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2024/11/22

以前ケンさんからいただいたおたよりについてもう一度

以前このブログにいただいたケンさんからのおたより。それを時々思い出して考えることがあります。
「私」が実在ではないのなら、そこには何があるのか。セイラーボブが知性エネルギーと呼ぶものは何なのか? 多くの非二元の教師がアウエアネス(意識・あるいは気づき)と表現するものは何なのか? いくら非二元の本をあれこれ読んでも、結局はそれは私たちが確認することも理解することできないものだというような説明に行き着くだけです。
それ以上の説明を聞くと、ケンさんが言われたように、それを「我」の置き場にすることは避けられないような気がします。

非二元の教師の中には、「『私』は思考の産物であり、実在しない」というところまで説明して、それ以上の説明をしない教師もたくさんいます。時々思うのですが、非二元の教えの一番大切なところは、「『私』は思考の産物であり、実在しない」ということだと思います。説明はそこで終わりにしてもいいような気がします。これは私の勝手な解釈ですが、仏教もそこをゴールにしていて、それ以上のこと(そこに何があるのか)を説いていない気がします。

それ以上のことを説けば、神話や想像の世界に入って行かざるえません。
非二元は宗教でもカルトでもなく、日々の生活に役立つ実践的な教えだと思うし、そうあるべきだと思います。だとすると、「『私』は思考の産物であり、実在しない」ということの理解だけで十分ではないかと思います。それ以上の理解を手に入れようとするのは無駄であり、危険でさえあるような気がします。多くのカルトマスターたちが、あたかもそれを手に入れられるもののように説いて多くの人を誤らせた歴史を見ればわかることです。

セイラーボブの言葉であっても、例えば「知性エネルギー」という説明を鵜呑みにする必要はなく、神話として片付けてもいいし、別の解釈もあっていいと思います。
私はといえば、「『私』は思考の産物であり、実在しない」という理解までで終わりにしています。「私は実在しない」ということは確信を持って理解しました。でも、それ以上のことは知らない。そこには何があるのか。それは何なのか。それは誰にもわかりようのないことだと思います。U.G.クリシュナムルティが言うように、意識なんてものがあるのかどうかも疑ってみる必要がある。

2024/09/20

返事のおたよりをいただきました

拓さん早々のお返事ありがとうございます。
そして、ややこしい気分にさせてしまい申し訳ございませんでした

> 私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いているつもりです。
> 要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また、確認と理解の
> くだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のようなことは起きな
> いと言いたいだけです。
> 理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得すればいいのだと
> 思います。

はい、拓さんがブログで書かれていることの要点は上記である点は承知しています。

> 「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいることに対して、そ
> んな自分はいないということを言いたいだけです。

はい。私もそのように思います。

> 説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていいと思います。ま
> た、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実在しない」とい
> う基本さえ外れていなければ。

はい、そのように私も思っております。
的確に表現出来ず、かえって混乱させてしまったようで大変申し訳なく思います。拓
さん書かれていること・表現への批判ではありませんでした。

例えば、私が気になったのは『ただそれだけセイラー・ボブ・アダムソンの生涯の教
え』に書かれている以下のような表現です。

・P94、3行目から
「…本当の自分とは非顕現であり、純粋な本質であるという観点から…」
・P96、7行目から
「…しかしその本質は非現象であり、決して変化したことがないのです…」
・P99、2行目から
「…そのときあなたは、今ここ、明澄で空っぽなこの意識の中に残されるのです。そ
れは心の中で進行してきたいかなる物語や試練によっても汚染されたり傷つけられた
りしたことがありません。その生きた本質は一度も触れられたことがありません。そ
れは一なる本質です。それは決してその本質を変えたことがありませんでした。」

その他の箇所でも、これは私そのものなので、目が目それ自身を見ることができない
ように、対象として見つけることはできない、思考が止んだ時に理解されるもの、と
いう表現もたびたび出てくると思いますが、「非顕現、非現象なる1なる本質」とい
う表現をすると、頭はどうしてもそのようなものが存在すると思って探してしまう
し、さらに「それは見つかるものではない、理解されるもの」との説明が加わると、
かえって混乱するのかな、という疑問でした。
私自身、しばらく非顕現、本質なるものを探し続けて疲弊したくちなので。
私なりの実感では「本当の自分」「本質」というものは確認できませんし、ただいま
ここで現象が流れているだけですので。
思考や言葉なしでも、風は吹くし、呼吸は起きているし、雲は流れるし、心臓は鼓動
しているし、人に呼ばれれば即座に「はい」と返事が出るし、現象はとどまらず自ず
と変化していく、ぐらいの表現のほうが、実際の感覚で確認できるので混乱しないの
かなと感じた次第です。
全体としてボブさんが書かれていることはよく理解できますし、基本的にはそのとお
りだと感じていますので、上記のような表現が私的に気になったということでした。
これは表現の仕方の違いなんでしょうね。しっくりくるかどうかの

お騒がせしましてすみませんでした。
やりとりさせていただき、どうもありがとうございました。

ケン


************

おたよりをありがとうございました。
時々、自分が死んだら全部の思考が停止して、何も感じなくなるのは寂しいなと思うことがあります。いくら小さな波が海に帰るだけだと言われても、もう架空の「私」を感じることもできないのは寂しい気がします。
そこにアウエアネス、あるいは知性エネルギーと呼ばれるようなものがあったとしても、肉体がない以上、それを感じることも表現することもできないと思います。
でも、それも全部、今現在人間という参照点から見た想像なのであって、実際そこに何があるかは、誰にも解きえない永遠の謎だと思います。
このあたりの話は非二元の教師によって味付けの仕方がまちまちなので、あまり深く考えてもしょうがないと思います。
「私は実在ではない」とだけ理解すれば十分かなと思います。
おたよりどうもありがとうございました。

