2019/01/01

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)②

「ただそれだけ」の読み方

私はセイラーボブに会う前に、ただそれだけ―セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え を7回読みました。

この本は著者であるカリヤニが、セイラーボブの生涯と教えをわかりやすく書いたもの
ですが、当時の私には何のことだかさっぱりわかりませんでした。

私と同様、多くの人がこの本を理解できない最大の原因は、セイラーボブがエンライトメント(覚醒)した人だという先入観を持って読むからです。

この本を正しく読むには、セイラーボブがエンライトメント(覚醒)した人ではなく、私たちと同じ普通の人だということを理解して読む必要があります。

もし、セイラーボブが覚醒(エンライトメント)した人だという先入観を抱いて読むと、この本はまるで禅問答のような本になってしまい、何のことを言っているのかさっぱりわからなくなります。
ネット上の書評を読んでも、多くの人がセイラーボブは覚醒した人だと思い込んでいます。

エンライトメント(覚醒)についてはまた次回詳しく書きますので今回は深入りしませんが、セイラーボブはエンライトメント(覚醒)した人ではありません。セイラーボブの世界にエンライトメント(覚醒)はありません。

この本の中にも、セイラーボブが覚醒した人ではないということが書いてあるところが何か所もあるのですが、先入観を持って読むと、それを正しく読み取ることができません。

そこで今回私が、この本の読み方を解説させていただこうと思います。
解説する一方で、何か所かの表現を、こういう表現に読み変えてみたらどうかという提案をさせていただきます。

これはあくまでも理解しやすいようにと便宜上提案するだけで、翻訳に問題があるということではありません。
高木悠鼓さんの翻訳には全く問題がないどころか、いつもながら読みやすくすばらしいと思います。

私は昔、高木悠鼓さんや山川紘矢さんのような精神世界の本専門の翻訳家になりたいと思っていた時期があって、精神世界の本を何十冊も日本語版と英語版両方を買って対訳読みした時期があります。

高木さんが翻訳されたサネヤロウマンのシリーズやダグラス・ハーディングの本なども読みましたし、高木さんが主催したダグラス・ハーディングのセミナーにも出たことがあります。
ですから、高木さんの翻訳がいかに正確かつ適切で読みやすいかということはよく知っています。

また、一日も早く高木さんにもっとセイラーボブの本を翻訳して世に出してもらいたいと思っているぐらいですから、高木さんの翻訳が悪いというつもりは毛頭ありません。あくまでも、読者の先入観を取り除き、理解しやすくするためにやることですので、その点はご了解ください。

では始めます。
お手元に「ただそれだけ」と鉛筆、もしくはシャープペンシルをご用意ください。私が説明した箇所に、アンダーラインを引くなり書き込みのメモをするなりしてください。
私の手元にあるのは2011年11月25日発行の初版です。

私が、こう読んだらどうですかという提案を順番にしていきますので、それが一通り済んだら、最初から通してもう一度この本を読んでいただきたいと思います。

まずタイトル
「ただそれだけ」のそれというのは何かということから始めます。それは意識(awareness アウエアネス)です。それはこの本の113ページ、最後から2行目に書いてある。(今後、ページはp.と表示。行は lineの略の l. で表示。ただしページの最初にある表題は行数に含めない)

p.113,最後から2行目
意識が存在するすべてであり、それが真実のあなたなのです。あなたはその意識そのものであり、けっしてそこからはずれることはできません。それを探す必要などないのです。

「意識が存在するすべてであり、それが真実のあなたなのです。」は原文では、
"awareness is all there is and that is what you truly are."です。

この意識(awareness)というのは、私たちの意識のことです。思考や記憶、感情の背後にある日常の普通の意識のことです。気絶すると、「意識がなくなった」とか「意識がもどった」とか言いますが、その意識のことです。

この意識はエンライトメントで達成したり、瞑想したりして得る意識ではなく、普段の日常にある普通の意識のことで、探す必要もないと言っています。

その意識だけがあり、そこに世界が現れるというのがセイラーボブの教えです。
この意識(アウエアネス)については、別の回に詳しく書きますのでここでは深入りしません。

p.ⅵ,最終行(ボブからの挨拶)
努力なく認識することが、そこに留まる自然なやり方です。本書を読むことを通じて、努力のない認識が起こりますように。

ボブは前書きの挨拶の中で、努力なく自然にやりなさい、と言っている。瞑想や修行に励めとは言っていない。普通に読めばわかる本だと言っています。

p.4 , l.4
(訳注:元々は、真理、または真理を覚醒した人との交わりという意味であるが、一般的には、グルと共にひとときを過ごすという意味で使われる)

