります。
ジェームズ:ええ、それはわかります。
ボブ:起こったのは、ただ経験することです。そこでは経験と経験する人が現れています。もしあなたの感覚が十分に開いていて、すべてにラベルを貼らなければ、あなたはありのままを見るだけです。そうすればあなたは、「私」とは無関係に現われては消えるすべてを、すばらしい魔法の見せ物として見るでしょう。
ジェームズ:生活はあなたにとって興味あるものとして現れますか?
ボブ:興味があるとかないとか、それも基準点からのものです。時々沈黙の時があり、なお一層長い時があり、他の時にはおしゃべりが続きます。どちらかが好きということはありません。いわゆる、探求者が話している静寂については関心がありません。おしゃべりも同様です。それは両方とも経験です。私とは、その経験が起こってくる空間のことです。そしてそれはいつも必ず不変です。それは物ではありません。それはすべてのものを含んでいます。
ジェームズ:ニサルガダッタがそうだったように、今あなたが話す時、あなたはすべてが起こってくる空間の中にいます。それはわかります。でも、私はそうだとは言えません。私は絶えず、がらくたを受け取ってしまいます。あなたは、たくさんの思考があろうが無かろうがかまわないと言います。でも私はそれができないのです。
ボブ:もし私が基準点を受け取れば、私も同じです。「これをしなければよかった」「あれを言わなければよかった」と考えるでしょう。でも私は基準点を見抜いています。わたしにははっきり見えています。ですから、起こってくるものは起こってくるのです。「何とも思わない」と私が言うのはそういうことです。そこには私はいないからです。そこには、好みも偏愛も比較もありません。それはただあるがままなのです。変えることなく、修正することなく、正すこともありません。ブッダは「あるがまま」と言っています。ただ見ること、それが機能しています。あなたが変えたり修正したり正したりできるのは思考だけです。
ジェームズ:ええ、私たちには思考がやってきます。重要なのは受け取らないことですね。
ボブ:そうです。そしてそこには、それを受け取る人はいません。ただ、見ること、認識することがあるだけです。
ジェームズ:ええ。それであなたはこういう話をして本を書いて、人々はこれを聞いてこう言うでしょう。「ええ、セイラーボブはそれができる。それはすごいことだ。でも私はできない」と。私が思うのは、重要なのは確信だと思います。あなたの言うことは理解できるのですが、私にはまだ完全な確信がありません・・・。
ボブ:誰が確信を持てないのですか? あなたは自分という概念を抱いて、それがそうあってはいけないと考えている。あなたは今、見ていますね。あなたは今、聞いていますね。あなたである認識活動は今あなたとともにあります。そうでしょう? それは否定できません。
ジェームズ:そうですね。
ボブ:では、確信がないというそのがらくたは何なのですか?あなたは何か概念化されたものによって、わき道にそれました・・・。
ジェームズ:そうです。でもどうして、あなたはわき道へそれることがないのですか。
ボブ:なぜなら私はその基準点が偽りであると知っているからです。あなたは自分のやっていることがわかりますか? 私があなたに指し示すと、あなたは、「もし」「でも」などと言い出します。あなたはまたしても未来に行ってしまうのです。時間は心理的概念です。あなたは、いわゆる想像上の未来の中に入り込みます。そうでない時は過去へ。でもあなたは、未来も過去も生きることはできません。すべては今起こっているのです。それは太陽を覆う雲に似ています。それは、今ある意識を覆い隠します。「私にはこれがない」や、「私はいつか確信を得るだろう」という考えが、あなたを今から遠ざけてしまいます。
ジェームズ:ということは、今ここですね。
ボブ:そう、それは即時です。どこへも行くところなどありません。
ジェームズ:昨日私はある人にひどく腹が立ちました。ある人がとても困惑する手紙をよこしたのです。
ボブ:それは昨日でしょ。過去のことは気にしないで・・・。
ジェームズ:その時私は考えました。「ちょっと待てよ。ジェームズはいないのだ」と。でも、困惑したままでした。
ボブ:ええ、なぜなら、あなたが「私はいない」と言った時、それが基準点になりました。あなたは、ジェームズはいないと、先週か先月か昨日理解したかもしれません。でもそれは、他の思考同様、もう死んでいます。あなたそれを今理解しなくてはいけません。ただ単に「私はいない」と言うかわりに、調べなくてはいけません。調べてみて、自己の中心となる「私」が見つかるかを理解してください。
ジェームズ:ええ、困惑した時、ちょっと止まって「私は誰か? 私は、今ここにある意識だ」と言いました。でも困惑する思考は止まりませんでした。
ボブ:その時あなたは「私は今ここにある意識だ」という概念を与えたのです。その概念なしで、「私はいる」。ピリオド。
ジェームズ:私は、その瞬間を意識しようと努めました。私は部屋の中をラベル無しで見まわし、ただ意識として・・・。
ボブ:もしラベル貼りをしなければ、あなたは全体を受け入れます。あなたは、見ることが自然に起こっていて、聞くことが自然に起こっていることにすぐに気づくでしょう。
ジェームズ:ええ、いずれにしても、私は彼女に返事をしなくてはいけません。
ボブ:そうですね。すべきことはすればいい。起こるに任せてください。あなたはむかついたまま彼女に手紙を書くかもしれない。それとも、彼女に苦情を言うかもしれない。でもそこには、何かをする「あなた」はいません。何が起ころうとも、それはただ単にそのように起こっているだけです。
ジェームズ:わかりました。この、行為者はいないということについて話していただけますか? それは私にとって概念的です。
ボブ:ええ、説明しましょう。今あなたは見ていますね?
