2026/10/20

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 21(最終回)

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U.G.:いかなる力も、いかなる神も、それを止めることはできない。なぜなら、そうした神々自身が、破壊の力をすでに動かし始めているからだ。今、まさにそれが起こっているのがわかるだろう。穴居人がロバの顎骨を使って隣人を殺していた頃には、ほかの者たちが生き延びる可能性もあった。今日、クレムリンやホワイトハウス、そしてインドの国会議事堂に住んでいる同じ穴居人たちこそが、破壊の力を動かし始め、解き放つことになるのだ。その力は、この惑星上のあらゆる生命形態を完全に一掃してしまうだろう。

そして人間は、今日この惑星に存在するあらゆる種を、自分とともに滅ぼすことになる。それはすべて、人々に宗教を教え、この地上に愛を打ち立てようとした人間の思考から生まれたものだ。そして、彼がそれをどんなものにしてしまったか、見てみるがいい!

Q:つまり、あなたの言うとおり、それを止めることはできないのだとしたら……。

U.G.:あなたに止められるのか? 止められるのか? 止めることはできない。だから、あなたにできる唯一のことは……。

Q:人類として、望みさえすれば、それを止めることはできると思います。

U.G.:いつだ? そもそも、あなたたちは明らかにそれを望んでいない。望んでいるのか?

Q:はい。

U.G.:では、どうやってそれを実現するつもりなのか? どうやるのか、言ってみなさい。事態全体がどれほど差し迫っているか、わかっているのか? どこかの狂人がボタンを押すかもしれないのだ。なのに、私たちはここでのんびり座って、こんなことを話している……。

Q:それでも、止められる可能性はあると思います。

U.G.:その可能性とは何だ?

Q:行動することです。

U.G.:どうやって? いつ行動するつもりなのか。手遅れになってからか。すべてが、あの大虐殺が解き放たれてしまえば、もう手遅れだ。あるいは、反核運動に参加することもできる――だが、それはばかげている。

Q:ばかげているのですか?

U.G.:もちろんだ。

Q:もう手遅れなのですか?

U.G.:あなたは、自分のちっぽけな財産を警察に守ってもらいたいとは思わないのか? 水素爆弾は、それと同じものが拡張されたものなのだ。「こちら〔警察〕は欲しいが、あちら〔爆弾〕はいらない」とは言えない。それは同じものの延長なのだ。

Q:では、私たちにはどうすることもできないのでしょうか?

U.G.:それを止めることが自分に可能だと、なぜ思うのか? あなた自身の中では止めることができる。反社会的な人間になることなく、改革者になることなく、何かに反対したり、別の何かに反対したりすることなく、自分の中で働いている社会構造から自由になりなさい。自分自身のために、自分ひとりの力で、そのすべてを自分の内側から放り出し、この文化の重荷から自由になることはできる。それが社会にとって何か役に立つかどうかは、あなたの関知するところではない。たった一人でも自由に歩む人間がいれば、この恐ろしい文化があなたに何をしたのかという、息が詰まるような感覚は、もうなくなる。東洋も西洋もない。すべて同じだ。人間の本性はまったく同じで、違いなどない。

あなたが関心を持っているのは、何をすべきか、どうすべきか、それだけだ。

Q:私たちは皆、そうです。

U.G.:どうすれば止められるのか? 一個人として、あなたにできることなど何一つない。集団になれば、あのような救世軍をつくることはできる。それだけだ。だから何だというのか? また別の教会、別の聖書、別の説教師ができるだけだ。

Q1:そのような答えについて、あなたはどう思いますか?

Q2:そのような答えについて、私がどう思うか、ですか? 賛成はします。でも、とても理論的です。文化の重荷から自由になれ、ということですね。それは理解できます。でも、実際にはとても難しい。もちろん、私にできることは何もありません。

U.G.:何もない。何一つない……。あなたには、行動の自由などまったくないのだ。

Q:そうですね。

U.G.:それが理解されたとき、そこにあるものが自らを表現する。そこにある知性は、人間が思考を通じて生み出してきたあらゆる解決策よりも、はるかに効果的に働くことができる。そうした解決策は、何百万年、何千万年、何億年もの〔進化〕の結果なのだ。私たちが自分たちの前に掲げてきた理想、つまり完全な人間というものは、単なる神話にすぎない。そのような人間は、そもそも存在しない。理想の人間など存在しないのだ。それはただの言葉であり、観念にすぎない。あなたは生涯をかけて、その理想の人間になろうと努力する。そして最後に残るのは、惨めさと苦しみ、そしていつかそうなれるという希望だけだ。「いつの日か、あなたにもわかるだろう」。それが希望なのだ。私たちはその希望を抱いたまま死んでいく。

Q:では、解決策の一つは、自分がここにいることを、自分が今あるがままの姿で受け入れることなのですね。

U.G.:そのとおり。まさに今のあなたのままでいることだ。そうすれば、社会と対立することはなくなる。文化はあなたの中に要求を植えつけた。それがあなたを駆り立て、自分を何か別のものに変えたいと思わせている。それこそ文化があなたにしたことなのだ。そんな要求をあなたの中に植えつけたのだ。あなたが何かをしようとすると、〔彼らは〕「おい、よく見ろ。足元に気をつけろ」と言う。それが彼らのやっていることだ。

そこに次に働きかけてくるものがある。それが社会だ。社会は「足元に気をつけろ」と言う。それによって、あなたの中に恐怖が植えつけられた。その一方で、社会は恐怖から自由になることや、勇気を持つことなどについて語る。そして、何ものにも並ぶ者のない人間になれ、と言う。それはただ、社会の現状を維持するための駒としてあなたを利用するためなのだ。

だからこそ、社会は勇気を教え、恐れを知らないことを教える。社会の継続性を維持するために、あなたを利用できるようにするためだ。あなたはその一部なのだ。だから、あなたが行動しようとするたびに、そこに現れるのは恐怖であり、行動することが不可能だという感覚なのだ。社会はあなたの外側にあるのではない。文化もあなたの外側にあるのではない。そして、あなたがそれらから自由にならないかぎり、行動することはできない。

Q:それらから自由にならないかぎり、ということですか?

