2026/11/03

The Mystic of Enlightenment  U.G.クリシュナムルティ 2

Q: 14歳から21歳までの間、性的衝動を強く感じていたとおっしゃっていましたね。その時、結婚されたのですか?

UG: いや、焦りはしなかった。そのままにしておいたんだ。性的衝動ってやつを体験してみたかったんだよ。「もし何もせずに放っておいたら、これはどうなるんだろう?」ってね。この全体的な仕組みを理解したかった。「なぜ自分はこんな自慰行為に耽りたがるんだろう? 性のことなんて何一つ知らないのに、なぜいろんな性のイメージが頭に浮かぶんだ?」とね。これが私の探求であり、私の瞑想だった。蓮華座で坐禅を組んだり、頭立ちのポーズをとったりすることじゃない。「どうやってこんなイメージを自分は形作れるんだ?」——映画なんて一度も行ったことがなかったし、ポスターの類だって見ていなかった。ほら、今でこそあらゆるポスターがあるけれど——「どういうことだ? これは内側にあるもので、外から入れられたものじゃない。外側にあるのは刺激だ——刺激は外からやってくる。だが、内側からの刺激という別の種類のものもある——私にとってはこっちの方が重要だった。外からの刺激ならいくらでも遮断できるが、内側からのこれをどうやって遮断すればいいんだ?」私はそれを見つけ出したかった。

それに、その性の体験とは一体何なのかということにも興味があった。自分自身は一度も性を体験したことがなかったのに、それがどんなものか分かっているような気がしていたんだ。これがずっと、ずっと、ずっと続いた。女性と交わろうとか、そういうことへと急ぎはしなかった。事態が独自のプロセスで進むに任せたんだ。当時は結婚なんてしたくなかった時期だった。私の目標は禁欲生活者や修道士、そういった類のものになることであって、結婚じゃなかった——しかし事態は動き、「もし性欲を満たすためだけの問題なら、なぜ結婚しないんだ? 社会はそのためにあるんじゃないか。なぜそこらの女と性的関係を持つ必要がある? 結婚すれば自然な形で性を表現できるじゃないか」と自分に言い聞かせた。

21歳になった時、ある境地に達したんだ。ブッダ、イエス、ラーマクリシュナ、誰も彼も——すべての指導者たちは自分自身を偽り、欺き、そして周囲の人間全員を欺いていると強烈に感じた。こんなものは、どう考えても本物であるはずがない——「この連中が語り、描写している状態とやらは一体どこにあるんだ? その描写は、私という人間や私の機能の仕方とは何の関係もないように思える。誰もが『怒るな』と言うが——私は年中怒っている。内側は残忍な行為で満ち満ちているんだから、あんなものは嘘っぱちだ。あの連中が『こうあるべきだ』と教えてくる姿は偽りであり、偽りである以上、それは私を偽者にしてしまう。私は偽者の人生なんて生きたくない。私は強欲だ。なのに連中が語っているのは無欲のことだ。どこかが絶対に狂っている。この強欲こそがリアルであり、私にとって自然なことなのだ。連中が語っていることこそが不自然なんだよ。だから、どこかが間違っている。だが、私は無欲の状態になるために自分を変えたり、自分を偽ったりするつもりはない。私にとって自分の強欲こそが現実なんだから」。私はそういったことを延々と語り続ける連中に囲まれて生きていた——誰も彼もが偽者だったよ、まったく。だからどういうわけか、君たちの言う『実存的吐き気』とでも呼ぶべきもの(当時はそんな言葉は使っていなかったが、今ではそういった用語も知っている)、聖なるものや神聖なものすべてに対する強い嫌悪感が私の身体に忍び込み、あらゆるものを追い出してしまった。「スローカ(聖典の詩句)も宗教も実践も、もうたくさんだ——そこには何もない。だが、ここにあるものこそが自然なのだ。私は野獣であり、怪物であり、暴力で満ちている——これこそが現実だ。私は欲望でいっぱいだ。無欲、無貪、無怒——そんなものには何の意味もない。それらは嘘であり、単に嘘であるだけでなく、私を偽者にしてしまうのだ」。だから私は自分に言った、「もうこんなお商売は終わりだ」とね。だが、話はそう単純じゃないんだよ。

そんな時、ある男がやって来て、私とこれらのことについて議論した。彼は私が実質的に無神論者であり(実践的な無神論者ではないが)、あらゆるものに懐疑的で、足の先まで異端者であることを見抜いた。彼は言った。「マドラスのティルヴァンナーマライという場所に、ラマナ・マハルシという男がいる。さあ、あの男に会いに行こう。あそこにはヒンドゥーの伝統を生きながら体現している人間がいる」

私は聖者なんて誰一人会いたくなかった。一人に会えば、全員会ったようなものだからね。私は店を冷やかして回るようにいろんな場所を探して回り、師の足元に座って何かを学ぶ、なんてことは一度もしなかった。なぜなら誰もが「同じことをもっともっとやれば、手に入るぞ」と言うだけだからだ。私が手に入れたのは、より多くの体験だけであり、やがてそれらの体験は永続性を要求し始めた——そして永続性なんてものは存在しないのだ。だから、「聖者どもは全員ペテン師だ——奴らは本に書いてあることしか言っていない。そんなもの読めば済む。『同じことを何度も繰り返せ』——そんなものは御免だ。体験など要らん。奴らは体験を私と分かち合おうとしている。私は体験になど興味はない。体験に関する限り、私にとっちゃ宗教的体験も性的体験もその他の体験も何の違いもない。宗教的体験も他のあらゆる体験と同じだ。ブラフマン(梵)を体験することにも興味はないし、現実を体験することにも、真理を体験することにも興味はない。奴らは他の誰かを助けることはできるかもしれないが、私を助けることはできない。同じことを繰り返す気はない。自分がやってきたことだけで十分だ。学校で数学の問題を解きたい時、何度も繰り返して解くと、答えはその問題自体の中にあると気づく。なら一体全体、問題を解こうとして何をやっているんだ? こんなプロセスを全部経るくらいなら、最初に答えを見つける方が手っ取り早いじゃないか」。

だから、気乗りせず、躊躇しながら、嫌々ながらも、私はラマナ・マハルシに会いに行った。あの男が私を引っ張っていったんだ。彼は「一度行ってみろ。何かが起こるから」と言った。彼はそのことを語り、『ポール・ブルントン』の『インド秘密の旅』という本をくれたので、この男に関する章を読んだ——「いいだろう、構わんよ、行って会ってみようじゃないか」。あの男はそこに座っていた。その存在そのものから、私は感じたんだ。「何だこれは! この男が——どうやって私を助けられるというんだ? コミック本を読み、野菜を切り、これやあれやと戯れているこの男が——どうやって私を助けられる? 助けられるはずがない」。ともかく、私はそこに座った。何も起こらなかった。私が彼を見つめ、彼が私を見つめた。「彼の前にいると静寂を感じ、疑問が消え去り、彼の眼差しがあなたを変える」——そんなものは私にとって、ただのおとぎ話、でっち上げの幻想のままであった。私はそこに座っていた。内側にはたくさんの疑問、くだらない疑問が渦巻いていた——だから、「疑問は消えていないじゃないか。ここに2時間も座っているのに、疑問はまだそこにある。よし、彼にいくつか質問してみよう」——というのも、当時の私はモークシャ(解脱)を強く求めていたからだ。私の背景の一部として、解脱を欲していた。「あんたは解脱した人間ということになっている」——それは口に出さなかったが。「あんたが持っているものを、私にくれるかい?」——私は彼にそう質問した。だが、あの男は答えなかった。だからしばらく時間が経った後、私はその質問を繰り返した——「『あんたが持っているものは何であれ、私にくれるかい?』と聞いているんだ」。彼は言った、「私は与えることができるが、お前はそれを受け取ることができるか?」とね。おいおい! 初めてこの男が、自分は何かを持っていて、私にはそれを受け取ることができないと言い放ったんだ。それまで誰一人として「私は与えることができる」なんて言わなかったが、この男は「与えることはできるが、お前は受け取れるか?」と言ったんだ。そこで私は心の中で言った、「もしこの世界にそれを受け取れる人間がいるとしたら、それは私だ。なぜなら私はこれほど多くの修行(サードゥナ)を、7年もの修行を積んできたのだから。彼は私が受け取れないと思っているかもしれないが、私なら受け取れる。私が受け取れなかったら、一体誰が受け取れるというんだ?」——それが当時の私の心境だった——ほら、(笑う)私は自分にものすごい自信があったんだよ。

私は彼のところにとどまらなかったし、彼の本も一切読まなかった。だから彼にさらにいくつか質問した。「人は時に自由であり、時に自由でないということがあるのか?」彼は言った、「お前が自由であるか、さもなければ全く自由でないかのどちらかだ」。もう一つ質問があったが、それは思い出せない。彼は非常に奇妙な方法で答えた。「そこへ至る階段など存在しない」とね。だが、私はこれらすべてを無視した。そんな質問はどうでもよかった——答えには少しも興味が持てなかった。

だが、「お前はそれを受け取れるか?」というこの質問……「なんて傲慢な奴なんだ!」——それが私の感覚だった。「なぜ私に受け取れないというんだ、それが何であれ? 彼が持っているものとは一体何なんだ?」——それが私の疑問であり、自然な疑問だった。こうして、疑問が自ずと形作られていった。「ブッダ、イエス、そしてあの連中全員がいたあの境地とは一体何なんだ? ラマナはその境地にいる——ということになっているが、私には分からん——だが、あの男だって私と同じ一人の人間じゃないか。彼が私とどう違うというんだ? 他人が言うことや彼が言っていることなど、私にはどうでもいい。彼がやっていることくらい、誰だってできる。そこに何がある? 彼が私とそれほど違っているはずがない。彼だって親から生まれたんだ。この事態全体について独自の考えを持っているだけだ。何かが彼に起こったと言う者もいるが、彼が私とどう違うというんだ? そこに何がある? あの境地とは一体何なんだ?」——それが私の根本的な疑問、ベーシックな問いだった——それがずっと、ずっと、ずっと続いていった。「あの境地が何なのか、私自身が見つけ出さなければならない。誰もあの境地を与えることなどできない。私は自分一人なのだ。コンパスも、船も、私を運ぶいかだすらもないこの未開の海へ行かなければならない。あの男がいる境地が何なのか、自分自身で確かめてやる」。私はそれを強く望んでいた。そうでなければ、自分の人生を投げ打ちなどしなかっただろう。

Q: その「与える・受け取る」という話が、よく分からないのですが。

UG: 彼が「私は与えることができるが、お前は受け取れるか?」と言った時に何を意図していたのか、私には何も言えない。だが、ある意味でそれが、自分自身の問いを定式化する助けにはなった。ほら、もし誰かが今、私に同じような質問をしてきたとしたら、私は「誰からも得るものなど何もない」と言うだろうね。君にを与える私とは一体誰なんだ? 君は私が持っているものをすでに持っている。私たちは皆、サニディ通り25番地にいるというのに、君は私に「サニディ通り25番地はどこですか?」と訊いているようなものだ。私は「君はそこにいるじゃないか」と言う。私がそこにいると知っているから言っているわけじゃない。自分がどこにいるかを知りたがっている——君がその質問をしているのだ。

(UGは、ラマナやそうした「宗教的な人々」のもとを二度と訪れることはなく、哲学の試験勉強のため以外には、二度と宗教書に触れることもなかったと語る。)

そこから私の本当の探求が始まった。私の宗教的背景のすべてが私の中にあった。それから探求を始めたんだ。数年間、私は心理学と哲学(東洋と西洋の両方)、神秘主義、あらゆる現代科学——あらゆるもの、人類の知識の全領域を自分自身で探索し始めた。探求はどこまでも続き、「あの境地とは一体何なのか?」というのが私の問いであり、その問いはそれ独自の強烈さを帯びていた。だから、「これらすべての知識は私を満足させない。なぜこんなものを読んでいるんだ?」となった。心理学は私の修士号のための専攻科目の一つだった——あいにく、当時はそれがシラバスの一部だったんだ。私が心理学に興味を持ったのは単純な理由からで、心が常に私を魅了していたからだ。「この心とはどこにあるんだ? それについて何かを知りたい。ここ、私の内側には何の心も見当たらないのに、これらの本はすべて心について語っている。さあ、西洋の心理学者たちが心について何と言っているか見てみようじゃないか」。ある日、私は教授に訊いた。「私たちは終始、心について話しています。あなたご自身は、心とは何か分かっているのですか? 私たちはフロイト、ユング、アドラー、その他の連中など、実に多くの本を学んでいます。そういったものはすべて知っています——本にある定義や描写は読みました——ですが、あなたご自身は心について何か知っているのですか?」彼は言った、「そんな不都合な質問をするんじゃない。(爆笑)とても危険な質問だ。試験に合格したいなら、ただこのノートをとって暗記し、解答用紙に再現しなさい——そうすれば学位がもらえるから」。「私は学位には興味がありません。心について突き止めることに興味があるのです」

(祖父が亡くなり、UGは学位を修了せずにマドラス大学を去った。1943年に彼は結婚した。)

それから、自分の背景もあって神智学協会に関わるようになった。私は祖父から神智学協会、J・クリシュナムルティ、そして多額の金を引き継いだんだ。だから好都合だった。当時は潤沢な資金があった——5万ドルか6万ドルほどだ——だからそういうことが何でもできた。私は講師として神智学協会に関わるようになり(最終的にUGはインドにおける協会の共同事務局長に選出された)、だが本腰は入っていなかった——「こんなものはすべて中古の情報だ。講義をする意味がどこにある?」当時は非常に優れた弁士だったんだよ、今ではもう違うがね。第一級のスピーカーで、あらゆる場所、あらゆる壇上で講義をした。インドのすべての大学で講演したよ。「これは私にとってリアルなことじゃない。頭のある人間なら誰でもこの情報を集めて吐き出すことができる。私は何をやっているんだ? なぜ時間を無駄にしている? これは私の生き方でもなければ、生計の手段でもない。これが君の仕事なら結構、理解できるよ、オウムのように繰り返して生計を立てればいい。だがこれは私の仕事じゃない。それなのに、私は何かに興味がある、そういう種類の何かに興味があるんだ」

そして(1940年代後半、UGが神智学協会で過ごした時期の終わり頃)、J・クリシュナムルティが舞台に登場した。彼はアメリカから帰国したばかりでした。

2026/10/30

The Mystic of Enlightenment  U.G.クリシュナムルティ 1


翻訳:Gemini 無料版
prompt:「段落や行間を原文と同じようにして、U.G.クリシュナムルティが語っているかのように和訳して」

*****

私の教えは、もしあなたがそう呼びたいのであればの話だが、著作権などない。あなたは自由に複製し、配布し、解釈し、誤解釈し、歪曲し、めちゃくちゃにしてもいい。好きなようにすればいい。私の同意も、誰かの許可も得ずに、自分がそれを書いたのだと主張したって構わない。――U.G.

『悟りの神秘(THE MYSTIQUE OF ENLIGHTENMENT)』

第一部

U.G.

(1973年から1976年にかけて、インドおよびスイスで行われた対話より編纂)

人々は私のことを「悟った男」と呼ぶ――私はその言葉が大嫌いだ――彼らは私が機能しているそのあり様を説明するのに、他に言葉を見つけられないのだ。同時に、私は「悟り」などというものは一切存在しないのだと指摘している。私がそう言うのは、自分自身が生涯をかけて悟った男になろうと探し求め、渇望した結果、悟りなどというものは存在しないと発見したからだ。したがって、特定の人物が悟っているか否かという問い自体が発生しない。紀元前6世紀のブッダなど知ったことではないし、ましてや私たちの只中に溢れている他のあらゆる「悟りを主張する者たち」など尚更だ。奴らは人々の騙されやすさにつけ込んで肥え太る搾取者の群れに過ぎない。人間の外部に力など存在しない。人間は恐怖から神を創造したのだ。だから問題は恐怖であって、神ではないのだ。

私は自分自身で、そしてただ一人で、悟るべき「自己(セルフ)」など存在しないということを発見した――私が言っているのはその「覚悟(悟り)」のことだ。それは打ちのメスを与えるかのようにやってくる。雷に打たれたかのようにあなたを直撃する。あなたは自己実現というたった一つの籠にすべてを投資してきたのに、最後に突然、発見すべき自己も、悟るべき自己も存在しないことに気づくのだ――そして心の中で「俺は一体全体、今まで人生で何をやっていたんだ?!」と叫ぶ。それがあなたを打ち砕くのだ。

あらゆる種類のことが私に起こった――私はそれを通過したのだ、お分かりだろう。その肉体的な痛みは耐え難いものだった――だからこそ、あなた方は本当はこんなものを望んではいないのだと私は言っているのだ。もし私があなた方にその一瞥でも、その感触のほんの一部でも与えられるなら――あなた方はこんなものに一切触れたいとは思わなくなるだろう。あなた方が追い求めているものは存在しない。それは神話なのだ。あなた方はこれと関わりたいとは全く思わなくなるはずだ。

UG:いいかね、私はこう主張する――何と呼べばいいのか分からないが、「悟り」「自由」「モークシャ(解脱)」「解放」といった言葉を私は使いたくない。これらの言葉はすべてドグマ的な意味合いを帯びており、独自のニュアンスを持っている――これはあなた方のいかなる努力によってももたらされるものではない。それはただ生じるのだ。そしてなぜそれが一人の個人に生じ、他の者には生じないのか、私には分からない。

質問者:では、それはあなたに生じたのですね?

UG:私に生じたのだ。

質問者:いつのことですか?

UG:49歳の時だ。

しかし、あなた方が追及しているもの――真理や現実の探求や追求――に向かって行うあらゆる営みは、あなた方が常に存在している、まさにあなた方自身の「自然な状態」からあなた方を遠ざけてしまうのだ。それはあなた方の努力の結果として獲得したり、到達したり、成就したりできるものではない――だからこそ私は「無因(acausal)」という言葉を使うのだ。それには原因はないが、どういうわけか探求は終わりを迎える。

質問者:あなたとしては、それは探求の結果ではないとお考えですか? あなたが哲学を学び、宗教的な人々に関わっていたとお聞きしたものですから……

UG:いいかね、探求はあなたをあなた自身から遠ざける――それは正反対の方向に向かっているのだ――それには絶対的に何の関連性もない。

質問者:それにもかかわらず、それが生じたのであって、それがあったから生じたのではない、と?

