2019/01/09

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)④

エンライトメント(覚醒)パート2

以下は、Living Reality p.8からp.18までの引用です。ジェームズ・ブラハがセイラーボブをアメリカに招待する前に、ボブに初めて電話をかけて、エンライトメントについて聞いています。(翻訳・掲載は著作権者であるジェームズ・ブラハの了解を得ています)

最初の会話

ジェームズ:私は思考の果たす役割を理解しようとしています。人は思考によって自己実現ができるでしょうか?

ボブ:いいえ。思考はエンライトメントとは何の関係もありません。あなたともに今あって、いつもともにあるのは、自然な今ここにある意識です。もしあなたが思考やマインドの中を探しても、マインドができるのはそれを言葉に翻訳することだけです。
あなたは今、見ていますよね?

ジェームズ:はい。

ボブ:さて、もし今部屋の中を見渡して見たものにラベルを貼ろうとしても、あなたがラベルを貼ろうと見分けがつくのは少しの物でしかありません。実際は、あなたは部屋の中の物全部を見ています。あなたはマインドを通してラベルを貼ることができるものよりももっと多くの物を見ています。あなたは四つか五つの物にラベルを貼るかもしれませんが、すべてのものを見ています。

ジェームズ:その通りです。

ボブ:ええ、それが pure intelligence(純粋なる知性)すなわち pure functioning awareness(純粋な機能する意識)[presence awareness(今ここにある意識)、自然な状態の別の呼び方]と思考するマインドの違いです。マインドは言葉に翻訳する、それがマインドのするすべてです。
それは、「私はこう考える」とか「私はこう感じる」と言います。それがマインドのするすべてです。
しかし、見ること、聞くこと、実際の体の機能はマインドがラベルを貼る以前に働いています。それはいつでも全部、今この瞬間に働いています。

ジェームズ:私はたくさんのアドヴァイタの本を読んできて最近気づいたのですが、エンライトメントを何か物、達成する物として追いかけてきました。それは馬鹿げています。

ボブ:そのとおりです。

ジェームズ:わかってはいるんです。でも「人生を無駄にしてはいけない。それが何であれ、達成できるものなら何でも達成したいという思いが繰り返しやってきます。エンライトメントを起こすなんてできないとわかってはいるんです・・・。

ボブ:いいですか、エンライトメント、解放、他何やかやはマインドがでっちあげたものです。それらはラベル、概念です。

ジェームズ:そのとおり、でも私は今どうしたらいいのでしょう?

ボブ:あなたは何もしない。あなたは分離した存在として何かをしたことなどなかった。でも、行動は起こってきます。
それは精子と卵子があなたを生み出したのと同じです。あなたはその時どこにいましたか?

ジェームズ:わかります。でもどうしたらいいんですか?

ボブ:ただ人生が展開するのに任せてください。いままであなたが生きてきた人生のように。あなたは、自分が「私」と思っているものはマインドであり、それは何もしたことはなかったということを理解しなくてはいけません。
それには何かをする力はありません。それがやっているのは起こっていることを言葉に翻訳しているだけです。
出来事は今までと同じように起こってきます。でもあなたはもうそれを分離した存在、すなわちトラブルを起こす個人に結びつけることはありません。
すべての心理上の問題を引き起こすのは、分離した個人、分離しているという考えです。分離はありません。すべてのものは同一のものです。
もし自然を見たなら、あなたはすべてのものに同一性を見るでしょう。
昼の次には夜、静けさの後には音、潮が寄せては引いていく、季節がやってきては去っていく。
私たちはこうしたものすべてにラベルを貼ります。すべてを区別して。でも実際は一つのものです。すべては意識です。それは水の上の波のようなもの。波は水にほかなりません。海に立つ一つの波も海にほかなりません。マインドの中、ラベルを取り除けばそこに区別はありません。すべては一つのものです。すべては意識です。

