2026/10/09

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 18

「どうすれば幸せになれるのか」という問いを手放してしまえば、あなたは生き始めるんです。

そうすれば、幸福のことなどまったく気にせずに生きるようになる。

そもそも、そんなものは存在しないんです。

幸福なんて、まったく存在しない。

幸福を求めれば求めるほど、それを探し求めれば求めるほど、あなたはますます不幸なままでいる。

分かりますか。

「幸福を追い求めること」と「不幸であり続けること」は、いつも一緒なんです。

Q: それは、宗教や社会や文化のあらゆるものに逆らうことになるんじゃないですか?

U.G.: 文化、そして、あらゆる思考の体系……。

Q: 構造とか、体系とか、あらゆるシステム……。

U.G.: あらゆる思考の構造です。哲学的な構造、宗教的な構造、唯物論的な構造……。

Q: それは「否定的」なことだと思いませんか? 私がそう思うからというだけじゃなくて、人々はそう言うでしょう……。

U.G.: なぜ、それが「否定的」だと言うんです?

よく聞いてください……。

Q: ……人々がそう言うからです。

U.G.: 人々がそう言うのは、それが彼らにとって手っ取り早い逃げ道だからですよ。

あなたは一つのことを忘れています。

人間が何世紀にもわたって考え出し、実践してきた、あらゆる「肯定的なアプローチ」――それらは、何一つとして有益な結果をもたらしていない。

あなたが約束されてきたような結果を、それらは生み出してこなかったんです。

それなのに、あなたはそれを延々と、延々と、延々と続けている。

いつか何らかの奇跡によって、自分が「肯定的な目標」を達成できるだろうと期待しているからです。

つまり、「肯定的なアプローチ」を通して私たちの前に置かれた目標を、いつか達成できるだろうと。

あなたがそれを続けているのは、ただ希望があるからです。

そして、あなたを動かし続けているのは、まさにその「希望」なんです。

「肯定的/否定的」という二分法をいつも持ち出してくる、この思考の構造に囚われないことです。

あなたの目標は、いつだって「肯定的」なものです。

ところが、その目標が望んでいた結果をもたらしてくれなかったので、あなたはこうしたことを「否定的」に見たり、否定的な仕方でアプローチしたりするようになった。

「肯定的なアプローチ」と「否定的なアプローチ」が機能するのは、思考の領域だけなんです。

私が言っているのは、こういうことです。

「ほら、これまであなたが取ってきた肯定的なアプローチは、あなたが望んでいた結果をもたらしていない。」

そして私は、それがなぜ望んでいた結果をもたらさなかったのかを説明している。

なぜあなたが、今いるその場所から動けなくなっているのか、その理由を説明しているんです。

ところが、あなたはすぐに振り返って、

「あなたのアプローチは否定的だ」

と言う。

でも、まったく否定的ではありません。

私はコインの裏側、あるいは物事のもう一方の側面を示しているだけです。

あなたの主張を相殺するためであって、あなたを私の考え方に引き入れるためではありません。

まして、問題に対する「否定的なアプローチ」を強調するためでもない。

あなたの目標そのものが「肯定的な目標」である以上、あなたがどんなアプローチを取ろうとも、それは肯定的なアプローチなんです。

あなたはそれを「否定的なアプローチ」と呼ぶかもしれない。

でも、それでもなお、それは肯定的なアプローチなんです。

だから、目標については、非常に、非常に明確でなければならない。

私が強調したいのは、その目標そのものがなくならなければならない、ということです。

Q: 目標を手放すということですか?

U.G.: そんなものには、まったく意味がありません。

目標には何の意味もない。

あなたが自分自身の前に置いたその目標には、まったく意味がないんです。

なぜなら、その目標がもたらしたのは、苦闘と苦痛と悲しみだけだからです。

少し前にも言ったように、あなたは「意志」を使っています。

そして、その意志には一定の限界がある。

ある限界を超えて、それを使うことはできません。

あなたが意志を使うこと、そして努力することによって、こうした問題に取り組み、それに立ち向かうための、いくらかの追加的なエネルギーを得ることはできます。

しかし、実際には、その力には限界があるんです。

あなたが生み出しているエネルギーは、単なる「摩擦のエネルギー」にすぎない。

意志が摩擦を生み、その摩擦が、ある種のエネルギーをあなたに与える。

しかし、そのエネルギーは長くは続きません。

だから、また最初の地点に戻ってしまう。

Q: あなたも、欧米のキリスト教文明全体が「目標」というものの上に築かれていることは分かっていると思います。

U.G.: なぜ[西洋文明だけなんですか?]

