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2024/02/02

ジル・ボルト・テイラー(TED Talks)


とても興味ぶかいTED Talksを見つけました。日本語字幕版の貼り付けができないので、日本語字幕で見る人はこちらで見てください。→日本語字幕付き

脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、自宅で左脳に脳卒中を起こし、体の自由が失われて体の感覚が消えていきました。体と外部との境界が消え、文字が読めなくなり、言葉を発することができなくなるさ中、宇宙との一体感、至福、ニルバーナ(極楽)を経験します。そしてその状態が手術までの二週間続いたそうです。その境地は、多幸感に満ちた平安、思いやりの境地だったと言います。
救急搬送されて一命をとりとめ、手術を受けますが、左脳の機能が完全に回復するのに8年かかったそうです。

彼女が今もその状態に入ることができるのかはわかりません。左脳の働きを人為的に停止させて、右脳だけの状態になることは、おそらく不可能ではないかと思います。もちろんその状態がエンライトメントではないし、そうした状態を求めることに意味はないと思います。そんな状態になったにもかかわらず、それを見ていた意識はしっかりとあったということに驚きました。つまり、言語や体の自由を奪われても、それを見ている意識があるということです。
 人間の脳、とくに右脳はもともと「私たち」は一つのものだということを知っているのではないかと思いました。

ジル・ボルト・テイラーの本は日本でも出版されています。また読んだら紹介したいと思います。

2022/07/14

時間の終わりまで・すごい物理学講義

先日、高木悠鼓さんのブログ、シンプル道の日々(2022年6月30日)を読んだところ、「時間の終わりまで」という本を読んだ感想が書かれていました。

内容は高木さんのブログで読んでいただきたいのですが、そのブログを読む限り、書かれていることは非二元で言われていることそのものであり、物理学者がそんなことを書いているならぜひ読まなくてはいけないと思い、図書館で借りて読んでみました。

時間の終りまで ブライアン・グリーン

ところが、まったく読み進めることができませんでした。二章の途中で投げ出した。全く理解できないばかりか、読むこと自体が拷問のような文体に感じた。私は賢い方ではないが、馬鹿というわけでもなく、まあまあ普通の理解力はあると思ってたが、かなり馬鹿なのかもしれないと思った。

私にできることは、高木悠鼓さんのブログを通して、だいたいこういうことが書いてあるのだなと推測することだけ。くやしい。

すごい物理学講義 カルロ・ロヴェッリ

以前、丸善で「時間は存在しない」という本を立ち読みした。興味ある題だったので買おうか迷ったが、立ち読みした範囲では、難しくて歯が立たない感じだったのでやめた。地元の図書館には置いてない。そこで同じ著者が書いた、もっとやさしい本はないかと図書館で探したところ、この本があった。この本の目次にも、「時間は存在しない」という箇所がある。

読んでみると、この本の文章そのものは読みやすく、読むことは可能でした。でも、内容がよく理解できない。なんとなく理解できるが、半分まで読んだところで挫折。時間は存在しないというところまでたどりつけなかった。いまや科学は量子力学を超えて、量子重力理論の時代で、それによれば、世界は共変的量子場というたった一つの素材からできているという。

この二冊を手に取って思ったのは、物理学では非二元の教え(時間は存在しない・私はいない・世界は幻想である)を裏付ける一歩手前まで来ているのではないかということ。でも、その説明を理解できないというのが悲しい。そのうち誰かがYouTubeでやさしく説明してくれるのではないかと期待しています。

でも、セイラーボブの説明で納得しているんだから、科学の裏付けがなくても、まあ、いいか。

2022/07/13

マインド・タイム

 マインド・タイム ベンジャミン・リベット 下條信輔/安納玲奈[訳]

脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳 をブログに書いた時、リベット博士の実験が出てきた。そこで、リベット博士の実験を詳しく知りたいと思い、この本を読みました。読みましたというより、字面を追いましたと言った方が正確かもしれません。


というのも、難しくて途中から理解できないところがあちこちに出てきたからです。
お手上げといった方がいいと思います。でも、まったく何も書かないよりは書いた方がいいだろうということで、少しだけ書いておきます。

この本でリベットが言っていること
①人間の脳は0.5秒遅れて物事を感知している。
 患者の脳のある部分(一次体性感覚野の表面)に電極を設置して、そこへ電気刺激を与えます。その部分は、体の対応する部分の情報が送られてくる場所なので、そこを刺激すると、体の対応した場所がチクチクするそうです。そこへ電気刺激を与え続け、患者が何秒後に体の反応を感じるかを測定します。すると、0.5秒間刺激を与えると、やっと反応を感じるそうです。そのことから、人間は刺激を受けてから、0.5秒後にやっとそれを感じているのだといいます。ところが、意識はその0.5秒の遅れをなかったことにして、0.5秒前にずらして、刺激を受けた時に刺激を感じたように調整しているのだそうです。

②リベットの実験
 実験そのものは、YouTube「人間に自由意志はあるのか」の2:00~5:00、もしくは前野隆司さんのYouTube「意識は幻想か?」の33:00~43:00を見てもらえばわかります。(数字的に多少違う部分もあるが、おおむね本の内容に沿っています)
簡単にまとめると、人間の行動は、「脳が指を動かす指令を出す→指を動かそうと思う→指を動かす」という順にやっていて、指を動かそうと思う前に筋肉が動き始めているのだそうです。言うなれば、無意識の方が先に行動を始めているということ。
具体的には、指を動かそうと思うのは、実際に指が動く0.2秒前で、指を動かせと脳が指令を出すのは実際に指が動く0.55秒前というのが実験結果です。要するに、指を動かそうと思う0.35秒前に、脳から指を動かせという指令が出ている。そこで、人間には自由意志がないのではという話になる。

③人間に自由意志はあるのか
 これが私が一番知りたかった点ですが、リベットは自由意思があると言っているのか、ないと言ってのか読み取ることができませんでした。いったん決めた行動を途中で取り消すだけの時間はあり、自由意思はあると言っているようにも思えますが、そのあたりが読み取れませんでした。