ジェームズ:例えば今晩私は、「セイラーボブに電話しよう・・・」と考えました。

ボブ:ええ、思考は単にある時やってきます。それが実際におこり、あなたは電話を取り、ダイヤルしました。そこにはダイヤルした人は存在しません。電話をするという思考が電話したわけではありません。それは単に起こること、もしくは起こったことを言葉にしたにすぎません。

ジェームズ:オーケー。いいでしょう。解放を物のように追い求めるのは馬鹿げているとわかりました。でも、毎日、「私は(私)という主体を取り除きたい」という思いがやってきます。

ボブ:もしあなたが詳しく見れば、この「私」という主体は独立した存在ではないとわかるでしょう。あなたは、意識や気づいている状態無しに「私」という思考を持てますか?

ジェームズ:それじゃあなたは「私」という主体を持つことは悪いことではないと?

ボブ:ええ。それはやってくるでしょう。でももうあなたはそれが実体のないものだということを知っています。いいですか。海へ行くと海の水は青く見える。でも、あなたも私も海からバケツ一杯の青い水を汲むことはできないと知っています。

ジェームズ:そうですね。

ボブ:あなたは青い海や青い空を見ることをやめることはできないが、その真実を知っています。水の蜃気楼についても同じです。あなたは決して蜃気楼の水を飲むことはできません。

真実を知れば、それにとらわれることはなくなる。旧約聖書の言葉を覚えておいてください。「真実を知れば、あなたは解放される」真実を知れば、あなたは分離した一個の存在ではない。かってもこれからも。

「ジェームズ」という独立した主体についても同じです。それは現われ続けますが、あなたはその真実を知っている。あなたはもうそれにとらわれることはありません。それは足場を失いました。

ジェームズ:ええ、それは徐々に足場を無くします。

ボブ:そうです。

ジェームズ:たとえそうでなかったとしてもどちらでも問題じゃありません。

ボブ:そのとおり。どちらでも同じこと。本質は同じ。それは独立した主体ではありません。あなたに意識や認識がなかったら、独立した主体という思考を持つこともありませんでした。生命の本質があなたの体から去る時、まだ体には目や耳、鼻や心臓があるが、そのどれも機能することはありません。それはまるであなたのコンピューターの中にある情報のようなもので、もし電気がなかったら何の役にも立ちません。

あなたはその機能としての知性エネルギー、今ここにある意識であり、それには始まりもなければ終わりもありません。それはいつもそうであり、これからもそうです。エネルギーはそれぞれのパターンとして振動し、それぞれの姿形となります。あたかも海の水が青く見えていて実際にはそうでないように。

自己同化はそのまま続きます。まず最初にあなたはそれが偽りであることを見抜かなければなりません。あなたが概念の中で、自分が独立した存在であるという立場をとれば、それが「あるがまま」に抵抗し、エネルギーの流れを止めてしまう。そこからすべての問題が発生します。

ジェームズ:では、なすべきことはただ単に「あるがまま」ということですか?

ボブ:そうです。詳しく調べれば、あなたはそれ以外のものではありません。いいですか、あなたは今意識がありますね?あなたは「それ」です。

ジェームズ:はい。

ボブ:あなたはそうなるために何かしなければなりませんでしたか?

ジェームズ:何も。

ボブ:それは自然に起こってくるもの、自ら輝く意識です。それはそれ自身で機能します。そしてその今ある意識の上にあらゆる種類の違ったパターンが現れます。

ジェームズ:問題は、あなたが今言ったことを私は全部理解していて、明日おそらくとても良い気分で平和な感じがして、もう中毒のように探すことはないと思いますが、でも2、3日すると、恍惚とした至福やあらゆる種類の奇跡が連続して起っている話を誰かが書いている本を思い出してしまうのです。
そして、それが得られるように、自分という主体が完全に無くなって欲しいと思ってしまうのです。