すべての文明が、すべての文化が、あなたの前に目標を置いているんです。それが物質的な目標であろうと、精神的な目標であろうと。

物質的な目標を達成するための方法や手段はあります。

しかし、それでさえ、多くの苦痛があり、多くの苦しみがあります。

そして、そこにさらに、いわゆる「精神的な目標」というものを上乗せしてしまった。

たとえばキリスト教は、目標に到達するための手段としての「苦しみ」を土台にして築かれています。

結局あなたに残るのは、ただ苦しみだけです。

そして、あなたはその苦しみをものすごく大きなものにしてしまう。

それなのに、どんな性質の目標であれ、その目標には少しも近づいていない。

一方、物質世界では、目標というものは具体的で、手に取れるものです。

物質的な目標を達成するために使っている道具は、実際にある種の結果を生み出します。

それをますます使っていけば、望んだ結果を達成することができる。

しかし、それも保証されているわけではありません。

あなたが使っている道具には、その能力の範囲に限界があります。

それが適用できるのは、この[物質的な]領域だけです。

ところが、あなたがいわゆる「精神的な目標」を達成するために使っている道具も、実は同じ道具なんです。

あなたは気づいていない。

いわゆる物質的な目標の上にさらに重ねられた、あらゆる精神的な目標は、あなた自身の空想から生まれたものだということに。

なぜなら、あなたは人生を「物質的なもの」と「精神的なもの」に分けてしまったからです。

あなたが目標を達成するためにどんな道具を使おうと、それが物質的な目標であろうと精神的な目標であろうと、まったく同じなんです。

Q: でも、人間である私たちは活動的な存在ではないでしょうか。植物だって活動しています。生きているものは活動している。私たちは受動的ではありません。

何らかの目標を持たなければならないのではないですか?

あなたは、目標を持つこと自体が悪いと……。

U.G.: 私が言いたいのは、目標について非常に明確になってほしい、ということです。

あなたは何を望んでいるんですか?

何を望んでいるんですか?

「望むこと」が間違っているわけではありません。

しかし、あなたが物質的な目標であれ精神的な目標であれ、それを達成するために使える唯一のものは、ある「道具」なんです。

私が言っているのは、そのあなたが持っている唯一の道具が、思考だということです。

2026/10/06

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 17

Q: 意識について話すとき……。

U.G.: ええ、ええ、分かっています。あなたはどうやら「意識」について何か知っているようですね。では、あなたの言う「意識」とは、いったい正確には何を意味しているのか、教えていただけませんか。

Q: 分かりません。だから、あなたにその質問をしたんです。

U.G.: なぜ私に「意識」について質問するんですか? 私はあなたに質問を返しているわけではありませんよ。あなたはどこかで「意識」という言葉を拾ってきたんでしょう。そうでしょう。どこかでその言葉を拾ってきて、それで「意識を拡大する」といったことを人々が語っている。

Q: ……自分自身をもっとよく知ろうとしたり、本来の自然なあり方を見つけようとしたりする、という意味で。

U.G.: あなたの自然なあり方というものは、知る必要のないものです。ただ、それがそれ自身のやり方で働くままにしておけばいい。あなたがそれを知りたいと思うということは、何らかの「やり方」や「知識」を必要としているということでしょう。そして、それを誰かから得ようとしている。

心臓が働くことは自然なことです。身体のあらゆる器官が働くことも、きわめて自然なことです。それらは一瞬たりとも、「私はいったいどうやって働いているんだろう?」などと自問してはいません。生きている有機体全体には、それをきわめて自然な仕方で機能させている、とてつもない知性がある。

ところが、あなたは、あなたが「人生」と呼んでいるものを、そこから切り離してしまった。あなたが「人生」と呼んでいるもの、つまり「生きる」ということは、この生きている有機体の機能とは、まったく関係がないんです。

だから当然、あなたは「どう生きればいいのか?」と問い始める。分かりますか。実は、この「どう生きればいいのか」という問いこそが、全体が自然に進んでいるあり方を破壊してしまったんです。

そこに文化が入り込んできて、こう教える。

「こういうふうに行動し、こういうふうに生きるべきだ。これこそが、あなたにとっても社会にとっても善い、唯一のあり方なのだ」と。

あなたは、その状態を変えたいと思っている。そうでしょう。では、あなたはいったい何を変えたいんですか? 私が尋ねているのは、それだけです。

Q: それが分かればいいんですが。

U.G.: あなたには決して分からないでしょう。では、いったい今、あなたは何をしようとしているんですか? 自分がやっていることの馬鹿げたところが見えませんか?