ジェームズ:はい。
ボブ:あなたは今、聞いていますね? あなたの目は「私は見る」と言いますか? あなたの耳は「私は聞く」と言いますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:ということは、思考がやってきて、「私は見る」や、「私は聞く」と翻訳しているわけですね。でも、その思考の「私は見る」は見ることができますか?「私は聞く」という思考が聞くことはできますか?
ジェームズ:あなたは私があなたの本で読んだり、あなたが言ったりしたのを20回以上聞いたことを言おうとしています・・・。
ボブ:今一度聞いてください。「私は見る」という思考が見ることはできますか?
ジェームズ:いいえ、その思考はがらくた。単なる翻訳にすぎません。
ボブ:ということは、思考にはいかなる力もない。
ジェームズ:もし思考に力がないのなら、いかなる行為者もいないのですね?
ボブ:「私は意識している」という思考は意識(アウエアネス)ですか?
ジェームズ:いいえ、もちろん違います。
ボブ:「私は選ぶ」という思考は選択者ですか?「私は考える」という思考は思考者ですか?
ジェームズ:ということは、もし思考に力がないのなら、単にそこには行為者はいないのですね?
ボ:もちろんそうです。いいですか、思考は知性と密接に結びついてきました。でも実際は翻訳しているにすぎません。それは、私たちが会話で使う言葉やラベルに翻訳しているだけです。思考は純粋な知性エネルギーと密接に結びついているため、それが純粋な知性エネルギーだと信じるようになりました。今、あなたがマインドや思考には力がないと理解した時、あなたはバラバラになりましたか? あなたは消えて無くなりましたか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:あなたは、思考なしで、まったく苦もなく生活は続くと理解しましたか? もしあなたがそのことを考えなかったら、どんな問題がありますか? あなたが考えることをしばらく止めてもバラバラにはなりません。あなたは依然として聞き、見て、味わい、生活は続いていきます。あなたは思考に依存していません。
ジェームズ:ええ。ボブ、あなたのもとへ何年も通っている生徒たちがいます。彼らはどうなっているのですか? どうして彼らは「終止符」とならないのですか?
ボブ:ええ、なりません。今のあなたと同じように。(笑い)でも、やってきてすぐに理解する人たちもいます。
ジェームズ:今のところ私は「終止符」となっていません。私のマインドは続いていて質問しています。マインドは基準点を求めています。
ボブ:あなたはマインドを停止しようとしています。でもいったんあなたがそれは道端の蜃気楼のようにがらくたにすぎないと理解したら、あなたはもうそれにとらわれなくなります。
ジェームズ:ええ、何かが起こっています。昨日、その女性から腹立たしい手紙を受け取り、私の反応は馬鹿げていると思いました。それで、それは一時間かそこらイライラした後で消えたのですが、数年前だったら、丸一日、あるいはもっとかかっていたでしょう。それは良くなりました。
ボブ:ええ、そうなるでしょう。
ジェームズ:でも私は「なるでしょう」という部分が気に入りません。それは未来です。
ボブ:それは真実です。でもあなたはもっと早くそれを捨てるようになるでしょう。すべての物事を基準点から見るという習慣的なパターンを。あなたは一、二度それをやるだけではありません。いつも、来る日も来る日もあなたの全生涯でそれをやります。私たちは自信を催眠にかけています。しかし、あなたが調べて、その偽りを理解する時、もはやあなたはそれを信じられなくなります。それはちょうどあなたが蜃気楼の中に水はないと知っているように。
ジェームズ:以前私はあなたに生活が刺激的なのか退屈なのか聞きました。というのも、時折、私がはっきりと基準点から自由な時、突然すべてが新しく新鮮なものに感じて驚くからです。
ボブ:私は判断しません。でも判断は起こってきます。
ジェームズ:そしたらどうするのですか?
ボブ:それは私のものではありません。誰がそれを受け取るのですか? それは起こり、去っていきます。すべてそのパターンが続きます。
ジェームズ:ということは、思考を受け取っているように見える人たちも、実際には受け取っておらず、受け取っているように見えるだけなのですね。そうでしょう?
ボブ:そうです。
ジェームズ:つまり、非常に苦しんでいる人たちも私と違いはないということですね。目覚めているかどうかは重要ではないということですね。それを理解するのが時々難しくなります。「頭に入らない」と父が言っていた言い回しを思い出します。
ボブ:概念化しようとしないでください。経験することの中に留まるようにしてください。そうすれば楽しめるようになります。
ジェームズ:ボブ、私は考える過程が好きなのです。そのため、すべてを概念化したくなります。創造の偉大さを見てください。数学、科学、芸術、無数の生き物たち、心臓切開手術などなど。誰が世界を創造したのか、いつも知りたくなります。そしてその創造物は実在ではありません。
ボブ:それは鏡の中の像のようなものです。何がその像を作り出しているのでしょうか。なぜ一つの像は他の像よりも良いのでしょうか?(笑い)
ジェームズ:命は奇跡に満ちています。無数の体の細胞が常に生まれ変わっています。あなたはそれが、どうやって、なぜと思ったことはありませんか?
ボブ:どうやって、なぜはもう終わっています。それはそこから離れる動きです。
ジェームズ:なぜならすべてはもう起こっているから?
ボブ:ただ起こる事とともにあってください。そうすれば、わずかな洞察が生まれます。そしてあなたは満足のいく答えを得るはずです。
ジェームズ:あなたがニサルガダッタのところにいた時、あなたはいつ彼が言うことを突然理解したのですか?
