2024/11/22
以前ケンさんからいただいたおたよりについてもう一度
2024/09/20
返事のおたよりをいただきました
そして、ややこしい気分にさせてしまい申し訳ございませんでした
> 私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いてい
> 要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また
> くだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のよう
> いと言いたいだけです。
> 理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得す
> 思います。
はい、拓さんがブログで書かれていることの要点は上記である点は
> 「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいるこ
> んな自分はいないということを言いたいだけです。
はい。私もそのように思います。
> 説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていい
> た、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実
> う基本さえ外れていなければ。
はい、そのように私も思っております。
的確に表現出来ず、かえって混乱させてしまったようで大変申し訳
さん書かれていること・表現への批判ではありませんでした。
例えば、私が気になったのは『ただそれだけセイラー・ボブ・アダ
え』に書かれている以下のような表現です。
・P94、3行目から
「…本当の自分とは非顕現であり、純粋な本質であるという観点か
・P96、7行目から
「…しかしその本質は非現象であり、決して変化したことがないの
・P99、2行目から
「…そのときあなたは、今ここ、明澄で空っぽなこの意識の中に残
れは心の中で進行してきたいかなる物語や試練によっても汚染され
りしたことがありません。その生きた本質は一度も触れられたこと
れは一なる本質です。それは決してその本質を変えたことがありま
その他の箇所でも、これは私そのものなので、目が目それ自身を見
ように、対象として見つけることはできない、思考が止んだ時に理
いう表現もたびたび出てくると思いますが、「非顕現、非現象なる
う表現をすると、頭はどうしてもそのようなものが存在すると思っ
し、さらに「それは見つかるものではない、理解されるもの」との
かえって混乱するのかな、という疑問でした。
私自身、しばらく非顕現、本質なるものを探し続けて疲弊したくち
私なりの実感では「本当の自分」「本質」というものは確認できま
ここで現象が流れているだけですので。
思考や言葉なしでも、風は吹くし、呼吸は起きているし、雲は流れ
しているし、人に呼ばれれば即座に「はい」と返事が出るし、現象
と変化していく、ぐらいの表現のほうが、実際の感覚で確認できる
かなと感じた次第です。
全体としてボブさんが書かれていることはよく理解できますし、基
りだと感じていますので、上記のような表現が私的に気になったと
これは表現の仕方の違いなんでしょうね。しっくりくるかどうかの
お騒がせしましてすみませんでした。
やりとりさせていただき、どうもありがとうございました。
ケン
2024/09/19
おたよりをいただきました
拓さんのブログ、興味深く拝見いたしました。
このような真剣な情熱を感じられるブログに出会えて感謝です。
私はここ17年くらいクリシュナムルティやガンガジ、ダグラスハ
ジ、原始仏教などの著作をつらつらと好き勝手に読んで探求してき
つい最近、セイラー・ボブ・アダムソンさんの言葉に触れ、こちら
拝読させていただきました。
「悟り」というものはない、というメッセージは本当に力強く、私
中にあるものにはすがすがしく響きました。
私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象で
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
「本当の私」というものも実際は確認できませんし、もちろん非現
認できませんし、かえって混乱するのかなと。
拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう
単に私に理解が起きてないからでしょうか?
