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2026/03/15

Historical nonduality meeting with Sailor Bob on 6 March 2016 - 10 years ago

この動画は日本語で聞くことができます。(⚙マーク→音声トラック→日本語)

十年前の動画が、つい最近公開されました。まだボブが元気で一人で話している頃の動画です。日本語翻訳の精度がかなり上がってきていて、十分に理解できるレベルになっています。ところどころ不鮮明なところもありますが、今まで私のブログを読んでくださっている方なら、十分に理解できると思います。
私はこの動画の3週間ほど前、2月15日のミーティングでボブに会っています。懐かしい感じがしてうれしかったです。

2022/08/20

The Spiel ⑱ 2007年 あの部屋の真実

Sailor Bob Adamson, 2007. Truth's in that room・あの部屋の真実

この動画は2021年5月にセイラーボブのサイトに公開されたものですが、作成は2007年です。太字はセイラーボブの発言。聞き取り不能な箇所を一部省略しています。

*********

ナレーター:週三回、メルボルン郊外の自宅で、セイラーボブは来訪者すべてを歓迎します。このDVDは私の初めての夜のセッションを編集したものです。

まだよくわかりません。私は単に探求しているのか、それとも無という真実、あの部屋の真実に通っているだけなのかわかりません。

それはアドヴァイタ、非二元と呼ばれています。アドヴァイタは、ゾクチェン、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他の宗教の伝統の本質と同じものです。というのは、それらはどれも究極的に、非二元、他には何もない一つのものを指し示しているからです。他には何もないという言葉を付け加えるのは、「一つ」でさえ、他に何かがあるのではないかと暗示させるからです。

(チャイムが鳴ってボブが招き入れる)
ナレーター:少し遅れてやって来る人もいますが、ボブが気にする様子はありません。

ここでは、あなたはもともとあなたが探しているものなのだということから始めます。私はあなたに何も教えません。何かを伝えることもありません。私はどんな体にも話かけていません。私はどんなマインドにも話しかけていません。言い方を変えると、肉体として現れているもの、心身という有機体に話しかけているのではないのです。私はあの「私は在る」に話しかけていて、それが私です。その「私は在る」は思考の私は在るのことではなく、存在の感覚のことです。存在の意識、すなわち、自分が存在するという認識のことです。

偉大な知恵、言葉は「我はそれなり、汝それなり、これがそれだ、あれがそれだ」。あらゆるものの根底にあるものが、彼らが「それ」と呼ぶものです。それと彼らが指摘、話すものは、それからやってきて、それへ帰ります。それゆえ、それには分離がありません。そのため私は、「あなたはもともとあなたが探しているものなのです」と言うのです。

私たちはみな、私は在ると知っています。それは思考の「私は在る」のことではありません。それは実在のことです。「私は在る」は、存在の感覚、すなわち知性としての意識が翻訳されたものを表しています。自分が存在しているという認識が思考の私はあるとして翻訳されたものです。

その翻訳、思考が起こっている時でさえ、その認識はそこにあります。もしある思考が終わると、また別の思考がやってきますが、その根底には依然として、その認識があります。詳しく調べてみて、それが決して変化しないことを理解してください。それはいつもそこにあります。

私たちはそれを実在と呼びます。でも、それもまた概念です。実在が存在するためには、非実在が必要です。非実在なくして実在はありません。また、実在なくして非実在はありません。その二つの言葉がなかったら、あなたはどこにいますか?それは見ることと同じです。見るという思考が起きる時、私はこれを見る、私はあれを見ると言います。

でも、私は見るという思考なくして、偽の見る人、主体が存在しえるでしょうか? 私が椅子、テーブル、その他のものを見るなど、私たちが見るという概念が対象物を作ります。対象物なくして主体はありません。また、主体なくして対象物はありません。それは互いに打ち消しあい、根底となる見ることだけが残ります。

そしてあなたは、見ることなくしては、見る人、主体も、見られるものもありえないということを理解します。つまり、見ることが機能として今この瞬間に起こっていることなのです。ここに、誰か見ることが起こっていない人がいますか? ここに、聞くことが起こっていない人がいますか? 存在意識、すなわち意識が存在しない人がいますか?
つまり、それは何かを達成したり、手に入れたりすべきものではないのです。それなしでは、ここでは何も起こっていないということは明らかなことです。

