2026/09/25

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 14

U.G.: だから、その質問は終わらなければならない。

なぜなら、その質問そのものが――よく聞いてください――その質問そのものが、答えから生まれているからです。

そうでなければ、どんな種類の質問であれ、質問が生まれる余地などありません。

すべての質問は、あなたがすでに持っている答えから生まれるのです。

だから、すでに答えを持っている質問をすること自体が馬鹿げている。

答えなしに質問はあり得ないのだから、その質問は、「私」についてあなたが知らない何かがある、しかしそれを知りたい、ということを意味しています。

すでにそこにある「私」とは別の何か――つまり、そこにはもう一つ別の「私」が存在することを意味しているのです。

Q: あるレベルでは、そうですね。

また、質問をするということは、答えを知っているという意味だ、と言うこともできます。

U.G.: その通りです。

そもそも質問など存在しない。

知識なしに質問はあり得ません。

すべての質問は、あなたがすでに持っている答えから生まれる。

だからこそ、「私は誰なのか」というような質問は、それが自分自身によって発せられたものであれ、誰かほかの人によって発せられたものであれ、答えを求めているのではないのです。

どんな質問に対しても、答えはその質問の終わりです。

そして、質問の終わりということは、あなたがすでに持っている答えの終わりを意味します。

あなた自身の答えだけではありません。何世紀にもわたって蓄積されてきた答えのすべてが、そこにあってはならないのです。

その質問への答えを要求するということは――どのレベルであれ(レベルは一つしかありません。他のレベルなどありません)――質問している者が、知識を終わらせたくないということを意味しています。

Q: それはその通りです。

でも、もちろん、この過程の中で……。

U.G.: それは「最後に」起こらなければならないのではありません。

今、起こらなければならない。

なぜなら、時間など存在しないからです。

あなたが使っている道具――つまり、この「知識」という過程――は、終わることを望んでいません。

だからこそ、それ自身に向かって質問を投げかけているのです。

そして、その質問が答えを得るまで続いていくことを、よくわかっている。

つまり、あなたが使っているこの知識という道具は、時間の中で起こること以外の何かが起こり得る可能性を知らないし、想像することもできない。

なぜなら、それは時間の中で生まれ、時間の中で機能しているからです。

それは「時間のない状態」を投影してはいるけれども、時間という領域以外では何も起こり得ないという事実を受け入れることには関心がない。

質問するということは、答えを要求しているということを意味する。

そして、その答えは時間の中でしかやって来ることができない。

その間、つまり答えがやって来るまでの時間のあいだ、この「知識」は生き残る機会を持つことになるのです。

Q: あなたの言っていることは本当です。

しかし、「私は誰なのか」という質問への答えは、時間の中には入りません。

U.G.: そうです。

しかし、時間の中で生まれたものはすべて……。

Q: それは単なる装置です。

あなたの言うことには同意します。

U.G.: その通りです。

時間という領域の中で生まれたものは、すべて時間です。

質問も時間なのです。

Q: 質問は時間の中で生まれたものではありません。

U.G.: では、それはどこから来るのですか?

Q: 「私はある(I am)」から来ます。

U.G.: その「私はある」という前提そのものが、時間なのです。

もちろん、それは一つの前提です――この知識とは別の何かが、そこに存在するという前提です。

そこにあるのは、ただ知識だけです。

Q: あなたがおっしゃるように、すでに持っている答えから質問が生まれるのだとしたら、その「すでに持っている答え」というのは、おそらく心理学でいう「心(mind)」と同じものだ、という意味ですか?

U.G.: わかりません……。

私にとっては、そもそも「心」など存在しません。

「心」とは全体性です。

(私が「心」という言葉に独特な定義を与えているということではありません。)