あるいは、語りかける相手の状態を想定した方便としての表現なの
ふと気になったのでお便りさせていただきました。
よろしくお願いいたします。
ケン
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
2022/06/21
おたよりをいただきました。
前野隆司さんの本、さっそく図書館で借りて数冊を立て続けに読みましたが、とても面白いですね!「錯覚する脳」がとてもわかりやすく、どうせイリュージョンであるなら大いに楽しもう、という明るいメッセージも最高でした。
また「死ぬのが怖いとはどういうことか」の第八章(あなたというメディア)がとにかく痛快でした。いわゆる「私はいない」の前野さん流説明とでもいいますか、なんだか笑いが止まらないような愉快な気分で読みました。
一瞥体験やエンライトメントといった特別な体験は不要で、知的に論理的に理解をして「腑に落ちる」ことで十分であることが、前野さんを見ているとよくわかりますね。前野さんの著書と出会うきっかけを与えてくださり、ありがとうございます。
仏教の表現ですと正直敷居が高く感じられて、頭にすっと入ってこないことも多いのですが、前野さんの語り口はすーっと読み進められました。
よろしくお願いいたします。
ヒロ
********
おたよりの内容は6月15日のブログ( 脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳 )についてです。
ヒロさん、おたよりありがとうございます。
私も前野さんの本に好感を持ちました。非二元を語る人の多くは、体験(一瞥体験や覚醒体験)を持ち出すために、多くの人に誤解を与えてしまっています。前野さんは、体験ではなく、科学として「私」は幻想である。ということを説いてみえるのがすばらしいと思います。
また、世界が幻想だとわかっても、「どうせイリュージョンなのだから、楽しもう」という姿勢も好きです。非二元の教えを学んで、「私はいない」で終わってしまうと、人生を厭世的に見てしまいがちですが、「どうせイリュージョンなのだから、楽しもう」と言われると、なんだか楽しくなります。
こうやって科学的に説明してもらうと、非二元や仏教で使われている説明は、なんだか遠回りのような気さえします。もっともっと科学からの証明が増えて、「私はいない」ということを、いわゆる精神世界経由ではなく、科学的に理解する人が増えてくるといいなと思っています。
「死ぬのが怖いとはどういうことか」はまだ読んでいないので読む予定です。
2021/06/03
おたよりをいただきました。
拓さん、こんにちは。
2021/05/21
おたよりをいただきました。
拓さんへ
読者の方からお礼や理解できました等のメッセージがほとんどない拓さんのブログの熱心な読者であれば、解説のわかりやすさと丁寧
「セイラーボブアダムソンの教え(詳しく)」シリーズ記事をすべ
ギルバートとカタリーナのぶっちゃけトークのくだりも秀逸で、か
また、セイラーボブおよび拓さんの解説を自分なりに理解した上で
また「私という存在が実在なのかどうか自分で調べる」を折に触れ
拓さんのお父様のエピソードもとても印象的なポインターとなりま
本に書かれていることを闇雲にただ信じ込むのではなく、自分自身
本を読んでいる最中、あるいは「自分で調べる」ためにマインドを
「私という主体がこの本を読んで教えを理解する」でなくて、機が
そのことに気付いたときに、「エンライトメントという体験ではな
拓さんの書かれる文章は論理的でかつ読みやすく分かり易く、実体
なんて差し出がましいことをいってすみません、そのくらいの魅力
話は変わりますが、私は20代の頃(1990年代)東南アジア中
バガンのパゴーダに登って眺めた夕陽は最高でした。コロナが収束
私も、セイラーボブの教えを理解し真実を見抜いて、その上で「神
追伸:
長々とすみません。的外れなことを書いているかもしれませんが、
非公開希望というわけでもないですが、かといって公開希望でもな
よろしくお願いいたします。
ひろ
2021/05/18
おたよりをいただきました。
20年に及ぶスピリチュアルの探求(そして幻滅)ののち、ここ数
よろしくお願いいたします。
ひろ
おたよりをありがとうございました。
こういうお礼のおたよりをいただくと、とてもうれしいです。何年もの間、せっせとブログを書いてきましたが、お礼や、理解できたというおたよりをいただくことはほとんどなく、ブログを書くモチベーションも下がり、そろそろホームページ化しようと、3月に休止したところでした。
やっとこういうおたよりをいただけるようになったと喜んでいます。
がんばってまたブログを再開しようと、モチベーションが上がりました。
ついでに私の近況を書いておきます。
その後、毎日せっせと仏教関係の本を読んでいます。
驚いたことに、そうした本を読んで、根本的にはセイラーボブと同じことを説いている人や経典がたくさんあるということを知りました。長年、スピリチュアルの本を読んできたつもりでいたのですが、仏教は形骸化した宗教に違いないと決めつけて、その方面の本は全く読んできませんでした。