星々がどうのように軌道の上を動いていくのかを見てください。どうやって地球は太陽のまわりをめぐり、潮が満ちては引き、季節がやってきては去っていくのか、どうやって種が芽吹いて木となり、草や葉となり、繭がかえって幼虫となり虫となり、さなぎが蛾や蝶となり、すばらしい色をまとうのか、どうやって白と黄色の卵から鮮やかな孔雀となるのか。どうやって精子と卵子が一緒になってこの人間というパターン、考える能力、発明したり、芸術や科学技術を創造したりする能力を持つものをつくるのか見てください。

それが意味しているのは、この顕現としての森羅万象には知性が内在しているということです。内在する認識、その知性について私は話ているのです。その知性はあなたが手に入れることができるもののことではありません。観念化することができることでもありません。見ることができるものでもありません。その自然な状態が本当のあなたであり、その自然な働きは自然の中の森羅万象と同じもので、自らを認識しています。自らパターンとなり、自ら機能します。

それゆえ、あなたはもともとあなたが探しているものなのですと言うのです。というのも、あなたがそうでなかったことなどなかったからです。一つの知性エネルギー、他には何もない一つのものが、思考、フィーリング、感情など、この顕現のすべてとなって現れています。森羅万象はその表れです。私たちはそれを知っていて、それを現象世界と呼びます。世界が現象でできています。辞書で「現象」という言葉を調べると、「そのように現れているもの」です。

現象の反対は非現象、非顕現です。顕現は非顕現がなければ存在しません。非顕現の現象の定義は、実際に存在するものであり、それが実在です。それには姿や形がありません。でもあなたはそれから逃れることも、それを否定することもできません。思考や概念、イメージでそれを掴むこともできません。言葉やラベルなしでは、それはあるがままなのです。それは今までも、これからもそうです。

実在としては、何も起こっていません。何も生まれ出てはいません。そのように見えているだけです。それが意味することは、自己という束縛から自由だということです。それは存在しておらず、あなたはいつも自由だということです。でもそれは理解されず、私はこの自己である、私は分離した存在であると信じられてきました。私とは自分のことであり、自分は良くない、制限されている、自己評価が低い、不幸だ、偉大だ、すばらしい、世界で一番など、どんな観念やイメージも「私」という思考に付け足しました。

そしてその心理的な絵やイメージを自分だと信じているのです。それを私たちは自己の中心、エゴと呼びます。心理的な絵、イメージには実体も独立した性質はありません。詳しく調査してみると、そのイメージは絶えず変化しています。あなたが5年前に自分に対して抱いていたイメージと同じイメージを今抱いていますか? 一週間前は? 一か月前は? あなたが子供だった時は? 

あなたは人々の言ったことを身に着け、そして身に着けたことを手放し、自身のイメージは絶えず変化しています。そこには何か確かで実体のあるものはありません。それには間違った信念に形作られた観念以外、独立した実体のあるものはありません。それを理解すると、この思考、すなわち分離した存在という間違った信念は存続することができません。

これが虚偽だとわかれば、それは存続することができません。信念なくして、どうしてそれを何かと結びつけることができるでしょうか? それが私たちに推論する力ついて以来、ずっとやってきたことです。幼い子供に推理する力がついて、みんながジョニーと呼ぶ存在は「私」だ。波動としての「私」という思考は常にその反対へと動きます。「私」の反対は、「私ではない」です。思考としての「私」がやってくる以前は、あるがままに見ていたものが、推理する能力によって、これは私ではない、これは自分ではない、となり、「私」ではない、「自分」ではないものとなります。

その「私」や「私ではない」という思考とともに、分離の感覚が生まれます。それはそれ以前にはなかったものです。分離の感覚は不安、傷つきやすさとなります。自身が何かから分離、孤立していると感じると、それが何かわからず、傷つきやすさ、不安となり、それをどうしてよいかわかりません。そしてあらゆることが、自身が自分に対して身に着けたイメージに関連付けされることになります。

「私」はこれが好き、嫌い、恐ろしい、腹が立つ、怒りを覚える、みじめだ、罪悪寒を感じる、よくない、あらゆることがその参照点に関連付けられ、それによって、良い悪い、心地よい、苦しい、幸せ、苦しい、などとなります。それはすべて過去の経験にもとづいています。それは死んだイメージであり、すでに死んだ何かに関連しています。死んだ何かが、どうやって残された生を知ることができるでしょうか? そうするためには、死んだものによって実際生きている生を、思い出し、回顧することとなります。どうして偽の参照点が有効な参照点となりえるでしょうか? どうして死んで無効な参照点で有効な理解をえることがでしょうか?

