何であれ、起こるべきことは、今起こらなければならない。それが今起こる可能性は、現実的に考えて、ほとんど完全に不可能です。なぜなら、あなたが使っている道具は「過去」だからです。過去が終わらないかぎり、現在はあり得ません。そして、その現在という瞬間は、あなたには捉えることも、経験することもできません。
仮に、ほんの一瞬だけ、過去が終わったとしましょう。それでも、あなたには、それが終わったと知る方法がありません。そのとき、あなたには未来もまったく存在しません。
たぶん明日には、あなたが会社の社長になっているかもしれない。あるいは学校の先生がその学校の校長になるかもしれないし、教授が学部長になるかもしれない――そういう可能性はあります。しかし、そのためには大変な努力をしなければならないし、それには時間がかかります。
あなたは、自分が関心を持っていること[精神的な目標]を実現するためにも、まったく同じやり方を使っています。そして、それ[あなたの心]は、それを未来にある目標として設定してしまう。このやり方は、この世界では途方もない成果を生み出してきました。
だから、あなたはこう尋ねるわけです。「では、なぜその道具が、私の精神的な目標を達成するための道具にはならないのか?」
あなたは試してきた。できることはすべてやってきた――それを見つけたいという飢えに燃えている人たち[あなたがた]でさえそうです――それでも不可能なんです。
インドでは、誰もがこれを試してきました――信じられないでしょうが――誰一人として幸運にもそれを成し遂げた人はいません。
そういうことが起こったときにはいつでも、自分の探求を完全に、徹底的に、すべて放棄した人たちに起こったんです。それが、その種のことが起こるための絶対的な必要条件です。
運動全体がゆっくりになり、そして停止しなければならない。しかし、それを止めようとしてあなたが何かをすれば、それ自体がまた、その運動に勢いを加えてしまう。そこが、本当の問題の核心なんです。
あなたが関心を持っているものは、存在しません。それは、あなたがそれらについて持っている知識をもとにした、あなた自身の想像です。
だから、それについてあなたにできることは何もない。
あなたは、まったく存在しないものを追いかけているんです。
私は、牛が家に帰ってくるまで――ここではいつ帰ってくるのか知りませんが――あるいは「世の終わりまで」そう言い続けることもできます。しかし、その王国は決してやって来ません。
それでもあなたは、どうにかして自分の目標を達成する方法が見つかるだろうと期待しながら、進み続けます。
日々の問題を解決するためにそれを手に入れたい、というあなたの関心は、とんでもなく見当違いな考えです。なぜなら、それはあなたの問題を解決するのに何の役にも立たないからです。
「もし私がその悟りを得ていたら、すべての問題を解決できるのに。」
あなたは、それをすべて持ったまま、しかも悟りを得ることはできません。それが来たときには、すべてを消し去ってしまうんです。
あなたは、この世のすべてと、天国までも欲しがっている。
そんなこと、あり得ません!
それは、あなた自身の努力によって起こさせることのできるものではありません。誰かの恩寵によっても起こせない。まして、この地上を歩いている神が、「あなたのために、人類のために、どこか[何らかの天界]から特別に降りてきた」と主張して、その神の助けによって起こせるものでもない――そんな話はまったくのでたらめです。
誰もあなたを助けることはできません。
何を達成するために助けるというのか?
そこが問題なんです。
あなたの目標が存在するかぎり、こういう人々も、彼らの約束も、彼らの技法も、あなたには非常に、非常に魅力的に見えるでしょう。
それらは一組になっているんです。
あなたが何かをしなければならない、ということは何もありません。
とにかく、あなたはすでにいろいろなことをしている。
何もせずにいられますか?