UG:それにもかかわらず――そうだ、まさにその言葉通りだ。あなたが行うあらゆることは、すでにそこにあるものがそれ自体を表現することを不可能にしてしまう。だからこそ私はこれを「あなたの自然な状態」と呼ぶのだ。あなたは常にその状態にある。そこにあるものがそれ自身のやり方で表現されるのを妨げているものこそが、探求なのだ。探求は常に間違った方向を向いている。だから、あなたが非常に深遠だとみなすあらゆるもの、神聖だとみなすあらゆるものは、その意識における汚染なのだ。あなたは(笑う)「汚染」という言葉が気に入らないかもしれないが、あなたが神聖で、聖なるもので、深遠だとみなすあらゆるものは汚染なのだ。

だから、あなたにできることなど何もない。それはあなたの手には負えないのだ。私は「恩寵」という言葉を使いたくない。なぜなら「恩寵」という言葉を使えば、「誰の恩寵か?」ということになるからだ。あなたは特別に選ばれた個人などではない。なぜあなたがこれに値するのか、私には分からない。

もし可能なら、私は誰かを助けることができるだろう。しかしこれは私が与えることのできないものだ。なぜなら、あなたはすでにそれを持っているからだ。なぜ私がそれをあなたに与えなければならないのか? すでに持っているものを求めるなど愚かなことだ。

質問者:しかし、私にはそれを感じられませんが、あなたには感じられています。

UG:いや、それを感じる感じないの問題ではないし、それを知る知らないの問題でもない。あなたは決して知ることはない。あなた自身がそれを知る術など全くないのだ。それはそれ自体を表現し始めるのだ。意識的な……いいかね、どう表現すればいいのか分からない。自分が他の誰かと異なっているという考えが、私の意識にのぼることは一度もないのだ。

質問者:ご自身を意識されるようになって以来、最初からそうだったのですか?

UG:いや、そうとは言えない。私は何かを追い求めていた――宗教的な雰囲気の中で育った他の誰とも同じように――何かを探求し、何かを追求していた。だから、その質問に答えるのは容易ではない。私のバックグラウンド全体に踏み込まなければならないからだ。たぶんそれは訪れる、分からないがね。(笑う)

質問者:単なる好奇心からですが、ナチケータのように、私個人としてこれらのことがあなたにどのように生じたのか、あなたが認識されている範囲でとても興味があります。

UG:いいかね、それは長い話だ。そう単純なものではない。

質問者:ぜひお聞きしたいです。

UG:いや、いいかね、私の人生全体について話さなければならなくなる――かなり時間がかかるよ。私の人生の物語はある時点まで続いて、そこで止まるのだ――それ以降の伝記は存在しない。

私の伝記を書くことに興味を持っている二人の伝記作家は、それぞれ異なるアプローチをとっている。一人は、私が行ったこと――サードナ(精神的修練)、教育、あらゆるバックグラウンド――が私をそこに導いたと言う。私はそれらすべて「にもかかわらず」そうなのだと言うのだがね。(笑い) もう一人の伝記作家は、私の「にもかかわらず」という発言にはあまり興味がない。分厚い本を一冊書くほどの材料にならないからだ。(笑い) 彼らはもっとそちら(原因と結果)に興味があるのだ。出版社もそういった種類のことに興味がある。それは極めて自然なことだ。なぜならあなた方は因果関係が常に作用する領域で機能しているからであり、だからこそ原因を、いかにしてこのようなことが生じたのかを突き止めようとする。だから私たちは振り出しに戻るわけだ、一歩も進んでいない。私たちは相変わらず「いかにして」に関心を持っている。

私のバックグラウンドなど無価値だ。誰のモデルにもなり得ない。なぜならあなたのバックグラウンドは唯一無二だからだ。あなたの人生のすべての出来事は、それ自体でユニークなものだ。あなたの条件、あなたの環境、あなたのバックグラウンド――すべてが異なる。あなたの人生のすべての出来事が異なるのだ。

質問者:私は世界に残すためのモデルを求めているわけではありません――そういう観点から聞いているのではないのです。私たちは星を見、太陽を見、月を見ます――それと同じようなことです。あなたを模倣したいわけではありません。関連があるかもしれないでしょう、誰に分かりますか? だからこそ私はここでナチケータだと言ったのです。あなたから真実を知らずに去りたくはありません。

UG:あなたの質問に答えるにはヤマ・ダルマラージャ(閻魔大王)が必要だな。

質問者:差し支えなければ、あなたがヤマ・ダルマラージャになってください。

UG:構わないよ。手伝ってくれ。いいかね、私は無力で、どこから始めればいいのか分からないのだ。どこで終わるかは知っているがね。(笑い) 私の人生の物語全体を話さなければならないようだな。

質問者:喜んで伺います。

UG:浮かんえこないのだ。

質問者:インスピレーションが必要ですね。

UG:私にはインスピレーションなどないし、誰かを触発するような人間からは程遠い。あなたの好奇心を満足させるために、私の人生のもう一面、くだらない一面を話さなければならないだろうな。

(彼は1918年7月9日、南インドの上流中産階級のバラモン家系に生まれた。家名がウッパルーリであったため、ウッパルーリ・ゴーパーラ・クリシュナムルティと名付けられた。母は彼の生後間もなく亡くなり、彼はマスリパタム近くのグディヴァダという小さな町で母方の祖父母によって育てられた。)

私は非常に宗教的な雰囲気の中で育った。祖父はとても教養のある人物だった。彼はブラヴァツキー(神智学協会の設立者)やオルコットを知っており、その後、第二、第三世代の神智学派の人々とも交流があった。彼らは皆、私たちの家を訪れたものだ。祖父は偉大な弁護士で、非常に裕福で、極めて教養があり、そして非常に奇妙なことに、極めて厳格な正統派の信者だった。彼はある種のごちゃ混ぜの子供のようなものだった。一方では正統派の伝統があり、もう一方ではその対極にある神智学やそういったもの全体があった。彼はバランスを取ることができなかったのだ。それが私の問題の始まりだった。

(UGは生前、母親が亡くなる直前に「この子は計り知れないほど高い運命のもとに生まれた」と言っていたとよく聞かされていた。祖父はこの言葉を非常に重く受け止め、弁護士業を辞めてUGの養育と教育に献身した。祖父母とその友人たちは、彼が前世で悟りの寸前まで達した「ヨーガ・ブラシュタ(挫折した修道者)」であると確信していた。)

祖父は学者たちにお金を払って雇っており、ある理由から――その話全体には深入りしたくないが――私に深遠な雰囲気を作り出し、神智学派やその一味に影響を受けて私を正しい方法で教育することに没頭していた。そのため、毎朝それらの連中がやってきて、ウパニシャッド、パンチャダシー、ナイシュカルミヤ・シッディ、その注釈書、注釈書の注釈書、そういったもの全体を朝の4時から6時まで読み上げ、5歳か6歳か7歳かのこの幼い少年――私だが――はそのようなデタラメをすべて聴かされなければならなかったのだ。あまりにもひどかったので、7歳になる頃にはパンチャダシーやナイシュカルミヤ・シッディ、あれこれの一節など、そういったもののほとんどを暗誦できるようになっていた。非常に多くの聖者が我が家を訪れた――ラーマクリシュナ修道会やその他の人々だ。名を挙げれば、そうした連中はなんとかしてあの家を訪れていたものだ――あらゆる聖者に開かれた家だったのだ。だから、私がごく若い頃に発見したことの一つは、彼らが皆ヒポクリット(偽善者)だということだった。彼らは口では何かを言い、何かを信じていたが、彼らの生活は浅薄で、無内容だった。それが私の探求の始まりだった。

祖父はよく瞑想をしていた。(彼はもう亡くなっているし、彼の悪口は言いたくないのだが。) 彼は専用の瞑想室で1時間か2時間瞑想していたものだ。ある日、1歳半か2歳くらいの幼い赤ん坊が、何かの理由で泣き出した。すると例の男が降りてきて、その子を殴り始めたのだ。子供の顔色は青ざめるほどだった――毎日2時間瞑想しているこの男が、だ。「見ろ! 一体全体この男は何をしたんだ?」 それはある種の(心理学用語は使いたくないが、避けようがない)トラウマ的な体験を突きつけた――「瞑想という営み全体には、何かおかしいところがあるに違いない。彼らの生活は浅薄で、空虚だ。彼らは素晴らしく語り、実に美しい方法で物事を表現するが、彼らの生活はどうなのだ? 彼らの生活にはこの神経症的な恐怖がある。何かを口にしながら、それが生活の中で機能していない。彼らのどこがおかしいのだろう?」――私がそうした人々を裁判官のように裁いたというわけではない。

物事は延々と続き、私はこれらのことに深く巻き込まれていった――「彼らが掲げているもの――ブッダ、イエス、偉大な師たち――に何か価値があるのだろうか? みんながモークシャ、解脱、自由について語っている。それは一体何なのだ? 自分自身で確かめたい。こいつらは皆役に立たない連中だが、それでもこの世界には、そうしたすべての体現者であり使徒であるような人物が一人くらいはいるはずだ。もし一人でもいるなら、自分自身で突き止めたい。」

それから非常に多くのことが起こった。当時はシヴァーナンダ・サラスワティという男がいた――彼はヒンドゥー教の伝道者だった。14歳から21歳の間(無駄な出来事は大幅に省くが)、私はよくそこへ行って彼に何度も会い、あらゆること、あらゆる苦行を行った。私はとても若かったが、モークシャなどというものが存在するかどうかを絶対に突き止めてやると決意していたし、そのモークシャを自分自身のために欲していた。そのような人々に偽善などあり得ないのだと、自分自身にもあらゆる人にも証明したかった――「こいつらはみんな偽善者だ」――だから私はヨーガを実践し、瞑想を実践し、あらゆるものを学んだ。私は本に書かれているあらゆる種類の体験――サマーディ、スーパー・サマーディ、ニルヴィカルパ・サマーディ、すべてを体験した。そして私は自分に言ったのだ。「思考は望むあらゆる体験を作り出すことができる――至福、聖福、エクスタシー、無への融解――それらすべての体験をだ。だから、これは本物であるはずがない。なぜなら機械的にこれらのことをやっている私は同じ人間のままだからだ。瞑想など私には何の価値もない。これは私をどこへも導いてくれない。」

それから、いいかね、若い人間の少年だった私にとって、性が途方もない問題になった――「これは自然なことであり、生物学的なことであり、人間の身体における衝動だ。なぜこの人々は皆、何か別のものを得るために、この性を否定し、ごく自然なもの、全体の一部であるものを抑圧しようとするのか? これは私にとってモークシャや解脱やそういったすべてのものよりもリアルで、重要だ。これは現実なのだ――私は神々や女神たちのことを思い浮かべ、夢精をする――私にはそういうことがある。なぜ罪悪感を抱かなければならないのか? それは自然なことだ。このようなことが起こるのを私にはコントロールできない。瞑想も役に立たなかった、勉強も役に立たなかった、私の規律も役に立たなかった。私は塩一つ口にせず、唐辛子もスパイスも一切口にしなかった。」 するとある日、私はこのシヴァーナンダという男が密室でマンゴーのピクルスを食べているのを見つけたのだ――「ここに、何かを得られるという希望のために自分からすべてを拒んできた男がいるが、その奴自身が自分をコントロールできていない。彼は偽善者だ」――彼の悪口を言いたいわけではないが――「こんな生き方は私のものではない。」

2026/10/27

世界が幻想だというわけではありません

以前にもこのブログで取り上げたのですが、「The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話」の中で、とくにすごいなと思ったのは、「The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 8」です。ここを何度も読んでいます。

特にすごいと思ったところをもう一度載せておきます。

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世界が幻想だというわけではありません。インドのヴェーダーンタ哲学の哲学者たち、とりわけシャンカラの学徒たちは、そのような軽薄で全くのナンセンスに耽溺しています。世界は幻想ではありません。しかし、それ自体が幻想である「ある一点」との関わりにおいて何かを経験するならば、その経験は必然的に幻想となります。ただそれだけのことです。サンスクリット語の「マーヤー(maya)」は、英語の「イリュージョン(illusion)」と同じ意味での「幻想」を指すわけではありません。「マーヤー」とは「測る」ことを意味します。基準となる点(起点)がなければ、何ものも測ることはできません。つまり、中心がなければ、円周など存在し得ないのです。これは極めて単純明快な、初歩的な算数の理屈です。
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セイラーボブをはじめ、いろんな非二元の教師たちが世界は幻想だということについて説明していて、それはそれで納得できる説明もあるのですが、どこかにひっかかるところがあって、すっきりしませんでした。

でも、U.G.のこの説明でひっかかりが消えた感じがします。世界は幻などではない。あなたがいないだけだ、ということなのだと思います。そして、この引用した前後の言葉もとてもいいです。

U.G.は自分のことを非二元の教師だとは言いませんが、彼こそが本当の非二元の教師なのではないでしょうか。

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話は変わってYouTubeの話。

英語のYouTubeを英語字幕の文字おこし機能を使って見る時、今まではデスクトップパソコン(Windows10)にセイコーのSIIという電子辞書をつないで、わからない単語があると、その単語をクリックして辞書で調べるということをしていました。

ところが、最近パソコンが壊れたので新しいパソコン(Windows11)を買ったところ、その電子辞書がもうWindoes11に対応していないということで、使えなくなりました。電子辞書に手動でスペルを打ち込むなんて面倒だなあと思っていました。

ところが、YouTubeの進化は恐ろしいもので、YouTubeの文字おこし機能を使って文字おこしした英文のわからない部分を右クリックすると「選択範囲を日本語に翻訳」というのが出てくるので、それを右クリックすると自動で翻訳してくれるということがわかりました。え~、この機能はいつからあるのか、これでもう辞書要らないじゃん。しかも単語だけでなく、文章も瞬時に翻訳してくれる。精度はあまり高くないけど、意味はわかる。

今までだったら、わからない文章をGoogle翻訳やGeminiなどにコピペして翻訳してもらっていたのに、そんなことしなくてもいい。まあ、どうでもいい情報かもしれませんが、英語のYouTubeを見るのに役立つ情報としてお伝えします。何?もう知っていた?なんか、どんどん取り残されていくような・・・

2026/10/23

人とは不安の中を生きるもの 一人立つ勇気を持とう

「The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話」が終わってしまいました。
非二元の教師の中で、ずっとハネムーンが続いているのはセイラーボブとU.G.だけです。私にとって、この二人はとりわけ魅力的です。

「The Courage to Stand Alone  U.G.クリシュナムルティとの対話」をブログに掲載するにあたり、少し失敗したなと思うのは、ChatGTPに、「段落と行間を原文と同じにして」というプロンプトを最初から出さなかったことです。出さないと、勝手に行間を空けてしまって、読みづらくなる。

それと、毎回無料版のChatGTPを登録しないで使っているので、話方のトーンに一貫性がありません。それでもChatGTPのおかげで何とか最後までたどり着くことができました。

U.G.を読むと、自分自身を変えようとする努力がいかに無駄であるか、その努力がいかにたくさんの問題を引き起こしているのかということがわかります。私は自身の神経症や精神的な弱さが嫌で、それを変えたいとたくさんの努力をしてきました。

挙句の果てに、覚醒、エンライトメントを求めてインドへ旅立ち、その後何年も精神世界の暗闇をさまよっていました。でも、覚醒、エンライトメントなどないと知り、何者かになろうとする努力こそが神経症を作り出してるのだということを理解しました。

今でいうパニック障害、高所恐怖症、不眠症、数え上げたらきりがないほどの恐怖症、内面的な障害、苦悩。それを無くしたいともがいていた半生でした。

今でも時々そうした不安にかられる日もあるし、歳のせいもあって、不眠症などはひどくなっていく一方です。でも今はそれをどうこうしようともがいてはいません。

人は不安や恐怖の中を生きていくものだという理解が生まれたからです。不安や恐怖を無くそうとすればするほどそれは大きくなる。人は不安の中を生きていくのものだと理解していれば、そうした不安や恐怖の中で安住することができる。何も問題もない。

その理解こそが恐れや不安を忘れさせてくれるものであり、幸せをもたらすものだと思います。不安と安心、幸福と不幸は常に一体のものであり、その一方だけを無くそうとしても無理です。

それをはっきりと教えてくれたのがセイラーボブであり、U.G.です。うっかりすると、いるはずのない「私」をもっと良いものにしようともがき始める「私」がいます。これからもずっと二人の言葉を思い出して生きていこうと思います。

U.G.は宗教や聖職者たちが多くの不幸を生み出していると言います。そうしたものが本来の「私」を「私」ではないものに変えようとするからです。それが人々を不自然なもの、苦悩するものへと変えてしまいます。

この聖職者たちには精神世界の指導者やセラピストも含みます。全部が全部そうだとは言いませんが、悟り、解放、救済、癒しを説く人たちは、たいていは、うぶな人たちを食い物にして神聖ビジネスをしている詐欺師です。私の場合も、そうしたものに傾倒してから雪だるま式に神経症が悪化していきました。そうした苦悩から逃れようとして次から次へとセラピーや精神世界を探求すればするほど悪化しました。

さんざん神聖ビジネスのカモとなってきた私が言うのだから間違いありません。非二元の世界などはその最たるもので、ネット上ではあたかも人々を救済するかのような非二元の与太話をばらまいて、小銭稼ぎのセッションに走っている人がほとんどです。しかし、そうしたセッションやセラピーが解決策となることはありません。リトリートと称して、更なる神聖ビジネスへとカモにするだけです。

たくさんのセラピーやセッション、瞑想会に参加した私が声に出して言いたいのは、そうしたものが悩みを解決して救済をもたらしてくれることはないということです。彼らは善意でやっているつもりかもしれませんが、思考力の弱い人たちをカモにしているだけです。人々はいつかは救済されると信じていつまでもそうしたものにしがみつきます。それが彼らに安心感を与え、自分で考え疑う能力を奪っています。

真の教師は何かになることや、何かを体験することを教えません。真の教師は今のあるがままのあなたが完全なものであると気づかせてくれるだけです。

社会が植え付けたこと、宗教家や精神世界の指導者たちが教えているたわごと、セラピストたちのインチキ療法。もうそろそろ私たちは外側の何かにすがるのではなく、自分で考え、一人立つ勇気を持とうではありませんか。

2026/10/20

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 21(最終回)

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話を最初から読まれる方はこちらからどうぞ。


U.G.:いかなる力も、いかなる神も、それを止めることはできない。なぜなら、そうした神々自身が、破壊の力をすでに動かし始めているからだ。今、まさにそれが起こっているのがわかるだろう。穴居人がロバの顎骨を使って隣人を殺していた頃には、ほかの者たちが生き延びる可能性もあった。今日、クレムリンやホワイトハウス、そしてインドの国会議事堂に住んでいる同じ穴居人たちこそが、破壊の力を動かし始め、解き放つことになるのだ。その力は、この惑星上のあらゆる生命形態を完全に一掃してしまうだろう。

そして人間は、今日この惑星に存在するあらゆる種を、自分とともに滅ぼすことになる。それはすべて、人々に宗教を教え、この地上に愛を打ち立てようとした人間の思考から生まれたものだ。そして、彼がそれをどんなものにしてしまったか、見てみるがいい!

Q:つまり、あなたの言うとおり、それを止めることはできないのだとしたら……。

U.G.:あなたに止められるのか? 止められるのか? 止めることはできない。だから、あなたにできる唯一のことは……。

Q:人類として、望みさえすれば、それを止めることはできると思います。

U.G.:いつだ? そもそも、あなたたちは明らかにそれを望んでいない。望んでいるのか?

Q:はい。

U.G.:では、どうやってそれを実現するつもりなのか? どうやるのか、言ってみなさい。事態全体がどれほど差し迫っているか、わかっているのか? どこかの狂人がボタンを押すかもしれないのだ。なのに、私たちはここでのんびり座って、こんなことを話している……。

Q:それでも、止められる可能性はあると思います。

U.G.:その可能性とは何だ?

