ラベル 禅・Buddhism の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 禅・Buddhism の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022/08/07

仏教・アドヴァイタ 参考書籍

仏教の教えの中に、非二元の教えと根本的に同じことを説いているものがあります。そうした視点から見た参考書籍です。特におすすめには☆印をしておきます。

仏教

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) ☆
唯識の思想 (講談社学術文庫) (「やさしい唯識」の新装版)☆
唯識入門(「唯識十章」の改訂版)
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム☆ 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)
般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)コスモロジーの創造: 禅・唯識・トランスパーソナル 龍樹・親鸞ノート空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)
仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)
お経の意味がわかる本 (仏教を学ぶ) 
仏教入門 (岩波新書) 
ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門
鈴木大拙 (講談社学術文庫)
一休―狂雲集 (禅入門7)
名僧列伝(二) (講談社学術文庫) 
鈴木大拙全集〈第2巻〉禅思想史研究 第二 達摩から慧能に至る
盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1) 

アドヴァイタ
世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典  (中公バックス) 

2022/08/06

仏教、禅の根底にあるもの

仏教と禅について長々と書いてきましたが、盤珪について書いたことで、目標としていた地点までたどり着くことができました。「禅・Buddhism」はここで終わりにしたいと思います。今後、仏教についてまとまって書くことはないと思いますが、単発的に書くことがあれば、「仏教その他」に書く予定です。

仏教の根本思想は諸法無我です。それは、「我」、すなわち「私」には実体がないということであり、まぎれもない非二元の思想です。特に、大乗仏教の唯識、唐の時代の禅の根底には明らかに非二元の思想があります。また、日本に伝わった仏教の根底にも非二元の思想が流れています。

言葉は違えど、彼らはセイラーボブと同じことを言っています。一言で言ってしまえば、「私が私だと思っているものは実在しない」「世界は私の意識の中にある」ということです。さらに付け加えるなら、いわゆる「悟り」などというものはないということ。もともとそうであるということ。

仏教を学べば学ぶほど、それは非二元の思想であるとわかりました。セイラーボブが教えていることは、彼も言っているとおり、仏教の伝統の中にもあることです。非二元を学んだあとで仏教を学ぶとそれがよくわかります。

仏教の中に非二元の思想があるというのは、Wikipediaでも書かれていることですし、セイラーボブやその関係者も語っているところです。ちょっと調べものをしていて、アマゾンでグレッグ・グッドのダイレクトパスの著者紹介を読んでいたら、こうありました。

著者について

グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探究を、著書やコンサルティングを通じて指導している。

彼も大乗仏教をベースにしているんですね。

また、ジョーン・トリフソンも、推薦本のコーナーで、たくさんの仏教関係の本を推薦しています。ということは、多くの非二元の語り部たちも大乗仏教や禅を研究しているということです。いまさらながらですが、書き足しておきます。

また、仏教のあれこれを読んでわかったのですが、セイラーボブの話の中には、仏教をネタ元にしているものがたくさんあります。盤珪や唐代の禅僧の話を読むと、ネタもとだと思われる話がたくさん出てきます。おそらくボブは、鈴木大拙の英語本を読んでいるのではないでしょうか。

ちなみに、カテゴリーを「禅・Buddhism」として、なぜ「禅・仏教」としなかったかというと、仏教関係の書籍は、漢文読み下しで書かれたものや、古い漢字で書かれたものが多く、読めないものが多い。苦労して読んでも、言っていることがよくわかりませんでした。日本語で書かれたものは中国経由の漢字に影響を受けて書かれているので、理解しにくいからだと思います。

そこで、では同じことを英語で書かれたものはどう言っているかと調べると、それがとってもわかりやすい。そこで、英文サイトや文献から理解することにして、カテゴリーを仏教とするよりBuddhismとした方がよいだろうと思ってそうしました。

当初は英文で書かれたものをたくさん読もうと思ったのですが、思ったほどはかどらず、結局は日本語の現代語で書かれたものに頼った場合の方が多かったのですが、そのままBuddhismにしています。

仏教や禅関係の原典は、漢文もしくは漢文読み下し文が読めないと読めない。そのため、学者が書いた現代語訳を読むしかない。それでも、多くの場合、非常用漢字の古い文体で書かれたものが多くて、簡単には読めない。
鈴木大拙や柳田聖山の本でも、おいそれとは読めない。小川隆先生など、現役の先生の本はなんとかなるが、少し前の時代の学者の本はそう簡単には読めない。

そういう点で、円覚寺の横田南嶺老師のYouTube(「盤珪禅師語録」)は、とてもありがたかかったです。もう何度も繰り返し聞いています。
横田南嶺老師がいなかったら、「不生の仏心」ということの本当の意味がいまだにわかってなかったと思います。横田南嶺老師のYouTubeは、私にとっての貴重な情報源にもなっています。

また、佐々木閑先生のYouTubeも引き続き聞いています。佐々木先生は、仏教をわかりやすく解説されています。私の仏教、禅に対する理解は、この二人のYouTubeによるところが大きいです。もし、コロナがなくて、YouTubeでの講義や法話がなかったなら、仏教も盤珪もしっかりと理解することはできなかったと思います。

佐々木閑先生や横田南嶺老師の話を聞いていると、随所で、「自我という実体はどこにもない」という話が出てきます。そして、悟りとはそのことに気づくことであるということも出てきます。

釈尊が教えていたもともとの仏教は、現代の日本の仏教のように葬儀をしたり戒名をつけたりというものではなく、修行をして悟りを開くためのものでした。この場合の「悟り」は理解という意味に解釈してください。ちなみに、戒名を付けるようになったのは日本の仏教だけだそうです。

すべての仏教の教えの中に非二元があるというつもりはありませんし、セイラーボブの言っていることと全部同じだというつもりもありません。でも、盤珪や禅の話を聞けば聞くほど、仏教の根底にあるのは「一つのもの」「非二元」だと思えてならないのです。

またいつか、禅や仏教について書くと思いますが、禅と仏教については、ひとまずこれで終了とします。仏教や禅の話はなんだかよくわからなかったという方は、「盤珪禅師語録」を何回も聞くことをおすすめします。また、佐々木閑先生のYouTube(架空の自我意識世界には実体があるのか?)も参考になると思います。

仏教が何を目指しているかというと、自我の消滅です。自己と他人の区別はないということです。自我があると思っている間、人は欲望を追い求めます。そのため、欲望を追いもとめないことによって自我を消していくのが仏教の修行です。(参考:横田老師のYouTube人は自己を変えることができるのか

仏教といっても範囲が広く、説き方も様々です。私が学んだのは、そのほんの一部であり、かじった程度のものです。
佐々木閑先生横田南嶺老師のサイトでまた非二元関連の良い話に出会った時は、随時このブログで紹介させていただきます。

2022/07/30

盤珪(ばんけい)④

盤珪の説く般若心経がすばらしい。仏教は非二元の教えだということがはっきりとわかります。このシリーズ(盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む)は、臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師によって月一、二回のペースで現在も進行中です。

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第1回 (2022年3月) 

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第2回 (2022年4月)  

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第3回 (2022年4月)  

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第4回 (2022年5月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第5回 (2022年5月) 
私たちはもともと悟っている、と盤珪は繰り返し説いています。

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第6回 (2022年6月)  
空は概念化できないと説いてみえます。

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第7回 (2022年7月)
 
鏡の比喩が出てきます。

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第8回 (2022年7月)
 
すべては心が創り出したものであると言っています。

  第9回目以降は更新され次第お知らせします。

2022/07/23

盤珪(ばんけい)③

臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師が、YouTubeで盤珪の教えを、「盤珪禅師語録」として講議してみえます。横田南嶺老師は、円覚寺の管長であると同時に、花園大学の総長でもあります。

教材となっているのは、「盤珪佛智弘濟禪師御示聞書」です。盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1) の中にも同じ題名のものが収録されていますが、このYouTubeで教材として使われているのは、宝暦八年(1758年)に出された木版本です。(岩波文庫版も解説の参考にされていると言ってみえました)

岩波文庫のものは、古い漢字や非常用漢字が使ってあります。読めないことはないのですが、漢字を推測して読む部分も多く、時々意味がわからないところもあります。でも、南嶺老師のYouTubeでは、そういうストレスはありません。

わかりやすい現代語で解説してくださっています。これがとてもわかりやすい。解説のわかりやすさはもちろんですが、それに付随した説話が非常にためになる。盤珪の経歴年表や、人となりも詳しく説明してみえます。このシリーズは、月一回の割合で更新された全26回のシリーズです。(臨済宗大本山 円覚寺公式チャンネル盤珪禅師語録)。

私は仏教のことを学び始めて、佐々木閑先生のファンになって、更新されるYouTubeを欠かさず見ていますが、横田南嶺老師のファンにもなって、更新されるYouTubeを見ています。非二元の教えはすばらしいと思うのですが、その説明の深みという点では仏教にはかないません。盤珪を学ぶことは禅を学ぶことであり、非二元を学ぶことだと思っています。ぜひとも、南嶺老師のYouTubeで学んでください。

そこで今回は、南嶺老師の YouTube の最初の三回について、語録の部分のみ、どんな風に解説してみえるのか、老師の説明を私がさらに要約したものをここに掲載させていただきます。これはあくまで紹介のためのものであり、YouTubeを実際に見ていただくことが大切です。盤珪禅師は、同じことを何度も繰り返し説いています。そして、それを繰り返し読むことが大切だと南嶺老師は説いてみえます。

***

【盤珪禅師語録】第1回(2020年1月)
 

ある僧がきて質問をした。私は生まれつき短気で、師匠から、短気を直すように言われておりますが、直りません。私もこれはよくないと思い、直そうとしていますが、生まれつきなので直りません。どうしたら直るのでしょうか。盤珪禅師の教えによって、これを直したいのです。もし、直して国に帰ることができれば、師匠にも、世間にも顔向けができます。どうぞよろしくお願いいたします。

すると盤珪は言った。「あなたは、おもしろいものを持って生まれたな。今もここに短気を持ってござるか? 持っているのなら、出してみなさい、直してあげよう」僧は答えた。「今はありません。何かの拍子に短気が出ます」

盤珪は言った。「そうであるなら、短期は生まれつきではない。何かをしたときのきっかけによって、あなたが作るのだ。何かあっても、あなたが短気を出さなければ短気はありはしない。あなたが、わが身かわいさから腹を立てておきながら、それを生まれつきというのは何ごとか。そんなことをするのは、親に無理難題を言う親不幸者である。誰しも、親が生みつけたのは仏心ひとつである。

親はそれ以外のものは何も生みつけてはいない。一切の迷いは、自分かわいさから生まれたものなのに、それを生まれつきと言うのは愚かである。自分自身が短気を出さなければ、どこに短気があるというのか。一切の迷いも同じことで、自分が迷わなければ、迷いなどない。それを勘違いして、生まれつきでないものを、我欲で迷って、短気の習慣をつけ、自分で短気を出しておきながら、それを生まれつきと思い込んでしまい、どんなことに対しても迷わずにいるということができないでいる。迷いの方が仏心よりも尊いなら、迷いと仏心を交換してしまうことがあるかもしれない。

しかし、みんなが、仏心が尊いとわかれば、迷いたくても迷うことはない。迷わぬことが仏であり、迷わないことが悟りであり、他には仏になる方法はない。私が言うことを近くにきてよく聞いて理解しなさい。あなたが短気を起こすというのは、誰かがあなたの気にくわぬことを言ったり、したりした時に、自分の思いどおりにならずに短気を起こすことだ。その短気が生まれつきでどうしょうもないと言うのは、親が産み付けもしないものを親のせいにする親不孝者である。生まれつきなら、短期は今もあるはずだが、生まれつきではないから、今はないのだ。あなたの短気は、体と心に対して向けられたものに対して、わが身かわいさのために、自分で短気を起こしているのだ。」


【盤珪禅師語録】第2回(2020年2月)
 

「わが身をことさらかわいがることをせずに、相手にとりあわず、自分の思うようにしたいと思わなければ、どこに短気が出てくるというのか。出てきはしない。わが身かわいさに、自分で迷っているだけである。これだけでなく、一切の迷いはわが身をかわいがるせいで起きる。わが身をことさらかわいがりさえしなければ、迷いは起きない。

これをよく聞きなさい。親が産み付けたものは、不生の仏心ひとつだけであり、他のものは産み付けていない。それなのに、あなたが子供のころ、まわりの人が短気になるのを見聞きして、短期があなたの習慣となってしまった。それが時々短気となって現れる。それを生まれつきと思うのは愚かである。それを今までの過ちと知って、今から短気を起こさないようにすれば、短気を直す必要はない。直そうとするより、起こさぬようにする方が近道である。

短気を起こしておいて直すというのは無駄なこと、余計なことである。起こさなければ、直す必要などないということをわきまえなさい。これをしっかり理解すれば、この短気のことばかりではなく、あらゆる迷いも、迷うことはなくなる。迷うことがなくなれば、いつも変わらぬ仏心ひとつであって、それ以外のものはない。その不生の仏心ひとつで、生きて働いていけば、一切のことがうまくゆく。それであるから、わが宗を仏心宗と呼び、今日の生き仏である。(達磨が)じかに私たちの心の本質を指し示してくださった尊いことである。

みなさんも、私のいうことにとにかく任せてみなさい。まずは30日間、不生でいることができたなら、それからあとは、不生の仏心でいたくはないと思っても、自然と不生の仏心でいるようになる。不生の仏心ひとつが成仏の道であり、何をしていても、不生の仏心ひとつが働いているということになる。そうすれば、その人は今日の生き仏である。みなさん、今日生まれ変わったつもりで新しい気持ちで私が言ったことを聞きなさい。余分な知識が邪魔をすると耳に入らないから、今新たに生まれ変わったつもりで聞けば、初めて聞くように、余分な知識はなく、教えがすんなり入ってくるのである」。

