2019/02/21

The Spiel ① (2014.11.1)


               2014.11.1講話1/3 (著作権者了解済み)
2020.6月追記:リンク先のサビーナのサイトから、セイラーボブ関連の動画が全部削除されてしまいました。そのため、Spiel の中にある数本のYouTube は、訳文のみの掲載となりました。

***

ここではあなたに何も教えはしないし、あなたに何かを伝えるわけでもありません。それを覚えておいてください。あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎません。たとえあなたが何を信じていようが、何を言われていようが、あなたが何かを受け取ることもなければ、誰かがあなたに何かを与えることもありません

それは何も新しいことではありません。詳しく調べれば、すべての偉大な伝承の根底にそれを見ることができます。それは常にそこにあったのですが、おそらく認識されなかったか全く理解されなかったかです。ヒンズー教ではそれをアドヴァイタと呼んでいます。アドヴァイタは非二元と翻訳されます。

彼らは非二元を、他に何もない一つのものといって表現します。なぜなら、一つでさえ、他に何かがあることを暗示しかねないからです。他に何かがあるという考えを完全に打ち消すために、他には何もない一つのものと言います。それはヒンズー教だけではありません。それは仏教にも見られます。仏教で表現する場合は、「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識」です。

そしてさらに付け加えて、「ただそれだけ、他には何もない」と言います。それを詳しく調べてみると、今この瞬間をあなたに指し示すことになります。今この部屋の中で自分が存在するという意識、すなわち今ここにある意識が今この瞬間に無い人はいますか? あらゆる種類の概念がその意識と一緒に動いています。

でもそこに概念が無いならそれは、純粋で普通で平凡な否定することができない、今ここにある意識です。私たちはその非概念の永遠な新鮮さを見失います。私たちはその永遠な新鮮さを何か物と考えて見失います。永遠に新鮮とは何かを調べてみてください。永遠に新鮮とは自然に起こってくるものです。そこに時間はなく、空間もありません。

なぜなら、そうしたものは概念上の考えだからです。あなたがこれを詳しく調べてみると、時間と空間は概念、心理的な概念だとわかります。さらにキリスト教や他の真理、実在や神について語られている伝承を調べてみると、それは偏在、全能、全知と言われています。偏在とは完全な存在です。全農は完全な力。全知は完全な知性です。

私は三つのもののことを言っているのではありません。水と蒸気と氷のように、一つのものの三つの側面のことを言っています。それは一つのものです。そしてこれらすべての根底で、非二元の中にはどんな二元性も全く存在しないと指摘しています。私はここでは、誰かに話しかけているわけではありません。私は誰のマインドにも話しかけていません。私はあなたがあなただと思っている、体・マインドにも話しかけていません。

私はその「私はいる」に話かけています。それが私です。「私はいる」は自己が存在しているという感覚です。その感覚は「私はいる」という思考に翻訳されます。その「私はいる」に話しかけているのがその「私はいる」の私です。ただそれだけ、他には何もありません。

それを個人的なこととして受け取らないでください。私は全くの幻影としての個人に指し示しているのですから。非二元の世界には全く二元性はありません。それは二元的な顕現として現われているにすぎないのですが、現われているのはすべて二元的な顕現です。

二元的な顕現は実在という言葉の定義には当てはまりません。実在の定義は決して変化しないものです。その上、この顕現は束の間のもので、絶えず変化しています。そのためそれは、いにしえの聖典の中でも同じことが言われているのですが、マーヤー、幻影、束の間のものと呼ばれています。

そしてそれは二元的に現れます。二元的に現れなかたら、顕現として現れることはなかったでしょう。それは単に空(くう)、認識する空、知性すなわち知る働きに満ちた空です。私たちが空を認識しているのではありません。ブッダはそれを認識する空と呼びました。

それは、私たちが空を認識するということではありません。空そのものが知性に満ちていて認識する能力、すなわち知る働きを持っています。それが、ブッダが二千年前に言ったことです。彼は、「空は形である」と言いました。彼は指摘しています。空間のような空、知る働きがパターンとなり形作り、姿となる。逆の言い方をすると、形は空に他ならない。

