2026/11/03

The Mystic of Enlightenment  U.G.クリシュナムルティ 2

Q: 14歳から21歳までの間、性的衝動を強く感じていたとおっしゃっていましたね。その時、結婚されたのですか?

UG: いや、焦りはしなかった。そのままにしておいたんだ。性的衝動ってやつを体験してみたかったんだよ。「もし何もせずに放っておいたら、これはどうなるんだろう?」ってね。この全体的な仕組みを理解したかった。「なぜ自分はこんな自慰行為に耽りたがるんだろう? 性のことなんて何一つ知らないのに、なぜいろんな性のイメージが頭に浮かぶんだ?」とね。これが私の探求であり、私の瞑想だった。蓮華座で坐禅を組んだり、頭立ちのポーズをとったりすることじゃない。「どうやってこんなイメージを自分は形作れるんだ?」——映画なんて一度も行ったことがなかったし、ポスターの類だって見ていなかった。ほら、今でこそあらゆるポスターがあるけれど——「どういうことだ? これは内側にあるもので、外から入れられたものじゃない。外側にあるのは刺激だ——刺激は外からやってくる。だが、内側からの刺激という別の種類のものもある——私にとってはこっちの方が重要だった。外からの刺激ならいくらでも遮断できるが、内側からのこれをどうやって遮断すればいいんだ?」私はそれを見つけ出したかった。

それに、その性の体験とは一体何なのかということにも興味があった。自分自身は一度も性を体験したことがなかったのに、それがどんなものか分かっているような気がしていたんだ。これがずっと、ずっと、ずっと続いた。女性と交わろうとか、そういうことへと急ぎはしなかった。事態が独自のプロセスで進むに任せたんだ。当時は結婚なんてしたくなかった時期だった。私の目標は禁欲生活者や修道士、そういった類のものになることであって、結婚じゃなかった——しかし事態は動き、「もし性欲を満たすためだけの問題なら、なぜ結婚しないんだ? 社会はそのためにあるんじゃないか。なぜそこらの女と性的関係を持つ必要がある? 結婚すれば自然な形で性を表現できるじゃないか」と自分に言い聞かせた。

21歳になった時、ある境地に達したんだ。ブッダ、イエス、ラーマクリシュナ、誰も彼も——すべての指導者たちは自分自身を偽り、欺き、そして周囲の人間全員を欺いていると強烈に感じた。こんなものは、どう考えても本物であるはずがない——「この連中が語り、描写している状態とやらは一体どこにあるんだ? その描写は、私という人間や私の機能の仕方とは何の関係もないように思える。誰もが『怒るな』と言うが——私は年中怒っている。内側は残忍な行為で満ち満ちているんだから、あんなものは嘘っぱちだ。あの連中が『こうあるべきだ』と教えてくる姿は偽りであり、偽りである以上、それは私を偽者にしてしまう。私は偽者の人生なんて生きたくない。私は強欲だ。なのに連中が語っているのは無欲のことだ。どこかが絶対に狂っている。この強欲こそがリアルであり、私にとって自然なことなのだ。連中が語っていることこそが不自然なんだよ。だから、どこかが間違っている。だが、私は無欲の状態になるために自分を変えたり、自分を偽ったりするつもりはない。私にとって自分の強欲こそが現実なんだから」。私はそういったことを延々と語り続ける連中に囲まれて生きていた——誰も彼もが偽者だったよ、まったく。だからどういうわけか、君たちの言う『実存的吐き気』とでも呼ぶべきもの(当時はそんな言葉は使っていなかったが、今ではそういった用語も知っている)、聖なるものや神聖なものすべてに対する強い嫌悪感が私の身体に忍び込み、あらゆるものを追い出してしまった。「スローカ(聖典の詩句)も宗教も実践も、もうたくさんだ——そこには何もない。だが、ここにあるものこそが自然なのだ。私は野獣であり、怪物であり、暴力で満ちている——これこそが現実だ。私は欲望でいっぱいだ。無欲、無貪、無怒——そんなものには何の意味もない。それらは嘘であり、単に嘘であるだけでなく、私を偽者にしてしまうのだ」。だから私は自分に言った、「もうこんなお商売は終わりだ」とね。だが、話はそう単純じゃないんだよ。