2024/09/19

おたよりをいただきました

拓さんはじめまして
拓さんのブログ、興味深く拝見いたしました。
このような真剣な情熱を感じられるブログに出会えて感謝です。

私はここ17年くらいクリシュナムルティやガンガジ、ダグラスハーディング、マハラ
ジ、原始仏教などの著作をつらつらと好き勝手に読んで探求してきている者です。
つい最近、セイラー・ボブ・アダムソンさんの言葉に触れ、こちらのブログを発見し
拝読させていただきました。
「悟り」というものはない、というメッセージは本当に力強く、私のような探求の最
中にあるものにはすがすがしく響きました。

私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象であり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
「本当の私」というものも実際は確認できませんし、もちろん非現象としての私も確
認できませんし、かえって混乱するのかなと。

拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょうか?
単に私に理解が起きてないからでしょうか?
あるいは、語りかける相手の状態を想定した方便としての表現なのでしょうか?
ふと気になったのでお便りさせていただきました。

よろしくお願いいたします。
ケン

*********

おたよりありがとうございます。
とても難しい内容で、どうご返事したらよいのかよくわかりませんが、一応何かご返事をと思い書いています。

非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。

私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いているつもりです。要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また、確認と理解のくだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のようなことは起きないと言いたいだけです。理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得すればいいのだと思います。

多くの非二元の教師たちは、「私は実在ではない」以上終わり、という人が多く、主体や客体という話を持ち込まない人も多いので、その方がわかりやすいのかなと思います。非二元の教えの核は「私は実在ではない」ということなので、それさえしっかり説いていれば、あとはそれぞれの教師の味付けだと思います。

拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょうか?

「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいることに対して、そんな自分はいないということを言いたいだけです。「意識だけがある」と言ってしまうと、それは誰の意識なのか、その主体は何かとなってしまう恐れがあります。実際にはそれを「意識」と呼ぶことさえ一種の観念化であって、そう呼ぶべきではないのかもしれません。仏教がいうように、そこには何もない。空だというべきかもしれません。

何もないと言ってしまった方がすっきりすると思うのですが、人間という参照点から見た場合、そこには世界を投影している何かがある気がするので、仮に「意識」という言葉を使っているにすぎません。もし、人間という参照点を離れれば、そこには何があるかは誰もわからないし、何とも表現しようもない気がします。U.G.クリシュナムルティは「意識なんてものはない」とさえ言っていたと記憶しています。

意識についても、そんな説明をしない非二元の教師も多くいます。私はセイラーボブから非二元を学んだので、意識やアウエアネスという言葉を使っていますが、実際それは何なのかと聞かれても、答えようがありません。また、それを答えることができる人がいるとは思えません。

私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象であり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、

そのように理解されているのなら、それで十分だと思います。私のブログが、その理解をかえってわかりずらいものにしているのなら、申し訳なく思いますが、ケンさんはもう十分に非二元を理解されていると思います。主体や客体という説明に違和感を感じてみえるなら、その説明は無視してください。「私は実在しない」ということさえしっかり理解してみえれば、あとの説明は不要だと思います。

時々自身のブログを読み返してみて「意識」という言葉は良くなかったなと思うこともしばしばです。でも、セイラーボブが「awareness」という言葉を使うので、その都合上、「意識」と訳して書いています。

私は、思想の体系や説き方は全く違うけれど、佐々木閑先生の教える仏教も師事しています。そこでは、「意識」や「主体・客体」という言葉も説明も出てきませんが、「私は実在しない」という基本だけは非二元の教えと同じだと思って師事しています。説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていいと思います。また、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実在しない」という基本さえ外れていなければ。

お便りの返事としてはピントがずれていて、何の返事にもなっていないかもしれませんが、難しい内容なので、とりあえずこれでご返事とさせていただきます。

2022/06/21

おたよりをいただきました。

前野隆司さんの本、さっそく図書館で借りて数冊を立て続けに読みましたが、とても面白いですね!「錯覚する脳」がとてもわかりやすく、どうせイリュージョンであるなら大いに楽しもう、という明るいメッセージも最高でした。

また「死ぬのが怖いとはどういうことか」の第八章(あなたというメディア)がとにかく痛快でした。いわゆる「私はいない」の前野さん流説明とでもいいますか、なんだか笑いが止まらないような愉快な気分で読みました。

一瞥体験やエンライトメントといった特別な体験は不要で、知的に論理的に理解をして「腑に落ちる」ことで十分であることが、前野さんを見ているとよくわかりますね。前野さんの著書と出会うきっかけを与えてくださり、ありがとうございます。

仏教の表現ですと正直敷居が高く感じられて、頭にすっと入ってこないことも多いのですが、前野さんの語り口はすーっと読み進められました。

よろしくお願いいたします。
ヒロ

********

おたよりの内容は6月15日のブログ( 脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳 )についてです。

ヒロさん、おたよりありがとうございます。
私も前野さんの本に好感を持ちました。非二元を語る人の多くは、体験(一瞥体験や覚醒体験)を持ち出すために、多くの人に誤解を与えてしまっています。前野さんは、体験ではなく、科学として「私」は幻想である。ということを説いてみえるのがすばらしいと思います。

また、世界が幻想だとわかっても、「どうせイリュージョンなのだから、楽しもう」という姿勢も好きです。非二元の教えを学んで、「私はいない」で終わってしまうと、人生を厭世的に見てしまいがちですが、「どうせイリュージョンなのだから、楽しもう」と言われると、なんだか楽しくなります。

こうやって科学的に説明してもらうと、非二元や仏教で使われている説明は、なんだか遠回りのような気さえします。もっともっと科学からの証明が増えて、「私はいない」ということを、いわゆる精神世界経由ではなく、科学的に理解する人が増えてくるといいなと思っています。