【盤珪禅師語録】第3回(2020年3月)

これを聞いて、出雲の国から来た人が盤珪にたずねた。「禅師の教えによると、何の計らいもせずに仏心でいればよいというのは、わかりやすい教えですが、それではあまりに軽すぎるのではないですか?」 それに対して盤珪禅師いわく。「仏心でいなさいというのが軽すぎると言うのか。あなたが、この仏心をなんでもないことのように思い、何か言われたことにすぐに腹を立てて修羅の世界に落ちてしまい、欲望にかられて餓鬼となり、愚かさから不満を言って畜生となり、いろんなことに軽々しく反応することこそが軽すぎるのである。

私が説く仏心でいることが軽すぎるということはないのである。仏心でいることほど尊いことはない。私が言うことをよく聞いて、仏心で暮らすようにしなさい。仏心でいるということは、軽いことのように思うかもしれないが、そう思ってしまうために、皆が仏心で暮らすことがなかなかできていない。それはそんなに軽いことではない。すると、仏心でいるということは重いことのように思えるかもしれないが、今この話をよく聞いて、ちゃんと理解して疑わず、仏心でいれば、骨をおらずに軽やかに心安らかに今日の生き仏としていることができる。そうではないかね。

私の言うことをよく聞いて、何の計らいもせずに仏心でいることはたやすいとあなたは言うが、そうではないという証拠に、あなたは仏心を修羅に、餓鬼に、畜生にすぐに変えてしまうではないか。仕方のないことにいちいち腹を立てて修羅道に変えてしまえば、死んだあとに修羅道におちいることは言うまでもない。我欲のために仏心を欲に変えてしまえば、欲は餓鬼の原因となるから、生きているうちから餓鬼道におちいる下地を作っているようなものであり、死んだあとに餓鬼道に落ちることは言うまでもない。

そしてまた、何のためにもならない思いに執着して、ぐちぐちと心の中で繰り返すことで、仏心を愚かな愚痴に変えてしまう。愚痴は畜生の原因であり、生きているうちから畜生道に行く原因を作っているのであるから、死んでから畜生道におちいることは明らかである。こういうことを知らないで、皆生きている間に三悪道の原因を作って、三悪道への準備をしているのは笑止千万である。

修羅道や餓鬼道に落ちいないようにとすれば、自然と仏心でいる以外にない。ここのところをよく理解しなさい」。それを聞いて出雲の国から来た人いわく。「ありがとうございます、そのとおりでございます」。盤珪禅師いわく。「仏心は不生で霊明なものです。不生の仏心ですべてがととのいます。皆、この不生の仏心でいればいいのです。不生の仏心でいるということが、多くの仏たちが得た悟りのことです。なんと尊いことか。仏心が尊いということを知れば、迷いたくても迷えません。

今、不生の仏心ということを理解すれば、わざわざ死後の不滅と言う必要はありません。生まれもしないものが、滅するということはありません」。それに対して、僧が問うた。「禅師は普段から、不生でいなさいとおっしゃりますが、それでは何もしないでいいがげんにしているように思えますが、それでよいのでしょうか」。盤珪禅師が答えていわく。「不生の仏心でいるということは、何もしないでいいかげんでいることではない。

あなたはいつも脇道にそれて、あれにかかわり、これにかかわり、不生の仏心を様々のものに置き換えてしまう。それを、いいかげんと言うのである」。そう言われて、その僧は返事をすることができなかった。そしてまた禅師が言われた。「不生の仏心とは、いいかげんに何もしないでいるということではない。不生の仏心のままでいなさい」。

僧が問うた。「禅師のおっしゃるとおりであるなら、何かうっかりしているように思われますが、それでよいのでしょうか」。禅師いわく。「あなたが、何も余計なことを考えずに座っている時に、うしろから人がキリで突いたら、痛いか痛くないか、痛いであろう」。僧いわく。「それは痛いでしょう」。禅師いわく。「それならば、うっかりではない。うっかりしているなら、痛いということも感じることはない。いつうっかりしていたというのか。うっかりではない。私の言うことを信じて、不生の仏心のままでいなさい」。

***
この YouTube は全部すばらしいのですが、特におすすめは第十五回、二十五回です。ほとんどセイラーボブの世界です。

【盤珪禅師語録】第15回(2021年3月)

【盤珪禅師語録】第25回(2022年1月)
 

このYouTubeを見てもらうとよくわかるのですが、セイラー・ボブの話の中に、明らかに盤珪がネタ元だと思われる話がいくつも出てきます。

 また、このYouTubeの一部は書籍化されています。盤珪語録を読む: 不生禅とはなにか

参考サイト

2022/07/16

盤珪(ばんけい)②

盤珪の言っていることは、読めば読むほどセイラーボブの言っていることに似ている。できるだけたくさんの言葉を紹介したいと思います。

盤珪は、難しい漢文の説明や公案を題材にして話すことはせず、庶民が聞いてわかる平易な言葉で説法したそうです。ところが、江戸時代初期の人たちにとってはわかりやすい言葉だったかもしれませんが、今の私が読んで、すらすら読めるというしろものではない。常用漢字ではない漢字がたくさんあるし、今の話言葉とも違い、スラスラとは読めない。

それでは現代語で書かれたものはどうかというと、著作権の関係があって、それほどたくさんは載せられない。

私が目にした中では、盤珪禅師逸話選 が現代語で書かれていて読みやすかったです。示唆に富む逸話や一節がたくさん載っていて良い本だと思います。

全部転載したいと思うほどですが、それはできないので、興味のある方は買うか、図書館で借りて読んでください。今回は本の紹介ということでお許しをいただいて、ほんの少しだけ転載させていただきます。

***

p208

妄念は起こるに任せなさい

ある人が、盤珪さんに問うた。
「起こる妄念を払えば、またあとから起こり、次々と続いて、止むことがございません。この妄念をいかように収めればよろしいでしょうか」
盤珪さん、答えて曰く、
「起こる妄念を払うということは、血で血を洗うようなものだ。始めの血は落ちても、洗った血でまた汚れる。いつまで洗っても、汚れは除かれぬ。人々は、人の心はもともと不生不滅で、迷いなどとういものは初めからないのだということを知らぬ。妄念をあるものと思い、生死を流転するのだ。念は仮相なりと知って、取らず嫌わず、起こるがまま、止むがままにすることだ。念とは、たとえば鏡に映る影のようなもの。鏡はものを映すが、鏡の中に影を留はせぬ。仏心は、鏡よりも万倍も明らかで、しかも霊妙なものであるから、一切の念は、その光の内に消えて、跡かたもない。この道理をよく信得すれば、念がどれほど起こっても、何の妨げもない」。

p209

難行苦行は不要でござる

ある僧、盤珪さんに問うて曰く、
「古来の祖師方は、難行苦行を積んで大悟徹底されました。今日の和尚も、種々の難行を重ねて大法を成就されたことと存じます。しかし、和尚は我らに教えた、修行もせず、悟りもせず、ただこのままで、不生の仏心と覚悟せよ、と申されますが、納得がまいりません」。
盤珪さん、答えて曰く、
「たとえば、何人かの旅人が連れ立って、高い山々の峰を歩いていた折、喉が渇いたとする。しかし、辺りに水はない。旅人の一人が、はるかな谷川へ水を探しに行った。ここかしとを骨を折って、ようやく水を探し当て、水筒に詰めて持ち帰り、仲間にも水を飲ませた。さて、その時、山に残って骨折りもせずに水を飲んだ者たちも、さんざん骨折りして水を探し当てた者と同様に、喉の渇きを潤すことができたであろう。しかし、もし仲間の持ち帰った水を疑って飲まなければ、その者は、喉の渇きをいやすことはできぬ。
わたしは、悟りの目が開けた人に逢わなかったがために、誤って骨を折り、ようやく自心の仏を見出した。わたしが、種々の難行苦行をしなくても、自心の仏を見い出すことができると説くのは、いながら水を飲んで渇きを潤すことができるのと同じことだ。人々に本来具わっている仏心をそのまま用いて、難行苦行なしに、心の案楽を得ることができる。尊い正法ではないか」。

p210

煩悩は分別から起こる

ある僧、盤珪さんに問うて曰く、
「一切の煩悩妄想は鎮め難いものです。どのように鎮めるべきでしょうか」。
盤珪さん、答えて曰く、
「妄想を鎮めようと思うことも妄想である。妄想は本来ないものだが、ただ、自分が分別して出しているのだ」。

p212

悟りを目当てに修行する者は

ある客僧、盤珪さんに問うて曰く、
「わたしは悟りを目当てにして修行を致しております。いかがですか」。
盤珪さん、答えて曰く、
「悟りとは、迷いに対してのこと。人々は仏体にして、一点の迷いもない。ならば、何を悟ろうと言うのだ」。
客僧わけがわず、さらに盤珪さんに問うて曰く、
「さようなことでは阿呆でござる。昔、達磨大師をはじめ善知識の方々は、悟りの上で大法を成就されたのです」。
盤珪さん、答えて曰く、
「如来は、阿呆で衆生を済度されたのだ。来ることもなく、去ることもなく、生まれつきのままで、心をくらまさぬを如来と言うのである。歴代の祖師方も、みなかくのごとしである」。

学道の一大事は死ぬること

弟子の桃岳常仙(とうがくじょうせん)が、盤珪さんに問うた。
「わたしは、死ぬことを考えると、くるしくてたまらず、それでもこうして、毎度、和尚さまのところへ参上しております。人にとって、これよりほかに一大事はないと存じます」
盤珪さんは、答えられた。
「その心こそ、学道の根本なのだ。その志を失わなければ、そのまま道にかなう」
常仙は、再び問うた。
「成仏するということは、どこを言うのでしょうか」
盤珪さん、答えて曰く、
「わたしが言うことをよく得心して、信じて疑わないところ、そこがすなわち成仏である」。

p216

仏になるとどこへ行く

ある人、盤珪さんに問うて曰く、
「仏になると、どこへ行くのでしょうか」。
盤珪さん、答えて曰く、
「ほかのものになれば、いろいろ行く所もあるが、仏になれば、どこへも行く所はない。三千世界の外までも、仏は満ち満ちておるからだ」。

***

花園大学公開講座 「禅とこころ」 花園大学 総長 横田 南嶺

盤珪禅師の不生の仏心について語ってみえます。

2022/07/09

盤珪(ばんけい)①

セイラーボブはミーティングで盤珪についてたびたび触れています。また、鈴木大拙は、鈴木大拙全集の第一巻が盤珪となっていることからもわかる通り、禅におけるもっとも重要な人物であると捉えていると思われます。

盤珪については、以前ブログに書きましたが、もう一度経歴などを掲載しておきます。

盤珪は江戸時代(1622年-1693年)、姫路市生まれの臨済宗の僧。
儒医(儒学者であり医者でもある人)の家の三男として生まれる。もともと頭が良く、十二歳の時に儒教の基礎経典である「大学」を学び、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という冒頭の一句に出くわして、「明徳」とは何かという疑問に取りつかれてしまう。

「明らかな徳」とは何であるかを知るため、17歳の時に出家。「明徳」の答えが得られず、20歳の時に寺を出て諸国行脚へ出発。断食、の五条橋下での四年間の乞食など命がけ修行をする。24歳の時に寺へ帰るが、答えは見つけられなかったため、帰郷。

故郷に帰り、庵を建て、そこで決死の覚悟で修行に励む。数年間修行の後、大病にかかり、吐血するようになる。七日ほど粥しか食べられない日が続き、もう終わりだと思っていたところ、真っ黒な木の実のような痰を吐く。それをきっかけに、体調が快方に向かい、その途中、26歳の時に「明徳」とは、不生の仏心のことであると理解する。

その後、経典や公案に頼らず、平易な言葉で人々に語りかけ、多くの人に教えを広め、いくつかの寺を開き、たくさんの弟子を育て、人々の尊敬を集め、72歳で亡くなる。

中国から日本に伝わった禅は日本でさらに発展し、盤珪の生きた江戸時代初期までには多くの寺院が建てられ、座禅、公案、経典の研究がさかんになされました。

しかし、そうした学究的、修行的な禅に対抗して現れたのが盤珪の不生禅であり、座禅、公案、経典の研究に頼らなくても理解は可能だという画期的かつ反伝統的なものです。その教えは大変わかりやすく、多くの民衆の支持を集めました。

後世になって、臨済宗の僧として有名なのは、道元(1200~1253)、白隠(1686~1769)で、盤珪はそれほど有名ではなかったようです。それを掘り出して研究、発表したのが仏教学者の鈴木大拙(1870-1966)です。鈴木大拙によって、盤珪は世界に紹介されました。

さて、最初に謝罪しておかなくてはいけないことがあります。私がこのブログで過去に盤珪の不生の仏心について書いたとき、例えば用語集では、

unborn Buddha mind「不生の仏心」
 「不生の仏心」とは生まれる前の状態のことをいう。そこには思考(言葉)がないため、問題もないという意味。

と書きました。でも、学問的にはこれはどうも違うようです。「不生」というのは、後天的に新たに生み出されたものでなく、もともと具わっているもの。という意味が正しいようです。(参考サイト:円覚寺横田南嶺老師ブログ)

英語の unborn には、(生まれる前)という意味と、(生まれることのない)という意味があって、この場合は(生まれることのない)という意味。生まれることのない仏心。つまり、もともと人は仏陀の心を持っているという意味が正しいようです。