そんな時、ある男がやって来て、私とこれらのことについて議論した。彼は私が実質的に無神論者であり(実践的な無神論者ではないが)、あらゆるものに懐疑的で、足の先まで異端者であることを見抜いた。彼は言った。「マドラスのティルヴァンナーマライという場所に、ラマナ・マハルシという男がいる。さあ、あの男に会いに行こう。あそこにはヒンドゥーの伝統を生きながら体現している人間がいる」

私は聖者なんて誰一人会いたくなかった。一人に会えば、全員会ったようなものだからね。私は店を冷やかして回るようにいろんな場所を探して回り、師の足元に座って何かを学ぶ、なんてことは一度もしなかった。なぜなら誰もが「同じことをもっともっとやれば、手に入るぞ」と言うだけだからだ。私が手に入れたのは、より多くの体験だけであり、やがてそれらの体験は永続性を要求し始めた——そして永続性なんてものは存在しないのだ。だから、「聖者どもは全員ペテン師だ——奴らは本に書いてあることしか言っていない。そんなもの読めば済む。『同じことを何度も繰り返せ』——そんなものは御免だ。体験など要らん。奴らは体験を私と分かち合おうとしている。私は体験になど興味はない。体験に関する限り、私にとっちゃ宗教的体験も性的体験もその他の体験も何の違いもない。宗教的体験も他のあらゆる体験と同じだ。ブラフマン(梵)を体験することにも興味はないし、現実を体験することにも、真理を体験することにも興味はない。奴らは他の誰かを助けることはできるかもしれないが、私を助けることはできない。同じことを繰り返す気はない。自分がやってきたことだけで十分だ。学校で数学の問題を解きたい時、何度も繰り返して解くと、答えはその問題自体の中にあると気づく。なら一体全体、問題を解こうとして何をやっているんだ? こんなプロセスを全部経るくらいなら、最初に答えを見つける方が手っ取り早いじゃないか」。

だから、気乗りせず、躊躇しながら、嫌々ながらも、私はラマナ・マハルシに会いに行った。あの男が私を引っ張っていったんだ。彼は「一度行ってみろ。何かが起こるから」と言った。彼はそのことを語り、『ポール・ブルントン』の『インド秘密の旅』という本をくれたので、この男に関する章を読んだ——「いいだろう、構わんよ、行って会ってみようじゃないか」。あの男はそこに座っていた。その存在そのものから、私は感じたんだ。「何だこれは! この男が——どうやって私を助けられるというんだ? コミック本を読み、野菜を切り、これやあれやと戯れているこの男が——どうやって私を助けられる? 助けられるはずがない」。ともかく、私はそこに座った。何も起こらなかった。私が彼を見つめ、彼が私を見つめた。「彼の前にいると静寂を感じ、疑問が消え去り、彼の眼差しがあなたを変える」——そんなものは私にとって、ただのおとぎ話、でっち上げの幻想のままであった。私はそこに座っていた。内側にはたくさんの疑問、くだらない疑問が渦巻いていた——だから、「疑問は消えていないじゃないか。ここに2時間も座っているのに、疑問はまだそこにある。よし、彼にいくつか質問してみよう」——というのも、当時の私はモークシャ(解脱)を強く求めていたからだ。私の背景の一部として、解脱を欲していた。「あんたは解脱した人間ということになっている」——それは口に出さなかったが。「あんたが持っているものを、私にくれるかい?」——私は彼にそう質問した。だが、あの男は答えなかった。だからしばらく時間が経った後、私はその質問を繰り返した——「『あんたが持っているものは何であれ、私にくれるかい?』と聞いているんだ」。彼は言った、「私は与えることができるが、お前はそれを受け取ることができるか?」とね。おいおい! 初めてこの男が、自分は何かを持っていて、私にはそれを受け取ることができないと言い放ったんだ。それまで誰一人として「私は与えることができる」なんて言わなかったが、この男は「与えることはできるが、お前は受け取れるか?」と言ったんだ。そこで私は心の中で言った、「もしこの世界にそれを受け取れる人間がいるとしたら、それは私だ。なぜなら私はこれほど多くの修行(サードゥナ)を、7年もの修行を積んできたのだから。彼は私が受け取れないと思っているかもしれないが、私なら受け取れる。私が受け取れなかったら、一体誰が受け取れるというんだ?」——それが当時の私の心境だった——ほら、(笑う)私は自分にものすごい自信があったんだよ。

