2026/09/29

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 15

あなたが言っている、その「絶望」はどこにあるんですか。

あなたが逃げようとしているかぎり、絶望から離れようとしているかぎり、そこには絶望なんてないんです。

つまり、あなたが関心を持っているのは、絶望から自由になりたいということだけなんです。なぜなら、あなたはこう考えているからです。「これは自分を窒息させているわけではない。自分を殺しているわけでもない」と。絶望そのものが、そこから自由になろうとするこの動きを破壊しなければならないんです。

あなたは、絶望に作用する機会を与えていない。あなたが関心を持っているのは、この行き詰まりに対する解決策、そこから抜け出す方法を見つけることです。それだけなんです。そして、あなたはそれに名前をつけて、「絶望」と呼んでいる。

あなたは絶望してなんかいない。絶望している人間のようには行動していない。あなたはただ絶望について話している。真空について話し、空虚について話している。でも、それは本当の空虚ではない。もし本当に空虚があるのなら、それこそが生命の働きなんです。

すると次に、あなたは私にこう聞くでしょう。「生命とは何ですか?」

私が生命を定義したら、私たちはそこで道を失います。それは生命に対する一つの定義にすぎないからです。

私が生命と言っているのは、あなたという存在全体が何かに応答することを可能にしているもののことです。反応するのではなく、応答する。あなたの周囲からやってくる刺激に応答する。

そこに生命がなければ、あなたは死体になる。死んだ死体でさえ、まだ何かに応答している。ただし、その応答の仕方が違う。だから、これを生命と呼んでいるんです。

言い換えれば、生命とは生命の脈拍であり、鼓動であり、呼吸にほかならない。それもまた一つの定義です。脈があり、呼吸があり、生命の鼓動がある。全身が脈打っている。どこもかしこも、身体の一つ一つの細胞が脈打っている。それが生命のすべてです。

でも、私たちは本当の意味でその「生命」について話しているわけではない。なぜなら、その生命について誰も何も言うことができないからです。できるのは定義を与えることだけ。「生命力」だとか、何だとか、いろいろな名前をつけることはできる。

しかし、「生きる」ということには、いわゆる生命が生み出すその他すべての問題が含まれている。

だから、「どうすればいいのか」という要求が生まれる。

どう生きればいいのか。

本当の問題はそこなんです。

あらゆる問題の中でも最大の問題は、「どう生きるか」です。

そして何世紀ものあいだ、私たちは洗脳されてきた。

「こう生きるべきだ」と。

それで満足できなければ、別の方法を探して、それをまた「生き方」と呼ぶ。そして、それが延々と続く。

そんなものは全部ナンセンスです。なぜなら、それではあなたに平安がもたらされていないからです。

あなたの内側では、絶えず戦いが起きている。内側で戦争が起きている。

あなたの内側に戦争があるかぎり、平和な世界など絶対に存在しない。

仮に、ほんの一瞬だけ、戦争が終わって、あなたが自分自身と平和な状態になったとしても、それによって何かが変わるわけではない。

なぜなら、自分自身と平和になった人間は、隣人にとって脅威になるからです。

だから、その人があなたを抹殺してしまう危険さえある。

重要なのは、あなた自身の内側にあるこの戦争を終わらせることができるのか、という問題です。

それは可能なのか?

あなたが持っている解決策はすべて、この戦いを生み出す原因になっているものです。

つまり、「どう生きるか」という問題です。

この「どう」がなくならなければならない。

するとあなたは私に聞くでしょう。

「その『どう』を、どうやってなくせばいいんですか?」

「私を助けてもらえませんか?」

まず第一に、あなたはそこまで確信していない。

あなたはまだ、その絶望にまで到達していないんです。

絶望を扱うことができるのは、その地点に到達して初めてです。

絶望から自由になりたいと思って、その方向へ走り続けているかぎり、あなたがその絶望を扱うことはできない。

解決策が百五十個あるかもしれない。

でも、その全部を試すことはできない。

明らかに、あなたがこれまで試してきたことはすべて失敗した。だからあなたは「絶望している」と言う。

その絶望が作用するんです。

では、その作用とは何なのか?