この訳注は英語版にはありません。「覚醒した人」という表現が誤解を生むので、全文抹消してください。

p.9,l.7
ボブが「理解」と呼んでいることは、滅多に得られないものではなく、霊的エリートの専有物でもありません。それは、明晰に見るということで、本当に見たいと思うすべての人たちに開かれています。

ボブは「理解」と言っていて、エンライトメント(覚醒)とは言っていません。特別な人しか手に入れられない何かではなく、理解したい人すべてに開かれていると言っています。

p.10,最後から2行目
非二元性は、「第二のない一なる」ものとして語られます。


私は最初、この「第二のない一なるもの」という表現が理解できませんでした。
なんとなく、一つしかないんだな、ということはわかりますが、なぜ第二という序数で表すのかわかりませんでした。

「第二のない一なるもの」という表現に、ものすごい違和感を覚えたのですが、この表現はこの本の中に何回も繰り返し出てきます。
何度読んでも違和感が消えないので、英語でボブが何と言っているか調べました。

Nonduality is spoken about as one without a second.

他にどういう時にボブがこの表現を使うかというと、例えばアドヴァイタの教えを引用して、
「ヒンズーの教えのアドヴァイタではこれを、"one without a second"、または"not two" と呼ぶ。なぜかと言えば、一なるものという表現ですら一なるもの以外の何かが存在するということを暗示しかねないからだ」。

ボブは必ず one without a secondと言っています。one without the second ではありません。the ではなくて、a なんです。

ジーニアス(辞書)で second を引くと、通例 the second は、第二の、二番目の、という意味で、a second は、もう一つの、別の、他の、という意味です。

ボブが言いたいのは、もう一つのものがない、別のものがない、つまり、他に何もない、ということだと思います。second という一語でも第二と言う意味はあるので、「第二のない一なるもの」という訳が間違いだとは言いませんし、素人の私がプロ中のプロの高木さんの訳をとやかくいうつもりはありません。

ただ、私のブログでは、one without a second は、「他に何もない一つのもの」もしくは「他に何もないたった一つのもの」という表現を使っていますのでよろしくお願いします。

ついでにもう一つ。
reference point という言葉をこの本の中では「参照点」として訳してあります。この表現も意味がよくわかりませんでした。高木さんは「何かを参照する点」という意味で使ってみえると思います。それはそれで適切な訳だと思うのですが、他に何か良い表現はないかと探したところ、「基準点」という和訳があって、その方がわかりやすいではないかと思います。

「参照点」でも「基準点」でもほぼ同じ意味だと思うのですが、私のブログでは「基準点」という表現を採用していますので、ちょっとややこしいかもしれませんが、よろしくお願いします。

p.11,l.5
完全に覚醒した人から「あなたはそれである」という事実を指摘されることは、きわめて効果的です。

「完全に覚醒した人」を、「完全に目覚めた人」に変えてください。原文では a fully awake person となっています。高木さんは、この場合の覚醒をいわゆるエンライトメントという意味ではなく、(真理を理解した)というような意味で使ってみえると思いますが、バイアス(先入観)のかかった人は(エンライトメントした人)のことだと読み間違えるので、覚醒という言葉をなるべく排除していきます。

p.11,最後から4行目
(本当に悟った人は、必ずしも自分が仏であると思うものではない。

この、悟った人の部分は原文では Buddhas となっています。ここもまぎらわしいので、「悟った人」を「仏」に変えてください。

p.13,最後から3行目
何が悟りを妨げているのか?