私は彼のところにとどまらなかったし、彼の本も一切読まなかった。だから彼にさらにいくつか質問した。「人は時に自由であり、時に自由でないということがあるのか?」彼は言った、「お前が自由であるか、さもなければ全く自由でないかのどちらかだ」。もう一つ質問があったが、それは思い出せない。彼は非常に奇妙な方法で答えた。「そこへ至る階段など存在しない」とね。だが、私はこれらすべてを無視した。そんな質問はどうでもよかった——答えには少しも興味が持てなかった。

だが、「お前はそれを受け取れるか?」というこの質問……「なんて傲慢な奴なんだ!」——それが私の感覚だった。「なぜ私に受け取れないというんだ、それが何であれ? 彼が持っているものとは一体何なんだ?」——それが私の疑問であり、自然な疑問だった。こうして、疑問が自ずと形作られていった。「ブッダ、イエス、そしてあの連中全員がいたあの境地とは一体何なんだ? ラマナはその境地にいる——ということになっているが、私には分からん——だが、あの男だって私と同じ一人の人間じゃないか。彼が私とどう違うというんだ? 他人が言うことや彼が言っていることなど、私にはどうでもいい。彼がやっていることくらい、誰だってできる。そこに何がある? 彼が私とそれほど違っているはずがない。彼だって親から生まれたんだ。この事態全体について独自の考えを持っているだけだ。何かが彼に起こったと言う者もいるが、彼が私とどう違うというんだ? そこに何がある? あの境地とは一体何なんだ?」——それが私の根本的な疑問、ベーシックな問いだった——それがずっと、ずっと、ずっと続いていった。「あの境地が何なのか、私自身が見つけ出さなければならない。誰もあの境地を与えることなどできない。私は自分一人なのだ。コンパスも、船も、私を運ぶいかだすらもないこの未開の海へ行かなければならない。あの男がいる境地が何なのか、自分自身で確かめてやる」。私はそれを強く望んでいた。そうでなければ、自分の人生を投げ打ちなどしなかっただろう。

Q: その「与える・受け取る」という話が、よく分からないのですが。

UG: 彼が「私は与えることができるが、お前は受け取れるか?」と言った時に何を意図していたのか、私には何も言えない。だが、ある意味でそれが、自分自身の問いを定式化する助けにはなった。ほら、もし誰かが今、私に同じような質問をしてきたとしたら、私は「誰からも得るものなど何もない」と言うだろうね。君にを与える私とは一体誰なんだ? 君は私が持っているものをすでに持っている。私たちは皆、サニディ通り25番地にいるというのに、君は私に「サニディ通り25番地はどこですか?」と訊いているようなものだ。私は「君はそこにいるじゃないか」と言う。私がそこにいると知っているから言っているわけじゃない。自分がどこにいるかを知りたがっている——君がその質問をしているのだ。

(UGは、ラマナやそうした「宗教的な人々」のもとを二度と訪れることはなく、哲学の試験勉強のため以外には、二度と宗教書に触れることもなかったと語る。)

そこから私の本当の探求が始まった。私の宗教的背景のすべてが私の中にあった。それから探求を始めたんだ。数年間、私は心理学と哲学(東洋と西洋の両方)、神秘主義、あらゆる現代科学——あらゆるもの、人類の知識の全領域を自分自身で探索し始めた。探求はどこまでも続き、「あの境地とは一体何なのか?」というのが私の問いであり、その問いはそれ独自の強烈さを帯びていた。だから、「これらすべての知識は私を満足させない。なぜこんなものを読んでいるんだ?」となった。心理学は私の修士号のための専攻科目の一つだった——あいにく、当時はそれがシラバスの一部だったんだ。私が心理学に興味を持ったのは単純な理由からで、心が常に私を魅了していたからだ。「この心とはどこにあるんだ? それについて何かを知りたい。ここ、私の内側には何の心も見当たらないのに、これらの本はすべて心について語っている。さあ、西洋の心理学者たちが心について何と言っているか見てみようじゃないか」。ある日、私は教授に訊いた。「私たちは終始、心について話しています。あなたご自身は、心とは何か分かっているのですか? 私たちはフロイト、ユング、アドラー、その他の連中など、実に多くの本を学んでいます。そういったものはすべて知っています——本にある定義や描写は読みました——ですが、あなたご自身は心について何か知っているのですか?」彼は言った、「そんな不都合な質問をするんじゃない。(爆笑)とても危険な質問だ。試験に合格したいなら、ただこのノートをとって暗記し、解答用紙に再現しなさい——そうすれば学位がもらえるから」。「私は学位には興味がありません。心について突き止めることに興味があるのです」