④翻訳した下條さんは自由意思があると思っているのかないのか
 これがまた読み取れない。解説で下條さん個人の見解を述べてみえるので、正確に引用させていただきます。
p324から

 なお、わたし自身の立場は、「自由意志は、真正のイリュージョン」というものだ。この「真正」にポイントがあり、「自由意志はリアルで実体がある。ただし、他の知覚・認知と同等の身分で」というのと、ほぼ同じ主張だ。また神経科学的還元論・決定論がどんなに進んでも、自由意志(センス・オブ・エージェンシー)は消えない、と論じた(詳しく下條(2014年)参照)。

この本は途中まで読んでわからなくなったので、また最初から読んで、またわからなくなったのですが、とりあえあずわからないまま最後まで読みました。これは翻訳が悪いのではなく、リベットが素人にもわかるように書いていないというのが問題ではないかと思います。使ってある用語がよくわからないし、何が言いたいのかもよくわからない。ゆっくり何回も読めばわかるかというと、そうとも思えないないので、この本はお蔵入りさせます。

2022.12.12追記
カットは、彼女の著書SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityの中(書籍版p273,R-Rationality)で、リベットの実験について触れています。

2022/07/06

視覚の冒険  サブリミナル・マインド  サブリミナル・インパクト

以前こブログで書いた「人は自己を変えることができるのか」(円覚寺の横田南嶺老師の法話)の中で、佐々木閑先生の話を紹介して、最後に無我ということは、今日の脳科学でも証明されていると教えてくださいました。下條信輔先生の説を紹介して、「私」という固まった確固としたものはないというのであります。例えば、記憶というものを積み重ねることによって、私たちは自分というものを形成していますが、記憶というのはほとんど後付けでできているというのです。自分の都合のよいように作り変えているのだそうです。これという固まった自我がないことは脳科学でも実証されているということでありました。」と言ってみえたので、下條信輔さんの本を読んでみました。

結論から言うと、佐々木閑先生の話に出てきたような説が書いてある下條さんの本はを見つけることができませんでした。「私は幻想である」や「世界が幻想」であるというような話もありませんでした。下條信輔先生は知覚心理学、認知神経科学の研究者であり、カリフォルニア工科大学生物学部の教授です。わかりやすく言うと、脳が物をどういうふうに認識しているかを研究してみえる方です。

非二元の参考になるようなことがあるのかと思って読んだのですが、残念ながら、非二元と関連づけるにはちょっと無理がある内容の本ばかりでした。どれもみな学術的な本であり、読むのに骨が折れる内容ばかりです。三冊に共通して言えることは、私たちの脳は、顕在的に私たちが知っている知識や物事だけでなく、潜在的な部分があって、それに基づいて知らず知らずのうちに物事を判断しているという内容でした。それを無我と関連づけるのはちょっと無理でした。

視覚の冒険 下條信輔
物の見え方に関する研究の本。人間の脳は、実際に目で見ている情報以上にいろんなものを補ってもの見ているということを、様々な図形、実験で示している。

サブリミナル・マインド 下條信輔
人間が物事を認識したり判断する場合に、顕在的な意識でものごとを判断していると思っているが、実はそうではなく、多くの場合、潜在的な意識で判断をしていて、あとから理由付けをしているということを様々な実験から説明している。ただ、その実験の説明が難しくてよく理解できない。

サブリミナル・インパクト 下條信輔
潜在的な認知の能力が人間の行動に影響与えている。コマーシャルや報道がいかに潜在的な認知に訴える手法で行われているかなどを説明してある。

まだ読んでない本として、「意識とは何だろうか」があるのですが、アマゾンの試し読みで読むかぎりでは、どうも非二元と関連なさそうなので食指が動いていません。佐々木先生の話の出典となる本があればまたこのブログで書きたいと思います。

2022/07/01

「死ぬのが怖い」とはどういうことか

「死ぬのが怖い」とはどういうことか 前野隆司

この本は改定版として、霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか があります。私が読んだのは旧版の方です。
脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳 を読んだあとで、セツさんからおたよりをいただいたので、私も『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』を読みました。

この本は、「脳はなぜ「心」を作ったか 「私」の謎を解く受動意識仮説」「錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった」に書いてあることを根拠として、「死は存在しない、死は恐れるに足りない」ということを7つのルートから説明してあります。そのルートの概略は、霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか  の「試し読み」で読めるので、興味のある方は読んでみてください。

本の最初にインターネット上のアンケートのデータがあって、「死後の世界は存在すると思いますか?」と聞いたところ、女性は43%、男性は27%が死後の世界はあると思うと答えたそうです。これにはちょっと驚きました。もっと多くの人が死後の世界があると思っていると思っていたのですが、案外少ない。

セイラーボブに会う前は、死後の世界があると思っていました。人は何度も何度も生まれ変わって、悟りをえるまでは生死を繰り返すのだと思っていました。
そしてまた、全体の三割の人が「死ぬのが怖くない」と答えています。これも驚きです。私などは怖くて怖くてどうしようもなかったのに。

本の紹介のため、引用させていただきます。

******

p120
場当たり的に生きるか、先に知性を使うか
 皆さんは、どちらを選びますか?
 一つ目は、普段は死について考えないようにはしているが、漠然とした死への恐れを感じ続けていて、死期が迫ったときに、はじめて、キューブラー・ロスがいうように、衝撃、否認、怒り、取引、抑鬱、受容という激しい心の変化を体験する生き方。
 すなわち、本能にドライブされた、場当たり的な生き方。
 もう一つは、早いうちに死について徹底的に考え抜き、その結果として、あらかじめいつか来る死を受け入れ、つまり、覚悟がすでにできていて、実際に死が近づいたときに取り乱さずに凛として死んでいく、という生き方。
 すなわち、知性と俯瞰力をフル活用した生き方。
 前者のほうがいい、という「将来のリスク割引主義」ないしは「後回し思考」の人も少なくないのかもしれない。神にすべてをゆだねる西洋的ないし一神教的生き方は前者の一種だという見方もできるかもしれない。
 僕は、後者がいい。
 死ぬ直前になって、死ぬとはどういうことなのかと、悩み、答えが見つけられなくて、苦しみ、悲しみ、鬱状態になり、最後には疲れきってあきらめにも似た「受容」に至るよりも、あらかじめ死とはどういうことなのかをはっきりと理解し、死の悲しみや苦しみを超越し、悩まず苦しまずに超然と死んでゆきたい。
 もちろん、読者の方にも、そうなっていただきたい。だから、本書を書いているのだ。
 僕が立脚するのは、「今自分が生きていると思っているこの自分の心は実は幻想だ」ということを徹底的に理解すれば、生きていても、もはや死んでいるのと大差ないのだから死は怖くない、という論理だ。この考え方は、一部の人にとっては当然かもしれないし、一部の人にとっては突飛すぎて受け入れられないのかもしれない。
 皆さんは、どちらだろうか。
 あなたが、ご理解いただける側に入っておられるといいのだが。
 以下では、どうすれば死の怖さを超越できるか、僕の考えを述べる。