それは見かけ上は実体のある中身のあるものに見えると指摘しています。それでもそれは空に他なりません。あなたは私が指し示すたくさんの例えを知るでしょう。海を見てください。海へ行ってバケツ一杯の青い海を汲んできてくださいと私は言います。あなたは「ばかなことをいわないで」と言うでしょう。なぜならあなたは、海の水が青くはないことを知っているからです。

しかしそれは青く現われ続けます。あなたが海を見るたびに、青く見えます。でもあなたは行ってバケツ一杯の青い水を汲もうとはしません。なぜならあなたは知っているからです。あなたは調べて、その虚偽を知っているからです。または水の蜃気楼や虹。虹を見ると、空に何か確かな実体のあるように見えます。

でも飛び上がって掴もうとしても、そこには何もないと知っています。それは単に太陽の光が霧の中で光っているだけです。光を分析してみると、太陽光線が水晶を通して光る時と同じです。すなわち、光を色に分けています。色には実体や姿形はありません。それはそのような姿形に見えるだけです。しかしそれにはどんな実体もありません。

太陽が水晶を通して光るのを止めたら、それはどこへ行くのでしょうか? それはやって来ては去り、水晶の中に戻って消えるのでしょうか? それはやって来たのではなく、そう見えているだけです。私は非二元の中には二元性はないと指摘します。でも私たちは二元的な世界を経験します。

私たちはまた、私たちは体と心(マインド)の存在であるという考えを持ちます。この人間。私がここで言った他のことなどをあなたが調べれば、虚偽は調査には耐えません。私たちがずっと信じてきたことのいくつかを調べてみてください。そうすればそれは調査によってばらばらになって崩れ落ちるでしょう。

それは調査には絶えないので崩れ落ちるでしょう。私たちは体と心の存在、人間であるという考えを調べてみてください。その人間(person)という言葉の由来は何ですか? それは仮面(persona)、マスクではありませんか? いにしえの人々はその言葉を仮面(persona)、マスクから作りました。

いにしえの人々は、昔私たちが自己を認識するために自分自身にマスクを被ったことを知っていました。ニサルガダッタは同じことを言っています。「あなたではないもののふりをするな。本当の自分を拒絶するな」と彼は言いました。私たちはこの個人、人(person)、分離した存在であるふりをしています。私たちは今までも、そしてこれからもそうではありません。

それはあの知性エネルギーがパターンとなり姿形になったものにすぎません。私たちはふりをして、本当の自分を拒絶しています。本当のあなたは無です。形もなく、姿もなく、始まりも終わりも、いかなる実体もありません。あなたはその本質であり、そのパターンが姿形となり、すべてとなって現れます。そしてまた分解され、それ以外のものとなって現れます。

私たちは、人、個人、分離した存在のふりをしています。でも決してそうではありません。あなたはそれを調べてみる必要があります。それを自分で見て、調べてください。あなたはあなたが自分だと信じていその体と心なのか? 例えばあなたはその体なのか? あなたは「はい、私は体です」と言うでしょう。でもそうですか?

体の中に、そこからあなたが始まったという場所を探してみてください。そこからすべてが始まったという場所を。そしてあなたは、自分がそこから始まったという場所を全く言えないとわかるでしょう。もう少し調べてみましょう。この体は何でできていますか?

あなたはこの体が構成要素でできていると気づくでしょう。それは、空気、土、火、水、空間と、あなたの周りと同じ構成要素でできています。もしあなたが自分は分離した存在だと考えるなら、自分自身をその構成要素から切り離してみてください。

誰か空気を取り出してください。空気無しでどれだけ生きることができるか見てください。体の80%は水です。水を取り出せるかやってみてください。火、体温を取り出してください。空間から出てみてください。地球から出てみてください。あなたは何からも分離できないことを理解します。

そしてその構成要素は何でできていますか? 構成要素は原子よりも小さい微粒子に、さらには純粋なエネルギーに分解することができます。ということはこの体は無であり、エネルギーパターンの振動にすぎないということになります。心(マインド)を調べてみてください。

あなたは、自分はマインドだと思っています。これが私のマインド、あれが私のマインド。マインドを見せてください。誰か私にマインドと呼ばれるものを見せることができますか? 調べても、あなたは何も見つけられません。それはどんな実体や自分で存在するための独立した性質を持っていません。それがマインドです。