(祖父が亡くなり、UGは学位を修了せずにマドラス大学を去った。1943年に彼は結婚した。)

それから、自分の背景もあって神智学協会に関わるようになった。私は祖父から神智学協会、J・クリシュナムルティ、そして多額の金を引き継いだんだ。だから好都合だった。当時は潤沢な資金があった——5万ドルか6万ドルほどだ——だからそういうことが何でもできた。私は講師として神智学協会に関わるようになり(最終的にUGはインドにおける協会の共同事務局長に選出された)、だが本腰は入っていなかった——「こんなものはすべて中古の情報だ。講義をする意味がどこにある?」当時は非常に優れた弁士だったんだよ、今ではもう違うがね。第一級のスピーカーで、あらゆる場所、あらゆる壇上で講義をした。インドのすべての大学で講演したよ。「これは私にとってリアルなことじゃない。頭のある人間なら誰でもこの情報を集めて吐き出すことができる。私は何をやっているんだ? なぜ時間を無駄にしている? これは私の生き方でもなければ、生計の手段でもない。これが君の仕事なら結構、理解できるよ、オウムのように繰り返して生計を立てればいい。だがこれは私の仕事じゃない。それなのに、私は何かに興味がある、そういう種類の何かに興味があるんだ」

そして(1940年代後半、UGが神智学協会で過ごした時期の終わり頃)、J・クリシュナムルティが舞台に登場した。彼はアメリカから帰国したばかりでした。

2026/10/30

The Mystic of Enlightenment  U.G.クリシュナムルティ 1


翻訳:Gemini 無料版
prompt:「段落や行間を原文と同じようにして、U.G.クリシュナムルティが語っているかのように和訳して」

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私の教えは、もしあなたがそう呼びたいのであればの話だが、著作権などない。あなたは自由に複製し、配布し、解釈し、誤解釈し、歪曲し、めちゃくちゃにしてもいい。好きなようにすればいい。私の同意も、誰かの許可も得ずに、自分がそれを書いたのだと主張したって構わない。――U.G.

『悟りの神秘(THE MYSTIQUE OF ENLIGHTENMENT)』

第一部

U.G.

(1973年から1976年にかけて、インドおよびスイスで行われた対話より編纂)

人々は私のことを「悟った男」と呼ぶ――私はその言葉が大嫌いだ――彼らは私が機能しているそのあり様を説明するのに、他に言葉を見つけられないのだ。同時に、私は「悟り」などというものは一切存在しないのだと指摘している。私がそう言うのは、自分自身が生涯をかけて悟った男になろうと探し求め、渇望した結果、悟りなどというものは存在しないと発見したからだ。したがって、特定の人物が悟っているか否かという問い自体が発生しない。紀元前6世紀のブッダなど知ったことではないし、ましてや私たちの只中に溢れている他のあらゆる「悟りを主張する者たち」など尚更だ。奴らは人々の騙されやすさにつけ込んで肥え太る搾取者の群れに過ぎない。人間の外部に力など存在しない。人間は恐怖から神を創造したのだ。だから問題は恐怖であって、神ではないのだ。

私は自分自身で、そしてただ一人で、悟るべき「自己(セルフ)」など存在しないということを発見した――私が言っているのはその「覚悟(悟り)」のことだ。それは打ちのメスを与えるかのようにやってくる。雷に打たれたかのようにあなたを直撃する。あなたは自己実現というたった一つの籠にすべてを投資してきたのに、最後に突然、発見すべき自己も、悟るべき自己も存在しないことに気づくのだ――そして心の中で「俺は一体全体、今まで人生で何をやっていたんだ?!」と叫ぶ。それがあなたを打ち砕くのだ。

