2019/02/08

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑯

presence awareness・今ここにある意識

presence awareness は、「存在意識」「臨在意識」と訳すのが正確なのかもしれません。また、自分が存在するという感覚という意味で使われる場合もあります。でも私は存在意識、臨在意識と訳すとわかりづらくなるので、「今ここにある意識」という訳にしています。
要するに、私たちの日常の普通の意識のことで、アウエアネス、知性エネルギーのことです。

セイラーボブの教えを理解する時に、あれこれと難しく考えないで、この presence awareness (今ここにある意識) を理解することに焦点を合わせると理解しやすいと思います。
例えば「時間はない」ということについていうと、今この瞬間の (今ここにある意識) の中に昨日はありますか? 記憶としての昨日はあります。でも、それは単なる記憶なのであって、実際の昨日ではありません。また明日はどうですか? それも、 (今ここにある意識) の中では、想像することはできても、実際の明日はありません。

いや、昨日はあったとあなたは言うかもしれません。でも本当にあったのですか? 一年前の昨日、あなたは何をしていましたか? それは本当にありましたか? 過去は記憶となった瞬間に脚色され、いくら正確に覚えていても実際とは異なります。本当にそれがあったかどうかは、わからないのではないですか?

エジプトのピラミッドはどうですか? 写真で見たピラミッドや、昔旅行で行って見たピラミッドが (今ここにある意識) の中にあるのですが、それは実物ではありません。では実際に今この瞬間にピラミッドが存在するかと聞かれても、在るとも無いとも言えないのではないですか?

いや、ピラミッドはある、という時、それはマインドの中の記憶から引っ張り出してきて、おそらく今もあるだろうと推測しているにすぎません。たった数秒前に、テロリストが爆破してしまったかもしれません。

では、「私」は (今ここにある意識) の中にいますか? それはもう調査済みで、「私はいる・I am」という感覚があるだけで、体もマインドも実在ではありません。 (今ここにある意識) の中には、運動をした時や痛みがある時など以外は、体があるという感覚さえありません。

目の前に広がる視界の中の物はどうですか? 机、椅子、壁、それは実在ですか? 実在の定義は「変化しないもの」です。机や椅子や壁は、時間の経過とともに形を変えていきます。また、それが机、椅子だということは、後天的に学んだことであり、その記憶があなたのマインドの中に蓄えられていて、その記憶と照合して初めて認識できるものであり、もしその記憶がなかったら、それは何ですか? もっと言うなら、その物に焦点を合わせることも後天的に学んだことなので、もし焦点を合わせる記憶を無くせば、そこには何も見えません。

もしあなたが、今この瞬間に生まれたばかりで、すべてを学ぶ前の状態なら、そこにあるのは光と色彩はあるかもしれませんが、何があるかわからいないはずです。 (今ここにある意識) の中で、椅子や机はあるように見えますが、実在ではありません。

 (今ここにある意識) だけが実在です。それはあなたが幼かった時も大人になってからも、そして今この瞬間にも変化せずにある。あなたがピラミッドを見た時も、部屋の机を見た時も変わらずあった。そして肉体の死の瞬間も、死んでからもある。

 (今ここにある意識) の中にすべてがあります。
(何かになる)ことや何かを体験することではなく、 (今ここにある意識) がすべてです。答えはいつも (今ここにある意識) の中にあります。
例えばあなたはセイラーボブの教えを学んで、何か困った時にボブが何と言っていたかを思い出して、行動の指針にしょうと思うかもしれません。

でもそれは役に立ちません。それはもう記憶の中で概念化されたものであり、死んだものです。マインドの中にある概念に頼らず、 (今ここにある意識) に留まれば、答えは自然にやってきます。

私たちは、何か困ったことが起きると、ありもしない未来に向けてマインドの中であれこれと対策を立てたり、想定問答を繰り返したりします。でも答えはすべて (今ここにある意識) の中にあります。
いくら心配しても、未来は未確定です。一秒後に大地震が起きるかもしれなし、心臓麻痺で死ぬかもしれない。計画や予定を立てることは大切ですが、心配や不安は要りません。

あなたはセミナー、教室、リトリートで多くを学ぶかもしれません。このブログでセイラーボブの教えを学ぶでしょう。それは物事を理解するためには役に立つかもしれません。でも理解した瞬間から記憶となって概念化が起こります。そしてそれはもう死んだものとなります。あなたが頼るべきものは概念化した死んだ知識ではなく、 (今ここにある意識) だけです。そこにすべての答えがあります。

それはグルの臨在のもとで瞑想して手に入れるものではなく、普通の日常にある (今ここにある意識) です。
 (今ここにある意識) を手に入れるために、訓練も練習も瞑想も必要ありません。
訓練や瞑想で、 (今ここにある意識) を高めたり、強化したりすることはできない一方で、失うこともありません。
覚醒体験が起きようが去っていこうが、 (今ここにある意識) はその前も後も変わらずにあります。
 (今ここにある意識) を人に渡したり譲り受けたりすることはできません。
至福も豊さも答えも、あなたが求めるものはすべて (今ここにある意識) の中にあります。
 (今ここにある意識) があなたであり、世界であり、それがすべてです。

真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできない。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。昨日理解したことは少しも役に立ちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)、すなわち、知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません」
                             – Sailor Bob Adamson