p134
お前はすでに死んでいる!
 つまり、心はあたかもあるかのように感じられる。だから、これが失われる「死」はいやだと感じる。しかし、本当は、心などないのだ。あるように感じているだけなのだ。だから、これが失われたって、何も減らない。もともと何もないのだから。
 昔、主人公が敵に、「お前はもう死んでいる」あるいは「お前はすでに死んでいる」という漫画があった。必殺技をかけた結果、敵はダメージを受けているのだが、技があまりに鮮やかなので、敵は、ダメージにすぐには気づかない。そういう設定だった。
 人間は、これに近い。僕たちはすでに死んでいるのと同じことなのだ。もちろん、技をかけられたからではなく、生まれつき、そうなのだ。はじめから、心などない。ところが、あまりにも生き生きとしたクオリアを脳が作り出すから、僕たちはこの幻想を事実だと思い込んでしまいがちだ。そういうことだ。そういうことに過ぎない。
 これが僕の解釈だ。これをご理解いただければ、死は怖くない。なにしろ、あらかじめ、僕たちは、死んでいるのだから。おめでたいことに、最初から、生きていると勘違いしているに過ぎないのだから。つまり、ロボットを同じなのだから。
 僕たちは、痛いとか、赤い色だとか、死ぬのが怖いだとか、そんなクオリアを感じる。ここがロボットと違うところだと言われている。
 最先端のロボットも、痛いとか、赤い色だとか、死ぬのが怖いとか、人間と同じように、一丁前に感じているふりをする。しかし、本当は感じていない。コンピュータープログラムが、あたいもそう感じているかのように振る舞わせているに過ぎないのだ。
 実は、人間も同じだ。
 痛いとか、赤い色だとか、死ぬのが怖いとか、一丁前に感じるように実感する。しかし、それは幻想だ。脳の神経回路(ニューラルネットワーク)が、あたかもそう感じているかのように幻想させているに過ぎないのだ。
 そんな幻想機能を、脳が進化的に獲得したから、人はそう感じているにすぎないのだ。

*******

私は、前野さんの説明に基本的には賛成で納得もしています。でも、この本を読んだ人全員が納得するかというと、どうでしょうか。現に、前野さんによると、これを読んで納得する人は全体の三分の一程度だそうです。非二元に触れたことがない人が、すんなり前野さんの言われることを理解するのは難しい気がします。

ちなみに、前野さんの本の内容を、非二元にはまったく興味のない友人にかいつまんで説明したのですが、まったく理解してもらえず、白い目で見られました。

私の場合、すでに非二元で、これと同じことを学んでいて、初めて聞く話ではないので理解できるのですが、そうでない人が理解できるのかを公平に判断することができません。7つのルートのいくつかの説明は、私がこのブログで書いたことと同じ内容に思えます。

どのルートの説明も、おおむね賛同できるものですが、科学的な説明かどうかという視点で見ると、科学的なのは、「リベットの実験」をもとにした最初のルートだけのように思われます。そこで私はリベットの実験を詳しく理解したいと思い、「マインドタイム」ベンジャミン・リベット著/下條信輔訳 を読んでいます。

ところがこれが難しい。ちゃんと理解できるのか、最後まで読み通せるのか、よくわからない。それと、図書館で借りた下條信輔さんの本が何冊かあって、そっちも読みたい。貸出期限のある下條さんの本を先に読んでから、あとでゆっくりマインドタイムを読もうと思っています。

マインドタイムに書いてあるリベットの実験の説明で、YouTubeで一番わかりやすかったのは以下のYouTube(2:00~5:00の部分)ですが、本の内容はもっと多岐にわたり、自由意志があるのかないのかといったことまで書いてあります。

2022/06/15

脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳

脳はなぜ「心」を作ったか 「私」の謎を解く受動意識仮説 前野隆司

YouTubeで前野さんの受動意識仮説を知り、興味がわいたので読んでみました。前野さんはロボットを専門としていた工学博士。
前野さんがYouTubeで言っていることは、私たちは意思よりも先に行動をしているということ。例えば、指を動かそうと思って動かす時、「指を動かそうと思う→指を動かす指令を出す→指を動かす」とい順番で行動していると考えていますが、実験によると(リベット博士の実験)、「指を動かす指令を出す→指を動かそうと思う→指を動かす」という順にやっているのだそうです。つまり、人間は行動したあとで、それを後から自分がやったように思っているだけ。要するに、自分がやっているというのは幻想だと言うのです。それで、それは非二元と何か関連があるのではないかと思い、本を読んでみました。内容はYouTube(意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説)で語っていることと同じなので、YouTubeを見てもらった方が手っ取り早いと思います。

本の内容を私なりにまとめると、
①私たちが見ている世界は目で見ているのではなく、脳内で再現された世界を見ている。
②私たちが「私」だと思っている私は錯覚であり、存在しない。
③意識(心)は脳が作り出したものであり、幻想である。