いられないでしょう。
残念ながら、あなたは何かをしている。そして、その「すること」は終わらなければならない。
ところが、その「すること」を終わらせるために、あなたはまた別のことをしている。
それこそが、本当の問題の核心なんです。
あなたが置かれている状況はそういうものです。
私に言えるのは、それだけです。
私は、あなたがやっていることの不条理を指摘しているだけなんです。
昨日言ったように、あなたをここへ連れてきたものは、必ずあなたを別の場所へ連れていくでしょう。
ここで得るものは何もありません。
ここでは何も得られない。
別に、私が何かを自分のために取っておきたいということではありません。欲しいものがあるなら、何でも持っていけばいい。
私には、あなたに与えるものなど何もありません。
私は、あなたがたと違う何かではありません。
あなたは、私が何か別のものだと思っている。
しかし、「自分は他人とは違う」という考えが私の頭に浮かぶことは、一度もありません。
一度もない。
質問をされると、私はこう感じるんです。
「なぜこの人たちは、こんな質問をするんだろう? どうしたら、この人たちに分からせることができるんだろう?」
そう思うこと自体、私の中にまだ少し幻想の痕跡が残っているということなのかもしれません。
「ひょっとしたら、やってみることができるかもしれない。」
[しかし]その「やってみる」ということさえ、私にとっては何の意味もありません。
私にできることは何もない。
得るものは何もない。
与えるものも何もないし、得るものも何もない。
それが状況なんです。
物質的な世界なら、話は別です。
そこにはたくさんのものがあります。
知識を与えてくれる人、お金を与えてくれる人、その他、世の中にはいろいろなことであなたを助けてくれる人が必ずいる。
しかし、ここ、この領域には、与えるものもなければ、得るものもない。
あなたが「欲しい」と思っているかぎり、あなたには絶対にチャンスがないと思っていい。
なぜなら、「欲しい」ということは、自分の目標を達成するために思考を動かし始めることを意味するからです。
問題は、あなたの目標を達成することではない。
問題は、この運動がここで終わることなんです。
あなたにできる唯一のことは、それを達成する方向へ向かって思考の運動を始動させることです。
では、どうやって、この不可能な仕事を達成するというのですか?
欲望と考えること――この二つはいつも一緒です。
私は、「あなたはすべての欲望を抑圧しなさい」と言っているのではありません。
「すべての欲望から自由になりなさい」とか、「すべての欲望をコントロールしなさい」と言っているのでもない。
まったく違います。
それは宗教がやっているゲームです。
何かを欲しいと思えば、あなたがすることはただ一つ、その目標を達成するために思考の運動を始動させることです。
物質的な目標なら、それはそうでしょう。
しかし、それでさえ簡単ではありません。
ここは非常に競争の激しい世界です。
私たちが分かち合えるものなど、もうあまり残っていない。
みんなに行き渡るほど十分なものはない。
誰かと何かを「分かち合う」などという話は、私にはたわごとにしか聞こえません。
ここには、分かち合うものなど何もない。
これは「経験」ではありません。
仮に、ほんの一瞬だけ、これが経験だとしましょう。
それでも、それを誰か他の人と分かち合うのは非常に難しい。
相手の人間にも、自分の経験の構造の中に何らかの基準点がなければならないからです。
そうなると、あなたは分かるでしょう。このこと全体が、意味のない儀式のようになってしまう。
座って、こうしたことについて話し合う。
それだけです。
あなたが手放すのは、そんなに簡単なことではありません。
まったくね。
Q: 私には、何についても何も知らなかったときに、これが起こったんです。
U.G.: そうでしょう。何も知らない。ただ起こったんです。
Q: でも、私はただ床に座っていただけなんです。それで起こった。私は死ぬほど怖かった。
U.G.: それでいいんです。
ところが今、あなたはそれがもう一度起こってほしいと思っている。
違いますか?
神に感謝すべきですよ。
あなたの精神的な探求は、そうやって終わるんです。
他に方法はありません。
私はあなたを怖がらせようとしているわけではありません。
でも、どうしてそれが起こると思うんですか?