生まれる前の心はもともと仏陀なのだという理解でも、それほど間違いではないけれども、そうではなくて、何もしなくても、あなたの心はもともと仏陀なのだ、修行をして生み出す必要はないという意味のようです。

人の心がもともと仏心であるというなら、達磨が、「マインド(こころ)は仏陀である」と言ったことが納得できます。

ただそれだけ―セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教えの中で(p119)、セイラーボブは、「彼(盤珪)が語っている不生の心とは、思考が起きる前のものです」と言っています。

後天的に作り上げたものではないマインドと、思考が起きる前のマインドとは同じと考えていいのではないかと思います。いずれにしても、もともとのマインドが仏心であるという意味だと思います

今回、盤珪のことを書こうと思って、参考文献を調べてみると、盤珪については膨大な書籍があると知って驚きました。人気がある人なんですね。「盤珪」で愛知県図書館の本を検索すると、全部で22冊出てきます。その大半を実際に手にとって読もうとしたのですが、読めないものも多い。非常用漢字が多く、江戸時代の言葉で書かれていて、現代語ではない部分が多い。本を読むよりも、ネットで学んだ方がわかりやすいと思います。詳しく知りたい方は、参考サイトで見てください。

盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)を読んでいて、とても興味深い一節をみつけました。p33、御示之聞書 十九にある一節ですが、そのまま転載しても、非常用漢字の江戸時代の言葉で書かれていて、頭にすんなり入ってこないので、私の現代語訳で書きます。

***

盤珪禅師は聴衆に向かって説かれた。親が産み付けてくださったものは、仏心一つである。そのほかに余分なものは何一つない。その親に産み付けてもらった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものである。不生の仏心、その仏心は不生であって、不生で一切のことがととのいます。

 不生で一切のことがととのう証拠は、あなたたちがこちらを向いて、私の言うことを聞いている時、後ろでカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思わなくても、それがカラスの声、雀の声だと間違わずに聞こえている。それが不生というものです。同じように一切のことが不生でととのうのです。これが不生の証拠です。

 その不生にして霊明なる仏心が正しいと思い、素直に仏心のままでいる人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)です。今日より活仏心でいる故に、我が宗を仏心宗と言います。

***

この話は盤珪の十八番だったようで、この本の中で何度も繰り返し登場します。これを読んで私は、セイラーボブとの会話を思い出しました。

拓「どうしたら、マインド(思考)から抜け出せるのでしょうか」

ボブ「外を走るトラムの音に気付いていますか?」

拓「音がしているのは聞こえています」

ボブ「あなたはマインドから抜け出る必要も、マインドを止める必要もありません。マインドが動いていたとしても、知性エネルギー、アウエアネス(意識)は機能し続けています。トラムの音を聞いているのはあなたの思考ではありません。それはあなたの思考とは無関係に、トラムの音を聞き、あなたの心臓や呼吸をつかさどって働き続けています。それが本当のあなたです」
(2015.1.18ブログ)

アウエアネスという言葉を仏心に変えてみてください。

参考文献

盤珪禅師逸話選 現代語で書かれている。これは読みやすい。
盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1) 非常用漢字、江戸時代の言葉で書かれているが読めないことはない。
鈴木大拙全集〈第1巻〉禅思想史研究第一・盤珪の不生禅 非常用漢字、漢文調でお手上げ。
名僧列伝(二) (講談社学術文庫) 
空海たちの般若心経

「ただそれだけ」p.119 

参考サイト
盤珪 永琢(ばんけい ようたく/えいたく)Wikipedia
霊芝山 光雲寺「明徳」の意味を理解する様子はこのサイトが詳しい。
臨済宗妙心寺派大澤山 龍雲寺 blog 教えについては、このサイトがわかりやすかったです。
その他参考になったサイト

2022/07/02

道元

道元といえば、只管打座(しかんたざ:ただひたすら座禅すること)ですね。それは知っていたのですが、それ以上のことは知りませんでした。法然や親鸞を学んでいるうちに、道元にも興味がわいたので、YoTubeで知ってるつもり「道元」を見ました。そこで思ったのですが、ここにも非二元の世界がある。

YouTubeの知ってるつもりはおそらく短命だと思われるので、それを参考にして道元について書いてみます。もしまだ動画を見ることができるなら、動画を見てください。

「道元今ここに生きよ」

「南無の会」 会長 松原泰道
「今ここ、自分を大切にすることが大切」
***

曹洞宗 永平寺にある 「普勧座禅儀」道元著の中から
「座禅は悟りの手段ではない。座禅していることがそのまま案楽の法門、すなわち悟りそのものである」
今から800年前、禅の思想を打ち立てた道元禅師の言葉。只管打坐(しかんたざ)ただひたすらに座禅せよと、彼は説いた。
***

松原泰道「あの坐る(すわる)という文字は象形文字で、土の上に人が二つあるわけです。片方が感情的、感性的とか言うエゴです。もう一つの側の方が、セルフ。だからこのエゴとセルフが対談するのが座禅。対座をして、今おまえは何だ、おまえ今どうだ、って対話をしていく」
***

「正法眼蔵」道元が生涯をかけて書き綴った著作。
それは20世紀の西洋哲学によって明らかにされる時間や空間の問題を、13世紀日本において、縦横に語りつくした一大哲学書であったばかりでなく、生きることに悩み苦しむ人間の糧となる言葉が珠玉のようにちりばめられた人生の書でもあった。道元は書いている。

仏道を習うといふは自己を習うなり

***

第一章 禅入門

達磨が禅を確立。インドから中国へやって来た達磨大師のこと。座り続けたその恰好からもわかるように、仏教の教えを経典や学問ではなく自ら実践する座禅として確立。やがて日本へ渡ったきた禅には大きな二つの流れがあった。

一方が栄西の臨済宗の禅。その特徴は公案。いわゆる禅問答の課題を解こうとする精神的な格闘を座禅と並ぶ修行と考えている。有名な一休さんのとんち話による禅の教えはその代表。

そしてもう一方が道元の曹洞禅。只管打坐。わき目もふらずただただ座禅をする。

両者とも、目指すところは心と体が一体となった安心(あんじゅう)。そしてその中から様々な日本の文化を生み出した。

精進料理、食べることの中にも悟りがある。素材は単なる物質ではなく尊い命そのもの。合気道、茶の湯も禅思想の影響を受けている。松尾芭蕉の俳諧。その背景にあるのが、山川草木と一体となったあるがままの精神。その潮流を生み出したのが道元。

第二章 ただひたすらの道

只管打坐(しかんたざ)
「作法これ宗旨(しゅうし)なり 得道(とくどう)これ作法なり」 生活のすべてが仏道と一つになった生き方。道元は修行僧たちの生活のすべてを厳しく形に定めた。その厳しさによって、日々新たに生まれ変わり、そして、ゆらぐことのない心の自由を得ること、それこそが道元が自分自身のすさまじい心の葛藤の歩みから導きだした禅の教えだった。

道元は1200生まれ1253年没。54年の生涯。その間の人生は表面だけを見ると決して波乱に富んだものではない。幼少にして出家し、自らに湧き出た疑問を解くため、中国にわたり、修行の果て、その答えを見つけ出し、そして日本に戻ったのち、それを広く伝えるために道筋を作った。

若き道元の心に湧き起こった問い

「本来本法性 天然自性身(ほんらいほんほっしょう てんねんじしょうしん)」
それはどんなものだったのか。

第三章 仏道をならうといふは自己をならふなり

道元は貴族の名門の生まれ。3歳で父を8歳で母をなくす。
1212年、道元13歳の時出家。源実朝の時代。一族の期待と世俗の名利を捨てて、自らの意思で出家して比叡山へ。だが、比叡山は堕落しきっていた。僧侶の関心は名誉と富の蓄積に注がれていた。そんな中にあって、道元はひとり学問にのめり込む。だが、ある大きな疑問にぶち当たる。

「本来本法性 天然自性身:ほんらいほんほっしょう てんねんしじょうしん」 
人間は本来仏である。仏の心を持ち、仏の体を持っている。
ではなぜ、釈迦や歴代の高僧たちは修行してきたのか。
本来仏なら、なぜ修行の必要があるのか。

答えを得られないまま、比叡山を降りて禅に近づく。
遡ること十数年、中国から帰った栄西によって禅が日本にもたらされた。当時流行していた法然、親鸞による念仏、あるいは最澄、空海によってもたらせれた密教など、仏教の新しい装いの思想とは違って、禅は釈迦に直接つながろうという教え。

1217年、18歳で建仁寺に入り、栄西の弟子明全(みょうぜん)に師事する。その時すでに栄西はすでに没していたが、栄西のもたらした名利や財を追及しない禅の世界は道元に仏教への新しい希望をもたらした。

明全のもとで道元は禅の修業に励んだ。だが後鳥羽上皇による鎌倉幕府打倒の承久の変が起こる。道元は入宋求法(にっそうぐほう)を決意。1223年明全とともに宋へと渡る。

第四章 心身脱落

最初の寄港地寧波(にんぽう)での体験。
道元の船に椎茸を求めにやってきた典座(てんぞ:禅寺の炊事当番)の老僧と出会う。いろいろ聞きたいと申し出たが、老僧は炊事の準備があるからと断ろうとする。道元は聞いた。

「あなたのような高齢者がなぜ典座の雑用に追われなければならないのですか?」
「立派な若い外国人の客よ、あなたはまだ修行や求道がなんであるかも、文字の何たるかもお分かりではないようだ。」

さらにその老僧に教えを乞うと、
「すべてが修行であり、すべてが文字である」と答えた。
道元は思った。
(仏法を合理的にただ理屈でわかろうとするなら何も得られまい。問題と自分が一体になることだ。問いと自己が一つになるその人こそ文字を知り道を体得した人に他ならない)。

二か月後、目指した天童山天童寺に入る。
ある夏の炎天下、食事係の老僧が、傘もかぶらず椎茸を干していた。
道元は聞いた。
「なぜ行者(お付きの僧侶)や人工(寺男)にやらせないのですか?
すると老僧は答えた。
「他は是れ、吾にあらず!(他のものにやらせたとしたら、それは自分ではない)」
道元は驚きながらもさらに聞いた。
「わざわざ炎天下の中でしなくても、もっと陽が陰ってからにすればどうですか?」

答えて老僧曰く、
「さらに何れの時をか待たん!(今やらなくては、いつやるというのか?)」

道元は記している。
すべては仏道の実践である。つまりは、掃除も炊事も雑用ではない。禅者にあっては、本来雑用はひとつもない。

今ここ、われ。

行住座臥(ぎょうじゅうざが)(日常の立ち居振る舞い)日常の振る舞いの隅々まで気を配る道元禅の豊かな広がりが若き日の宋での体験からはぐくまれていった。

天童寺では最初、正師(しょうし:正しい師)に出会うことができず、疑問を解消することもできず、諸山を遍歴。日宋してから二年目の五月、再び天童寺に帰り、如浄(にょじょう)に会う。「目のあたり、先師(せんし:先生の意)を見る」とうとう正しい師を見つけたと、その日からはげしく座禅に励んだ。

道元は書いている。如浄はその座禅布団を体から離さず、時には岩の上でも座禅した。釈尊が修行された、かの金剛坐をも坐り破ろうと、尻の肉がただれ破れるときこそ、いよいよ座禅を好んだ。(正法眼蔵)

ある日、早朝に皆で座禅をしている時、一人の僧侶が居眠りをしてしまい、如浄がこう一喝した。
「座禅とは常に心身脱落(しんじんだつらく)でなければならない。居眠りをしていて、どうしてそのことが叶おうか!」(行状記より)

その言葉にはっとして道元はすべての迷いを解いた。心身脱落の瞬間でした。長年の疑問も何もかもが道元の中で溶け去った。

如浄のもとで求める仏法を得た道元は、1227年に日本へと帰朝する。それは仏典を持ち帰るでもない、様々な法具をたらすでもない、身一つの帰還。まさしく自分自身が仏法となったからだった。

「確かな仏法とはいっても、実は目は横に並び、鼻は縦にくっついているというようなあたりまえのことであった。毎朝、太陽は東からのぼり、毎晩月は西に沈む。雲が晴れあがると、山並みがあらわれ、雨がとおりすぎると、あたりの山々は低い姿をあらわす。三年が過ぎると閏年に逢い、鶏は早朝に鳴くものである。その他に何か特別な仏の教えがあるものではない。」永平禅師語録より

あるがまま 

帰国後そのことを広めようと苦難の道に乗り出す。

終章 あるがまま

1230年31歳、京都深草に居を定め、深く世に座禅を広めようとする。

「座禅は悟りをうるための修行ではない。座禅こそは大案楽の法門の手段ではない。座禅していることがそのまま大案楽の法門である。座禅の修行こそは悟りそのものなのである」道元 普勧座禅儀より

道元のもとには多くの弟子と在俗の信者が集まりだした。

道元は「あるがまま」の教えを広めようとした。
今ここに生きている自分に徹せよ。それこそが道元の禅の教えだった。そして1233年34歳の時に正法眼蔵を書き始める。

正法眼蔵
「仏道をならふというは自己をならふなり 自己を習うというは自己を忘るるなり」

仏の道とは自分自身とは何かということを追及すること。
仏道とは自己を忘れること。あらゆるものは生かされているということ。

心身脱落。

比叡山の圧力が念仏のあと、道元にも及んだ。道元は北陸へと逃れる。その一年後大佛寺(現永平寺)を建立。

道元の歌

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 涼しかりけり」

道元は当たり前の自然に絶対の真実を見ていた。

1252年の秋、療養のため京都へ。翌年亡くなる。54歳の生涯。

***********

私は過去に、呼吸を見つめる瞑想を何年もやったことがあります。座禅のような姿勢で座って、鼻から入る自分の呼吸を見つめるという瞑想です。私は座禅はやったことがありませんが、やっていることは座禅と同じだと思ってやっていました。時間は、多い時は一日一時間。少ない時は20分ほど。これを何年もやりました。