U.G.:そうなれば、あなたはここに来て、「どのような行動を取ればよいのでしょうか」と私に尋ねることもなくなるだろう。行動はすでにある。あなたに関して言えば、すでに行動はあるのだ。

Q:では、人間は社会から自由になったときに初めて行動する資格を得る、ということですか。あなたは自由なのですか?

U.G.:人間が行動できないのは、いつも行動する自由という観点から考えているからだ。「どうすれば自由に行動できるようになるのか?」。あなたが関心を持っているのは、それだけだ。自由のことばかり考えている。しかし、あなたはその自由を行動として実現していない。行動する自由を求めることが、行動そのものを妨げている。その行動は、社会的でも反社会的でもない。

Q:では、自分自身と自分の置かれた状況を受け入れれば、自由になれるのですか?

U.G.:それだけだ。もう社会と対立することはない。あなたは社会にとって何の役にも立たなくなるだろう。反対に、社会にとって脅威となれば、社会はあなたを抹殺する。

あなたが神経症的になっているのは、同時に二つのことを望んでいるからだ。それがあなたの問題を生み出している。同時に二つのことを望んでいるのだ。あなたは自分自身を変えたいと思っている。その変化を要求しているのは社会だ。社会の一部となり、何も変わらない社会構造の継続性を維持できるようになるためだ。ところが、あなたはもう一方で変化を望んでいる。ここに葛藤がある。

自分自身を変えようという要求がなくなれば、周囲の世界を変えようという関心も、それに伴って自然になくなる。両方とも終わるのだ。そうでなければ、あなたの行動は社会にとって危険なものとなる。社会はあなたを抹殺する。それは確実だ。だから、その社会構造によって抹殺される覚悟を持つこと、それが勇気なのだ。

戦場で死ぬことではない。自分の旗のために戦うことでもない。旗は何を象徴しているのか? あなたはここで自分の旗を振り、彼らは向こうで自分たちの旗を振る。そして双方が平和について語る。この状況全体が、なんとばかげていることか。それなのに、あなたは平和について語る。あなたは自分の旗に忠誠を誓い、彼らは彼らの旗に忠誠を誓っている。それと同時に、この世界の平和について語っているのか? あなたがここで自分の旗を振り、彼らが向こうで自分たちの旗を振っているかぎり、この世界に平和などあり得るだろうか? より優れた兵器を持つ者が、その日を制することになる。こちらでは私の旗、あちらではあなたの旗――そうした平和行進をする人々も、あるいは反核団体が新たな旗をつくることも、同じことなのだ。

Q:それは無意味ですね。

U.G.:私があなたに言うまでもない。あなたは警察官をなくす覚悟があるのか? 一個人として、あなたは自分自身を守りたい。何よりもまず自分の命を守りたい――それが正しいかどうかを、私は言っているのではない――あるいは、自分のちっぽけな財産を守りたい。だから、それを守るために警察官の助けが必要になる。そして、あなたは線を引いて、「ここが私の国だ」と言う。自分の国を守りたいのだ。それができなくなると、自分自身を守るために、破壊の手段も拡大せざるを得なくなる。そして、それは防衛のためだと言うだろう。確かに、防衛のためなのだ。あれ〔爆弾〕は、これ〔警察官〕の延長にすぎない。自分の持ち物を守るために警察官を必要としているかぎり、あれに反対することはできない。あそこに座り込んで、平和行進を続け、原子炉の周囲に座り込み、平和の歌を歌い、ギターを弾き、「戦争ではなく愛を」と唱えることはできる。だが、そんなたわごとに耳を貸してはいけない。愛を営むことと戦争をすることは、同じ源から生まれている。〔そんな歌を歌うことは〕偽善的な茶番になってしまう。

〔もう十分だと思う。もう十分だ。〕

Q:では、私たち自身と、私たちが生きている世界との関係は、どのようなものなのでしょうか?

U.G.:まったく何もない。ただし、あなたが経験している世界は、あなた自身がつくり出した世界だ。あなたは自分だけの世界に生きている。自分自身の経験から世界をつくり上げ、それを外の世界に投影しようとしている。あなたには、世界の現実そのものを経験する手段がまったくない。あなたと私は、ビデオカメラを説明するのに同じ言葉を使う。あなたが手に持っているものは、ペンか鉛筆だ。場合によって違うが、そういうことだ。だから、私たちはこうしたものをすべて有効なものとして受け入れなければならない。なぜなら、それらは実際に役立つからだ。この世界で機能し、一定の水準で知的に意思を伝え合う助けになるからだ。

Q:では、誰もほかの人の手本にはなれないということですか?

U.G.:〔誰かに従うことは〕動物にのみ当てはまることであって、人間には当てはまらない。人間は誰にも従うことはできない。身体的な面では、ほかの人々に頼らなければならない。しかし、それだけのことだ。

Q:精神性において成長するというようなことは存在しない、とお考えですか? それとも……。

U.G.:私が言いたいのは、そもそも精神性などというものは存在しない、ということだ。あなたが物質的な生活と呼ばれるものの上に、精神性と呼ぶものを重ね合わせると、自分自身に問題をつくり出すことになる。なぜなら、あなたは周囲の物質世界に成長や発展を見ているからだ。そこで、その考え方を、いわゆる精神的な生活にも当てはめてしまう。

Q:物事を分離し始めるところから、問題が始まるということですか?