ボブ:私は彼の言うことを理解し、「もうマインドにはとらわれないぞ」と思いました。そしてドアから出ると、すぐにまたもとに戻ったのです。(笑い)でも、それは決して以前と同じではありませんでした。もちろん、遅かれ早かれ基準点は再び戻ってきました。でも、「ちょっと待てよ。これは昔と同じたわ言じゃないか」と思って、それを見破ったのです。あなたが言ったように、時々それは少しの時間もしくは少しの日にちの間いて、去っていきました。
ジェームズ:いつニサルガダッタに会ったのですか?
ボブ:1976年です。
ジェームズ:1976年の生活経験と、それから10年後では大きな違いはありましたか? というのも、経験が深まっていったと思うのですが。
ボブ:経験が深まることはありません。しかし、今ここにある意識を覆っていたがらくたは落ちていきました。それが深まることはありません。なぜなら、それは純粋なそれであり、それしかないからです。
ジェームズ:もし例えば、1976年に昨日の私に起こったような腹立たしいことが起こったら、それが1986年に起こるよりも、もっといらいらしますか。
ボブ:もちろんです。でも1976年当時でもすぐに変化が・・・。
第二章からの抜粋
セイラーボブとバーブ到着
2004年7月14日
ボブとバーバラが、暖かいフロリダの夏の夜に到着する頃には、私と妻のヴァシティはとても興奮していました。およそ30数年前に探求を終えて、非二元の理解を持ち続ける師を我が家に迎えるという考えは、夢でも見ているに違いないという思いでした。
私は30年にわたってスピリチュアルの道を歩み、様々な活動に参加してきましたが、実際にグルと近くで接したことはありませんでした。またスピリチュアルの師の教えに対して、私がボブに感じたような心地良さを感じるのは久しぶりのことでした。現代における、あまりにも多くのいわゆる覚醒したマスターたちは、私の考えでは偽物でした。教師たちは活動を目立った愛と慈愛で始め、様々なスキャンダル、強欲、性的いたずら、権力の乱用で終えます。とりわけ、私が30代から40代の間の15年近くの間、エンライトメントは本当にあるのか、もしそうなら、あれほど多くのいわゆるグルたちが、ほとんど、もしくは全く不誠実で、時折とても悪い行いをするのはどうしてなのかと思っていました。
ボブに会った頃、行儀の悪いグルの問題は私にとって全く不満の種でした。21歳から27歳までの間、私は瞑想を教え、スピリチュアルのムーブメントに参加していました。やがて腹立たしい行いに幻滅するようになり、私は師のもとを去りました。それは悲しいできごとでしたが、その後数年間の悲しみを癒してくれるものはありませんでした。世界的に有名なグルたちがますます注目されるようになると、その出来事を何度も思い出しました。さまざまな悪行の間、その弟子たちの口づて、本、雑誌記事などによって、多くのグルたちが「排斥」されました。1980年代中頃までに私は、初めてヒンズーベーダ占星術の明確な本を書いたことで、形而学上のグループの間で有名になり、世界中の精神世界の探求者に対して占星術を始めました。そういうわけで私は、何らかの形でグルに幻滅を感じたり虐待を受けたりした人々から直接話を聞くようになりました。もちろん、どんな話にも二面性があり、誰もが長い間広まっている有名なグルの当惑させられる噂を信じているわけではないのですが、私は信じていましたし、今でも信じています。
私が信じるようになった大きな理由は別々の顧客から同じ教師の極めて似た話を繰り返し聞かされたからです。グルAに関して聞く話はいつも、性的な悪行でした。グルBに関する話ではたいてい嘘か金にまつわるごまかしでした。グルCに関しての話は、「エゴ退治」の名のもとにトラウマを負った弟子の間で飛び交っていましたが、その一方でその教師は弟子たちに彼を尊敬させ、神のごとくに崇拝させていました。
そんなふうに時間はすぎていきました。私が聞いた中で特筆すべきは、おそらく、私が聞いた、あまりに多くの出来事が、グルがかかわる中枢機関に長くかかわった側近の人からのものだったことです。私は、秘書、運転手、愛人、指導者たちの親しい友人たちなどから話を聞きました。私の知る限りにおいて、それほど多くの互いに無関係の人々が嘘をつくはずはないのです。
私はもはやいかなる教師も信奉していなかったので、私の主な関心は特定のグルにはありませんでした。私の関心は、本質と真の解放にありました。言っておきますが私は、非常に感動的な本物のテキストを書くために時折無作法な行いをしてしまう多くの教師たちを尊敬しています。言うまでもなく彼らは多くの探求者を助けるあらゆる種類の霊的テクニックや方法を提供しています。これらたいていのグルたちは、私の考えでは明らかに正しい知識を持っていました。同時に、誠実さや道徳においてはひどい話を聞いています。そういうわけで私は難問に直面していました。
自身の探求を通して、私は何度も人の意識の水準は彼らの振舞いでは判断できないということを繰り返し読み聞きしていました。しかし私は今まで、その事実を完全に理解したり、信じたりすることはありませんでした。私は解放された人は多かれ少なかれ完璧に振舞い、間違いなく利己的ではないと信じていました。また、解放された人は欲望や個人的な好みもないと信じていました。今はそれが大変な誤解だったとわかりました。顕現した人として存在する限り、肉体とマインドを持つ限り、そこに好みはあるでしょう。これは欲望や好みに執着があるだろうという意味ではありません。しかし、好みは必ず生じてくるでしょう。ある時は行動に移され、ある時はそうではなく。明らかに個人の選択と決定で。ところが実際には私たちは幻影の世界に住んでいるのですが。しかし、ボブが到着した時、このことを全く知りませんでした。当時私は、解放された人は正直さと誠実さをもって、最小限に振舞うのだと思っていました。そういうわけで、ボブに会った瞬間、彼が私の期待通りだとわかり、満足しました。何冊かの非二元の本で読んだように、ボブは「誰でもない人」を楽しんでいるようで、私は喜びました。彼は、表面上は人間の執着の普遍的な意味や、重要で個人的な進歩を探すことを手放し、非常に満足していましたが、それはもともと幻影であると理解されている世界でのことでした。セイラーボブが私にしてくれたもっとも楽しかった話は、彼の師であるニサルガダッタ・マハラジは、もし人々が彼のことを信仰や畏怖をもって扱おうとした場合は、その人々を部屋からたたき出したという話です。ニサルガダッタは、非二元は一つであることであり、「私は悟った。あなたは悟っていない」ということではないと理解していたからです。