「死ぬのが怖いとはどういうことか」はまだ読んでいないので読む予定です。

2021/06/03

おたよりをいただきました。

拓さん、こんにちは。

以前、何度か質問等させて頂きました、セツと申します。

5月18日の記事で、拓さんが今後読む予定の本ということで、仏教のキーワードをいくつも挙げておられましたが、その中に僕の好きな浄土系のものがなかったので、僭越ながら僕が繰り返し読んでいる本を2冊紹介させて頂こうと思い、メールを書いております。

・「親鸞と一遍 日本浄土教とは何か」(講談社学術文庫) 竹村牧男著

・「法然親鸞一遍」(新潮新書) 釈 徹宗著

大乗仏教が大衆を救うものであるならば親鸞・一遍の念仏はそのひとつの極みだと僕は感じています。拓さんの読書がひと段落つく時があったら是非読んでみてください

セイラー・ボブさんをはじめとして、非二元の教えに僕が惹かれた理由はやはりそのシンプルさだったと思います。その教えを理解された拓さんが唯識に注目されたのは僕には意外でした。僕みたいな短気な者には、唯識はまどろっこしくて学びを進められません。大乗仏教の基本としては「八不中道」がシンプルで僕は惹かれます。

拓さんのブログに新しい記事がアップされる日を楽しみに待っています!

不躾な乱文を失礼いたしました。

おたよりをありがとうございました。
教えていただいた二冊の本もぜひ読みたいと思いますが、読むべき本がたくさんあって、ちょっと先になるかと思います。

なぜ私が仏教関係の本を読み始めたかというと、それはギルバートからのアドバイスによるものです。以前、ギルバートとビデオチャットで話をした時に、仏教関係の本を読むといいというアドバイスをもらいました。もちろんそれは、非二元の教えの理解の一環としてのアドバイスでした。

ただ漠然と仏教関係の本というのではなく、具体的に何を読むといいかを教えてもらいましたが、その当時はセイラーボブの本を翻訳出版できないかと、毎日翻訳する事に忙しい時期で、仏教には取り立てて興味をいだきませんでした。

その後、翻訳出版をあきらめ、ブログも休止してから、何か物足りなさを感じて、ギルバートのアドバイスを思い出して読んでみたところ、そこにはすばらしい世界が広がっていました。

今せっせと読んでいるのは、大乗仏教の唯識思想とその周辺の本です。何冊か読んで感じたのは、その教えや世界観はすばらしいのですが、やはり宗教なので、修養や修行、善行みたいなことに重点を置いている部分もあって、その辺はちょっと受け入れがたい部分もあります。

修養や修行、善行でなんとかなるなんて全然思っていませんし、その辺はまったく賛同していません。すばらしいと思うのは、その前提となる唯識の思想そのものです。

たくさん読んで、唯識全体を理解してからブログを再開しようと思っていたのですが、唯識全体の理解は難しいし、仏教学者や学僧になろうとしているわけではないので、そこまでしなくてもいいのではと思う今日この頃。

答えはもうすでにわかっていて、「非二元の教えと仏教 (唯識) の教えは、根本的には同じことを教えている」ということです。ブログを書くために、その裏付けとなる範囲だけ理解できればそれでいいと思うようになりました。

それならそれほど時間はかからないだろうと思ったのですが、見慣れない漢字の仏教用語を理解しながら読むのは大変で、ゆっくりとしか進めません。

年内は充電のためこのブログをお休みして来年の一月一日に再開予定です。それ以前に再開する場合は、少なくとも再開の一か月以上前に、このブログ上で再開の告知をさせていただきます。

2021/05/21

おたよりをいただきました。

拓さんへ

読者の方からお礼や理解できました等のメッセージがほとんどないとのことですが、それは日本人特有のシャイさ故では?と推察します。
拓さんのブログの熱心な読者であれば、解説のわかりやすさと丁寧さ、情報の豊富さ、それらを惜しみなくシェアしてくださっていることに、感激し感謝を感じていることと思います。

「セイラーボブアダムソンの教え(詳しく)」シリーズ記事をすべて紙にプリントアウトして、「ただそれだけ」とセットにして繰り返し読んでいます。誰もがつまづきやすいポイント(実感が持てないことや、本当に理解だけで良いのか?等)についても拓さんの実体験と照らし合わせながら懇切丁寧に説明してくださり、それがセイラーボブの教えを理解する上で、実に有益な手助けとなっています。
ギルバートとカタリーナのぶっちゃけトークのくだりも秀逸で、かゆいところに手が届く非常に分かりやすい説明で、本当にありがたいです。
また、セイラーボブおよび拓さんの解説を自分なりに理解した上で、あらためてラメッシ・バルセカール著「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」を読んでみると、ビフォーセイラーボブのときに読んだ際はいまひとつ理解できなかった点が今度はスムーズに理解できる感覚がありびっくりしました。そして「エンライトメントなんてものはなくて、直感的理解こそが悟りである」とはっきり書かれていることを再確認しました。
また「私という存在が実在なのかどうか自分で調べる」を折に触れておこなってます。布団の中やコーヒーを飲みながらするのですが、ハッ!とした閃きや気付きがありとても面白いです。確固として実在すると思っていた「自分」って、よくよく調べてみると不確定で流動的であり、物質やら観念やら記憶やら日々生まれては置き換わってゆく雑多な要素・パーツで構成された暫定的プロジェクトみたいなものでした・・・。
拓さんのお父様のエピソードもとても印象的なポインターとなりました。
本に書かれていることを闇雲にただ信じ込むのではなく、自分自身であれこれ思案を巡らせたのち辿り着いた閃きは、確かに確信となりますね。

本を読んでいる最中、あるいは「自分で調べる」ためにマインドを使って熟考したり思案しているなかでふとやってくる「ハッ!としたふいの直感的理解」というのは、(行為者なしの)「見ること」「聞くこと」などの純粋な認識活動と同じく「(行為者なしの)純粋な理解」だな、とも思いました。
「私という主体がこの本を読んで教えを理解する」でなくて、機が熟したときにふと「(私という行為者なしの)直感的理解がただ起きる」ということかなと。
そのことに気付いたときに、「エンライトメントという体験ではなくて、(知的)理解で本当にいいのか?」という問いへの答えがもたらされたような気がしました。