それはあたかも川からバケツ一杯の水を汲むようなものです。汲んだ水はよどみ、死んだものとなります。それが、私たちが繰り返しやっていることです。絶えず、死んだイメージを参照しているのです。私が何かを手に入れる、何かやる、何かになると考える時はいつも、自分はもともと理解していない、知らない、完全ではないという考えにもとづいています。その、完全ではないという信念ゆえに完全さを永久に追い求めることとなります。

仏陀やその他の偉大な伝統のメッセージは、あなたはこの心理的な苦悩から自由になることができるというものです。それはそうあるべきではないのです。いにしえの人たちは、苦しみからの平和、理解について語っています。そして人々はマインドの平和について語ります。心が平和であったことも、こらから平和になることもないということを誰も理解しません。なぜなら、マインドの本質は振動することだからです。それはそのように働きます。
マインドが働かない時が平和なのです。

そこに観念が無い時、マインドはありません。観念がなかったら、あなたは何を言うことができるでしょうか? 平安の他に何と言うことができるでしょうか? 観念がなかったら、平安だと言うことさえできません。それはただ、あるがままです。それゆえ私は、平安はあらゆる理解を超えると言うのです。観念やマインドでは理解できないのです。それが自然な状態です。それがまさしく今あなたがいる場所なのです。

あなたがここにいる時、それはいつも今です。人々は、外に行った時はどうかと言うのですが、あなた外に行けば、そこが、ここ、そして今になるのです。詳しく調べてみてください。どこにいても、いつどんな場所にいても、今ここ以外ではありませんでした。調べてみてください。それがなすべきことのすべてです。今、あなたがたの何人かは、調べて、それをちゃんと理解しました。ここでは何も隠し事はありません。そしておそらく人々はこのビデオを見たいと思うはずです。みなさん全員によい知らせがあります。質問や自分の意見を言うことをためらわないで。今まで長い間探求してきたのですから。(笑い)
ジム、何か言いたいことはありますか?

ジム:私には(あなたの話は)十分に役立ったと思います、ボブ。あなたの話を最初に聞いたときは驚きました。そして、とても不快でした。というのも、思い出せるかぎり昔から私が頼ってきたものが、私の問題の原因だということが驚きだったからです。この存在を信じていることに働きかける必要があると知って不快になったのです。(一部省略)

ボブ:それはすべての人に共鳴を起こします。というのも、もともと誰もがそのことを知っているからです。もともとそれを知っているのですが、観念化という雲に覆われていて見えなくなっているのです。でも、あらゆる人がそれなのです。それは限られた人たちのためだけの特別なものではありません。それは認識(知る働き)そのものであり、それを否定することはできません。それは、そのもの自らを再認識するということです。

男性A:それで、その空間、時間のない意識と私たちが描写するものは、実際にはあなたは何も言うことができません。というのも、それには特質も質量もないからです。そのためあなたは、言葉や心理的な概念として実際にそれを言うことができません。それは何なのですか?

それは心理的な概念でも理解することはできません。推論する力が身に備わって以来、私たちはそれを概念で理解しようとしました。でも、ニサルガダッタはビデオの中で言っています。あなたが概念で理解しようとすると失敗する。あなたは必ず失敗する。というのも、それを観念化することができないからだ、と。それを一言で言うなら、非観念の意識です。
キャサリンはどうですか?

キャサリン:その点に関しては、私が調査してみると、そこには意識をしている何かがあるのですが、それにラベルを貼ることはできません。というのも、私が調査するやいなや、それはそれではないからです。聞くこと、見ることは知る働き(認識)と同様に、そうしたことに対して私が何かを言うことができないからです。それはただそこにある何かです。生と呼ばれるもの、あるいはそれ以上のもの。それはマインドが落ちたようなもの。マインドではないもの。それはミステリーのようです。

そうした見方も悪いことではありません。あなたは、いにしえの人たちがやった、「これでもない、あれでもない」というのを自然にやっているようなものです。あとには何も残らず、無だけです。
マンガスはどうですか?

