盤珪の言っていることは、読めば読むほどセイラーボブの言っていることに似ている。できるだけたくさんの言葉を紹介したいと思います。
盤珪は、難しい漢文の説明や公案を題材にして話すことはせず、庶民が聞いてわかる平易な言葉で説法したそうです。ところが、江戸時代初期の人たちにとってはわかりやすい言葉だったかもしれませんが、今の私が読んで、すらすら読めるというしろものではない。常用漢字ではない漢字がたくさんあるし、今の話言葉とも違い、スラスラとは読めない。
それでは現代語で書かれたものはどうかというと、著作権の関係があって、それほどたくさんは載せられない。
私が目にした中では、盤珪禅師逸話選 が現代語で書かれていて読みやすかったです。示唆に富む逸話や一節がたくさん載っていて良い本だと思います。
全部転載したいと思うほどですが、それはできないので、興味のある方は買うか、図書館で借りて読んでください。今回は本の紹介ということでお許しをいただいて、ほんの少しだけ転載させていただきます。
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p208
妄念は起こるに任せなさい
ある人が、盤珪さんに問うた。
「起こる妄念を払えば、またあとから起こり、次々と続いて、止むことがございません。この妄念をいかように収めればよろしいでしょうか」
盤珪さん、答えて曰く、
「起こる妄念を払うということは、血で血を洗うようなものだ。始めの血は落ちても、洗った血でまた汚れる。いつまで洗っても、汚れは除かれぬ。人々は、人の心はもともと不生不滅で、迷いなどとういものは初めからないのだということを知らぬ。妄念をあるものと思い、生死を流転するのだ。念は仮相なりと知って、取らず嫌わず、起こるがまま、止むがままにすることだ。念とは、たとえば鏡に映る影のようなもの。鏡はものを映すが、鏡の中に影を留はせぬ。仏心は、鏡よりも万倍も明らかで、しかも霊妙なものであるから、一切の念は、その光の内に消えて、跡かたもない。この道理をよく信得すれば、念がどれほど起こっても、何の妨げもない」。
p209
難行苦行は不要でござる
ある僧、盤珪さんに問うて曰く、
「古来の祖師方は、難行苦行を積んで大悟徹底されました。今日の和尚も、種々の難行を重ねて大法を成就されたことと存じます。しかし、和尚は我らに教えた、修行もせず、悟りもせず、ただこのままで、不生の仏心と覚悟せよ、と申されますが、納得がまいりません」。
盤珪さん、答えて曰く、
「たとえば、何人かの旅人が連れ立って、高い山々の峰を歩いていた折、喉が渇いたとする。しかし、辺りに水はない。旅人の一人が、はるかな谷川へ水を探しに行った。ここかしとを骨を折って、ようやく水を探し当て、水筒に詰めて持ち帰り、仲間にも水を飲ませた。さて、その時、山に残って骨折りもせずに水を飲んだ者たちも、さんざん骨折りして水を探し当てた者と同様に、喉の渇きを潤すことができたであろう。しかし、もし仲間の持ち帰った水を疑って飲まなければ、その者は、喉の渇きをいやすことはできぬ。
わたしは、悟りの目が開けた人に逢わなかったがために、誤って骨を折り、ようやく自心の仏を見出した。わたしが、種々の難行苦行をしなくても、自心の仏を見い出すことができると説くのは、いながら水を飲んで渇きを潤すことができるのと同じことだ。人々に本来具わっている仏心をそのまま用いて、難行苦行なしに、心の案楽を得ることができる。尊い正法ではないか」。
p210
煩悩は分別から起こる
ある僧、盤珪さんに問うて曰く、
「一切の煩悩妄想は鎮め難いものです。どのように鎮めるべきでしょうか」。
盤珪さん、答えて曰く、
「妄想を鎮めようと思うことも妄想である。妄想は本来ないものだが、ただ、自分が分別して出しているのだ」。
p212
悟りを目当てに修行する者は
ある客僧、盤珪さんに問うて曰く、
「わたしは悟りを目当てにして修行を致しております。いかがですか」。
盤珪さん、答えて曰く、
「悟りとは、迷いに対してのこと。人々は仏体にして、一点の迷いもない。ならば、何を悟ろうと言うのだ」。
客僧わけがわず、さらに盤珪さんに問うて曰く、
「さようなことでは阿呆でござる。昔、達磨大師をはじめ善知識の方々は、悟りの上で大法を成就されたのです」。
盤珪さん、答えて曰く、
「如来は、阿呆で衆生を済度されたのだ。来ることもなく、去ることもなく、生まれつきのままで、心をくらまさぬを如来と言うのである。歴代の祖師方も、みなかくのごとしである」。
学道の一大事は死ぬること
弟子の桃岳常仙(とうがくじょうせん)が、盤珪さんに問うた。
「わたしは、死ぬことを考えると、くるしくてたまらず、それでもこうして、毎度、和尚さまのところへ参上しております。人にとって、これよりほかに一大事はないと存じます」
盤珪さんは、答えられた。
「その心こそ、学道の根本なのだ。その志を失わなければ、そのまま道にかなう」
常仙は、再び問うた。
「成仏するということは、どこを言うのでしょうか」
盤珪さん、答えて曰く、
「わたしが言うことをよく得心して、信じて疑わないところ、そこがすなわち成仏である」。
p216
仏になるとどこへ行く
ある人、盤珪さんに問うて曰く、
「仏になると、どこへ行くのでしょうか」。
盤珪さん、答えて曰く、
「ほかのものになれば、いろいろ行く所もあるが、仏になれば、どこへも行く所はない。三千世界の外までも、仏は満ち満ちておるからだ」。
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花園大学公開講座 「禅とこころ」 花園大学 総長 横田 南嶺