拓さんの書かれる文章は論理的でかつ読みやすく分かり易く、実体験から産み出されたリアルな言葉で、胸に響きます。ギルバート氏が言われたように、翻訳ではなくて、セイラーボブを完全に理解された拓さんとしての、ご自身独自の言葉・メッセージを一冊の本にまとめられてはいかがですか?
なんて差し出がましいことをいってすみません、そのくらいの魅力が拓さんの文章にはあります。

話は変わりますが、私は20代の頃(1990年代)東南アジア中心にバックパッカー的な旅をしていたことがあり、拓さんの世界旅行記のミャンマーやジョグジャカルタの記事を拝見してとても懐かしく思い出しました。
バガンのパゴーダに登って眺めた夕陽は最高でした。コロナが収束したらまた東南アジアを旅したいです。
私も、セイラーボブの教えを理解し真実を見抜いて、その上で「神様がくれた魂の一番おいしいところ」を余すところなく堪能しながら、深刻さにとらわれずspontaneouslyになるべく軽やかに生きていけたら、と思います。

追伸:
長々とすみません。的外れなことを書いているかもしれませんが、読み返しているうちにメッセージを送信する勇気がなくなってしまうかもしれないので、勢いのままに送信しちゃいます!
非公開希望というわけでもないですが、かといって公開希望でもなく、拓さんにおまかせいたします。

よろしくお願いいたします。
ひろ

おたよりありがとうございました。ラメッシのくだりは他の方にも参考になると思ったので公開させていただきました。

セイラーボブは、話を初めて聞きに来た人には" Ring a bell?"(ピンときましたか?)と気軽に聞いていました。そのため、理解するということは、それほど大げさに騒ぐようなことでもないのかもしれません。もちろん今だから言えることですが。

私が「知的にはわかるのですが・・・」とシリアスな顔で答えるとボブは「知的に以外にどんな理解がありますか?」と言ったものです。

「私は実在ではない」ということについては、仏教の唯識の思想でも同じことを教えていて、そこではかなり理論的に説明されています。最近読んだ本の中でわかりやすかったものを書いておきます。

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

2021/05/18

おたよりをいただきました。

20年に及ぶスピリチュアルの探求(そして幻滅)ののち、ここ数か月ほど非二元の分野に興味をひかれ、ラメッシバルセカールやダグラスハーディング、ニサルガダッタマハラジなどを読み、「ここには真実が書かれている」という謎の確信を感じつつも、同時に理解する難しさを感じていました。そんなときセーラーボブの本を読み、「この人の説明はとてもわかりやすい!」と感激し、拓さんのHPにたどり着きました。そして拓さんの解説があることにより、セーラーボブが伝えようとしていることがより鮮明にクリアーに、そして、な~んだそういうことか~と「普通に」理解する事が出来ました。すばらしいHPを作成して下さり、それをこうして無料でシェアしてくださり、本当にありがとうございます!どうしてもひとことお礼を述べたくてメッセージ送りました。これからもっと読み込んでいけるかと思うと、喜びがじわじわとわきあがってきます。

よろしくお願いいたします。
ひろ

おたよりをありがとうございました。
こういうお礼のおたよりをいただくと、とてもうれしいです。何年もの間、せっせとブログを書いてきましたが、お礼や、理解できたというおたよりをいただくことはほとんどなく、ブログを書くモチベーションも下がり、そろそろホームページ化しようと、3月に休止したところでした。

やっとこういうおたよりをいただけるようになったと喜んでいます。
がんばってまたブログを再開しようと、モチベーションが上がりました。

ついでに私の近況を書いておきます。
その後、毎日せっせと仏教関係の本を読んでいます。

驚いたことに、そうした本を読んで、根本的にはセイラーボブと同じことを説いている人や経典がたくさんあるということを知りました。長年、スピリチュアルの本を読んできたつもりでいたのですが、仏教は形骸化した宗教に違いないと決めつけて、その方面の本は全く読んできませんでした。

でも、仏教関係の本の中で、「あるのは意識だけである」「私は実在ではない」「実在としての物は存在しない」「一切は空である」「主体と客体はなく、一つのものである」というフレーズをたくさん見つけました。そして、仏教で説いている悟りも、エンライトメントや覚醒ではなく、理解であると確信しました。

今せっせと本やサイトを読んで学んでいるのですが、使われている仏教用語が難しかったり、解説する人によって微妙な違いがあったりして理解するには時間がかかるため、ブログに書くのは、しばらく先になると思います。

参考になればという思いで、今後読む予定の本のキーワードを書いておきます。

龍樹(りゅうじゅ)、中観(ちゅうがん)、唯識(ゆいしき)、世親(せしん)、唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)、唯識二十論、法華経、華厳経(けごんきょう)、楞伽経(りょうがきょう)、達磨、黄檗(おうばく)、六祖檀経(ろくそだんきょう)

唯識(ゆいしき)とは読んで字のごとく、「ただ意識だけがある」という教えで、それが大乗仏教の根本思想であり、その教えが今日でも仏教の中で脈々と受け継がれています。「ただ意識だけがある」と聞いただけでもセイラーボブの世界を連想してワクワクしてきます。ブログ再開後はこうしたキーワードを中心に書いていく予定です。

2020/07/25

おたよりをいただきました。

マハルシやデイビット・ゴッドマンについては、どう評価していますか?