その作用は、あなたの思考の枠組みの中では決して起こりえない。

あなたの思考の枠組みの中にある行為、あるいは思考から生み出された行為は、必然的に絶望を生み出します。

それはしばらくのあいだ、理由やある種の経験を与えてくれるかもしれない。

しかしあなたは、いつも同じものをもっと、もっと、もっとと要求する。

そうやって全体がずっと続いていく。

そして、それがあなたに希望を与える。

希望はここにある。

そしてあなたは「状況は絶望的だ」と言う。

状況は絶望的なんじゃない。

希望は、今ここにある。

なぜなら、あなたが言うように、絶望がそこにあるからです。

だからあなたは、その絶望を解決しよう、何とかしよう、対処しよう、それと向き合おう、そして絶望から自由になる方法があるのかどうか見つけようとする。

絶望そのものを作用させる代わりに、あなたはそこから逃げて、なおも「絶望から自由になる方法はないか」と探し続けている。

これは人生のあらゆる状況に当てはまります。

あなたは、自分の欲求不満――それが絶望です――に行き詰まっているか、あるいは何か別のものに行き詰まっている。

そういう状況で、あなたは何をしたいんですか?

自分自身で解決策を見つけなければならない。

もし私があなたに別の解決策を与えたら、それはあなたがすでに持っている何百もの解決策と同じです。

あなたはそれを「解決策のリスト」に一つ追加するだけ。

それでは問題を解決する助けにはならない。

むしろ難しくなる。

これで、あなたにはもう一つ解決策が増えた。

もし解決策があるのだとしたら、その解決策は、あなたが自由になろうとしているそのものから出てこなければならない。外部の何かから与えられるものではない。

その作用は、とてつもなく特別なものです。

一度、絶望という問題が解決されれば、他のすべての問題も解決される。

なぜなら、その他の問題はすべて、同じ問題の変形にすぎないからです。

だから、あなたは決して問題そのものを解決したいわけではない。

あなたがもっと関心を持っているのは、解決策です。

だから私は同じことを、十通りの違った言い方で何度も繰り返している。

(私の語彙には限界があるから、同じ言葉を使わざるを得ない。あなたなら語彙を増やして新しい表現を見つけることもできる。でも、それでは何の役にも立たない。)

あなたが使っている道具――それが「思考」です――は、こうした問題が今ここで解決できるという事実を決して受け入れることができない。

なぜなら、今のあなたになるまでに、それほど長い時間がかかっているからです。

あなたは自分の経験の世界の中で生きている。そして、今のあなたになるまでに何年もの年月がかかった。

それがあなたの持っている唯一の道具です。

こうした問題を扱うための別の方法を、あなたは持っていない。

だから、その思考は「今ここで解決策を見つける」という可能性を想像することができない。

いつもそれを、もっと先へ、もっと先へ、もっと先へと押しやろうとする。

必ず「明日」がある。

そして、常に「この時間」がある。

なぜなら、この思考は時間という領域の中で機能しているから、時間の領域で起こるもの以外の何かが起こる可能性を想像できない。

時間の領域における行為とは別の行為が起こる可能性を、思考は捉えることができない。

私が話しているのは形而上学ではありません。

解決策があるとすれば、それは「今ここ」にしかない。

お腹が空いているなら、その空腹は満たされなければならない。

空腹を満たすことができなければ、それはあなたを焼き尽くす。

これはあなたにとって恐ろしい状況です。

だからあなたは、人々が投げてくれる解決策という「パンくず」で満足してしまう。

誰かが一斤のパンを丸ごとくれるのを待っている。

あるいは、パンを増やしてくれる奇跡の人が現れるのを待っている。

でも、そんなことは起こらない。

そこには本当の空腹がない。

あなたはこの問題を解決したくないんです。

なぜなら、問題がなくなった自分自身を発見することになるからです。

だから、あなたに力とエネルギーを与えているものは、「自分の問題を解決しようとすること」なんです。

そして、いったん目標を達成したら、そこにあるのは欲求不満です。

個人の人生において非常に強烈なものである性行為でさえ、魅力的なのは準備であり、盛り上がりであり、緊張なんです。

緊張が頂点まで高まると、この身体は、その緊張から解放されることを求める。

あなたが「快楽」と呼んでいるもの――解放です。

身体は、あなたが作り上げた緊張から解放されることを求めている。

解放を求める。

それをあなたはオーガズムと呼ぶ。あるいは、好きな名前で呼べばいい。

だから、ものすごい安堵がある。

では、そのあとに何がある?