調べて、思考以外にそんなものはないと理解してください。考えることを私たちはマインドと呼んでいます。もし自分がマインドと思っているなら、あなたは思考ということになります。ではそれはどんな思考ですか? 存在の感覚がマインドに翻訳されて「私はいる」という思考となります。

それは原初の思考です。ではその思考があなたですか? もしその思考があなたなら、思考を見失うことはないと考えるでしょう。でも、一日のうちで思考がない時もたくさんあります。夜眠っている時には思考はありません。思考はあなたが麻酔にかかっている時や無意識の時にはありません。

思考がなくても生命の本質は機能しています。あなたは自分が思考のはずがないと理解するでしょう。結局のところ、思考とはなんですか? あなたがその体と呼ばれるパターンの中で静かに考えている時や、かすかに動いている時を調べてみてください。あなたが言葉を話す時、今使っている言葉のように、言葉とは何ですか? 言葉とは音です。

音とはなんですか? 音とはヴァイブレーションです。ではヴァイブレーションとは何ですか。それはエネルギーの動きです。体はエネルギーへと分解されます。顕現はエネルギーへと分解されます。思考とマインドはエネルギーに分解されます。エネルギーのヴァイブレーションがなければ、そこには何もありません。

私は神という言葉を使いません。なぜならあなたはその言葉で混乱してしまうかもしれないからです。ただ単に私たちは異なる伝統や背景からやって来ているからです。もし私が「神」について話し始めれば、あなたは無神論者、不可知論者、カトリック、クリスチャン、モスリム、仏教徒かもしれず、あなたは自分の宗教的な信条と関連付けて誤って受け取ってしまいます。

例えば、もし間違った考えや理解から始めれば、それは何か全く大事ではないものになります。そこで私は知性エネルギーと言う言葉を使います。でもあなたは、それもまた概念であることを理解しなくてはいけません。それは表現方法であって、そのものではありません。私が知性エネルギーについて話しをする時、あなたの知性について話しているのではありません。

なぜなら、この部屋の中には様々な程度の知性の人がいるからです。ある人は私とは比べようもないほど賢く、ある人はそれほど賢くないかもしれません。様々な程度の知性の人がこの部屋にはいます。でも私が知性について話しをする時、外の自然を見てごらんなさいと言っているのです。それが、私が指摘している自然な状態です。

外の自然を見てください。あなたは自然を調べて、銀河が形成され、惑星が動き、地球が太陽の周りを回り、季節がやってきては去り、潮が来ては引くのを見ます。そのことは自然が内在する知性で満ちていることを暗示しているのではないですか? 誰か年老いた人が雲の上にいて糸を操っているわけではありません。

もしあなたが彼に祈ると、あなたがこれをできたり、あれができたり、あなたが何か悪事を働いたら、彼があなたを懲らしめるわけではありません。知性エネルギーはどんな小さな粒子にも満ちています。あなたは自然と異なるわけではありません。それはすべての粒子、あなたがあなたと呼ぶ体の中のすべての細胞に満ちています。

それは外の自然だけではありません。あなた関して言えば、その同じ知性エネルギーが今この瞬間あなたの心臓を鼓動させていることを理解してください。それが呼吸をつかさどっています。それがあなたの髪を伸ばし、指の爪を伸ばし、食べ物を消化し、あなたの細胞を全く自然に努力なく入れ替えています。

あなたはこうしたことを考えなければいけませんか? あなたはマインドをとても頼りにしていますが、体の中が思考なしでどれほど機能しているか見てください。あなたはそれが生命の本質だということを理解します。それが多くのことをしています。さらにもう少し調べてみましょう。

あなたは自分のことを、体とマインドであると考えています。ではあなたはいつ始まりましたか? あなたは、生まれた時と言うでしょう。でも誰か自分の生まれた時のことを覚えていますか? 調べてみてください。思い出してみて、自分が二歳か二歳半ぐらいまでしか思い出せないことに気づくでしょう。

それ以上は覚えていません。あなたは全く思い出すことができません。なぜなら、考える力が発達していなかったからです。あなたはまだ全く言葉を知りませんでした。さらにもう少し遡ってみましょう。あなたはいつ始まりましたか? もし父親か母親まで遡ると、知性エネルギーがパターンとなり、姿形となって父というパターンを作り出したことを理解します。そのパターンの中で精子を作ることを可能にしました。