U.G.:物事を分離し、物質的な生活と精神的な生活に分けることだ。生命は一つしかない。これが物質的な生活であり、もう一方とされるものには何の関係もない。あなたの物質的な生活を、宗教家たちが与え、あなたの前に掲げた、あのいわゆる宗教的な型へと変えようとすること。それが、あなたがこの物質世界の現実をあるがままに受け入れ、調和して生きる可能性を破壊している。それがあなたの痛み、苦しみ、悲しみの原因なのだ。

あなたは、そうした人間になろうと絶えず奮闘し、存在しない何かを追い求めている。そんなことには、何の意味もない。それによって、何かをすることこそが自分にとって何より重要なのだ、という感覚が生まれる。実際にそれを達成することではない。あなたは〔そうした偽りの目標から〕ますます遠ざかっていく。それに努力を注げば注ぐほど、気分がよくなる。あなたが抱えている問題も同じだ。問題を解決しようとすることだけが、あなたにとって重要なのだ。しかし、あなたにとっては問題そのものよりも、解決策のほうが興味深い。問題を見つめることより、解決策に関心がある。私が尋ねるのは、問題とは何なのか、ということだ。あなたには問題などない。あるのは解決策だけだ。問題とは何なのか? 誰も私に、問題が何なのかを教えてくれない。

あなたは、これらがすべて解決策だと言っている。そして、自分の問題を解決するには、どれを使えばいいのかと尋ねる。では、問題とは具体的に何なのか? 物質的な問題なら理解できる。健康を損ねているなら、健康のために何かをしなければならない。お金がないなら、お金について何かをしなければならない。こうしたことは理解できる。しかし、心理的な問題があるとなると、本当の問題が始まる。心理学者たちも、宗教家たちも、さまざまな療法や解決策を用いてあなたを助けようとしている。だが、彼らはあなたをどこにも導いていない。そうではないか? 個人は以前と同じように、浅薄で空虚なままだ。彼らは自分自身に何を証明したいのだろうか?

Q:自分自身の人生をそのまま生きていけば、問題は自然に解決する、とお考えなのですか?

U.G.:問題とは何なのか? あなたは決して問題そのものを見つめない。解決策に関心を持っているかぎり、問題そのものを見つめることはできない。

Q:解決策は欲しくないのですか?

U.G.:あなたが関心を持っているのは、解決策だけだ。問題を解決することではない。

Q:それは同じことではありませんか?

U.G.:その過程で、あなたはそうした解決策が実際には何の役にも立たないことを見いだす。どんな問題であれ、それらの解決策は問題を解決しない。そうした解決策は、問題を存続させる。解決するのではない。テープレコーダーやテレビに不具合があるなら、修理することができる。助けてくれる技術者もいる。しかし、こちらは一生涯、延々と続く、終わりのない過程なのだ。何かがますます増え、別の何かがますます減っていく。

だから、あなたは決して解決策そのものを疑わない。本当に解決策を疑うなら、その解決策をあなたに与えた人々も疑わざるを得なくなる。しかし、感傷的な思いが邪魔をして、解決策だけでなく、それを与えてくれた人々まで拒絶することができない。そのことを問い直すには、あなた自身に途方もない勇気が必要だ。山に登ったり、湖を泳いで渡ったり、いかだに乗って大西洋や太平洋の向こう岸まで行ったりする勇気なら、あなたにもあるだろう。そんなことは愚か者にだってできる。しかし、自分自身の力で立ち、自分の両足でしっかりと立つ勇気は、誰かから与えてもらえるものではない。その勇気を育てようと努力しても、その重荷から自由になることはできない。人類の過去全体という重荷から自由になれば、そこに残るもの、それが勇気なのだ。

終わり

2026/10/16

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 20

私が言っているのは、「ほら、あなたには何の問題もない」ということだ。あなたは、持てるかぎりの強調を込め、ものすごい勢いで、「ほら、私にはここに問題がある」と言い張る。

いいだろう、あなたには問題がある。そのあなたが言っている問題は、指し示して、「これが問題だ」と言えるものだ。肉体的な痛みは現実に存在する。だから、医者のところへ行く。処方された薬が身体にとって良いものかどうか、毒なのかどうかにかかわらず、それは、たとえどれほど短いものであっても、必要とされる苦痛の軽減をもたらす。しかし、あの人たちが提供しているセラピーは、存在していない問題をますます強めている。……あなたはただ解決策を探し続けている。もし彼らが提供している解決策に何らかの実効性があるのなら、問題は消えなければならない、なくならなければならない。ところが実際には、問題は依然としてそこにある。それなのにあなたは、あの人たちが救済として、あるいは問題から解放してくれるものとして提供している解決策そのものを、決して疑おうとしない。

神聖さ、悟り、変容などという名目で、こうした「商品」を売り込んでいる人たちが私たちに提示してきた解決策を疑ってみれば、それらは本当の解決策ではないことが分かるだろう。もしそれが解決策なら、結果を生み出し、あなたを問題から解放するはずだ。だが、そうはならない。

