2026/10/16

The Courage to Stand Alone U.G.クリシュナムルティとの対話 20

私が言っているのは、「ほら、あなたには何の問題もない」ということだ。あなたは、持てるかぎりの強調を込め、ものすごい勢いで、「ほら、私にはここに問題がある」と言い張る。

いいだろう、あなたには問題がある。そのあなたが言っている問題は、指し示して、「これが問題だ」と言えるものだ。肉体的な痛みは現実に存在する。だから、医者のところへ行く。処方された薬が身体にとって良いものかどうか、毒なのかどうかにかかわらず、それは、たとえどれほど短いものであっても、必要とされる苦痛の軽減をもたらす。しかし、あの人たちが提供しているセラピーは、存在していない問題をますます強めている。……あなたはただ解決策を探し続けている。もし彼らが提供している解決策に何らかの実効性があるのなら、問題は消えなければならない、なくならなければならない。ところが実際には、問題は依然としてそこにある。それなのにあなたは、あの人たちが救済として、あるいは問題から解放してくれるものとして提供している解決策そのものを、決して疑おうとしない。

神聖さ、悟り、変容などという名目で、こうした「商品」を売り込んでいる人たちが私たちに提示してきた解決策を疑ってみれば、それらは本当の解決策ではないことが分かるだろう。もしそれが解決策なら、結果を生み出し、あなたを問題から解放するはずだ。だが、そうはならない。

あなたが解決策を疑わないのは、そこに感情が入り込んでくるからだ。「市場でこれを売っているあの男が、詐欺師であるはずがない。偽物であるはずがない」。あなたはその男を悟りを開いた人間、あるいは地上を歩く神だと思ってしまう。その神様とやらは、あなたをだましているだけかもしれない。もしかすると、自分自身をだまし続け、その自己欺瞞に耽りながら、その粗悪な商品をあなたに売りつけているのかもしれない。あなたが解決策を疑わないのは、そうすると、それを売っている人間そのものを疑うことになるからだ。彼は不正直であるはずがない、聖者が不正直であるはずがない、と。

それでも、あなたは解決策を疑わなければならない。なぜなら、その解決策はあなたの問題を解決していないからだ。なぜ、その解決策を疑って、実際に試してみようとしないのか――その解決策が本当に有効なのかを検証してみないのか? それが機能しないと分かったなら、それを捨てなければならない。排水溝にでも、窓の外にでも放り捨てればいい。ところが、あなたはそうしない。いつかどうにかして、その解決策が自分の求めている救済を与えてくれるだろう、という希望があるからだ。あなたが使っている道具[思考]こそが、この問題を作り出したものなのだ。だから、その道具が、自分が信じている解決策が偽物かもしれないという可能性を、決して、決して受け入れることはない。それらはそもそも解決策などではないのだ。

その希望が、あなたを前へ進ませ続ける。それが、あなたに問題そのものを見ることを難しくしている。ひとつの解決策がうまくいかなければ、別のところへ行って、別の解決策を手に入れる。その解決策がうまくいかなければ、また別のものを探しに行く。あなたは、こうした解決策をあれこれ買い求めているだけで、一度たりとも自分自身に「そもそも問題とは何なのか?」と問いかけない。

私には問題など見えない。私に見えるのは、あなたが解決策にしか関心を持っていないということだけだ。そして、ここへ来て同じ質問をする。「別の解決策が欲しい」。私は言う、「そうした解決策は、これまであなたをまったく助けていない。それなのに、なぜまた別の解決策が欲しいのか?」あなたは自分の解決策のリストにもう一つ加えるだけだ。しかし結局は、まったく同じ状況に行き着く。ひとつの解決策が役に立たないと分かったなら、それを一つでも見抜いたなら、すべてを見抜いたのと同じことだ。ひとつずつ順番に試していく必要などない。