内容を補足説明すると、
①は私が唯識のところで書いたこととほぼ同じで、私たちの見ているのはヴァーチャルリアリティだということ。
②は、私たちの行動をやっているのは脳内の小人(神経細胞あるいは潜在意識、無意識)であり、「私」ではない。「私」はその小人たちがやったことを後付けで「私」がやったと錯覚しているだけ。
③意識は、起こっていることをコントロールしているのではなく、起こっていることを見ているにすぎない。出来事を受動的に観察しているにすぎないので、これを「受動意識仮説」という。(セイラーボブの言う、マインドは翻訳者という発想に似ている。前野さんの使う「意識」という言葉は「思考」と考えた方がわかりやすい。)

YouTubeで前野さんは、仏陀が発見した無我を、科学者として再発見したと言っています。前野さんは、意識(心)は幻想である、と言ってみえますが、世界が幻想だとまでは言ってない。でも、意識がなければ世界を認識しようもないので、世界がないと言っているのに近い。

「『私』も『世界』も錯覚である」、というところまでは納得できる。大きな疑問は、ではその脳内の小人を動かしているものは何なのかということ。この問い方自体が間違いなのだと佐々木閑先生は言われるので、言い方を変えると、意識とは何なのか? その背後には何があるのか? それに対する答えはこの本には書かれていない。ただ、セイラーボブの「知性エネルギー」や「アウエアネス」も言葉では説明できないものなので、仮にそれを「脳内の小人・潜在意識・無意識」というのもありだと思います。そう解釈すると、これはセイラーボブの言っていることと同じと言えると思います。科学者がこういうことを言うのには少し驚いたと同時にすばらしいと思います。内容的には仏教や非二元で遥か昔から言われていることと変わりません。この本を読んで、非二元や仏教で言っていることに科学がやっと追いついてきつつあるという印象を持ちました。是非読むべき本だと思います。

錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった 前野隆司

前著では「心は脳が作り上げた幻想である」ということが書かれていましたが、この本では、私たちの五感も幻想であるということを、五感それぞれについて説明しています。
例えば、色彩。自然界には色彩はない。色は何かというと、光の電磁波。その電磁波を人間の目が受け取り、脳に伝え、脳の中で色へと変換している。

そのため、もし地球に人間がいなかったら、色はない。もっと極端なことを言うと、目を持つ生物が地球に現れる以前は、地球上には電磁波があっただけで、青い海も赤いマグマも丸い地球もなかった。私たちは、色によって山や海を認識しているので、色が無かったらそこには電磁波があるだけ。電磁波だけの世界を想像することはできないが、何もない世界。

また、触覚。手には、センサーがあるだけで、それを認識する機能はない。でも私たちは何かを掴んだ時に、そこに物があるように認識する。それは、脳が作り出したイリュージョンなのだという。もっと極端な例は、手や足を失くした人が、そこにはあるはずのない手や足の痛みを感じるという例があるという。

そして聴覚。私たちは、音の波調を鼓膜で感受して脳で認識している。でも実際には、例えば遠くで救急車のサイレンの音がしていると、遠くのサイレンの音として認識する。実際には耳で感知しているはずなのに、脳が勝手に距離というイリュージョンを作って、音が遠くにあるように思わせている。

そうした説明を五感それぞれ順に説明していき、五感で感じるものはもともと自然界にはないものであり、すべて脳の作り出した幻想なのだという。

「私」も脳が作り出した幻想(イリュージョン)なのだという。そのため、「私」はもともと生まれてはいない。前野さんは、そう考えるようになってから、死は存在しないとわかり、恐ろしくなくなったという。このあたりの話はまったく非二元的でおもしろかった。

そこから話は仏陀や悟りの話となり、前野さんの言っていることは仏陀の悟りと同じではないかという。そして、前野さんは、意識が作り出した世界が幻想だと知って、最初はがっかりしたという。その後前野さんは、世界がイリュージョンなら、イリュージョンを楽しもうという方向へ向かう。以下p237から転載。

生というイリュージョンの過ごし方
 では、現代人は、イリュージョンである私たち自身の心と、どのように折り合いをつけて生きていくべきなのだろうか。
 それは、既に何度も述べたように、心も欲も真善美も実在すると考えることから出発し、既得権益をごりごりと守ろうとするのではなく、もともと何もないはずのところに心や物が今あるように思えているという奇跡的な「儲けもの」のイリュージョンを静かに楽しもう、という生き方だ。釈迦のいう在家の人の生き方がちょうどこれに近い。

 しつこいようだが、もう一度言おう。
 心のクオリア(拓注記:生きているという質感といった意味)が確固として存在すると考えようとするから、死ぬのはいや、という気持ちになるのだ。そうではなく、もともと何もないのだし、たまたま、意識というイリュージョンを堪能できる、人間という生物の意識として生まれ出てきたことに感謝しようではないか。イリュージョンを感じられるうちに大いに楽しもう。所詮はかないイリュージョンなのだから、脳が停止したらイリュージョンも停止するのは仕方がない。また、何もない状態に戻るだけだ。眠るのと大差ない。「永眠」とはよくいったものだ。
 しがみつくほど確実なものなど世の中にどこにもないのだから、イリュージョンを楽しむしかない。

もちろん、私たちが生命として生きる規範はもともと何もないのだから、自分でデザインするしかない。人生をどうデザインしても無に帰す事をわかった上で、やはりデザインするしかないのだ。
 どうせ無に帰するのだからむなしい、と感じる方もおられるかもしれないが、もともと無だったところに新たなデザインをしてみるささやかな楽しみだ、と思えばクリエイティブだ。
 はかない人生なのだから、やりたいようにやるしかない。
 といっても、自暴自棄はいけない。

 人生のデザインは、数十年間陳腐化せずに持続するものであるべきだろう。ささやかとはいえ、死ぬまで数十年というそれなりの期間、ハッピーでいるに越したことはないので、現在と未来をハッピーにするデザインであったほうがいい。

前野さんは現在、幸福学なるものを研究されていて、どうしたら幸福でいられるかという研究をしてみえます。興味のある方は文末の参照欄を参照してください。

昨日の動画の中で、佐々木閑先生は、「(この世は)子供が海辺で砂の城を作って遊んでいるようなもの。それが遊びだとわかっていて遊んでいる」という趣旨のことを言ってみえるという話がありました。前野さんも佐々木さんも同じようなことを言ってみえると思います。世界も「私」も幻想なのだからと悲観的になるのではなく、どうせ幻想なのだから深刻にならずに楽しんで生きていこうと言ってみえるような気がします。