それはとても小さな粒子のパターンなので、肉眼では見ることはできません。あなたの母の生命の本質である同じ知性エネルギーが、母親の中で卵子、卵、また別のパターンであるちいさな粒子を作ることを可能にしました。卵子も知性に満ちています。なぜなら、それは何をすべきか知っているからです。

卵子は自分で子宮の外へ出る方法を見つけます。それは偶然や手当たり次第に動いているわけではありません。そして精子も知性に満ちています。というのも、精子は卵子に泳ぎつくからです。それはどうしたらいいのかを知っています。一つの非常に小さな粒子が。そしてあなたが今日あなた自身であると信じている存在は、このことに関して何かをすることがありませんでした。

そしてその二つが一緒になると、精子はどうやって卵子に入り込むかを知っていました。あなたを形作る青写真はその二つの細胞が一緒になった時に既にそこにありました。その青写真があなたを形作りました。それは何をすべきかを知っていました。私はあなたが何もしなかったとは言いませんが、指や腕や足を成長させようとは言いませんでした。知性エネルギーが何をすべきかを知っていました。

その細胞が二つに分裂して、さらに二つに分裂し、青写真に従って、小さなパターン、胎児を作りました。小さな胎児です。そしてあなたが生まれ出た時、さあ、出てきたぞ、最初の呼吸をするか、とは言いませんでした。あなたは最初にどうやって乳首を探して吸うのかを学びましたか?

あなたを形作った本質は、その時も何をすべきかを知っていました。それ以来、それはあなたを成長させ、あなたを生かしているのです。


                         2014.11.1講話2/3 

すべては自然に努力なく。でも私たちは、人間の体の中で考える能力が発達する二歳か二歳半の頃それを見失います。それは人間というパターンが持つ能力で、ほかの動物や鳥や昆虫はこの特別な能力を、私たちのようには持っていません。

でも彼らは、私たちが持っていない他の能力を持っています。鳥はあなたや私よりもはるかに優れた視力を持っています。鳥は飛ぶ能力を持っています。私たちは飛ぶ能力を持っていませんが、考える能力によって、飛行機、ヘリコプターなどを作ることを学びました。

犬は嗅覚、嗅ぐ能力をもっています。それはあなたや私よりもはるかに優れています。タイガー、レオパードなどの類の動物は毛皮に縞や斑点があります。それは自然のカモフラージュです。彼らはわざわざそうしたと思いますか? 子供のトラが生まれた時、「縞模様を成長させた方がいいな」と言ったと思いますか?

レパードが「斑点を成長させた方がいいな」と言ったでしょうか? それとも内在する知性がパターンとなり形となって現れ、それを通じて表現したのでしょうか。その縞が彼らに自然なカモフラージュとなり、彼らを優秀な捕食者にしていることを理解してください。

カメレオンや昆虫は色を変えます。生命の本質は何をすべきかを知っています。それがパターンを作り、形を作ります。人間の姿をした尊大さは、私たちが主導権を握っていると思っています。内在する知性よりも、よく知っていると思っています。それが、その考える能力に起こっていることです。

私たちは言葉を学び始め、絶えず両親に向かって何かを言ったり、両親があなたに言ったりします。それが始まる前の幼い子供を見てください。幼い子供は、その段階では自分が分離した存在であるという考えはありません。彼は見て、聞いて、味わい、触れ、嗅ぎ、そうした機能は働いています。

でも子供には、自分でそれをやっているという考えはありません。子供は好きなら惹きつけられ、嫌いなら押しのけます。二歳か二歳半の頃、両親のまわりを動き回り、興味を起こし、良心から言葉を学びます。ちょっと前にあなたのマインドを調べてと話したことですが、マインドがどう機能するかを見てください。

マインドはとても役に立つ道具です。それはまた自己破壊的でもあります。私たちがそれを信じ込むと、それが私たちを利用し始めます。マインドがどのように機能するかに注意してください。あなたがマインドを調べると、思考はヴァイブレーションだと知るでしょう。そしてそれはいつも互いに関連する対極へと振動しています。

思考は私たちが学び身につけた言葉によって振動します。それもまた理解しなくてはいけません。あなたが学んで身につけた言葉以外の言葉をあなたは話したことはなく、今後も話すことはありません。あなたが話したすべての言葉はあなたが途中で身につけてきたものです。あなたは言葉とともに生まれてきたわけではありません。