ボブ:いいですか、あなたの個人としての主体は二歳のころ、あなたが言葉を覚え始めたころ始まりました。その時に自分は分離した存在だという感覚が始まり、一体性を求めるようになりました。でも今、あなたははっきりと偽の主体を見抜きました。まさしくそれです。
でも、毎日毎日、何年にもわたって強化され続けた古い習慣はすぐに戻ってきます。今、あなたが古い習慣に気づいた瞬間に、そこにはエネルギーが向かわなくなります。エネルギーなしでは何物も生きられません。
あなたがそれを見抜いた今、どうしてもう一度それを信じることができるでしょうか。

ジェームズ:それでは、あなたが言っているのは、理解するということですか?

ボブ:はい。偽物を見抜くことで、あなたはもうそれを信じることができなくなります。見かけの上ではそれにとらわれていても、エネルギーはそこからすぐになくなり、その先頭は切り落されます。
自己という主体、すなわち偽の基準点はしばらくはやってくるでしょうが、あなたが古い習慣に戻ることに気づいていれば、最終的にはその習慣はなくなります。あなたは何か無くした習慣はありますか?

ジェームズ:もちろん。

ボブ:この習慣もただ見抜くだけで無くすことができます。

ジェームズ:私が分離した存在だと感じるのはたいてい誰かといる時です。何か当惑したり、傷ついたりしたような感じがして、後になって、それは馬鹿げていると気づくのです。なぜなら傷ついたり当惑したりするジェームズはいないからです。ジェームズは偽の主体、偽の基準点です。

ボブ:そのとおり。人との交流は起こります。それが宇宙の機能の仕方です。ものごとは起こります。でもそこに人々がいるわけではないとあなたは知っています。もしあなたが自分は独立した存在ではなく、そこには自己の中心はないとはっきり理解すれば、他の人も独立した存在ではなく、そこにも中心はないと知るでしょう。そうすることであなたは落ち着いていられます。そうでしょう?

あなたは人々が何なのかを知りました。99パーセントの人がこのことを知らないか理解できないでいます。彼らは自分が何なのかを知りません。たとえエンライトメント、それは未来を意味し、未来などないですが、を説く人であっても偽の自己の中心から行動しています。

それゆえ他者はあなたに概念を抱いています。そしてあなたは自分に概念を抱いています。さてどっちの概念が正しいですか?

ジェームズ:両方とも正しくありません。

ボブ:そのとおりです。あなたは自分に対して抱いている概念を信じることはできません。それはゴミです。そしてまた他者があなたに抱いている概念も信じることができない。それゆえ、その点においては誰もあなたより優れていないし、劣ってもいない。みんな平等です。

そしてあなたは必要があれば誰かと議論もするでしょう。でも、それを受ける自己の中心、基準点がないためにあなたはそれを真に受けることもない。相手は真に受けるかもしれないが、それは彼らの認識です。その事が彼らの考えを変えることになるかもしれません。人々をこの教えに向かわせるというのは一般的には苦痛なこと、そうでしょう?

そうやって物事は起こっていきます。でも現実はいつもこの瞬間にあります。あなたは決してこの瞬間をもう一度生きることはできません。もし私たちが昨日のことで悩んでいたり、明日のことを懸念していたりしたら、十分に生きることができません。私たちの意識の半分が過去や未来のことで占められているために、すべてのことが起こっている今を十分に生きることができません。

ジェームズ:ええ、私が私の命を生きる時・・・

ボブ:あなたはあなたの命を生きることはできません。あなたの命は、生かされているのです。

ジェームズ:オーケー。私の命が生かされているのなら、私がエンライトメントするという考えを持たない方がいいのですか?