セイラーボブは彼が30年前にニサルガダッタから学んだ知恵を人が理解するのを助ける以外の野心を持たない気さくな人だと私は感じました。彼はスキャンダルを起こしたこともなく、金持ちでもなく、権力欲もなく、75歳にもかかわらずこれから教え始めようとしていることを私は疑問に思いました。彼の誠実さと慈愛は、彼の手紙と電話の最後をしばしば「ラブ・ユー」で終わらせることからも明らかでした。さらに、もうすでに書いたように、私は彼の本を読み始めたとたんに強い共鳴する感覚を覚えたのです。そしてボブがとうとうやって来たとき、私は30年間の祈りが実ったのだと感じました。私は自分の幸運が信じられませんでした。
もちろん、ボブのアドヴァイタを無制限に利用できるのは幸せでしたが、それ以上に非二元をそれほど長く生きた誰かに会えることに興奮しました。私はCDなどで容易にボブの教えを手に入れる事は可能でした。でも、私が求めていたのは親密な交流でした。それに、ボブが本物かどうかを自分で確かめたかったのです。彼の本や講義の中の素晴らしい教えが、その男と一致するのかを知る必要がありました。実をいうと、彼が自己実現としばしば結びつけられる特別な「パワー」を何か見せるのか興味がありました。しかし今、水曜日の夜9:30、タンパ空港に座りながら、私はこの特別なカップルに会ったら、できるだけ早くベッドへ案内したいと思いました。メルボルンから、カリホルニア、シカゴ経由でフロリダまで、飛行場での待ち時間も含めると、合計37時間かかりました。どんなに大変だったことでしょう。
ついに、ボブとバーブが歩いて来るのが見えた時、彼らは笑顔でした。四人は互いにハグを交わし、私の目がついに、しばらくの間ボブを見つめると、私は平和な感じの広大な空間を感じました。彼の顔はまぎれもなくそこにあり、今ここにいました。それはたいていの人の雰囲気を醸し出す過去の痛みやコンプレックス、意見、地位、立場などに影響されることがないかのようでした。もちろんそれは私が予期したことでした。しかしそう反応したのは私だけではありませんでした。次の五週間の間、多くの人がボブの平和でとらわれのない外見についてコメントしました。私はすぐに、ボブが本や講義で話したとおりに生きているようだと感じました。
自身の探求を通して、私は何度も人の意識の水準は彼らの振舞いでは判断できないということを繰り返し読み聞きしていました。しかし私は今まで、その事実を完全に理解したり、信じたりすることはありませんでした。私は解放された人は多かれ少なかれ完璧に振舞い、間違いなく利己的ではないと信じていました。また、解放された人は欲望や個人的な好みもないと信じていました。今はそれが大変な誤解だったとわかりました。顕現した人として存在する限り、肉体とマインドを持つ限り、そこに好みはあるでしょう。これは欲望や好みに執着があるだろうという意味ではありません。しかし、好みは必ず生じてくるでしょう。ある時は行動に移され、ある時はそうではなく。明らかに個人の選択と決定で。ところが実際には私たちは幻影の世界に住んでいるのですが。しかし、ボブが到着した時、このことを全く知りませんでした。当時私は、解放された人は正直さと誠実さをもって、最小限に振舞うのだと思っていました。そういうわけで、ボブに会った瞬間、彼が私の期待通りだとわかり、満足しました。何冊かの非二元の本で読んだように、ボブは「誰でもない人」を楽しんでいるようで、私は喜びました。彼は、表面上は人間の執着の普遍的な意味や、重要で個人的な進歩を探すことを手放し、非常に満足していましたが、それはもともと幻影であると理解されている世界でのことでした。セイラーボブが私にしてくれたもっとも楽しかった話は、彼の師であるニサルガダッタ・マハラジは、もし人々が彼のことを信仰や畏怖をもって扱おうとした場合は、その人々を部屋からたたき出したという話です。ニサルガダッタは、非二元は一つであることであり、「私は悟った。あなたは悟っていない」ということではないと理解していたからです。
セイラーボブは彼が30年前にニサルガダッタから学んだ知恵を人が理解するのを助ける以外の野心を持たない気さくな人だと私は感じました。彼はスキャンダルを起こしたこともなく、金持ちでもなく、権力欲もなく、75歳にもかかわらずこれから教え始めようとしていることを私は疑問に思いました。彼の誠実さと慈愛は、彼の手紙と電話の最後をしばしば「ラブ・ユー」で終わらせることからも明らかでした。さらに、もうすでに書いたように、私は彼の本を読み始めたとたんに強い共鳴する感覚を覚えたのです。そしてボブがとうとうやって来たとき、私は30年間の祈りが実ったのだと感じました。私は自分の幸運が信じられませんでした。
もちろん、ボブのアドヴァイタを無制限に利用できるのは幸せでしたが、それ以上に非二元をそれほど長く生きた誰かに会えることに興奮しました。私はCDなどで容易にボブの教えを手に入れる事は可能でした。でも、私が求めていたのは親密な交流でした。それに、ボブが本物かどうかを自分で確かめたかったのです。彼の本や講義の中の素晴らしい教えが、その男と一致するのかを知る必要がありました。実をいうと、彼が自己実現としばしば結びつけられる特別な「パワー」を何か見せるのか興味がありました。しかし今、水曜日の夜9:30、タンパ空港に座りながら、私はこの特別なカップルに会ったら、できるだけ早くベッドへ案内したいと思いました。メルボルンから、カリホルニア、シカゴ経由でフロリダまで、飛行場での待ち時間も含めると、合計37時間かかりました。どんなに大変だったことでしょう。