ここは、「悟り」を「理解」に変えてください。原文は realization です。

p.14,最後から3行目
ボブは完全に自分の本質に覚醒しいています。

「覚醒」を「理解」に変えてください。原文は、Bob has fully realized his true nature.です。

p.40,l.9
「数日後、仕事へ行くため、駅に歩いていく途中で、『バン』という音がして、あたり一面が光り輝き、私の前に一人の男性が光を放っているイメージが現れた。その男性は、あの小さなテーブルの上の写真に写っていた人だった。その人はマハリシのグルだったんだ」。当時、この手の経験を理解していなかったボブは、自分の心が何かに乗っ取られつつあるのではないかと思ったそうです。それにもかかわらず、まるで一番高いビルの上から空中を歩いて降りることができるかのような多幸感を、彼は感じました」

ここでボブは一種の至高体験と多幸感を体験しています。ボブは、エンライトメントは否定していますが、一瞬の覚醒体験や至高体験は否定していません。それは単に経験であり、ボブの教えようとする何かではありません。

p.53,最後から3行目
アドヴァイタでは気づき(awareness)を、意識と五つの鞘・・・

原文では
Bob says, "Nisargatta was from Advaitan tradition and they break up awareness into consciousness, five sheaths・・・

高木さんは最初のawareness を (気づき)と訳して、次のconscious を(意識)と訳してみえます。
この本の中で、高木さんは、awareness を(意識・気づき)もしくは(意識)と訳し、conscious を(意識)と訳す場合が多いです。

英語の場合、consciousness は日本語で言う場合の「意識がある」「気絶した」と言う場合の意識で、awareness は、外側の情報によって、気づく、または意識している状態ですので、高木さんは awarenessに(気づき)という訳語をあててみえると思います。
でも私は(気づき)という訳語をあてると、そこに誰か気づく人がいるように誤解してしまうのでよくないのではないかと考えています。

セイラーボブの使う awareness は、「気づく人のいない気づきそのもの」を言っているのですが、それだと複雑になってしまうので、単に「意識」でいいと思います。

英語の場合は、Are you not aware? It's awareness.「気づいて(aware)いないのか?それが意識(awareness)だ」というふうに韻を踏んで使えるのでアウエアネスを説明する時に便利なのですが、日本語では「気づき」と「意識」は別の表現なので「気づいてないのか?それが意識だ」と言っても何のことだかわからなくなってしまうので、やむおえず、「気づき」という訳語をあてざるえないのですが、awareness=「意識」の方がわかりやすいと思います。

それじゃ awareness も consciousnessも「意識」という訳になって同じ訳になってしまうじゃないかと思われるかもしれませんが、私は同じでもやむえないと思っています。英語で読めばそのニュアンスの違いはわかるのですが、日本語にはそのようなピッタリする表現がない。(awareness と consciousnessの厳密な違いは用語集を見てください)

これはあくまで、ボブの教えを理解しやすいようにやっていることで、翻訳の美しさや整合性は考えていませんのでよろしくお願いします。

セイラーボブは、私がミーティングに出たころは awareness を使っていて、YouTubeで見る限り今もほとんど awareness を使っていますが、ジェームズ・ブラハの本では、同じような状況ではたいてい consciousness を使っています。

この本には awareness も consciousness も何回も出てきますが、どちらも「意識」という訳でいいと思います。awareness にぴったりと一語で対応する日本語はありませんが、「意識」という表現が一番近いと思います。

いずれにしろ、一つしかないものを表現しているので、それをあまり厳密に定義づける必要はないと思います。「知性エネルギー」というラベルを貼るのか、「意識」というラベルを貼るのか、「気づき」というラベルを貼るのかの違いだけです。

p.57,l.5
「自分は肉体でも心でもなく、私はそのことを理解することができた。

まず、「心」という表現ですが、原文では mind です。ボブは mind という言葉を、思考(thought)、感覚(feeling)、感情(emotion)でできたもの、と定義しています。ボブの使う mind にぴったりと対応する日本語はないのですが、ボブが言おうとしている意味に一番近い日本語は、「思考」だと思います。

「心」としてしまうと、どこかポジティブなもの、精神のようなものを連想してしまいます。mind は「思考」と考えるのがいいと思いますが、ボブは「mind は thought(思考) のかたまりだ」「あなたは mind でも思考でも体でもない」というふうに使う時もあるので、「思考」として訳すと不都合な場面もあります。

そこで、この本の中で、「心」と出てきたら、「マインド (mind)」と読み替えてください。そのマインドは思考と同じ意味だと覚えておいてください。

これはあくまで、ボブの教えを理解するためにやっている読み替えであることを理解してください。
mind に対応するぴったりの日本語がないので awareness とconsciousness の時と同じように訳しづらくわかりづらくなっています。