あなたの経験の総体、そしてあなたの思考の総体、それが「心」です。

昨日も言ったように、あなた自身のものだと言える思考など一つもありません。

あなた自身のものだと言える経験も一つもありません。

知識なしには、いかなる経験も持つことができません。

私の言っていることが、うまく伝わっているかわかりませんが。

あなたが何かを経験するたびに、その経験を通して知識が強化され、さらに確固たるものになります。

これは悪循環です。

それは延々と続いていく。

知識があなたに経験を与え、そして経験が、あなたの持っている知識を強化する。

あなたがしている質問は、とても軽薄な質問です。

なぜなら、質問は知識から生まれるからです。

もしその質問に何らかの答えがあるとしても、それが必ずしも「あなた自身の答え」だとは限りません。

すべての答えは、何世紀にもわたって蓄積されてきた答えなのです。

蓄積されてきた知識の総体がある。

蓄積された知識、蓄積された経験がそこにある。

あなたはそれらを使って、自分自身とコミュニケーションし、また他人ともコミュニケーションしているのです。

だから、「あなたの心」と「私の心」というようなものは存在しません。

しかし、これまで存在してきたものすべての、すべての思考と経験の総体としての「心」は存在します。

だから、誰かがその質問に対してどんな答えを与えようとも、その答えはその質問に終止符を打たなければならない。

事実、他人から与えられた答えも、あなた自身が自分のために作り上げた答えも、そして今日、世の中にいる賢者たちが与えている答えも、過去に存在した賢者たちの答えも――本当の意味では答えではありません。

私があなたの質問にどんな答えを与えたとしても、それはその質問への答えにはなり得ない。

なぜなら、答えはその質問に終止符を打たなければならないからです。

もし、そこで質問そのものが粉々に砕かれるのなら、その質問を生み出した原因である知識もまた、すべて消え去らなければならない。

質問している者は、どんな答えにも興味がないのです。

なぜなら、その答えは全体を吹き飛ばさなければならないからです。

あなたがこの30年、40年の間に知ったわずかなものだけではない。

その時点までに蓄積されてきたすべてのもの――それまでに存在したあらゆる人間が考え、感じ、経験してきたすべてのものが、質問が投げ出されたその瞬間までに、すべて消え去らなければならない。

私の言っていることが、うまく伝わっていないかもしれません。

ともかく、わかるでしょう。

答えがあるのだとすれば、その答えはすべてを消し去るものでなければならないのです。

Q: 私は、真空(vacuum)が現実になろうとしている、あるいは一見すると現実になりそうな、その瀬戸際で生じる絶望について考えていました。

U.G.: そうです。

しかし、少しのあいだ、そこに絶望があると仮定しましょう。

(あなたは、自分がひどい絶望の中にいると言っていますね。)

では、あなたはその絶望から自分を解放しようとすることを、もう完全にやめたのですか?

あなたは、それを「絶望」と呼んでいる。

そして「真空」や「空虚」という言葉を使うのと同じように、その言葉を使っている。

しかし、そこには絶望などありません。

実存主義の哲学者たちは、彼らが「絶望」と呼んでいるものの上に、巨大な哲学体系を築き上げました。

宗教的な人々は、それを「神聖なる絶望」と呼んでいる。

しかし、これらはすべて意味のない言葉です。

あなたは、本当に自分が「絶望」と呼んでいるものと向き合ったことがない。

なぜなら、そこにあるのは、あなたが「絶望」と呼んでいる状況から、何とかして自分を解放したいという方向への動きだけだからです。

だから、あなたはその絶望を作用させない。

私が言っている「行動」とは、そのことなのです。

あなたはまだ、それについて考えている。

わかりますか?

その絶望は、どこにあるのですか?

それはあなたの思考の領域にはありません。

それは、ここに――あなたの身体という枠組みの中に――あるべきなのです。

2026/09/22

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 13

Q: 「そこには二元性があるという理解、その理解が生じるということ……」

U.G.: 理解そのものが二元性です。その分割がなければ、理解すべきものは何もありません。ですから、あなたが何かを理解するために使っている道具、それがあなたの持っている唯一の道具です。他に道具はありません。

直観について語ることもできるし、ほかにも千ものことについて語ることができるでしょう。しかし、それらはすべて、感度を高められた思考にすぎません。直観とは、感度を高められた思考以外の何ものでもない――それでもやはり、それは思考です。

だから、その道具を使って何かを理解したとしても、それによってあなたが何かを理解できたわけではありません。それは理解するための道具ではないし、ほかに道具もないのです。

もしそうだとしたら、そもそも理解すべきものが何かあるのでしょうか?