真空です。

まったく同じように、すべての行為は同じ領域で機能している。

緊張を高める。

高める。

高める。

そして、その緊張が解放を要求するのを見る。

この前、私は『プレイボーイ』の記事を読んでいた。

「オーガズムを30分間続ける方法」。

なんてことだ!

実験をしているんです。

知っているでしょう、彼らは成功した。

カリフォルニアのある医師が、器具を使った人工的な方法によって、それを成功させた。

女性が30分間オーガズムを経験できることを、彼らは実証した。

他の専門家たちは、ほんの数秒しか続かないと言っている。

あなたが「快楽」と呼んでいる苦痛――それを延長したいという要求なんです。

快楽じゃない。

緊張からの解放なんです。

あなたは目標を達成するために一生懸命働く。

そして一度その目標を達成すると、あなたは疲れ果てる。

終わってしまう。

魅力は失われる。

あなたが関心を持っているのは、それに向かって努力すること、そしてこうした緊張を積み上げていくことだけなんです。

いったんそこに到達すると、それで終わり。

もうそれはなくなっている。

だから、また最初から始める。

あなたは、問題のない状態になりたくない。

あなた自身が問題なんです。

問題がなければ、あなたは問題を作り出す。

問題の終わりは、あなた自身の終わりです。

だから問題は最後まで残る。

あなたがいなくなれば、問題もなくなる。

70年、80年、90年、100年――どれだけ生きるかによって違う。

そのあいだ、希望は残り続ける。

これは悲観的な状況ではない。

現実的な状況なんです。

私はあなたに何の解決策も与えていない。

お願いだから、もしできるなら、自分の問題を見てください。

あなたは自分自身を問題から切り離すことができない。

問題は、その反対のものによって作られている。

そもそも、なぜあなたは不幸を感じるんですか?

なぜ、自分の中にこの「不親切さ」のような感覚を感じるんですか?

目標があるからです。

その目標が、その反対のものを作り出している。

自分で見ればわかります。

私が教える必要はない。

あなたはいつもこう考えている。

「自分はああならなければならない」

「こうであるべきだ」

「こうならなくてはいけない」

「でも、自分はそうではない」

その思考こそが、その反対のものを作り出している。

それがなくなれば、こちらもなくなる。

この人はキャリアを追求する人間にはなれない。

この人は、社会や文化の規範の枠組みの中でいう「繊細な人間」にもなれない。

しかし、これは別の種類の感受性なんです。

社会や文化があなたの前に置いた理想を追いかけているかぎり、あなたはその反対側にとどまり続ける。

そしてあなたは、いつの日か、何らかの奇跡によって、あるいは誰かの助けによって、神やグルや誰かの力によって、この問題を解決できると期待している。

――そんなことは絶対に起こらない!

(U.G.は劇的に叫ぶ。)

私はあなたの中に「空腹」を作り出すことはできない。

どうやって私があなたの中に空腹を作れるんですか?

もしあなたが本当に空腹なら、周りを見回すでしょう。

そして、自分に差し出されるものが何であれ、それでは満足できないことを発見するでしょう。

もしパンくずで満足するのなら、それでいい。

それがグルたちのやっていることです。

あなたにパンくずを投げている。

犬をリードにつないで、パンくずを投げ与えるように。

人間は動物と同じです。

何も違わない。

もし私たちが「自分たちは他と違わない」という事実を受け入れるなら、そのとき初めて、私たちが人間として行動する可能性が少し高くなる。

Q:人間はいつ、人間として行動するのでしょうか?

U.G.:人間が「完全な人間」という目標を追い求めることをやめたときです。

――Part IIIへ。

2026/09/25

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 14

U.G.: だから、その質問は終わらなければならない。

なぜなら、その質問そのものが――よく聞いてください――その質問そのものが、答えから生まれているからです。

そうでなければ、どんな種類の質問であれ、質問が生まれる余地などありません。

すべての質問は、あなたがすでに持っている答えから生まれるのです。

だから、すでに答えを持っている質問をすること自体が馬鹿げている。

答えなしに質問はあり得ないのだから、その質問は、「私」についてあなたが知らない何かがある、しかしそれを知りたい、ということを意味しています。

すでにそこにある「私」とは別の何か――つまり、そこにはもう一つ別の「私」が存在することを意味しているのです。

Q: あるレベルでは、そうですね。

また、質問をするということは、答えを知っているという意味だ、と言うこともできます。

U.G.: その通りです。

そもそも質問など存在しない。

知識なしに質問はあり得ません。

すべての質問は、あなたがすでに持っている答えから生まれる。

だからこそ、「私は誰なのか」というような質問は、それが自分自身によって発せられたものであれ、誰かほかの人によって発せられたものであれ、答えを求めているのではないのです。