でも、仏教関係の本の中で、「あるのは意識だけである」「私は実在ではない」「実在としての物は存在しない」「一切は空である」「主体と客体はなく、一つのものである」というフレーズをたくさん見つけました。そして、仏教で説いている悟りも、エンライトメントや覚醒ではなく、理解であると確信しました。
今せっせと本やサイトを読んで学んでいるのですが、使われている仏教用語が難しかったり、解説する人によって微妙な違いがあったりして理解するには時間がかかるため、ブログに書くのは、しばらく先になると思います。
参考になればという思いで、今後読む予定の本のキーワードを書いておきます。
龍樹(りゅうじゅ)、中観(ちゅうがん)、唯識(ゆいしき)、世親(せしん)、唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)、唯識二十論、法華経、華厳経(けごんきょう)、楞伽経(りょうがきょう)、達磨、黄檗(おうばく)、六祖檀経(ろくそだんきょう)。
唯識(ゆいしき)とは読んで字のごとく、「ただ意識だけがある」という教えで、それが大乗仏教の根本思想であり、その教えが今日でも仏教の中で脈々と受け継がれています。「ただ意識だけがある」と聞いただけでもセイラーボブの世界を連想してワクワクしてきます。ブログ再開後はこうしたキーワードを中心に書いていく予定です。
2020/07/25
おたよりをいただきました。
マハルシやデイビット・ゴッドマンについては、どう評価していま
よろしくお願いいたします。
田中
おたよりをいただきました。
ツイッターやってますか?
Youtubeやってますか?
メルマガ発行されてますか?
オススメの本は、ありますか?
よろしくお願いいたします。
おたよりをいただきました。
Takuさん、こんにちは。
毎週楽しみに拝見しております。質問させて下さい。
今回はU.G.クリシュナムルティの翻訳を読ませていただいてお
セイラーボブさんや、Takuさんは特殊な体験などはあまり取り
よろしくお願いいたします。
セツ
------
おたよりありがとうございます。
非二元の師たちが説いていることは、
エンライトメントを説くグルやマスターはインチキだという思いに
でも、そうだとすると、
仏陀やラマナ・マハリシ、
U.G.クリシュナムルティの本を読んでから、ひょっとすると、本当の意味での「エンライトメント」はインチキグルたちが言っているような状態では
そう考えると、
U.G.クリシュナムルティ の言う状態を理解することはできないし、
セイラーボブは、U.G.
私はU.G.の本を読んでからも、
セイラーボブの教える非二元は、エンライトメントではないし、
U.G.については今後まだまだブログに掲載予定です。
U.G.が何を語っているかは、この先のブログで読んでください。
それを読んでいただくと、U.G.
私は、特殊な体験に興味があるのではなく、U.G.
U.G.
私も全く同感で、私のブログを読んでいる人たちが、
私は、ありもしないものを探して人生の多くの時間を無駄に費やしてきました。
もし、セイラーボブに出会わなかったら、未だに何かになろうともがいていたと思います。
一人でも多くの人にそのことに気づいて欲しいという思いでこのブログを書いています。
2019/09/03
おたよりをいただきました。
いくつか疑問に思ったことがあったので、質問させていただきます
短くても結構ですので、可能でしたらご回答をお願いいたします。
質問が長いので一度に送れるかどうか不明ですが、とりあえず、送
(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(
そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないと
それについては、「(私がいないこと
(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か
もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらない
2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても
(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解
結局、自分で自分を見ること
(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「
しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差が
「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということ
以上、よろしくお願いいたします。
波平
波平さん、おたよりありがとうございます。
私は、いつか誰かが、今日波平さんからいただいたような質問を送ってくださるのではないかと思っていました。
波平さんと同じように、ブログに書いていることが矛盾していると思ってみえる人が大勢みえるのではないかと思います。