私が言っているのは、もしそれが本当に解決策なら、あなたは問題から自由になっているはずだ、ということだ。もしそれが解決策でないのなら、あなたにはそれについてできることなど何もない。そしてそのときには、そもそも問題など存在していない。だから、あなたは問題を解決することには関心がない。なぜなら、それはあなた自身に終止符を打つことになるからだ。あなたは問題に残っていてほしいのだ。空腹であり続けてほしいのだ。なぜなら、もし空腹でなければ、こうした聖者たちから食べ物を求めることもなくなるからだ。彼らがあなたに与えているのは、いくらかの食べ残し、食べ物のかけらだ。そしてあなたはそれで満足している。一瞬、それができるとして、彼[精神的指導者やセラピスト]がパン一斤まるごと与えられるとしよう――もちろん、そんなことはできない――彼がするのは、それをここに、どこかに隠しておいてやる、と約束することだけだ――約束だ。少しずつ、少しずつ……彼はあなたに与える。そしてそのために、あなたは空腹という問題そのものに取り組むことなく、自分の空腹という問題に向き合うよりも、解決策を約束しているあの男から、もう少し何かをもらうことに関心を持つようになる。

あなたは空腹という問題そのものに取り組んでいるのではない。空腹という問題に向き合うよりも、あの男から、もっと多くのパンくずをもらうことに関心を持っている。

Q: 映画を観に行くようなものですね。現実から逃げている。

U.G.: あなたは決して問題そのものを見ない。そもそも問題とは何なのか? たとえば怒りだ。私は、こうした人たちが何世紀にもわたって議論してきた、そんなくだらないことを全部論じたいわけではない。怒り。それはどこにある? その怒りを、この身体の働きから切り離すことができるか? 海の中の波のようなものだ。波を海から切り離すことができるか? 波が静まるまでそこに座って待ち、そうすれば海で泳げると思うことはできる。まるで、海の波が消えて穏やかな海で泳げるようになることを願って、何年も何年もそこに座っていたカヌート王のように。そんなことは決して起こらない。そこに座って、こうした波や、満潮や干潮についてすべて学ぶことはできる(科学者たちはあらゆる説明を与えてくれている)。しかし、それについての知識が、あなたの何の役に立つわけでもない。あなたはそもそも、怒りそのものをまったく扱っていないのだ。

まず第一に、怒りをどこに感じる? あなたが自由になりたいと思っている、こうしたいわゆる問題を、いったいどこに感じる? ……欲望は? 燃え上がる欲望。その欲望があなたを焼き尽くす。空腹があなたを焼き尽くす。だから、あなたが持っている解決策、つまりそれら[欲望や空腹]を満たすための手段は、とても単純なものであり、それが身体の中で自然に燃え尽きることを不可能にしている。

恐怖はどこに感じる? ここ、みぞおちのあたりに感じる。それは身体の一部だ。身体の中に存在するエネルギーの、こうした激しい満ち引きを、身体はそのまま受け止めることができない。だからあなたは、何らかの精神的あるいは社会的な理由から、それを抑え込もうとする。だが、そんなことに成功するはずはない。

怒りはエネルギーだ。ものすごいエネルギーの爆発だ。そして、どんな手段であれ、そのエネルギーを破壊することによって、あなたは生命そのものの表現を破壊している。それが問題になるのは、そのエネルギーに対して何かをしようとするときだけだ。それが身体のシステムに吸収されれば、怒りをそのままにしておいたら自分はきっと何かをしてしまう、とあなたが考えているようなことを、あなたはしなくなる。あなたが実際に扱っているのは怒りではなく、欲求不満なのだ。あるいは、人間関係や自分自身についての理解において、不器用さを生じさせてしまったような状況を避けようとしている。あなたは、将来そうした状況が起こったときに備えておきたいと思っている。

あなたが使っているその道具は、怒りが爆発するたびに、これまで何度も使われてきたものだ。それでもあなたは、その怒りから自由になることに成功していない。それなのに、これまで何年ものあいだ使ってきたこの同じ道具以外に、何か特別な状態へと至ることはないまま、それでも明日には、まさにこの同じものが自分を怒りから自由にしてくれるのではないかと期待している。それは同じ希望なのだ。

Q: でも、誰かがひどく怒っていたら、その人は暴力的になるかもしれません。

U.G.: その暴力は身体に吸収される。

Q: 脅迫することもあります。

U.G.: 誰に対して?