マンガス:私はずっと、世界の中で分離した存在だという考えにそそのかされてきました。私が経験してきたのは鬱状態です。もう長い間そうです。まだその状態かどうかはわかりません。でも、ここで実際に私が感じるのは、「私がどこに存在するのか調べる」という基本的な問いを十分に調べていないような気がします。私は理論も知的なアプローチの仕方も完全に理解しています。分離した「私」という思いを強めてしまうと、苦悩や痛みが大きくなるということもわかっています。でも、その分離した自己という幻想をちゃんと見抜いてその痛みを和らげる能力が私にないように思うのです。

あなたは理解しています。そこには「私」はいなということを見抜きましたね? 

マンガス:ええ、そう思います。

では、曇りの日に外へ出てみてください。曇りの日には太陽が雲で覆われていて、一日中太陽を見ることができません。でも、その日、太陽が空から無くなった瞬間があると思いますか?

マンガス:いいえ。

消えません。それと同じことです。見た目の上では思考という雲に覆われています。あたかも思考という雲が自ら輝く意識を覆っているのです。でもあなたは根底にある本質を知っています。時々は雲がそれを覆い隠しているように見えます。時々は光がもれてきます。それによって、あなたはいつもそれであり、これからもそれであると知るのです。どんなに雲が厚く見えていたしても。そのため、真実を知れば間違った思考の束縛から解放されると言われているのです。
私は青い海や蜃気楼の中の水、太陽と雲などの例えを使ってそれを指し示そうとしています。

アンガス:でも、私は本当に真実を知っているだろうかと思うのです。というも、それは例えば、何かが、オーケー、このアウエアネスの中で住んで、どこに喜びがあるのだ、と言うのです。というのも、人生の喜びをえることをあきらめたくないのです。アウエアネスの中に住んで、喜びたいのです。ちょっと変に聞こえるかもしれませんが、お金が欲しい、まだ手に入れてない、といったようなことです。

自分に問うてみてください。「そのことを考えなかったら、今何が問題なのか?」と。

マンガス:ええ、やりましたよ。最初の頃に。

(思考を)休止しましたか?

マンガス:ええ。

思考が休止している時、「それは喜びではない」と言うことができましたか?

マンガス:いいえ。

「それは喜びだ」と言うことはできましたか?

マンガス:いいえ。

それが至福です。

マンガス:それでは十分ではありません。(笑い)

それとともに十分長く留まってください。そうすれば、精妙さとともに、もっとそれに気づくようになります。

マンガス:それが私にとっては重要です。

そうです。ほんのちょっとだけ垣間見て、これではない、これでは十分ではないと言って、また古い習慣に戻り、マインドの中に答えを見つけようとします。その感覚がやってきたら目を閉じて、絶えずそこにあるもの、精妙なその本質とともにいると、幸福な感じが、どこにいてもあります。それには原因がありません。原因のない喜びです。

それは悲しみの反対ではありません。喜びと悲しみ、愛と憎しみ、心地よいと苦しい、といったことはどれも心理的な観念化です。それには浮き沈みの大きな起伏があります。私たちは精妙な原因のない愛、繊細な喜び、自然な慈しみが見えません。そうしたものすべてがそこにあります。勇気、美、愛。そして私たちはそれにラベルを貼ります。でもラベルがなければ、それは単なる感覚です。その感覚を掴んでください。それが本質、自然な状態です。見ることです。何かをしようとすることが罠なのです。

ジム:何か技法をもちいることの問題は、そこには依然として「私」がいるという信念が背景にあって、思考を分離しようと思考を見て、問題が解決しても、また同じ問題が繰り返し起こってくるということです。でも、それはもっと簡単なことです。私は、深いだとか、良いとかいう思考がやってきた時、「そのことを考えなかったら、今何が問題なのか?」と言うことです。そうすれば、他の人が自然に身につけることをえられます。自然に身に着けることができない人もいますが、それは、ゆるい上着を自分のアイデンティティとして身につけているようなものです。

女性:私たちが見ていないものがとてもはっきりわかりました。私たちが自分だと思っているものより、私たちが見ていないもののほうが実在であるということです。それは誰でも手に入れられるものです。それは純粋な可能性であり、確かな考えとして存在するものです。

私はそれを無努力の生活と呼びます。多くのことがこれによってなされます。時々それが不思議に思われるほどです。

女性:ええ、奇跡的です。

盤珪は、不生の中ではあらゆるとことが解決していると言いました。

女性:ええ。疑いありません。

どうして不生を思考と交換するのですか?