Q:行動することです。

U.G.:どうやって? いつ行動するつもりなのか。手遅れになってからか。すべてが、あの大虐殺が解き放たれてしまえば、もう手遅れだ。あるいは、反核運動に参加することもできる――だが、それはばかげている。

Q:ばかげているのですか?

U.G.:もちろんだ。

Q:もう手遅れなのですか?

U.G.:あなたは、自分のちっぽけな財産を警察に守ってもらいたいとは思わないのか? 水素爆弾は、それと同じものが拡張されたものなのだ。「こちら〔警察〕は欲しいが、あちら〔爆弾〕はいらない」とは言えない。それは同じものの延長なのだ。

Q:では、私たちにはどうすることもできないのでしょうか?

U.G.:それを止めることが自分に可能だと、なぜ思うのか? あなた自身の中では止めることができる。反社会的な人間になることなく、改革者になることなく、何かに反対したり、別の何かに反対したりすることなく、自分の中で働いている社会構造から自由になりなさい。自分自身のために、自分ひとりの力で、そのすべてを自分の内側から放り出し、この文化の重荷から自由になることはできる。それが社会にとって何か役に立つかどうかは、あなたの関知するところではない。たった一人でも自由に歩む人間がいれば、この恐ろしい文化があなたに何をしたのかという、息が詰まるような感覚は、もうなくなる。東洋も西洋もない。すべて同じだ。人間の本性はまったく同じで、違いなどない。

あなたが関心を持っているのは、何をすべきか、どうすべきか、それだけだ。

Q:私たちは皆、そうです。

U.G.:どうすれば止められるのか? 一個人として、あなたにできることなど何一つない。集団になれば、あのような救世軍をつくることはできる。それだけだ。だから何だというのか? また別の教会、別の聖書、別の説教師ができるだけだ。

Q1:そのような答えについて、あなたはどう思いますか?

Q2:そのような答えについて、私がどう思うか、ですか? 賛成はします。でも、とても理論的です。文化の重荷から自由になれ、ということですね。それは理解できます。でも、実際にはとても難しい。もちろん、私にできることは何もありません。

U.G.:何もない。何一つない……。あなたには、行動の自由などまったくないのだ。

Q:そうですね。

U.G.:それが理解されたとき、そこにあるものが自らを表現する。そこにある知性は、人間が思考を通じて生み出してきたあらゆる解決策よりも、はるかに効果的に働くことができる。そうした解決策は、何百万年、何千万年、何億年もの〔進化〕の結果なのだ。私たちが自分たちの前に掲げてきた理想、つまり完全な人間というものは、単なる神話にすぎない。そのような人間は、そもそも存在しない。理想の人間など存在しないのだ。それはただの言葉であり、観念にすぎない。あなたは生涯をかけて、その理想の人間になろうと努力する。そして最後に残るのは、惨めさと苦しみ、そしていつかそうなれるという希望だけだ。「いつの日か、あなたにもわかるだろう」。それが希望なのだ。私たちはその希望を抱いたまま死んでいく。

Q:では、解決策の一つは、自分がここにいることを、自分が今あるがままの姿で受け入れることなのですね。

U.G.:そのとおり。まさに今のあなたのままでいることだ。そうすれば、社会と対立することはなくなる。文化はあなたの中に要求を植えつけた。それがあなたを駆り立て、自分を何か別のものに変えたいと思わせている。それこそ文化があなたにしたことなのだ。そんな要求をあなたの中に植えつけたのだ。あなたが何かをしようとすると、〔彼らは〕「おい、よく見ろ。足元に気をつけろ」と言う。それが彼らのやっていることだ。

そこに次に働きかけてくるものがある。それが社会だ。社会は「足元に気をつけろ」と言う。それによって、あなたの中に恐怖が植えつけられた。その一方で、社会は恐怖から自由になることや、勇気を持つことなどについて語る。そして、何ものにも並ぶ者のない人間になれ、と言う。それはただ、社会の現状を維持するための駒としてあなたを利用するためなのだ。

だからこそ、社会は勇気を教え、恐れを知らないことを教える。社会の継続性を維持するために、あなたを利用できるようにするためだ。あなたはその一部なのだ。だから、あなたが行動しようとするたびに、そこに現れるのは恐怖であり、行動することが不可能だという感覚なのだ。社会はあなたの外側にあるのではない。文化もあなたの外側にあるのではない。そして、あなたがそれらから自由にならないかぎり、行動することはできない。

Q:それらから自由にならないかぎり、ということですか?

U.G.:そうなれば、あなたはここに来て、「どのような行動を取ればよいのでしょうか」と私に尋ねることもなくなるだろう。行動はすでにある。あなたに関して言えば、すでに行動はあるのだ。

Q:では、人間は社会から自由になったときに初めて行動する資格を得る、ということですか。あなたは自由なのですか?

U.G.:人間が行動できないのは、いつも行動する自由という観点から考えているからだ。「どうすれば自由に行動できるようになるのか?」。あなたが関心を持っているのは、それだけだ。自由のことばかり考えている。しかし、あなたはその自由を行動として実現していない。行動する自由を求めることが、行動そのものを妨げている。その行動は、社会的でも反社会的でもない。

Q:では、自分自身と自分の置かれた状況を受け入れれば、自由になれるのですか?

U.G.:それだけだ。もう社会と対立することはない。あなたは社会にとって何の役にも立たなくなるだろう。反対に、社会にとって脅威となれば、社会はあなたを抹殺する。

あなたが神経症的になっているのは、同時に二つのことを望んでいるからだ。それがあなたの問題を生み出している。同時に二つのことを望んでいるのだ。あなたは自分自身を変えたいと思っている。その変化を要求しているのは社会だ。社会の一部となり、何も変わらない社会構造の継続性を維持できるようになるためだ。ところが、あなたはもう一方で変化を望んでいる。ここに葛藤がある。

自分自身を変えようという要求がなくなれば、周囲の世界を変えようという関心も、それに伴って自然になくなる。両方とも終わるのだ。そうでなければ、あなたの行動は社会にとって危険なものとなる。社会はあなたを抹殺する。それは確実だ。だから、その社会構造によって抹殺される覚悟を持つこと、それが勇気なのだ。

戦場で死ぬことではない。自分の旗のために戦うことでもない。旗は何を象徴しているのか? あなたはここで自分の旗を振り、彼らは向こうで自分たちの旗を振る。そして双方が平和について語る。この状況全体が、なんとばかげていることか。それなのに、あなたは平和について語る。あなたは自分の旗に忠誠を誓い、彼らは彼らの旗に忠誠を誓っている。それと同時に、この世界の平和について語っているのか? あなたがここで自分の旗を振り、彼らが向こうで自分たちの旗を振っているかぎり、この世界に平和などあり得るだろうか? より優れた兵器を持つ者が、その日を制することになる。こちらでは私の旗、あちらではあなたの旗――そうした平和行進をする人々も、あるいは反核団体が新たな旗をつくることも、同じことなのだ。

Q:それは無意味ですね。

U.G.:私があなたに言うまでもない。あなたは警察官をなくす覚悟があるのか? 一個人として、あなたは自分自身を守りたい。何よりもまず自分の命を守りたい――それが正しいかどうかを、私は言っているのではない――あるいは、自分のちっぽけな財産を守りたい。だから、それを守るために警察官の助けが必要になる。そして、あなたは線を引いて、「ここが私の国だ」と言う。自分の国を守りたいのだ。それができなくなると、自分自身を守るために、破壊の手段も拡大せざるを得なくなる。そして、それは防衛のためだと言うだろう。確かに、防衛のためなのだ。あれ〔爆弾〕は、これ〔警察官〕の延長にすぎない。自分の持ち物を守るために警察官を必要としているかぎり、あれに反対することはできない。あそこに座り込んで、平和行進を続け、原子炉の周囲に座り込み、平和の歌を歌い、ギターを弾き、「戦争ではなく愛を」と唱えることはできる。だが、そんなたわごとに耳を貸してはいけない。愛を営むことと戦争をすることは、同じ源から生まれている。〔そんな歌を歌うことは〕偽善的な茶番になってしまう。

〔もう十分だと思う。もう十分だ。〕

Q:では、私たち自身と、私たちが生きている世界との関係は、どのようなものなのでしょうか?

U.G.:まったく何もない。ただし、あなたが経験している世界は、あなた自身がつくり出した世界だ。あなたは自分だけの世界に生きている。自分自身の経験から世界をつくり上げ、それを外の世界に投影しようとしている。あなたには、世界の現実そのものを経験する手段がまったくない。あなたと私は、ビデオカメラを説明するのに同じ言葉を使う。あなたが手に持っているものは、ペンか鉛筆だ。場合によって違うが、そういうことだ。だから、私たちはこうしたものをすべて有効なものとして受け入れなければならない。なぜなら、それらは実際に役立つからだ。この世界で機能し、一定の水準で知的に意思を伝え合う助けになるからだ。

Q:では、誰もほかの人の手本にはなれないということですか?

U.G.:〔誰かに従うことは〕動物にのみ当てはまることであって、人間には当てはまらない。人間は誰にも従うことはできない。身体的な面では、ほかの人々に頼らなければならない。しかし、それだけのことだ。

Q:精神性において成長するというようなことは存在しない、とお考えですか? それとも……。

U.G.:私が言いたいのは、そもそも精神性などというものは存在しない、ということだ。あなたが物質的な生活と呼ばれるものの上に、精神性と呼ぶものを重ね合わせると、自分自身に問題をつくり出すことになる。なぜなら、あなたは周囲の物質世界に成長や発展を見ているからだ。そこで、その考え方を、いわゆる精神的な生活にも当てはめてしまう。

Q:物事を分離し始めるところから、問題が始まるということですか?

U.G.:物事を分離し、物質的な生活と精神的な生活に分けることだ。生命は一つしかない。これが物質的な生活であり、もう一方とされるものには何の関係もない。あなたの物質的な生活を、宗教家たちが与え、あなたの前に掲げた、あのいわゆる宗教的な型へと変えようとすること。それが、あなたがこの物質世界の現実をあるがままに受け入れ、調和して生きる可能性を破壊している。それがあなたの痛み、苦しみ、悲しみの原因なのだ。

あなたは、そうした人間になろうと絶えず奮闘し、存在しない何かを追い求めている。そんなことには、何の意味もない。それによって、何かをすることこそが自分にとって何より重要なのだ、という感覚が生まれる。実際にそれを達成することではない。あなたは〔そうした偽りの目標から〕ますます遠ざかっていく。それに努力を注げば注ぐほど、気分がよくなる。あなたが抱えている問題も同じだ。問題を解決しようとすることだけが、あなたにとって重要なのだ。しかし、あなたにとっては問題そのものよりも、解決策のほうが興味深い。問題を見つめることより、解決策に関心がある。私が尋ねるのは、問題とは何なのか、ということだ。あなたには問題などない。あるのは解決策だけだ。問題とは何なのか? 誰も私に、問題が何なのかを教えてくれない。

あなたは、これらがすべて解決策だと言っている。そして、自分の問題を解決するには、どれを使えばいいのかと尋ねる。では、問題とは具体的に何なのか? 物質的な問題なら理解できる。健康を損ねているなら、健康のために何かをしなければならない。お金がないなら、お金について何かをしなければならない。こうしたことは理解できる。しかし、心理的な問題があるとなると、本当の問題が始まる。心理学者たちも、宗教家たちも、さまざまな療法や解決策を用いてあなたを助けようとしている。だが、彼らはあなたをどこにも導いていない。そうではないか? 個人は以前と同じように、浅薄で空虚なままだ。彼らは自分自身に何を証明したいのだろうか?

Q:自分自身の人生をそのまま生きていけば、問題は自然に解決する、とお考えなのですか?

U.G.:問題とは何なのか? あなたは決して問題そのものを見つめない。解決策に関心を持っているかぎり、問題そのものを見つめることはできない。

Q:解決策は欲しくないのですか?

U.G.:あなたが関心を持っているのは、解決策だけだ。問題を解決することではない。

Q:それは同じことではありませんか?

U.G.:その過程で、あなたはそうした解決策が実際には何の役にも立たないことを見いだす。どんな問題であれ、それらの解決策は問題を解決しない。そうした解決策は、問題を存続させる。解決するのではない。テープレコーダーやテレビに不具合があるなら、修理することができる。助けてくれる技術者もいる。しかし、こちらは一生涯、延々と続く、終わりのない過程なのだ。何かがますます増え、別の何かがますます減っていく。

だから、あなたは決して解決策そのものを疑わない。本当に解決策を疑うなら、その解決策をあなたに与えた人々も疑わざるを得なくなる。しかし、感傷的な思いが邪魔をして、解決策だけでなく、それを与えてくれた人々まで拒絶することができない。そのことを問い直すには、あなた自身に途方もない勇気が必要だ。山に登ったり、湖を泳いで渡ったり、いかだに乗って大西洋や太平洋の向こう岸まで行ったりする勇気なら、あなたにもあるだろう。そんなことは愚か者にだってできる。しかし、自分自身の力で立ち、自分の両足でしっかりと立つ勇気は、誰かから与えてもらえるものではない。その勇気を育てようと努力しても、その重荷から自由になることはできない。人類の過去全体という重荷から自由になれば、そこに残るもの、それが勇気なのだ。

終わり

2026/10/16

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 20

私が言っているのは、「ほら、あなたには何の問題もない」ということだ。あなたは、持てるかぎりの強調を込め、ものすごい勢いで、「ほら、私にはここに問題がある」と言い張る。

いいだろう、あなたには問題がある。そのあなたが言っている問題は、指し示して、「これが問題だ」と言えるものだ。肉体的な痛みは現実に存在する。だから、医者のところへ行く。処方された薬が身体にとって良いものかどうか、毒なのかどうかにかかわらず、それは、たとえどれほど短いものであっても、必要とされる苦痛の軽減をもたらす。しかし、あの人たちが提供しているセラピーは、存在していない問題をますます強めている。……あなたはただ解決策を探し続けている。もし彼らが提供している解決策に何らかの実効性があるのなら、問題は消えなければならない、なくならなければならない。ところが実際には、問題は依然としてそこにある。それなのにあなたは、あの人たちが救済として、あるいは問題から解放してくれるものとして提供している解決策そのものを、決して疑おうとしない。

神聖さ、悟り、変容などという名目で、こうした「商品」を売り込んでいる人たちが私たちに提示してきた解決策を疑ってみれば、それらは本当の解決策ではないことが分かるだろう。もしそれが解決策なら、結果を生み出し、あなたを問題から解放するはずだ。だが、そうはならない。

あなたが解決策を疑わないのは、そこに感情が入り込んでくるからだ。「市場でこれを売っているあの男が、詐欺師であるはずがない。偽物であるはずがない」。あなたはその男を悟りを開いた人間、あるいは地上を歩く神だと思ってしまう。その神様とやらは、あなたをだましているだけかもしれない。もしかすると、自分自身をだまし続け、その自己欺瞞に耽りながら、その粗悪な商品をあなたに売りつけているのかもしれない。あなたが解決策を疑わないのは、そうすると、それを売っている人間そのものを疑うことになるからだ。彼は不正直であるはずがない、聖者が不正直であるはずがない、と。

それでも、あなたは解決策を疑わなければならない。なぜなら、その解決策はあなたの問題を解決していないからだ。なぜ、その解決策を疑って、実際に試してみようとしないのか――その解決策が本当に有効なのかを検証してみないのか? それが機能しないと分かったなら、それを捨てなければならない。排水溝にでも、窓の外にでも放り捨てればいい。ところが、あなたはそうしない。いつかどうにかして、その解決策が自分の求めている救済を与えてくれるだろう、という希望があるからだ。あなたが使っている道具[思考]こそが、この問題を作り出したものなのだ。だから、その道具が、自分が信じている解決策が偽物かもしれないという可能性を、決して、決して受け入れることはない。それらはそもそも解決策などではないのだ。

その希望が、あなたを前へ進ませ続ける。それが、あなたに問題そのものを見ることを難しくしている。ひとつの解決策がうまくいかなければ、別のところへ行って、別の解決策を手に入れる。その解決策がうまくいかなければ、また別のものを探しに行く。あなたは、こうした解決策をあれこれ買い求めているだけで、一度たりとも自分自身に「そもそも問題とは何なのか?」と問いかけない。

私には問題など見えない。私に見えるのは、あなたが解決策にしか関心を持っていないということだけだ。そして、ここへ来て同じ質問をする。「別の解決策が欲しい」。私は言う、「そうした解決策は、これまであなたをまったく助けていない。それなのに、なぜまた別の解決策が欲しいのか?」あなたは自分の解決策のリストにもう一つ加えるだけだ。しかし結局は、まったく同じ状況に行き着く。ひとつの解決策が役に立たないと分かったなら、それを一つでも見抜いたなら、すべてを見抜いたのと同じことだ。ひとつずつ順番に試していく必要などない。

私が言っているのは、もしそれが本当に解決策なら、あなたは問題から自由になっているはずだ、ということだ。もしそれが解決策でないのなら、あなたにはそれについてできることなど何もない。そしてそのときには、そもそも問題など存在していない。だから、あなたは問題を解決することには関心がない。なぜなら、それはあなた自身に終止符を打つことになるからだ。あなたは問題に残っていてほしいのだ。空腹であり続けてほしいのだ。なぜなら、もし空腹でなければ、こうした聖者たちから食べ物を求めることもなくなるからだ。彼らがあなたに与えているのは、いくらかの食べ残し、食べ物のかけらだ。そしてあなたはそれで満足している。一瞬、それができるとして、彼[精神的指導者やセラピスト]がパン一斤まるごと与えられるとしよう――もちろん、そんなことはできない――彼がするのは、それをここに、どこかに隠しておいてやる、と約束することだけだ――約束だ。少しずつ、少しずつ……彼はあなたに与える。そしてそのために、あなたは空腹という問題そのものに取り組むことなく、自分の空腹という問題に向き合うよりも、解決策を約束しているあの男から、もう少し何かをもらうことに関心を持つようになる。

あなたは空腹という問題そのものに取り組んでいるのではない。空腹という問題に向き合うよりも、あの男から、もっと多くのパンくずをもらうことに関心を持っている。

Q: 映画を観に行くようなものですね。現実から逃げている。

U.G.: あなたは決して問題そのものを見ない。そもそも問題とは何なのか? たとえば怒りだ。私は、こうした人たちが何世紀にもわたって議論してきた、そんなくだらないことを全部論じたいわけではない。怒り。それはどこにある? その怒りを、この身体の働きから切り離すことができるか? 海の中の波のようなものだ。波を海から切り離すことができるか? 波が静まるまでそこに座って待ち、そうすれば海で泳げると思うことはできる。まるで、海の波が消えて穏やかな海で泳げるようになることを願って、何年も何年もそこに座っていたカヌート王のように。そんなことは決して起こらない。そこに座って、こうした波や、満潮や干潮についてすべて学ぶことはできる(科学者たちはあらゆる説明を与えてくれている)。しかし、それについての知識が、あなたの何の役に立つわけでもない。あなたはそもそも、怒りそのものをまったく扱っていないのだ。

まず第一に、怒りをどこに感じる? あなたが自由になりたいと思っている、こうしたいわゆる問題を、いったいどこに感じる? ……欲望は? 燃え上がる欲望。その欲望があなたを焼き尽くす。空腹があなたを焼き尽くす。だから、あなたが持っている解決策、つまりそれら[欲望や空腹]を満たすための手段は、とても単純なものであり、それが身体の中で自然に燃え尽きることを不可能にしている。

恐怖はどこに感じる? ここ、みぞおちのあたりに感じる。それは身体の一部だ。身体の中に存在するエネルギーの、こうした激しい満ち引きを、身体はそのまま受け止めることができない。だからあなたは、何らかの精神的あるいは社会的な理由から、それを抑え込もうとする。だが、そんなことに成功するはずはない。

怒りはエネルギーだ。ものすごいエネルギーの爆発だ。そして、どんな手段であれ、そのエネルギーを破壊することによって、あなたは生命そのものの表現を破壊している。それが問題になるのは、そのエネルギーに対して何かをしようとするときだけだ。それが身体のシステムに吸収されれば、怒りをそのままにしておいたら自分はきっと何かをしてしまう、とあなたが考えているようなことを、あなたはしなくなる。あなたが実際に扱っているのは怒りではなく、欲求不満なのだ。あるいは、人間関係や自分自身についての理解において、不器用さを生じさせてしまったような状況を避けようとしている。あなたは、将来そうした状況が起こったときに備えておきたいと思っている。

あなたが使っているその道具は、怒りが爆発するたびに、これまで何度も使われてきたものだ。それでもあなたは、その怒りから自由になることに成功していない。それなのに、これまで何年ものあいだ使ってきたこの同じ道具以外に、何か特別な状態へと至ることはないまま、それでも明日には、まさにこの同じものが自分を怒りから自由にしてくれるのではないかと期待している。それは同じ希望なのだ。

Q: でも、誰かがひどく怒っていたら、その人は暴力的になるかもしれません。

U.G.: その暴力は身体に吸収される。

Q: 脅迫することもあります。

U.G.: 誰に対して?