 次にボブは、同じ文章の中で、「理解できた」と言っています。「エンライトメント(覚醒)した」とは言っていません。もし自分が肉体でも心でもないという理解がエンライトメント(覚醒)によって起こったなら、大喜びしてそう書くはずです。

p.57,l.9~p.58,l.4まで
ボブはニサルガダッタと最初に会ったとき、彼の言っていることの本質を理解しました。
彼は心が唯一の問題だということを理解し、それを明確に見たなら、自分は二度とそれに引っかからないと思ったのです。そのセッションが終わって、玄関から外へ出ると、彼はすぐに心に捕らえられました。とはいえ、心が唯一の問題であることを理解したので、以前とは違った感じでした。彼が心に引っかかったように見えたとき、彼は自分自身にこう言いました。「おいおい、ちょっと待て、これは先日も見たことだ。これは一体何なのか?」。それは彼を制止し、彼はもう一度見て、それが、「ただ、おなじみの古い心の糞が、もっと出てきただけ」であることを見たのです。
「こういった古い習慣のパターンは長年のもので、すぐには止まらなかった」と彼は言います。「しかし自己憐憫や恨みに根ざした心のおしゃべりが再び始まっても、そこには何もなく、だからそれは長くは続かないことを思い出したんだ」。ボブがその偽りを見るたびに、それは強烈さを失い、苦しみは和らいでいきました。

ボブはニサルガダッタの言っていることを理解したあとでも、何度も何度も同じパターンの思考が戻ってきた、と言っています。つまり、エンライトメント(覚醒)して突然何かが変わったわけではなく、何度も何度もニサルガダッタの話を思い出して、やがて思考にとらわれることが減っていったということです。

p.61,最後の行
(訳注:真理についての理解、すなわち「悟り」)

原文にないので消してください。悟りという言葉が覚醒を連想させます。

p.62,l.4
理解がすべてなのです。

エンライトメント(覚醒)ではなく、理解です。

p.66,l.6
「そんな状況にもかかわらず、その間ずっと、「だいじょうぶ、万事うまくいくだろう」という明晰な感覚があった。どんな困難が押し寄せてきても、その下には常に一種の幸福感があったんだ。

多くの人は、この一節を読んで、ボブがエンライトメント(覚醒)していたから幸福感があったのだろうと思っていますが、そうではありません。ボブは思考にとらわれなかったために、精神的苦悩にとらわれなかっただけです。思考にとらわれなければ苦悩はなく、私たちの意識には一種の幸福感があるとボブは言います。この幸福感については、別の回に「至福」というテーマで説明します。

p.80,l.2
(訳注:ニサルガダッタ・マハラジのもとで覚醒したインド人。邦訳に『誰が構うもんか?!』ナチュラルスピリット刊がある。)

原文にないので全文抹消してください。ラメッシ・バルセカールはセイラーボブが行った時よりも後の時代にニサルガダッタ・マハラジの通訳をした人です。ラメッシが覚醒したなら、ボブも覚醒したというバイアス(先入観)が入ってはいけませんので抹消してください。

ついでに書いておきますが、Living Realityに出てくる話では(Living Reality.p.170)、ラメッシは、彼の教えを話す許可をごく限られた人にしか出さなかったそうですが、その場合、enlightenment (覚醒)という表現を使わなかったし、嫌ったそうです。彼は決まって、total understanding(完全理解) と言ったそうです。

高木悠鼓さんはラメッシの本をたくさん翻訳してみえるのでそのあたりのことは十分承知してみえるであろうし、「覚醒」という言葉をエンライトメントという意味ではなく、(真理を理解した)(自己の本質を理解した)というような意味で使ってみえると思います。参考:高木さんのブログから

p.81,l.9
『What's wrong with right now Unless you think about it?(あなたがそれについて考えなければ、今ここに何か間違っていることがありますか?)