あなたのこの「探求」というものは、そもそも存在しないものを追いかけようとしているようなものなんです。

私はいつも、私のお気に入りのたとえを使います。

私たちはみんな、そこに「地平線」というものが実際に存在していると、当たり前のように思っています。だから、それを見て「これは地平線だ」と言えば、とても単純なことのように聞こえるでしょう。

でも、あなたは忘れているんです。あなたの肉体的な限界、つまり肉眼の限界が、そこにある一点を固定して、それを「地平線」と呼んでいるということを。

もし地平線の方向へ進んでいけば、どれだけ速く進もうとも――たとえ超音速機に乗っていたとしても――その地平線は、それだけ遠くへ逃げていきます。

あなたが囚われているのは、ただその「限界」なんです。

私はまた、自分の影を追い越そうとする例もよく使います。

子どもの頃、私たちは自分の影を追い越そうとして遊びました。ほかの男の子たちも一緒になって走って、みんなが自分自身の影を追い越そうとしていた。

そのとき私たちは、自分の身体がそこに影を作っているということには、まったく気づかなかった。そして、その影を追い越そうとしていること自体が、実は自分で演じている馬鹿げたゲームだということにも気づかなかった。

何マイル走っても、何十マイル走っても、それは同じです。

『不思議の国のアリス』の話を知っていますね。

赤の女王は、自分が今いる場所にとどまっているために、どんどん速く、どんどん速く、どんどん速く走らなければならない。

分かりますか。まさにそれを、あなたたちはみんなやっているんです。

どんどん速く、どんどん速く、どんどん速く走っている。

でも、どこへも進んでいない。

自分がまさにどこにいるのかを見つけようとして、あなたがやっていることは、実は少しも動いていないんです。

それなのに、「自分は何かに取り組んでいる」「何かをして目標を達成しようとしている」という感覚が生まれる。

しかし、あなたがやっていることは、この身体の自然な機能とはまったく関係がないということを、あなたは知らない。

あなたは自然な仕方では行動していません。

なぜなら、文化によって「こうあるべきだ」という理想があなたの前に置かれ、その理想が、ここでの自然な行動を歪めてしまったからです。

あなたは自然な仕方で行動することを怖がっている。なぜなら、「こういうふうに行動すべきだ」と教え込まれてきたからです。

「肉体的な完全性」というのも、そのための手段の一つです。

私はヨーガに反対しているわけではありません。誤解しないでください。

瞑想に反対しているわけでもありません。

瞑想をしてください。ヨーガをしてください。

それらは一種の「対症療法」なんです。

身体をしなやかに保ちたいのなら、ヨーガをすればいい。硬くこわばった身体より、しなやかな身体のほうがいい。

いつも緊張を作り出している代わりに、瞑想によってその緊張から解放されるのであれば、やればいい。

ただ、私が言っているのは、そもそもその緊張を作り出しているのが瞑想なのではないか、ということです。

まず自分で問題を作り出しておいて、それから、その問題を解決しようとする。

まあ、それはそれでいいでしょう。

ただ、ありがたいことに、あなたはそれをまだそれほど真剣にはやっていない。

そこに、あなたに残された唯一の希望があります。

もし本気で瞑想したら、あなたは大変なことになりますよ。

気が狂ってしまうでしょう。

あるいは、この「気づき(awareness)」を四六時中実践しようとしたら――意識のレベルでも、無意識のレベルでも――本当に大変なことになります。

最後には精神病院行きになって、そこで「気違いの歌」や「陽気なメロディー」を歌うことになるでしょう。

インドの新しい歌を覚えてもいい。『ハレ・クリシュナ』の歌を覚えて、歌って、楽しめばいい。

それは構いません。

でも、「気づきを実践する」ということは、やらないほうがいい。

それは、歩きながら、自分が一歩一歩どこに足を置いているのかを、いちいち監視しようとするようなものだからです。

そんなことをしたら大変なことになります。

歩くことさえできなくなる。

だから、そんなことはしないことです。

身体に備わっているものは、機械的に、とても滑らかに動いているんです。

あなたは、それについて何かをする必要などまったくありません。

それをやろうとすればするほど、あなたはますます抵抗を作り出してしまうんです。

あなたにとって、本当の問題は退屈なんです。

本来は存在しない「退屈」というものが、退屈から自由にならなければならない、という要求によって作り出されている。

ところが、その要求は、あなたを退屈から自由にするどころか、そこから自由になることをますます、ますます、ますます難しくしている。