あなたが解決策を疑わないのは、そこに感情が入り込んでくるからだ。「市場でこれを売っているあの男が、詐欺師であるはずがない。偽物であるはずがない」。あなたはその男を悟りを開いた人間、あるいは地上を歩く神だと思ってしまう。その神様とやらは、あなたをだましているだけかもしれない。もしかすると、自分自身をだまし続け、その自己欺瞞に耽りながら、その粗悪な商品をあなたに売りつけているのかもしれない。あなたが解決策を疑わないのは、そうすると、それを売っている人間そのものを疑うことになるからだ。彼は不正直であるはずがない、聖者が不正直であるはずがない、と。

それでも、あなたは解決策を疑わなければならない。なぜなら、その解決策はあなたの問題を解決していないからだ。なぜ、その解決策を疑って、実際に試してみようとしないのか――その解決策が本当に有効なのかを検証してみないのか? それが機能しないと分かったなら、それを捨てなければならない。排水溝にでも、窓の外にでも放り捨てればいい。ところが、あなたはそうしない。いつかどうにかして、その解決策が自分の求めている救済を与えてくれるだろう、という希望があるからだ。あなたが使っている道具[思考]こそが、この問題を作り出したものなのだ。だから、その道具が、自分が信じている解決策が偽物かもしれないという可能性を、決して、決して受け入れることはない。それらはそもそも解決策などではないのだ。

その希望が、あなたを前へ進ませ続ける。それが、あなたに問題そのものを見ることを難しくしている。ひとつの解決策がうまくいかなければ、別のところへ行って、別の解決策を手に入れる。その解決策がうまくいかなければ、また別のものを探しに行く。あなたは、こうした解決策をあれこれ買い求めているだけで、一度たりとも自分自身に「そもそも問題とは何なのか?」と問いかけない。

私には問題など見えない。私に見えるのは、あなたが解決策にしか関心を持っていないということだけだ。そして、ここへ来て同じ質問をする。「別の解決策が欲しい」。私は言う、「そうした解決策は、これまであなたをまったく助けていない。それなのに、なぜまた別の解決策が欲しいのか?」あなたは自分の解決策のリストにもう一つ加えるだけだ。しかし結局は、まったく同じ状況に行き着く。ひとつの解決策が役に立たないと分かったなら、それを一つでも見抜いたなら、すべてを見抜いたのと同じことだ。ひとつずつ順番に試していく必要などない。

私が言っているのは、もしそれが本当に解決策なら、あなたは問題から自由になっているはずだ、ということだ。もしそれが解決策でないのなら、あなたにはそれについてできることなど何もない。そしてそのときには、そもそも問題など存在していない。だから、あなたは問題を解決することには関心がない。なぜなら、それはあなた自身に終止符を打つことになるからだ。あなたは問題に残っていてほしいのだ。空腹であり続けてほしいのだ。なぜなら、もし空腹でなければ、こうした聖者たちから食べ物を求めることもなくなるからだ。彼らがあなたに与えているのは、いくらかの食べ残し、食べ物のかけらだ。そしてあなたはそれで満足している。一瞬、それができるとして、彼[精神的指導者やセラピスト]がパン一斤まるごと与えられるとしよう――もちろん、そんなことはできない――彼がするのは、それをここに、どこかに隠しておいてやる、と約束することだけだ――約束だ。少しずつ、少しずつ……彼はあなたに与える。そしてそのために、あなたは空腹という問題そのものに取り組むことなく、自分の空腹という問題に向き合うよりも、解決策を約束しているあの男から、もう少し何かをもらうことに関心を持つようになる。

あなたは空腹という問題そのものに取り組んでいるのではない。空腹という問題に向き合うよりも、あの男から、もっと多くのパンくずをもらうことに関心を持っている。

Q: 映画を観に行くようなものですね。現実から逃げている。

U.G.: あなたは決して問題そのものを見ない。そもそも問題とは何なのか? たとえば怒りだ。私は、こうした人たちが何世紀にもわたって議論してきた、そんなくだらないことを全部論じたいわけではない。怒り。それはどこにある? その怒りを、この身体の働きから切り離すことができるか? 海の中の波のようなものだ。波を海から切り離すことができるか? 波が静まるまでそこに座って待ち、そうすれば海で泳げると思うことはできる。まるで、海の波が消えて穏やかな海で泳げるようになることを願って、何年も何年もそこに座っていたカヌート王のように。そんなことは決して起こらない。そこに座って、こうした波や、満潮や干潮についてすべて学ぶことはできる(科学者たちはあらゆる説明を与えてくれている)。しかし、それについての知識が、あなたの何の役に立つわけでもない。あなたはそもそも、怒りそのものをまったく扱っていないのだ。

まず第一に、怒りをどこに感じる? あなたが自由になりたいと思っている、こうしたいわゆる問題を、いったいどこに感じる? ……欲望は? 燃え上がる欲望。その欲望があなたを焼き尽くす。空腹があなたを焼き尽くす。だから、あなたが持っている解決策、つまりそれら[欲望や空腹]を満たすための手段は、とても単純なものであり、それが身体の中で自然に燃え尽きることを不可能にしている。

恐怖はどこに感じる? ここ、みぞおちのあたりに感じる。それは身体の一部だ。身体の中に存在するエネルギーの、こうした激しい満ち引きを、身体はそのまま受け止めることができない。だからあなたは、何らかの精神的あるいは社会的な理由から、それを抑え込もうとする。だが、そんなことに成功するはずはない。