キャサリン:それが私がここへ通うのが好きな理由です。ボブは、明白なことや、それほど明白ではないことを指摘してくれますが、ボブが指摘するとそれは明白なことになるのです。あるのは今だけで、みんなが言うように、あらゆることが起こっていても、それはオーケーです。というのも、物事が起こっていても、そのことについて考えなかったら、何も問題ではないからです。それはいつもそこにあり、それはいつも今であり、今までも、そしてこれからもそうです。

何年も前、海に出ている時、何度も赤道を超えました。でも、そこに通過するような門があったことは一度もありませんでした。(笑い)それで思いついたのですが、宇宙船に乗って下を見ても国境はないでしょう。私たちは、あまりにも多くのありもしない信念や物事を貼り付けています。それをそこに探してもありはしないのです。もしそこに行為者がいるという信念があると、バン! また評価するための参照点が起こります。そこから、良い悪い、心地良い不快、幸せ不幸と判断します。でも、もしその参照点がなかったら、どうやって判断するのでしょうか? それは互いに無効なものとなります。
あなたは、ほんの少し前を生きることができますか?

キャサリン:いいえ。

できません。思い出すことはできます。今この瞬間にできるのは、それを思い出すことだけです。ほんの少し未来を生きることはできますか?

キャサリン:いいえ。

それを想像することはできますが、未来を生きることはできません。それが起こっているのはいつですか? 今です。今から出ることはできますか? できません。つまり、そこから逃れることはできないのです。もしそうしようとしても決してできません。それをやろうとしても、それが起きるのは今この瞬間です。それは、見ることを試みることではなく、あなたが何をしていようと、常にそれなのです。

キャサリン:見ることは自然の知性であるという言い方はできますか? 

信心銘ではこう言っています。空(くう)がここにある。空がそこにある。それでも無限の宇宙があなたの目の前に広がっている。それは、宇宙が消えると言っているのではありません。それは空ではあるが、見た目の上ではそこにあるように見える。それは見られる客体としての場面ではありません。というのも、そこには見る人がいないからです。そこには境界がなく、制限のないものです。

女性:そこには大きな喜びの感覚があります。ここやあそこに。何が起ころうと、何であろうと、喜びを感じるのです。

マンガス:これはむしろゲームのようなものです。このゲームをプレイして、ここ、この場所のようなところへたどり着く。もしそこで、真剣に座って耳を傾けると、ゲームをプレイするのを止めます。

もしあなたが真剣に座って耳を傾けると、ゲームをプレイする「私」はいないということを理解します。今、「私」がいないとすると、それはいついたのですか? 今存在しないなら、それは一度も存在しなかったということを、あなたは理解します。そのゲームはあなたという存在によってプレイされたのではなく、本質があらゆる多様性となって現れたものであり、その本質は決して変化しなかったのです。それはうわべ上でそう見えているにすぎません。

キャサリン:それでもゲームは続くのですが、もっと楽しくなります。

男性:そのとおり。

キャサリン:それがニルバーナ(涅槃)です。

何も為すべきことがないと知って、あなたの心配事は何ですか?

マンガス:何もありません。

あなたはきっとまた尋ねるでしょう。

マンガス:ええ、処方箋を。

いくつの理解がありますか?

マンガス:二つ?(一同笑い)

一同:ありがとう。

2020/07/22

The Spiel ⑰(Meeting 7th April 2016)


Sailor Bob Adamson - Meeting 7th April 2016

ここではあなたに何も教えはしないし、何も伝えはしない。
あなたに、どこを調べたらよいかを指し示し、自分で調べるようにと促しているだけだということを最初に理解してください。

というのも、あなたが何を信じていようと、何を理解していようと、あなたに何かを教えたり伝えたりする人はここにはいないし、またこれは何か新しい考え方ではないからです。

もし調べてみると、このことはすべての偉大な伝承の基礎となっているとわかるはずです。ヒンズー教ではこれをアドヴァイタと呼びます。アドヴァイタは非二元と翻訳されています。そして彼らはそれを、「他には何もない一つもの」と表現します。

「一つのもの」という言葉さえ、他に何かがあるということを暗示しかねないので、他に何かがあるという考えを打ち消すために、「他には何もない」という表現を使っています。