どんな質問に対しても、答えはその質問の終わりです。

そして、質問の終わりということは、あなたがすでに持っている答えの終わりを意味します。

あなた自身の答えだけではありません。何世紀にもわたって蓄積されてきた答えのすべてが、そこにあってはならないのです。

その質問への答えを要求するということは――どのレベルであれ(レベルは一つしかありません。他のレベルなどありません)――質問している者が、知識を終わらせたくないということを意味しています。

Q: それはその通りです。

でも、もちろん、この過程の中で……。

U.G.: それは「最後に」起こらなければならないのではありません。

今、起こらなければならない。

なぜなら、時間など存在しないからです。

あなたが使っている道具――つまり、この「知識」という過程――は、終わることを望んでいません。

だからこそ、それ自身に向かって質問を投げかけているのです。

そして、その質問が答えを得るまで続いていくことを、よくわかっている。

つまり、あなたが使っているこの知識という道具は、時間の中で起こること以外の何かが起こり得る可能性を知らないし、想像することもできない。

なぜなら、それは時間の中で生まれ、時間の中で機能しているからです。

それは「時間のない状態」を投影してはいるけれども、時間という領域以外では何も起こり得ないという事実を受け入れることには関心がない。

質問するということは、答えを要求しているということを意味する。

そして、その答えは時間の中でしかやって来ることができない。

その間、つまり答えがやって来るまでの時間のあいだ、この「知識」は生き残る機会を持つことになるのです。

Q: あなたの言っていることは本当です。

しかし、「私は誰なのか」という質問への答えは、時間の中には入りません。

U.G.: そうです。

しかし、時間の中で生まれたものはすべて……。

Q: それは単なる装置です。

あなたの言うことには同意します。

U.G.: その通りです。

時間という領域の中で生まれたものは、すべて時間です。

質問も時間なのです。

Q: 質問は時間の中で生まれたものではありません。

U.G.: では、それはどこから来るのですか?

Q: 「私はある(I am)」から来ます。

U.G.: その「私はある」という前提そのものが、時間なのです。

もちろん、それは一つの前提です――この知識とは別の何かが、そこに存在するという前提です。

そこにあるのは、ただ知識だけです。

Q: あなたがおっしゃるように、すでに持っている答えから質問が生まれるのだとしたら、その「すでに持っている答え」というのは、おそらく心理学でいう「心(mind)」と同じものだ、という意味ですか?

U.G.: わかりません……。

私にとっては、そもそも「心」など存在しません。

「心」とは全体性です。

(私が「心」という言葉に独特な定義を与えているということではありません。)

あなたの経験の総体、そしてあなたの思考の総体、それが「心」です。

昨日も言ったように、あなた自身のものだと言える思考など一つもありません。

あなた自身のものだと言える経験も一つもありません。

知識なしには、いかなる経験も持つことができません。

私の言っていることが、うまく伝わっているかわかりませんが。

あなたが何かを経験するたびに、その経験を通して知識が強化され、さらに確固たるものになります。

これは悪循環です。

それは延々と続いていく。

知識があなたに経験を与え、そして経験が、あなたの持っている知識を強化する。

あなたがしている質問は、とても軽薄な質問です。

なぜなら、質問は知識から生まれるからです。

もしその質問に何らかの答えがあるとしても、それが必ずしも「あなた自身の答え」だとは限りません。

すべての答えは、何世紀にもわたって蓄積されてきた答えなのです。

蓄積されてきた知識の総体がある。

蓄積された知識、蓄積された経験がそこにある。

あなたはそれらを使って、自分自身とコミュニケーションし、また他人ともコミュニケーションしているのです。

だから、「あなたの心」と「私の心」というようなものは存在しません。

しかし、これまで存在してきたものすべての、すべての思考と経験の総体としての「心」は存在します。

だから、誰かがその質問に対してどんな答えを与えようとも、その答えはその質問に終止符を打たなければならない。

事実、他人から与えられた答えも、あなた自身が自分のために作り上げた答えも、そして今日、世の中にいる賢者たちが与えている答えも、過去に存在した賢者たちの答えも――本当の意味では答えではありません。