ついに、ボブとバーブが歩いて来るのが見えた時、彼らは笑顔でした。四人は互いにハグを交わし、私の目がついに、しばらくの間ボブを見つめると、私は平和な感じの広大な空間を感じました。彼の顔はまぎれもなくそこにあり、今ここにいました。それはたいていの人の雰囲気を醸し出す過去の痛みやコンプレックス、意見、地位、立場などに影響されることがないかのようでした。もちろんそれは私が予期したことでした。しかしそう反応したのは私だけではありませんでした。次の五週間の間、多くの人がボブの平和でとらわれのない外見についてコメントしました。私はすぐに、ボブが本や講義で話したとおりに生きているようだと感じました。
次の日の早朝、私たちのプライベートトークが始まりました。ボブは、6:30から7:00ごろコテージを出て裏庭の果実の木の下の木製テラスに腰掛けるのが習慣になりました。最初の数日間の朝、私も彼に加わりました。真っ先に私のマインドに浮かんだのは、思い出せる限り昔からある一つの問題でした。なぜ世界はこんなにもひどくデザインされているのか? 拷問が行われる世界を誰が作ったのか? 死がすぐそこに迫っていることを知りながら、どうやって私たちは人生を謳歌したらいいのか? 毎日数千人のアフリカの人々が、殺され、手足を切り落とされ、または餓死していることを知りながら、どうして私たちは安眠できるだろうか? どうしてサダム・フセインは人々を煮えたぎる油に落としたり、大きな材木切断機に頭から放り込んだりするなんてことができるのか? どんな創造者がこんな世界を作ったのか、なぜそんな卑劣なことをしたのか?
こういう疑問が長く私につきまとい、今までどれほど私の精神やエネルギーレベルでダメージを与えたかわかりません。何年もの間、こうした疑問は眠りつくまでの間、ほとんど毎日やってきました。そしてそれは第三次世界大戦とも思えるイラク戦争以降ますますひどくなっていました。
もちろん多くの人は、自身が殺されたり、拷問などされたりしなければ、利己的な態度をただ受け入れてやりすごしています。でも私はそんなふうにはできませんでした。誰かが苦しんでいる以上、今後どうやって幸せに生きていったらいいのかわかりませんでした。同情は別として、他の人に起こっていることが、簡単に私にも起こると知っていました。そうして、2004年には世界の情勢は猛スピードで悪化していき、私のジレンマは悪化する一方でした。私はセイラーボブが何らかの答えをくれることを期待していました。
7月15日。一日目。
ジェームズ:あなたは、基準点は偽りであると言いました。マインド、つまり思考は基準点だといえますか?
ボブ:そうです。でも、思考には実体がありません。あなたは思考を捕まえることはできません。それには独立した実体はありません。あなたは意識(awareness) 無しで思考することができますか? 思考は独立したものですか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:思考は基準点であると信じられています。なぜなら、私たちはそれを調べたことがないからです。幼い子供に思考がやってくるやいなや、「これが私だ」と信じ始めます。彼は考えるようになり、もし学校でうまくいかないと、「私は良くない」「私は賢くない」と考えます。こうした思考をため込むことによって、観念的な像を作り上げていきます。しかし、その「私」という思考は自分自身を理解できません。それは存在しません。基準点、すなわち自己の中心は思考の集まりにすぎません。それは独立したものではありません。私たちは幻影に追い立てられているのです。
ジェームズ:アドヴァイタを学んで以来、こんなふうに思っています。もし私たちが物事をやってないなら、誰がやっているのか? 私たちは生かされているのなら、誰がそれをやっているのか?
ボブ:(笑いながら)ジェームズ、誰が知りたがっているのですか? それはまた偽の自己の中心です。あなたも私もとても優秀なので考える、すなわち、何か「そこにいるもの」が考えていると考えているのはまたエゴです。自然の中には一つのエナジーの動きがあるだけです。
ジェームズ:何がこの世界を作ったのですか?
ボブ:作られたのではありません。それは束の間のものです。私たちの基準点から、何十億年先の生命について考えて、それを概念化することはできます。でも、何も作られたわけではないのです。
ジェームズ:ということは、この会話は起こってないのですか?
ボブ:見せかけの上では起こっています。雲がやって来た時、それは空に張り付いていますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:ええ、それは概念があなたのマインドに入ってくるようなものです。空の雲には何が起きますか? それはやって来て去っていきます。「空間のような意識」という例えを使ってください。それは空間のようなもの。空(くう)です。でもそれは、空間のように何もない空ということではなく、「認識する空です」。それは認識する能力を持っています。それは自然の知性に満ちています。それは、あれこれを知っているという知性ではありません。純粋な知性。その同じ知性が宇宙を動かし、星を軌道に乗せ、風を起こすなどしています。その純粋な知性が木を成長させ、あなたの心臓を鼓動させ、あなたの爪を伸ばします。それが、それらのことをこの瞬間に同時にやっています。それがあなたの思考を起こしています。でもそれは空の雲のようなもので、どこにも張り付いていません。それはやってきては去っていきます。そのエネルギーは絶えず振動しています。
ジェームズ:私はそこに意識、一つのもの(oneness)があるという概念を持っています。
ボブ:そうです。あなたは概念を持っています。
ジェームズ:この、一つのものから、見せかけが起こってくる、そうでしょ? それが創造者である意識を作る、違いますか?