ボブ:いいですかジェームズ、エンライトメントとは何かあなたが今まで持っていないという物を意味しています。そのことがあなたを今から遠ざける。そのことが偏在、それがそこにあるすべてなのですが、そこからあなたを遠ざけ、期待と想像のありもしない未来へと向かわせる。そうやってあなたは自分で自分を罠にはめています。

ジェームズ:それが今まで30年間染みついた習慣的パターンです。

ボブ:ええ、でももしそれが習慣的パターンなのだと気づいたら、もうそれを信じることはできなのではないですか?今あなたはそれが習慣的パターンであると知り、それが本当ではないと理解したので、それはひとりでに無くなります。

ジェームズ:オーケー。

ボブ:今あなたはそれを無理やり無くすことはできません。なぜなら、「あなた」という概念がそれを無くそうとあなたを巧みにだましているからです。それはあなたに二元性をもたらし、ふたたび偽の基準点をもたらします。

ジェームズ:それは本当に強力な習慣です。時々、エンライトメントを追い求めない自分や、もうエンライトメントはたくさんだと感じる瞬間があると、罪悪感を感じます。

ボブ:ジェームズ、あなたは今までもそれだったし、これからもそれです。あなたはもともとあなたが探しているものなのです。そこから始めてください。

あなたは何もする必要はありません。あなたはあなたの見ることを邪魔しているゴミを、こすり取るだけでいいんです。あなたが見ることを邪魔しているゴミに気づいてください。それくらいシンプルなことです。あまりにもシンプルすぎて見過ごしてしまいます。

ジェームズ:瞑想やヨーガなどのテクニックをしないといけないという指導者たちはどうですか?それは一体どうしてですか?それは役にたちますか?

ボブ:例えば、それは、少しはマインドを穏やかにするには役立つでしょう。太陽が十分に照らすように雲を少し薄くしてくれるでしょう。ある人達にとって、瞑想は単に起こってくるでしょう。

でももしあなたが、この教えの率直さを理解するなら、そういったことはどれも不要です。何かをするためにどこかへ行く必要もありません。今ここにある意識というのは、あなたそのもののことです。ただその意識の中でリラックスしてください。

ジェームズ:わかりました。ええ、私と話をしてくださって感謝しています。電話するのは簡単ではありませんでした。少し勇気が要りました。

ボブ:ええ、もしあなたが自分には自己の中心は無いと理解したなら、他者にもそれが無いと知るはずです。そうなれば他者に対する恐れは消えていきます。誰かが優っているわけでも、誰かが劣っているわけでもありません。

ジェームズ:友達のケリーがラメッシ・バルセカール(インドの著名な指導者であるニサルガダッタの弟子)に会いに行きます。それは彼にとっては興奮する出来事です。私も時々目覚めた指導者に会いに行こうかと考えるのですが、彼らが具体的に何をしてくれるだろうかと考えてしまいます。彼らは私にエンライトメントを与えてはくれません。私はしばらくの間はいい感じがするかもしれませんが、またしばらくすれば以前と同じように感じるでしょう。いい感じというものはやってきては去っていくものです。それはある種の至高体験のようなものです。

ボブ:それが問題なんです。多くの探求者たちは体験で行き詰ってしまいます。すべての体験はマインドの中で起こります。それはマインドのものです。1970年代にニサルガダッタに会った時私はムクタナンダのところにいました。その当時はムクタナンダのアシュラムにいたんです。中にはムクタナンダのアシュラムへ30年も通っている人がいて、体験で行き詰っていました。彼らはそこから離れようとしなかったのです。

ジェームズ:あなたが言っているのは、至福体験のことですか?

ボブ:そうです。人々はあらゆる種類の体験をしますが、それは束の間のものです。人々はクンダリーニを体験(エネルギーの背骨上昇)や、至福体験など、あらゆる体験をします。でもそれはいずれも、やって来ては去っていきます。それらはあなたが探しているものではありません。今ここにある意識は体験を超えていて、体験よりも前からあるものです。そこに体験が起こってきます。

多くの人が静けさと静寂を得たいと思っています。私にとっては、おしゃべりが起こっていようと静かであろうと問題ではありません。そのどちらも体験にすぎません。いまここにある意識は体験を超えていて、体験する以前からあります。私は長く静かである時もあれば、心の中のおしゃべりが続く時もあります。どちらでも私にとっては同じことです。

ジェームズ:あなたは静けさをより好むのではないですか?