非二元の人たちと同じように、科学の分野で、「私は実在ではない」と言っている人が他にもたくさんいると知りました。今後はそういう人たちの本を読んでいこうと思っています。

参考動画 

前野隆司の著書『錯覚する脳』(筑摩書房)の解説動画

前野隆司の著書『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか』(技術評論社)の解説動画

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?」は絶版になっている上、中古本は高価になっていますが、前野さんのブログpdfがあり(第五章以外)、それで読むことが可能です。内容は宗教や哲学の話にまで及び、なかなか容易には理解できない部分があって、ざっと目を通しただけなのですが、この本の解説のYouTubeを見れば、前野さんの言いたいことは、十分わかります。

脳はなぜ「心」を作ったのか(2020年4月30日 第1回 前野隆司著作について著者と語る会)

意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説(リベットの実験の説明あり)

参考 前野隆司Wikipedia

   前野隆司著作

   前野さんのブログ

   pdf・脳の中の「私」はなぜ見つからないのか

2022/06/09

自由意思はあるのか?

この話はおもしろいです。途中で、人間は意思によって行動しているのではなく、意思よりも先に行動をやっているという話が出てきます。

たとえば、指を動かそうと思って動かす時、私たちは、「指を動かそうと思う→指を動かす指令を出す→指を動かす」という順で行動していると考えていますが、実験して調べてみると、「指を動かす指令を出す→指を動かそうと思う→指を動かす」という順にやっているのだそうです。それを脳が、あたかも最初に指を動かそうと思ったように錯覚させているのだそうです。

後半では、受動意識仮説は釈迦の無我と同じだという話や、老子・荘子の「すべては一つ」と同じではないかとう話がでてきます。つまり、釈迦や老子が何千年も前に発見したことを、前野さんは自分で再発見したと言うのです。

意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説

参考 前野隆司Wikipedia

   前野隆司著作

2022/04/07

動的平衡・動的平衡2

 動的平衡 福岡伸一

この本に興味を持ったのは、仏教のことをブログに書いている時に見た「大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界」の中の福岡伸一さんの話に興味を持ったため。私のブログでは「初期仏教 無我・五蘊(ごうん)」のところの参考サイトとして掲載。

この本はとても難しい本でした。内容を一言で説明するのは無理ですが、簡単に言うと、「生命というのは機械ではなく、一種の流れである」「生命は動的なもので、その要素は絶え間なく変化しつつ平衡を保っている(動的平衡)」ということです。これを読んでいると、そこには個体としての生命があるのではなく、絶えず変化している何かがあるということがわかります。

この考え方は仏教でいう五蘊の考え方に近いということで、大谷大学がフォーラムに招いたものと思われます。興味のある方は「大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界」の5:00~26:00あたりを見てもらうと、要点だけはわかります。

動的平衡2 福岡伸一
あいかわらず難しい内容だった。一つ一つの内容は興味ある話だけど、結局なんだかよくわからない。生命とか人間とかに関しては、肝心なことは何一つわかっていないということはわかった。

2022/04/04

動的平衡・第5回親鸞フォーラム

 大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界

5:00~26:00 福岡伸一氏の講演「生命というのは機械ではなく、一種の流れである」「生命は動的なもので、その要素は絶え間なく変化しつつ平衡を保っている(動的平衡)」

2022/01/15

唯識③ 量子力学

私が読んだ唯識の本では、物が存在するかどうかという話をする時に、量子力学の話が出てきました。

量子とは何か?

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。光を粒子としてみたときの光子やニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子に含まれます。
 量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界です。このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、「量子力学」というとても不思議な法則に従っています。(文部科学省HPより)

要するに、原子やそれを構成する粒子のことですね。このブログの中では、その粒子の間は大きな空間である話や、粒子の中には質量がないものがあるということを書いたことがあります。

私が読んだ唯識の本ではどういうふうに書かれているかを抜粋させていただきます。

 物とはなにかという存在観を根底から変えた二つの科学的発見・発達が二十世紀にありました。それは「相対性原理」の発見と「量子力学」の発達でした。
 前者の相対性原理の発見によって、絶対時間と絶対空間はない、時空は四次元時空として存在するということがわかりました。
 後者の量子力学の発達によって、分子・原子ないし素粒子などから構成される「物」のありようがこれまでの物質観、広くは存在観を根底から覆しました。
 量子力学の発達によってミクロの世界での物のありようがマクロの世界でのありようとまったく異なるという事実が発見されたのです。すなわち量子力学によれば、物質を構成する究極の粒子すなわち素粒子は、ある大きさを持った粒子として存在するのではないという結論に達しました。しかもその存在のありようは、私たち観察する側の心のありようによって左右されるという事実も発見されました。
 量子力学のミクロの世界の解明によって次のような事実が発見されました。すなわち、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」という事実が解明されたのです。ニュートンまでの古典力学によれば、私たちは、これまで自分の前にある物、広くは存在のありようを、それから抜け出て、「それを客観的に対象として近くしている観察者」であると考えられていましたが、量子力学によれば、そうではなく、「その存在といわば[一つのセット]の中にある関与者である」という事実が判明したのです。
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p116より

 しかし、ほんとうにそのような「物」が、そして「物」を構成している原子・分子が、外界に厳として存在するのでしょうか。
 この問いに対して、古くは仏教の唯識思想、新しくは現代の量子力学、この二つがノーと答え、いずれも外界には私たちが考えるような「ある大きさを持った粒子」としての原子・分子は存在しないという結論に達したのです。
唯識の思想 (講談社学術文庫) p182より

 物質的存在は、ふつう分割、分解していくことができます。ですから、具体的な物質的存在に実体を求める場合、大体、原子論、それ以上は分割できない究極の存在に実体を求めようとすることになるわけです。今日、果たしてそれは、見出されているのでしょうか。近年、クォークの存在が立証されたというニュースが新聞にのりました。原子をさらに構成する素粒子の究極の物質と目されるものです。しかし、そのあり方は、実体としてあるのかどうかは、問題でしょう。
 物理学の方では、究極の存在が、一方では粒子としてとらえらるものの一方では波動としてとらえられるとか、その他様々な考え方があるようです。
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズムp69より