ドラッグを使っている人たちが、あらゆる種類の体験をするのも、まさにそういうことです。
この種のことを何も聞いたことがない人たちでさえ、確かにいろいろな体験をする。
そして、それが彼らを、このメリーゴーラウンドに乗せてしまう。
インドには、あなたが望むあらゆる種類の体験を与えるための技法、体系、方法がいくらでもあります。
だからこそ、彼らはものすごい商売をしているんです。
Q: でも、それは瞑想のときとか、これをしたときとか、あれをしたときとか、そういうふうに私の頭に浮かんだものではありませんでした。何かまったく違うものだったんです。
U.G.: 起こったんです――そういうことは起こる。
何か特別な体験が。
人は、何も知らず、何も求めず、何もそういうことをしていなくても、そうした体験をすることがあります。
あなたにとっては、それは恐ろしい体験だった。
ところが今、あなたは、他の精神的な体験を何度も何度も何度も起こしたいと思っている。
あなたが何かを「起こそう」として起こしたものには、まったく意味がありません。
そうすると、あなたはもっともっと、そういうものを欲しくなる。
そして、もっともっとそういうものを手に入れることに成功すると、今度は、何らかの永続的な状態、永遠の幸福、永遠の至福を要求するようになる。
しかし、「永続するもの」などというものは、そもそも存在しません。
ないんです。
おそらく、それは至福に行き着いたのかもしれません。
誰に分かりますか。
Q: では、私たちはすでに、あるがままの自分そのものだと言っているんですか?
U.G.: あなたはその事実を受け入れたくない。
でも、自分が何なのかを知りたいと思っている。
そこが問題なんです。
あなたには、それを知る方法がまったくない。
「そこにあるものが何なのか」を知ることは不可能です。
それは常に、「自分はどうなりたいのか」ということと結びついている。
あなたがここで見ているものは、自分がなりたいもの、自分がそうありたいと思うもの、自分がそうあるべきだと思っているもの、その反対です。
ここで何が見えていますか?
あなたは幸せになりたい。
だから不幸なんです。
幸せになりたいという欲望が、不幸を生み出している。
ここであなたが見ているものは、「幸せになりたい」「幸せでありたい」という目標の反対なんです。
いつも快楽を得ていたいと思うことが、ここに苦痛を生み出している。
だから、欲望と考えることはいつも一緒なんです。
別々ではありません。
あなたが何かを欲しがると、それが苦痛を生み出す。
なぜなら、あなたは考え始めるからです。
欲望と考えること。
この世界で何も欲しくなければ、思考はありません。
だからといって、思考そのものが存在しないという意味ではありません。
物質的な目標を達成したいのか、精神的な目標を達成したいのか――そんなことは、本当はどうでもいい。
私は、欲望そのものに反対しているのではありません。
「欲しい」ということは、その欲望が満たされるか、満たされないかということが、思考を通してのみ可能になるということです。
だから、本当にあなたの問題を作り出しているのは、思考なんです。
私が言っているのは、私たちが抱えている問題はすべて、心理的なレベルや倫理的なレベルでは解決できないということです。
人間は何世紀にもわたって、それらを解決しようとしてきた。
しかし、失敗してきた。
それでも人間を動かし続けているのは、
「いつの日か、同じことをもっともっとやれば、きっと達成できる」
という希望です。
しかし、先ほども言ったように、身体には、これらの問題を解決する方法があります。
なぜなら、身体はそれらを受け入れることができないからです。
何かから自由になろうとしてあなたがしていることは、感覚知覚の感受性を破壊している。
あなたが自由になりたいと思っているものから自由になろうとして行っていることが、ここにある神経系の感受性を破壊しているんです。
この生きている身体が生き残るためには、神経系は非常に鋭敏でなければならない。
非常に敏感でなければならない。
感覚知覚もまた、非常に敏感でなければならない。
ところが、あなたはそれらを敏感なままにしておく代わりに、「感受性」と呼ばれるものを作り出した。
いわゆる「感情の感受性」、心の感受性、周囲にいるあらゆる生き物に対する感受性、そこにいるすべての人の感情に対する感受性です。
そして、それが神経学的な問題を作り出してしまったんです。