Q: 他の人たちに対して。

U.G.: そう。それで? だから何だ?

Q: ナイフを持って走り回ったり……。

U.G.: だから何だ?

Q: 誰かを殺したり。

U.G.: そうだ。なぜあなたは、何の罪もない何千人もの人々を殺しているのか。なぜ自然なものを抑え込もうとする一方で、無力な人々に爆弾を落としている国家を非難しないのか? 彼らを正気だと呼ぶのか? どちらも同じ源から生まれている。ここで自分の怒りをコントロールするために何かをしているかぎり、あなたはそのような残虐なことに耽り、それを正当化することになる。なぜなら、それこそが自分の生き方と、自分の考え方を守る唯一の方法だからだ。この二つは一組になっている。なぜそれを正当化するのか? それは狂っている。

その人はあなたを傷つけているわけではない。だが、その人はあなたの生き方を脅かしている。その人が、あなたにとって大切なものだと思っているものを奪ってしまう危険がある。怒りが爆発したときに、この人が行動するのを止めようとする考えは、まさにそれと同じなのだ。宗教的な人間は、怒っている人間は反社会的な人間になる、と考えるようになった。

彼が徳を実践しているかぎり、彼は反社会的な人間であり続け、怒りから行動することになる。社会があなたの前に掲げた目標、その同じ目標をあなた自身が実践すべき理想的な目標として受け入れている――その目標があなたにとって終わったとき、あなたは個人としても、国家として集団的にも、誰かを傷つけることはなくなる。

あなたは怒りそのものに対処しなければならない。[しかし]あなたが対処しているのは、怒りとはまったく関係のないものだ。怒りが生まれ、作用しているその枠組みの中で、怒りそのものを燃え尽きさせることを、あなたは一度たりとも許していない。枕を叩いたり、あれこれ何かを叩いたりするセラピーなど、ただの冗談だ。それで人が怒りから一度きりで完全に自由になるわけではない。

Q: 枕を叩く?

U.G.: そう、彼らがやっていることだ。彼らが行っているセラピーの一つだ……。

Q: 効果がない?

U.G.: [怒りは]また現れる。それで、どうする? あなたは怒りそのものに対処していない。ナイフを持って向かってくる人を殴らずに済む方法を見つけることに関心を持っているかぎり、あなたはこの怒りそのものに決して対処することはない。自分自身を守らなければならない。それは不可欠だ。あなたの怒りによって、その状況に対処することが不可能になるなどと、私は少しも言っていない。「非暴力でなければならない」とか、「誰かを傷つけてはいけない」などと言ってはいけない。その人があなたを傷つけているのだ。聖書にさえ、「目には目を、歯には歯を」とある。あなたはそれを決して実践しない。もちろん、彼らはもっと大きな規模ではそれを実践しているが、日常生活では、それはひどいことだと言う。私は、それについて何の問題も見ない。何が問題なんだ?

そもそも、そうした仮定の状況について議論しても意味がない。なぜなら、怒りで頭に血が上り、怒りに燃え上がっている人は、怒りという問題を探求したり、議論したりしようとはしないからだ。これは驚くべきことだ。本当に怒りで燃え上がっているとき、欲望で燃え上がっているとき、そして自分から自由になりたいと思っているあらゆるものに燃え上がっているとき――そのときこそ、それらのことに対処する時なのだ。そうでなければ、教室での議論になってしまう。誰かが怒りの解剖学について、怒りがどのように生じるかの解剖学について、あるいは愛の解剖学について話している。それではあまりにも馬鹿げている。あるいは、現実の状況になったときには機能しない解決策を彼らは提示する。だから私は、こうしたことをあれこれ議論しないのだ。何の問題もない。個人にとって問題などないのだ。怒り狂っているとき――そのときこそ、その人がそれに対処する時なのだ。それが思考を止める。

Q: U.G.、問題そのものを見ることは可能ですか?

U.G.: いいや。なぜなら、あなた自身が問題だからだ。

Q: では、答えはないのですか?

U.G.: あなた自身と問題とを切り離す方法はない。それこそ、あなたがやろうとしていることだ。私が、あなたは怒りを自分の外にあるものとして放り出し、それが自分とは別の対象であるかのように眺め、それに対処しようとしている、と言っているのはそういう意味だ。あなたが自分自身から切り離したとき、その結果として起こるのは、まさにあなたが恐れていることだ。それは避けられない。だから、それをコントロールする方法など、あなたにはまったくない。では、この「自分であるもの」から自分を切り離してしまうことを防ぐために、何かできることがあるのか? 自分自身が怒りそのものなのだと気づくのは、恐ろしいことだ。そして、それを止めようとしたり、防ごうとしたり、何とかしようとしたりすることは、すべて偽りなのだ。それ[それを防ごうとすることなど]は明日のこと、あるいは来世のことだ――今ではない。だから、それがあなたなのだ。

あなたは精神的な人間でも、宗教的な人間でもない。自分は宗教的な人間だと想像することはできる。怒りをコントロールしようとしているから、あるいは怒りから自由になろうとしているから、あるいは年月が経つにつれて、ますます怒らない人間になろうとしているからだ。そうしたすべてが、「自分が避けている、あの悪質な人間は自分ではない」と思わせてくれる。だが、あなたも同じだ。あなたが非難している人々よりも、あなたがより精神的な人間だというわけではない。

明日にはあなたは素晴らしい人間になって、怒りから自由になるつもりだ。それまでのあいだ、私に何をしてほしいんだ? あなたを称賛してほしいのか? 自分は精神的な人間だというラベルを貼ったから、あるいは洒落た衣をまとったから? 私に何をしてほしい? それで私にあなたを称賛してほしいのか? そこには称賛すべきものなど何もない。なぜなら、あなたもこの世界の他の誰と同じくらい悪質だからだ。それを非難するのか……? それを非難したところで意味はない。そこで起きていることとはまったく無関係な態度を取り、ある種の立場を装うことにも、何の意味もない。

では、どうしてそんな立場を装ったり、ある種の態度を取ったりして、自分は動物よりも優れていると思えるのか。動物のほうが人間よりましだ。怒りが生じれば、動物は行動する。そしてその[殺すという行為]は、生き延びるためだけのものだ。自分自身を養うために同胞を殺すのであれば、それは道徳的な行為だ――ただその目的のためだけならば。なぜなら、周りを見れば、一つの生命形態が別の生命形態の上に成り立っているからだ。そして、菜食主義を語りながら何百万人もの人間を殺すのなら、それこそ、人間の文明社会が行いうる最も不道徳で、許しがたい行為だ。二つのことのこの馬鹿馬鹿しさが分かるか? あなたはこれ[殺すこと]を非難する。[そして]動物を愛する。それは何のためなんだ?

そこにいる人間たちはどうなんだ? あなたは、彼らが自分にとって脅威だからというだけの理由で、彼らを殺し、虐殺している。いつか彼らが、あなたの持っているものをすべて奪ってしまうと思っている。だから、そういう人たちがやって来て、自分の持っているものを全部奪うことを予想して、あなたは自分の信念の名のもとに、何の神様だか知らないものの名のもとに、彼らを虐殺する権利が自分にあると思っている。それが、宗教が始まった当初からやってきたことだ。

では、そうした宗教をすべて復活させることに、何の意味がある? この国々にやって来て、自分たち自身の生活でも、彼らの出身国でも機能していないようなことを説いて回る、あれほど大勢のグルたちに、いったい何の意味がある? 彼らはいつでも、生命の一体性や生命の統一について語ることができる。だが、それは彼ら自身の生活の中では機能していない。それが何を意味する? あなたは、自分が生き延びるために必要な、ごく単純なことを非難する。それは非常に道徳的な行為だ。生き延びないこと、自分自身を養わないことこそ、倒錯した行為なのだ。

苦しみは、キリスト教全体がその上に築かれている土台だ。そこを忘れてはいけない。だからあなたは、天国――存在しない天国だ――に永久の席を得ることを願って苦しむ。今この地獄を通り抜けながら、死んだ後に天国へ到達することを願っている。何のために? だから苦しめ、と。すべての宗教がそれを強調している。苦痛に耐えよ、苦痛を耐え忍ぶことが手段なのだ、と。人生の終わりに、あるいはそれを信じたいのなら、何度もの生の連鎖の終わりに、楽園を得ることを願って、あなたは地獄を通り抜ける。私はただ、こうしたことを語ることの馬鹿馬鹿しさを指摘しているだけだ。追い詰められたときには、宗教的な[教え]など何の意味もない。そのときあなたは、ほかの誰とまったく同じように振る舞うだろう。だから、この文化も、あなたの価値観も、宗教的なものであれ、そうでないものであれ、そこには少しも届いていない。

もし人間が、この道徳的なジレンマから解放されたなら――それこそが、人間の思考全体の基礎となってきたものなのだが――人間は人間らしく生きるだろう。精神的な人間としてではない。宗教的な人間としてでもない。宗教的な人間は社会にとって何の役にも立たない。親切な人間は社会にとって脅威なのだ。親切であることを一つの芸術として実践している人間はね。

Q: ……脅威なのですか?

U.G.: [彼は]社会にとって脅威なのだ。なぜなら、あらゆる破壊は彼ら[宗教の教師たち]から生まれてきたからだ。愛について語る者、「汝の隣人を汝自身のように愛せよ」と語る者、非暴力について語る者。そうした人間の思考から、あらゆる破壊的な力が生まれてきた。だから、私たちはみな、その文化を受け継いでいる。私たちには、それ以外のことをすることなどできない。[こうした教師たちを拒絶すれば]あなたは、この重荷から、この文化全体の偽りから解放される。それだけのことを私は言っている。個人として、私たちに押しつけられてきたあらゆる不条理の総体から解放される。それだけのことを私は言っている。

Q: 私は、たとえばイエスのような人が――キリスト教でも、教会でもなく――実在の人物だったということを受け入れられません。

U.G.: あなたには受け入れられない。分かっている。なぜ彼らは彼を十字架につけ、釘で打ちつけて殺したのか? 彼は彼らの社会にとって脅威だったからだ。

Q: 彼らは一人の人間を神にしてしまった。私はそれには同意しません。

U.G.: 普通の人間でさえなかった。なぜなら、彼は、その後キリスト教の教条的な教え全体がそこから生まれることになるような発言をしたからだ。もちろんだ。それは、あらゆる教師に当てはまる。私はイエスだけを非難しているのではない。すべての教師――ブッダ、ムハンマド――人類の偉大な宗教教師だと私たちが考えているすべての教師に当てはまる。ましてや、今日、市場で聖なる商売をしている連中など言うまでもない。私たちは、そんなことを問題にしているのではない。いずれにせよ、彼らを責めても何の意味もない。

だから、私たちはここにいる。私たちはみな、その暴力的な文化を受け継いでいる。だから、あなたの文化とは、人間に殺し方と殺され方を教えること以外の何ものでもない。それが宗教の名においてであろうと、政治的イデオロギーの名においてであろうと、愛国心の名においてであろうと、あるいはあなたが望むどんな名においてであろうと。違ったものになることはできない。だから私は、このすべてが人間の完全な絶滅へ向かう方向に動いている、と言ったのだ。そうしたものが、どんな力をもってしても止めることのできない破壊の力を動き始めさせてしまった。

Q: ええ。どんな力をもってしても。

2026/10/13

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 19

ほら、私は億万長者になりたい。億万長者はさらに十億ドル長者になりたいし、十億ドル長者は一兆ドル長者になりたい。 そう、それが目標なんだ。幸せな人は、幸せでありたいなどとは決して思わない。もっともっと幸せになりたいと思う。あるいは、ずっと幸せでいたいと思う。もちろん。あなたはあるときは幸せで、別のときには不幸せだ。だから、あなたは快楽を求め、そしてその快楽が永続することを望む。同時に、いわゆる快楽への欲求が、一時的なものであれ、そうでないものであれ、自分に苦痛をもたらしていることも、あなたは知っている。この世界のすべての人間が、西側にいようと東側にいようと、あるいは共産主義国にいようと、目指しているものはまったく同じだ。つまり、苦痛をまったく伴わない快楽を得たいのだ。そして、一瞬たりとも不幸になることなく、いつも幸せでいたい。実際に彼が必死になって努力し、懸命に追い求めているのは、片方[幸福]なしにはもう片方[不幸福]も存在しないという、この不可能な目標を実現することなのだ。

Q: でも、それは年寄りには当てはまらないでしょう。

U.G.: みんなだ。

Q: でも、年を取った人たちは、苦痛なしに快楽はないと知っています。不運を知らなければ幸運について語ることができないのだから、幸運なしに不運もないということも知っています。年を取った人たちは、誰もがそれぞれの分け前として、不運や苦しみを受けることを知っています。そして、そういう人たちは、苦痛なしに快楽を得ようなどとは考えていません。彼らは、自分たちが[ときには]苦痛を経験することを知っています。

U.G.: それでもね、ほら、彼らは苦痛なしでいられるようにしたいと思っているんだ。もちろん。私が言っているのは、それだけだ。彼らが意識的にそうしているかどうかにかかわらず、それが誰もが追い求めているものなんだ。何が自分に幸福を与えてくれるか、あなたは知っている。

Q: 楽園です。

U.G.: あなたが自分自身に設定した目標をすべて達成すれば、成功、お金、名声、地位や権力――あなたは幸せになる。この過程で、あなたは必死になって努力する。そこにたくさんの意志と努力を注ぎ込む。成功しているかぎり、何の問題もない。[しかし]あなたはいつまでも成功し続けることはできない――それはみんな分かっていることだ。

しかし、どういうわけか、いつでも成功し続けることが可能になるのではないか、という希望が残っている。いつも成功できるわけではないことに気づくから、あなたは挫折する。それでもなお、希望はある。それが物質的な目標であれ、精神的な目標であれ、求めているのは、自分自身に設定したどんな目標であっても、それに到達し、達成し、成し遂げるための努力において成功することなのだ。

あなたには私を助けてもらわなければならない。私はここで講演をするためにいるのではない。だから、私に会いに来る人たちには、何が欲しいのかをはっきりさせるよう、何度も繰り返し言っている。「私はこれが欲しい」あるいは「私はそれが欲しくない」と。それでいい。一度、自分が何を欲しているのかを正確に知れば、その欲求を満たすための方法や手段を見つけられるようになる。残念ながら、人は一度にあまりにも多くのものを欲しがる。

だから、自分の欲求をすべて、一つの根本的な欲求へと凝縮するのだ。なぜなら、それ以外のすべての欲求は、同じ欲求のさまざまな変形にすぎないからだ。人間は、ほんのわずかな不幸な瞬間さえなく、いつも幸せでいたい、あるいは苦痛を伴わない永続的な快楽を求めている、という私の提案をあなたは退ける。だが、それは少し前に私が言ったように、身体的に不可能なことなのだ。

身体は、どんな感覚であれ、それが快いものであろうと苦痛なものであろうと、長時間それを受け続けることはできない。[もしそうなれば、]感覚知覚の感受性、そして神経系の感受性を破壊してしまう。ある特定の感覚を快い感覚だと認識した瞬間、当然、その快い感覚をもっと長く持続させたいという要求が生じる。だから、あらゆる感覚には、その感覚の強度に応じて――あなたがそれをもっと強くしようとするか、弱くしようとするか(あなたが何を求めているかによって違う)――それ自身の限られた寿命がある。

その要求が生じるのは、あなたがその快い感覚から自分自身を切り離し、その快い感覚の限界、あるいは幸福な瞬間を、どうすれば延長できるかと考え始めたときだけだ。あなたの思考が、その快い感覚を本来の持続時間よりも長く続けさせたいという要求そのものを、問題にしてしまったのだ。それをこの身体の働きにとっての問題へと変えてしまい、そのことによって神経学的な問題を生み出した。身体[そのもの]は、それを吸収するためにできる限りのことをしているのに、あなたの思考は、この身体がそれを本来のやり方で処理することを不可能にしている。なぜなら、あなたはそうした問題を、自分の宗教的あるいは心理学的なアプローチの領域の中で解決しようとしているからだ。

実際には、そうした問題は神経学的な問題なのだ。そして、身体をそのままにして、それ自身のやり方で対処させれば、あなたが心理的あるいは宗教的なレベルでそれらを解決しようとするよりも、身体はずっとうまく処理してくれる。私たちがこれまでに与えられてきたあらゆる解決策、そして何世紀にもわたって私たちが採用してきた解決策は、少しばかりの慰め、つまり痛みに耐えるための緩和剤を与えてくれたことを除けば、何の役にも立っていない。それでも、私たちはその痛みからまったく自由になっていない。なぜなら、どういうわけか、これらすべてを問題に変えているその道具自体を使って、その問題を解決できるのではないかという希望を抱いているからだ。この思考というメカニズムにできることは、ただ問題を作り出すことだけだ。しかし、それは決して、決して、その問題を解決することはできない。

もし思考が問題を解決するための道具ではないのだとしたら、ほかに何か道具があるのだろうか? 私は「ない」と言う。それは問題を作り出すことしかできない。問題を解決することはできない。このことがあなたの中で理解として明らかになったとき、身体の中に存在するエネルギー――それは生命の現れ、あるいは生命の表現なのだが――が、これらすべてを、こうした問題にどう対処すべきかについてあなたが作り出している観念による、摩擦の多い思考よりも、はるかに容易に処理していることに気づくだろう。

Q: では、問題があると感じたときには、ただ放っておけばいいということですか?