それがどのように機能するかを調べると、それはいつも対極に振動して現われることがわかるでしょう。もしあなたが過去にいないのなら、それは記憶ですが、あなたは未来にいます。未来は期待であり、想像です。その範囲をいつも関連する反対の極へと振動します。

善悪、快不快、幸福と悲しみ、愛と憎しみ、肯定と否定。マインドに注意して、それ以外のやり方でそれが機能するかを見てください。マインドはとても役に立つが、とても限定的で機械的に機能します。そして私たちは自分で学んだ言葉で限界を作ります。良い悪い、快不快、幸福と悲しみ、それは私たちが自ら言葉で作った限界です。

シェイクスピアは数百年前に言いました。「良いも悪いもない。ただ思考がそのように判断しているだけである」。それは私たちが言葉に張り付けたラベル、すなわち名前を見て、それを実在と受け取り、私たち自身に境界と限界を設けていることを指摘しています。小さな子供は両親のまわりを動きまわり、言葉を学び始めます。

子供は言葉を学びます。両親は彼に向って、「かわいいジョニー」「ちいさな良い子」などと言います。彼は「私」や「私に」というような言葉を学び始めます。彼は「私はかわいいジョニー」だと考えます。「私」や「私に」の反対は何ですか? それは「私ではない」ではないですか?

そして子供は外を見始めます。それまではすべてのものを、ありのままに見ていました。何も区別せず、どんな考えもなく。私たちは異なるものや分離したものについていつも語るのですが、子供は、善悪、快不快、あれこれと区別することなく、名前のラベルを貼らず、区別していませんでした。

子供はすべてを単にあるがままに見ていました。それを自然のままにしておきました。それが今や、「私はかわいいジョニーだ」と考えています。そして「それはかわいいジョニーという表現とは一致しない」と思うようになり、ということは、それは私のことではないと考えます。その考えが浮かぶやいなや、彼は自分がそれから分離していると感じます。

それは私ではない。それは何か別のものだ。その分離感と一緒に不安と傷つきやすさがやってきます。特に幼い子供にとって、彼らがまだ小さい時はとても不安で傷つきやすく感じます。その段階ではそれが何なのかを子供は知りません。そういうわけで、子供は暖かくて愛情に満ちた家族を好みます。

もし暖かくて愛情にあふれた家族がいれば、よりいっそう安全な感じを持ちます。かつて家族は部族を形成しました。自分の部族が大きくて強ければ強いほど、より安全で傷つきにくくなります。それが今日でも続いているのではないですか? 国家が形成され、国が国と戦争を起こし、隣の国がしようとしていることを信頼していません。

彼らはオイルを手に入れた、注意しろ、こっちは爆弾を手に入れた。やつらを支配しよう。それがいつも続く。振り返って調べてみようともしない。そうやって、両親、社会、学校、国家などすべてが、私たちは分離しているという信念を強化します。というのも彼らは自分自身を調べてみろとは言わないからです。彼らは外の世界を見るようにと言います。できるものは何でも、この分離した存在に付け足すために獲得し、蓄積し、付け足し、集め、貯めるために。

良い教育、より多くの財産、良い人間関係、良い車、それらのものすべてを、もっと満足するために、この「私」に付け加えるために。それでもあなたは、もう十分持っているという大金持ちを見たことがありません。自分自身に何を付け足そうが、それは間違っています。あなたはもうそれであるのに、何を付け足すことができるでしょうか? あなたはもうあなたが探しているものです。

あなたは純粋な知性エネルギーです。パターンや姿形はそのように現われたり見えたりしていますが、それでもそれは同じ本質が、それ以外のものとして現れているにすぎません。物はそれらのパターンや姿形を通して、それが現れているだけです。どんな物でもその本質は変わっていません。

それはすべて、それに分解することができます。それはいつも、この先も。その一つの本質がすべてとなって現われ見えています。
幼い子供は「私」や「私に」をどうすることもできません。ではどうなるでしょうか? 私たちは「私」に出来事や体験や条件付けなど、起こったことを付け足します。