ボブ:海と波を例にとりましょう。海では、さざ波、つまり波が起きます。その波は高まり、飛び散ったり、しぶきとなったりしますが、一体それは何ですか? それは水にすぎません。それは水以外のものではありません。見かけ上は違っていても。
ジェームズ:オーケー、ということは、今あなたと私の間で起こっているのは、意識が会話となって現れているということ。
ボブ:意識を概念化しないでください。それは貼り付けられたラベルにすぎません。空(くう)が認識する能力を持っているのです。あれやこれを知っているとか、知識のことを言っているのではありません。そうではなくて、あなたが今ここにいるという認識のことです。それは思考よりも前にあります。純粋な認識。あなたはそれを否定することはできません。
ジェームズ:ということは、空は認識できるということですか?
ボブ:何かができる何かということではありません。その二つは実は一つの同じものです。「認識する空」もしくは「空なる認識」それがすべてです。
ジェームズ:認識するとは何ですか?
ボブ:単に見ることです。
ジェームズ:そう、単に見ること。背後に知性はないのですか?
ボブ:認識することは知性だということもできます。認識することは知性です。認識する人でも、認識される対象でもなく、純粋な認識。ですからそれは、認識の活動です。今、その認識はあなたとともにありますね?
ジェームズ:はい。
ボブ:認識することは、認識する人でも、認識される対象でもありません。それは実際のところ、今起こっている認識です。つまり、今も進行中です。その認識は活動でありエネルギーです。ええ、純粋な知性エネルギーは認識の活動です。それがすべてです。世界は認識の中に現われ、認識の中で消えていきます。認識とは純粋に知ることです。現われ、消えることは基準点、つまりは偽の信念によって概念となります。例えば、見ることを例にとりましょう。あなたは今見ていますね。そして「私は見る」という思考が起きています。でも実際の見る行為は思考の前に起こっています。思考によって、あなたは偽の見る人を作ったのです。あなたが、「私は木を見る」と言う時、あなたは偽の対象物を作ったのです。それは主体と客体という形でです。でも、見る人と見られる物は、見るという行為なしで存在できますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:それは単に私たちが貼り付けたラベルにすぎません。考える人と思考のように。ニサルガダッタが言ったことをいつも思い出してください。「あなたはそれを概念で理解しようとして失敗する。そうやって、あなたは必ず失敗する。なぜなら、あなたはそれを概念では理解できないからだ」。あなたは概念化することをやめなければいけません。
ジェームズ:ということは、すべてのことはただ起こっているだけですか?
ボブ:まさしく。すべてはひとりでに、あるように起こっているだけです。そして何も起こってはいません。
ジェームズ:何も起こっていないことはどう説明されるのですか?
ボブ:空間のような意識を使います。すべての顕現は空間の内容物です。あなたは、その空間の外には何も想像することはできません。ですから、顕現は空間の内容物なのです。もし空間が無なら、無から何かがやって来ますか?
ジェームズ:なぜそれはそんなにリアルなのですか?
ボブ:誰にとってですか?
ジェームズ:私の思考にとってです。
ボブ:ええ、そしてその思考もまた顕現の一部です。本質としては、顕現も実在です。なぜならそれは、いまここにある意識でできていて、それは実在です。蜃気楼がどんなにリアルに見えるか考えてください。もしくは海の青い色。知性エネルギーの中で、パターンは形作られ、顕現となって現われます。
ジェームズ:何年もの間私は、すべての恐ろしい戦争や拷問などを許すことができる神がどうして存在することができるかと考えていました。でももし顕現が見せかけなら、本当には何も起こってない、そうでしょ? 何も悲劇ではない、正しいですか?
ボブ:そのとおりです。人々は生まれたこともなければ、死ぬこともありません。彼らは単にエネルギーのパターンにすぎません。彼らは現われ、しばらくの間飛び回り、そして消えるのです。実は彼らもまた、一つの知性エネルギーにすぎません。それは決して変化しないのです。
ジェームズ:スポリチュアルな経験についての質問があります。時折、たいていは夜遅くベッドなかで、突然無限というか広大さを感じます。どんな境界も限界もないような。その翌日、私は妻か友人のケリーに言うのです。「私は経験した」と。でも実際起こったことは、いつも存在する感覚や思考が一旦消えてふたたび現れたものです。私が夜時々経験する無限の感覚は、実際はいつもあるものではないですか?
ボブ:そうです。でもあなたが経験というラベルを貼るやいなや、あなたはそれを基準点から受け取ることになります。
ジェームズ:ええ、それはわかります。
ボブ:起こったのは、ただ経験することです。そこでは経験と経験する人が現れています。もしあなたの感覚が十分に開いていて、すべてにラベルを貼らなければ、あなたはありのままを見るだけです。そうすればあなたは、「私」とは無関係に現われては消えるすべてを、すばらしい魔法の見せ物として見るでしょう。
ジェームズ:生活はあなたにとって興味あるものとして現れますか?