これをやると、マインドがものすごく落ち着きます。ある種の精神安定作用があるのは確かです。当時の私は、この瞑想は覚醒(エンライトメント)を得るための手段だと思ってやっていました。でも、何年やっても覚醒は起きませんでした。何年やっても覚醒が起きないので、他の方法を試すようになり、いつしかすっかりやめてしまいました。

このブログの法然/親鸞のところでも書いたことですが、町田宗風先生が言われるように、座禅、念仏、千日回峰行など仏教における行はすべて、自分は体でも心でもないということを体得するための手段なのではないでしょうか。

道元も同じようなことを言っていて、座禅は心身脱落(体と心を落とすこと)、つまり、自分は体でも心でもないということを感得するための手段だと言っています。私たちはもともと仏なら、なぜ先人たちは修行の必要があったのか。それは心身脱落のため。自分は体でも心でもないと気づくためです。

ここで、仏教と非二元は同じゴールへとたどり着きます。理解による道、瞑想による道、修行による道。すべては同じゴールへとたどり着きます。すべては、「私」などいないということを知るためです。

呼吸を見つめる瞑想をやっている最中は、体もマインドも消えていました。その状態こそは心身脱落であり、悟りなのだと思います。でも当時は誰もそれを教えてくれなかったし、自分でそれに気づくこともありませんでした。今から思うと、もう十分に悟りを体験してきたし、空を見てきたのだと思います。そして、座禅や念仏、その他の行も有効なものだと思うようになりました。

2022/06/25

法然・親鸞・一遍

最初の計画では、法然・親鸞・一遍を取り上げる予定はありませんでした。セツさんに教えてもらった二冊の本を読んで、ここにも広い意味で非二元の教えがあるような気がして、ブログに書くことにしました。

法然親鸞一遍 (新潮新書) 


本を手にして読み始めたのですが、二冊ともとっても難しい。本が難しいということの他に、私には法然や親鸞、一遍の予備知識がほとんどない。阿弥陀仏も念仏よく知らない。

そこで、まず周辺知識を学んでから読もうと思い、手っ取り早く、ネット上にあるもので予備知識を学び、そのあとで本を読みました。それほど詳しく学んだわけではないし、よく理解しているわけでもないのですが、本の感想を書く前に、法然、親鸞、一遍と、彼らが生きた時代背景を書いて、そのあとで本の感想を書きます。

南無阿弥陀仏
法然、親鸞、一遍の教えは、一言で言ってしまうと、「南無阿弥陀仏」と唱えると、阿弥陀仏が救ってくれる(極楽浄土に生まれることができる)という教えです。それではその阿弥陀仏とは何なのかというと、阿弥陀如来(あみだにょらい)のことです。

大乗仏教が発展すると、悟りを開いて仏になった人は、釈尊(ゴータマ・ブッダ)だけではなく、他にもいっぱいいるという思想が出てきました。そうした仏を如来といい、それぞれの如来は独自の浄土を持っていて、そこにいます。Wikipedia 仏の一覧

阿弥陀如来はそういう仏の中の一人。阿弥陀如来は、もともとはある国の王様でしたが、出家して法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となりました。菩薩というのは出家して修行する人のこと。そして法蔵菩薩は長い間の修行をへて阿弥陀如来となり、西方に極楽浄土を作り、今もそこにいる。念のために言っておきますが、これは大乗仏教が勝手に作った経典の中の一種の神話です。

念仏
この世では、人々はいくら修行してもなかなか悟りが開けない。そこで阿弥陀如来は、もし念仏を唱えるなら、死後に人々を阿弥陀如来のいる極楽浄土へと招待するので、そこで仏となる修行をするといいと提案。そこではスムーズに仏になれると説く。Wikipedia 極楽

法然(1133年~1212年)
法然の生きた時代は平安末期。平清盛(1118年~1181年)の時代で、保元・平治の乱、源平の戦い、疫病の流行で末法思想が流行った頃です。法然の父は地方(岡山)の役人でしたが、恨みを抱いていた他の役人に夜襲され命を落とします。瀕死の父は法然に向かって、恨みは恨みを生むだけだ、仇討ちはいけない、仏門に入るようにと言いました。法然は9歳で仏門に入り、13歳で比叡山へ行き修行をします。

5000巻にも及ぶ経典を五回も読んだにもかかわらず、なかなか悟りは開けませんでした。43歳の時、唐の善導という僧の書物の中に、念仏を唱えるだけで極楽浄土へ生まれることができるという教えを見つけ、それ以降比叡山を降りて、京都の町で念仏を人々に説き始めます。

法然以前の比叡山(天台宗)で念仏をやっていなかったわけではなく、念仏もあったわけですが、仏を心に思い描いてやる(観想念仏)など、念仏のやり方が違っていました。ちなみに、仏の名前だけをひたすら唱える念仏を称名念仏といいます。

この頃の仏教は僧侶だけのもので、僧侶たちは自らの往生のみに腐心して人々を顧みることはなく、ひどい僧侶は都へ出て略奪を繰り返す者までいる始末。法然の教えは「念仏を説くだけで往生できる(極楽に生まれる)と、わかりやすく、広く民衆に受け入れられました。

親鸞(1173年~1263年)
親鸞は、京都日野の下級貴族の子として生まれますが、幼くして両親を亡くし、9歳の時に仏門に入り、比叡山で修業に励みます。20年の歳月が流れますが、一向に煩悩は消えず、悟る糸口もつかめないでいました。いくら修行しても、妬みや煩悩は消えませんでした。特に親鸞を悩ませたのは、女性に対する性欲でした。当時の僧侶は女性との性行為は禁止でした。

29歳の時、聖徳太子が建立した六角堂(京都)へ毎日100日間参堂すると決めて通いました。95日目に、百済観音が現れて「たとえお前が女性を抱くようなことがあっても、私が珠のような女性の姿となってお前に抱かれてあげよう」と告げます。

親鸞は、この出来事を、京の都で人々の評判になっていた法然を訪ねて話すと、法然は、「伴侶がいた方が念仏できるのなら伴侶がいてもいい、伴侶がいると念仏できないのなら伴侶はいない方がいい」と言いました。

そして親鸞は比叡山を降りて法然に弟子入りして念仏修行に励みます。法然の念仏(浄土教)は人々の人気を集めたのですが、旧来の仏教界から妬みをかい、ある事件をきっかけに、念仏仏教は解散、法然は土佐へ、親鸞は越後へと流されます。法然75歳、親鸞35歳の時でした。

法然と親鸞はそれぞれの流刑の地で念仏を広めます。4年後、流罪は許されますが、法然は80歳で他界。親鸞は法然に再会することなく、関東で布教に勤めます。やがて親鸞は京都に戻り、後進の指導にあたり、90歳の生涯を終えます。親鸞には奥さん(恵信尼)と7人の子供がありました。

一遍(1239年~1289年)
伊予の豪族の出身。10歳で仏門に入り、法然の孫弟子から浄土宗を学ぶ。布教の仕方などで大いに悩んでいたが、熊野本宮での夢の中で「自分の頭で考えずに、南無阿弥陀仏を広めなさい」とお告げを聞き、以降全国を遊行し、踊り念仏、賦算(南無阿弥陀仏と書いた札を配る)によって布教しました。一遍の生涯は遊行の布教でした。

背景知識はここまで。もっと詳しく知りたい人は参考サイトを見てください。

この二冊は、法然、親鸞、一遍の念仏に対する解釈ややり方、心構えの違いなどがこと細かく書かれています。念仏は一回でいいのか、十回言うのか。心から信じていなくてはいけないのか、信じていなくても唱えさえすればいいのか。そういったことがこと細かく書かれています。

でも、読んでいても、その違いが全然頭に入ってこない。私の場合、「なぜ念仏を唱えると極楽浄土に生まれることができるのか?」ということが理解できない。

極楽浄土とか阿弥陀仏とかは、はっきり言ってしまえば神話です。なぜそれを信じると救われると思えるのかということが理解できない。当時の時代背景を考えると、人々にとっては楽な宗教であり、信じさえすればよかった。でも、私にはその理屈がわからない。

私が今まで焦点をあててきた仏教は、哲学であり科学としての仏教であり、そこには理屈があった。でも、呪文を唱えれば救われると言われても理解できない。信じないから救われない、とにかく信じなさいと言われても信じることはできない。

法然にしろ親鸞にしろ、比叡山で何十年も修行をしたのだから、仏教の基本的なことはひととおり学んでいるはずです。原始仏教の阿含経から、中観、唯識、空の思想、法華経や華厳の思想も学んでいるはずです。そうしたことを十分に理解した上での念仏だと思います。

ではなぜ念仏なのでしょうか。その答えを、町田宗風さんのサイトの「こころの時代④法然を語る」の中で見つけたような気がします。町田さんいわく、仏陀の教えは、自我を消すことによって苦しみを消すことができるというもの。念仏や座禅、千日回峰は、自我などないということを感得するための手段だと言うのです。
ちょっと抜粋しますが、できればサイトで全文読んでください。

町田: 宗教の本質を一言でいえば、苦しみの消滅ですよ。悩みを消していくことにあるわけですから、それにはエゴを消さなければいけない。お釈迦様―ブッダの教えの中に、「四聖諦(ししょうたい)」というのがございまして、それは「苦集滅道(くしゅうめつどう)」と言われていますけれども、この世は苦である、と。悩みである、と。サンスクリットで「ドゥッカ(duhkha)」というんですけど、それは「苦しみ」ということですが、この世は苦である、と。そして我々肉体を持つ人間はその苦の集まり―「集」ですね―煩悩欲望の集まりとして非常に苦しい人生を生きているのが人間である、と。ところが三つ目の「滅」で、それを消すことによって、自我を消すことによって、苦しみも消していくことができるんである、と。苦しみというのは実在するものではなしに、エゴが苦しみですから、エゴを消せばエゴも実在しない幻想のものですから、それを消していけばよい。最後の「道」というのは、まさに仏道の道、修行のことですね。正しい行をすれば、自ずから自我が消えていく。そして苦しみも消えていく。それが「四聖諦(ししょうたい)」というブッダの教えだと思うんです。

――  法然はその行を通じて消したんですか。

町田: そうですね。ですから定善観という非常に意識集中的な行をされたことがきっかけで、そこから抜けてこられるわけですけれども、やはり念仏をするということは常に自分を消す、ということなんですね。我があれば、お念仏になっていないわけですよ。お念仏を称えている時は、自我意識の底が抜けていなきゃいけないわけですよ。私にとっては宗教体験というのはそれほど難しいことではなくて、無限の広がり、無限の宇宙のような広がり、自分というのはそのような無限のスペース、空間のように、私は感じているんです。それを感得していく方法が、お念仏であったり、坐禅であったり、回峰行であったり、滝行であったりするわけですよ。方法論はいっぱいありますが、行き着くところは無限の広がりの自分に出会うということですから。

そして、法然親鸞一遍 (新潮新書) のp83から抜粋させてもらいます。

 親鸞も一遍も、この三心の問題(浄土へ往生する者は、至誠心・深心・廻向発願信の三心を具えて念仏しなければならないということ)につきあたって、これと格闘する中で、一つの安心の境地に至った。その問題とは、自分で真実清浄な心をおこすことができるかという問題であり、自分で自分の心をどうこうすることができるかという問題であった。
 この問題に対し、親鸞も一遍も、その方向・拠り所は異なるにせよ、自分で自分の心をどうこうすることはできない、自分のはからいは一切、放下せざるえない、という世界に出たのであった。そして、そのゆえにこそ深い安心の自覚を得たのである。
 浄土教というと、それはただちに念仏の教えと思われている。それも称名念仏することによって救われると考えられている。しかしながら浄土教の本質は、そのように称名念仏にあるのではなく、自我の分別・はからいを徹底して断念する、自分の心を放下することにあるのである。私は、このことを強調しておきたいと思う。
 このとき、浄土教の救いも極めて禅に近い。禅も自力聖道門を呼ばれるとはいえ、むしろ自力の放捨の道であり、徹底して自力的作意を放下しつくすものである。浄土教は、他力浄土門の形で、見事に自我の一切のはからいを断捨する道である。

絶対他力、自分の力ではどうしようもない、という考え方は、非二元の考え方に通ずるところがあります。悪人であろうと何であろうとかまいはしない。念仏するば救われる。その教えは、修行積み上げ型の仏教の否定であり、自我などないということを感じるための手段としての念仏は、非二元の世界だと思います。

図書館に行くと、親鸞関連の小説や教行信証、歎異抄関連の本がたくさんあって、どうしてこんなに人気があるんだろうと思うのですが、親鸞が煩悩を捨てられない自分に正直に悩み、それを生きたから人々が共感するのだと思います。法然・親鸞・一遍は、知れば知るほど興味のわく人たちです。時間ができたら、もっと関連書籍を読んでみたいと思っています。

参考サイト

2022/06/18

黄檗希運(おうばくきうん)

師曰く、すべての仏陀と衆生は、心にほかならない。心には始まりがなく、不生であり、不滅である。それは緑でも黄色でもなく、姿も形もない。それは、あるとも言えず、ないとも言えない。新しいとも古いとも言えない。