セイラーボブの教えを理解するとはどういうことなのかは重要なポイントなのですが、それを書く前後の脈絡や、書こうとしている内容によって、表現が変わります。
自分の中では矛盾しているつもりはないのですが、どこを強調するのか、誰に向けて書いているのかで表現が変わってしまって、一見矛盾したものになっています。
書いていても、(この表現は以前書いたことと矛盾するなあ)と思いながら書いているのですが、強調したいポイントや、想定している読者によって、矛盾してもしかたがないと思って書いています。
表現が矛盾していても、(ああ、そういうことだったのか! わかったぞ!)という人が一人でも多くいてくれればいいかなと思って書いているつもりです。
最初にわかっていただきたいのは、セイラーボブの教えを理解するやり方に決まったやり方なんてないということです。
私のブログは、セイラーボブの教えを理解するための材料を提供するためのブログです。
私のようなやり方で理解しないといけないとか、理解したらこうなるということを書いているつもりはありません。
どんな理解の仕方でもかまいません。「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということが理解できればいいだけの話です。
質問に具体的に答えていきます。
(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(
そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないと
そうです。私はセイラーボブの教えを知的に(もしくはマインドで)理解した後でも、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。でも、ギルバートやカタリーナの話を聞いて、そんな体験は起きないということを知りました。それまでは、自分の理解に自信が持てませんでしたが、それを聞いて自分の理解で間違いないと確信しました。
そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどう
探してしまうということなら、「確信」という表現を使わなかった方が良かったのかもしれません。本当に理解して、疑いも起きず、もう揺るがないということを表現したかったのでそう書いたのですが、「確信」という言葉をやめておけば良かったと後悔しています。セイラーボブは、「確信」とか「実感」ということを言ったことはなく、「理解がすべてだ」と言っています。
それについては、「(私がいないこと
そういうつもりで書きました。でも、多くの人がセイラーボブの教えを理解していても、確信がないと思っています。確信がないというのはどういう状態なのでしょうか?
確信がないということは、理解が不十分なのか、もしくは私と同じように、理解したら何かが起こるのではないかと心のどこかで思っているのではないでしょうか?
私は確信という言葉を使いましたが、理解だけで終わりにしておくことも可能でした。でもそうすると、一部の人は「それじゃぁお前はセイラーボブの言うことを信じているだけじゃないか」と思われるのではないかと思いました。
信じているのではなく、(それが真実に違いない。そうとしか思えない)という思いを込めて「確信」という言葉を使いました。
多くの人は宇宙空間から地球を見たことはないのに、地球は丸いと知っています。これは信じているのではなく、確信だと思います。
それと同じ程度だということを表現したいと思って確信という言葉を使いました。
でも、よくよく考えると、理解=確信なのではないかと思います。
(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か
ただ一つ起きることは、「私」は実在ではないという理解であり、それが解放をもたらすものです。
本当の意味での理解とは、「非二元の教えが真実であり、もう迷うことも探すこともない」という状態であるという意味で書きました。でも、ちゃんと理解したら、それが本当の意味での理解なのだと思います。「本当の意味での理解」と書かないで、単に「理解」と書くべきでした。
私は二度のメルボルン滞在から帰ったあとでもまだ揺れ戻しがあって、何か特別な理解があるのではないかと探していました。
入手可能な本を全部読み、YouTubeを何度も見ているうちに、そんなものはないと知り、もう迷うことも探すこともない地点に到達しました。
理解の起こり方は人それぞれだと思います。私のブログを一回読んで、これは真実だと思う人もいれば、続けて読んでいるうちにだんだんと真実だと思うようになった人もいると思います。極端なことを言えば、何の理由もなく直感でセイラーボブの教えは真実だと受け入れることができる人もいると思います。理由なんて要りません。
「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」ということはありません。
私たちが、実際に非二元の世界を垣間見ることも体験することもできない以上、絶対的な確信があるとは言い切れないのもやむえないのではないでしょうか?