これはボブの教えの本質です。思考がすべての苦悩を生み出していることを理解してください。すべての苦悩から逃れる方法はたった一つ。Full Stop.(ピリオド)

p.83表題
使者ではなく、メッセージ

ボブは常々、使者を信奉するのではなく、メッセージを理解しなさいと言っています。
ボブの教えは、グルの臨在のもとで覚醒するというような教えではないのです。極端なことを言えば、メッセージさえちゃんと理解していさえすれば、使者は誰でもいいのです。

今現在(2018年12月)、セイラーボブのミーティングでは、ボブの体調が万全ではないため、ボブに頼まれてカタリーナが主に話し、ボブはそれほど話しません。カタリーナはボブの教えをしっかり理解しているので、ボブの代わりに話しても何も問題ありません。

カリヤニはボブとは別の場所で月2回ミーティングを開いていました(2018.12.23をもって終了)。セイラーボブは私が二回目のミーティングの滞在を終えてオーストラリアを離れる時私に、日本のみんなに(ボブの)教えを教えて、と言いました。使者は教えをちゃんと理解してさえいれば誰でもいいのです。

ボブの教えは、覚醒や目覚めではありません。誰にでも理解できて、誰もが使者になれるものです。教えを理解することなく、覚醒や目覚めを求めようとすれば、「汝、それなり」と一喝されるだけです。

p.84,最後から4行目
得るものも、達成する人も存在しないのです。心で理解しようとするいかなる試みも、単に想念の流れを持続させるだけです。無思考という目標に到達しようとして、考えることはそれ自身を忙しくします。-それは回し車の中のリスのように行動します。心がめざしているのは、自らが想像している「理解」という概念なのです。それは思考が別の思考をつかまえようとしているだけなのです。そして、それは不可能なことです。
 ニサルガダッタは、「自分自身の観念の泥から抜け出そうと、もがかないようにしなさい。もがけば、もっと深みにはまる。ただ静かにしていなさい」と言いました。あなたは出口を考え出すことはできないのです。それは何も解決できません。ただ静かにして、心のおしゃべりを止めることによって、思考の流れを止め、単に思考を休止することです。

どうしたら真理を発見できるでしょうか。言い替えるなら、どうしたら、自分は肉体でも思考でもないたった一つのものだということが理解できるでしょうか。

セイラーボブは、口癖のように、"Answer is not in the mind"(答えは思考の中にはない)と繰り返し言います。考えても答えは得られないと言うのです。なぜなら、「私」は思考でも体でもなく、その外にあるものだからです。

探すのをやめて、思考の流れを止め、単に思考を休止すると、そこに答えがあります。思考を休止すると、そこにあるのは、意識です。それがあなたであり、あなたが探しているものです。
 
p.85 ,l.7
「あらゆる活動を超えた静寂への通路」
同l.9以降
「偉大なる完全さ」「非概念的意識」、思考が現れ、それ自身を信じ始める前の空っぽさ。戯れのない原初のもの。偏在、全能、全知であるもの。思考によって分断されていない単一なるもの。二番目のないもの。一つでさえないもの・・・ただ、それ。

難しい言い回しをたくさん使って表現していますが、これは全部アウエアネス(意識)のことです。
私たちの日常の、普通の意識(アウエアネス)のことです。覚醒した意識や瞑想で達成したサマーディではなく、普通の日常の意識です。ただそれがあるだけであり、それが私たちの本質です。

意識(アウエアネス)と理解についてはまた別の回のテーマにしてあるので、ここでは深入りしません。

p.89,l.8
「私はそれである、これはそれである、あらゆるものはそれである」

このページにある太字のそれは全部、私たちの意識のことです。日常の普通の意識のことです。私はこのブログの中で、ボブが言っている「他に何もない一つのもの」は、私たちの意識であると言い切っていますが、正確に言うと少し説明が必要です。

私が、「他に何もない一つのもの」とは意識(アウエアネス)であるという言う場合、人間という基準点(参照点)に立って言っています。これが例えば、机や椅子という基準点に立って言うならば、「知性エネルギー」と言うべきかもしれません。

人間には感覚器官があるために、それを意識としてとらえることが可能ですが、机や椅子には感覚器官がないため、それを意識としてとらえることができません。しかしながら、人間も机も椅子も一つのもの。別の表現をすれば、人間も机も椅子も知性エネルギーの中にあって、知性エネルギーそのものです。

私がボブに「アウエアネスとは何ですか?」と聞くとボブは決まって、
Are you not aware of the tram?(トラムの音に気付いていないのか?)
It's awareness.(それがアウエアネスだ)
と言ったものです。

私はこの禅問答のようなやりとりの意味が最初よくわかりませんでした。でも何度も同じやりとりをしているうちに、その意味が理解できました。aware(気づく)とawareness (意識)を重ねて韻を踏んで、(あなたの意識がアウエアネスのことだよ)と言っているのです。人間の五感はすべてアウエアネスの現われであり、知性エネルギーの現われです。