それは長くも短くもなく、大きくも小さくもなく、あらゆる限界、尺度、名前、比較を越えている。それは、あなたの目の前にあるが、それについて推論し始めると、すぐに誤りに陥る。それは、推測することも計ることもできない無限の空間のようなもの。

心が仏陀であり、仏陀と衆生の間に違いはないが、衆生は形に執着し、外に仏性を求めてしまう。探し始めたとたんにあなたはそれを見失う。というのもそれは、仏を使って仏を求め、心を使って心をつかむようなものだからだ。たとえ未来永劫求めたとしても、それを達成することはできない。

もし、観念的な思考を止めて、心配することをやめると、仏陀は目の前に現れるということを衆生は知らない。というのも、心が仏陀であり、仏陀は生きとし生けるものだからだ。衆生として現れているものが劣るわけでもなければ、仏陀として現れているものが優れているわけでもない。

あなたはもともとあらゆる点において完全なものであるから、六波羅蜜やそれに類するたくさんの修行や、ガンジス川の砂の数ほど無数の功徳を積むことによって、完全さをそのような無意味な修行で補おうとすべきではない。そうしたことをする機会があればやり、機会が過ぎればおとなしくしていなさい。

もしあなたが、心が仏陀であると確信していないで、形や修行、徳を積む行為に執着しているのなら、あなたは考え違いをしていて、道とは相容れない。心は仏陀であり、その他の仏陀も心もない。それは空間のように透明で汚れておらず、いかなる姿も形もない。心を使って観念的に考えると、実体を離れて形に執着することになる。

常住の仏陀は、形や執着のない仏陀である。仏陀になろうと思って六波羅蜜やそれに類する無数の修行をすることは、段階を踏んで進むことであるが、常住の仏陀は段階を踏んでなる仏陀ではない。心が仏陀であることを理解すること以外に、為すべきことはない。それが真の仏陀である。仏陀と衆生は心以外の何ものでもない。

心は、太陽が世界の四隅を照らすように、混乱も災難もない空間のようなものである。太陽が昇って地球全体を照らしても、空間そのものは輝きを増さないし、太陽が沈んでも空間そのものは暗くならない。光と闇の現象は交互に起こるが、空間の性質は変わらない。仏陀の心も、衆生の心もそうである。

もしあなたが、仏陀を純粋で明るい、悟りを開いたような姿と見なしたり、衆生を汚い、暗い、死すべきもののような姿と見なしたりするならば、形に執着することによるこれらの観念は、ガンジス川の砂の数ほどの永遠の時を経ても、あなたを至高の知恵から遠ざける。そこには心があるだけであり、手に入れるべきものは何ひとつない。

なぜなら、この心こそが仏陀なのだ。 道を学ぶ者がこの心の実体に目覚めなければ、心に概念的な考えを重ねたり、自分の外に仏陀を求めたり、形や敬虔な修行などに執着したりすることになるが、これらはすべて有害であり、至高の知識への道ではない。

***

目覚めている心には出発点も終わりもない。それはこのようなものだとも、あのようなものだとも言うことはできない。それには形も大きさも色もない。あなたはそれが存在するともしないとも言うことはできない。

それを測ることはできず、何かに入れることもできない。限定できるような特徴もなく、主体でも客体でもないのに、一体どうして何かと比べることができようか。

何らかの理由で人々は、現象の世界と自身の感覚が道を妨げていると考えている。彼らは心を静めるために、絶えず日常生活から逃げ出したいと思っている。道を達成するためには、現象の世界が邪魔であると思っている。

しかし、それは逆である。道を妨げているのは、自身の心だということを理解しなくてはいけない。為すべきことは、心の中の誤った観念を空にすることであり、現象の世界は障害にはならない。無心においては、現象としての世界は道と同じである。心を修養することは役には立たない。

***

あなたたちが凡人の境地、聖人の境地という区別を捨てさえすれば、心の他に仏は存在しない。達磨大師は西からやって来て、すべての人間は仏なのだと指摘された。おまえたちは今このことを知らず、凡人の境地、聖人の境地にとらわれ、自身の外に仏を探しまわり、自身の心を見失っている。だからこそ、おまえたちに、「即心是仏」、この心こそが仏にほかならぬと言っているのである。

2022/06/11

臨済義玄(りんざい ぎげん)

臨済録

お前達、真の仏には形が無く、真の法には相(すがた)は無い。
それにもかかわらず、お前達はひたすら幻のようなものを、あれこれ思い描いている。

たとえ真の仏のようなものを求めることができたにしても、そんなものは皆な野狐が化けたようなもので、決して真の仏ではない。そんなものは外道の見方だ。

真の修行者は、決して仏を認めない。菩薩や阿羅漢も認めず、この世で有り難そうなものを問題としない。そんなものから独りはるかに超えて外物に依存することはない。

たとい天地が引っくり返ってもこの信念に変わりはないのだ。たとえ彼の目の前に十方の諸仏が現われても、少しも喜ばないし、

三途地獄(さんずじごく)がパッと現われも、少しも恐れない。どうしてこのようになるのだろうか。

わしが見ると、全ての存在は空相であって条件次第で有に変ったり、無のままである。この迷いの世界は唯だ心意識によって造られるのである。

夢や幻、空中の華のような実体のないものに心を煩わすことはないのだ。修行者達よ、今目の前で聴法している人だけが有って、

火に入っても焼けず、水に入っても溺れない。三途地獄(さんずじごく)に入っても、花園に遊ぶようだし、

餓鬼畜生道に落ちても苦しみを受けることはない。どうしてこのようになるのだろうか。それは何一つ嫌うものが無いからだ。

宝誌和尚も『汝がもし聖を愛し凡を憎めば、迷いの海に浮沈するだけだ。煩悩は心が作るものであるから、無心であるならば煩悩に縛られることはない。

姿形(すがたかたち)を分別することもなく、自然に道を体得できる』と言っているじゃないか。

お前達、脇道へそれてあたふたと学ぶならば、永遠に迷いの世界から抜け出ることはできないぞ。それよりは無事で何の造作もせず、僧堂の禅牀(ぜんじょう)の上に坐っていた方がましだ。(以上、禅と悟りより)

*****

臨済録の話

このYouTubeの中で、南嶺老師は映画のスクリーンの例えや、火でも焼けず、水に入ってもおぼれず、地獄にあっても花園で遊ぶような人という話をしてみえます。とても興味深いです。

参考サイト

2022/06/04

馬祖道一(ばそどういつ)

中国の禅の系統では、六祖慧能から臨済義玄までの系統が、臨済宗をもたらした系統です。

六祖慧能→南嶽懐譲(なんがくえじょう:677~744)→馬祖道一(ばそどういつ:709~788)→百丈懐海(ひゃくじょうえかい・720?〜814)→黄檗希運(おうばくきうん:?~850))→臨済義玄(りんざいきげん:?~867)と法灯は継承されました。今回は馬祖道一について。

馬祖道一(ばそ どういつ:709年~788年)は、中国の唐代の禅僧。

馬祖禅とも呼ばれるその禅思想では、禅宗で初めて経典や観心によらずに日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き、「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)、「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残している。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法(たいきせっぽう)を始め、これによって多彩な弟子を育てると共に、士大夫階級に数多くの信者を獲得し、遂には禅の正系の座を荷沢宗より奪ってしまった。(以上Wikipediaより)

***

南岳磨甎(なんがくません:南岳が瓦を磨くという意味)

馬祖道一は僧として寺に住み、座禅に打ち込む生活をしていた。客人が来てもかえりみることがないほど必死に毎日座禅をしていた。それを聞きつけた南岳懐譲(なんがく・えじょう)が感心して馬祖を見にやってきたが、馬祖は南岳を見ることもしなかった

「お前はずっと熱心に坐禅を続けているが、何のために坐禅をしているのだ?」と南岳が尋ねた。

「仏になるためにやっております」と、ぶっきらぼうに馬祖は答えた。

すると南岳は外に行って一枚の瓦を持ってくると、馬祖の横に座って、石でゴシゴシと瓦を磨きはじめた。不快な音にたまりかねて馬祖が尋ねた。

「禅師、何をしておられのですか」

「きれいに磨いて鏡にしようとしておる」

「お言葉ですが、いくら磨いても瓦は鏡にはなりません」

「そうか。でも、それがわかっているなら、お前はどうして座禅をして仏になろうとしておるのだ? 人間はしょせん人間だ。いくら座禅で磨いたとしても、仏になれるわけはなかろう」

馬祖は驚いて尋ねた。

「座禅をして仏になれないのなら、一体どうしたらよいのですか?」

南岳は答えた。

「お前が牛車に乗っていたとする。そこでもし牛車が動かなくなったら、車を叩くか、牛を叩くか、どちらだ?」

南岳の問いかけに、馬祖は何も返すことができなかった。

「座禅をするということは、座っていることとも、横になっていることとも関係ない。一定の型にはまったものではないということを心に銘記すべきだ。また、座っているのが仏だと思っているのなら、仏は座ることとは何の関係もない。空である諸法を観ずるに、形でとらわれてはならない」

このこと以来、馬祖は南岳のもとで修業に励んだ。

***

即心是仏(そくしんぜぶつ:心がすなわち仏であるという意味)

ある日、馬祖は人々にこう説法をした。

「仏の道を志す皆さんは、皆さんの心がとりもなおさず仏そのものであるということ、その心がすなわち仏の心であることを信じなさい。達磨大師は、インドの南天竺国から、この中国へ渡来され、もっとも尊い大乗そのものである心の本性を伝え、人々に説かれた。また、楞伽経(りょうがきょう)の文句を引き合いに出して、皆さんの心が仏心にほかならないことを明らかにされた。皆さんが誤解して、仏心は各自が皆もともと持っているということを信じないことを恐れられたのである。楞伽経にはこうある。「仏の教えは心を第一としている。心こそ教えである」。

***

大珠が初めて馬祖のところへやってきた時のはなし。

「どこから来られた?」馬祖が尋ねた。

「越州大雲寺から参りました」

「何を求めてここへ来たのか?」

「仏法です」

「自らの宝の蔵を見ることもなく、自分の家を捨ててやってくるとは、どういうつもりだ? ここには何一つない。どんな仏法を求めようというのか?」

大珠は礼拝して尋ねた。
「それでは、私の宝の蔵とは何のことでしょうか?」

「今こうして私に問うているのがお前の宝の蔵である。すべてが備わっていて、何も欠けてはおらず、自由自在に使うことができる。どうしてあえて外側を探そうとしているのか。」

それを聞いて大珠は喜び、馬祖の弟子となった。

***

あなたは、自身の心が仏陀であるということを理解しなくてはいけない。私が言おうとしているのは、あなたが何をしていようと、この心がそのままで仏陀なのだということである。

著衣喫飯(じゃくえきっぱん:日常のあらゆる営みが仏の心の現れであるという意味)

法を求める者は、求めるという気持ちを捨てなくてはいけない。心の他には仏はなく、仏の他に心はない。心が仏そのものである。善も思わず、悪も意識せず、清浄にも穢(けが)れにもとらわれない。罪の本性は空であるということを理解すれば、そんなものは存在しないとわかる。

三界は唯心である。森羅万象は心の現れであり、心を見ていることに他ならない。時と場所に応じて、淡々と行動すればよい。そうすれば、真理にも具体的なことにも沿うことになり、何の問題もない。悟りによって得られる仏の境地とはこのことである。

心によって生じるものを色(しき)と名付けているが、色は空である。色は空なりと知れば、生はすなわち不生である。もしこのことを理解できたなら、必要に応じて服を着たり、ご飯を食べたりして、淡々と悠々自適に暮らして、仏を宿している体を大切にしなさい。他にやるべきことはない。

平常心是道(びょうじょうしんこれどう:平生の心が仏の道であるという意味)

意図的な修行行為は仏の道とは何の関係もない。唯一為されなければならないことは、混乱から自由になることでけである。心が二元的な思考でいっぱいとなり、あれこれと固執することが混乱である。普通の心が仏の道である。普通の心は邪魔されず、意図的な行動から自由である。

もしあなたが何かを探しているなら、手に入るものは何もないということを理解しなさい。心の他に仏なし。仏以外に心なし。良い悪いという観念を作らず、段階やレベルを達成するという愚かな考えを捨てなさい。そうすればあなたは、束縛されないことの意味を理解するだろう。

形として見えるものは心の投影である。心それ自体では存在しえない。心は形を通して現れる。心について話す時は常に、見せかけと実在は完全に深く染み込みあっているということを理解しなくてはいけない。あなたが私の言っていることを理解すれば、あなたは自然に行動するようになり、状況に即応するようになる。仏の道と自然に調和するために、あなたが意図的に介入する必要はない。

もしあなたが、仏の道に入りたいと言うのなら、あなたの普通の心が仏の道であるということをよく理解しなくてはいけない。普通の心とは、作為的ではない心のことである。それは、ものごとを分割せず、良い悪い、高い低いと分割しない心のことである。それは、あなたの日常生活すべてにおいてそうである。朝から晩まで、すべてが仏の道である。

参考文献


参考サイト

2022/05/28

天台雲居(てんだいうんきょ)

天台雲居は、牛頭宗(ごずしゅう)のマスターだと言われています。以下の会話は、 天台雲居と華厳寺の僧侶との会話です。

***********

:あなたは人々に、自らの本性を理解するようにと説いてみえます。これはどういう意味ですか?