人の理解の仕方や程度は様々です。ジョン・ホィーラーのように、セイラーボブ関連の本を何冊も出したあとでボブの前から姿を消した人もいます。ジョン・ホィーラーはセイラーボブの教えをよく理解していたし、彼の説明はわかりやすいものでした。
いくら地球は丸いと理解(確信)していても、実際には、大気をどけると地球は正確な丸ではなく、あちこちがゆがんだ楕円形をしているのだと聞いて、「え~!」となってしまいます。人間の確信なんて、その程度のものではないでしょうか。
理解だ確信だと言ってみても、結局それはマインドにエサを与えているだけで、本当の理解は、もっと直感的なもののように思います。
2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても
12年間、マスターのもとで修業した人は、ふたたびマスターから「汝それなり」と言われて、絶対的な確信を得る方法、体験なんてないとわかったのではないでしょうか。
まだ何かが足りないと思っているうちは、「汝それなり」で終わりとは思えないのではないでしょうか。
どんな方法でも構わないので、セイラーボブの教えていることが正しいと思えて、もう疑いも揺れ戻しも起きない地点に到達すればいいとだけのことです。
「汝それなり」と言われて、(そうは思わない)と感じるか、(そのとおりだ)と感じるかの違いです。(そうは思わない)と感じるなら、ちゃんと理解していることにはならないと思います。
(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解
結局、自分で自分を見ること
そうです。
LIVING REALITYの中で、「アウエアネスは理解するものではなく、在るものだ」「思考が止まっていてもあなたは在る」という内容のことを言っていたと思います。どこに書いてあったか今すぐに出てこないので、正確な引用ではないのですが。
そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というも
そうです。付け加えるなら、今ここにある意識だけが実在であるという理解があれば十分だと思います。
(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「
しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差が
同じつもりで書いています。
もし同じだ
矛盾しています。申し訳ありません。
セツさんの質問に答えた時は、セツさんが何度も繰り返し「ただそれだけ」を読んでみえると聞いて、何か非二元の体験や特別な理解が起きることを期待してみえるような気がしたので、そういったことは何も起きませんよ、という意味を込めて「知的に理解すれば十分である」と聞きました。
でも、この書き方は良くなかったと反省しています。書き直すことはしませんが、もし書き直すとすると、「教えを理解して、それに対して何の疑いもなく、それが真実だと思え、揺れ戻しがなければ、それが理解したということです」としたいです。
私がセイラーボブに、「知的には理解できるのですが・・・」と質問した時、セイラーボブは私に、「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? (知的な)を取りなさい」と言いました。
「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということ
念のために書いておきますが、「直感的な理解」という言い方は私が勝手に言っているだけです。セイラーボブの言葉で、あえて言うなら「ハートとハートの理解」です。
理解の仕方や、それがどんな風に起きるかは人それぞれでかまわないと思います。
ギルバートにはギルバートの理解の仕方があり、カタリーナにはカタリーナの理解の仕方があり、私には私の理解の仕方があります。でも、みんな「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということは理解しています。
マインドの理解、知的理解、実感、確信、直感、ハート。こういった言葉は、それぞれの人でそれぞれの解釈があるので、その言葉の裏にある本質みたいなものを理解していただけたらと思います。
理解の仕方は人それぞれでかまわないのです。
非二元の教えが真実であり、もう迷うことはないという地点まで到達できれば、どの道を通ってもかまわないのです。
私はこのブログで私の理解の過程を書いていますが、それは無視してもかまいません。セイラーボブの言ったことの翻訳部分だけを参考にするというのもありだと思います。
言葉での説明には限界があります。
例えば、「セイラーボブの教えを理解しても何も起きません」と私は書きましたが、もし、「セイラーボブの教えを理解すれば、考え方や物の見方が変わる」ということを言おうとするなら、「セイラーボブの教えを理解すれば何かが起きます」という表現になります。それは言葉の持つ曖昧さ、不完全さだと思います。
セイラーボブの教えを理解するということは、言葉の上でだけ理解するということではなく、教えが正しいと思えて、何の疑いも起きず、それが当たり前の真実と思え、二度と揺れ戻しが起きない状態です。