思い返してみると、意識は私たちの幼いころから、どんな時もあったのですが、それがいつどこからやってきたのか、またそれが一体何なのかを私たちは知りません。

哲学者、脳科学者、医者、ありとあらゆる人が意識とは何なのかを研究、探求してきたのですが、答えをみつけた人はいません。

p.90,l.5
「空間的意識」「認識する空」「純粋な気づき」「意識」

これらの表現は、知性エネルギー、つまりは「意識」の別の表現です。

p.91,l.10
 この宇宙はエネルギーの認識活動です。私たちが「これを知っている、あれを知っている」という以前に、その裸の認識活動ないし裸の知性、裸の意識が存在しており、後になってそれがいろいろな観念に翻訳されるのです。その認識活動は現在進行形です。それはただ知ることでも、知る者でも、知られるものでもなく、知り続けています。

わかりやすく要約すると、思考より以前に意識があり、それは私のものでも誰のものでもなく存在し、起こり続けているという意味です。

意識は個人のものではありません。意識の中に個人があるのです。もっと詳しい説明が必要な方は、セイラーボブの教え(概略)を読んでください。

p.92,l.12
「気づき/意識 awareness」といった用語を使うことができるだけです。

そこに誰か気づく人がいるように思ってしまうので、「気づき/」を消してください。

p.93,l.4
けれども、[本質としての]私たちが表現しているものが、この見かけ、現象なのです。

ここは少しわかりづらい表現になっていますが、要するに、私たちも世界も実在のものではなく、見かけだけの現われにすぎないという意味です。

p.93,l.9
皆さんはたくさん本を読んだり、修行をしたり、偉大なマスターたちの説法を聞いたり、いろいろなことをやってきたかもしれませんが、それらの何一つとして、けっして非―物、無を超えたことはなかったのです。

ここで言う「無」とは知性エネルギーのことです。「無を超えたことはなかった」という意味は、知性エネルギー(意識)の外へは行ったことがなかった、つまり、エンライトメントしたことはなかったという意味です。

あなたは、知性エネルギーであり、意識そのものです。

p.95,l.1
どうすれば純粋意識の中に留まることができるのでしょうか?

「純粋意識」という部分は、原書では、awareness となっています。翻訳者の高木さんは、awareness を、この本の他の箇所では「気づき/意識」もしくは「意識」と訳してみえますが、ここでは質問者の意図を汲み取って「純粋意識」と訳してみえます。
つまり、質問は、
「どうすれば awareness の中に留まることができるのでしょうか?」です。ここで言っている awareness(意識)とは、私たちの日常の普通の意識のことです。特別の意識と普通の意識が二つあるのではなく、普通の意識だけがあるにすぎません。

質問者はボブの使う「awareness」が特別な意識状態であると思って質問しています。その後につづく答えの中でボブは、特別な意識なんてものはなく、私たちの普段の日常の意識がそれであり、それを得たとか、失ったというのは思考にすぎないんだよということを言っています。

p.96,l.7
大は銀河から、小は素粒子までーその見かけはたえず変化しています。しかしその本質は、非顕現であり、けっして変化したことがないのです。それはすべての変化を包含しますが、変化はそれを包含することができません。

銀河から素粒子まで、見かけは絶えず変化するが、その本質は知性エネルギー(意識)であり、それが変化することはない。また、知性エネルギー(意識)は銀河や素粒子を包含するが、銀河や素粒子が知性エネルギー(意識)の外に出ることはないという意味です。

p.103,l.8
つまり、質問がなければ、質問者は存在しません。

「私とは誰か?」「どうしたら本当の理解が起きるのか?」「万物はなぜ一つなのか?」と、「私」が質問をし続けるかぎり、「私」は消えません。質問者は質問と一体だからです。
質問することをやめて(思考を止めて)、今ここにあるのは意識(アウエアネス)だけだということを理解すれば、質問も質問者も消えます。

あなたが、「私は実在ではない」「万物は一つのものである」ということの理解や実感を、思考で探せば探すほど答えはみつかりません。
これは禅の公案と同じで一種のパラドックス(逆説・矛盾)です。ボブは、思考を使って、自分が実在するのかどうか自分で確かめなさいと言っていますが、思考を使って探せば探すほどみつからないのです。