U.G.: ほら、あなたがそういう言い方をすると、それを提案している人から、「では、どうやってそれを放っておくのか?」と尋ねたくなる要求が生じる。あなたには、それを放っておくことなどできないと分かっている。ただ「放っておけ」と言っているだけだ。当然、次の質問は、「この思考の介入なしに、どうやってそれを放っておくのか?」となる。そんな「どうやって」はない。

だから、もし誰かが「こうすればいい」と方法を示したなら、あなたはまた同じ悪循環に捕らわれることになる。だからこそ、今日私たちの周囲にあるこうしたセラピーのすべてや、市場にいるあらゆるグルたち――数え切れないほどのテクニックを提案している人たち――が、この途方もない重荷を生み出しているのだ。それは少しも負担を軽くしない。それどころか、あなたが今日置かれているこの状況に、ますます多くの重荷を付け加えている。

だから、そうしたシステムやテクニックは、何の助けにもなりえない。ただし、しばらくのあいだ緩和剤として作用し、もう少し長く痛みに耐えられるようにしてくれることはある。一方で、それらはあなた自身が問題を解決する助けになるどころか、身体全体の化学的な働きを乱している。

Q: 身体の化学的な働きを乱しているのですか?

U.G.: 化学的な働きを乱している。そしてその過程で、身体はあらゆる種類の異常な現象を吐き出してくる。それをあなたは「霊的な体験」だと考えている。だから、呼吸法も、ヨガの練習も、瞑想も、身体の化学的な働きと、身体本来の自然なリズムを乱している。それは、人々が服用するこうした薬物が身体の化学的な働きを乱すのと、まったく同じことだ。だから、あなたは薬物は身体に害を及ぼすと言う。だが実際には、そうしたもの[薬物]よりも、こちらのほうがはるかに害が大きい。

私は薬物を使うべきだと言っているのではない。しかし、それらは、来る日も来る日も提供されている、こうした霊的あるいは心理的なセラピーのすべてと同じ目的を果たしている。事実、それらはある程度の救済を与えてくれる。アナシンのようにね――頭痛がすると、身体にしばらくそれを処理する機会を与えることさえせず、すぐに市場へ行ってアナシンやアスピリンか何かを買い、薬を飲んでしまう。まったく同じように、それは身体が痛みからあなたを解放するために本来備えている自然な物質を作り出すことを難しくしてしまう。

身体には、あなたが話しているあらゆる幻覚作用をもつ物質が、そのシステムの一部として備わっている。身体は痛みをコントロールし、痛みから自らを解放しようとしている。それが知っているのは肉体的な痛みだけで、あなたの心理的な痛みにはまったく関心がない。彼らが提供している解決策は、心理的な領域にしか存在しない。肉体的な領域には存在しない。

だから、たとえばアスピリンを飲めば、この身体がその痛みに自然なやり方で対処する能力を損なってしまう。私は、自然なやり方を取って、マクロビオティックや、その他の妙な健康食品などに切り替えるべきだと言っているのではない。それもまた、ほかのどんな薬と同じくらい悪質で有害なものだ。

Q: では、問題を抱えているとき、あなたの明確なアドバイスは何ですか?

U.G.: あなたは問題を作り出さずにはいられない。まず第一に、あなた自身が問題を作り出している。だが実際には、あなたは問題そのものをまったく見ていない。問題そのものに取り組んでいるわけでもない。あなたは問題よりも、解決策のほうに関心を持っている。それが、あなたが問題を見ることを難しくしている。

2026/10/09

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 18

「どうすれば幸せになれるのか」という問いを手放してしまえば、あなたは生き始めるんです。

そうすれば、幸福のことなどまったく気にせずに生きるようになる。

そもそも、そんなものは存在しないんです。

幸福なんて、まったく存在しない。

幸福を求めれば求めるほど、それを探し求めれば求めるほど、あなたはますます不幸なままでいる。

分かりますか。

「幸福を追い求めること」と「不幸であり続けること」は、いつも一緒なんです。

Q: それは、宗教や社会や文化のあらゆるものに逆らうことになるんじゃないですか?

U.G.: 文化、そして、あらゆる思考の体系……。

Q: 構造とか、体系とか、あらゆるシステム……。

U.G.: あらゆる思考の構造です。哲学的な構造、宗教的な構造、唯物論的な構造……。

Q: それは「否定的」なことだと思いませんか? 私がそう思うからというだけじゃなくて、人々はそう言うでしょう……。

U.G.: なぜ、それが「否定的」だと言うんです?

よく聞いてください……。

Q: ……人々がそう言うからです。

U.G.: 人々がそう言うのは、それが彼らにとって手っ取り早い逃げ道だからですよ。

あなたは一つのことを忘れています。

人間が何世紀にもわたって考え出し、実践してきた、あらゆる「肯定的なアプローチ」――それらは、何一つとして有益な結果をもたらしていない。

あなたが約束されてきたような結果を、それらは生み出してこなかったんです。

それなのに、あなたはそれを延々と、延々と、延々と続けている。

いつか何らかの奇跡によって、自分が「肯定的な目標」を達成できるだろうと期待しているからです。

つまり、「肯定的なアプローチ」を通して私たちの前に置かれた目標を、いつか達成できるだろうと。

あなたがそれを続けているのは、ただ希望があるからです。

そして、あなたを動かし続けているのは、まさにその「希望」なんです。

「肯定的/否定的」という二分法をいつも持ち出してくる、この思考の構造に囚われないことです。

あなたの目標は、いつだって「肯定的」なものです。

ところが、その目標が望んでいた結果をもたらしてくれなかったので、あなたはこうしたことを「否定的」に見たり、否定的な仕方でアプローチしたりするようになった。

「肯定的なアプローチ」と「否定的なアプローチ」が機能するのは、思考の領域だけなんです。

私が言っているのは、こういうことです。

「ほら、これまであなたが取ってきた肯定的なアプローチは、あなたが望んでいた結果をもたらしていない。」

そして私は、それがなぜ望んでいた結果をもたらさなかったのかを説明している。

なぜあなたが、今いるその場所から動けなくなっているのか、その理由を説明しているんです。

ところが、あなたはすぐに振り返って、

「あなたのアプローチは否定的だ」

と言う。

でも、まったく否定的ではありません。

私はコインの裏側、あるいは物事のもう一方の側面を示しているだけです。

あなたの主張を相殺するためであって、あなたを私の考え方に引き入れるためではありません。

まして、問題に対する「否定的なアプローチ」を強調するためでもない。

あなたの目標そのものが「肯定的な目標」である以上、あなたがどんなアプローチを取ろうとも、それは肯定的なアプローチなんです。

あなたはそれを「否定的なアプローチ」と呼ぶかもしれない。

でも、それでもなお、それは肯定的なアプローチなんです。

だから、目標については、非常に、非常に明確でなければならない。

私が強調したいのは、その目標そのものがなくならなければならない、ということです。

Q: 目標を手放すということですか?

U.G.: そんなものには、まったく意味がありません。

目標には何の意味もない。

あなたが自分自身の前に置いたその目標には、まったく意味がないんです。

なぜなら、その目標がもたらしたのは、苦闘と苦痛と悲しみだけだからです。

少し前にも言ったように、あなたは「意志」を使っています。

そして、その意志には一定の限界がある。

ある限界を超えて、それを使うことはできません。

あなたが意志を使うこと、そして努力することによって、こうした問題に取り組み、それに立ち向かうための、いくらかの追加的なエネルギーを得ることはできます。

しかし、実際には、その力には限界があるんです。

あなたが生み出しているエネルギーは、単なる「摩擦のエネルギー」にすぎない。

意志が摩擦を生み、その摩擦が、ある種のエネルギーをあなたに与える。

しかし、そのエネルギーは長くは続きません。

だから、また最初の地点に戻ってしまう。

Q: あなたも、欧米のキリスト教文明全体が「目標」というものの上に築かれていることは分かっていると思います。

U.G.: なぜ[西洋文明だけなんですか?]

すべての文明が、すべての文化が、あなたの前に目標を置いているんです。それが物質的な目標であろうと、精神的な目標であろうと。

物質的な目標を達成するための方法や手段はあります。

しかし、それでさえ、多くの苦痛があり、多くの苦しみがあります。

そして、そこにさらに、いわゆる「精神的な目標」というものを上乗せしてしまった。

たとえばキリスト教は、目標に到達するための手段としての「苦しみ」を土台にして築かれています。

結局あなたに残るのは、ただ苦しみだけです。

そして、あなたはその苦しみをものすごく大きなものにしてしまう。

それなのに、どんな性質の目標であれ、その目標には少しも近づいていない。

一方、物質世界では、目標というものは具体的で、手に取れるものです。

物質的な目標を達成するために使っている道具は、実際にある種の結果を生み出します。

それをますます使っていけば、望んだ結果を達成することができる。

しかし、それも保証されているわけではありません。

あなたが使っている道具には、その能力の範囲に限界があります。

それが適用できるのは、この[物質的な]領域だけです。

ところが、あなたがいわゆる「精神的な目標」を達成するために使っている道具も、実は同じ道具なんです。

あなたは気づいていない。

いわゆる物質的な目標の上にさらに重ねられた、あらゆる精神的な目標は、あなた自身の空想から生まれたものだということに。

なぜなら、あなたは人生を「物質的なもの」と「精神的なもの」に分けてしまったからです。

あなたが目標を達成するためにどんな道具を使おうと、それが物質的な目標であろうと精神的な目標であろうと、まったく同じなんです。

Q: でも、人間である私たちは活動的な存在ではないでしょうか。植物だって活動しています。生きているものは活動している。私たちは受動的ではありません。

何らかの目標を持たなければならないのではないですか?

あなたは、目標を持つこと自体が悪いと……。

U.G.: 私が言いたいのは、目標について非常に明確になってほしい、ということです。

あなたは何を望んでいるんですか?

何を望んでいるんですか?

「望むこと」が間違っているわけではありません。

しかし、あなたが物質的な目標であれ精神的な目標であれ、それを達成するために使える唯一のものは、ある「道具」なんです。

私が言っているのは、そのあなたが持っている唯一の道具が、思考だということです。

2026/10/06

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 17

Q: 意識について話すとき……。

U.G.: ええ、ええ、分かっています。あなたはどうやら「意識」について何か知っているようですね。では、あなたの言う「意識」とは、いったい正確には何を意味しているのか、教えていただけませんか。

Q: 分かりません。だから、あなたにその質問をしたんです。

U.G.: なぜ私に「意識」について質問するんですか? 私はあなたに質問を返しているわけではありませんよ。あなたはどこかで「意識」という言葉を拾ってきたんでしょう。そうでしょう。どこかでその言葉を拾ってきて、それで「意識を拡大する」といったことを人々が語っている。

Q: ……自分自身をもっとよく知ろうとしたり、本来の自然なあり方を見つけようとしたりする、という意味で。

U.G.: あなたの自然なあり方というものは、知る必要のないものです。ただ、それがそれ自身のやり方で働くままにしておけばいい。あなたがそれを知りたいと思うということは、何らかの「やり方」や「知識」を必要としているということでしょう。そして、それを誰かから得ようとしている。

心臓が働くことは自然なことです。身体のあらゆる器官が働くことも、きわめて自然なことです。それらは一瞬たりとも、「私はいったいどうやって働いているんだろう?」などと自問してはいません。生きている有機体全体には、それをきわめて自然な仕方で機能させている、とてつもない知性がある。

ところが、あなたは、あなたが「人生」と呼んでいるものを、そこから切り離してしまった。あなたが「人生」と呼んでいるもの、つまり「生きる」ということは、この生きている有機体の機能とは、まったく関係がないんです。

だから当然、あなたは「どう生きればいいのか?」と問い始める。分かりますか。実は、この「どう生きればいいのか」という問いこそが、全体が自然に進んでいるあり方を破壊してしまったんです。

そこに文化が入り込んできて、こう教える。

「こういうふうに行動し、こういうふうに生きるべきだ。これこそが、あなたにとっても社会にとっても善い、唯一のあり方なのだ」と。

あなたは、その状態を変えたいと思っている。そうでしょう。では、あなたはいったい何を変えたいんですか? 私が尋ねているのは、それだけです。

Q: それが分かればいいんですが。

U.G.: あなたには決して分からないでしょう。では、いったい今、あなたは何をしようとしているんですか? 自分がやっていることの馬鹿げたところが見えませんか?

あなたのこの「探求」というものは、そもそも存在しないものを追いかけようとしているようなものなんです。

私はいつも、私のお気に入りのたとえを使います。

私たちはみんな、そこに「地平線」というものが実際に存在していると、当たり前のように思っています。だから、それを見て「これは地平線だ」と言えば、とても単純なことのように聞こえるでしょう。

でも、あなたは忘れているんです。あなたの肉体的な限界、つまり肉眼の限界が、そこにある一点を固定して、それを「地平線」と呼んでいるということを。

もし地平線の方向へ進んでいけば、どれだけ速く進もうとも――たとえ超音速機に乗っていたとしても――その地平線は、それだけ遠くへ逃げていきます。

あなたが囚われているのは、ただその「限界」なんです。

私はまた、自分の影を追い越そうとする例もよく使います。

子どもの頃、私たちは自分の影を追い越そうとして遊びました。ほかの男の子たちも一緒になって走って、みんなが自分自身の影を追い越そうとしていた。

そのとき私たちは、自分の身体がそこに影を作っているということには、まったく気づかなかった。そして、その影を追い越そうとしていること自体が、実は自分で演じている馬鹿げたゲームだということにも気づかなかった。

何マイル走っても、何十マイル走っても、それは同じです。

『不思議の国のアリス』の話を知っていますね。

赤の女王は、自分が今いる場所にとどまっているために、どんどん速く、どんどん速く、どんどん速く走らなければならない。

分かりますか。まさにそれを、あなたたちはみんなやっているんです。

どんどん速く、どんどん速く、どんどん速く走っている。

でも、どこへも進んでいない。

自分がまさにどこにいるのかを見つけようとして、あなたがやっていることは、実は少しも動いていないんです。

それなのに、「自分は何かに取り組んでいる」「何かをして目標を達成しようとしている」という感覚が生まれる。

しかし、あなたがやっていることは、この身体の自然な機能とはまったく関係がないということを、あなたは知らない。

あなたは自然な仕方では行動していません。

なぜなら、文化によって「こうあるべきだ」という理想があなたの前に置かれ、その理想が、ここでの自然な行動を歪めてしまったからです。

あなたは自然な仕方で行動することを怖がっている。なぜなら、「こういうふうに行動すべきだ」と教え込まれてきたからです。

「肉体的な完全性」というのも、そのための手段の一つです。

私はヨーガに反対しているわけではありません。誤解しないでください。

瞑想に反対しているわけでもありません。

瞑想をしてください。ヨーガをしてください。

それらは一種の「対症療法」なんです。

身体をしなやかに保ちたいのなら、ヨーガをすればいい。硬くこわばった身体より、しなやかな身体のほうがいい。

いつも緊張を作り出している代わりに、瞑想によってその緊張から解放されるのであれば、やればいい。

ただ、私が言っているのは、そもそもその緊張を作り出しているのが瞑想なのではないか、ということです。

まず自分で問題を作り出しておいて、それから、その問題を解決しようとする。

まあ、それはそれでいいでしょう。

ただ、ありがたいことに、あなたはそれをまだそれほど真剣にはやっていない。

そこに、あなたに残された唯一の希望があります。

もし本気で瞑想したら、あなたは大変なことになりますよ。

気が狂ってしまうでしょう。

あるいは、この「気づき(awareness)」を四六時中実践しようとしたら――意識のレベルでも、無意識のレベルでも――本当に大変なことになります。

最後には精神病院行きになって、そこで「気違いの歌」や「陽気なメロディー」を歌うことになるでしょう。

インドの新しい歌を覚えてもいい。『ハレ・クリシュナ』の歌を覚えて、歌って、楽しめばいい。

それは構いません。

でも、「気づきを実践する」ということは、やらないほうがいい。

それは、歩きながら、自分が一歩一歩どこに足を置いているのかを、いちいち監視しようとするようなものだからです。

そんなことをしたら大変なことになります。

歩くことさえできなくなる。

だから、そんなことはしないことです。

身体に備わっているものは、機械的に、とても滑らかに動いているんです。

あなたは、それについて何かをする必要などまったくありません。

それをやろうとすればするほど、あなたはますます抵抗を作り出してしまうんです。

あなたにとって、本当の問題は退屈なんです。

本来は存在しない「退屈」というものが、退屈から自由にならなければならない、という要求によって作り出されている。

ところが、その要求は、あなたを退屈から自由にするどころか、そこから自由になることをますます、ますます、ますます難しくしている。

だからあなたは、あちこち探し回らなければならなくなる。

その存在しない退屈から自由になるために、ありとあらゆる種類の仕掛けや小細工を探し求めなければならない。

そして、まさにそれが、このことを永遠に、いつまでも続けさせているんです。

私は、あなたに別の「仕掛け」を与えようとしているわけではありません。何かを提案しているわけでもない。

ただ、あなたが自分自身に何をしているのか、それを見てほしいだけです。

私は、何かからあなたを自由にしてやろうとしているのではありません。

まして、「私は新しい商品を売るために、それをあなたから取り除いてあげましょう」などということでもない。

まったく違います。

私には売るべき新商品など何もありません。そもそも、何かを売ることにはまったく興味がない。

私たちは、ただ何らかの理由で、こうしてここにいるだけです。

なぜ私たちがここにいるのか、私には分かりません。

だから、いっそのこと、私たちは考えを交換することすらしなくていいんです。

そんなことには何の意味もない。

ここには、話し合うべきことなど何もありません。

議論には何の意味もないんです。

なぜなら、議論や会話の目的というのは、何かを理解することだからです。

ところが、ここでの議論は、何かを理解するための手段にはなっていない。

結局のところ、私がいつも強調しているのは、

「ほら、理解すべきものなんて何もないんですよ」

ということなんです。

「理解すべきものなど何もない」ということが理解されたら、こうした会話はすべて意味を失います。

だから、あなたは立ち上がって、きっぱりと立ち去ればいい。

だから私はいつもこう言っているんです。

「お会いできてよかったです。それでは、さようなら。」

それだけなんです。

「お会いできてよかったです。それでは、さようなら。」

Q: 私たちは、それがどうしても理解できないんです。

U.G.: いや、それこそ、私がいつも言っていることなんです。

「お会いできてよかったです。それでは、さようなら。神があなたとともにありますように。神とともにいてください。」

これはスペイン語の言い方ですね――「神とともにいなさい」ということです。

あなたの神、あなたのグルたち――彼らとともにいなさい。

分かりますか。

余計なことをして、自分自身を不必要に悩ませないことです。

希望を抱いて生き、希望を抱いて死になさい。

そして、輪廻転生という理論を受け入れるのなら、「また生まれ変われる」と希望しなさい。

一度生まれるだけでも、十分ひどいんですよ。

どうして、もう一度生まれたいなんて思うんです?