私はボブ、オーストラリア人、いいやつ、あんまりよくない、自尊心が低い、悪い子、怖がり、心配性。これらの概念が、あなたの経験やあなたの人生に起こったこと、人々があなたに言ったこと、あなたが信じていることをもとにして「私」という思考に張り付けられます。

そうやって、「私」は自分についての概念上のイメージを作り上げます。そのイメージは心理的な概念でできていて、信念のエネルギーがそこへ入り込み、疑うこともなく、毎日強化されます。そして両親、学校、国もまたそれを強化します。それは非常に強固なものとなり、確かなものに見えるようになります。

私はこの強固な、うわべ上実体のあるイメージを自己の中心、基準点、すなわちエゴと呼んでいます。そうしてすべてのことが、この基準点、すなわちエゴに関連するようになります。あなたは様々な表現でそれを耳にします。「エゴが問題だ」「エゴを解体しなければいけない」「やっつけろ」「踏みつけろ」

でも、それをやろうとしているのは、エゴです。そのためそれはうまくいきません。なすべきことは、それに実体があるのかどうかを、あなたが自分で調べて、それは信念のエネルギーがそれに入り込んでうわべ上は本当に見えるために私たちが信じ込んだ偽りの考えであるということを理解することです。

そういうわけで、私はあなたに、自分で調べて理解するように求めています。それが今も機能していること理解してください。幼い子供は人生の最初の二、三年間は自然に行動します。すべては自然に起こります。でもこのエゴという考えが現われた時、どうしてそれをもっとよく知ることができるでしょうか?

私が自分だと思っている「私」は、自然に起こってくる機能よりももっと狡猾です。人生の最初の二、三年間のような自然な行動のかわりに、「私」、エゴ、記憶への関連付けが始まります。以前に私が語ったことを思い出してください。すべての問題、今まで起こった、そしてこれから起こる問題はすべて、関係性の問題です。

関連するすべてがそうです。関係性は二元性です。あなたは二元性からは決して非二元に到達しません。なぜなら二元性は全くのフィクションだからです。二元性は決して非二元であったことはありません。ブッダが言ったように、空は形です。形は空に他なりません。すべてはマーヤー、幻影、エネルギーの振動パターンです。

それには実体やどんな独立した性質もありません。私たちの問題はすべて関係性の問題です。それはすべて「私」に関係しています。何かが起きると、私たちは自然さを忘れてしまいます。幼い子供は「私」や記憶に関連付けます。ああ、そうだ、これは前にも経験した。それは良かった、と。

私たちは良いことを手放したくありません。私たちはそれにしがみつこうとします。私たちはいつも良いことを留めようとし、悪いことには執着しません。しかし、この顕現は二元的な顕現です。二元的な顕現は束の間のもので、絶えず変化しています。すべてのものは絶えず変化しています。

そのため、良いことは長くは留まりません。よく調べてみてください。あなたは何かを手に入れ、夢中になります。しばらくするとそれが普通のことになり、ひどく退屈し始めます。そしてそれを片づけるか忘れるか交換するか無くすかします。そのどれかが起こります。それは長続きしません。

私たちはそれを失いたくありません。それでどうしますか? 私たちは抵抗します。私たちはそれを留めようとします。留めるためにできることは何でもします。そこに抵抗があります。抵抗とは葛藤ではありませんか? どうして抵抗、葛藤するのですか? どんな葛藤であれ、葛藤している間あなたは病んでいます。

あなたが葛藤している間は不安です。それは病気ではありませんか? それはまた、あなたにも現れていませんか? 何か「私」の嫌いなものがやって来て、それが「私」や記憶に関連していて、私はそれを欲しくない、私はそれを取り除きたいとなります。そして再び抵抗します。そしてまた葛藤を生み、病気になります。

どの道を行っても常に葛藤があり、病気になります。それがあなたの人生に起こっていることなのではないか、よく調べてみてください。あなたの人生で起こっているすべての心理的苦悩は葛藤、抵抗などにもとづいています。


                        2014.11.1講話3/3 

私たちはこの葛藤、病気が続くことを嫌って抵抗します。それがいわゆるカルマです。あなたはカルマについてスピリチュアルな世界で何度も聞いていると思いますが、このことです。それは原因と結果です。この「私」という思考がすべての結果の原因です。

「私」だけが恐れを抱く。「私」だけが心配する。「私」だけが自己憐憫を抱き、憤慨し激怒し、不幸になり嫉妬し、憂鬱になる。「私」がすべての問題の原因です。このエゴがすべてのあなたの問題の原因です。その結果が、苦悩、ストレス、自己憐憫などすべてです。そのすべての結果が「私」から起こります。

さて、その原因である「私」を調べて、それはフィクションにすぎず、それには実体のあるものは何もないと理解したらどうなるでしょうか。それはそれだけで独立して存在することはできません。それにはいかなる独自性も独立性ありません。ではお尋ねします。原因なくして結果があるでしょうか?