ボブ:いいえ。なぜならそれは体験にすぎないからです。私は体験を超えています。私とは何かというと、そこですべての体験が起こる場所のこと。つまり、体験する人でも体験でもなく、体験する行為そのもの(experiencing)です。それは、見る行為そのもの(seeing)と同じです。そこには、見る人と見られるものが現れて、見る人が偽の主体となり、見られるものが偽の客体となります。でも、それらはいずれも見る行為そのものの(seeing)中にあります。もし、見る行為そのものがなかったら、そこには見る人はいません。もし、見る行為そのものがなかったら、見られるものもありません。

ジェームズ:それでは浄化の技法や瞑想やヨーガはまったく必要がないということですか?

ボブ:何も必要ありません。もちろんそれが起こったとしても何も問題ではありません。でも、それらがもたらすのはいずれも体験にすぎません。それはやってきては去っていくものです。

ジェームズ:わかります。

ボブ:いいですか、あなたは私と話をしていて、今ここにある意識は変化しましたか?

ジェームズ:いいえ。

ボブ:思考はやってきては去っていきます。フィーリングもやってきては去っていきます。でも、いまここにある意識は清らかなままで、自然でずっとそのままではないですか?

ジェームズ:はい。

ボブ:それがあなたです。マインドにとって、それは物ではありません。それはマインドにとって恐怖、混乱のもととなります。なぜなら、マインドは何か物をとらえることに慣れているからです。マインドは物ではないものを理解できません。なぜなら、マインドそのものが物だからです。
あなたはそれです。

ジェームズ:あなたの師、ニサルガダッタは(I Am Thatの会話の中で)、「(私は在る)に留まりなさい」と言っていました。

ボブ:ええ。でも注意してください。彼は思考や言葉としての「私は在る」のことを言っているのではありません。彼が言っているの、自分が存在するという感覚、自分がその感覚であるということを知ること(knowing)を言っています。あなたは、自分が存在するという意識から逃れることはできません。

ジェームズ:わかります。でもアドヴァイタの教えは何かパラドックス(矛盾)のようです。なぜなら、非二元は一つを意味していて二つではありません。それはどうすることも、どこへ行くこともないということです。しかしニサルガダッタは私たちに、いつも「私は在る」で自分がいるという感覚にフォーカスするよう教えています。それは命令のように聞こえます。

ボブ:そうです。でも覚えておいてください。ニサルガダッタはあらゆる種類の人たち、あらゆる種類のレベルの異なる人々に教えていました。究極的にはどんなレベルもないのですが。ある人達にとっては彼が何のことを言っているのかまったく見当がつきませんでした。そのため彼は、それぞれの人に異なることを言ったのです。彼は同胞である多くのインドの人たちには教えを教えることはできませんでした。なぜなら彼らは彼らの宗教を堅く信じていたからです。彼らには祈りや詠唱で彼らの道を進ませたのです。

ジェームズ:そうすると、それは単にどうあるかの問題で、どう意識しているかということですね。

ボブ:そうです。そしてそれは今、自然で努力なくあなたとともにあります。あなたが自分の中に、自己の中心、すなわち基準点がないと気づいたら、そこにあるのは何ですか?

