2026/07/10

それは単なる、純粋な「見ること」、純粋な「聞くこと」、純粋な「味わうこと」「触れること」「嗅ぐこと」なのです

では、次にどんな思考が浮かんでくるでしょうか?
それがどんなものになるのか、自分でも分からないことに気づくはずです。
思考はひとりでに湧き上がってくるものです。その思考を「考える主体」など存在しません。
感情を「感じる主体」もいません。
光景を「見る主体」もいません。
ただ「見ること」があるだけです。
「聞くこと」があります。
「感じること」があります。
「味わうこと」があります。
「触れること」があります。
「嗅ぐこと」があります。
「~すること(ing)」という表現は、まさにこの「今、ここ」で起きていることを示していますが、そこには主体と客体の分離はありません。
それは単なる、純粋な「見ること」、純粋な「聞くこと」、純粋な「味わうこと」「触れること」「嗅ぐこと」なのです。
「私は見る」と言うとき、あなたは主体、つまり概念的なイメージを作り出しています。
「感じる」「聞く」「感知する」と言うとき、触れられたもの、聞かれたもの、感じられたものすべてが「客体」になってしまうのです。
ですから、主体と客体という構図は二元論なのだと理解してください。
                                  セイラーボブ

2026/07/07

不生の仏心においては、万事が完璧に解決されている。それなのに、なぜ不生の仏心を捨てて、思考などというものに取り替えてしまうのか

16世紀の禅僧、盤珪(ばんけい)はそれを「不生(ふしょう)の仏心」と呼びました。彼はこう言っています。「不生の仏心においては、万事が完璧に解決されている。それなのに、なぜ不生の仏心を捨てて、思考などというものに取り替えてしまうのか」と。
自然は自ずと解決していきます。
そこには抵抗も、分離もありません。
津波が押し寄せてその場所を破壊し尽くすこともあれば、火が燃え広がってやがて焼き尽くすこともありますが、そこには抵抗というものが存在しないのです。
しかし私たちの場合、絶えず抵抗し、絶えず葛藤しています。それは、私たちに「推論する能力」が備わっているからなのです。
                                   セイラーボブ

2026/07/03

言葉は決して「実体」そのものではありません

言葉は現実そのものなのでしょうか?「水」という言葉であなたを濡らすことができるでしょうか? あるいは、「火」という言葉であなたを燃やすことができるでしょうか?

マインドは完全に象徴や描写の中で機能しており、直接的な体験という「実際の領域」と、それを表す「マインドの地図」とを混同してしまいます。
私たちは概念やラベル、スピリチュアルな専門用語に囚われすぎたり、指し示す指そのものを月そのものと間違えたりしてしまうのです。

言葉は単なる死んだ音や形に過ぎませんが、それらが指し示す現実とは、まさに今この瞬間に起きている、概念を超えた存在の脈動そのものです。
「存在」という言葉がなくても、あなたは存在しています。あなたは言葉の前にある存在であり、マインドがそれを名付けようとする以前から、すでに完全にそこに存在しているのです。
言葉は決して「実体」そのものではありません。
                                   セイラーボブ