Q: 他の人たちに対して。

U.G.: そう。それで? だから何だ?

Q: ナイフを持って走り回ったり……。

U.G.: だから何だ?

Q: 誰かを殺したり。

U.G.: そうだ。なぜあなたは、何の罪もない何千人もの人々を殺しているのか。なぜ自然なものを抑え込もうとする一方で、無力な人々に爆弾を落としている国家を非難しないのか? 彼らを正気だと呼ぶのか? どちらも同じ源から生まれている。ここで自分の怒りをコントロールするために何かをしているかぎり、あなたはそのような残虐なことに耽り、それを正当化することになる。なぜなら、それこそが自分の生き方と、自分の考え方を守る唯一の方法だからだ。この二つは一組になっている。なぜそれを正当化するのか? それは狂っている。

その人はあなたを傷つけているわけではない。だが、その人はあなたの生き方を脅かしている。その人が、あなたにとって大切なものだと思っているものを奪ってしまう危険がある。怒りが爆発したときに、この人が行動するのを止めようとする考えは、まさにそれと同じなのだ。宗教的な人間は、怒っている人間は反社会的な人間になる、と考えるようになった。

彼が徳を実践しているかぎり、彼は反社会的な人間であり続け、怒りから行動することになる。社会があなたの前に掲げた目標、その同じ目標をあなた自身が実践すべき理想的な目標として受け入れている――その目標があなたにとって終わったとき、あなたは個人としても、国家として集団的にも、誰かを傷つけることはなくなる。

あなたは怒りそのものに対処しなければならない。[しかし]あなたが対処しているのは、怒りとはまったく関係のないものだ。怒りが生まれ、作用しているその枠組みの中で、怒りそのものを燃え尽きさせることを、あなたは一度たりとも許していない。枕を叩いたり、あれこれ何かを叩いたりするセラピーなど、ただの冗談だ。それで人が怒りから一度きりで完全に自由になるわけではない。

Q: 枕を叩く?

U.G.: そう、彼らがやっていることだ。彼らが行っているセラピーの一つだ……。

Q: 効果がない?

U.G.: [怒りは]また現れる。それで、どうする? あなたは怒りそのものに対処していない。ナイフを持って向かってくる人を殴らずに済む方法を見つけることに関心を持っているかぎり、あなたはこの怒りそのものに決して対処することはない。自分自身を守らなければならない。それは不可欠だ。あなたの怒りによって、その状況に対処することが不可能になるなどと、私は少しも言っていない。「非暴力でなければならない」とか、「誰かを傷つけてはいけない」などと言ってはいけない。その人があなたを傷つけているのだ。聖書にさえ、「目には目を、歯には歯を」とある。あなたはそれを決して実践しない。もちろん、彼らはもっと大きな規模ではそれを実践しているが、日常生活では、それはひどいことだと言う。私は、それについて何の問題も見ない。何が問題なんだ?

そもそも、そうした仮定の状況について議論しても意味がない。なぜなら、怒りで頭に血が上り、怒りに燃え上がっている人は、怒りという問題を探求したり、議論したりしようとはしないからだ。これは驚くべきことだ。本当に怒りで燃え上がっているとき、欲望で燃え上がっているとき、そして自分から自由になりたいと思っているあらゆるものに燃え上がっているとき――そのときこそ、それらのことに対処する時なのだ。そうでなければ、教室での議論になってしまう。誰かが怒りの解剖学について、怒りがどのように生じるかの解剖学について、あるいは愛の解剖学について話している。それではあまりにも馬鹿げている。あるいは、現実の状況になったときには機能しない解決策を彼らは提示する。だから私は、こうしたことをあれこれ議論しないのだ。何の問題もない。個人にとって問題などないのだ。怒り狂っているとき――そのときこそ、その人がそれに対処する時なのだ。それが思考を止める。

Q: U.G.、問題そのものを見ることは可能ですか?