他には何もない一つのものを理解把握するためには、なぜ私がそれを教えることも伝えることもできないのかを理解しなければいけません。なぜなら、あなたはもうすでにそれだからです。なぜなら、それがそこにあるすべてだからです。
それがマハーヴァキヤの偉大なマントラ、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなりです。

それはヒンズー教の中にだけあるわけではありません。仏教の基礎を調べてみると、同じことが別の言葉で言われています。概念化されない、永遠に新鮮な今ここにある意識。そして、ただそれだけ、他には何もないと続きます。それによって、概念化されない永遠に新鮮な意識のことを指しています。

もしあなたがこのことを詳しく調べてみると、それはあなたと、この部屋の中にいるすべての人のことを描写しているとわかるはずです。この部屋にいる人で、今ここにいることに気づいていない人はいますか? すなわち、今ここにある意識があなたではありませんか?

そこではあらゆる種類の概念が続いているかもしれませんが、理解して欲しいのは、その概念の背後には概念化されない永遠に新鮮な今ここにある意識があり、ただそれだけ、他には何をないということです。もう一度言うと、あなたはそれ以外のものではありえません。

キリスト教やその他の伝承の中では、真実、実在、神、どんなラベルを貼りつけようと、それは全知、全能、偏在のもの。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの様相のこと。それは、蒸気、水、氷がH2Oの三つの様相であるのと同じです。

偏在は全面的な存在、全能は完全な力、全知は完全な知性。その完全性の中で分離はありますか? もう一度言うと、すべてはそれです。私は誰かに語りかけているのではありません。私は誰かのマインドに語りかけているわけではありません。私はそのI am(私は在る)に話しかけているのであり、それが私です。それは私の存在の感覚で、それがマインドによって、I am(私は在る)と翻訳されたものです。

ただそれだけ、他には何もありません。加えて、それによってあなたは体とマインドは実在ではないと理解できます。それは他の顕現と同じようにパターンとして現れたものです。それは聖典の中では、顕現はマヤ、すなわち幻影と言われています。それは現象としての顕現です。

そしてそれは対となる反対の極となって現れます。それ以外の方法では起こりえません。昼無くして夜は無く、静寂無くして音はありません。冬無くして夏は無く、動き無くして静止はありません。それは常に二元的に振動します。加えて、そえは束の間のものです。マヤ、幻影は束の間のもので絶えず変化しています。

体を見てください。あなたは気づかないかもしれませんが、それは絶えず変化しています。細胞は今も常に出来ていて、あらゆる種類の顕現と同じように入れ替わっています。それは絶えず変化しています。私は思考のI am(私は在る)のことを言っているのではなく、存在の感覚のことを言っています。

あなたはそれを否定することはできません。この部屋にいる誰かで、I'm not(私はいない)と言える人はいますか? 私たちは皆それぞれ、I am(私は在る)と知っています。でもあなたは、自分はこの体とマインドの存在であるという概念上のイメージを持ちました。

それは、あなたに考える力が備わった時に始まり、それが学校、社会、国家や他のみんなによって強化され、自分はこの人、存在であると信じるようになりました。人(person)という言葉はどこから来たのですか?

古代の言語、ラテン語のpersona、マスクから来ています。私たちは、マスクを身に着けたのです。それは実在ではないのですが、概念上のパターンとして受け入れるようになりました。それが、私たちが人(person)と呼ぶものとなりました。

もう一度指摘しておくと、非二元の中には二元性は全くありません。私達は、自分は人、分離した存在であるという考えを受け入れ、人、分離した個人であるという考えを絶えず強化してきました。

調べてみると、それはそのように現れます。それは現象としての顕現です。辞書によると、顕現とは「そのように現れるもの」と定義されています。それは見た目上だけのものであると指摘しています。見た目の上でだけそのように見える現象としての顕現です。

それは一つの本質がパターンとなり、すべてとなって現れ出たものです。仏陀はそれを「認識する空」と呼びました。認識や知る働きで満ちた空であり、私たちがすべてを認識するということではなく、空そのものが認識し振動してパターンとなっています。

それを調べて、それが真実かどうかを理解しなければいけません。聖典によれば、真実を知ると、真実があなたを解放するとあります。もし真実を知らないと、あなたが妄信していることが心理的な問題を引き起こします。