よろしくお願いいたします。
田中


デーヴィッド・ゴッドマンの編集したマハルシの本「あるがままに」は読んでいません。「プンジャジ炎の教え」は読みましたが、プンジャジに興味は抱きませんでしたし、その編者であるデイーヴィッド・ゴッドマンのことはほとんど何も知りません。

ラマナ・マハルシの本は、もうずいぶん昔に読んだ記憶があります。
本が手元にないので正確ではないのですが、私が読んだのは、「ラマナ・マハルシの教え」山尾山省訳と「南インドの瞑想」おおえまさのり訳だったと思います。

内容は全く覚えていません。当時の私は、非二元という言葉さえ知りませんでした。
今年になって、U.G.クリシュナムルティの本を読んだ時にマハルシの名前が出てきたので、ネットでラマナ・マハルシについて調べて初めて、彼の教えも非二元という分類に入る教えなのだと理解した程度の知識しかありません。

そういうわけで、マハルシにもデーヴィッド・ゴッドマンにも、特別な評価を持っていません。

おたよりをいただきました。

ツイッターやってますか?

SNSやってますか?
Youtubeやってますか?
メルマガ発行されてますか?
オススメの本は、ありますか?
よろしくお願いいたします。

ツイッター、YouTube、メルマガはやっていません。Facebookはやっていますが、セイラーボブのミーティングを見る以外には使っておらず、自分で投稿することはまずありません。

おすすめの本は、セイラーボブのものとしては、以下の四冊。詳しくは資料室で。
「ただそれだけ」
「Living Reality」
「Presence Awareness」
「What's Wrong with Right Now?」

ギルバート・シュルツのものとして。
「SELF AWARE」
「SELF ILLUMIINATION」

あれこれと手を出して読むよりも、「ただそれだけ」を何度も読むことをおすすめします。
また、このブログの「セイラーボブの言葉」「The Spiel」を何度も読むことをおすすめします。

ひとたび理解してしまえば、もうあれこれ読む必要はありません。理解はあれこれと読む量には比例しません。やるべきことは「自分が実在かどうかを自分で調べる」、それだけです。

それを理解したら、何か特別なことが起きると期待しないでください。
何も起きません。それでもあなたの日常は今までとは全く違うものとなります。
理解がすべてです。

おたよりをいただきました。

 Takuさん、こんにちは。

毎週楽しみに拝見しております。
質問させて下さい。
今回はU.G.クリシュナムルティの翻訳を読ませていただいておりますが、彼の特殊な体験(私にはそう思えますが)を記事にされたのにはどのような意図があるのでしょうか?
セイラーボブさんや、Takuさんは特殊な体験などはあまり取り上げられていなかったと思いますが。
よろしくお願いいたします。


セツ 

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おたよりありがとうございます。

私は、セイラーボブが言うように、エンライトメントはないと思っています。
非二元の師たちが説いていることは、エンライトメントではないと思います。

エンライトメントを説くグルやマスターはインチキだという思いに変わりはありません。
でも、そうだとすると、仏陀やその他の聖人たちが言っている状態は何なのだろうという疑問はずっと持っていました。  

仏陀やラマナ・マハリシ、J.クリシュナムルティがインチキな人だとは、とうてい思えません。
U.G.クリシュナムルティの本を読んでから、ひょっとすると、本当の意味での「エンライトメント」はインチキグルたちが言っているような状態ではなく、もっと別の状態なのではないだろうかと思うようになりました。

そう考えると、今まで釈然としなかった部分が埋まったような気がしました。
 U.G.クリシュナムルティ の言う状態を理解することはできないし、それが本当かどうかを確かめる方法はありません。

セイラーボブは、U.G.のような経験を語ったことはありませんし、そういう体験はしていないと思います。
私はU.G.の本を読んでからも、セイラーボブに対する思いは少しも変わりませんし、理解がぐらつくこともありませんでした。

セイラーボブの教える非二元は、エンライトメントではないし、何かを体験することではありません。
ただ、そのこととは別にU.G.の言うようなことも、ひょっとするとあるのではないかと思います。そういったことを考える材料としてブログに掲載しました。

U.G.については今後まだまだブログに掲載予定です。
U.G.が何を語っているかは、この先のブログで読んでください。
それを読んでいただくと、U.G.の語っていることは非二元そのものだということがわかると思います。

私は、特殊な体験に興味があるのではなく、U.G.の語っている内容に興味があります。
U.G.は、何かになることを追い求めることの無益さを説き、精神世界の探求や修行に時間を費やすのはエネルギーの浪費だと語っています。

私も全く同感で、私のブログを読んでいる人たちが、人生を浪費しないで欲しいという思いもあってU.G.のことを書いています。


私は、ありもしないものを探して人生の多くの時間を無駄に費やしてきました。
もし、セイラーボブに出会わなかったら、未だに何かになろうともがいていたと思います。

一人でも多くの人にそのことに気づいて欲しいという思いでこのブログを書いています。

2019/09/03

おたよりをいただきました。

拓さん、こんにちは。ブログを楽しく読ませていただいております
いくつか疑問に思ったことがあったので、質問させていただきます
短くても結構ですので、可能でしたらご回答をお願いいたします。
質問が長いので一度に送れるかどうか不明ですが、とりあえず、送ってみます。

(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。それらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」といった要旨の記載があります。


そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないということ等についての確信」ということでしょうか? そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどうやったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられるのか)」ということを探してしまう気がします。

それについては、「(私がいないこと)等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わることもある」という理解でいいのでしょうか?

(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまうのだと思います。 


もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらないのだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分になってしまいます。 


2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それはその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになってしまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効ではないような気がします。

(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。』という記載があります。


結局、自分で自分を見ることはできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか? そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というものにも実体はないということ』でよいでしょうか?