あなたが真剣に探せば探すほど見つからないのですが、探さなくては理解は起きません。あなたがあきらめずにとことん探せば、ある時理解が起こります。答えは思考の中にはないという理解が。

p.104,l.1
ただ存在意識のみがあり。

英語版では「存在意識」の部分はpresence awareness です。この部分は難しく考えないでください。今ここにある意識、つまりは普通の意識のことです。
この本の中に何回か、高木さんが presence awareness を「存在意識」と訳してみえる箇所が出てきますが、「今ここにある意識」、もしくは単純に、「意識」と読み替えてください。

P.104,l.3
あらゆる現象は、詳しく見ていくことによって、あなたを故郷へ導いてくれるでしょう。
原文は
Bob: All pointers will take you home if you look into them.です。
「pointers」 を「現象」と訳されていますが、ポインターとは、ヒント・指し示すもののことであり、この場合はセイラーボブの例え話のことを言っています。

p.109,l.6
その休止の間、別の思考が起こる前、存在するのは裸の意識のみです。

花、花、花、花、花・・・・ストップ。の後に思考が現れる前にある裸の意識こそが、ボブの言うアウエアネス(意識)です。

それは、思考の背景にいつもある私たちの普通の意識です。それが知性エネルギーの現われであり、空であり、汝それなりのそれです。

P.111,表題
私は、本来の自分であるところの「私は在る」(I AM)に語りかけている。

この I amとは、思考が知性エネルギー(awareness)を一番近く感じられる感覚のことです。実際には私はいないが、私たちはこの「私は在る」という感覚に様々なもの(出来事、経験、条件付け、自己イメージ)を付け加えて、分離した個人がいると思い込んでいます。

I amが具体的には何かというと、アウエアネス(意識)、知性エネルギーと言っても差し支えありません。要するに、アウエアネス(意識)がアウエアネス(意識)に語りかけているという意味です。

p.113,最後から2行目
意識が存在するすべてであり、それが真実のあなたなのです。あなたはその意識そのものであり、けっしてそこからはずれることはできません。それを探す必要などないのです。

ここは最初に「ただそれだけ」のそれは何かと説明したところですが、大切なのでもう一度書いておきます。

p.119,l.7
「不生の仏心」

「不生の仏心」とは何かというと、生まれる前の人の心のことをいい、そこには思考(言葉)がないため、問題もないという意味です。不生の仏心も知性エネルギー(アウエアネス)のことです。

p.119,l.7
という悟りが彼に閃いたのです。

「悟り」に対応する部分は英語版では、dawn on になっています。「理解」に替えてください。

p.147,l.9
ボブ、三十年前に起ったこの理解、この覚醒について

「覚醒」を「目覚め」に替えてください。英語版は awakening になっています。しかもこれは質問者の発言で、ボブのものではありません。

p.161,l.2
この「悟り」とは、

「悟り」の部分は原書では enlightenment になっています。
質問のすぐ後にボブは、
自分の自然な状態の何がそんなに特別でありえましょうか?と言っています。

つまり、もともとエンライトメントしている状態が自然な状態であると答えているのです。

p.163,l.6から11まで
ここに出てくる「心」を「マインド」と読みかえてください。そのマインドは「思考」と同義です。前にも書きましたが念のため

p.167,l.4
そこには純粋な覚醒状態、気づき、存在のみがあります。

原文は、
there is just pure wakefulness, awareness, being-ness.です

この文章を、
「そこには、起きている状態、意識、本質のみがあります」に替えてください。
要するに、普通の私たちの意識があると言っているわけで、覚醒した特別な状態があるわけではないということ。

つまり、それについて考えなければ、普通の意識(アウエアネス)があるだけだと言っています。

p.172,l.8
誕生したのは、自己中心すなわちエゴなのです。

原文は、
That which was born is the self-center.となっています。

自己の中心というのは、(自分がいる)と勝手に思い込んでいる思考のことで、生まれるのも死ぬのも思考なのであって、その思考が死ぬ時、永遠の命のみ(つまりはアウエアネス・意識)があるという意味です。

p.178およびp.179
この2ページに出てくる全部の「存在意識」を「意識」と読み替えてください。
原書ではpresence awareness となっています。「存在意識」とするよりも「今ある意識」とした方がわかりやすいと思いますが、単純に「意識」のほうがもっとわかりやすい。