あなたが何かを理解しようとするのは、ただ、そこにあるものを変えるためです。そこにあるものを、あなたは変えたい。自分の思考の構造に変化をもたらしたい。だから、違ったように考え始め、違ったように経験し始める。

しかし、根本的には何も変わっていません。

つまり、あなたが何かを理解したいと思うのは、そこに変化をもたらすためなのです。それと同時に、あなたはその変化を望んでもいない。

それが、人間の神経症的な状況を生み出しています。二つのことを同時に望んでいる――変化を望み、しかも変化を望まない。

それが、いつもそこにある葛藤なのです。

Q: おそらく、その葛藤を見なければならないのでしょう。

U.G.: 「見る」ということ自体が、分割する働きです。二つのものがあることになる。

ほら、インド人はこのゲームにかけては昔からの大名人です――見る者と見られるもの、観察者と観察されるもの。

こういうゲームにかけては、彼らは大変な達人です。

しかし、いったい何を見るというのでしょう?

そして、見ているのは誰なのでしょう?

二つのものがあるのでしょうか?

あなたは「見る」とき、何をしていますか?

また同じ思考に戻っているだけではありませんか。

「私は誰なのか?」と自分自身に問いかけるのは、馬鹿げています。

それがラマナ・マハルシの基本的な教えになってしまった。「私は誰なのか?」と。

なぜそんな質問をするのでしょう?

その質問には、あなたが知りたいと思っている、もう一つ別の「私」が存在するという意味が含まれています。

私にとって、その質問にはまったく意味がありません。

その質問をするという事実そのものが、すでに二つのものがあることを意味しているのです。

あなたが知っている「私」と、そしてその本質をあなたが知らない、もう一つの「私」がある。

「私は誰なのか?」という質問には、もう一つ別の「私」が存在し、その本質をあなたは本当には知らず、それを知りたいと思っている、ということが含まれているのです。

私の言っていることが、うまく伝わっているかどうかわかりませんが。

そもそも、あなたは自分自身について何か知っていますか?

何を知っているのですか?

言ってみてください。ん?

Q: 彼が知っていることです。

U.G.: 彼が「知らされてきた」ことです。

どこに住んでいるか、自分の名前は何か、毎月いくら収入があるか、電話番号、これまでに出会った人々、30年の人生の中でどれだけの経験を積んできたか、そして読んできたすべての本。

それが、彼があなたに言えることのすべてです。

彼は、自分が集めてきた情報と、蓄積してきた経験を、機械的に繰り返すことができる。

そして、そこにあるのはそれだけです。

では、なぜあなたはそれに不満なのですか?

そして、なぜそれ以外の何かを探し求めているのですか?

あなたが集めてきた情報や、自分が知っていること以外に、自分自身について何か語ることができますか?

Q: 私がそこで見つけたものは、答えではありません。もし答えだったなら、質問が残り続けるはずがないでしょう。

U.G.: そこで何を見つけたのですか?

Q: ただの知識です。

U.G.: では、その馬鹿げた質問は、あなたがすでに持っている知識から生まれたものです。

「私は誰なのか?」という質問を投げかけたのは、そこにすでにある知識なのです。

だから、あなたは知りたいと思う。そして、その「知ること」を通して、あなたの持っている知識は勢いを増していく。あなたはそこに、さらに、さらに、さらに付け加えていく。

もし、そこに何か「知るべきもの」があるのだとしたら、あなたが知っていることのすべてが終わらなければならない。

ところが、その質問への答えを得ようと追い求めたり、答えを要求したりすることで、あなたは知識にますます多くのものを付け加えているのです。

だから、「私は誰なのか?」という質問がいかに馬鹿げているか、わからないのですか?

誰がそれを提案したのか、誰がその質問をあなたに投げかけたのか、誰がその質問を勧めたのか――そんなことはどうでもいい。

そこには、知るべきものなど何もありません。

そこにあるのは、あなたが知っていることのすべてです。

それがなくなったとき、あなたには何かを知る必要もなくなるし、そこにあるものについて何かを知る方法もなくなります。

Q: でも、「私は誰なのか」というのは、本当は質問ではありません。「私は誰なのか」は、指し示すものです。

U.G.: そうです。それはどこを指し示しているのですか?

いいでしょう。もしそれが「指し示すもの」だというなら、あなたはどうするのですか?