もしそうでないなら、教えを理解していないということだと思います。
そういう観点に立って言うなら、メルボルンから帰った時点での私は、セイラーボブの教えを理解していませんでした。
何がどう違うかと聞かれるとまた、確信とか実感とか、あいまいな言葉を使ってしまいそうになってうまく言えませんが、今は疑いや揺れ戻しはありません。
波平さんは、(私がいない)ということについてはいろいろな本で書か
と書いてみえるので、セイラーボブの教えはもう十分に理解してみえると思います。セイラーボブの教えだけが非二元の教えだというつもりは毛頭ありません。
「確信」「本当の理解」という言葉を使ったために、かえってわかりづらいものにしてしまったかもしれません。「理解」という言葉で十分でした。
2019/07/30
おたよりをいただきました。
僕は朝起きた時少し憂鬱です。睡眠が深くないので布団から起きだ
それでも以前と違うのは、セイラーボブさんやTakuさんのおかげで、余計な考えを横に置いておくということができるようになりました。
Takuさんは、
セツ
「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりま
最近はまた、不眠症気味で、ほとんど眠れない日もたくさんあります。でも、それで寝起きが憂鬱になることはありません。寝起きが憂鬱だろうが、爽やかだろうが、全く気になりません。いつもと同じように一日を始めるだけです。
もし、今朝は熟睡したから爽快だ、と喜ぶと、それが今度は眠れない朝の憂鬱を生み出すことになります。信心銘を思い出してください。もし、良いとか悪いとか判断すると、マインドは天と地のごとく二元的に反対の極に動いて、はるかに隔たりを生むことになります。
セツさんは、「ただそれだけ」を8回読んでいるのに、まだまだ理解が起きていないようだと書いてみえますが、一体どういう理解を期待してみえますか?
セイラーボブの教えを理解したら、精神がスッキリするとか、毎日熟睡して爽やかに目覚められると勝手に思い込んでいるのではありませんか?
残念ながら、そういうことは起きません。
私もそうでしたが、人々はセイラーボブの教えを理解したら、憂鬱になったり、悩んだりすることがなくなるのではないかと勝手に想像しています。セイラーボブの教えを理解しても、憂鬱になったり、悩んだりすることは以前を同じように起こってきます。
また、セイラーボブの教えを本当に理解したら、何か特別な体験が起きるはずだと勝手に想像してみえるかもしれませんが、いくら期待しても、何も起こりません。
セイラーボブの教えを理解して起きることは、自分は実在ではないという理解から起きる精神的な解放だけです。憂鬱な気分や、煩わしい問題は今までと同じように起こってきますが、それは「私」に起こっているのではないという理解があるために、そうしたことに巻き込まれなくなります。
セイラーボブの教えを理解できた状態というのはどういう状態なのかについて具体的に書きます。
私は、二回のメルボルン滞在で、セイラーボブの教えを知的には完全に理解できていました。「知的には」という意味は、セイラーボブが何を言っているのかを理解できているという意味です。
「万物は一つものである」
「私は体でもマインドでもない」
「本当の私はアウエアネス、意識であり、空である」
「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」
「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」
「すべては概念であり、概念のラベルを貼り付けなかったら、そこでは何も起こっていない」
こういったセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。
でも、日本に帰ってしばらくすると、(でも、それは真実なのだろうか?)という疑いが湧いてきて、確信、実感がありませんでした。
「私は体でもマインドでもない」や、「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」といったことは、自分で調べて理解することができます。それを理解する材料はこのブログの中に十分な量があります。
でも、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」といったことは、いくら自分で調べても、マインドの理解を超えています。セイラーボブの教えには、どうしてもマインドでは理解できない部分が残ります。
そういったことに対する理解、確信、実感を得たいと思って、セイラーボブの本や、YouTubeでボブのミーティング映像の中に答えを探しました。それを探す時に考えていたのは、セイラーボブや関係者の本の中に、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠がどこかにあるのではないかということと、もう一つは、彼らが非二元の教えを理解した時、その理解とはどういうことなのか、理解した時、何がどんなふうに起こったのかについてどこかで語っていないかということでした。