だからあなたは、あちこち探し回らなければならなくなる。

その存在しない退屈から自由になるために、ありとあらゆる種類の仕掛けや小細工を探し求めなければならない。

そして、まさにそれが、このことを永遠に、いつまでも続けさせているんです。

私は、あなたに別の「仕掛け」を与えようとしているわけではありません。何かを提案しているわけでもない。

ただ、あなたが自分自身に何をしているのか、それを見てほしいだけです。

私は、何かからあなたを自由にしてやろうとしているのではありません。

まして、「私は新しい商品を売るために、それをあなたから取り除いてあげましょう」などということでもない。

まったく違います。

私には売るべき新商品など何もありません。そもそも、何かを売ることにはまったく興味がない。

私たちは、ただ何らかの理由で、こうしてここにいるだけです。

なぜ私たちがここにいるのか、私には分かりません。

だから、いっそのこと、私たちは考えを交換することすらしなくていいんです。

そんなことには何の意味もない。

ここには、話し合うべきことなど何もありません。

議論には何の意味もないんです。

なぜなら、議論や会話の目的というのは、何かを理解することだからです。

ところが、ここでの議論は、何かを理解するための手段にはなっていない。

結局のところ、私がいつも強調しているのは、

「ほら、理解すべきものなんて何もないんですよ」

ということなんです。

「理解すべきものなど何もない」ということが理解されたら、こうした会話はすべて意味を失います。

だから、あなたは立ち上がって、きっぱりと立ち去ればいい。

だから私はいつもこう言っているんです。

「お会いできてよかったです。それでは、さようなら。」

それだけなんです。

「お会いできてよかったです。それでは、さようなら。」

Q: 私たちは、それがどうしても理解できないんです。

U.G.: いや、それこそ、私がいつも言っていることなんです。

「お会いできてよかったです。それでは、さようなら。神があなたとともにありますように。神とともにいてください。」

これはスペイン語の言い方ですね――「神とともにいなさい」ということです。

あなたの神、あなたのグルたち――彼らとともにいなさい。

分かりますか。

余計なことをして、自分自身を不必要に悩ませないことです。

希望を抱いて生き、希望を抱いて死になさい。

そして、輪廻転生という理論を受け入れるのなら、「また生まれ変われる」と希望しなさい。

一度生まれるだけでも、十分ひどいんですよ。

どうして、もう一度生まれたいなんて思うんです?

いっそのこと、この問題を今ここで、一度きりで片づけてしまえばいい。

そして、生き始めればいいんです――私たちにあとどれだけ残されているのか分かりませんが、その残されたわずかな時間を。

世界のことや、世界の平和のことなど、気にする必要はありません。

2026/10/02

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 16

Part Ⅲ

Q: ちょっとお聞きしてもいいですか?

U.G.: どうぞ。

Q: 私たちは、自分の内面について絶えず変化を起こそうとしていますよね。必ずしも世界を変えようというのではなく、瞑想やヨーガなどをして、自分の内なる自己を見つけようとする。そのとき、なぜ私たちはこの変化を望むのでしょうか?

U.G.: あなたは、なぜそういうことを全部やるのですか?

Q: ええと、試してみるんです。実際にやってみて、それで……。

U.G.: 何のために? 何かを変えたいのですか?

Q: そこなんです。そうです。なぜ私たちは変わりたいのでしょう? 私たちの中の何が、こうして絶えず変化することを求めているのでしょう? なぜ私たちは、今の自分に満足していられないのでしょうか?

U.G.: まず第一に、あなたは自分自身に満足していないのです。そうでしょう?

Q: 意識的にはそうではないんです……。おかしなことなんですが。私はとても気分よく過ごしていますし、比較的、これといって不満もありません。それなのに……。

U.G.: それなのに、あなたは変わろうとしている。そこに矛盾があるのが分かりますか? あなたは、自分で言っているほど満ち足りてはいない。自分で言っているほど満足してはいないのです。

Q: その通りです。

U.G.: 何かが、「すべてがうまくいっているわけではない」と決めている。だから、あなたは変化を起こそうとする。では、その「変わらなければならない」という要求に責任があるのは誰なのか? 私が尋ねているのは、そこです。

文化や社会が、あなたの前にその要求を置いたのです。つまり、「あなたはそういう人間であるべきだ」「あなたはそうならなければならない」と。

分かりますか?