あらゆる種類のことが私に起こった――私はそれを通過したのだ、お分かりだろう。その肉体的な痛みは耐え難いものだった――だからこそ、あなた方は本当はこんなものを望んではいないのだと私は言っているのだ。もし私があなた方にその一瞥でも、その感触のほんの一部でも与えられるなら――あなた方はこんなものに一切触れたいとは思わなくなるだろう。あなた方が追い求めているものは存在しない。それは神話なのだ。あなた方はこれと関わりたいとは全く思わなくなるはずだ。

UG:いいかね、私はこう主張する――何と呼べばいいのか分からないが、「悟り」「自由」「モークシャ(解脱)」「解放」といった言葉を私は使いたくない。これらの言葉はすべてドグマ的な意味合いを帯びており、独自のニュアンスを持っている――これはあなた方のいかなる努力によってももたらされるものではない。それはただ生じるのだ。そしてなぜそれが一人の個人に生じ、他の者には生じないのか、私には分からない。

質問者:では、それはあなたに生じたのですね?

UG:私に生じたのだ。

質問者:いつのことですか?

UG:49歳の時だ。

しかし、あなた方が追及しているもの――真理や現実の探求や追求――に向かって行うあらゆる営みは、あなた方が常に存在している、まさにあなた方自身の「自然な状態」からあなた方を遠ざけてしまうのだ。それはあなた方の努力の結果として獲得したり、到達したり、成就したりできるものではない――だからこそ私は「無因(acausal)」という言葉を使うのだ。それには原因はないが、どういうわけか探求は終わりを迎える。

質問者:あなたとしては、それは探求の結果ではないとお考えですか? あなたが哲学を学び、宗教的な人々に関わっていたとお聞きしたものですから……

UG:いいかね、探求はあなたをあなた自身から遠ざける――それは正反対の方向に向かっているのだ――それには絶対的に何の関連性もない。

質問者:それにもかかわらず、それが生じたのであって、それがあったから生じたのではない、と?

UG:それにもかかわらず――そうだ、まさにその言葉通りだ。あなたが行うあらゆることは、すでにそこにあるものがそれ自体を表現することを不可能にしてしまう。だからこそ私はこれを「あなたの自然な状態」と呼ぶのだ。あなたは常にその状態にある。そこにあるものがそれ自身のやり方で表現されるのを妨げているものこそが、探求なのだ。探求は常に間違った方向を向いている。だから、あなたが非常に深遠だとみなすあらゆるもの、神聖だとみなすあらゆるものは、その意識における汚染なのだ。あなたは(笑う)「汚染」という言葉が気に入らないかもしれないが、あなたが神聖で、聖なるもので、深遠だとみなすあらゆるものは汚染なのだ。

だから、あなたにできることなど何もない。それはあなたの手には負えないのだ。私は「恩寵」という言葉を使いたくない。なぜなら「恩寵」という言葉を使えば、「誰の恩寵か?」ということになるからだ。あなたは特別に選ばれた個人などではない。なぜあなたがこれに値するのか、私には分からない。

もし可能なら、私は誰かを助けることができるだろう。しかしこれは私が与えることのできないものだ。なぜなら、あなたはすでにそれを持っているからだ。なぜ私がそれをあなたに与えなければならないのか? すでに持っているものを求めるなど愚かなことだ。

質問者:しかし、私にはそれを感じられませんが、あなたには感じられています。

UG:いや、それを感じる感じないの問題ではないし、それを知る知らないの問題でもない。あなたは決して知ることはない。あなた自身がそれを知る術など全くないのだ。それはそれ自体を表現し始めるのだ。意識的な……いいかね、どう表現すればいいのか分からない。自分が他の誰かと異なっているという考えが、私の意識にのぼることは一度もないのだ。

質問者:ご自身を意識されるようになって以来、最初からそうだったのですか?