私があなたの質問にどんな答えを与えたとしても、それはその質問への答えにはなり得ない。

なぜなら、答えはその質問に終止符を打たなければならないからです。

もし、そこで質問そのものが粉々に砕かれるのなら、その質問を生み出した原因である知識もまた、すべて消え去らなければならない。

質問している者は、どんな答えにも興味がないのです。

なぜなら、その答えは全体を吹き飛ばさなければならないからです。

あなたがこの30年、40年の間に知ったわずかなものだけではない。

その時点までに蓄積されてきたすべてのもの――それまでに存在したあらゆる人間が考え、感じ、経験してきたすべてのものが、質問が投げ出されたその瞬間までに、すべて消え去らなければならない。

私の言っていることが、うまく伝わっていないかもしれません。

ともかく、わかるでしょう。

答えがあるのだとすれば、その答えはすべてを消し去るものでなければならないのです。

Q: 私は、真空(vacuum)が現実になろうとしている、あるいは一見すると現実になりそうな、その瀬戸際で生じる絶望について考えていました。

U.G.: そうです。

しかし、少しのあいだ、そこに絶望があると仮定しましょう。

(あなたは、自分がひどい絶望の中にいると言っていますね。)

では、あなたはその絶望から自分を解放しようとすることを、もう完全にやめたのですか?

あなたは、それを「絶望」と呼んでいる。

そして「真空」や「空虚」という言葉を使うのと同じように、その言葉を使っている。

しかし、そこには絶望などありません。

実存主義の哲学者たちは、彼らが「絶望」と呼んでいるものの上に、巨大な哲学体系を築き上げました。

宗教的な人々は、それを「神聖なる絶望」と呼んでいる。

しかし、これらはすべて意味のない言葉です。

あなたは、本当に自分が「絶望」と呼んでいるものと向き合ったことがない。

なぜなら、そこにあるのは、あなたが「絶望」と呼んでいる状況から、何とかして自分を解放したいという方向への動きだけだからです。

だから、あなたはその絶望を作用させない。

私が言っている「行動」とは、そのことなのです。

あなたはまだ、それについて考えている。

わかりますか?

その絶望は、どこにあるのですか?

それはあなたの思考の領域にはありません。

それは、ここに――あなたの身体という枠組みの中に――あるべきなのです。

2026/09/22

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 13

Q: 「そこには二元性があるという理解、その理解が生じるということ……」

U.G.: 理解そのものが二元性です。その分割がなければ、理解すべきものは何もありません。ですから、あなたが何かを理解するために使っている道具、それがあなたの持っている唯一の道具です。他に道具はありません。

直観について語ることもできるし、ほかにも千ものことについて語ることができるでしょう。しかし、それらはすべて、感度を高められた思考にすぎません。直観とは、感度を高められた思考以外の何ものでもない――それでもやはり、それは思考です。

だから、その道具を使って何かを理解したとしても、それによってあなたが何かを理解できたわけではありません。それは理解するための道具ではないし、ほかに道具もないのです。

もしそうだとしたら、そもそも理解すべきものが何かあるのでしょうか?

あなたが何かを理解しようとするのは、ただ、そこにあるものを変えるためです。そこにあるものを、あなたは変えたい。自分の思考の構造に変化をもたらしたい。だから、違ったように考え始め、違ったように経験し始める。

しかし、根本的には何も変わっていません。

つまり、あなたが何かを理解したいと思うのは、そこに変化をもたらすためなのです。それと同時に、あなたはその変化を望んでもいない。

それが、人間の神経症的な状況を生み出しています。二つのことを同時に望んでいる――変化を望み、しかも変化を望まない。

それが、いつもそこにある葛藤なのです。

Q: おそらく、その葛藤を見なければならないのでしょう。

U.G.: 「見る」ということ自体が、分割する働きです。二つのものがあることになる。

ほら、インド人はこのゲームにかけては昔からの大名人です――見る者と見られるもの、観察者と観察されるもの。

こういうゲームにかけては、彼らは大変な達人です。

しかし、いったい何を見るというのでしょう?

そして、見ているのは誰なのでしょう?

二つのものがあるのでしょうか?

あなたは「見る」とき、何をしていますか?