怒りはエネルギーだ。ものすごいエネルギーの爆発だ。そして、どんな手段であれ、そのエネルギーを破壊することによって、あなたは生命そのものの表現を破壊している。それが問題になるのは、そのエネルギーに対して何かをしようとするときだけだ。それが身体のシステムに吸収されれば、怒りをそのままにしておいたら自分はきっと何かをしてしまう、とあなたが考えているようなことを、あなたはしなくなる。あなたが実際に扱っているのは怒りではなく、欲求不満なのだ。あるいは、人間関係や自分自身についての理解において、不器用さを生じさせてしまったような状況を避けようとしている。あなたは、将来そうした状況が起こったときに備えておきたいと思っている。

あなたが使っているその道具は、怒りが爆発するたびに、これまで何度も使われてきたものだ。それでもあなたは、その怒りから自由になることに成功していない。それなのに、これまで何年ものあいだ使ってきたこの同じ道具以外に、何か特別な状態へと至ることはないまま、それでも明日には、まさにこの同じものが自分を怒りから自由にしてくれるのではないかと期待している。それは同じ希望なのだ。

Q: でも、誰かがひどく怒っていたら、その人は暴力的になるかもしれません。

U.G.: その暴力は身体に吸収される。

Q: 脅迫することもあります。

U.G.: 誰に対して?

Q: 他の人たちに対して。

U.G.: そう。それで? だから何だ?

Q: ナイフを持って走り回ったり……。

U.G.: だから何だ?

Q: 誰かを殺したり。

U.G.: そうだ。なぜあなたは、何の罪もない何千人もの人々を殺しているのか。なぜ自然なものを抑え込もうとする一方で、無力な人々に爆弾を落としている国家を非難しないのか? 彼らを正気だと呼ぶのか? どちらも同じ源から生まれている。ここで自分の怒りをコントロールするために何かをしているかぎり、あなたはそのような残虐なことに耽り、それを正当化することになる。なぜなら、それこそが自分の生き方と、自分の考え方を守る唯一の方法だからだ。この二つは一組になっている。なぜそれを正当化するのか? それは狂っている。

その人はあなたを傷つけているわけではない。だが、その人はあなたの生き方を脅かしている。その人が、あなたにとって大切なものだと思っているものを奪ってしまう危険がある。怒りが爆発したときに、この人が行動するのを止めようとする考えは、まさにそれと同じなのだ。宗教的な人間は、怒っている人間は反社会的な人間になる、と考えるようになった。

彼が徳を実践しているかぎり、彼は反社会的な人間であり続け、怒りから行動することになる。社会があなたの前に掲げた目標、その同じ目標をあなた自身が実践すべき理想的な目標として受け入れている――その目標があなたにとって終わったとき、あなたは個人としても、国家として集団的にも、誰かを傷つけることはなくなる。

あなたは怒りそのものに対処しなければならない。[しかし]あなたが対処しているのは、怒りとはまったく関係のないものだ。怒りが生まれ、作用しているその枠組みの中で、怒りそのものを燃え尽きさせることを、あなたは一度たりとも許していない。枕を叩いたり、あれこれ何かを叩いたりするセラピーなど、ただの冗談だ。それで人が怒りから一度きりで完全に自由になるわけではない。

Q: 枕を叩く?

U.G.: そう、彼らがやっていることだ。彼らが行っているセラピーの一つだ……。

Q: 効果がない?

U.G.: [怒りは]また現れる。それで、どうする? あなたは怒りそのものに対処していない。ナイフを持って向かってくる人を殴らずに済む方法を見つけることに関心を持っているかぎり、あなたはこの怒りそのものに決して対処することはない。自分自身を守らなければならない。それは不可欠だ。あなたの怒りによって、その状況に対処することが不可能になるなどと、私は少しも言っていない。「非暴力でなければならない」とか、「誰かを傷つけてはいけない」などと言ってはいけない。その人があなたを傷つけているのだ。聖書にさえ、「目には目を、歯には歯を」とある。あなたはそれを決して実践しない。もちろん、彼らはもっと大きな規模ではそれを実践しているが、日常生活では、それはひどいことだと言う。私は、それについて何の問題も見ない。何が問題なんだ?

そもそも、そうした仮定の状況について議論しても意味がない。なぜなら、怒りで頭に血が上り、怒りに燃え上がっている人は、怒りという問題を探求したり、議論したりしようとはしないからだ。これは驚くべきことだ。本当に怒りで燃え上がっているとき、欲望で燃え上がっているとき、そして自分から自由になりたいと思っているあらゆるものに燃え上がっているとき――そのときこそ、それらのことに対処する時なのだ。そうでなければ、教室での議論になってしまう。誰かが怒りの解剖学について、怒りがどのように生じるかの解剖学について、あるいは愛の解剖学について話している。それではあまりにも馬鹿げている。あるいは、現実の状況になったときには機能しない解決策を彼らは提示する。だから私は、こうしたことをあれこれ議論しないのだ。何の問題もない。個人にとって問題などないのだ。怒り狂っているとき――そのときこそ、その人がそれに対処する時なのだ。それが思考を止める。

Q: U.G.、問題そのものを見ることは可能ですか?

U.G.: いいや。なぜなら、あなた自身が問題だからだ。

Q: では、答えはないのですか?