(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。
もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。』という記載があります。

しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差がよく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。もし同じだとすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾していても気にしなければ無問題ですが)。

「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということであったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に)理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょうか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。

以上、よろしくお願いいたします。

波平


波平さん、おたよりありがとうございます。

私は、いつか誰かが、今日波平さんからいただいたような質問を送ってくださるのではないかと思っていました。
波平さんと同じように、ブログに書いていることが矛盾していると思ってみえる人が大勢みえるのではないかと思います。

セイラーボブの教えを理解するとはどういうことなのかは重要なポイントなのですが、それを書く前後の脈絡や、書こうとしている内容によって、表現が変わります。
自分の中では矛盾しているつもりはないのですが、どこを強調するのか、誰に向けて書いているのかで表現が変わってしまって、一見矛盾したものになっています。

書いていても、(この表現は以前書いたことと矛盾するなあ)と思いながら書いているのですが、強調したいポイントや、想定している読者によって、矛盾してもしかたがないと思って書いています。

表現が矛盾していても、(ああ、そういうことだったのか! わかったぞ!)という人が一人でも多くいてくれればいいかなと思って書いているつもりです。

最初にわかっていただきたいのは、セイラーボブの教えを理解するやり方に決まったやり方なんてないということです。
私のブログは、セイラーボブの教えを理解するための材料を提供するためのブログです。

私のようなやり方で理解しないといけないとか、理解したらこうなるということを書いているつもりはありません。
どんな理解の仕方でもかまいません。「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということが理解できればいいだけの話です。

質問に具体的に答えていきます。

(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。それらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」といった要旨の記載があります。


そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないということ等についての確信」ということでしょうか? 

そうです。私はセイラーボブの教えを知的に(もしくはマインドで)理解した後でも、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。でも、ギルバートやカタリーナの話を聞いて、そんな体験は起きないということを知りました。れまでは、自分の理解に自信が持てませんでしたが、それを聞いて自分の理解で間違いないと確信しました。

そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどうやったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられるのか)」ということを探してしまう気がします。

探してしまうということなら、「確信」という表現を使わなかった方が良かったのかもしれません。本当に理解して、疑いも起きず、もう揺るがないということを表現したかったのでそう書いたのですが、「確信」という言葉をやめておけば良かったと後悔しています。セイラーボブは、「確信」とか「実感」ということを言ったことはなく、「理解がすべてだ」と言っています。

れについては、「(私がいないこと)等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わることもある」という理解でいいのでしょうか?

そういうつもりで書きました。でも、多くの人がセイラーボブの教えを理解していても、確信がないと思っています。確信がないというのはどういう状態なのでしょうか?
確信がないということは、理解が不十分なのか、もしくは私と同じように、理解したら何かが起こるのではないかと心のどこかで思っているのではないでしょうか?

私は確信という言葉を使いましたが、理解だけで終わりにしておくことも可能でした。でもそうすると、一部の人は「それじゃぁお前はセイラーボブの言うことを信じているだけじゃないか」と思われるのではないかと思いました。

信じているのではなく、(それが真実に違いない。そうとしか思えない)という思いを込めて「確信」という言葉を使いました。
多くの人は宇宙空間から地球を見たことはないのに、地球は丸いと知っています。これは信じているのではなく、確信だと思います。
それと同じ程度だということを表現したいと思って確信という言葉を使いました。
でも、よくよく考えると、理解=確信なのではないかと思います。

(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまうのだと思います。 

れが、私を含めて多くの人がはまる罠だと思います。セイラーボブの教えを理解しても、何も変わらないし、何かが起きるわけではありません。
ただ一つ起きることは、「私」は実在ではないという理解であり、それが解放をもたらすものです。

もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらないのだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分になってしまいます。 

本当の意味での理解とは、「非二元の教えが真実であり、もう迷うことも探すこともない」という状態であるという意味で書きました。でも、ちゃんと理解したら、それが本当の意味での理解なのだと思います。「本当の意味での理解」と書かないで、単に「理解」と書くべきでした。

私は二度のメルボルン滞在から帰ったあとでもまだ揺れ戻しがあって、何か特別な理解があるのではないかと探していました。
入手可能な本を全部読み、YouTubeを何度も見ているうちに、そんなものはないと知り、もう迷うことも探すこともない地点に到達しました。

理解の起こり方は人それぞれだと思います。私のブログを一回読んで、これは真実だと思う人もいれば、続けて読んでいるうちにだんだんと真実だと思うようになった人もいると思います。極端なことを言えば、何の理由もなく直感でセイラーボブの教えは真実だと受け入れることができる人もいると思います。理由なんて要りません。

「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」ということはありません。

私たちが、実際に非二元の世界を垣間見ることも体験することもできない以上、絶対的な確信があるとは言い切れないのもやむえないのではないでしょうか?

人の理解の仕方や程度は様々です。ジョン・ホィーラーのように、セイラーボブ関連の本を何冊も出したあとでボブの前から姿を消した人もいます。ジョン・ホィーラーはセイラーボブの教えをよく理解していたし、彼の説明はわかりやすいものでした。

いくら地球は丸いと理解(確信)していても、実際には、大気をどけると地球は正確な丸ではなく、あちこちがゆがんだ楕円形をしているのだと聞いて、「え~!」となってしまいます。人間の確信なんて、その程度のものではないでしょうか。

理解だ確信だと言ってみても、結局それはマインドにエサを与えているだけで、本当の理解は、もっと直感的なもののように思います。

2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それはその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになってしまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効ではないような気がします。

12年間、マスターのもとで修業した人は、ふたたびマスターから「汝それなり」と言われて、絶対的な確信を得る方法、体験なんてないとわかったのではないでしょうか。
まだ何かが足りないと思っているうちは、「汝それなり」で終わりとは思えないのではないでしょうか。

どんな方法でも構わないので、セイラーボブの教えていることが正しいと思えて、もう疑いも揺れ戻しも起きない地点に到達すればいいとだけのことです。

「汝それなり」と言われて、(そうは思わない)と感じるか、(そのとおりだ)と感じるかの違いです。(そうは思わない)と感じるなら、ちゃんと理解していることにはならないと思います。

(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。』という記載があります。


結局、自分で自分を見ることはできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか?