本に出てくるこれらの表現、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」、「ある大きさを持った粒子としての原子・分子は存在しないという結論に達したのです」、「物理学の方では、究極の存在が、一方では粒子としてとらえらるものの一方では波動としてとらえられる」。こうした表現の意味が、よくわかりませんでした。
そこで、YouTubeで量子力学に関するものをいくつか見ました。

内容を全部理解できたわけではないのですが、言っていることの意味自体はだいたい理解できました。量子は人が観察(測定)するまでは波のような存在であり、位置や速度を特定できないというのです。人が観察したとたんに位置または速度が特定できるのだそうです。つまり、人が観察していなかったら、量子は何だかはっきりしない波のようなものだというのです。

物として見えている物を構成する微細な量子は、私たちが注意を向けるまではそこに存在しないというのです。もっと正確に言うなら、どこかに存在するかもしれないが、その場所を特定することはできないというのです。驚きました。

量子力学が仏教の教えを証明しつつあります。私たちが考えているような物質はないのだということを証明するところまできています。




参考文献

2021/11/13

物は実在か?

セイラーボブは、「物は実在ではない」と言いました。その理由を列挙すると、だいたい以下のようなものでした。

1 「実在」の定義は、「永遠に変化しないもの」であり、永遠に変化しないものなどない。どんなものでも、時とともに形を変え、やがては消えていく(見えなくなる)。

2 現代の量子力学において、極微の粒子は質量を計測することもできないようなものであり、物が存在するとは言えない。私たちはスカスカの空間を見て物だと思っている。

3 物は言葉によって概念化されたものであり、実在とは言えない。

では、仏教では物の実在についてはどう言っているのかというと、上記の三つと同じようなことを言います。それは、時代によって、様々に変化する仏教の中で、いろんな説かれ方をします。

釈尊の直接の教えである初期仏教では、五蘊(ごうん)が説かれ、それによって、「私」というものは要素の集まりにすぎないと説明されました。それがのちに「私」だけではなく、あらゆる物がそうであると説かれるようになりました。

そして、あらゆる物も要素の集まりであり、物としては存在するけれども、永遠に変化しないものではなく、時とともに変化して消えていくため、実在ではないと説きます。これは諸行無常と言われ、上記の 1 と同じことを言っています。

この時点での仏教では、物は存在するけれども、実在ではないという解釈です。ここまでは、これまでのブログで書きました。やがて仏教は時代とともに変化していき、大乗仏教にいたっては、物は存在しない。一切は空(くう)であるという空の理論へと変化していきます。

その変化した仏教について書く前に、一般論として、私たちがどういうふうに物を認識しているのかについて考えてみます。これは、唯識の本を読むと出てくる話で、これから書く内容は、そういう本をもとにして書いています。

私たちが物を視覚によって認識する場合、どういうしくみで認識するのか考えてみます。

例えば、台所のテーブルの上に一個のレモンがあったとします。それを私たちが見た時、そのレモンに反射した光(電磁波の波長)が、眼の角膜、水晶体を通り、網膜へと届き、網膜上にレモンの像が映ります。

網膜には識別機能がないので、何らかの形で脳へと伝達されて、脳がレモンを識別しているとされています。しかし、レモンの像がそのまま脳に伝達されているわけではないようです。というのも、脳には像を映し出す装置がないからです。脳にはスクリーンもディスプレイもなく、神経、タンパク質、脂肪の塊です。

網膜から脳へは、像が映像として伝達されるのではなく、なんらかの形で信号化されて、神経経由で脳へ伝達され、脳はその信号を読み取って、何らかの形で、レモンという像を再生しているはずです。そして、脳はその像を見て、過去の学習体験と結びつけ、「あ、レモンだ」と思います。場合によっては、酸味が想起され、口の中に唾液が出てくるかもしれません。レモンが好きな人は、手に取ってかじってみようと思うかもしれません。

さてここで問題なのは、そのレモンが本当に存在していると言えるかということです。レモンに反射した光は信号に変えられて脳に届き、脳はその信号をレモンというものに作り替えて映像化します。その映像を脳がレモンだと認識しています。

つまり、私たちは、実際のレモンを見ているのではなく、脳の中で再生されたレモンを見て、過去の記憶に照らしてレモンだと認識しているということになります。仏教的に言うならば、心が作り出した像を心が見ているということになります。

言い方を変えると、私たちは心が作り出した世界を見ていることになり、心がなかったら世界は存在しないことになります。

何をバカなことを言っているんだ、実際にレモンがあるからレモンが見えているんだろ、と言われるかもしれません。

でも、例えばそのレモンをかじろうとして手に取って見たら、それがロウで作られた食品サンプルだったとわかったらどうですか? 「本当のレモンじゃないのか、ちぇ!」となります。つまり、本物のレモンを見てはおらず、脳の中で再生された架空のレモンを見ていたことになります。もし、直接そのレモンとおぼしき物を認識できていたなら、食品サンプルだとわかったはずです。

長野県の燕岳(つばくろだけ)の山小屋から、満天の星空を眺めて感動したことがあります。空を埋め尽くす星々は実在するのでしょうか? 私たちが肉眼で見ている星の光は、何万光年も昔に星から放たれた光を見ているのであって、今この瞬間の光ではありません。ひょっとすると、もう消滅して存在していない星を見ているのかもしれません。

私たちは、自分の外にあるものが実在であるかどうかを認識する機能を持っていません。脳の中で再生された像を見て判断しているにすぎません。言い方を変えると、世界は脳の中にある、脳の中にしかないということになります。

また、バカなことをいうな、と言われそうです。では触覚はどうなんだ。例えば、石は実在か。石を手に取ってみれば、手が石の肌触りを感じ、石の重さを感じるから、石は実在するではないかと言われるかもしれません。

でも、手が感じているのは、石に触れている肌触りと重さという情報にすぎません。それを石たらしめているのは、私たちの脳です。脳が肌触りと重さという信号を石だと認識しているにすぎません。正確な言い方をするなら、「私は私の手の感触、感じた重さを私の脳内の情報に照らしてみて、これは石だと推定しています」ということにすぎません。

私たちは、五感でしか世界を認識することができません。そして、五感で受け取った情報を脳で再構築して、それを認識しています。世界は脳の中にあるにすぎないということになりませんか? 世界は外側にちゃんとある、そう言っておかないと、病院に連れていかれるかもしれないので、世界が実在だということを否定はしません。でも、正確に言うなら、「私たちは世界を直接認識する方法、機能を持ち合わせていない。経験から、そこに世界があると思っている」ということになりませんか?