そしてあなたは、それを自分自身のモデルとして受け入れたのです。

Q: でも、私が目指している人物像とか、何か特定のもののイメージが自分の中にある、という感じはしないんです。私が知りたいのは、「自分の内側には何かもっと別のものがあるのではないか」ということなんです。

U.G.: いや。「もっと何かを求める」という要求……。

Q: 内側にあるもの……。

U.G.: 内側も外側もありません。私が言おうとしているのは、こういうことです。あなたの中には、「今の自分の存在のあり方よりも、もっと面白いこと、もっと意味のあること、もっと目的のあることが、自分にはできるはずだ」という感覚がある。そして、それを求める要求がある。分かりますか。

それが、あなたの落ち着かなさの原因なのです。

あなたの中にあるこの衝動によって、あなたは落ち着かなくなる。その衝動は、社会や文化によってあなたの中に植えつけられたものです。それによって、「自分の人生には、今の状態以上に、もっと面白いこと、もっと意味のあること、もっと目的のあることがあるはずだ」と感じるようになる。

Q: では、あなたが見つけようとしている、より自然な自己の状態というものは、存在しないのですか?

U.G.: ありません。

Q: つまり、それは社会が組み合わせて作った、ただの言葉にすぎない?

U.G.: その通りです。

あなたの中に植えつけられたその要求によって、あなたの自然なあり方は破壊されてしまったのです。

だから、「自分にできるのがこれだけなら、自分の人生には意味がない」と思うようになる。そこで、あなたはその退屈を埋めるために、ありとあらゆるものを試してきた……。

そして今では、こうした新しい「仕掛け」がいろいろある――ヨーガ、瞑想、それにあらゆる心理学です。

Q: 本を読むことも。

U.G.: 本を読むこと、宗教書を読むこと――それも、すでに存在しているもののリストに新しく付け加えられたものにすぎません。でも、あなたはその退屈から自分を解放することには成功していない。

それが、あの「要求」なのです。

あなたは自分の人生に、自分の存在そのものに退屈している。なぜなら、それがとても反復的だからです。

まず第一に、この世界のこの地域では、少なくとも、あなたの身体的な欲求は十分に満たされています。だから、生き延びるためにこれ以上エネルギーを使う必要はない。その部分は、もう面倒を見てもらえているわけです。

そこが満たされると、自然に出てくる疑問は、とても単純なものです。

「ここにあるのは、これですべてなのか?」

毎朝会社へ行く。あるいは、ただ主婦として家事を全部こなす。あるいは、眠る。セックスをする――何もかもです。

「これですべてなのか?」

そのあなたの側にある「これですべてなのか?」という要求が、こうした聖者たちによって利用されているのです。

「これですべてなのか?」

だから、あなたがそこで退屈を埋めるために試しているものが、そうした「仕掛け」のいくつかなのです。

でも、それは空っぽの、底なしのカップです。

いや、底なしのカップですらない。底のない穴なのです。

あなたはそこに、想像できる限りのもの、あるいは他人が考え出してくるあらゆるものを、いつまでも注ぎ込むことができます。

それでも、退屈は現実です。事実として存在している。

もちろんです。そうでなければ、あなたは何もしないでしょう。

あなたはただ退屈している。

同じことを、何度も何度も何度も繰り返すことに、ただ退屈している。そして、そのことに何の意味も見いだせない。

Q: その退屈を、あなたはそれほどはっきり意識していない……。

U.G.: その退屈を、それほどはっきり意識していない。なぜなら、存在しないものから自分を解放してくれる何かを探しているからです。

私がずっと強調してきたのは、それだけです。

問題は、本当は退屈そのものではない。

あなたは、退屈が存在していることさえ、意識的な思考のレベルでも、意識的な存在のレベルでも、自覚していないのです。

存在しない退屈から自分を解放してくれる、そうしたものの魅力こそが、実際には退屈を生み出している。

そして、そうしたものでは、そのようにして生み出された退屈を、本当には埋めることができない。

だから、ずっと続いていく。延々と、延々と……。

より新しい、さらに新しい技法や方法が次々と出てくる。

毎年、インドから新しいグルがやって来る。新しい「仕掛け」を携えて、新しい技法や、何か新しいセラピーを持ってね。

まあ、いろいろなものがありますよ。