:本性とは、あらゆるものごとの本質のことであり、根本的な心のことです。それは仏性のことです。あなたは本性を自分の目で見ることはできません。認識をするそのもののことです。それは、姿形のない、分割することができない知性のことです。

それを言葉で説明することはできません。それが存在するともしないとも言うことはできません。それは長くも短くもなく、大きくも小さくもありません。それは、時間のない永遠に存在する意識であり、それを表すどんな言葉も超えています。それが仏性です。この仏性に目覚めるということが、自身の本性に目覚めるということです。

:あなたは、その本性は分割できない空間のような知性であり、存在するともしないとも言われましたが、もしそれが存在するともしないとも言えないのなら、どうやってそれを認識できるのですか?

:それを認識しようとしても、認識できるものは何もありません。

:もし認識できるものが何もないのなら、それを認識している主体は何ですか?

:それは認識するものと、認識しないものの両方です。

:あなたのおっしゃっていることが理解できません。

:それは、認識するものと、認識されるものの両方です。主体と客体の両方です。

:私には理解できません。そこには何か発見すべき究極真理があるはずです。それを知ることはできますか?

:あなたは誤解しています。あなたの、有と無に対する考えは混乱しています。あなたのやり方は二元的なやり方で、そこには何かを知る誰かがいることが前提となっています。それはあなたを誕生と死の世界に閉じ込めてしまう伝統的なやり方です。

目覚めた人というのは、主体と客体は相対的な偽の造物であり、究極的な意味においては意味のないものだということに目覚めた人のことです。そういう人たちは絶えずものごとを認識できるのですが、実際には何も認識していません。

「あなた」によって認識される何か究極の「もの」があると想像するのは間違いです。もしあなたが自身の本性を理解したいと思うのなら、方法はたった一つしかありません。主体と客体という明確な区別の観念を超えて、認識する者と認識される者という二元性を超えて行かなければなりません。それが仏性に目覚めるということです。

:では、その仏性はどこにあるのですか?

:それはどこにでもあり、どこにもありません。

:その仏性は、すべての人が持っているのですか?

:持っていない人などいません。

:このことに目覚めていない人はどうですか?彼らも持っているのですか?

:もちろん持っています。

:もしそれが、どこにでもあって、どこにもなくて、誰でも持っているのなら、このことに目覚めていない人はどうしてこのことを理解することできないのですか?

:なぜなら、そうした人たちは仏性のただ中にいるにもかかわらず、思考でものごとを観念化して、絶えず主体と客体という二元性をでっち上げているからです。そうやって人は誕生と死という終わりのない輪廻の中に自らを閉じ込めているのです。

自らの本質に目覚めている人は、仏性は存在、非存在とは関係がないということをよく知っていて、区別をもたらす意識によって作り出された想像上の偽の造物にとらわれることがありません。その結果、彼らは日々経験する世界を主体と客体に分割することがありません。

:それでも、目覚めた人と目覚めてない人の間には、何か根本的な違いがあるのではないですか? 目覚めた人は、そうではない人が成しえなかった何か特別なことを達成したのではないですか?

:彼らは、達成すべき特別なものは何もないという事実に目覚めたのです。仏性においては、目覚めた人と、そうでない人の間には何の違いもないということを理解しなくてはいけません。目覚めたとか目覚めていないといういうのは単なる言葉であって、ものごとの根底にある実在とは何の関係もありません。

それは単なるラベルにすぎません。言葉はそのものではないということを理解しなさい。もしあなたがラベルを追い求めるなら、観念の海でおぼれてしまうでしょう。私はそれを誕生と死の海と呼びます。

自らの観念の海におぼれないでください。あなたが作り出した観念と思考の構造物すべてを見抜くことが自らの本性を認識することとなります。それが仏性に目覚めるということです。

参考サイト

Records of the Transmission of the Lamp: Volume 2 (Books 4-9)

2022/05/21

牛頭法融(ごず ほうゆう) 無心は心なり

この対話は景徳傳燈録(けいとくでんとうろく)四の中の、牛頭法融と太宗皇帝(唐)の太子の対話と言われているものです。

**************

太子:日常生活において、いつもとは違う環境を経験する時、それが自分の好むものなら気分が良くて、嫌なものなら動揺します。どうして私はいつもあれやこれやに悩まされるのでしょうか?

法融:あなたの気持ちや気分は外部の物とは何の関係もありません。

太子:ではどうして私はいつも動揺して安らぐことがないのでしょうか?

法融:違った環境を経験して、心地良いとか、不快だという感情を抱いた時は、その環境、あなたの思考、気分は完全に空(くう)であるということを理解しなくてはいけません。しかし、あなたは自身をその環境に抵抗する立場に置いてしまうため、好き、嫌いが生まれるのです。

その環境そのものは、「私は良い環境だ」とか、「私は悪い環境だ」とは言いません。それを観念化してしまうのは、あなたです。あなたはその環境を調べて、もしそれが好ましくないものなら、あれこれと理由をつけるのです。

そして、自身が信じているあらゆる種類の考えを当てはめるのです。そうやってものごとを現実のものとして具体化してしまい、あなたが客観性を与えた環境と、主体としてのあなたの間に大きな分離を生み出してしまうのです。

根底にある実在は、主体と客体とに分離してはいません。好まない環境を客観的な対象として、それを好まない「私」を作り出しているのはあなたです。それはすべて、あなたの創造的な思考の産物です。

あなたが理解しなければいけないことは、もし心の中で主体、客体という分離を作らなかったら、マインドは空であり、安らかだということです。私たちはそれを無心と呼びます。非観念の開放的な意識、心はものごとを追いかけません。

無心は空の空間のように、常にありのままです。しかし、あれこれ考えることによって、あなたはそれを主体と客体に変えてしまうのです。そうしたことによって、あなたの気分が生まれます。

環境にまつわるあなたの思考、気分が作られなければ、この無心は広大にして空であり、思考によって悩まされることはありません。こうした思考や気分はあなたの環境に対する反応なのです。私の説明をよく考えて、自分で直接理解するようにつとめてください。

太子:それはごもっともです。では、目を閉じている時はどうですか? 特別な環境を経験しなくても、私の頭の中でたくさんの思考や観念が動きまわっています。なぜですか?

法融:絶えずものごとを考えているあなたの習慣のせいです。あなたが目を閉じただけでは心は停止しません。こうした思考はあなたのあれこれの心配から生まれます。でも、もしあなたが、世界と呼ぶものに対する心配を解放すれば、やがては本性が現れます。それはあたかも、雲が去って、何もない青空が現れるようなものです。

太子:あなたは、私の習慣的な思考は実際にどこかで作られているわけではないので、それが消えることによって心の本質が明らかになると言ってみえるように思えます。でも、私の抱えている問題は、一つの思考が別の思考を生み、永遠に続くように思えることです。そのため、この過程から逃れることができるとは思えないということです。

法融:あなたはものごとを正しく見ていません。あなたの世界として作り出されているものは、あなたのメンタルの構築物です。あなたが住んでいるこの世界は観念的思考と記憶の産物であり、実在ではありません。それには全く実体がないので、あなたはそれに対して何もすることがありません。

あなたは、それがすべて空であると理解するだけいい。そうすることによって、あなたの心は分割することをやめ、あなたの心の中のイメージ化は自然と消えるでしょう。

これは、知識を得るということとは何の関係もないということを理解してください。私が話しているのは、根本的には何も知られていない知る働きの意識のことです。それが無心です。この開かれた意識の状態は、何かの知識のことではありません。

人の本来の性質は、ゆったりとして目覚めていて安らかです。外側に何かを探す必要はありません。もし私の言っていることに従うことができるなら、自分の思考を気にする必要などないということを、あなたは理解するはずです。

思考を追いかけないでください。いずれにせよ、思考は空です。そのままにしておきなさい。月影を見ても、月を見ることはできません。空(そら)に鳥が描いた軌跡をつかんでも、鳥をつかまえることはできません。

心も同じです。あなたが探せば探すほど何も見つかりません。あなたのそうした観念的な思考は、夢の中の出来事と同じように実体のないものです。それを去らせなさい。それは春の暖かい日差しで溶ける氷のように去っていくでしょう。

物の本質は空です。どんなにやってみても、空から逃れることはできません。というのも、それが真実だからです。どれだけそれを探しても、それは見つかりません。それは鏡の中の像のようなものです。あなたは像を見ることはできますが、鏡そのものを見ることはできません。

***

太子:私は日々の雑事で忙殺されています。これは障害ではありませんか? どこかで静かに座って、心を鎮めるように集中した方がよいのではありませんか?

法融:どうして活動が無心の障害になるのですか? 無心は活動中も活動していない時もそこにあります。ものごとを複雑にしてはいけません。心を使うべきではないとは誰も言っていません。

太子:教師の中には、もし道を実践したいのなら、静かにして話をしてはいけないという人もいます。それは正しいのですか?

法融:話たり、話さなかったりすることは無心と関係ありません。あなたが話そうと話さまいと、もともとの本質はずっとそこにある。しかし、そのことのためにだけ話をしたり、その話が真実と調和しないのなら、黙っていた方がはるかに良い。無心は話すこと、話さないこととは何の関係もない。あなたが何をしようとしまいと、そこには偉大な、自ら生じる意識の知性があります。

もしあなたが、自身の思考の完全な透明性を理解するなら、もう思考に悩まされることはありません。あらゆるものは現れては消える。それがものごとの本質です。それはただ流れていく。あらゆるものごとは谷間に響くこだまのようなものです。

***

太子:普通の人たちは、この世界を何か現実味があって触れることができるものとして経験します。しかし、光明を経験した人たちには、この世界が非現実のように見えると聞いたことがあります。それは正しいのですか?

法融:光明と、この世界が実在か非実在かとは何の関係もありません。もしあなたが憶測することをやめて、あなたの困惑した視点を捨て去れば、もうこのことについて尋ねることはありません。

太子:光明を達成するためには心を集中させなくてはいけないという教師もいます。

法融:無心と心を集中することとは何の関係もありません。心を集中することによって何かが向上するという考えは誤りです。最後には集中そのものが障害となり、ただ単に集中を練習することに執着するようになります。それは誤りです。もし誤った二元的な思考に固執するなら、集中した状態から出てきても、内側の不快や不安はそのまま続きます。

集中した状態から出てくると、しばらくは穏やかに感じるかもしれませんが、すぐに聴覚や視覚など、区別する心の作用がふたたび現れて日常生活の中で騒ぎ始めるでしょう。それではまったく役に立たない。そして最後には日常生活から完全に逃げ出したくなるでしょう。

それは、風が吹いたとたんに現れる波のようなもの。風がおさまったあとにあるのは、まったくの静寂。私があなたに説明しているのは、このことを理解できない狭量な人にあてたものではありません。

無心とは、誤った考えを暗闇から追い散らす炎のようなものであるということを理解しなさい。心は自然と思考のとらわれ、執着から自由となり、分割や制限がなくなります。マインドがそらのように広大で空になると、通りすぎる雲に悩まされることはもはやなくなります。

太子:光明を得ることを通してのみ物事の本質を知ることができるという人もいます。このことは、物事は人々の心にのみ現れていて、その知覚の対象となるものは実際には存在しないと暗示しているように思えます。

法融:知覚の対象となるものが存在するということが何を意味しているのか、あなたが深く考えているとは思えません。心の中に存在するものなのか、それとも知覚の対象として存在するものなのか、物を客観化しているのはあなただということを理解しなくてはいけません。

***

太子:もし光明を得たいのなら、自己修練を積まなければならないと教師たちは言います。そのため私は、より良い結果を期待して、大きく前進するため精神修養を積んでいます。しかし、あまりよい感じがしません。

法融:人々は決して達成できないものを達成しようと考え、決して見つからないものを探しています。問題は、あなたが物事を観念化して、何か達成すべきことがあると考えていることです。もしあなたが自己の心を訓練して目に見えた大きな進歩や個人的に何かを達成しようとするなら、あなたは完全に的外れなことをしています。あなたはまったく逆のことをしています。

***

太子:人生の浮き沈みの中で、どんなに努力しても、向上するのはほとんど不可能であるとわかりました。どうしたらよいでしょうか?

法融:もしあなたが道を達成したいのなら、物事の本質を理解しなくてはいけません。それは実際には簡単でもなければ、難しくもありません。

太子:説明していただけますか?

法融:あなたは心の性質を理解する必要があります。思考の構造を調べて、それがどう働くのかを理解する必要があります。注意して見ると、あなたは自身の心の中で創造された思考と観念で形作られているとわかるはずです。

そうしたものは、それ自体が不変の存在ではないということです。それらはすべて実体がなく、つかの間のもので、本質的にはでっち上げられたものです。あなたがものごとを体験するやり方は、自身が作り出した観念上の構造物に完全に影響されたものです。

ある日、思考がある方向へ動き、あるやり方で考えます。その次の日には反対方向へ動き、何か他のことを考えます。すべての構造物が空であることを理解することによって、あなたはそれから解放され、それは消えていきます。

これは、名前と形の観念、二元的主張の制限からの自由と呼ばれています。それは、存在と非存在、実在と不在、形と空、絶対と相対、輪廻と涅槃といった二元的な思考の超越です。でも実際に起こっていることのすべては、最初にこうした観念を作り出した心が創造された観念を信じることをやめ、追い求めることをやめるということです。

こうしたこと全体から自由になることが無心です。無心とは、心理的、精力的に動くことをやめた心のことであり、それゆえ自然と注意深くなります。それは命の自然な知性が障害なく働くことができる心のことです。

太子:あなたが説明されたことは聞いたことがありますが、どんな訓練をすればいいのかまだ知りません。

法融:あなたが探しているものは、何かを故意に否定したり、何かと意図的に訓練することによって得られるものではないということを理解しなくてはいけません。真の理解は、計算された意図のない完全な率直さと受容性から起こります。変容のために、あれこれを勧める人はまったく的外れです。それはまるで、鏡に映った像に対してあれこれするようなものです。

断定、否定、どんな態度もとらないでください。実在と空は異なる二つのものではありません。どこにいようと、出来事のただ中にいて、ただ自然で開放的で注意深くありなさい。道は、何かを手に入れようというあなたの思いや、意図的な行動を超えています。それは言葉では言い表せない不動のものであり、何にも依存していません。どうしてあれやこれやのもくろみでそれを理解できるでしょうか。

***

太子:多くの教師たちが、長期にわたる静的な瞑想を勧めています。それは必要ですか?