そうです。
LIVING REALITYの中で、「アウエアネスは理解するものではなく、在るものだ」「思考が止まっていてもあなたは在る」という内容のことを言っていたと思います。どこに書いてあったか今すぐに出てこないので、正確な引用ではないのですが。

そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というものにも実体はないということ』でよいでしょうか?

そうです。付け加えるなら、今ここにある意識だけが実在であるという理解があれば十分だと思います。

(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。』という記載があります。

しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差がよく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。

同じつもりで書いています。

もし同じだとすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾していても気にしなければ無問題ですが)。

矛盾しています。申し訳ありません。
セツさんの質問に答えた時は、セツさんが何度も繰り返し「ただそれだけ」を読んでみえると聞いて、何か非二元の体験や特別な理解が起きることを期待してみえるような気がしたので、そういったことは何も起きませんよ、という意味を込めて「知的に理解すれば十分である」と聞きました。

でも、この書き方は良くなかったと反省しています。書き直すことはしませんが、もし書き直すとすると、「教えを理解して、それに対して何の疑いもなく、それが真実だと思え、揺れ戻しがなければ、それが理解したということです」としたいです。

私がセイラーボブに、「知的には理解できるのですが・・・」と質問した時、セイラーボブは私に、「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? (知的な)を取りなさい」と言いました。

「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということであったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に)理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょうか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。

念のために書いておきますが、「直感的な理解」という言い方は私が勝手に言っているだけです。セイラーボブの言葉で、あえて言うなら「ハートとハートの理解」です。

理解の仕方や、それがどんな風に起きるかは人それぞれでかまわないと思います。
ギルバートにはギルバートの理解の仕方があり、カタリーナにはカタリーナの理解の仕方があり、私には私の理解の仕方があります。でも、みんな「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということは理解しています。

マインドの理解、知的理解、実感、確信、直感、ハート。こういった言葉は、それぞれの人でそれぞれの解釈があるので、その言葉の裏にある本質みたいなものを理解していただけたらと思います。

理解の仕方は人それぞれでかまわないのです。
非二元の教えが真実であり、もう迷うことはないという地点まで到達できれば、どの道を通ってもかまわないのです。

私はこのブログで私の理解の過程を書いていますが、それは無視してもかまいません。セイラーボブの言ったことの翻訳部分だけを参考にするというのもありだと思います。

言葉での説明には限界があります。
例えば、「セイラーボブの教えを理解しても何も起きません」と私は書きましたが、もし、「セイラーボブの教えを理解すれば、考え方や物の見方が変わる」ということを言おうとするなら、「セイラーボブの教えを理解すれば何かが起きます」という表現になります。それは言葉の持つ曖昧さ、不完全さだと思います。

セイラーボブの教えを理解するということは、言葉の上でだけ理解するということではなく、教えが正しいと思えて、何の疑いも起きず、それが当たり前の真実と思え、二度と揺れ戻しが起きない状態です。
もしそうでないなら、教えを理解していないということだと思います。

そういう観点に立って言うなら、メルボルンから帰った時点での私は、セイラーボブの教えを理解していませんでした。
何がどう違うかと聞かれるとまた、確信とか実感とか、あいまいな言葉を使ってしまいそうになってうまく言えませんが、今は疑いや揺れ戻しはありません。

波平さんは、(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。
と書いてみえるので、セイラーボブの教えはもう十分に理解してみえると思います。セイラーボブの教えだけが非二元の教えだというつもりは毛頭ありません。

「確信」「本当の理解」という言葉を使ったために、かえってわかりづらいものにしてしまったかもしれません。「理解」という言葉で十分でした。

2019/07/30

おたよりをいただきました。

Takuさん、こんにちは。
僕は朝起きた時少し憂鬱です。睡眠が深くないので布団から起きだす前にはすでにいろいろ考え始めている感じで、さあ起きようという時にはすでに少し憂鬱です。

それでも以前と違うのは、セイラーボブさんやTakuさんのおかげで、余計な考えを横に置いておくということができるようになりました。

Takuさんは、「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。」と書いておられました。それは「理解」ということに関する大きなバロメーターのように思います。いま「ただそれだけ」を8回目を読んでいますが、まだまだ理解できていないようです。

セツ


「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。」と書いたのは、セイラーボブの教えを理解して何かが変わったからではありません。それまで何十年も探していた宿題をやり終えた解放感と、もう一つは、眠れても眠れなくても、全く気にしなくなったからです。

最近はまた、不眠症気味で、ほとんど眠れない日もたくさんあります。でも、それで寝起きが憂鬱になることはありません。寝起きが憂鬱だろうが、爽やかだろうが、全く気になりません。いつもと同じように一日を始めるだけです。

もし、今朝は熟睡したから爽快だ、と喜ぶと、それが今度は眠れない朝の憂鬱を生み出すことになります。信心銘を思い出してください。もし、良いとか悪いとか判断すると、マインドは天と地のごとく二元的に反対の極に動いて、はるかに隔たりを生むことになります。

セツさんは、「ただそれだけ」を8回読んでいるのに、まだまだ理解が起きていないようだと書いてみえますが、一体どういう理解を期待してみえますか?