UG:いや、そうとは言えない。私は何かを追い求めていた――宗教的な雰囲気の中で育った他の誰とも同じように――何かを探求し、何かを追求していた。だから、その質問に答えるのは容易ではない。私のバックグラウンド全体に踏み込まなければならないからだ。たぶんそれは訪れる、分からないがね。(笑う)

質問者:単なる好奇心からですが、ナチケータのように、私個人としてこれらのことがあなたにどのように生じたのか、あなたが認識されている範囲でとても興味があります。

UG:いいかね、それは長い話だ。そう単純なものではない。

質問者:ぜひお聞きしたいです。

UG:いや、いいかね、私の人生全体について話さなければならなくなる――かなり時間がかかるよ。私の人生の物語はある時点まで続いて、そこで止まるのだ――それ以降の伝記は存在しない。

私の伝記を書くことに興味を持っている二人の伝記作家は、それぞれ異なるアプローチをとっている。一人は、私が行ったこと――サードナ(精神的修練)、教育、あらゆるバックグラウンド――が私をそこに導いたと言う。私はそれらすべて「にもかかわらず」そうなのだと言うのだがね。(笑い) もう一人の伝記作家は、私の「にもかかわらず」という発言にはあまり興味がない。分厚い本を一冊書くほどの材料にならないからだ。(笑い) 彼らはもっとそちら(原因と結果)に興味があるのだ。出版社もそういった種類のことに興味がある。それは極めて自然なことだ。なぜならあなた方は因果関係が常に作用する領域で機能しているからであり、だからこそ原因を、いかにしてこのようなことが生じたのかを突き止めようとする。だから私たちは振り出しに戻るわけだ、一歩も進んでいない。私たちは相変わらず「いかにして」に関心を持っている。

私のバックグラウンドなど無価値だ。誰のモデルにもなり得ない。なぜならあなたのバックグラウンドは唯一無二だからだ。あなたの人生のすべての出来事は、それ自体でユニークなものだ。あなたの条件、あなたの環境、あなたのバックグラウンド――すべてが異なる。あなたの人生のすべての出来事が異なるのだ。

質問者:私は世界に残すためのモデルを求めているわけではありません――そういう観点から聞いているのではないのです。私たちは星を見、太陽を見、月を見ます――それと同じようなことです。あなたを模倣したいわけではありません。関連があるかもしれないでしょう、誰に分かりますか? だからこそ私はここでナチケータだと言ったのです。あなたから真実を知らずに去りたくはありません。

UG:あなたの質問に答えるにはヤマ・ダルマラージャ(閻魔大王)が必要だな。

質問者:差し支えなければ、あなたがヤマ・ダルマラージャになってください。

UG:構わないよ。手伝ってくれ。いいかね、私は無力で、どこから始めればいいのか分からないのだ。どこで終わるかは知っているがね。(笑い) 私の人生の物語全体を話さなければならないようだな。

質問者:喜んで伺います。

UG:浮かんえこないのだ。

質問者:インスピレーションが必要ですね。

UG:私にはインスピレーションなどないし、誰かを触発するような人間からは程遠い。あなたの好奇心を満足させるために、私の人生のもう一面、くだらない一面を話さなければならないだろうな。

(彼は1918年7月9日、南インドの上流中産階級のバラモン家系に生まれた。家名がウッパルーリであったため、ウッパルーリ・ゴーパーラ・クリシュナムルティと名付けられた。母は彼の生後間もなく亡くなり、彼はマスリパタム近くのグディヴァダという小さな町で母方の祖父母によって育てられた。)

私は非常に宗教的な雰囲気の中で育った。祖父はとても教養のある人物だった。彼はブラヴァツキー(神智学協会の設立者)やオルコットを知っており、その後、第二、第三世代の神智学派の人々とも交流があった。彼らは皆、私たちの家を訪れたものだ。祖父は偉大な弁護士で、非常に裕福で、極めて教養があり、そして非常に奇妙なことに、極めて厳格な正統派の信者だった。彼はある種のごちゃ混ぜの子供のようなものだった。一方では正統派の伝統があり、もう一方ではその対極にある神智学やそういったもの全体があった。彼はバランスを取ることができなかったのだ。それが私の問題の始まりだった。