U.G.: いいや。なぜなら、あなた自身が問題だからだ。

Q: では、答えはないのですか?

U.G.: あなた自身と問題とを切り離す方法はない。それこそ、あなたがやろうとしていることだ。私が、あなたは怒りを自分の外にあるものとして放り出し、それが自分とは別の対象であるかのように眺め、それに対処しようとしている、と言っているのはそういう意味だ。あなたが自分自身から切り離したとき、その結果として起こるのは、まさにあなたが恐れていることだ。それは避けられない。だから、それをコントロールする方法など、あなたにはまったくない。では、この「自分であるもの」から自分を切り離してしまうことを防ぐために、何かできることがあるのか? 自分自身が怒りそのものなのだと気づくのは、恐ろしいことだ。そして、それを止めようとしたり、防ごうとしたり、何とかしようとしたりすることは、すべて偽りなのだ。それ[それを防ごうとすることなど]は明日のこと、あるいは来世のことだ――今ではない。だから、それがあなたなのだ。

あなたは精神的な人間でも、宗教的な人間でもない。自分は宗教的な人間だと想像することはできる。怒りをコントロールしようとしているから、あるいは怒りから自由になろうとしているから、あるいは年月が経つにつれて、ますます怒らない人間になろうとしているからだ。そうしたすべてが、「自分が避けている、あの悪質な人間は自分ではない」と思わせてくれる。だが、あなたも同じだ。あなたが非難している人々よりも、あなたがより精神的な人間だというわけではない。

明日にはあなたは素晴らしい人間になって、怒りから自由になるつもりだ。それまでのあいだ、私に何をしてほしいんだ? あなたを称賛してほしいのか? 自分は精神的な人間だというラベルを貼ったから、あるいは洒落た衣をまとったから? 私に何をしてほしい? それで私にあなたを称賛してほしいのか? そこには称賛すべきものなど何もない。なぜなら、あなたもこの世界の他の誰と同じくらい悪質だからだ。それを非難するのか……? それを非難したところで意味はない。そこで起きていることとはまったく無関係な態度を取り、ある種の立場を装うことにも、何の意味もない。

では、どうしてそんな立場を装ったり、ある種の態度を取ったりして、自分は動物よりも優れていると思えるのか。動物のほうが人間よりましだ。怒りが生じれば、動物は行動する。そしてその[殺すという行為]は、生き延びるためだけのものだ。自分自身を養うために同胞を殺すのであれば、それは道徳的な行為だ――ただその目的のためだけならば。なぜなら、周りを見れば、一つの生命形態が別の生命形態の上に成り立っているからだ。そして、菜食主義を語りながら何百万人もの人間を殺すのなら、それこそ、人間の文明社会が行いうる最も不道徳で、許しがたい行為だ。二つのことのこの馬鹿馬鹿しさが分かるか? あなたはこれ[殺すこと]を非難する。[そして]動物を愛する。それは何のためなんだ?

そこにいる人間たちはどうなんだ? あなたは、彼らが自分にとって脅威だからというだけの理由で、彼らを殺し、虐殺している。いつか彼らが、あなたの持っているものをすべて奪ってしまうと思っている。だから、そういう人たちがやって来て、自分の持っているものを全部奪うことを予想して、あなたは自分の信念の名のもとに、何の神様だか知らないものの名のもとに、彼らを虐殺する権利が自分にあると思っている。それが、宗教が始まった当初からやってきたことだ。