そしてもし結果が原因に関係付けられないか、裏付けとなる原因がないのなら、そこに結果はあるでしょうか? それを証明するために学者が必要なわけではありません。もしあなたが原因と関係無いのなら、結果は消滅するはずです。それは本当です。それがここで起こっていることです。

何年も何年も何年も、そうした何年もの間、私はそうした結果、自己憐憫、憤慨、怒り、恐怖、嫉妬でいっぱいで、腐ってしまいそうでした。でも今日ではそれはありません。それが無くなってもう何年にもなります。そしてそれはここで私に起こっただけではなく、ここにやって来た多くの人も同じことを言います。

彼らはあなたに私と同じことを言うでしょう。心理的な苦悩は消えます。それはそこにあるべきものではなく、単純に完全消えます。なぜならエゴは全くのフィクションであると理解されるからです。それにはどんな実体も独立した性質もありません。そしてそれが「私」の問題すべての原因です。

それが問題の核心です。あなたは物事に働きかけて、それを取り除こうとする必要はありません。もしあなたが物事を根から取り除けば、それで終わりです。あなたが、雑草の葉、小枝、枝と引き抜いても、またそれは伸びてきます。そうしたやり方は役に立ちません。

でももしあなたが問題の核心に取り組み、このエゴには実体や自立できるような独立した性質があるかを見るなら違います。私はあなたに、こういうやり方で調べてみるよう求めています。あなたは今見ていますか? この部屋の全員が見ているというのは事実ですね? そしてあなたは今聞いていますか?

あなたが今朝目覚めた時、「さあ、私は見ることを始めよう」と言いましたか? そして部屋が少し見えてきて、それから部屋全体が現れて、それから窓の外の光にも気づきましたか? それとも、あなたが目を開けるやいなや、あなたの見える範囲に、すべてがそこにありましたか?

あなたがしっかり調べたことがなければ、理解できないかもしれませんが、あなたはそれと同じ見る働きが今も起こっていることを理解するでしょう。その同じ見る働きは、昨日、先週、去年もありました。見る働きは変化しません。私たちは変化したと思っていますが、常に変化しているのはその内容です。

あなたがその部屋にいた時と、見る働きは変化しましたか? 内容は常に変化していますが、見る働きそのものは変化しません。聞く働きについても同じです。あなたは今聞いていますか? 今朝あなたが目覚めた時、聞く働きはすぐにそこにありました。そしてもし誰かが、あなたが眠っている時に大きな声で呼べば、聞く働きが働き、あなたはそれを聞くでしょう。

それはいつもあなたにある聞く働きと同じものですが、内容は変化しました。見ること、聞くことは起こってくるものです。では自分に問うてみてください。「私の目は私に、私は見ると言うだろうか?」。あなたは目を通して見ています。でも、その目が「ボブ、これを見て。あれを見て」「あれはいい。これは悪い」「あれは要らない。これは欲しい」と言うでしょうか? 

あなたは目が全く何も言えないことを理解します。それはただ単に見ることが目を通して起こっているにすぎません。目は見る働きが起きるための器官です。そしてそれが思考によって「私は見る」と翻訳されます。すべての思考は同じことをしています。すなわちマインドがやっていることは起こったことを「私は見る」という思考に翻訳することです。

そしてそれは見ることそのものの純粋な翻訳ではありません。というのも、すでに私たちが持っている概念的なイメージと結びつけてしまうからです。私たちは概念的なイメージを信じています。私、ボブ、オーストラリア人、そしてその虚偽や感覚などすべてを私たち自身であると。それは概念上のイメージです。