もし五感を失くしたら、どうやって世界を認識することができますか? そこに世界はあると、どうやって知ることができますか? 五感を使わずに世界を知るためには、体の外に出なくてはなりません。そんなことができる人がいるとは思えません。

確かにそこには何かがある。
でもその何かが単なるエネルギーや波動のようなもので、それを脳が再構築しているとしたらどうでしょう。

イルカやコウモリは人間が聞くことのできない超音波を聞くことができます。ボア科やニシキヘビ科の蛇は、人間が感知することができない赤外線を感知する器官を持っています。鳥や一部の昆虫は、人間には見えない紫外線を見ることができます。逆に、猫や犬は人間と違って、二色しか見えないと言われています。彼らは、私たちとは違う世界を見ています。

物は本当に実在するのでしょうか?
私たちは、それを確かめるすべを持ち合わせていません。
仏教は様々な説き方で、「物は実在ではない」と説いています。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム

2015/01/15

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑧

私たちが見ている万物は実体のないものである。(下)

ある日私はミーティングでボブに質問した。

「私たちが見ている物が実体のないものであるということがよくわかりません。今、エリザベス通りに建っているビルは実際にそこに建っているのでしょうか?それとも、それは私の意識の中にだけあって、私が朝起きた瞬間に現実となって現れ、私が眠ると消えるのでしょうか?私が眠っている間、そこにビルはあるのでしょうか?」

ボブは私の問いには直接答えず、いつもよく使う鏡の話で答えた。(ボブの家の部屋には、壁一面に大きな鏡がある)

「鏡を見てごらんなさい。その鏡を見ると、そこから向こうにもう一部屋あるように見えるでしょう。あなたの意識はその鏡のようなものです。あなたには、あたかもそこに椅子や壁掛けがあるように見えている。でもあなたはそれが鏡だということを知りません。でも実際は、すべてはその鏡に映っているものにすぎず、実際にはそこには何もないのです」

「鏡の例えはわかります。でも、エリザベス通りのビルはどうなんですか?」と私。

「あなたも時々夢を見るでしょう? その夢の中で、たくさんの建物が出てくる。そして朝、その夢から覚めると、その建物は消える。その建物が本当に存在したかどうか、あなたにわかりますか?それはどこにもありはしませんでした」とボブ。

夢の中では、夢の中の自分が基準点となって、あたかも夢が現実であるかのように見えている。夢から覚めると、その基準点が消え、すべてが消える。

私たちの見ている現実も同じで、私という基準点がなければ、すべては消える。ただ実際には体と思考があるために、体と思考が死ぬまでは現実という夢から覚めることはない。

ボブは、自分の話の本筋をそらさないように話すので、込み入った質問そのものには同調して答えず、例え話で答える時が多い。

「私は、エリザベス通りのビルが、私の寝ている間に消えているのかどうか知りたいのです」

すると、横に座っていたギルバートが言った。
「深い森の中で一本の大きな木が倒れたとする。そして、そこには人間が誰もいなかったとする。その場合、果たして木が倒れる音がするだろうか?」

あとで友人に教えてもらったのですが、これは哲学の授業などでよく使われる命題だそうです。

音というのは何かと突き詰めて考えると、それは空気の振動のバイブレーション。
もしそこに人間がいれば、人間の耳と脳はそのバイブレーションを(ドシーン)という音に変換して、木が倒れた音を認知する。

もしそこに、人間がいなければ、空気の振動はあったとしても、音はない。
エリザベス通りのビルは、私という人間の感覚器官を通して初めてビルとして認識される。

もし私がエリザベス通りのビルの前に建っていても、私が目を閉じた瞬間にビルは消え去り、そこにビルがあるのかどうかはわからない。
目を閉じたまま、手を伸ばしてビルに触れれば、触覚を通してビルは現れるが、手を放した瞬間にまたビルは消える。

木の倒れたあとの空気のバイブレーションを人間の耳と脳が(ドシーン)という音に変換しているように、単なるバイブレーションを人間の目と脳がビルに変換して見せているだけかもしれない。

人間が、すべての感覚器官を閉ざしたその時、そこにビルはあるのか?
人間の感覚器官を通してしか認知しえない物が、果たして実在していると言えるだろうか。
そして、それを認識している私という存在(基準点)がそもそも実在しないとすれば、その私が見ている万物は実体のないものなのではないか。

私は、万物が実体のないものであるということにどうしても納得がいかず、その後も内容を変えて何度も質問したが、科学的な説明はなく、納得できなかった。

ある日ボブに聞いた。
「万物がすべて実体のないものだということが、どうしても理解できません。科学的に説明していただけないでしょうか?」

するとボブは動ずる様子もなく、
「それは物理学者の仕事です」と言って笑ったあとで、体の例え話をした。

「あなたの五歳の時の体は今どこにありますか? すべての細胞は入れ替わり、他のエネルギーに姿を変えました。私たちが見ている物はすべて実体のないものです」

万物が実体のないものであるということを、誰かが科学的に証明する日が来ないことは容易に想像できる。私たちが見ている万物が実体のないものかどうかは、個人の理解にかかっている。

チベット仏教の最高の教えとされるゾクチェンでは、万物は空の中に現れているとされる。空の中に現れる物は空。私たちは幻影、すなわちマヤを見ているに過ぎないと言う。

人間の感覚器官を通してしか認知しえないものが、本当に存在していると言いきれるだろうか。

私の現実とは何かと言うと、私の意識(思考)が認識している世界だけが私の現実。その意識の外には現実は存在しない。私がビルを見た時、私の意識がビルをビルとして認識している。