セイラーボブと、その関連書籍で入手可能なものは全部買って読みました。YouTubeも可能な限り見ました。カリヤニのサイトもギルバートのサイトも(以前のギルバートのサイトにはたくさんの記事がありました)くまなく読みました。
でも、どこにも、「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する納得できるような論理的な説明や、科学的な証拠は書かれていませんでした。
また、セイラーボブや周りの人たちが非二元の教えを理解した時に、何か神秘的な体験をしたとか、何か特別な理解が起こったという記述を見つけることもありませんでした。
大抵の人が言っているのは、非二元の話を聞いたり、読んだりしているうちに自然に理解したということです。
私はメルボルン滞在中、セイラーボブに、「理解するとはどういうことなのか」ということを何度も聞きました。
「あなたのおっしゃる事は知的には理解できます。でも、本当の理解が起きません」と。
でもセイラーボブはたいてい、
「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? 2+2は4でしょう?」という感じで、理解すると何かが起きるとか、知的な理解以外の何か特別な理解について語ったことはありませんでした。
周りの関係者に聞いても、「ボブの教えていることは真実だよ」というばかりで、論理的な説明や、科学的な証拠を示してくれた人は一人もいませんでした。理解した時に何かが起こったという人もいませんでした。
セイラーボブがいつも
「答えはマインドの中にはありません」と、あれほど繰り返し言っているのに、私はその本質的な意味を理解できず、あちこちと探しました。
その本質的な意味を理解するのに、4年かかりました。
「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠を探しても、それはどこにもありません。セイラーボブの教えを理解するために、いくらマインドの中を探しても理解できないということに気づきませんでした。
セイラーボブの教えを理解できない多くの人は、エンライトメント(覚醒)が起こったらセイラーボブの教えを理解できるはずだ、何か特別な体験が起きるはずだ、と思っていますが、セイラーボブはエンライトメントなんてないと言い、特別な体験について語ったこともありません。
また、ある人はニサルガダッタ・マハラジや、ラメッシ・バルセカールの本の中に何か答えがないだろうかと、彼らの本を読み始めますが、そこにも答えはありません。他の非二元の師の本を読んでも、そこにも答えはありません。
なぜなら、答えはあなたの中にしかないからです。
もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。
誤解を恐れずに書きますが、セイラーボブの教えを本当に理解するという意味は、直感的な理解です。マインドではなくて、ハートの理解です。
セイラーボブの教えを読んで、「これは真実だ」と心の底から感じたなら、それが理解できたということです。
それは、無理やりそれが真実だと信じるということではありません。無理やり信じることと、心の底から確信することとでは大きな違いがあります。
心の底から確信しているということは、教えに対して、もう二度と疑いや迷いが起きず、それが事実であると確信しているという意味です。
その確信は、さんざん探して、自問して、もうマインドの中には探す場所がないという地点まで行かないと、起きないのではないかと思います。私はそうなるのに4年かかりました。
その確信には、論理的な説明や、科学的な証拠は要りません。理由は不要です。だからこそ誰も人には説明できないし、非二元について書かれた本をたくさん読んでも理解が起きないのです。
セイラーボブは、ジェームズ・ブラハとの最初の電話での会話の中で、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。と語っています。この理解には、理由は不要です。セイラーボブは、"Ring a bell?"(ピンときましたか?)という表現を使う時もあります。
真っ赤な薔薇を見て、美しいと感じるのに、何か論理的な説明が必要ですか?
誰かと恋に落ちる時に、何か論理的な説明が必要ですか?
そうしたことは、ハートの中で直感的に起きることです。
セツさんは。「ただそれだけ」を8回読んで、もう十分にマインドの中を探しました。
答えはマインドの中にはないということを十分に理解しました。
そこで今、「ただそれだけ」も、私のブログもちょっと脇に置いて、自分に問うてみてください。
「セイラーボブの教えていることは果たして真実なのだろうか?」と。
もし、「真実だ」と確信できるなら、本当に理解したということです。
「真実とは思えない」と思うなら、機が熟してないか、縁がなかったということです。
もしこれ以上、マインドの中に答えを探そうとするなら、「汝それなり」と言われて、12年間をマスターのもとで修業した人と同じ過ちを犯すことになります。
セイラーボブもニサルガダッタ・マハラジも、彼らの話は7~8回聞けば十分に理解できる話だと言っています。私もそうでしたが、考えすぎて、難しくしないでください。