セイラーボブの教えを理解したら、精神がスッキリするとか、毎日熟睡して爽やかに目覚められると勝手に思い込んでいるのではありませんか?
残念ながら、そういうことは起きません。

私もそうでしたが、人々はセイラーボブの教えを理解したら、憂鬱になったり、悩んだりすることがなくなるのではないかと勝手に想像しています。セイラーボブの教えを理解しても、憂鬱になったり、悩んだりすることは以前を同じように起こってきます。

また、セイラーボブの教えを本当に理解したら、何か特別な体験が起きるはずだと勝手に想像してみえるかもしれませんが、いくら期待しても、何も起こりません。

セイラーボブの教えを理解して起きることは、自分は実在ではないという理解から起きる精神的な解放だけです。憂鬱な気分や、煩わしい問題は今までと同じように起こってきますが、それは「私」に起こっているのではないという理解があるために、そうしたことに巻き込まれなくなります。

セイラーボブの教えを理解できた状態というのはどういう状態なのかについて具体的に書きます。

私は、二回のメルボルン滞在で、セイラーボブの教えを知的には完全に理解できていました。「知的には」という意味は、セイラーボブが何を言っているのかを理解できているという意味です。

「万物は一つものである」
「私は体でもマインドでもない」
「本当の私はアウエアネス、意識であり、空である」
「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」
「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」
「すべては概念であり、概念のラベルを貼り付けなかったら、そこでは何も起こっていない」

こういったセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。
でも、日本に帰ってしばらくすると、(でも、それは真実なのだろうか?)という疑いが湧いてきて、確信、実感がありませんでした。

「私は体でもマインドでもない」や、「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」といったことは、自分で調べて理解することができます。それを理解する材料はこのブログの中に十分な量があります。

でも、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」といったことは、いくら自分で調べても、マインドの理解を超えています。セイラーボブの教えには、どうしてもマインドでは理解できない部分が残ります。

そういったことに対する理解、確信、実感を得たいと思って、セイラーボブの本や、YouTubeでボブのミーティング映像の中に答えを探しました。それを探す時に考えていたのは、セイラーボブや関係者の本の中に、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠がどこかにあるのではないかということと、もう一つは、彼らが非二元の教えを理解した時、その理解とはどういうことなのか、理解した時、何がどんなふうに起こったのかについてどこかで語っていないかということでした。

セイラーボブと、その関連書籍で入手可能なものは全部買って読みました。YouTubeも可能な限り見ました。カリヤニのサイトもギルバートのサイトも(以前のギルバートのサイトにはたくさんの記事がありました)くまなく読みました。

でも、どこにも、「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する納得できるような論理的な説明や、科学的な証拠は書かれていませんでした。
また、セイラーボブや周りの人たちが非二元の教えを理解した時に、何か神秘的な体験をしたとか、何か特別な理解が起こったという記述を見つけることもありませんでした。
大抵の人が言っているのは、非二元の話を聞いたり、読んだりしているうちに自然に理解したということです。

私はメルボルン滞在中、セイラーボブに、「理解するとはどういうことなのか」ということを何度も聞きました。
「あなたのおっしゃる事は知的には理解できます。でも、本当の理解が起きません」と。

でもセイラーボブはたいてい、
「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? 2+2は4でしょう?」という感じで、理解すると何かが起きるとか、知的な理解以外の何か特別な理解について語ったことはありませんでした。

周りの関係者に聞いても、「ボブの教えていることは真実だよ」というばかりで、論理的な説明や、科学的な証拠を示してくれた人は一人もいませんでした。理解した時に何かが起こったという人もいませんでした。

セイラーボブがいつも
「答えはマインドの中にはありません」と、あれほど繰り返し言っているのに、私はその本質的な意味を理解できず、あちこちと探しました。
その本質的な意味を理解するのに、4年かかりました。

「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠を探しても、それはどこにもありません。セイラーボブの教えを理解するために、いくらマインドの中を探しても理解できないということに気づきませんでした。

セイラーボブの教えを理解できない多くの人は、エンライトメント(覚醒)が起こったらセイラーボブの教えを理解できるはずだ、何か特別な体験が起きるはずだ、と思っていますが、セイラーボブはエンライトメントなんてないと言い、特別な体験について語ったこともありません。

また、ある人はニサルガダッタ・マハラジや、ラメッシ・バルセカールの本の中に何か答えがないだろうかと、彼らの本を読み始めますが、そこにも答えはありません。他の非二元の師の本を読んでも、そこにも答えはありません。
なぜなら、答えはあなたの中にしかないからです。

セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。

もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。

誤解を恐れずに書きますが、セイラーボブの教えを本当に理解するという意味は、直感的な理解です。マインドではなくて、ハートの理解です。

セイラーボブの教えを読んで、「これは真実だ」と心の底から感じたなら、それが理解できたということです。
それは、無理やりそれが真実だと信じるということではありません。無理やり信じることと、心の底から確信することとでは大きな違いがあります。

心の底から確信しているということは、教えに対して、もう二度と疑いや迷いが起きず、それが事実であると確信しているという意味です。

その確信は、さんざん探して、自問して、もうマインドの中には探す場所がないという地点まで行かないと、起きないのではないかと思います。私はそうなるのに4年かかりました。

その確信には、論理的な説明や、科学的な証拠は要りません。理由は不要です。だからこそ誰も人には説明できないし、非二元について書かれた本をたくさん読んでも理解が起きないのです。

セイラーボブは、ジェームズ・ブラハとの最初の電話での会話の中で、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。と語っています。この理解には、理由は不要です。セイラーボブは、"Ring a bell?"(ピンときましたか?)という表現を使う時もあります。

真っ赤な薔薇を見て、美しいと感じるのに、何か論理的な説明が必要ですか?
誰かと恋に落ちる時に、何か論理的な説明が必要ですか?

そうしたことは、ハートの中で直感的に起きることです。

セツさんは。「ただそれだけ」を8回読んで、もう十分にマインドの中を探しました。
答えはマインドの中にはないということを十分に理解しました。

そこで今、「ただそれだけ」も、私のブログもちょっと脇に置いて、自分に問うてみてください。

「セイラーボブの教えていることは果たして真実なのだろうか?」と。

もし、「真実だ」と確信できるなら、本当に理解したということです。
「真実とは思えない」と思うなら、機が熟してないか、縁がなかったということです。

もしこれ以上、マインドの中に答えを探そうとするなら、「汝それなり」と言われて、12年間をマスターのもとで修業した人と同じ過ちを犯すことになります。

セイラーボブもニサルガダッタ・マハラジも、彼らの話は7~8回聞けば十分に理解できる話だと言っています。私もそうでしたが、考えすぎて、難しくしないでください。