そこにじっと留まって、それに従う代わりに、自分の指をしゃぶっている。

その「指し示すもの」を、あなたはいったいどうするのですか?

Q: その指し示すものは、指し示されるべきものが何もないところを指しています。

それは、これらがすべて意味のない言葉にすぎないところへ、あなたを連れていくのです。

U.G.: それでいい。その質問そのものが、意味のない質問なのです。

Q: ええ。でも、それを「質問」として使った場合にだけ、そうなるのです。

U.G.: いいでしょう。それを「指し示すもの」として使ったとしても、その方向そのものが間違っている。

Q: それは指し示すものですらありません。

U.G.: いいでしょう。では、それはいったい何なのですか?

Q: それは、あなたが「ある」ということを示しています。

私が「ある」ということを示しています。

「私はある(I am)」ということが、基礎なのです。

U.G.: 「私とは何か」というのは、私が自分自身について持っている知識です。

Q: 「私はある」ということが、私なのです。

U.G.: しかし、「私とは何か」というのは、どういう意味なのですか?

Q: 何の意味もありません……。

U.G.: そうです。

Q: 「私はある」というのは、知識ではありません。

U.G.: 質問とは独立して存在するものなど、そこには何もありません。

Q: では、それが知識の終わりなのですね。

2026/09/18

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 12

Q:身体が地中に埋まり、分解されていっているときでさえですか?

UG: それがどうしたというんです? その身体の上で生き延びている、ほかの生命体がたくさんいるじゃないですか。

あなたにとって慰めにはならないでしょうけど、あらゆる細菌があなたの身体の上で大宴会を開くんです。祝宴ですよ。盛大なご馳走です。

もしその身体を道端に置き去りにしたら、驚くでしょうね。細菌たちがみんな大喜びで、宴を始めるんです。あなたはものすごく大きな貢献をすることになる。

人類のためではありません。さまざまな種類の生命体のために、です。

Q:それなら、菜食主義もあまり勧められないということですか?

UG: ああ、そうですね……。
(うんざりしたようにため息をつく。)

Q:またその話ですか。

UG: 何のための菜食主義なんです?

何か精神的な目標のためですか?

ひとつの生命が、別の生命を糧にして生きる。それが事実なんです。あなたが好むと好まざるとにかかわらずね。

もし虎が菜食主義を実践したら――彼[質問者]は、自分の猫は菜食主義の猫で、ハエ一匹殺さないと言っているんですが――菜食主義者たちと一緒に暮らしているうちに、菜食主義者になったというわけです。

健康上の理由なら、そうしたほうがいいのかもしれません。私には分かりません。菜食主義者になるべき十分な理由があるとは、私には思えない。

あなたの身体が、肉を食べる身体よりも純粋になるわけではありません。

インドへ行ってみなさい。菜食主義者として生きてきた人たちを見てみればいい。彼らが親切なわけでもないし、平和なわけでもない。

だから、そんなことは[精神性とは]何の関係もないんです――何を身体の中に入れるかということは、本当の問題ではない。

Q:肉を食べることによって引き起こされる攻撃性については、どうですか?