(UGは生前、母親が亡くなる直前に「この子は計り知れないほど高い運命のもとに生まれた」と言っていたとよく聞かされていた。祖父はこの言葉を非常に重く受け止め、弁護士業を辞めてUGの養育と教育に献身した。祖父母とその友人たちは、彼が前世で悟りの寸前まで達した「ヨーガ・ブラシュタ(挫折した修道者)」であると確信していた。)

祖父は学者たちにお金を払って雇っており、ある理由から――その話全体には深入りしたくないが――私に深遠な雰囲気を作り出し、神智学派やその一味に影響を受けて私を正しい方法で教育することに没頭していた。そのため、毎朝それらの連中がやってきて、ウパニシャッド、パンチャダシー、ナイシュカルミヤ・シッディ、その注釈書、注釈書の注釈書、そういったもの全体を朝の4時から6時まで読み上げ、5歳か6歳か7歳かのこの幼い少年――私だが――はそのようなデタラメをすべて聴かされなければならなかったのだ。あまりにもひどかったので、7歳になる頃にはパンチャダシーやナイシュカルミヤ・シッディ、あれこれの一節など、そういったもののほとんどを暗誦できるようになっていた。非常に多くの聖者が我が家を訪れた――ラーマクリシュナ修道会やその他の人々だ。名を挙げれば、そうした連中はなんとかしてあの家を訪れていたものだ――あらゆる聖者に開かれた家だったのだ。だから、私がごく若い頃に発見したことの一つは、彼らが皆ヒポクリット(偽善者)だということだった。彼らは口では何かを言い、何かを信じていたが、彼らの生活は浅薄で、無内容だった。それが私の探求の始まりだった。

祖父はよく瞑想をしていた。(彼はもう亡くなっているし、彼の悪口は言いたくないのだが。) 彼は専用の瞑想室で1時間か2時間瞑想していたものだ。ある日、1歳半か2歳くらいの幼い赤ん坊が、何かの理由で泣き出した。すると例の男が降りてきて、その子を殴り始めたのだ。子供の顔色は青ざめるほどだった――毎日2時間瞑想しているこの男が、だ。「見ろ! 一体全体この男は何をしたんだ?」 それはある種の(心理学用語は使いたくないが、避けようがない)トラウマ的な体験を突きつけた――「瞑想という営み全体には、何かおかしいところがあるに違いない。彼らの生活は浅薄で、空虚だ。彼らは素晴らしく語り、実に美しい方法で物事を表現するが、彼らの生活はどうなのだ? 彼らの生活にはこの神経症的な恐怖がある。何かを口にしながら、それが生活の中で機能していない。彼らのどこがおかしいのだろう?」――私がそうした人々を裁判官のように裁いたというわけではない。

物事は延々と続き、私はこれらのことに深く巻き込まれていった――「彼らが掲げているもの――ブッダ、イエス、偉大な師たち――に何か価値があるのだろうか? みんながモークシャ、解脱、自由について語っている。それは一体何なのだ? 自分自身で確かめたい。こいつらは皆役に立たない連中だが、それでもこの世界には、そうしたすべての体現者であり使徒であるような人物が一人くらいはいるはずだ。もし一人でもいるなら、自分自身で突き止めたい。」

それから非常に多くのことが起こった。当時はシヴァーナンダ・サラスワティという男がいた――彼はヒンドゥー教の伝道者だった。14歳から21歳の間(無駄な出来事は大幅に省くが)、私はよくそこへ行って彼に何度も会い、あらゆること、あらゆる苦行を行った。私はとても若かったが、モークシャなどというものが存在するかどうかを絶対に突き止めてやると決意していたし、そのモークシャを自分自身のために欲していた。そのような人々に偽善などあり得ないのだと、自分自身にもあらゆる人にも証明したかった――「こいつらはみんな偽善者だ」――だから私はヨーガを実践し、瞑想を実践し、あらゆるものを学んだ。私は本に書かれているあらゆる種類の体験――サマーディ、スーパー・サマーディ、ニルヴィカルパ・サマーディ、すべてを体験した。そして私は自分に言ったのだ。「思考は望むあらゆる体験を作り出すことができる――至福、聖福、エクスタシー、無への融解――それらすべての体験をだ。だから、これは本物であるはずがない。なぜなら機械的にこれらのことをやっている私は同じ人間のままだからだ。瞑想など私には何の価値もない。これは私をどこへも導いてくれない。」

