2022/07/23

盤珪(ばんけい)③

臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師が、YouTubeで盤珪の教えを、「盤珪禅師語録」として講議してみえます。横田南嶺老師は、円覚寺の管長であると同時に、花園大学の総長でもあります。

教材となっているのは、「盤珪佛智弘濟禪師御示聞書」です。盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1) の中にも同じ題名のものが収録されていますが、このYouTubeで教材として使われているのは、宝暦八年(1758年)に出された木版本です。(岩波文庫版も解説の参考にされていると言ってみえました)

岩波文庫のものは、古い漢字や非常用漢字が使ってあります。読めないことはないのですが、漢字を推測して読む部分も多く、時々意味がわからないところもあります。でも、南嶺老師のYouTubeでは、そういうストレスはありません。

わかりやすい現代語で解説してくださっています。これがとてもわかりやすい。解説のわかりやすさはもちろんですが、それに付随した説話が非常にためになる。盤珪の経歴年表や、人となりも詳しく説明してみえます。このシリーズは、月一回の割合で更新された全26回のシリーズです。(臨済宗大本山 円覚寺公式チャンネル盤珪禅師語録)。

私は仏教のことを学び始めて、佐々木閑先生のファンになって、更新されるYouTubeを欠かさず見ていますが、横田南嶺老師のファンにもなって、更新されるYouTubeを見ています。非二元の教えはすばらしいと思うのですが、その説明の深みという点では仏教にはかないません。盤珪を学ぶことは禅を学ぶことであり、非二元を学ぶことだと思っています。ぜひとも、南嶺老師のYouTubeで学んでください。

そこで今回は、南嶺老師の YouTube の最初の三回について、語録の部分のみ、どんな風に解説してみえるのか、老師の説明を私がさらに要約したものをここに掲載させていただきます。これはあくまで紹介のためのものであり、YouTubeを実際に見ていただくことが大切です。盤珪禅師は、同じことを何度も繰り返し説いています。そして、それを繰り返し読むことが大切だと南嶺老師は説いてみえます。

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【盤珪禅師語録】第1回(2020年1月)
 

ある僧がきて質問をした。私は生まれつき短気で、師匠から、短気を直すように言われておりますが、直りません。私もこれはよくないと思い、直そうとしていますが、生まれつきなので直りません。どうしたら直るのでしょうか。盤珪禅師の教えによって、これを直したいのです。もし、直して国に帰ることができれば、師匠にも、世間にも顔向けができます。どうぞよろしくお願いいたします。

すると盤珪は言った。「あなたは、おもしろいものを持って生まれたな。今もここに短気を持ってござるか? 持っているのなら、出してみなさい、直してあげよう」僧は答えた。「今はありません。何かの拍子に短気が出ます」

盤珪は言った。「そうであるなら、短期は生まれつきではない。何かをしたときのきっかけによって、あなたが作るのだ。何かあっても、あなたが短気を出さなければ短気はありはしない。あなたが、わが身かわいさから腹を立てておきながら、それを生まれつきというのは何ごとか。そんなことをするのは、親に無理難題を言う親不幸者である。誰しも、親が生みつけたのは仏心ひとつである。

親はそれ以外のものは何も生みつけてはいない。一切の迷いは、自分かわいさから生まれたものなのに、それを生まれつきと言うのは愚かである。自分自身が短気を出さなければ、どこに短気があるというのか。一切の迷いも同じことで、自分が迷わなければ、迷いなどない。それを勘違いして、生まれつきでないものを、我欲で迷って、短気の習慣をつけ、自分で短気を出しておきながら、それを生まれつきと思い込んでしまい、どんなことに対しても迷わずにいるということができないでいる。迷いの方が仏心よりも尊いなら、迷いと仏心を交換してしまうことがあるかもしれない。

しかし、みんなが、仏心が尊いとわかれば、迷いたくても迷うことはない。迷わぬことが仏であり、迷わないことが悟りであり、他には仏になる方法はない。私が言うことを近くにきてよく聞いて理解しなさい。あなたが短気を起こすというのは、誰かがあなたの気にくわぬことを言ったり、したりした時に、自分の思いどおりにならずに短気を起こすことだ。その短気が生まれつきでどうしょうもないと言うのは、親が産み付けもしないものを親のせいにする親不孝者である。生まれつきなら、短期は今もあるはずだが、生まれつきではないから、今はないのだ。あなたの短気は、体と心に対して向けられたものに対して、わが身かわいさのために、自分で短気を起こしているのだ。」


【盤珪禅師語録】第2回(2020年2月)
 

「わが身をことさらかわいがることをせずに、相手にとりあわず、自分の思うようにしたいと思わなければ、どこに短気が出てくるというのか。出てきはしない。わが身かわいさに、自分で迷っているだけである。これだけでなく、一切の迷いはわが身をかわいがるせいで起きる。わが身をことさらかわいがりさえしなければ、迷いは起きない。

これをよく聞きなさい。親が産み付けたものは、不生の仏心ひとつだけであり、他のものは産み付けていない。それなのに、あなたが子供のころ、まわりの人が短気になるのを見聞きして、短期があなたの習慣となってしまった。それが時々短気となって現れる。それを生まれつきと思うのは愚かである。それを今までの過ちと知って、今から短気を起こさないようにすれば、短気を直す必要はない。直そうとするより、起こさぬようにする方が近道である。