UG: 菜食主義者のほうが、肉を食べる人間より攻撃的なんですよ。驚くでしょう。

インドの歴史を読んでみなさい――そこには流血、虐殺、暗殺があふれている――すべて宗教の名のもとに行われたものです。

仏教は、いくつかの地域ではそれほど暴力的ではありませんでした。しかし、日本に広まったときには、最も暴力的な宗教になった。

あの寺院には軍隊があり、日本で戦争をするために軍隊を維持し、提供していたんです。

これは歴史的事実ですよ。私個人の意見ではありません。

だから私は、教師たちとその教えこそが、この世界の混乱に責任があるのだ、と強調しているんです。

あの救世主たちはみな、この世界に混乱以外の何も生み出さなかった。

そして政治家たちは、その文化の継承者なんです。

だから政治家たちを責めて、腐敗していると非難しても何の意味もありません。

腐敗していたのは、彼ら[精神的な教師たち]のほうなんです。

「愛」を教えた人間こそ腐敗していた。なぜなら、その人は自分の意識の中に分裂を作り出したからです。

「汝の隣人を、汝自身のように愛せよ」と語った人間こそ、今日の世界に存在するこの恐怖に責任があるんです。

あの教師たちを無罪放免にしてはいけません。

彼らの教えがこの世界に生み出したものは、混乱以外の何ものでもない。

そしてその混乱は、ますます、単に人間だけでなく、今日この地球上に存在するあらゆる生物種を破壊する方向へと進んでいるんです。

それは、あの[愛という]理想から生まれたものなんです。

責任があるのは科学者や政治家ではありません。彼らの手には、この力がある。そして彼らはそれを使おうとするでしょう――この世界には、ボタンを押してしまう狂人が十分すぎるほどいるんです。

では、それ[暴力]はどこから始まったのでしょう?

宗教が人間を救うわけではありません。無神論も、共産主義も、その他のどんな体制も、人間を救いはしない。

それらを台座の上に置いて、「これらについては罪を問うべきではない」などと言うことはできません。

教えだけではありません。教師たち自身が、私たちがこの世界で目にしている暴力の種を蒔いたんです。

「愛」について語った人間こそ責任がある。なぜなら、愛と憎しみは一緒についてくるからです。

だったら、どうして彼らを無罪にできるんです?

信者たちを責めてはいけません。信者たちは、その教えから生まれてきたんです。

これは歴史ですよ。私個人の意見ではありません。

ヨーロッパの歴史を知っているでしょう。異端審問ですよ。

「イエスの名において」。

それなのに、なぜその宗教を復活させたいんです? 何のために?

「キリスト教に立ち返れ」というのが、今やいたるところで掲げられているスローガンです。

私は特定の何かを非難しているわけではありません。

すべてに責任があるんです。

「愛」について語るというのは、実に馬鹿げたことの一つです。

[愛が成立するには]二つのものが必要なんです。

[しかし]分裂が存在するところには、必ずこの破壊がある。

親切にも二つのものが必要です――あなたが誰かに親切にする、あるいは自分自身に親切にする。

そこには、あなたの意識の中に分裂があるんです。

その分裂から生まれるものは何であれ、自己を守るための防衛機構です。そして長い目で見れば、それは破壊的なんです。

思考は自分自身を守ろうとしている。

だから思考は、継続することに関心を持つんです。

身体は自分自身を守ることには関心がありません。

身体が生き延びるために必要な知性は、すでにそこに備わっています。

私たちが組織や制度を通して作り上げてしまったジャングルには、そうした知性が必要なんです――私たちが勉強を通して、文化を通して、ありとあらゆるものを通して身につけてきた知性がね。

その知性は、それ自体で別個の存在を持っていて、別の種類の生存に関心を持っています。

なぜなら、ここにある生命には終わりがないからです。

これは、生命の一つの表現にすぎません。

あなたがいなくなっても、私がいなくなっても、生命は[なお]続いていく。

あの明かりは消える。でも電気は流れ続ける。

また別の何かが現れるでしょう。

生命は人間には関心がありません。

ところが残念なことに、人間は非常に破壊的な力を持っている。そしてその力は、人間の経験――人間の自己認識――から生まれてきたものなんです。

だから、「自分自身を見つめたい」「自分自身を理解したい」という話そのものが、人間の中にある分裂した動きなんです。

それは、あの自己認識から生まれたものです。

そして、それこそが、心理的構造全体が築かれている土台なんです。

Q:でも、どうすれば、その分裂した思考をなくすことができるんですか?

UG: できません。

それはあなたの手の中にはないんです。

あなたが何をしようとも、それによってその動きにさらに勢いを与えることになります。

Q:では、あなたはそれを終わらせたいんですか?

UG: いいえ。

Q:私は以前、ものすごく大きな一体感を感じたことがあります……。

UG: 薬物によって、あるいは瞑想によって、あるいは人間が発明してきた、そうした体系や技法によって、身体の代謝に乱れが生じることがあります。

そうすると、生命の一体性、生命の統一性を体験することができる。

生命の統一、生命の一体性を説いているインドを見てごらんなさい。そこに一つの実例があるでしょう。

彼らはみな偉大な形而上学者であり、哲学者です。そして、こうしたことについて延々と議論し続けている。

ところが、それは人々の実際の生活には何も作用していないんです。