いっそのこと、この問題を今ここで、一度きりで片づけてしまえばいい。

そして、生き始めればいいんです――私たちにあとどれだけ残されているのか分かりませんが、その残されたわずかな時間を。

世界のことや、世界の平和のことなど、気にする必要はありません。

2026/10/02

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 16

Part Ⅲ

Q: ちょっとお聞きしてもいいですか?

U.G.: どうぞ。

Q: 私たちは、自分の内面について絶えず変化を起こそうとしていますよね。必ずしも世界を変えようというのではなく、瞑想やヨーガなどをして、自分の内なる自己を見つけようとする。そのとき、なぜ私たちはこの変化を望むのでしょうか?

U.G.: あなたは、なぜそういうことを全部やるのですか?

Q: ええと、試してみるんです。実際にやってみて、それで……。

U.G.: 何のために? 何かを変えたいのですか?

Q: そこなんです。そうです。なぜ私たちは変わりたいのでしょう? 私たちの中の何が、こうして絶えず変化することを求めているのでしょう? なぜ私たちは、今の自分に満足していられないのでしょうか?

U.G.: まず第一に、あなたは自分自身に満足していないのです。そうでしょう?

Q: 意識的にはそうではないんです……。おかしなことなんですが。私はとても気分よく過ごしていますし、比較的、これといって不満もありません。それなのに……。

U.G.: それなのに、あなたは変わろうとしている。そこに矛盾があるのが分かりますか? あなたは、自分で言っているほど満ち足りてはいない。自分で言っているほど満足してはいないのです。

Q: その通りです。

U.G.: 何かが、「すべてがうまくいっているわけではない」と決めている。だから、あなたは変化を起こそうとする。では、その「変わらなければならない」という要求に責任があるのは誰なのか? 私が尋ねているのは、そこです。

文化や社会が、あなたの前にその要求を置いたのです。つまり、「あなたはそういう人間であるべきだ」「あなたはそうならなければならない」と。

分かりますか?

そしてあなたは、それを自分自身のモデルとして受け入れたのです。

Q: でも、私が目指している人物像とか、何か特定のもののイメージが自分の中にある、という感じはしないんです。私が知りたいのは、「自分の内側には何かもっと別のものがあるのではないか」ということなんです。

U.G.: いや。「もっと何かを求める」という要求……。

Q: 内側にあるもの……。

U.G.: 内側も外側もありません。私が言おうとしているのは、こういうことです。あなたの中には、「今の自分の存在のあり方よりも、もっと面白いこと、もっと意味のあること、もっと目的のあることが、自分にはできるはずだ」という感覚がある。そして、それを求める要求がある。分かりますか。

それが、あなたの落ち着かなさの原因なのです。

あなたの中にあるこの衝動によって、あなたは落ち着かなくなる。その衝動は、社会や文化によってあなたの中に植えつけられたものです。それによって、「自分の人生には、今の状態以上に、もっと面白いこと、もっと意味のあること、もっと目的のあることがあるはずだ」と感じるようになる。

Q: では、あなたが見つけようとしている、より自然な自己の状態というものは、存在しないのですか?

U.G.: ありません。

Q: つまり、それは社会が組み合わせて作った、ただの言葉にすぎない?

U.G.: その通りです。

あなたの中に植えつけられたその要求によって、あなたの自然なあり方は破壊されてしまったのです。

だから、「自分にできるのがこれだけなら、自分の人生には意味がない」と思うようになる。そこで、あなたはその退屈を埋めるために、ありとあらゆるものを試してきた……。

そして今では、こうした新しい「仕掛け」がいろいろある――ヨーガ、瞑想、それにあらゆる心理学です。

Q: 本を読むことも。

U.G.: 本を読むこと、宗教書を読むこと――それも、すでに存在しているもののリストに新しく付け加えられたものにすぎません。でも、あなたはその退屈から自分を解放することには成功していない。

それが、あの「要求」なのです。

あなたは自分の人生に、自分の存在そのものに退屈している。なぜなら、それがとても反復的だからです。

まず第一に、この世界のこの地域では、少なくとも、あなたの身体的な欲求は十分に満たされています。だから、生き延びるためにこれ以上エネルギーを使う必要はない。その部分は、もう面倒を見てもらえているわけです。

そこが満たされると、自然に出てくる疑問は、とても単純なものです。

「ここにあるのは、これですべてなのか?」

毎朝会社へ行く。あるいは、ただ主婦として家事を全部こなす。あるいは、眠る。セックスをする――何もかもです。

「これですべてなのか?」

そのあなたの側にある「これですべてなのか?」という要求が、こうした聖者たちによって利用されているのです。

「これですべてなのか?」

だから、あなたがそこで退屈を埋めるために試しているものが、そうした「仕掛け」のいくつかなのです。

でも、それは空っぽの、底なしのカップです。

いや、底なしのカップですらない。底のない穴なのです。

あなたはそこに、想像できる限りのもの、あるいは他人が考え出してくるあらゆるものを、いつまでも注ぎ込むことができます。

それでも、退屈は現実です。事実として存在している。

もちろんです。そうでなければ、あなたは何もしないでしょう。

あなたはただ退屈している。

同じことを、何度も何度も何度も繰り返すことに、ただ退屈している。そして、そのことに何の意味も見いだせない。

Q: その退屈を、あなたはそれほどはっきり意識していない……。

U.G.: その退屈を、それほどはっきり意識していない。なぜなら、存在しないものから自分を解放してくれる何かを探しているからです。

私がずっと強調してきたのは、それだけです。

問題は、本当は退屈そのものではない。

あなたは、退屈が存在していることさえ、意識的な思考のレベルでも、意識的な存在のレベルでも、自覚していないのです。

存在しない退屈から自分を解放してくれる、そうしたものの魅力こそが、実際には退屈を生み出している。

そして、そうしたものでは、そのようにして生み出された退屈を、本当には埋めることができない。

だから、ずっと続いていく。延々と、延々と……。

より新しい、さらに新しい技法や方法が次々と出てくる。

毎年、インドから新しいグルがやって来る。新しい「仕掛け」を携えて、新しい技法や、何か新しいセラピーを持ってね。

まあ、いろいろなものがありますよ。

2026/09/29

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 15

あなたが言っている、その「絶望」はどこにあるんですか。

あなたが逃げようとしているかぎり、絶望から離れようとしているかぎり、そこには絶望なんてないんです。

つまり、あなたが関心を持っているのは、絶望から自由になりたいということだけなんです。なぜなら、あなたはこう考えているからです。「これは自分を窒息させているわけではない。自分を殺しているわけでもない」と。絶望そのものが、そこから自由になろうとするこの動きを破壊しなければならないんです。

あなたは、絶望に作用する機会を与えていない。あなたが関心を持っているのは、この行き詰まりに対する解決策、そこから抜け出す方法を見つけることです。それだけなんです。そして、あなたはそれに名前をつけて、「絶望」と呼んでいる。

あなたは絶望してなんかいない。絶望している人間のようには行動していない。あなたはただ絶望について話している。真空について話し、空虚について話している。でも、それは本当の空虚ではない。もし本当に空虚があるのなら、それこそが生命の働きなんです。

すると次に、あなたは私にこう聞くでしょう。「生命とは何ですか?」

私が生命を定義したら、私たちはそこで道を失います。それは生命に対する一つの定義にすぎないからです。

私が生命と言っているのは、あなたという存在全体が何かに応答することを可能にしているもののことです。反応するのではなく、応答する。あなたの周囲からやってくる刺激に応答する。

そこに生命がなければ、あなたは死体になる。死んだ死体でさえ、まだ何かに応答している。ただし、その応答の仕方が違う。だから、これを生命と呼んでいるんです。

言い換えれば、生命とは生命の脈拍であり、鼓動であり、呼吸にほかならない。それもまた一つの定義です。脈があり、呼吸があり、生命の鼓動がある。全身が脈打っている。どこもかしこも、身体の一つ一つの細胞が脈打っている。それが生命のすべてです。

でも、私たちは本当の意味でその「生命」について話しているわけではない。なぜなら、その生命について誰も何も言うことができないからです。できるのは定義を与えることだけ。「生命力」だとか、何だとか、いろいろな名前をつけることはできる。

しかし、「生きる」ということには、いわゆる生命が生み出すその他すべての問題が含まれている。

だから、「どうすればいいのか」という要求が生まれる。

どう生きればいいのか。

本当の問題はそこなんです。

あらゆる問題の中でも最大の問題は、「どう生きるか」です。

そして何世紀ものあいだ、私たちは洗脳されてきた。

「こう生きるべきだ」と。

それで満足できなければ、別の方法を探して、それをまた「生き方」と呼ぶ。そして、それが延々と続く。

そんなものは全部ナンセンスです。なぜなら、それではあなたに平安がもたらされていないからです。

あなたの内側では、絶えず戦いが起きている。内側で戦争が起きている。

あなたの内側に戦争があるかぎり、平和な世界など絶対に存在しない。

仮に、ほんの一瞬だけ、戦争が終わって、あなたが自分自身と平和な状態になったとしても、それによって何かが変わるわけではない。

なぜなら、自分自身と平和になった人間は、隣人にとって脅威になるからです。

だから、その人があなたを抹殺してしまう危険さえある。

重要なのは、あなた自身の内側にあるこの戦争を終わらせることができるのか、という問題です。

それは可能なのか?

あなたが持っている解決策はすべて、この戦いを生み出す原因になっているものです。

つまり、「どう生きるか」という問題です。

この「どう」がなくならなければならない。

するとあなたは私に聞くでしょう。

「その『どう』を、どうやってなくせばいいんですか?」

「私を助けてもらえませんか?」

まず第一に、あなたはそこまで確信していない。

あなたはまだ、その絶望にまで到達していないんです。

絶望を扱うことができるのは、その地点に到達して初めてです。

絶望から自由になりたいと思って、その方向へ走り続けているかぎり、あなたがその絶望を扱うことはできない。

解決策が百五十個あるかもしれない。

でも、その全部を試すことはできない。

明らかに、あなたがこれまで試してきたことはすべて失敗した。だからあなたは「絶望している」と言う。

その絶望が作用するんです。

では、その作用とは何なのか?

その作用は、あなたの思考の枠組みの中では決して起こりえない。

あなたの思考の枠組みの中にある行為、あるいは思考から生み出された行為は、必然的に絶望を生み出します。

それはしばらくのあいだ、理由やある種の経験を与えてくれるかもしれない。

しかしあなたは、いつも同じものをもっと、もっと、もっとと要求する。

そうやって全体がずっと続いていく。

そして、それがあなたに希望を与える。

希望はここにある。

そしてあなたは「状況は絶望的だ」と言う。

状況は絶望的なんじゃない。

希望は、今ここにある。

なぜなら、あなたが言うように、絶望がそこにあるからです。

だからあなたは、その絶望を解決しよう、何とかしよう、対処しよう、それと向き合おう、そして絶望から自由になる方法があるのかどうか見つけようとする。

絶望そのものを作用させる代わりに、あなたはそこから逃げて、なおも「絶望から自由になる方法はないか」と探し続けている。

これは人生のあらゆる状況に当てはまります。

あなたは、自分の欲求不満――それが絶望です――に行き詰まっているか、あるいは何か別のものに行き詰まっている。

そういう状況で、あなたは何をしたいんですか?

自分自身で解決策を見つけなければならない。

もし私があなたに別の解決策を与えたら、それはあなたがすでに持っている何百もの解決策と同じです。

あなたはそれを「解決策のリスト」に一つ追加するだけ。

それでは問題を解決する助けにはならない。

むしろ難しくなる。

これで、あなたにはもう一つ解決策が増えた。

もし解決策があるのだとしたら、その解決策は、あなたが自由になろうとしているそのものから出てこなければならない。外部の何かから与えられるものではない。

その作用は、とてつもなく特別なものです。

一度、絶望という問題が解決されれば、他のすべての問題も解決される。

なぜなら、その他の問題はすべて、同じ問題の変形にすぎないからです。

だから、あなたは決して問題そのものを解決したいわけではない。

あなたがもっと関心を持っているのは、解決策です。

だから私は同じことを、十通りの違った言い方で何度も繰り返している。

(私の語彙には限界があるから、同じ言葉を使わざるを得ない。あなたなら語彙を増やして新しい表現を見つけることもできる。でも、それでは何の役にも立たない。)

あなたが使っている道具――それが「思考」です――は、こうした問題が今ここで解決できるという事実を決して受け入れることができない。

なぜなら、今のあなたになるまでに、それほど長い時間がかかっているからです。

あなたは自分の経験の世界の中で生きている。そして、今のあなたになるまでに何年もの年月がかかった。

それがあなたの持っている唯一の道具です。

こうした問題を扱うための別の方法を、あなたは持っていない。

だから、その思考は「今ここで解決策を見つける」という可能性を想像することができない。

いつもそれを、もっと先へ、もっと先へ、もっと先へと押しやろうとする。

必ず「明日」がある。

そして、常に「この時間」がある。

なぜなら、この思考は時間という領域の中で機能しているから、時間の領域で起こるもの以外の何かが起こる可能性を想像できない。

時間の領域における行為とは別の行為が起こる可能性を、思考は捉えることができない。

私が話しているのは形而上学ではありません。

解決策があるとすれば、それは「今ここ」にしかない。

お腹が空いているなら、その空腹は満たされなければならない。

空腹を満たすことができなければ、それはあなたを焼き尽くす。

これはあなたにとって恐ろしい状況です。

だからあなたは、人々が投げてくれる解決策という「パンくず」で満足してしまう。

誰かが一斤のパンを丸ごとくれるのを待っている。

あるいは、パンを増やしてくれる奇跡の人が現れるのを待っている。

でも、そんなことは起こらない。

そこには本当の空腹がない。

あなたはこの問題を解決したくないんです。

なぜなら、問題がなくなった自分自身を発見することになるからです。

だから、あなたに力とエネルギーを与えているものは、「自分の問題を解決しようとすること」なんです。

そして、いったん目標を達成したら、そこにあるのは欲求不満です。

個人の人生において非常に強烈なものである性行為でさえ、魅力的なのは準備であり、盛り上がりであり、緊張なんです。

緊張が頂点まで高まると、この身体は、その緊張から解放されることを求める。

あなたが「快楽」と呼んでいるもの――解放です。

身体は、あなたが作り上げた緊張から解放されることを求めている。

解放を求める。

それをあなたはオーガズムと呼ぶ。あるいは、好きな名前で呼べばいい。

だから、ものすごい安堵がある。

では、そのあとに何がある?

真空です。

まったく同じように、すべての行為は同じ領域で機能している。

緊張を高める。

高める。

高める。

そして、その緊張が解放を要求するのを見る。

この前、私は『プレイボーイ』の記事を読んでいた。

「オーガズムを30分間続ける方法」。

なんてことだ!

実験をしているんです。

知っているでしょう、彼らは成功した。

カリフォルニアのある医師が、器具を使った人工的な方法によって、それを成功させた。

女性が30分間オーガズムを経験できることを、彼らは実証した。

他の専門家たちは、ほんの数秒しか続かないと言っている。

あなたが「快楽」と呼んでいる苦痛――それを延長したいという要求なんです。

快楽じゃない。

緊張からの解放なんです。

あなたは目標を達成するために一生懸命働く。

そして一度その目標を達成すると、あなたは疲れ果てる。

終わってしまう。

魅力は失われる。

あなたが関心を持っているのは、それに向かって努力すること、そしてこうした緊張を積み上げていくことだけなんです。

いったんそこに到達すると、それで終わり。

もうそれはなくなっている。

だから、また最初から始める。

あなたは、問題のない状態になりたくない。

あなた自身が問題なんです。

問題がなければ、あなたは問題を作り出す。

問題の終わりは、あなた自身の終わりです。

だから問題は最後まで残る。

あなたがいなくなれば、問題もなくなる。

70年、80年、90年、100年――どれだけ生きるかによって違う。

そのあいだ、希望は残り続ける。

これは悲観的な状況ではない。

現実的な状況なんです。

私はあなたに何の解決策も与えていない。

お願いだから、もしできるなら、自分の問題を見てください。

あなたは自分自身を問題から切り離すことができない。

問題は、その反対のものによって作られている。

そもそも、なぜあなたは不幸を感じるんですか?

なぜ、自分の中にこの「不親切さ」のような感覚を感じるんですか?

目標があるからです。

その目標が、その反対のものを作り出している。

自分で見ればわかります。

私が教える必要はない。

あなたはいつもこう考えている。

「自分はああならなければならない」

「こうであるべきだ」

「こうならなくてはいけない」

「でも、自分はそうではない」

その思考こそが、その反対のものを作り出している。

それがなくなれば、こちらもなくなる。

この人はキャリアを追求する人間にはなれない。

この人は、社会や文化の規範の枠組みの中でいう「繊細な人間」にもなれない。

しかし、これは別の種類の感受性なんです。

社会や文化があなたの前に置いた理想を追いかけているかぎり、あなたはその反対側にとどまり続ける。

そしてあなたは、いつの日か、何らかの奇跡によって、あるいは誰かの助けによって、神やグルや誰かの力によって、この問題を解決できると期待している。

――そんなことは絶対に起こらない!

(U.G.は劇的に叫ぶ。)

私はあなたの中に「空腹」を作り出すことはできない。

どうやって私があなたの中に空腹を作れるんですか?

もしあなたが本当に空腹なら、周りを見回すでしょう。

そして、自分に差し出されるものが何であれ、それでは満足できないことを発見するでしょう。

もしパンくずで満足するのなら、それでいい。

それがグルたちのやっていることです。

あなたにパンくずを投げている。

犬をリードにつないで、パンくずを投げ与えるように。

人間は動物と同じです。

何も違わない。

もし私たちが「自分たちは他と違わない」という事実を受け入れるなら、そのとき初めて、私たちが人間として行動する可能性が少し高くなる。

Q:人間はいつ、人間として行動するのでしょうか?