私が夜ベッドに入って眠りに落ちると、私の意識は消える。そうすると、エリザベス通りのビルは私の意識から消える。つまり、私の現実から消える。

私が眠っている時、エリザベス通りのビルが建っているか消えているかというと、そこにビルは建っている。でもこの場合、ビルが建っているという視点は、その時点でまだ起きている誰かの視点から考えた場合であって、眠っている私の現実の世界では消えている。そういう意味でビルは幻影と言える。

私が眠っている間に、人に頼んで見に行ってもらえば、当然ビルは建っているし、中で守衛が働いている。でもそれは、見に行ってもらった人が認識した現実にすぎない。私の現実はというと、夢の中の、まったく別の現実を生きているか、深い眠りの中にいるかのどちらか。

朝、目が覚めると、突如として、私の現実の中へエリザベス通りのビルがまた現れる。そして歩いてそのビルの前へ行き、ビルを拳で殴ると、手が痛い。ところが、このビルも実は幻影。

私が、これがビルだと認識できるのは、生まれてから今までに、ビルというものを概念として学び、ビルというラベルを貼り記憶しているために、ビルと認識できる。もし、ビルというものを生まれて初めて見たなら、そこにある空や道路、すべての物のラベルを剥がして見たなら、それが何なのか認識できない。景色とビルの境界さえ定かではなくなり、幻影、実体のないものと化す。

また、私たちがビルだと思っている物質も、極微の世界では、そこには微粒子と広大な空間があるだけで、私たちが認知しているようなビルはどこにもない。そこには、エネルギーの波動があるだけ。

さらに見方を変えると、ビルというものも、例えば一万年前はどうだったかというと、そこは海の底かもしれないし、土の中かもしれない。もっと遡って100億年前はどうかと考えると、地球はまだ生まれていない。

もっと遡って200億年前はどうかといえば、宇宙さえもまだ生まれていない。そこには何があると言うのか。また、明日このビルに誰かが爆弾を仕掛けて粉々にしてしまうかもしれないが、ビルは消えたわけではなく、エネルギーの変換が起こったにすぎない。そいう意味においては、ビルといえども、実体のないものでしかない。

今度は角度を変えて。

例えば、テーブルの上にオレンジが一個あったとする。私たちは、その黄色いオレンジを見て「美味しそうだな」と思って眺める。そこへ、犬が入って来てオレンジを見た時、それはどんな風に見えるだろうか。犬の世界は人間が見る世界のようにカラフルではない。

ところが、犬の嗅覚は人間よりもはるかに優れていて、オレンジの臭いを認識できる。ひょっとすると、以前に食べた時の臭いを記憶していて、嫌いな食べ物だと認識しているかもしれない。

そこへ、一匹のコウモリが飛んできたら、そのコウモリにはオレンジがどう映っているだろうか。コウモリは目で見ている訳ではなく、超音波を出して、その反響で物を認知している。おそらく人間とは全く別の世界を見ている。

要するに、私たちが認知している世界は、私たちが認知して勝手に解釈をしているだけで、犬やコウモリはまた別の世界を見ている。彼らはオレンジなんて認識していないかもしれない。

ボブは「この部屋の being (存在)を、分割できるものなら分割してごらん」と言います。部屋には、人間(human-being) の他に、椅子やテーブルなどのbeing(存在)がある。それだけではなく、空気や湿気、さらに細かく見るなら、水素、酸素、血液、温度、光などがある。

それらの being は、極微の世界まで詳しく見たなら、粒子の間の空間があるだけで、それらの粒子は入り組んでいて、分割しようがない。つまりは一体の存在、一つの物なのだと言う。

月も惑星も同じことが言える。それらは、極微の世界まで細かく見たなら、空間でしかない。そして、月も星も、やがては消えていく。万物は、時とともに姿を変えてしまう。私たちが見ている物は、一時の幻影、実体のないものにすぎない。

ここまでは知的には何とか理解できる。

でも、「万物は、知性エネルギーが波動となって、現れ出たもので、それは他に何もない一つのもの」ということが、なかなか理解できない。

理解できたつもりでも一晩寝るとまた疑念や疑問が湧いてきて、同じ質問をボブに何度も繰り返したり、参加者に片っ端から納得のいく説明を聞いたりしてまわった。

科学的に納得できる説明をしてくれた人は誰一人いなかった。ボブの話も、言葉はあくまで言葉であって、真理を指し示すポインターの役割はするが、それですべてを理解できるわけではない。

ボブは言います。「あなたたちの持っている唯一のツールはマインド(思考)です。しかし、あなたは決してマインドではこれを理解できません。なぜならそれはマインドの外にあるからです」

最初にボブのことをブログに書いた時点では、まだ疑念を抱きながら、(たぶんそれが真実なんだろうなあ)程度の理解でした。それは、「知っている」レベルではなく、「信じている」レベルでした。

そして、週三回、四か月、ボブの講和に通ううちに、(そうとしか思えない)と確信するようになりました。ある時から、疑念や質問がやってこなくなり、その答えはもうどうでもよくなりました。

「それならちゃんと説明してみろ」と言われても、ここに書いた程度の説明しかできない。「それじゃあ事実として知っているんじゃなくて、信じているにすぎない」と言われるかもしれない。

でも、私たちは、例えば、地球は丸いと知っていますが、自分で宇宙空間に行って確かめたわけじゃない。学校で習ったり、NASAの撮った地球の写真を見たりして、地球は丸いと知っている。でもその写真だって、画像処理したものだし、実際の地球は厳密には楕円形だと言われると、驚く人もいる。わずか数百年前には、誰も地球が丸いなんて知らなかった。

いくら納得のいく説明を見つけたとしても、マインド(思考)はまた新たな疑問や疑いを生み出してくる。それが二元性のマインドの性質。そうした堂々巡りをやめること。Full Stop!

現実は、今ここにある意識(conscious, pure awareness)の中にしか存在せず、すべては今ここで起きている。