U.G.: あなた自身と問題とを切り離す方法はない。それこそ、あなたがやろうとしていることだ。私が、あなたは怒りを自分の外にあるものとして放り出し、それが自分とは別の対象であるかのように眺め、それに対処しようとしている、と言っているのはそういう意味だ。あなたが自分自身から切り離したとき、その結果として起こるのは、まさにあなたが恐れていることだ。それは避けられない。だから、それをコントロールする方法など、あなたにはまったくない。では、この「自分であるもの」から自分を切り離してしまうことを防ぐために、何かできることがあるのか? 自分自身が怒りそのものなのだと気づくのは、恐ろしいことだ。そして、それを止めようとしたり、防ごうとしたり、何とかしようとしたりすることは、すべて偽りなのだ。それ[それを防ごうとすることなど]は明日のこと、あるいは来世のことだ――今ではない。だから、それがあなたなのだ。

あなたは精神的な人間でも、宗教的な人間でもない。自分は宗教的な人間だと想像することはできる。怒りをコントロールしようとしているから、あるいは怒りから自由になろうとしているから、あるいは年月が経つにつれて、ますます怒らない人間になろうとしているからだ。そうしたすべてが、「自分が避けている、あの悪質な人間は自分ではない」と思わせてくれる。だが、あなたも同じだ。あなたが非難している人々よりも、あなたがより精神的な人間だというわけではない。

明日にはあなたは素晴らしい人間になって、怒りから自由になるつもりだ。それまでのあいだ、私に何をしてほしいんだ? あなたを称賛してほしいのか? 自分は精神的な人間だというラベルを貼ったから、あるいは洒落た衣をまとったから? 私に何をしてほしい? それで私にあなたを称賛してほしいのか? そこには称賛すべきものなど何もない。なぜなら、あなたもこの世界の他の誰と同じくらい悪質だからだ。それを非難するのか……? それを非難したところで意味はない。そこで起きていることとはまったく無関係な態度を取り、ある種の立場を装うことにも、何の意味もない。

では、どうしてそんな立場を装ったり、ある種の態度を取ったりして、自分は動物よりも優れていると思えるのか。動物のほうが人間よりましだ。怒りが生じれば、動物は行動する。そしてその[殺すという行為]は、生き延びるためだけのものだ。自分自身を養うために同胞を殺すのであれば、それは道徳的な行為だ――ただその目的のためだけならば。なぜなら、周りを見れば、一つの生命形態が別の生命形態の上に成り立っているからだ。そして、菜食主義を語りながら何百万人もの人間を殺すのなら、それこそ、人間の文明社会が行いうる最も不道徳で、許しがたい行為だ。二つのことのこの馬鹿馬鹿しさが分かるか? あなたはこれ[殺すこと]を非難する。[そして]動物を愛する。それは何のためなんだ?

そこにいる人間たちはどうなんだ? あなたは、彼らが自分にとって脅威だからというだけの理由で、彼らを殺し、虐殺している。いつか彼らが、あなたの持っているものをすべて奪ってしまうと思っている。だから、そういう人たちがやって来て、自分の持っているものを全部奪うことを予想して、あなたは自分の信念の名のもとに、何の神様だか知らないものの名のもとに、彼らを虐殺する権利が自分にあると思っている。それが、宗教が始まった当初からやってきたことだ。

では、そうした宗教をすべて復活させることに、何の意味がある? この国々にやって来て、自分たち自身の生活でも、彼らの出身国でも機能していないようなことを説いて回る、あれほど大勢のグルたちに、いったい何の意味がある? 彼らはいつでも、生命の一体性や生命の統一について語ることができる。だが、それは彼ら自身の生活の中では機能していない。それが何を意味する? あなたは、自分が生き延びるために必要な、ごく単純なことを非難する。それは非常に道徳的な行為だ。生き延びないこと、自分自身を養わないことこそ、倒錯した行為なのだ。

苦しみは、キリスト教全体がその上に築かれている土台だ。そこを忘れてはいけない。だからあなたは、天国――存在しない天国だ――に永久の席を得ることを願って苦しむ。今この地獄を通り抜けながら、死んだ後に天国へ到達することを願っている。何のために? だから苦しめ、と。すべての宗教がそれを強調している。苦痛に耐えよ、苦痛を耐え忍ぶことが手段なのだ、と。人生の終わりに、あるいはそれを信じたいのなら、何度もの生の連鎖の終わりに、楽園を得ることを願って、あなたは地獄を通り抜ける。私はただ、こうしたことを語ることの馬鹿馬鹿しさを指摘しているだけだ。追い詰められたときには、宗教的な[教え]など何の意味もない。そのときあなたは、ほかの誰とまったく同じように振る舞うだろう。だから、この文化も、あなたの価値観も、宗教的なものであれ、そうでないものであれ、そこには少しも届いていない。

もし人間が、この道徳的なジレンマから解放されたなら――それこそが、人間の思考全体の基礎となってきたものなのだが――人間は人間らしく生きるだろう。精神的な人間としてではない。宗教的な人間としてでもない。宗教的な人間は社会にとって何の役にも立たない。親切な人間は社会にとって脅威なのだ。親切であることを一つの芸術として実践している人間はね。

Q: ……脅威なのですか?

U.G.: [彼は]社会にとって脅威なのだ。なぜなら、あらゆる破壊は彼ら[宗教の教師たち]から生まれてきたからだ。愛について語る者、「汝の隣人を汝自身のように愛せよ」と語る者、非暴力について語る者。そうした人間の思考から、あらゆる破壊的な力が生まれてきた。だから、私たちはみな、その文化を受け継いでいる。私たちには、それ以外のことをすることなどできない。[こうした教師たちを拒絶すれば]あなたは、この重荷から、この文化全体の偽りから解放される。それだけのことを私は言っている。個人として、私たちに押しつけられてきたあらゆる不条理の総体から解放される。それだけのことを私は言っている。