U.G.:人間が「完全な人間」という目標を追い求めることをやめたときです。

――Part IIIへ。

2026/09/25

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 14

U.G.: だから、その質問は終わらなければならない。

なぜなら、その質問そのものが――よく聞いてください――その質問そのものが、答えから生まれているからです。

そうでなければ、どんな種類の質問であれ、質問が生まれる余地などありません。

すべての質問は、あなたがすでに持っている答えから生まれるのです。

だから、すでに答えを持っている質問をすること自体が馬鹿げている。

答えなしに質問はあり得ないのだから、その質問は、「私」についてあなたが知らない何かがある、しかしそれを知りたい、ということを意味しています。

すでにそこにある「私」とは別の何か――つまり、そこにはもう一つ別の「私」が存在することを意味しているのです。

Q: あるレベルでは、そうですね。

また、質問をするということは、答えを知っているという意味だ、と言うこともできます。

U.G.: その通りです。

そもそも質問など存在しない。

知識なしに質問はあり得ません。

すべての質問は、あなたがすでに持っている答えから生まれる。

だからこそ、「私は誰なのか」というような質問は、それが自分自身によって発せられたものであれ、誰かほかの人によって発せられたものであれ、答えを求めているのではないのです。

どんな質問に対しても、答えはその質問の終わりです。

そして、質問の終わりということは、あなたがすでに持っている答えの終わりを意味します。

あなた自身の答えだけではありません。何世紀にもわたって蓄積されてきた答えのすべてが、そこにあってはならないのです。

その質問への答えを要求するということは――どのレベルであれ(レベルは一つしかありません。他のレベルなどありません)――質問している者が、知識を終わらせたくないということを意味しています。

Q: それはその通りです。

でも、もちろん、この過程の中で……。

U.G.: それは「最後に」起こらなければならないのではありません。

今、起こらなければならない。

なぜなら、時間など存在しないからです。

あなたが使っている道具――つまり、この「知識」という過程――は、終わることを望んでいません。

だからこそ、それ自身に向かって質問を投げかけているのです。

そして、その質問が答えを得るまで続いていくことを、よくわかっている。

つまり、あなたが使っているこの知識という道具は、時間の中で起こること以外の何かが起こり得る可能性を知らないし、想像することもできない。

なぜなら、それは時間の中で生まれ、時間の中で機能しているからです。

それは「時間のない状態」を投影してはいるけれども、時間という領域以外では何も起こり得ないという事実を受け入れることには関心がない。

質問するということは、答えを要求しているということを意味する。

そして、その答えは時間の中でしかやって来ることができない。

その間、つまり答えがやって来るまでの時間のあいだ、この「知識」は生き残る機会を持つことになるのです。

Q: あなたの言っていることは本当です。

しかし、「私は誰なのか」という質問への答えは、時間の中には入りません。

U.G.: そうです。

しかし、時間の中で生まれたものはすべて……。

Q: それは単なる装置です。

あなたの言うことには同意します。

U.G.: その通りです。

時間という領域の中で生まれたものは、すべて時間です。

質問も時間なのです。

Q: 質問は時間の中で生まれたものではありません。

U.G.: では、それはどこから来るのですか?

Q: 「私はある(I am)」から来ます。

U.G.: その「私はある」という前提そのものが、時間なのです。

もちろん、それは一つの前提です――この知識とは別の何かが、そこに存在するという前提です。

そこにあるのは、ただ知識だけです。

Q: あなたがおっしゃるように、すでに持っている答えから質問が生まれるのだとしたら、その「すでに持っている答え」というのは、おそらく心理学でいう「心(mind)」と同じものだ、という意味ですか?

U.G.: わかりません……。

私にとっては、そもそも「心」など存在しません。

「心」とは全体性です。

(私が「心」という言葉に独特な定義を与えているということではありません。)

あなたの経験の総体、そしてあなたの思考の総体、それが「心」です。

昨日も言ったように、あなた自身のものだと言える思考など一つもありません。

あなた自身のものだと言える経験も一つもありません。

知識なしには、いかなる経験も持つことができません。

私の言っていることが、うまく伝わっているかわかりませんが。

あなたが何かを経験するたびに、その経験を通して知識が強化され、さらに確固たるものになります。

これは悪循環です。

それは延々と続いていく。

知識があなたに経験を与え、そして経験が、あなたの持っている知識を強化する。

あなたがしている質問は、とても軽薄な質問です。

なぜなら、質問は知識から生まれるからです。

もしその質問に何らかの答えがあるとしても、それが必ずしも「あなた自身の答え」だとは限りません。

すべての答えは、何世紀にもわたって蓄積されてきた答えなのです。

蓄積されてきた知識の総体がある。

蓄積された知識、蓄積された経験がそこにある。

あなたはそれらを使って、自分自身とコミュニケーションし、また他人ともコミュニケーションしているのです。

だから、「あなたの心」と「私の心」というようなものは存在しません。

しかし、これまで存在してきたものすべての、すべての思考と経験の総体としての「心」は存在します。

だから、誰かがその質問に対してどんな答えを与えようとも、その答えはその質問に終止符を打たなければならない。

事実、他人から与えられた答えも、あなた自身が自分のために作り上げた答えも、そして今日、世の中にいる賢者たちが与えている答えも、過去に存在した賢者たちの答えも――本当の意味では答えではありません。

私があなたの質問にどんな答えを与えたとしても、それはその質問への答えにはなり得ない。

なぜなら、答えはその質問に終止符を打たなければならないからです。

もし、そこで質問そのものが粉々に砕かれるのなら、その質問を生み出した原因である知識もまた、すべて消え去らなければならない。

質問している者は、どんな答えにも興味がないのです。

なぜなら、その答えは全体を吹き飛ばさなければならないからです。

あなたがこの30年、40年の間に知ったわずかなものだけではない。

その時点までに蓄積されてきたすべてのもの――それまでに存在したあらゆる人間が考え、感じ、経験してきたすべてのものが、質問が投げ出されたその瞬間までに、すべて消え去らなければならない。

私の言っていることが、うまく伝わっていないかもしれません。

ともかく、わかるでしょう。

答えがあるのだとすれば、その答えはすべてを消し去るものでなければならないのです。

Q: 私は、真空(vacuum)が現実になろうとしている、あるいは一見すると現実になりそうな、その瀬戸際で生じる絶望について考えていました。

U.G.: そうです。

しかし、少しのあいだ、そこに絶望があると仮定しましょう。

(あなたは、自分がひどい絶望の中にいると言っていますね。)

では、あなたはその絶望から自分を解放しようとすることを、もう完全にやめたのですか?

あなたは、それを「絶望」と呼んでいる。

そして「真空」や「空虚」という言葉を使うのと同じように、その言葉を使っている。

しかし、そこには絶望などありません。

実存主義の哲学者たちは、彼らが「絶望」と呼んでいるものの上に、巨大な哲学体系を築き上げました。

宗教的な人々は、それを「神聖なる絶望」と呼んでいる。

しかし、これらはすべて意味のない言葉です。

あなたは、本当に自分が「絶望」と呼んでいるものと向き合ったことがない。

なぜなら、そこにあるのは、あなたが「絶望」と呼んでいる状況から、何とかして自分を解放したいという方向への動きだけだからです。

だから、あなたはその絶望を作用させない。

私が言っている「行動」とは、そのことなのです。

あなたはまだ、それについて考えている。

わかりますか?

その絶望は、どこにあるのですか?

それはあなたの思考の領域にはありません。

それは、ここに――あなたの身体という枠組みの中に――あるべきなのです。

2026/09/22

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 13

Q: 「そこには二元性があるという理解、その理解が生じるということ……」

U.G.: 理解そのものが二元性です。その分割がなければ、理解すべきものは何もありません。ですから、あなたが何かを理解するために使っている道具、それがあなたの持っている唯一の道具です。他に道具はありません。

直観について語ることもできるし、ほかにも千ものことについて語ることができるでしょう。しかし、それらはすべて、感度を高められた思考にすぎません。直観とは、感度を高められた思考以外の何ものでもない――それでもやはり、それは思考です。

だから、その道具を使って何かを理解したとしても、それによってあなたが何かを理解できたわけではありません。それは理解するための道具ではないし、ほかに道具もないのです。

もしそうだとしたら、そもそも理解すべきものが何かあるのでしょうか?

あなたが何かを理解しようとするのは、ただ、そこにあるものを変えるためです。そこにあるものを、あなたは変えたい。自分の思考の構造に変化をもたらしたい。だから、違ったように考え始め、違ったように経験し始める。

しかし、根本的には何も変わっていません。

つまり、あなたが何かを理解したいと思うのは、そこに変化をもたらすためなのです。それと同時に、あなたはその変化を望んでもいない。

それが、人間の神経症的な状況を生み出しています。二つのことを同時に望んでいる――変化を望み、しかも変化を望まない。

それが、いつもそこにある葛藤なのです。

Q: おそらく、その葛藤を見なければならないのでしょう。

U.G.: 「見る」ということ自体が、分割する働きです。二つのものがあることになる。

ほら、インド人はこのゲームにかけては昔からの大名人です――見る者と見られるもの、観察者と観察されるもの。

こういうゲームにかけては、彼らは大変な達人です。

しかし、いったい何を見るというのでしょう?

そして、見ているのは誰なのでしょう?

二つのものがあるのでしょうか?

あなたは「見る」とき、何をしていますか?

また同じ思考に戻っているだけではありませんか。

「私は誰なのか?」と自分自身に問いかけるのは、馬鹿げています。

それがラマナ・マハルシの基本的な教えになってしまった。「私は誰なのか?」と。

なぜそんな質問をするのでしょう?

その質問には、あなたが知りたいと思っている、もう一つ別の「私」が存在するという意味が含まれています。

私にとって、その質問にはまったく意味がありません。

その質問をするという事実そのものが、すでに二つのものがあることを意味しているのです。

あなたが知っている「私」と、そしてその本質をあなたが知らない、もう一つの「私」がある。

「私は誰なのか?」という質問には、もう一つ別の「私」が存在し、その本質をあなたは本当には知らず、それを知りたいと思っている、ということが含まれているのです。

私の言っていることが、うまく伝わっているかどうかわかりませんが。

そもそも、あなたは自分自身について何か知っていますか?

何を知っているのですか?

言ってみてください。ん?

Q: 彼が知っていることです。

U.G.: 彼が「知らされてきた」ことです。

どこに住んでいるか、自分の名前は何か、毎月いくら収入があるか、電話番号、これまでに出会った人々、30年の人生の中でどれだけの経験を積んできたか、そして読んできたすべての本。

それが、彼があなたに言えることのすべてです。

彼は、自分が集めてきた情報と、蓄積してきた経験を、機械的に繰り返すことができる。

そして、そこにあるのはそれだけです。

では、なぜあなたはそれに不満なのですか?

そして、なぜそれ以外の何かを探し求めているのですか?

あなたが集めてきた情報や、自分が知っていること以外に、自分自身について何か語ることができますか?

Q: 私がそこで見つけたものは、答えではありません。もし答えだったなら、質問が残り続けるはずがないでしょう。

U.G.: そこで何を見つけたのですか?

Q: ただの知識です。

U.G.: では、その馬鹿げた質問は、あなたがすでに持っている知識から生まれたものです。

「私は誰なのか?」という質問を投げかけたのは、そこにすでにある知識なのです。

だから、あなたは知りたいと思う。そして、その「知ること」を通して、あなたの持っている知識は勢いを増していく。あなたはそこに、さらに、さらに、さらに付け加えていく。

もし、そこに何か「知るべきもの」があるのだとしたら、あなたが知っていることのすべてが終わらなければならない。

ところが、その質問への答えを得ようと追い求めたり、答えを要求したりすることで、あなたは知識にますます多くのものを付け加えているのです。

だから、「私は誰なのか?」という質問がいかに馬鹿げているか、わからないのですか?

誰がそれを提案したのか、誰がその質問をあなたに投げかけたのか、誰がその質問を勧めたのか――そんなことはどうでもいい。

そこには、知るべきものなど何もありません。

そこにあるのは、あなたが知っていることのすべてです。

それがなくなったとき、あなたには何かを知る必要もなくなるし、そこにあるものについて何かを知る方法もなくなります。

Q: でも、「私は誰なのか」というのは、本当は質問ではありません。「私は誰なのか」は、指し示すものです。

U.G.: そうです。それはどこを指し示しているのですか?

いいでしょう。もしそれが「指し示すもの」だというなら、あなたはどうするのですか?

そこにじっと留まって、それに従う代わりに、自分の指をしゃぶっている。

その「指し示すもの」を、あなたはいったいどうするのですか?

Q: その指し示すものは、指し示されるべきものが何もないところを指しています。

それは、これらがすべて意味のない言葉にすぎないところへ、あなたを連れていくのです。

U.G.: それでいい。その質問そのものが、意味のない質問なのです。

Q: ええ。でも、それを「質問」として使った場合にだけ、そうなるのです。

U.G.: いいでしょう。それを「指し示すもの」として使ったとしても、その方向そのものが間違っている。

Q: それは指し示すものですらありません。

U.G.: いいでしょう。では、それはいったい何なのですか?

Q: それは、あなたが「ある」ということを示しています。

私が「ある」ということを示しています。

「私はある(I am)」ということが、基礎なのです。

U.G.: 「私とは何か」というのは、私が自分自身について持っている知識です。

Q: 「私はある」ということが、私なのです。

U.G.: しかし、「私とは何か」というのは、どういう意味なのですか?

Q: 何の意味もありません……。

U.G.: そうです。

Q: 「私はある」というのは、知識ではありません。

U.G.: 質問とは独立して存在するものなど、そこには何もありません。

Q: では、それが知識の終わりなのですね。

2026/09/18

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 12

Q:身体が地中に埋まり、分解されていっているときでさえですか?

UG: それがどうしたというんです? その身体の上で生き延びている、ほかの生命体がたくさんいるじゃないですか。

あなたにとって慰めにはならないでしょうけど、あらゆる細菌があなたの身体の上で大宴会を開くんです。祝宴ですよ。盛大なご馳走です。

もしその身体を道端に置き去りにしたら、驚くでしょうね。細菌たちがみんな大喜びで、宴を始めるんです。あなたはものすごく大きな貢献をすることになる。

人類のためではありません。さまざまな種類の生命体のために、です。

Q:それなら、菜食主義もあまり勧められないということですか?

UG: ああ、そうですね……。
(うんざりしたようにため息をつく。)

Q:またその話ですか。

UG: 何のための菜食主義なんです?

何か精神的な目標のためですか?

ひとつの生命が、別の生命を糧にして生きる。それが事実なんです。あなたが好むと好まざるとにかかわらずね。

もし虎が菜食主義を実践したら――彼[質問者]は、自分の猫は菜食主義の猫で、ハエ一匹殺さないと言っているんですが――菜食主義者たちと一緒に暮らしているうちに、菜食主義者になったというわけです。

健康上の理由なら、そうしたほうがいいのかもしれません。私には分かりません。菜食主義者になるべき十分な理由があるとは、私には思えない。

あなたの身体が、肉を食べる身体よりも純粋になるわけではありません。

インドへ行ってみなさい。菜食主義者として生きてきた人たちを見てみればいい。彼らが親切なわけでもないし、平和なわけでもない。

だから、そんなことは[精神性とは]何の関係もないんです――何を身体の中に入れるかということは、本当の問題ではない。

Q:肉を食べることによって引き起こされる攻撃性については、どうですか?

UG: 菜食主義者のほうが、肉を食べる人間より攻撃的なんですよ。驚くでしょう。

インドの歴史を読んでみなさい――そこには流血、虐殺、暗殺があふれている――すべて宗教の名のもとに行われたものです。

仏教は、いくつかの地域ではそれほど暴力的ではありませんでした。しかし、日本に広まったときには、最も暴力的な宗教になった。

あの寺院には軍隊があり、日本で戦争をするために軍隊を維持し、提供していたんです。

これは歴史的事実ですよ。私個人の意見ではありません。

だから私は、教師たちとその教えこそが、この世界の混乱に責任があるのだ、と強調しているんです。

あの救世主たちはみな、この世界に混乱以外の何も生み出さなかった。

そして政治家たちは、その文化の継承者なんです。

だから政治家たちを責めて、腐敗していると非難しても何の意味もありません。

腐敗していたのは、彼ら[精神的な教師たち]のほうなんです。

「愛」を教えた人間こそ腐敗していた。なぜなら、その人は自分の意識の中に分裂を作り出したからです。

「汝の隣人を、汝自身のように愛せよ」と語った人間こそ、今日の世界に存在するこの恐怖に責任があるんです。

あの教師たちを無罪放免にしてはいけません。

彼らの教えがこの世界に生み出したものは、混乱以外の何ものでもない。

そしてその混乱は、ますます、単に人間だけでなく、今日この地球上に存在するあらゆる生物種を破壊する方向へと進んでいるんです。

それは、あの[愛という]理想から生まれたものなんです。

責任があるのは科学者や政治家ではありません。彼らの手には、この力がある。そして彼らはそれを使おうとするでしょう――この世界には、ボタンを押してしまう狂人が十分すぎるほどいるんです。

では、それ[暴力]はどこから始まったのでしょう?

宗教が人間を救うわけではありません。無神論も、共産主義も、その他のどんな体制も、人間を救いはしない。

それらを台座の上に置いて、「これらについては罪を問うべきではない」などと言うことはできません。

教えだけではありません。教師たち自身が、私たちがこの世界で目にしている暴力の種を蒔いたんです。

「愛」について語った人間こそ責任がある。なぜなら、愛と憎しみは一緒についてくるからです。

だったら、どうして彼らを無罪にできるんです?

信者たちを責めてはいけません。信者たちは、その教えから生まれてきたんです。

これは歴史ですよ。私個人の意見ではありません。

ヨーロッパの歴史を知っているでしょう。異端審問ですよ。

「イエスの名において」。

それなのに、なぜその宗教を復活させたいんです? 何のために?

「キリスト教に立ち返れ」というのが、今やいたるところで掲げられているスローガンです。

私は特定の何かを非難しているわけではありません。

すべてに責任があるんです。

「愛」について語るというのは、実に馬鹿げたことの一つです。

[愛が成立するには]二つのものが必要なんです。

[しかし]分裂が存在するところには、必ずこの破壊がある。

親切にも二つのものが必要です――あなたが誰かに親切にする、あるいは自分自身に親切にする。

そこには、あなたの意識の中に分裂があるんです。

その分裂から生まれるものは何であれ、自己を守るための防衛機構です。そして長い目で見れば、それは破壊的なんです。

思考は自分自身を守ろうとしている。

だから思考は、継続することに関心を持つんです。

身体は自分自身を守ることには関心がありません。

身体が生き延びるために必要な知性は、すでにそこに備わっています。

私たちが組織や制度を通して作り上げてしまったジャングルには、そうした知性が必要なんです――私たちが勉強を通して、文化を通して、ありとあらゆるものを通して身につけてきた知性がね。

その知性は、それ自体で別個の存在を持っていて、別の種類の生存に関心を持っています。

なぜなら、ここにある生命には終わりがないからです。

これは、生命の一つの表現にすぎません。

あなたがいなくなっても、私がいなくなっても、生命は[なお]続いていく。

あの明かりは消える。でも電気は流れ続ける。

また別の何かが現れるでしょう。

生命は人間には関心がありません。

ところが残念なことに、人間は非常に破壊的な力を持っている。そしてその力は、人間の経験――人間の自己認識――から生まれてきたものなんです。

だから、「自分自身を見つめたい」「自分自身を理解したい」という話そのものが、人間の中にある分裂した動きなんです。

それは、あの自己認識から生まれたものです。

そして、それこそが、心理的構造全体が築かれている土台なんです。

Q:でも、どうすれば、その分裂した思考をなくすことができるんですか?

UG: できません。

それはあなたの手の中にはないんです。

あなたが何をしようとも、それによってその動きにさらに勢いを与えることになります。

Q:では、あなたはそれを終わらせたいんですか?