法融:不幸なことに、静寂主義的消滅が道であると考えている者が多い。そうしたやり方は道とは反対のものです。真理は、その人自身の計算で作り出すことはできない。

太子:経典や注釈書を学ぶことは必要ですか?

法融:知識を蓄えることや、分析的な洞察を追求することはほとんど役に立ちません。そうした行いは脳を疲れさせるだけです。

***

太子:正しい方向を示していただけるよう最終的な言葉をお願いします。

法融:物事の本質が一番重要です。しかし、物事に対して混乱しているなら、それはその本性とは異なるものとして現れます。実在の本質は不可分性にあるということを理解しなさい。不可分性が本性です。

あなたがそれをどう考えようと考えまいと、本性はそのままです。経験は主体と客体に分割されているように見える。しかし、それは単なる幻影に過ぎません。実在は常に一元であり、それは常に一元のままです。それが本性の特徴です。

それは、あなたが想像できるよりも、もっと身近にあります。あなたが、徹底的に空の原理を突き進んでいくなら、私の言っていることを理解するでしょう。

********

生徒:目覚めた人と目覚めていない人の違いは何ですか?

法融:目覚めていない人は何かを達成しようと奮闘し、目覚めた人は達成すべきことなど何もないと理解したということです。

生徒:達成と未達成の違いは何ですか?

法融:達成という考えは誤りです。実際自分で何かを手に入れることはできません。

********

参考サイト

Wikipedia 景徳傳燈録

Original Teachings OF CH'ANBUDDHISM

牛頭法融 Niutou Farong 

2022/05/14

牛頭法融(ごず ほうゆう) 心銘(しんめい)

心銘

心は不生である。
それをどこかで見つけることはできない。

あらゆる物は空(くう)である。
それなのに、どうして純、不純と言うのか。

あちらこちらと探せば探すほど、
それは遠のいていく。

心が停止すると、
あらゆるものごとはあるがままで完全である。

それを理解したなら、
もはや教義は不要となる。

はっきりと識別することができ、
正しくものごとの本質を見ることができるだろう。

もし心の一体性が失われれば、
どんな教えも役には立たない。

果てしなくあれこれと思いをめぐらせ、
どうして自らを疲れさせるのか。

命は不生なのだから、
未分割のままで姿を現す。

もし心の平安を望むなら、
無心こそが道である。

心ででっちあげたものがないとき、
それが最良のものである。

あなたは不知によって実在を知り、
その不知が知るべきことを知っている。

心に働きかけても、
決して自身を解放することはできない。

執着を手放し、忘れることができれば、
あらゆるものごとが自然と完全になる。

最上の真理は言葉では言い表せず、
何かを為すことや為さないことでは達成できない。

命に対する理解、感応は、
いつもその時その場で起こる。

あらゆるものが空となり、
あなたは空に慣れ親しむようになる。

光明を追い求めなければ、
それは自然と現れる。

思考は自然と現れては消えるが、
それはどこからもやってこず、どこへも行きはしない。

思考を実在と思わなければ、
それは自然と消える。

三界には何ひとつ実在のものはない。
仏陀も心も見つからない。

あらゆるものごとは無心の中で自然と現れる。
無心なくしては何も現れない。

ものごとを神聖と世俗に分けても、
自身の心を混乱させるだけだ。

想像上の完全さを追い求めることは、
目の前のごちそうを無視するようなものだ。

二元的な観念を放棄すると、
ものごとはただ単にあるがままである。

そうならば、役に立たない修行や儀式に従う必要はない。

開放的な意識の中で心はくつろぎ、束縛を離れる。

分割されていない三昧の中では、何も見えない。
そこには障害となるものは何もない。

開放的な意識の中では、すべてはあるがままである。
三昧の中では心は分割されていない。

あらゆるものが、ありのままであり、
それはすべて同じ真如(しんにょ)として現れている。

あらゆるものが現れては消える。
あなたが掴めるものは何もない。

あるのはそれだけ。
それは来ることもなく、去ることもない。

あなたが達成しなければならないことなど何もない。
頓教も漸教もない。

それはただあるがまま。
言葉で言い表すことはできない。

無心の中でくつろぎさえすれば、
何もすべきことはない。

あらゆるものごとの本質は空であり、
障害は自然と消えていく。

純、不純というものはない。
表面的、深淵というものもない。

過去を見つけることができず、
現在は手の届かないところにある。

あらゆるものごとが真如の中を漂っている。
そしてそれが本性である。

もしそれを捕まえようとしなければ、
それは自然とそこにある。

実在はもともと、あるがままにある。
作り出さなければいけない何かではない。

般若は自ら輝く知性である。
あなたが何を創造しようと、すべてはそれである。

帰るところはどこにもなく、行くべきところもどこにもない。
執着を捨てて、野望を忘れよ。

大きな喜びと慈愛が自然に広がり、
自然の落ち着きが力強くそこにある。

六感が自然に働けば、
開放的な意識が概念化によって曇ることはない。

そうすれば、心が妨害されず、
あるゆるものごとが自然と調和するだろう。

心と感情は同じ源を共有し、
調和して混乱はない。

開放的な意識は現象を排除しない。
それらはともに神秘的に混ざり合っている。

目覚めた人と目覚めていない人は違うように見えるが、
それでも彼らは根本的に同じである。

達成と未達成、
どうして良し悪しをつくりだすのか。

あらゆるものごとは存在しているように見えるが、
それは存在でも非存在でもない。

観念化する心は真の心ではない。
真の心は改善を必要としない。

分割があれば手放しなさい。
実在においては不分割のみが存在する。

あなたが掴むことができるものなどないということを理解しなさい。
そうであるなら、何を取り除く必要があろうか。

物が実在であるかのように話すのは意味がない。
言葉はあらゆる種類の幻影を作り出す。

感情なしでいようとしてはいけない。
ただ、観念化することをやめなさい。

無心の中では、あなたの偏った考えは消滅する。
不動の中では心の状況は消えてなくなる。

それを見つけようとしても無駄である。
なぜなら、見つけようとしているものが見ているものだからだ。

二元的な考え方を捨てなさい。
それすればそれはそこにある。

体験する時には、あなたの五感を開きなさい。
すべてが流れ込むように。

もし何物にもしがみつかなかったら、
すべてが無心の中で漂う。

物事にしがみつかなければ、
物事はいかなる問題も引き起こさない。

心は広大であり、安らかである。
しがみつくものも、手放すべきものもない。

あらゆるものごとは現れては消える。
その時、心はどこにあるのか。

最終的には心も対象物もない。
ただ、広々とした無心があるだけである。

自身の本性を認識しようとするのは、
水の中で水を見るようなものである。

聖人を他の人が理解することはできない。
なぜなら彼は分割できないものを分割しようとはしなからだ。

彼は、他の人が考えていることには興味がない。
彼の心は流れる水のように漂う。

もしあなたがものごとへ執着を手放せば、
心配事から解放さるる。

もしあなたがものごとを分割しないのなら、
時間というものを見つけることはない。

あなたは愚か者のように見えるかもしれないが、
実在の中に根をおろしている。

周りの環境が変化すれば、
あなたは柳の枝のように曲がるだろう。

どんな固定した視点も持たなければ、
そこには主体も客体もない。

あらゆる方向へ漂っていくと、
不分割なものだけが広がっている。

ものごとを考え抜こうとすれば、混乱を生むだけである。
そして混乱は分裂をもたらす。

もし動揺を心で鎮めようとすれば、
心はさらに燃え上がるだけである。

あらゆるものごとは不変の実体を持たない。
それらは皆、同じ門よりやってくる。

それは到着の門でも、出発の門でもなく、
不動の門でも、活動の門でもない。

理解力の乏しい人たちは、
このことが理解できない。

実在の中で、あなたは決して何一つ見つけることができない。
すべてのものごとは空である。

このことだけが真実である。
あなたはそれ以外、何も見つけられない。

真の知識は常に不知である。
そして、真の空は決して空ではない。

過去、現在、未来の賢人たちは
みな同じことを言うだろう。

この真実は不変的なものである。
その他には何もない。

もしあなたが、何にも執着しなければ、
安らげるような環境を作り出す必要はない。

心はもともと安らかである。
それは広大で、それ自体が光である。

それは束縛されていないもの。
自然と現れる何かである。

何もなすべきことはなく、あなたは好きなようにしてよい。
活動していようと休んでいようと、それは一つの真如である。

般若は活力にあふれた生命知性である。
三昧の本質は不動である。

それらは同じものの二つの側面である。
それは、一つの言い表せないものを現している。

何をすると決めたとしても、
評判や利益をあてにしてはならない。

教えるために、いかなる教義も作ってはならない。
空の家の中でしばらく安らかに休みなさい。

あなたは道の中に満足を見つけるだろう。
そこには広大さと自由があふれている。

何もすべきことはなく、何も手に入れるべきものもない。
もともとすべては分割できない完全なものである。

至福、喜び、愛としての広大な生命の活力が
この全体性から流れ出ている。

混乱のない心によって、
あらゆるものごとが調和している。

すべては未生のものとして存在しているということを理解したなら、
それは永遠にあなたとともにある。

賢者は誰しもこのことを理解しているが、
あなたがそれを説明する方法はない。

**************

牛頭法融(ごず ほうゆう:594年~657年)は、牛頭宗(ごずしゅう)の開祖。牛頭宗は唐代の禅宗の一派。

心銘では、もともとあらゆるものが完全であり、何も探す必要はないし、手に入れるべきものはないと言っているように思えます。

参考サイト

牛頭法融とはーコトバンク

Wikipedia 牛頭宗

Mind Inscription

牛頭法融 Niutou Farong (594-657)心銘 Xin ming

仏とは何か

2022/05/07

慧能(えのう)②

六祖壇経(ろくそだんきょう)

(要約)

その一

一行三昧(いちぎょうざんまい)とは、どんなことに従事していようとも、無思考でいるということである。維摩経(ゆいまきょう)ではこう言っている。「マインドに雑念がなく、くつろいでいる時、他に何も為すべきことはない。それが涅槃である」。それゆえ、観念にとらわれず、無思考にとどまる状態は一行三昧と呼ばれる。

ものごとの表面しか見ない浅はかな人は、一行三昧とは、動かないで無理やり座って思考を抑えつけることだと思っている。彼らは、それが三昧(サマーディ)であると思っている。

無心とは、不動や無意識とは何の関係もない。そうしたことは生命エネルギーの自由な流れを妨げることとなる。命は自由に流れることを許されるべきである。生命エネルギーの流れを妨げると、締め付けを生むこととなる。

もしマインドがくつろいでいて、それでいて自然に注意深くあり、ものごとに執着していなければ、生命エネルギーはバランスがとれていて締め付けは起きない。もしマインドが張りつめていれば、不自然な状態となる。

もし、「座って動かないのが正しいことだ」というなら、あの舎利弗(しゃりほつ)が林の中で座禅していた時、維摩(ゆいま)に叱られたはずはない。

多くの教師たちは人々にあれやこれやの宗教的訓練を教える。そして人々はこうした種類の訓練を実践する。人々はこうしたことが何の役にも立たないということを理解しない。人々はこうした訓練に取りつかれるが、最終的にはまったく役に立たない。このような人が大勢いる。こうしたことを教えている人たちは大きな間違いをしている。

その二

釈尊の教えには、もともと頓教(とんぎょう:修行しないで、ただちに悟ることができるとする教え)と漸教(ぜんぎょう:長い修行のすえに悟ることができるとする教え)の区別はない。もし何か違いがあるとすれば、それは人々の天分の違いである。会得する人が早い人もいれば、遅い人もいる。

会得するのが早い人は即座に理解し、遅い人は徐々に理解する。もしひとたび自己の本性を理解したなら、早いも遅いも何の違いもない。頓教と漸教は便宜上の名にすぎない。

その三

私がこれから説く教えは、先人から代々受け継がれているものである。それは無心(ノーマインド)と呼ばれ、三つの原理から成り立っている。その根本的な原理は無念(無思考)である。無念とは、何かを考えていても、その思考にとらわれないで自由でいること。

そして次が無相である。無相とは形のないこと。すなわち、現象として現れているものごとにとらわれないでいるということである。そして三番目が無住である。無住とは、心の中の一切の束縛から自由であり、ものごとの本質と調和しているということである。

自身のマインドを見つめると、思考が際限なく次々とやってくる。しかし、そのすべては過ぎ去っていく。特定の思考が無期限に続くことはない。過去、現在、未来の思考が川の流れのように次から次へと続くが、もし思考に対して反応しなければ、あなたはその思考に束縛されることはなく、無条件の意識としてくつろぐことだろう。

反対に、特定の思考にしがみつけば、さらなる思考を生じさせ、それに縛られてしまうだろう。あらゆる状況において、やってくる思考に対して、しがみつくことも拒絶することもしなければ、あなたのマインドは常にオープンで、自然と注意深くあり、くつろいでいる。それゆえ、無思考がきわめて重要な原理といわれている。