これは前にも説明しましたが、私たちの日常の普通の意識のことです。
私たちは、この意識を瞑想で高めようとか、意識に集中しようとかする必要は一切ありません。ましてや覚醒の必要などありません。高い意識や特別な意識なんてものはありません。あるのは普通の意識だけです。

その意識をなんとかしようとするのはマインド(思考)の仕業であり、そのこと自体が問題を引き起こし、今ここから遠ざけてしまいます。

意識をなんとかしようとするのではなく、それを見えなくしているものの正体に気づくことが大切です。

p.181表題
存在するすべては、現在進行形の経験である

この後には質問に答えてわかりにくい表現がつづきますが、ボブが言いたいのは、「行為をする人は実在ではなく、行為そのものがあるだけだ」ということです。

p.193,l.5
しかし、悟りに関していえば

この「悟り」は原文では enlightenment です。
しかし、悟り(enlightenment)に関して言えば、誰が、何を悟ることができるでしょうか?それは単に事実に気づくというだけのことです。

つまり、エンライトメントなんてものはありません、忘れてきた鍵を思い出す程度のことだと言っています。もちろん、この「忘れてきた鍵を思い出す」というのは、自分が意識そのものだったということを思い出すということです。

p.201表題
あらゆるものが、"それ"である。

このページにそれがたくさん出てきます。もう一度確認のために言いますが、それとは、知性エネルギー=アウエアネス=意識のことです。私たちの普通の意識のことです。

p.217表題
目覚めている意識の味わい

このページと次のページには「目覚めている意識」という表現が何度も出てきますが、特別な意識ではなく、日常の普通の意識です。「目が覚めている時の意識」と言った方が誤解がないかもしれません。

p.225表題
私は存在意識である

存在意識の裏にある英語は presence awareness です。 presenceは「存在」とか「臨在」という意味ですが、ここでボブの言っているのは、自分が今ここに存在しているという意識・認識のことです。
わかりやすくするために、「私は意識である」と読み替えてください。

p.226,l.1
それは今ここであなたとともにあるのと同じ認識ー認識の内容ではなく、これやあれを知ることではなく、あなたが否定できない純粋な認識そのもの

ここに出てくる「認識」は原書では knowing です。ボブ流に言うなら、「知ろうとしている主体のいない知ろうとする働き」です。knowingもseeingも知性エネルギーの現われであり、別の言い方をすると、awareness(意識)です。「認識」「意識」と読み替えると理解しやすいと思います。「意識」に替えてください。

p.226,最後の行
この見かけ上の身体、このエネルギーのパターンを、それを形成している空間、空気、水、火から分離できますか?

ボブはまた別の話の中で、「私たちの体の8割は水でできている。ではあなたは水なのか?」と聞いています。私たちは思考によって勝手に「私の体」というラベルを貼りつけて、分離した一個のものだと考えていますが、実際には水や空気、炭素、カルシウムなどの複合体であり、しかもそれは空間と切り離しては存在できないものです。

言い替えるなら、体というものを分離した一個のものであると定義づけているのは思考にすぎず、それ自体を周りから分離することは不可能だということです。

p.227,l.3
それでも、それは依然として分離した身体、分離しいた実体として現れ続けるでしょう。物事は依然として起こり続け、対立物のペアとして現れ続けます。もしそれがなければ、世界には何も現われなかったでしょう。

セイラーボブの教えの、(私は実在ではない)(万物は空である)というようなことを理解しても、それを実際に体験するようなことは起きません。多くの人が体験を探してつまずきます。このことはまた別の回に、「どうしたら理解は起きるのか」というテーマで説明しますが、ここは覚えておいてほしいのでアンダーラインをしておいておください。


p.227最後から3行目
 悟りないし覚醒を求めていっても、獲得できるものは何もない、と私たちが言うとき、私たちは正直にそう言っているのです。何もない、のです。理由は単純で、あなたはすでにそれであるからです。あなたはそれなのです。

説明は不要だと思います。素直に読んでください。エンライトメントはありません。

以上で私の説明は終わりです。
私が説明した箇所に注意しながら、もう一度この本を最初から最後まで通して読んでみてください。
きっと努力のない認識が起きると思います。