UG: いいえ。

Q:私は以前、ものすごく大きな一体感を感じたことがあります……。

UG: 薬物によって、あるいは瞑想によって、あるいは人間が発明してきた、そうした体系や技法によって、身体の代謝に乱れが生じることがあります。

そうすると、生命の一体性、生命の統一性を体験することができる。

生命の統一、生命の一体性を説いているインドを見てごらんなさい。そこに一つの実例があるでしょう。

彼らはみな偉大な形而上学者であり、哲学者です。そして、こうしたことについて延々と議論し続けている。

ところが、それは人々の実際の生活には何も作用していないんです。

2026/09/15

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 11

だから、問題はすべて神経学的なものなんです。心理的なものでも、倫理的なものでもない。そこに社会の問題があるんです。

社会は現状維持に関心を持っています。変わりたくないんです。社会が現状維持、あるいはその継続性を保つ唯一の方法は、「誰もがこの構造に適合しなければならない」という要求をすることです。ところが、身体的に見れば、一人ひとりはみな唯一無二の存在なんです。

自然は絶えず、何か唯一無二のものを創り出しています。自然は「完全な人間」には関心がありません。「宗教的な人間」にも関心がありません。

私たちは人間の前に、「完全な人間」「真に宗教的な人間」という目標や理想を置いてしまった。だから、その完全性という目標に到達するためにあなたが何をしようとも、それはこの身体の感受性を壊してしまう。ここに暴力を生み出しているんです。身体はそんなものを望んでいません。

死んだ人間が経験したもの――自己認識、自己意識――そうしたものが、人間を完全に破壊する種を蒔いたんです。これらすべての宗教は、人間の中にある、その分裂した意識から生まれてきた。そうした教師たちの教えは、必然的に人類を破壊するでしょう。そんなものを復活させたり、復興運動を始めたりすることには何の意味もありません。それは死んでいる。終わったことなんです。

あなたの意識の中にある、この分裂から生まれるものは何であれ、破壊的であり、暴力です。なぜなら、それはこの生きている有機体、この生命そのものを守ろうとしているのではなく、思考の連続性を守ろうとしているからです。そしてその思考の連続性を通して、あなたの文化、あるいは何と呼ぼうと構いませんが、社会の現状を維持することができる。

問題は神経学的なものなんです。身体にその機会を与えれば、身体はそうした問題をすべて処理してくれます。けれども、それを心理的なレベルや倫理的なレベルで解決しようとするなら、うまくはいきません。

Q: 「身体にその機会を与える」とは、どういう意味ですか?

UG: 怒りはどこにありますか? ここ、お腹の中に感じるでしょう。そう、ここ、身体の根元のあたりです。夫や妻や隣人を殴ったり、枕を殴ったりしたところで、問題は解決しません。怒りはすでに吸収されているんです。そんなことをしているのは、そこから金を稼いでいるセラピストたちを儲けさせているだけです。妻を殴る、夫を殴る、誰でも殴りたい人を殴る――あなたにできるのはそれだけで、それ以外には何もできない。

それでも、そうしたものを処理して吸収するのは身体の働きなんです。ここにあるんです。身体にとって、それは現実に存在する何かなんです。身体はこの怒りを欲していません。なぜなら、それは神経系の感受性を壊してしまうからです。だから身体はそのすべてを吸収している。あなたは何もする必要がないんです。

この思考を通してあなたが生み出すエネルギーは、どんなものであれ、この身体にとって破壊的です。そのエネルギーを、ここにある生命から切り離すことはできません。それは一続きの動きなんです。だから、そうしたことをあれこれ弄り回すことで経験するあらゆるエネルギーは、この生きている有機体が滑らかに機能することには何の関心もない。それらは、この身体の調和のとれた機能――とても、とても平穏なもの――を乱してしまうんです。

そこにある「平和」は、あなたが経験するような、ぼんやりとした死んだ静寂ではありません。まるで、絶えず噴火している火山のようなものです。それが静寂であり、それが平和なんです。

血液は川のように、あなたの血管の中を流れています。もし血液が流れる音を拡大して聞くことができたら、きっと驚くでしょう――それはまるで海の轟音のようなんです。

もし防音室に自分を閉じ込めたら、あなたは五分と生きていられないでしょう。気が狂ってしまいます。なぜなら、自分の中に存在している音に耐えられないからです。心臓の鼓動の音でさえ、あなたには耐えられないものなんです。

だから人は、こうしたあらゆる音に自分を取り囲ませたがる。そしてそのうえで、「静かな心の体験」などという、おかしな体験を作り出す。そんなものは馬鹿げています。 absurd です。

そこにある静寂とは、そういうものなんです――轟音。海の轟き。血液が流れる、その轟々たる音のようなものなんです。

身体が関心を持っているのは、それだけなんです。あなたの心の状態でもなければ、「静かな心」という体験でもない。身体は、あなたが美徳を実践していることにも、沈黙を実践していることにも関心がありません。あなたの道徳的な葛藤だとか、何と呼ぼうと、それにも身体は関心がない。

身体は、あなたの美徳にも悪徳にも関心がありません。美徳を実践しているかぎり、あなたは悪徳の人間であり続けるでしょう。この二つは一緒についてくるんです。

もし幸運にも、「美徳を追求すること」を目標にするのをやめることができたなら、それと一緒に悪徳もあなたの身体から出ていきます。あなたはもう悪徳の人間ではなくなる。

「非暴力的で、親切で、柔和で、穏やかな人間になろう」という何らかの考えに従っているかぎり、あなたは暴力的な人間であり続けるでしょう。

親切な人、親切を実践している人、美徳を実践している人というのは、本当はとても危険な存在なんです。[いわゆる]暴力的な人間ではありません。

UG: 文化は、どこかの段階で、すべてを間違った方向へ持っていってしまったんです。人間の前に「完全な人間」という理想を置き、「真に宗教的な人間」という理想を置いたことによって。

宗教的な体験というものは、人間の意識の中にあるこの分裂から生まれたものです。しかし、その分裂は人間の本性ではありません。

幸いなことに、動物にはこのような意識の分裂はありません。生存のために必要な分裂を除けばね。

人間は動物よりもひどい。確かに人間は月に人を送り込むことに成功した。おそらく将来は、あらゆる惑星に人間を送り込むでしょう。

しかし、そのような達成は、この身体には何の関心もありません。

そうした達成は、あらゆるものを次第に破壊する方向へ進んでいる。なぜなら、思考から生まれたものは何であれ、破壊的だからです。

それは身体に対してだけ破壊的なのではない。人間が自分のために築き上げてきたあらゆるものを、徐々に、そしてますます破壊していく方向へ進んでいるんです。

Q: お腹が空いていると、何だって破壊的になるんじゃないですか。

UG: 一日もすれば、身体はあなたの空腹なんて気にしなくなりますよ。身体に食べ物を与えなかったらどうなるか、驚くでしょうね。

身体に食べ物を与えることは、あなた自身の問題です。おそらく一日か二日は、空腹による癇癪のようなものを感じるでしょう。

Q: でも、食べるのをやめたら、最終的には死ぬでしょう。

UG: それがどうしたというんです。

身体は死なない。身体はその形を、姿を変えるだけです。そして自分自身を、その構成要素へと分解していく。

身体は「死」に関心を持っていません。身体にとって、死というものは存在しないんです。

死があるのは、あなたの思考にとってです。思考は終わりを迎えたくないからです。思考にとっては、死がある。

だから、思考はその状況に直面したくないがために、「死後の生」を、「これからやって来る生」を作り出したんです。

しかし、この身体は、その本質において不滅なんです。なぜなら、この身体は生命の一部だからです。

2026/09/11

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 10

何であれ、起こるべきことは、今起こらなければならない。それが今起こる可能性は、現実的に考えて、ほとんど完全に不可能です。なぜなら、あなたが使っている道具は「過去」だからです。過去が終わらないかぎり、現在はあり得ません。そして、その現在という瞬間は、あなたには捉えることも、経験することもできません。

仮に、ほんの一瞬だけ、過去が終わったとしましょう。それでも、あなたには、それが終わったと知る方法がありません。そのとき、あなたには未来もまったく存在しません。

たぶん明日には、あなたが会社の社長になっているかもしれない。あるいは学校の先生がその学校の校長になるかもしれないし、教授が学部長になるかもしれない――そういう可能性はあります。しかし、そのためには大変な努力をしなければならないし、それには時間がかかります。

あなたは、自分が関心を持っていること[精神的な目標]を実現するためにも、まったく同じやり方を使っています。そして、それ[あなたの心]は、それを未来にある目標として設定してしまう。このやり方は、この世界では途方もない成果を生み出してきました。

だから、あなたはこう尋ねるわけです。「では、なぜその道具が、私の精神的な目標を達成するための道具にはならないのか?」

あなたは試してきた。できることはすべてやってきた――それを見つけたいという飢えに燃えている人たち[あなたがた]でさえそうです――それでも不可能なんです。

インドでは、誰もがこれを試してきました――信じられないでしょうが――誰一人として幸運にもそれを成し遂げた人はいません。

そういうことが起こったときにはいつでも、自分の探求を完全に、徹底的に、すべて放棄した人たちに起こったんです。それが、その種のことが起こるための絶対的な必要条件です。

運動全体がゆっくりになり、そして停止しなければならない。しかし、それを止めようとしてあなたが何かをすれば、それ自体がまた、その運動に勢いを加えてしまう。そこが、本当の問題の核心なんです。

あなたが関心を持っているものは、存在しません。それは、あなたがそれらについて持っている知識をもとにした、あなた自身の想像です。

だから、それについてあなたにできることは何もない。

あなたは、まったく存在しないものを追いかけているんです。

私は、牛が家に帰ってくるまで――ここではいつ帰ってくるのか知りませんが――あるいは「世の終わりまで」そう言い続けることもできます。しかし、その王国は決してやって来ません。

それでもあなたは、どうにかして自分の目標を達成する方法が見つかるだろうと期待しながら、進み続けます。

日々の問題を解決するためにそれを手に入れたい、というあなたの関心は、とんでもなく見当違いな考えです。なぜなら、それはあなたの問題を解決するのに何の役にも立たないからです。

「もし私がその悟りを得ていたら、すべての問題を解決できるのに。」

あなたは、それをすべて持ったまま、しかも悟りを得ることはできません。それが来たときには、すべてを消し去ってしまうんです。

あなたは、この世のすべてと、天国までも欲しがっている。

そんなこと、あり得ません!

それは、あなた自身の努力によって起こさせることのできるものではありません。誰かの恩寵によっても起こせない。まして、この地上を歩いている神が、「あなたのために、人類のために、どこか[何らかの天界]から特別に降りてきた」と主張して、その神の助けによって起こせるものでもない――そんな話はまったくのでたらめです。

誰もあなたを助けることはできません。

何を達成するために助けるというのか?

そこが問題なんです。

あなたの目標が存在するかぎり、こういう人々も、彼らの約束も、彼らの技法も、あなたには非常に、非常に魅力的に見えるでしょう。

それらは一組になっているんです。

あなたが何かをしなければならない、ということは何もありません。

とにかく、あなたはすでにいろいろなことをしている。

何もせずにいられますか?

いられないでしょう。

残念ながら、あなたは何かをしている。そして、その「すること」は終わらなければならない。

ところが、その「すること」を終わらせるために、あなたはまた別のことをしている。

それこそが、本当の問題の核心なんです。

あなたが置かれている状況はそういうものです。

私に言えるのは、それだけです。

私は、あなたがやっていることの不条理を指摘しているだけなんです。

昨日言ったように、あなたをここへ連れてきたものは、必ずあなたを別の場所へ連れていくでしょう。

ここで得るものは何もありません。

ここでは何も得られない。

別に、私が何かを自分のために取っておきたいということではありません。欲しいものがあるなら、何でも持っていけばいい。

私には、あなたに与えるものなど何もありません。

私は、あなたがたと違う何かではありません。

あなたは、私が何か別のものだと思っている。

しかし、「自分は他人とは違う」という考えが私の頭に浮かぶことは、一度もありません。

一度もない。

質問をされると、私はこう感じるんです。

「なぜこの人たちは、こんな質問をするんだろう? どうしたら、この人たちに分からせることができるんだろう?」

そう思うこと自体、私の中にまだ少し幻想の痕跡が残っているということなのかもしれません。

「ひょっとしたら、やってみることができるかもしれない。」

[しかし]その「やってみる」ということさえ、私にとっては何の意味もありません。

私にできることは何もない。

得るものは何もない。

与えるものも何もないし、得るものも何もない。

それが状況なんです。

物質的な世界なら、話は別です。

そこにはたくさんのものがあります。

知識を与えてくれる人、お金を与えてくれる人、その他、世の中にはいろいろなことであなたを助けてくれる人が必ずいる。

しかし、ここ、この領域には、与えるものもなければ、得るものもない。

あなたが「欲しい」と思っているかぎり、あなたには絶対にチャンスがないと思っていい。

なぜなら、「欲しい」ということは、自分の目標を達成するために思考を動かし始めることを意味するからです。

問題は、あなたの目標を達成することではない。

問題は、この運動がここで終わることなんです。

あなたにできる唯一のことは、それを達成する方向へ向かって思考の運動を始動させることです。

では、どうやって、この不可能な仕事を達成するというのですか?

欲望と考えること――この二つはいつも一緒です。

私は、「あなたはすべての欲望を抑圧しなさい」と言っているのではありません。

「すべての欲望から自由になりなさい」とか、「すべての欲望をコントロールしなさい」と言っているのでもない。

まったく違います。

それは宗教がやっているゲームです。

何かを欲しいと思えば、あなたがすることはただ一つ、その目標を達成するために思考の運動を始動させることです。

物質的な目標なら、それはそうでしょう。

しかし、それでさえ簡単ではありません。

ここは非常に競争の激しい世界です。

私たちが分かち合えるものなど、もうあまり残っていない。

みんなに行き渡るほど十分なものはない。

誰かと何かを「分かち合う」などという話は、私にはたわごとにしか聞こえません。

ここには、分かち合うものなど何もない。

これは「経験」ではありません。

仮に、ほんの一瞬だけ、これが経験だとしましょう。

それでも、それを誰か他の人と分かち合うのは非常に難しい。

相手の人間にも、自分の経験の構造の中に何らかの基準点がなければならないからです。

そうなると、あなたは分かるでしょう。このこと全体が、意味のない儀式のようになってしまう。

座って、こうしたことについて話し合う。

それだけです。

あなたが手放すのは、そんなに簡単なことではありません。

まったくね。

Q: 私には、何についても何も知らなかったときに、これが起こったんです。

U.G.: そうでしょう。何も知らない。ただ起こったんです。

Q: でも、私はただ床に座っていただけなんです。それで起こった。私は死ぬほど怖かった。

U.G.: それでいいんです。

ところが今、あなたはそれがもう一度起こってほしいと思っている。

違いますか?

神に感謝すべきですよ。

あなたの精神的な探求は、そうやって終わるんです。

他に方法はありません。

私はあなたを怖がらせようとしているわけではありません。

でも、どうしてそれが起こると思うんですか?

ドラッグを使っている人たちが、あらゆる種類の体験をするのも、まさにそういうことです。

この種のことを何も聞いたことがない人たちでさえ、確かにいろいろな体験をする。

そして、それが彼らを、このメリーゴーラウンドに乗せてしまう。

インドには、あなたが望むあらゆる種類の体験を与えるための技法、体系、方法がいくらでもあります。

だからこそ、彼らはものすごい商売をしているんです。

Q: でも、それは瞑想のときとか、これをしたときとか、あれをしたときとか、そういうふうに私の頭に浮かんだものではありませんでした。何かまったく違うものだったんです。

U.G.: 起こったんです――そういうことは起こる。

何か特別な体験が。

人は、何も知らず、何も求めず、何もそういうことをしていなくても、そうした体験をすることがあります。

あなたにとっては、それは恐ろしい体験だった。

ところが今、あなたは、他の精神的な体験を何度も何度も何度も起こしたいと思っている。

あなたが何かを「起こそう」として起こしたものには、まったく意味がありません。

そうすると、あなたはもっともっと、そういうものを欲しくなる。

そして、もっともっとそういうものを手に入れることに成功すると、今度は、何らかの永続的な状態、永遠の幸福、永遠の至福を要求するようになる。

しかし、「永続するもの」などというものは、そもそも存在しません。

ないんです。

おそらく、それは至福に行き着いたのかもしれません。

誰に分かりますか。

Q: では、私たちはすでに、あるがままの自分そのものだと言っているんですか?

U.G.: あなたはその事実を受け入れたくない。

でも、自分が何なのかを知りたいと思っている。

そこが問題なんです。

あなたには、それを知る方法がまったくない。

「そこにあるものが何なのか」を知ることは不可能です。

それは常に、「自分はどうなりたいのか」ということと結びついている。

あなたがここで見ているものは、自分がなりたいもの、自分がそうありたいと思うもの、自分がそうあるべきだと思っているもの、その反対です。

ここで何が見えていますか?

あなたは幸せになりたい。

だから不幸なんです。

幸せになりたいという欲望が、不幸を生み出している。

ここであなたが見ているものは、「幸せになりたい」「幸せでありたい」という目標の反対なんです。

いつも快楽を得ていたいと思うことが、ここに苦痛を生み出している。

だから、欲望と考えることはいつも一緒なんです。

別々ではありません。

あなたが何かを欲しがると、それが苦痛を生み出す。

なぜなら、あなたは考え始めるからです。

欲望と考えること。

この世界で何も欲しくなければ、思考はありません。

だからといって、思考そのものが存在しないという意味ではありません。

物質的な目標を達成したいのか、精神的な目標を達成したいのか――そんなことは、本当はどうでもいい。

私は、欲望そのものに反対しているのではありません。

「欲しい」ということは、その欲望が満たされるか、満たされないかということが、思考を通してのみ可能になるということです。

だから、本当にあなたの問題を作り出しているのは、思考なんです。

私が言っているのは、私たちが抱えている問題はすべて、心理的なレベルや倫理的なレベルでは解決できないということです。

人間は何世紀にもわたって、それらを解決しようとしてきた。

しかし、失敗してきた。

それでも人間を動かし続けているのは、

「いつの日か、同じことをもっともっとやれば、きっと達成できる」

という希望です。

しかし、先ほども言ったように、身体には、これらの問題を解決する方法があります。

なぜなら、身体はそれらを受け入れることができないからです。

何かから自由になろうとしてあなたがしていることは、感覚知覚の感受性を破壊している。

あなたが自由になりたいと思っているものから自由になろうとして行っていることが、ここにある神経系の感受性を破壊しているんです。

この生きている身体が生き残るためには、神経系は非常に鋭敏でなければならない。

非常に敏感でなければならない。

感覚知覚もまた、非常に敏感でなければならない。

ところが、あなたはそれらを敏感なままにしておく代わりに、「感受性」と呼ばれるものを作り出した。

いわゆる「感情の感受性」、心の感受性、周囲にいるあらゆる生き物に対する感受性、そこにいるすべての人の感情に対する感受性です。

そして、それが神経学的な問題を作り出してしまったんです。