ジェームズ:すべてです。

ボブ:空です。そしてそこで起こってくるものはすべて、いにしえの人たちが「認識する空」と呼ぶものです。認識するというのは知的な要素、知ることそのもの(knowing)
それがあなたです。それゆえ、「知性エネルギー」は二つのものではありません。それはすべての物が現れては消える空を自ら認識する空のことです。

無からは何も生まれません。すべてのものは空の中に現れます。ですから本質的には見せかけもまた空なのです。別の言葉で言えば、すべての現われは単に見せかけにすぎないのです。

ジェームズ:はい。それは読んだことがあり、理解しています。終わった話を蒸し返すつもりはないのですがちゃんと聞いてもう一度確認したいのです。このエンライトメント、解放、自己実現はすべて、本当に理解するということなのですか?

ボブ:はい。ニサルガダッタが言うように、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。いにしえの聖人パタンジャリが語ったことを考えておいてください。彼は正しい理解について語っています。それが、彼が強調したことです。(注:非二元の人には「knowingness・知ること」という言葉を好む人もいます。なぜなら彼らは「理解」という言葉が彼らの意に反してそこに理解する誰かがいるような感じを与えてしまうからです)

マインドはあなたではないということだけは忘れないでください。マインドは単なる翻訳者です。こどもの頃、まだ物心がつく前、あなたは自然な状態から苦労することなく振舞っていました。まだ物事にラベルを貼りつける前のことです。あなたは自然な状態にいました。あなたは見ることそのもの(seeing)、聞くことそのもの(hearing)で、まだ「私」という存在を知りませんでした。「私」は物心がつき始める頃始まりました。

その時点から、すべての物事がマインドに蓄えられ始めました。そこからすべての学習が始まったのです。しかし、自然な状態はそれでも働いていて、心臓の鼓動を打ち、爪を伸ばし、食べ物を消化し、思考を引き起こしています。

ですから、自然な状態は今でも働いているのですが、うわべ上はため込んだもので見えづらくなっています。ため込んだものは雲のようなものです。それは見かけ上で自然な状態を邪魔しています。

私たちの焦点はマインドの中のものに注がれ、それを繰り返し、それを信じるようになり、習慣的パターンが形作られます。それは私たちが立ち止まって、何が起こっているのだろうと自問するまで続きます。
でもあなたは、自然な状態が今も今までもここにあるということを理解しなければいけません。

ジェームズ:それを調べるのは私たちですか?思考は単にやってきては去っていくだけ、そうでしょう?

ボブ:そうです。私たちは何もすることはありません。思考をマインドから去らせるだけです。そこにあるのは他に何もない一つのものです。それはこれほど簡単なことです。
いにしえの人たちは時代を超えてそれを、非二元、他に何もないものと語り継いできました。

仏教の教えであるゾクチェンではそれを、「非概念的、永遠に新鮮、自ら輝く今ここにある意識、それ以外の何ものでもないもの」と表現します。イスラエルの人々は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」と言います。

ジェームズ:それで、私の思考はどこから来るのですか?

ボブ:それは認識する空からやってきます。それは空にあらわれたエネルギーの振動パターンにすぎません。

ジェームズ:私たちはそれに対してはどうすることもできないのですか?

ボブ:ええ。「私たち」というのは、空の中に現れた別の振動パターンにすぎません。本質的に、思考は空と同じものです。それもまたあの一つのものなのです。
ですから、そこでは何も起こっておらず、誰のためにでもないのです。
(以上で、Living Reality からの引用終了)

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セイラーボブの教えは、ある時エンライトメント(覚醒)が起こって後はハッピーに生きられるという教えではありません。ある意味では幸福になるための教えでさえありません。
セイラーボブの教えは、幸福も不幸も思考の産物であると理解するための教えです。セイラーボブの教えは、「私」という存在や、起こってくる問題は単に思考の産物にすぎないということを理解して、今この瞬間を生き生きと生きるための教えです。

セイラーボブは私に何度も言いました。

あなたはすでに、あなたが探しているものです。そこから始めてください。

あなたはなぜエンライトメントを探すのですか? 自分がそれを持っていないと思っているからではないですか? あなたはもともとそれだったと知ったなら、もう探す必要はないのではありませんか?

エンライトメントはフィクションです。