では、そうした宗教をすべて復活させることに、何の意味がある? この国々にやって来て、自分たち自身の生活でも、彼らの出身国でも機能していないようなことを説いて回る、あれほど大勢のグルたちに、いったい何の意味がある? 彼らはいつでも、生命の一体性や生命の統一について語ることができる。だが、それは彼ら自身の生活の中では機能していない。それが何を意味する? あなたは、自分が生き延びるために必要な、ごく単純なことを非難する。それは非常に道徳的な行為だ。生き延びないこと、自分自身を養わないことこそ、倒錯した行為なのだ。

苦しみは、キリスト教全体がその上に築かれている土台だ。そこを忘れてはいけない。だからあなたは、天国――存在しない天国だ――に永久の席を得ることを願って苦しむ。今この地獄を通り抜けながら、死んだ後に天国へ到達することを願っている。何のために? だから苦しめ、と。すべての宗教がそれを強調している。苦痛に耐えよ、苦痛を耐え忍ぶことが手段なのだ、と。人生の終わりに、あるいはそれを信じたいのなら、何度もの生の連鎖の終わりに、楽園を得ることを願って、あなたは地獄を通り抜ける。私はただ、こうしたことを語ることの馬鹿馬鹿しさを指摘しているだけだ。追い詰められたときには、宗教的な[教え]など何の意味もない。そのときあなたは、ほかの誰とまったく同じように振る舞うだろう。だから、この文化も、あなたの価値観も、宗教的なものであれ、そうでないものであれ、そこには少しも届いていない。

もし人間が、この道徳的なジレンマから解放されたなら――それこそが、人間の思考全体の基礎となってきたものなのだが――人間は人間らしく生きるだろう。精神的な人間としてではない。宗教的な人間としてでもない。宗教的な人間は社会にとって何の役にも立たない。親切な人間は社会にとって脅威なのだ。親切であることを一つの芸術として実践している人間はね。

Q: ……脅威なのですか?

U.G.: [彼は]社会にとって脅威なのだ。なぜなら、あらゆる破壊は彼ら[宗教の教師たち]から生まれてきたからだ。愛について語る者、「汝の隣人を汝自身のように愛せよ」と語る者、非暴力について語る者。そうした人間の思考から、あらゆる破壊的な力が生まれてきた。だから、私たちはみな、その文化を受け継いでいる。私たちには、それ以外のことをすることなどできない。[こうした教師たちを拒絶すれば]あなたは、この重荷から、この文化全体の偽りから解放される。それだけのことを私は言っている。個人として、私たちに押しつけられてきたあらゆる不条理の総体から解放される。それだけのことを私は言っている。

Q: 私は、たとえばイエスのような人が――キリスト教でも、教会でもなく――実在の人物だったということを受け入れられません。

U.G.: あなたには受け入れられない。分かっている。なぜ彼らは彼を十字架につけ、釘で打ちつけて殺したのか? 彼は彼らの社会にとって脅威だったからだ。

Q: 彼らは一人の人間を神にしてしまった。私はそれには同意しません。

U.G.: 普通の人間でさえなかった。なぜなら、彼は、その後キリスト教の教条的な教え全体がそこから生まれることになるような発言をしたからだ。もちろんだ。それは、あらゆる教師に当てはまる。私はイエスだけを非難しているのではない。すべての教師――ブッダ、ムハンマド――人類の偉大な宗教教師だと私たちが考えているすべての教師に当てはまる。ましてや、今日、市場で聖なる商売をしている連中など言うまでもない。私たちは、そんなことを問題にしているのではない。いずれにせよ、彼らを責めても何の意味もない。

だから、私たちはここにいる。私たちはみな、その暴力的な文化を受け継いでいる。だから、あなたの文化とは、人間に殺し方と殺され方を教えること以外の何ものでもない。それが宗教の名においてであろうと、政治的イデオロギーの名においてであろうと、愛国心の名においてであろうと、あるいはあなたが望むどんな名においてであろうと。違ったものになることはできない。だから私は、このすべてが人間の完全な絶滅へ向かう方向に動いている、と言ったのだ。そうしたものが、どんな力をもってしても止めることのできない破壊の力を動き始めさせてしまった。

Q: ええ。どんな力をもってしても。