ボブ:興味があるとかないとか、それも基準点からのものです。時々沈黙の時があり、なお一層長い時があり、他の時にはおしゃべりが続きます。どちらかが好きということはありません。いわゆる、探求者が話している静寂については関心がありません。おしゃべりも同様です。それは両方とも経験です。私とは、その経験が起こってくる空間のことです。そしてそれはいつも必ず不変です。それは物ではありません。それはすべてのものを含んでいます。
ジェームズ:ニサルガダッタがそうだったように、今あなたが話す時、あなたはすべてが起こってくる空間の中にいます。それはわかります。でも、私はそうだとは言えません。私は絶えず、がらくたを受け取ってしまいます。あなたは、たくさんの思考があろうが無かろうがかまわないと言います。でも私はそれができないのです。
ボブ:もし私が基準点を受け取れば、私も同じです。「これをしなければよかった」「あれを言わなければよかった」と考えるでしょう。でも私は基準点を見抜いています。わたしにははっきり見えています。ですから、起こってくるものは起こってくるのです。「何とも思わない」と私が言うのはそういうことです。そこには私はいないからです。そこには、好みも偏愛も比較もありません。それはただあるがままなのです。変えることなく、修正することなく、正すこともありません。ブッダは「あるがまま」と言っています。ただ見ること、それが機能しています。あなたが変えたり修正したり正したりできるのは思考だけです。
ジェームズ:ええ、私たちには思考がやってきます。重要なのは受け取らないことですね。
ボブ:そうです。そしてそこには、それを受け取る人はいません。ただ、見ること、認識することがあるだけです。
ジェームズ:ええ。それであなたはこういう話をして本を書いて、人々はこれを聞いてこう言うでしょう。「ええ、セイラーボブはそれができる。それはすごいことだ。でも私はできない」と。私が思うのは、重要なのは確信だと思います。あなたの言うことは理解できるのですが、私にはまだ完全な確信がありません・・・。
ボブ:誰が確信を持てないのですか? あなたは自分という概念を抱いて、それがそうあってはいけないと考えている。あなたは今、見ていますね。あなたは今、聞いていますね。あなたである認識活動は今あなたとともにあります。そうでしょう? それは否定できません。
ジェームズ:そうですね。
ボブ:では、確信がないというそのがらくたは何なのですか?あなたは何か概念化されたものによって、わき道にそれました・・・。
ジェームズ:そうです。でもどうして、あなたはわき道へそれることがないのですか。
ボブ:なぜなら私はその基準点が偽りであると知っているからです。あなたは自分のやっていることがわかりますか? 私があなたに指し示すと、あなたは、「もし」「でも」などと言い出します。あなたはまたしても未来に行ってしまうのです。時間は心理的概念です。あなたは、いわゆる想像上の未来の中に入り込みます。そうでない時は過去へ。でもあなたは、未来も過去も生きることはできません。すべては今起こっているのです。それは太陽を覆う雲に似ています。それは、今ある意識を覆い隠します。「私にはこれがない」や、「私はいつか確信を得るだろう」という考えが、あなたを今から遠ざけてしまいます。
ジェームズ:ということは、今ここですね。
ボブ:そう、それは即時です。どこへも行くところなどありません。
ジェームズ:昨日私はある人にひどく腹が立ちました。ある人がとても困惑する手紙をよこしたのです。
ボブ:それは昨日でしょ。過去のことは気にしないで・・・。
ジェームズ:その時私は考えました。「ちょっと待てよ。ジェームズはいないのだ」と。でも、困惑したままでした。
ボブ:ええ、なぜなら、あなたが「私はいない」と言った時、それが基準点になりました。あなたは、ジェームズはいないと、先週か先月か昨日理解したかもしれません。でもそれは、他の思考同様、もう死んでいます。あなたそれを今理解しなくてはいけません。ただ単に「私はいない」と言うかわりに、調べなくてはいけません。調べてみて、自己の中心となる「私」が見つかるかを理解してください。
ジェームズ:ええ、困惑した時、ちょっと止まって「私は誰か? 私は、今ここにある意識だ」と言いました。でも困惑する思考は止まりませんでした。
ボブ:その時あなたは「私は今ここにある意識だ」という概念を与えたのです。その概念なしで、「私はいる」。ピリオド。
ジェームズ:私は、その瞬間を意識しようと努めました。私は部屋の中をラベル無しで見まわし、ただ意識として・・・。
ボブ:もしラベル貼りをしなければ、あなたは全体を受け入れます。あなたは、見ることが自然に起こっていて、聞くことが自然に起こっていることにすぐに気づくでしょう。
ジェームズ:ええ、いずれにしても、私は彼女に返事をしなくてはいけません。
ボブ:そうですね。すべきことはすればいい。起こるに任せてください。あなたはむかついたまま彼女に手紙を書くかもしれない。それとも、彼女に苦情を言うかもしれない。でもそこには、何かをする「あなた」はいません。何が起ころうとも、それはただ単にそのように起こっているだけです。
ジェームズ:わかりました。この、行為者はいないということについて話していただけますか? それは私にとって概念的です。
ボブ:ええ、説明しましょう。今あなたは見ていますね?
ジェームズ:はい。
ボブ:あなたは今、聞いていますね? あなたの目は「私は見る」と言いますか? あなたの耳は「私は聞く」と言いますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:ということは、思考がやってきて、「私は見る」や、「私は聞く」と翻訳しているわけですね。でも、その思考の「私は見る」は見ることができますか?「私は聞く」という思考が聞くことはできますか?
ジェームズ:あなたは私があなたの本で読んだり、あなたが言ったりしたのを20回以上聞いたことを言おうとしています・・・。
ボブ:今一度聞いてください。「私は見る」という思考が見ることはできますか?
ジェームズ:いいえ、その思考はがらくた。単なる翻訳にすぎません。
ボブ:ということは、思考にはいかなる力もない。
ジェームズ:もし思考に力がないのなら、いかなる行為者もいないのですね?
ボブ:「私は意識している」という思考は意識(アウエアネス)ですか?
ジェームズ:いいえ、もちろん違います。
ボブ:「私は選ぶ」という思考は選択者ですか?「私は考える」という思考は思考者ですか?