それから、いいかね、若い人間の少年だった私にとって、性が途方もない問題になった――「これは自然なことであり、生物学的なことであり、人間の身体における衝動だ。なぜこの人々は皆、何か別のものを得るために、この性を否定し、ごく自然なもの、全体の一部であるものを抑圧しようとするのか? これは私にとってモークシャや解脱やそういったすべてのものよりもリアルで、重要だ。これは現実なのだ――私は神々や女神たちのことを思い浮かべ、夢精をする――私にはそういうことがある。なぜ罪悪感を抱かなければならないのか? それは自然なことだ。このようなことが起こるのを私にはコントロールできない。瞑想も役に立たなかった、勉強も役に立たなかった、私の規律も役に立たなかった。私は塩一つ口にせず、唐辛子もスパイスも一切口にしなかった。」 するとある日、私はこのシヴァーナンダという男が密室でマンゴーのピクルスを食べているのを見つけたのだ――「ここに、何かを得られるという希望のために自分からすべてを拒んできた男がいるが、その奴自身が自分をコントロールできていない。彼は偽善者だ」――彼の悪口を言いたいわけではないが――「こんな生き方は私のものではない。」

2026/10/27

世界が幻想だというわけではありません

以前にもこのブログで取り上げたのですが、「The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話」の中で、とくにすごいなと思ったのは、「The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 8」です。ここを何度も読んでいます。

特にすごいと思ったところをもう一度載せておきます。

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世界が幻想だというわけではありません。インドのヴェーダーンタ哲学の哲学者たち、とりわけシャンカラの学徒たちは、そのような軽薄で全くのナンセンスに耽溺しています。世界は幻想ではありません。しかし、それ自体が幻想である「ある一点」との関わりにおいて何かを経験するならば、その経験は必然的に幻想となります。ただそれだけのことです。サンスクリット語の「マーヤー(maya)」は、英語の「イリュージョン(illusion)」と同じ意味での「幻想」を指すわけではありません。「マーヤー」とは「測る」ことを意味します。基準となる点(起点)がなければ、何ものも測ることはできません。つまり、中心がなければ、円周など存在し得ないのです。これは極めて単純明快な、初歩的な算数の理屈です。
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セイラーボブをはじめ、いろんな非二元の教師たちが世界は幻想だということについて説明していて、それはそれで納得できる説明もあるのですが、どこかにひっかかるところがあって、すっきりしませんでした。

でも、U.G.のこの説明でひっかかりが消えた感じがします。世界は幻などではない。あなたがいないだけだ、ということなのだと思います。そして、この引用した前後の言葉もとてもいいです。

U.G.は自分のことを非二元の教師だとは言いませんが、彼こそが本当の非二元の教師なのではないでしょうか。

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話は変わってYouTubeの話。

英語のYouTubeを英語字幕の文字おこし機能を使って見る時、今まではデスクトップパソコン(Windows10)にセイコーのSIIという電子辞書をつないで、わからない単語があると、その単語をクリックして辞書で調べるということをしていました。

ところが、最近パソコンが壊れたので新しいパソコン(Windows11)を買ったところ、その電子辞書がもうWindoes11に対応していないということで、使えなくなりました。電子辞書に手動でスペルを打ち込むなんて面倒だなあと思っていました。

ところが、YouTubeの進化は恐ろしいもので、YouTubeの文字おこし機能を使って文字おこしした英文のわからない部分を右クリックすると「選択範囲を日本語に翻訳」というのが出てくるので、それを右クリックすると自動で翻訳してくれるということがわかりました。え~、この機能はいつからあるのか、これでもう辞書要らないじゃん。しかも単語だけでなく、文章も瞬時に翻訳してくれる。精度はあまり高くないけど、意味はわかる。

今までだったら、わからない文章をGoogle翻訳やGeminiなどにコピペして翻訳してもらっていたのに、そんなことしなくてもいい。まあ、どうでもいい情報かもしれませんが、英語のYouTubeを見るのに役立つ情報としてお伝えします。何?もう知っていた?なんか、どんどん取り残されていくような・・・