無相とは、現象に対して執着、あるいは嫌悪がないということである。喜ばしいことが起こった時も、不快なことが起こって混乱した時も、その現象に惑わされなければ、あなたの本質は変わらずにバランスが取れている。それゆえ、無相が実体であると言われている。

無住とは、まわりの環境に惑わされないことである。すべてが空(くう)であると理解したなら、もう物にとらわれることはなくなる。どんな物が現れても、協調してやっていくことができるだろう。もし、多くのことを考えることをやめると、ものごとに悩まされることはなくなり、束縛のない意識の中でくつろぐことができる。

その四

あなたたちはこの教えの意味を正確に理解しなくてはいけない。それを理解できなければ、さらなる誤った解釈におちいることとなる。誤った解釈は、あらゆる種類の観念を生み、そこからまた誤った考えが生じ、貪欲と不快を生み出すこととなる。あなたは思考の性質を理解しなくてはいけない。

無とは、何がないことなのか。念とは何を念ずることなのか。無とは、主観と客観の対立がないことであり、人のマインドを迷わす煩悩がないことである。念とは、ありのままの本性を思うことである。ありのままであることが念(思考)の本性である。

思考を起こしているのは本性である。しかし、たとえもしあなたが、見たり聞いたり知覚したりしたとしても、本性と調和していて、現れるすべての現象にとらわれなければ、あなたは束縛されず、安らかでいられる。維摩経ではこう言っている。「現象として現れるものごとを区別していたとしても、内側の空がゆらぐことはない」

その五

この教えの本質とは、あなたがものごとを体験する時、現れてくるものごとに対して、執着も拒絶もしないということである。マインドがオープンでクリアーなら、六感は自然と機能する。あなたが、感覚の世界のただ中にいても、それにしがみつくことも拒絶することもなければ、あなたはそれとともに自由に流れていく。それが、般若波羅蜜多である。自己の束縛から自由でいることを無心(ノーマインド)と言う。

しかしながら、力づくで思考が起こってくるのを止めようとしたり、多くのものごとをさえぎろうとしたりすれば、自身を締め付けることになる。もしあなたが、完全にこの教えを実行するなら、最終的には束縛のない計り知れない平安を見つけるだろう。

その六

座禅とは、もともとマインドに執着することでもないし、清浄に執着するのでもなければ、不動でもない。マインドはもともと捉えどころのないものである。マインドは幻のようなものであるから、それに執着してはならない。清浄ということに執着すれなら、人の本性はもともと清浄であるから、妄想によってありのままをおかしくしていることになる。

座禅とは、常にオープンでくつろぎ、観念的な思考に束縛されないということである。外的には現象にとらわれず、内的にはマインドに動揺がないことが座禅である。無数の現象の中にいるときでさえ、内側が乱されていなければ、瞑想が自然と起こる。

外側の環境にとらわれてしまうことは混乱の原因である。外側の世界の現象にとらわれないでいることが禅である。内側の世界で乱されないでいることが瞑想である。それが座禅である。維摩経では、「あなたは一度も本性から離れたことはない」と言っている。梵網経(ぼんもうきょう)では、「あなたの本性は初めから同じままである」と言っている。

その七

本性はただあるがままである。いかなる欠点、混乱、無知もない。あらゆる思考はもともと内在する生命知性の輝きの放射である。無条件に意識の中でくつろぎ、ものごとの見せかけに固執しなければ、他に何をなすべきことがあろうか。自らにもともと備わっている本性に目覚め、目前の存在意識にとどまるなら、そこには段階的なものは何もない。そこには作り出されるべきものは何もない。

その八

目覚めたマインドと目覚めていないマインドの実体には何の違いもない。ただ一つの、もともとの本性があるだけである。愚かな人にそれが足りないわけでも、賢い人にそれが余分にあるわけでもない。目覚めた人にも目覚めていない人にも、それは同じようにある。それは見てわかるわけではないが、隠れているわけでもない。それは永遠のものでも、一時的なものでもない。それは、やってくることも、どこかへ行くこともない。それはには内側も外側も間もない。それは本性と呼ばれる。それは、不動、道と呼ばれる。

参考文献

六祖壇経 (タチバナ教養文庫)
世界の名著 禅語録

参考サイト

禅と悟り
禅の視点 - life -
イーハトーブ心身統合研究所
Wikipedia 慧能
Wikipedia 六祖壇経
Wikipedia Platform Sutra

以下はPDF(六祖壇経の英訳版)
THE PLATFORM SUTRAOF THE SIXTH PATRIARCH by PHILIP B. YAMPOLSKY
On the High Seat of "The Treasure of the Law" The Sutra of the 6 th Patriarch, Hui Neng
The Sixth Patriarch’s Dharma Jewel Platform Sutra

2022/04/30

慧能(えのう)①

達磨に始まった中国の禅を大成させたのは、六祖である慧能(えのう:638~713)であると言われています。その理由は、慧能のもとからすぐれた禅僧がたくさん生まれ、後に中国において形成される5つの宗(潙仰宗・臨済宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗)と、臨済宗の2つの派(横龍派・楊岐派)、いわゆる五家七宗が生まれる起点となったからです。もちろん、日本の禅宗も、ルーツを辿れば慧能へとたどり着きます。

慧能の教えを学ぶ材料として、六祖壇経(ろくそだんきょう)という語録があります。内容は、慧能(えのう)が行った説法を弟子の法海(ほうかい)が書き留めたものです。語録は師から師へと直接伝授され、すぐには広まりませんでしたが、九世紀以降多くの人に読まれました。

六祖壇経には様々なバージョンがあって、内容も多少違うようです。参考文献やサイトを参考にして、慧能の生涯と教えをまとめてみます。

********

第六祖・慧能(えのう)は唐の時代の人。慧能の父は范陽(はんよう)の出身だったが、左遷されて嶺南(れいなん)の新州に流され、慧能が三歳の時に亡くなった。慧能は母と二人で南海の地に移り住み、薪を売って極貧の生活をしていた。慧能は学問もなく、文字も読めなかった。

ある時、薪を配達した帰りに通りを歩いていると、一人の僧侶が経を唱えながら歩いていた。それを聞いた慧能は、たちまち内容を理解して強く惹かれ、その僧侶に、それは何という経であるかとたずねた。

僧侶は、それが金剛経であること、そしてそれは五祖弘忍(ぐにん)から学んだもので、金剛経を弘忍(ぐにん)のもとで学んで唱えさえすれば、たちまち仏になることができると言われていると教えた。それを聞いた慧能は、すぐにでも弘忍のところへ行って金剛経を学びたいと思ったが、母の面倒を見なければならず、すぐには行くことができなかった。

やがてその話を聞いたある人が、弘忍の母の衣食の費用にと銀十両の提供を申し出たため、慧能は弘忍のもとへと旅立つことができた。慧能は数十日歩いて、弘忍の住む黄梅山に到着し、弘忍に入門を願い出た。

「お前はいったいどこの者か。私のところへ何を求めて来たのか」弘忍は尋ねた。

「私は嶺南の新州の平民でございます。ただただ仏になりたくて、はるばるやってきました」

「お前は嶺南の人間で、そのうえ獦獠(かつりょう:南方の野蛮人)だ。どうして仏になることができようか」

「人間には南と北の区別がありますが、仏性にはもともと南北の違いも身分の違いもありません。仏性にはどんな差別がありましょうや」

弘忍は慧能を力量を認めたが、まだ出家していない慧能を他の修行僧と同じように扱うことはできず、寺の雑務を命じた。弘忍のもとには700人の修行僧がいたが、慧能は出家僧ではなかったため、僧たちよりも下の立場の雑用がかりとして、一日中薪を割り米をひいて暮らした。

そんな生活が八か月ほど続いたある日、弘忍が修行僧全員を集めてこう言った

「私は日頃、お前たちに教えを説いて聞かせた。世の人々にとって生死の問題こそが最も重要であり、生の不安や死への恐れという問題の解決こそが大切である。お前たちの修行がどれほど進んでいるのか、各々の悟った境地を一遍の詩に表現して提出せよ。もし、教えを正しく理解して悟っている者あらば、私の後継者として先祖伝来の袈裟を授け、第六代の祖師としよう」

修行僧なかに、他の修行僧の先頭にたって修行にまい進する神秀(じんしゅう)という修行僧がいた。神秀は、身の丈八尺、容姿端麗、儒教、老荘、仏教を修めた博学秀才。長年まじめに仏道修行した結果、五祖弘忍のおぼえも高く「神秀にわれも及ばぬ」と言わしめた逸材だった。

修行僧たちは口々に、「われわれは詩を提出する必要はないだろう。現に教授師という立場におられる神秀(じんしゅう)様が六祖となられるであろう。われわれが詩を作って提出しても無駄になるだけだ」と言って、詩を提出しなかった。

神秀は人々の気持ちがわかっていて、ぜひとも詩を提出しなければならないと思たったが、下手な詩を書いて出せば、弘忍の信頼を失うことになると躊躇した。詩を書きあげ、提出しようとしたが、何度も迷ったあげく、直接提出することができなかった。

そこで神秀は考えた。弘忍の目に留まるように弘忍の部屋の近くの廊下の壁に詩を貼りつけ、弘忍がその詩を良いと言ったなら、すぐに名乗り出ることにしよう。弘忍は誰にも見られないように詩を夜中に貼りつけた。

身は悟りの樹、心は澄んだ鏡台。
いつもきれいに磨きあげ、塵や埃を着かせまい。

体は悟るための木であり、心は澄んだ鏡のようなものであるから、いつもきれいに磨いてちりやほこりを付かせないように修行しなければいけないという意味である。

弘忍は神秀にはまだ悟りが開けていないことを知っていた。しかし、弘忍はこの詩を読んで、このように修行を続ければ確かに勝れた成果を得るだろう、皆この詩を唱えて修行するよにと言って褒めた。これを聞いた修行僧たちは、弘忍が神秀の詩を褒めたといって、弘忍の法を継ぐのは神秀で決まりだと思った。

修行僧たちはそれぞれ神秀の詩を唱えて歩いた。たまたま一人の僧が慧能がいる米ひき小屋の前を通りかかり、慧能はその詩を聞いた。慧能はすぐに、その詩がいまだ悟った人のものではないとわかった。慧能が尋ねると、その僧はことの成り行きを説明してくれた。

慧能は、その僧に頼んでその詩の場所へ連れていってもらった。そこで慧能は、自分も詩を書いて貼りだしたいと言い、文字が書けないから代わりに誰か書いてほしいと頼んだ。するとそこにいた僧が言った。

「獦獠(かつりょう)のお前も詩をつくるのか、それは珍しい」

「仏の知恵を学ぶ者なら、初学者の知恵をあなどってはなりません。ことわざにもあるとおり、最低の人にも最上の智慧があり、最上の人にも智慧の盲点があります。もし人をあなどれば、たちまちはかり知れない罪をおかすことになりますぞ」と慧能は答えた。

「それでは詩を唱えなさい。お前のために私が書いてあげよう。もしお前が悟りをえたなら、まず最初に私を救っておくれ。この言葉を忘れなさるな」とある僧が答えた。

そして慧能は詩を唱えた。

悟りにはもともと樹はない。澄んだ鏡も悟りの土台ではない。
あらゆるものは、もともと何ものでもなく、常に清らかだ。どこに塵や埃があるというのか。

貼り出された2つの詩を読んで、弘忍は慧能こそが自分の法をつぐのにふさわしい器であると見抜いた。しかし、そんなことになれば、他の修行僧らが黙っていないことも容易に想像がついた。

その夜、修行僧らが寝静まったころ、弘忍は慧能を自室に呼んで、慧能に金剛経を読んで聞かせた。すると慧能は即座に悟りが開けて言った。

「和尚様、何とまあ、自己の本性はもともときれいなものだとわかりました。何とまあ、自己の本性は、生まれることも死ぬこともありません。自己の本性はもとから完全なものでした。自己の本性は微動だにせず、あらゆる現象は去っていきます」

慧能に悟りが開けたことを確認した弘忍は、自分が受け継いできた袈裟を慧能に与え、自分の法を受け継ぐものはお前であると伝えた。

しかし、修行僧たちの先頭であり続けた神秀をさしおいて、まだ出家すらしていない米ひきの雑用係が弘忍の法をついだことが他の修行僧らに知れ渡ったら、どんな騒動がおきるかわからない。ねたんだやつが慧能の命をねらうかもしれない。

弘忍はその晩のうちに慧能を寺から連れ出すと、船を漕いで湖を渡って対岸へと送りとどけ、その身を逃がした。そして慧能に、弘忍から法をついだことをすぐには公にせず、数年は山の中で隠れ住んで、ほとぼりが冷めるのを待つように伝えた。

月日は流れ、慧能は南方(広州)で得度して僧侶となり弟子を育て、その後弟子たちが様々な宗派をたて、禅宗(南宗)として発展していった。一方神秀は五祖弘忍のもとを去り、後に唐の都で、並ぶ者のない天下の名僧として王室、貴族、庶民にいたるまで厚い帰依を受け北宗と呼ばれたが、北宗は先細りとなり、やがては消えてしまった。

******************

参考文献

六祖壇経 (タチバナ教養文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門

参考サイト

禅と悟り
禅の視点 - life -
イーハトーブ心身統合研究所
Wikipedia 慧能
Wikipedia 六祖壇経
Wikipedia Platform Sutra

以下はPDF(六祖壇経の英訳版)
THE PLATFORM SUTRAOF THE SIXTH PATRIARCH by PHILIP B. YAMPOLSKY
On the High Seat of "The Treasure of the Law" The Sutra of the 6 th Patriarch, Hui Neng
The Sixth Patriarch’s Dharma Jewel Platform Sutra