Q: 私は、たとえばイエスのような人が――キリスト教でも、教会でもなく――実在の人物だったということを受け入れられません。

U.G.: あなたには受け入れられない。分かっている。なぜ彼らは彼を十字架につけ、釘で打ちつけて殺したのか? 彼は彼らの社会にとって脅威だったからだ。

Q: 彼らは一人の人間を神にしてしまった。私はそれには同意しません。

U.G.: 普通の人間でさえなかった。なぜなら、彼は、その後キリスト教の教条的な教え全体がそこから生まれることになるような発言をしたからだ。もちろんだ。それは、あらゆる教師に当てはまる。私はイエスだけを非難しているのではない。すべての教師――ブッダ、ムハンマド――人類の偉大な宗教教師だと私たちが考えているすべての教師に当てはまる。ましてや、今日、市場で聖なる商売をしている連中など言うまでもない。私たちは、そんなことを問題にしているのではない。いずれにせよ、彼らを責めても何の意味もない。

だから、私たちはここにいる。私たちはみな、その暴力的な文化を受け継いでいる。だから、あなたの文化とは、人間に殺し方と殺され方を教えること以外の何ものでもない。それが宗教の名においてであろうと、政治的イデオロギーの名においてであろうと、愛国心の名においてであろうと、あるいはあなたが望むどんな名においてであろうと。違ったものになることはできない。だから私は、このすべてが人間の完全な絶滅へ向かう方向に動いている、と言ったのだ。そうしたものが、どんな力をもってしても止めることのできない破壊の力を動き始めさせてしまった。

Q: ええ。どんな力をもってしても。

2026/10/13

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 19

ほら、私は億万長者になりたい。億万長者はさらに十億ドル長者になりたいし、十億ドル長者は一兆ドル長者になりたい。 そう、それが目標なんだ。幸せな人は、幸せでありたいなどとは決して思わない。もっともっと幸せになりたいと思う。あるいは、ずっと幸せでいたいと思う。もちろん。あなたはあるときは幸せで、別のときには不幸せだ。だから、あなたは快楽を求め、そしてその快楽が永続することを望む。同時に、いわゆる快楽への欲求が、一時的なものであれ、そうでないものであれ、自分に苦痛をもたらしていることも、あなたは知っている。この世界のすべての人間が、西側にいようと東側にいようと、あるいは共産主義国にいようと、目指しているものはまったく同じだ。つまり、苦痛をまったく伴わない快楽を得たいのだ。そして、一瞬たりとも不幸になることなく、いつも幸せでいたい。実際に彼が必死になって努力し、懸命に追い求めているのは、片方[幸福]なしにはもう片方[不幸福]も存在しないという、この不可能な目標を実現することなのだ。

Q: でも、それは年寄りには当てはまらないでしょう。

U.G.: みんなだ。

Q: でも、年を取った人たちは、苦痛なしに快楽はないと知っています。不運を知らなければ幸運について語ることができないのだから、幸運なしに不運もないということも知っています。年を取った人たちは、誰もがそれぞれの分け前として、不運や苦しみを受けることを知っています。そして、そういう人たちは、苦痛なしに快楽を得ようなどとは考えていません。彼らは、自分たちが[ときには]苦痛を経験することを知っています。

U.G.: それでもね、ほら、彼らは苦痛なしでいられるようにしたいと思っているんだ。もちろん。私が言っているのは、それだけだ。彼らが意識的にそうしているかどうかにかかわらず、それが誰もが追い求めているものなんだ。何が自分に幸福を与えてくれるか、あなたは知っている。

Q: 楽園です。

U.G.: あなたが自分自身に設定した目標をすべて達成すれば、成功、お金、名声、地位や権力――あなたは幸せになる。この過程で、あなたは必死になって努力する。そこにたくさんの意志と努力を注ぎ込む。成功しているかぎり、何の問題もない。[しかし]あなたはいつまでも成功し続けることはできない――それはみんな分かっていることだ。

しかし、どういうわけか、いつでも成功し続けることが可能になるのではないか、という希望が残っている。いつも成功できるわけではないことに気づくから、あなたは挫折する。それでもなお、希望はある。それが物質的な目標であれ、精神的な目標であれ、求めているのは、自分自身に設定したどんな目標であっても、それに到達し、達成し、成し遂げるための努力において成功することなのだ。

あなたには私を助けてもらわなければならない。私はここで講演をするためにいるのではない。だから、私に会いに来る人たちには、何が欲しいのかをはっきりさせるよう、何度も繰り返し言っている。「私はこれが欲しい」あるいは「私はそれが欲しくない」と。それでいい。一度、自分が何を欲しているのかを正確に知れば、その欲求を満たすための方法や手段を見つけられるようになる。残念ながら、人は一度にあまりにも多くのものを欲しがる。

だから、自分の欲求をすべて、一つの根本的な欲求へと凝縮するのだ。なぜなら、それ以外のすべての欲求は、同じ欲求のさまざまな変形にすぎないからだ。人間は、ほんのわずかな不幸な瞬間さえなく、いつも幸せでいたい、あるいは苦痛を伴わない永続的な快楽を求めている、という私の提案をあなたは退ける。だが、それは少し前に私が言ったように、身体的に不可能なことなのだ。

身体は、どんな感覚であれ、それが快いものであろうと苦痛なものであろうと、長時間それを受け続けることはできない。[もしそうなれば、]感覚知覚の感受性、そして神経系の感受性を破壊してしまう。ある特定の感覚を快い感覚だと認識した瞬間、当然、その快い感覚をもっと長く持続させたいという要求が生じる。だから、あらゆる感覚には、その感覚の強度に応じて――あなたがそれをもっと強くしようとするか、弱くしようとするか(あなたが何を求めているかによって違う)――それ自身の限られた寿命がある。