また同じ思考に戻っているだけではありませんか。

「私は誰なのか?」と自分自身に問いかけるのは、馬鹿げています。

それがラマナ・マハルシの基本的な教えになってしまった。「私は誰なのか?」と。

なぜそんな質問をするのでしょう?

その質問には、あなたが知りたいと思っている、もう一つ別の「私」が存在するという意味が含まれています。

私にとって、その質問にはまったく意味がありません。

その質問をするという事実そのものが、すでに二つのものがあることを意味しているのです。

あなたが知っている「私」と、そしてその本質をあなたが知らない、もう一つの「私」がある。

「私は誰なのか?」という質問には、もう一つ別の「私」が存在し、その本質をあなたは本当には知らず、それを知りたいと思っている、ということが含まれているのです。

私の言っていることが、うまく伝わっているかどうかわかりませんが。

そもそも、あなたは自分自身について何か知っていますか?

何を知っているのですか?

言ってみてください。ん?

Q: 彼が知っていることです。

U.G.: 彼が「知らされてきた」ことです。

どこに住んでいるか、自分の名前は何か、毎月いくら収入があるか、電話番号、これまでに出会った人々、30年の人生の中でどれだけの経験を積んできたか、そして読んできたすべての本。

それが、彼があなたに言えることのすべてです。

彼は、自分が集めてきた情報と、蓄積してきた経験を、機械的に繰り返すことができる。

そして、そこにあるのはそれだけです。

では、なぜあなたはそれに不満なのですか?

そして、なぜそれ以外の何かを探し求めているのですか?

あなたが集めてきた情報や、自分が知っていること以外に、自分自身について何か語ることができますか?

Q: 私がそこで見つけたものは、答えではありません。もし答えだったなら、質問が残り続けるはずがないでしょう。

U.G.: そこで何を見つけたのですか?

Q: ただの知識です。

U.G.: では、その馬鹿げた質問は、あなたがすでに持っている知識から生まれたものです。

「私は誰なのか?」という質問を投げかけたのは、そこにすでにある知識なのです。

だから、あなたは知りたいと思う。そして、その「知ること」を通して、あなたの持っている知識は勢いを増していく。あなたはそこに、さらに、さらに、さらに付け加えていく。

もし、そこに何か「知るべきもの」があるのだとしたら、あなたが知っていることのすべてが終わらなければならない。

ところが、その質問への答えを得ようと追い求めたり、答えを要求したりすることで、あなたは知識にますます多くのものを付け加えているのです。

だから、「私は誰なのか?」という質問がいかに馬鹿げているか、わからないのですか?

誰がそれを提案したのか、誰がその質問をあなたに投げかけたのか、誰がその質問を勧めたのか――そんなことはどうでもいい。

そこには、知るべきものなど何もありません。

そこにあるのは、あなたが知っていることのすべてです。

それがなくなったとき、あなたには何かを知る必要もなくなるし、そこにあるものについて何かを知る方法もなくなります。

Q: でも、「私は誰なのか」というのは、本当は質問ではありません。「私は誰なのか」は、指し示すものです。

U.G.: そうです。それはどこを指し示しているのですか?

いいでしょう。もしそれが「指し示すもの」だというなら、あなたはどうするのですか?

そこにじっと留まって、それに従う代わりに、自分の指をしゃぶっている。

その「指し示すもの」を、あなたはいったいどうするのですか?

Q: その指し示すものは、指し示されるべきものが何もないところを指しています。

それは、これらがすべて意味のない言葉にすぎないところへ、あなたを連れていくのです。

U.G.: それでいい。その質問そのものが、意味のない質問なのです。

Q: ええ。でも、それを「質問」として使った場合にだけ、そうなるのです。

U.G.: いいでしょう。それを「指し示すもの」として使ったとしても、その方向そのものが間違っている。

Q: それは指し示すものですらありません。

U.G.: いいでしょう。では、それはいったい何なのですか?

Q: それは、あなたが「ある」ということを示しています。

私が「ある」ということを示しています。

「私はある(I am)」ということが、基礎なのです。

U.G.: 「私とは何か」というのは、私が自分自身について持っている知識です。

Q: 「私はある」ということが、私なのです。

U.G.: しかし、「私とは何か」というのは、どういう意味なのですか?

Q: 何の意味もありません……。

U.G.: そうです。

Q: 「私はある」というのは、知識ではありません。

U.G.: 質問とは独立して存在するものなど、そこには何もありません。

Q: では、それが知識の終わりなのですね。