ジェームズ:ということは、もし思考に力がないのなら、単にそこには行為者はいないのですね?
ボ:もちろんそうです。いいですか、思考は知性と密接に結びついてきました。でも実際は翻訳しているにすぎません。それは、私たちが会話で使う言葉やラベルに翻訳しているだけです。思考は純粋な知性エネルギーと密接に結びついているため、それが純粋な知性エネルギーだと信じるようになりました。今、あなたがマインドや思考には力がないと理解した時、あなたはバラバラになりましたか? あなたは消えて無くなりましたか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:あなたは、思考なしで、まったく苦もなく生活は続くと理解しましたか? もしあなたがそのことを考えなかったら、どんな問題がありますか? あなたが考えることをしばらく止めてもバラバラにはなりません。あなたは依然として聞き、見て、味わい、生活は続いていきます。あなたは思考に依存していません。
ジェームズ:ええ。ボブ、あなたのもとへ何年も通っている生徒たちがいます。彼らはどうなっているのですか? どうして彼らは「終止符」とならないのですか?
ボブ:ええ、なりません。今のあなたと同じように。(笑い)でも、やってきてすぐに理解する人たちもいます。
ジェームズ:今のところ私は「終止符」となっていません。私のマインドは続いていて質問しています。マインドは基準点を求めています。
ボブ:あなたはマインドを停止しようとしています。でもいったんあなたがそれは道端の蜃気楼のようにがらくたにすぎないと理解したら、あなたはもうそれにとらわれなくなります。
ジェームズ:ええ、何かが起こっています。昨日、その女性から腹立たしい手紙を受け取り、私の反応は馬鹿げていると思いました。それで、それは一時間かそこらイライラした後で消えたのですが、数年前だったら、丸一日、あるいはもっとかかっていたでしょう。それは良くなりました。
ボブ:ええ、そうなるでしょう。
ジェームズ:でも私は「なるでしょう」という部分が気に入りません。それは未来です。
ボブ:それは真実です。でもあなたはもっと早くそれを捨てるようになるでしょう。すべての物事を基準点から見るという習慣的なパターンを。あなたは一、二度それをやるだけではありません。いつも、来る日も来る日もあなたの全生涯でそれをやります。私たちは自信を催眠にかけています。しかし、あなたが調べて、その偽りを理解する時、もはやあなたはそれを信じられなくなります。それはちょうどあなたが蜃気楼の中に水はないと知っているように。
ジェームズ:以前私はあなたに生活が刺激的なのか退屈なのか聞きました。というのも、時折、私がはっきりと基準点から自由な時、突然すべてが新しく新鮮なものに感じて驚くからです。
ボブ:私は判断しません。でも判断は起こってきます。
ジェームズ:そしたらどうするのですか?
ボブ:それは私のものではありません。誰がそれを受け取るのですか? それは起こり、去っていきます。すべてそのパターンが続きます。
ジェームズ:ということは、思考を受け取っているように見える人たちも、実際には受け取っておらず、受け取っているように見えるだけなのですね。そうでしょう?
ボブ:そうです。
ジェームズ:つまり、非常に苦しんでいる人たちも私と違いはないということですね。目覚めているかどうかは重要ではないということですね。それを理解するのが時々難しくなります。「頭に入らない」と父が言っていた言い回しを思い出します。
ボブ:概念化しようとしないでください。経験することの中に留まるようにしてください。そうすれば楽しめるようになります。
ジェームズ:ボブ、私は考える過程が好きなのです。そのため、すべてを概念化したくなります。創造の偉大さを見てください。数学、科学、芸術、無数の生き物たち、心臓切開手術などなど。誰が世界を創造したのか、いつも知りたくなります。そしてその創造物は実在ではありません。
ボブ:それは鏡の中の像のようなものです。何がその像を作り出しているのでしょうか。なぜ一つの像は他の像よりも良いのでしょうか?(笑い)
ジェームズ:命は奇跡に満ちています。無数の体の細胞が常に生まれ変わっています。あなたはそれが、どうやって、なぜと思ったことはありませんか?
ボブ:どうやって、なぜはもう終わっています。それはそこから離れる動きです。
ジェームズ:なぜならすべてはもう起こっているから?
ボブ:ただ起こる事とともにあってください。そうすれば、わずかな洞察が生まれます。そしてあなたは満足のいく答えを得るはずです。
ジェームズ:あなたがニサルガダッタのところにいた時、あなたはいつ彼が言うことを突然理解したのですか?
ボブ:私は彼の言うことを理解し、「もうマインドにはとらわれないぞ」と思いました。そしてドアから出ると、すぐにまたもとに戻ったのです。(笑い)でも、それは決して以前と同じではありませんでした。もちろん、遅かれ早かれ基準点は再び戻ってきました。でも、「ちょっと待てよ。これは昔と同じたわ言じゃないか」と思って、それを見破ったのです。あなたが言ったように、時々それは少しの時間もしくは少しの日にちの間いて、去っていきました。
ジェームズ:いつニサルガダッタに会ったのですか?
ボブ:1976年です。
ジェームズ:1976年の生活経験と、それから10年後では大きな違いはありましたか? というのも、経験が深まっていったと思うのですが。
ボブ:経験が深まることはありません。しかし、今ここにある意識を覆っていたがらくたは落ちていきました。それが深まることはありません。なぜなら、それは純粋なそれであり、それしかないからです。
ジェームズ:もし例えば、1976年に昨日の私に起こったような腹立たしいことが起こったら、それが1986年に起こるよりも、もっといらいらしますか。
ボブ:もちろんです。でも1976年当時でもすぐに変化が・・・。