短気を起こしておいて直すというのは無駄なこと、余計なことである。起こさなければ、直す必要などないということをわきまえなさい。これをしっかり理解すれば、この短気のことばかりではなく、あらゆる迷いも、迷うことはなくなる。迷うことがなくなれば、いつも変わらぬ仏心ひとつであって、それ以外のものはない。その不生の仏心ひとつで、生きて働いていけば、一切のことがうまくゆく。それであるから、わが宗を仏心宗と呼び、今日の生き仏である。(達磨が)じかに私たちの心の本質を指し示してくださった尊いことである。

みなさんも、私のいうことにとにかく任せてみなさい。まずは30日間、不生でいることができたなら、それからあとは、不生の仏心でいたくはないと思っても、自然と不生の仏心でいるようになる。不生の仏心ひとつが成仏の道であり、何をしていても、不生の仏心ひとつが働いているということになる。そうすれば、その人は今日の生き仏である。みなさん、今日生まれ変わったつもりで新しい気持ちで私が言ったことを聞きなさい。余分な知識が邪魔をすると耳に入らないから、今新たに生まれ変わったつもりで聞けば、初めて聞くように、余分な知識はなく、教えがすんなり入ってくるのである」。

【盤珪禅師語録】第3回(2020年3月)

これを聞いて、出雲の国から来た人が盤珪にたずねた。「禅師の教えによると、何の計らいもせずに仏心でいればよいというのは、わかりやすい教えですが、それではあまりに軽すぎるのではないですか?」 それに対して盤珪禅師いわく。「仏心でいなさいというのが軽すぎると言うのか。あなたが、この仏心をなんでもないことのように思い、何か言われたことにすぐに腹を立てて修羅の世界に落ちてしまい、欲望にかられて餓鬼となり、愚かさから不満を言って畜生となり、いろんなことに軽々しく反応することこそが軽すぎるのである。

私が説く仏心でいることが軽すぎるということはないのである。仏心でいることほど尊いことはない。私が言うことをよく聞いて、仏心で暮らすようにしなさい。仏心でいるということは、軽いことのように思うかもしれないが、そう思ってしまうために、皆が仏心で暮らすことがなかなかできていない。それはそんなに軽いことではない。すると、仏心でいるということは重いことのように思えるかもしれないが、今この話をよく聞いて、ちゃんと理解して疑わず、仏心でいれば、骨をおらずに軽やかに心安らかに今日の生き仏としていることができる。そうではないかね。

私の言うことをよく聞いて、何の計らいもせずに仏心でいることはたやすいとあなたは言うが、そうではないという証拠に、あなたは仏心を修羅に、餓鬼に、畜生にすぐに変えてしまうではないか。仕方のないことにいちいち腹を立てて修羅道に変えてしまえば、死んだあとに修羅道におちいることは言うまでもない。我欲のために仏心を欲に変えてしまえば、欲は餓鬼の原因となるから、生きているうちから餓鬼道におちいる下地を作っているようなものであり、死んだあとに餓鬼道に落ちることは言うまでもない。

そしてまた、何のためにもならない思いに執着して、ぐちぐちと心の中で繰り返すことで、仏心を愚かな愚痴に変えてしまう。愚痴は畜生の原因であり、生きているうちから畜生道に行く原因を作っているのであるから、死んでから畜生道におちいることは明らかである。こういうことを知らないで、皆生きている間に三悪道の原因を作って、三悪道への準備をしているのは笑止千万である。

修羅道や餓鬼道に落ちいないようにとすれば、自然と仏心でいる以外にない。ここのところをよく理解しなさい」。それを聞いて出雲の国から来た人いわく。「ありがとうございます、そのとおりでございます」。盤珪禅師いわく。「仏心は不生で霊明なものです。不生の仏心ですべてがととのいます。皆、この不生の仏心でいればいいのです。不生の仏心でいるということが、多くの仏たちが得た悟りのことです。なんと尊いことか。仏心が尊いということを知れば、迷いたくても迷えません。

今、不生の仏心ということを理解すれば、わざわざ死後の不滅と言う必要はありません。生まれもしないものが、滅するということはありません」。それに対して、僧が問うた。「禅師は普段から、不生でいなさいとおっしゃりますが、それでは何もしないでいいがげんにしているように思えますが、それでよいのでしょうか」。盤珪禅師が答えていわく。「不生の仏心でいるということは、何もしないでいいかげんでいることではない。

あなたはいつも脇道にそれて、あれにかかわり、これにかかわり、不生の仏心を様々のものに置き換えてしまう。それを、いいかげんと言うのである」。そう言われて、その僧は返事をすることができなかった。そしてまた禅師が言われた。「不生の仏心とは、いいかげんに何もしないでいるということではない。不生の仏心のままでいなさい」。

僧が問うた。「禅師のおっしゃるとおりであるなら、何かうっかりしているように思われますが、それでよいのでしょうか」。禅師いわく。「あなたが、何も余計なことを考えずに座っている時に、うしろから人がキリで突いたら、痛いか痛くないか、痛いであろう」。僧いわく。「それは痛いでしょう」。禅師いわく。「それならば、うっかりではない。うっかりしているなら、痛いということも感じることはない。いつうっかりしていたというのか。うっかりではない。私の言うことを信じて、不生の仏心のままでいなさい」。

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この YouTube は全部すばらしいのですが、特におすすめは第十五回、二十五回です。ほとんどセイラーボブの世界です。

【盤珪禅師語録】第15回(2021年3月)

【盤珪禅師語録】第25回(2022年1月)
 

このYouTubeを見てもらうとよくわかるのですが、セイラー・ボブの話の中に、明らかに盤珪がネタ元だと思われる話がいくつも出てきます。

 また、このYouTubeの一部は書籍化されています。盤珪語録を読む: 不生禅とはなにか

参考サイト