その要求が生じるのは、あなたがその快い感覚から自分自身を切り離し、その快い感覚の限界、あるいは幸福な瞬間を、どうすれば延長できるかと考え始めたときだけだ。あなたの思考が、その快い感覚を本来の持続時間よりも長く続けさせたいという要求そのものを、問題にしてしまったのだ。それをこの身体の働きにとっての問題へと変えてしまい、そのことによって神経学的な問題を生み出した。身体[そのもの]は、それを吸収するためにできる限りのことをしているのに、あなたの思考は、この身体がそれを本来のやり方で処理することを不可能にしている。なぜなら、あなたはそうした問題を、自分の宗教的あるいは心理学的なアプローチの領域の中で解決しようとしているからだ。

実際には、そうした問題は神経学的な問題なのだ。そして、身体をそのままにして、それ自身のやり方で対処させれば、あなたが心理的あるいは宗教的なレベルでそれらを解決しようとするよりも、身体はずっとうまく処理してくれる。私たちがこれまでに与えられてきたあらゆる解決策、そして何世紀にもわたって私たちが採用してきた解決策は、少しばかりの慰め、つまり痛みに耐えるための緩和剤を与えてくれたことを除けば、何の役にも立っていない。それでも、私たちはその痛みからまったく自由になっていない。なぜなら、どういうわけか、これらすべてを問題に変えているその道具自体を使って、その問題を解決できるのではないかという希望を抱いているからだ。この思考というメカニズムにできることは、ただ問題を作り出すことだけだ。しかし、それは決して、決して、その問題を解決することはできない。

もし思考が問題を解決するための道具ではないのだとしたら、ほかに何か道具があるのだろうか? 私は「ない」と言う。それは問題を作り出すことしかできない。問題を解決することはできない。このことがあなたの中で理解として明らかになったとき、身体の中に存在するエネルギー――それは生命の現れ、あるいは生命の表現なのだが――が、これらすべてを、こうした問題にどう対処すべきかについてあなたが作り出している観念による、摩擦の多い思考よりも、はるかに容易に処理していることに気づくだろう。

Q: では、問題があると感じたときには、ただ放っておけばいいということですか?

U.G.: ほら、あなたがそういう言い方をすると、それを提案している人から、「では、どうやってそれを放っておくのか?」と尋ねたくなる要求が生じる。あなたには、それを放っておくことなどできないと分かっている。ただ「放っておけ」と言っているだけだ。当然、次の質問は、「この思考の介入なしに、どうやってそれを放っておくのか?」となる。そんな「どうやって」はない。

だから、もし誰かが「こうすればいい」と方法を示したなら、あなたはまた同じ悪循環に捕らわれることになる。だからこそ、今日私たちの周囲にあるこうしたセラピーのすべてや、市場にいるあらゆるグルたち――数え切れないほどのテクニックを提案している人たち――が、この途方もない重荷を生み出しているのだ。それは少しも負担を軽くしない。それどころか、あなたが今日置かれているこの状況に、ますます多くの重荷を付け加えている。

だから、そうしたシステムやテクニックは、何の助けにもなりえない。ただし、しばらくのあいだ緩和剤として作用し、もう少し長く痛みに耐えられるようにしてくれることはある。一方で、それらはあなた自身が問題を解決する助けになるどころか、身体全体の化学的な働きを乱している。

Q: 身体の化学的な働きを乱しているのですか?

U.G.: 化学的な働きを乱している。そしてその過程で、身体はあらゆる種類の異常な現象を吐き出してくる。それをあなたは「霊的な体験」だと考えている。だから、呼吸法も、ヨガの練習も、瞑想も、身体の化学的な働きと、身体本来の自然なリズムを乱している。それは、人々が服用するこうした薬物が身体の化学的な働きを乱すのと、まったく同じことだ。だから、あなたは薬物は身体に害を及ぼすと言う。だが実際には、そうしたもの[薬物]よりも、こちらのほうがはるかに害が大きい。

私は薬物を使うべきだと言っているのではない。しかし、それらは、来る日も来る日も提供されている、こうした霊的あるいは心理的なセラピーのすべてと同じ目的を果たしている。事実、それらはある程度の救済を与えてくれる。アナシンのようにね――頭痛がすると、身体にしばらくそれを処理する機会を与えることさえせず、すぐに市場へ行ってアナシンやアスピリンか何かを買い、薬を飲んでしまう。まったく同じように、それは身体が痛みからあなたを解放するために本来備えている自然な物質を作り出すことを難しくしてしまう。

身体には、あなたが話しているあらゆる幻覚作用をもつ物質が、そのシステムの一部として備わっている。身体は痛みをコントロールし、痛みから自らを解放しようとしている。それが知っているのは肉体的な痛みだけで、あなたの心理的な痛みにはまったく関心がない。彼らが提供している解決策は、心理的な領域にしか存在しない。肉体的な領域には存在しない。

だから、たとえばアスピリンを飲めば、この身体がその痛みに自然なやり方で対処する能力を損なってしまう。私は、自然なやり方を取って、マクロビオティックや、その他の妙な健康食品などに切り替えるべきだと言っているのではない。それもまた、ほかのどんな薬と同じくらい悪質で有害なものだ。

Q: では、問題を抱えているとき、あなたの明確なアドバイスは何ですか?

U.G.: あなたは問題を作り出さずにはいられない。まず第一に、あなた自身が問題を作り出している。だが実際には、あなたは問題そのものをまったく見ていない。問題そのものに取り組んでいるわけでもない。あなたは問題よりも、解決策のほうに関心を持っている。それが、あなたが問題を見ることを難しくしている。