そして今やそれが見る能力を持っています。今やその存在が見る能力があるという信念を抱いています。聞く働きにも同じことが起こっています。あなたは今聞いています。あなたの耳は「あれを聞く、これを聞く」と言いません。耳は、あれは良い音だ、あれはもっと良い音だなどとは、何も言いません。

それは器官です。そしてそれは思考によって、「私は聞く」に翻訳されます。それはマインドによって翻訳されます。この器官によって聞く働きが起こり、思考によって「私は聞く」に翻訳されます。そしてまた、その思考「私は聞く」は、聞くことそのものではありません。

それはこの思考の中にある信じられたものです。すべて私が今までに経験したことから付け加えた概念上のイメージです。そして今や思考は聞く能力を持っています。そして今、概念上のイメージでは、思考が聞く働きであり、思考が見る働き、思考があらゆることをしています。

自問してみてください。「私は聞くという思考が実際に聞くことができますか?」。この思考がすべてを翻訳しています。でもその思考が聞くことができますか? そしてあなたは、「私は聞く」という思考は聞くことができないことを理解します。あなたの手を耳にあてて、思考で何を聞くことができるかやってみてください。自分で確かめてみてください。

思考で何を聞くことができるかやってみてください。あなたは「わたしは聞く」という思考が聞くことができないことを理解します。目を閉じて、何を見ることができるかやってみてください。思考で見てみてください。「私は見る」という思考が実際に見ることができますか? 「私は見る」という思考は見ることができません。

「私は聞く」という思考は聞くことはできません。「私は意識している」という思考はあなたの意識ですか? あなたは、「私は意識している」という思考はあなたの意識ではないと理解します。「私は選ぶ」という思考は選択者のはずがありません。私たちは自分の思考を自分で選んでいると思っています。

でもあなたは思考を選ぶことはできないとわかるでしょう。そしてあなたは、その思考でできた存在が全く何もできないことを理解します。それは自分で立つどんな力も、これらのうちの何をする力も持っていません。自分で存在することさえできません。それにはどんな独自の性質もありません。

あなたは理解するでしょう。もし生命の本質が体の中で機能しなかったら、死体はどれだけの思考を持つことができるでしょうか? 死体には目があり、耳があり、声帯もあります。死体はそれらの器官を持っています。でも、知性エネルギーが生命の本質を発揮しなければ、死体は一片の思考も、感覚も感情も持つことができません。

あなたは、私たちがとても大きなパワーを与えているこの思考でできた存在は、どんな力も持っていないことを理解するでしょう。そしてそれはどんな独立した実体も持っていません。それは自身で存在することはできません。あなたがこの顕現を調べれば、そこにはどんな自己という存在もいないことを理解するでしょう。

ブッダは、どんな自己も存在しないと言いました。この顕現の中には、変化しないものはありません。それはいつも束の間のものであり、常に変化しています。それは自然に起こっています。時間と空間について考えてみてください。あなたはそれが概念上の考えにすぎないことを理解するでしょう。

あなたは、時間や空間などというものは存在しないと理解するでしょう。それらはすべて概念上の産物です。そしてあなたが、今について考えた時、人々は「私は今に留まるつもりだ」言います。できるものなら、そこから出てみてください。今はいつ始まったのですか?

「それは今始まった」という地点をピンポイントで示そうとしても、その言葉が口から出る前に、その時はもう過ぎています。そしてまた、それはもう始まっています。それは自然に起こっていることを意味するのではありませんか? そこにはどんな二元性もありません。時間はいつも二元性ではないですか?

二元性は容積、空間の中で起こっています。あなたは空間の始まりをピンポイントで示すことができますか? あなたは、空間には始まりがあると言えますか? 空間に始まりがありますか? 空間に中心がありますか? 空間に体積がありますか? それはあるように見えますが、時間と同じで、空間にはどんな継続も距離ありません。

そしてもし継続も距離もないのなら、道はありますか? あなたは自分が道の上にいると思っています。どんな距離や長さがその道にはありますか? そしてどんな目的地があるのですか? あなたが何と言おうと、あなたはもうすでにそれであり、いつもそれであり、それだけだった、それ以外にない、という事実から始めてください。

疑うかわりに調べてみてください。自分自身で、それが正しいのかそうでないのか見てください。というのも、あなた以外の誰もそれをすることはできないからです。

(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)