それがトラブルを引き起こし、程度の違いはあるものの、多くの人に何かしらの心理的な問題を引き起こします。ここでは、心理的な問題は不要です。あなたは自分で調べることによって、その心理的な問題を見抜くことができます。

なぜなら、虚偽は調査に耐ええないからです。もしあなたが調査して、それが調査に耐ええないなら、それは虚偽であり、あなたはそれから自由となります。あなたは虚偽を二度と信じられなくなります。調査してそれが虚偽とわかり、信じるエネルギーを与えなかったら、それはもはや生存、存在できなくなります。

そしてまた別のことを指摘しておきます。信じるということは、調べもしないで理由なく何かを受け入れること。そうだと言われた物事を肯定的な知識や証明もなく受け入れることです。

もし私が、あなたは「自分が在る」と信じているのか、それとも知っているのかと尋ねると、あなたははっきりと、私は在ると知っていると言うでしょう。あなたの概念上のイメージを否定することはできるかもしれませんが、(being)自分が存在するという事実を否定することができる人は誰もいません。

こうしたことは私たちの本質を指摘していますが、私たちは降りかかる概念や信じること、イメージの中で道に迷いました。どうしてこれは起こったのでしょうか。私達はみなこうしたことを信じていますが、それを調べてみる必要があります。

「私はこの体とマインドを使います」と言いますが、本質的には自分は体でもマインドでもないと知っています。あなたは「私の体」「私の家」「私の車」「私のコート」「ドレス」などと言いませんか?あなたはコートですか?あなたは車ですか?

調べてみると、同じことをあなたの体、そのエネルギーのパターンにあなたが貼り付けたラベルについても同じことが言えます。体は何でできていますか? 詳しく調べてみると、体は構成要素でできていることがわかります。それは空気、土、火、水、空間でできています。それはこの部屋のあなたの周り、あなたの外側にあるものと同じものでできています。

でも、確かめてください。あなたはその構成要素ですか?あなたはその空気ですか?あなたは自身を空気と分離することができますか?あなたが信じている存在を、構成要素と切り離すことができますか? できるなら、自身を空気と分離してください。あなたは自身を空気と切り離せないとわかるはずです。あなたは息を長く止めていることはできません。

体の80%は水です。水を体から取り出せるかやってみてください。それはできないとわかります。体から火、体温を取り出してください。そうすると低体温症で死んでしまいます。可能なら地球から出てみてください。空間から出てみてください。あなたが調べてみると、あなたは何からも分離できないことを理解します。

本質的に、あなたはこうしたものすべてなのです。でも、マインドによって見た目の上では分離して切り離され、自身のことを個人、人(person)だと思っています。そしてあなたが自分だと思っている、このマインドと呼ばれるものを見てください。

もしあなたが自分はマインドだと考えるなら、誰かこのマインドと呼ばれるものを見せることができますか? どんな形をしていますか? 形、固さなど? それは体のどこにありますか? 

「私の体」という時と同じように、「私のマインド」という時、私はマインドではないということを知っています。私は家ではないし、私は車ではないのと同じです。同様に、あなたはマインドであるはずがありません。つまるところ、体とは何ですか? 精妙なレベルにおいて、マインドとは思考に他ならないと知るでしょう。思考はマインドと呼ばれるものです。

そして、あなたが自身のことをマインドだと思っているなら、どの思考があなたなのですか? 存在の感覚がマインドに翻訳されて「私は在る」という思考となります。もしあなたが思考なら、毎晩あなたが眠りにつく時に、いともたやすくそれを手放しているということに気づくのではないですか?

もしあなたがその思考なら、その思考が無くなったら、あなたは終わりになるのではないですか。でもそうはなりません。あなたは翌朝目覚め、夜の間は思考が続いていなかったのに、昼間になるとたくさんの思考がやってきて、それは必ずしも「私は在る」という思考ではないが、思考は続いていきます。

ということは、あなたはある特定の思考ではないということになります。どうしてあなたは、自身が信じているような、体とマインドの存在であると言うことができるでしょうか? もう少し詳しく調べてみてください。

あなたはいつ始まりましたか? 生まれた時とあなたは言うでしょう。でも、この部屋にいる人で、自分の生まれた時のことを覚えている人はいますか? あなたはおそらく、二歳から二歳半ぐらいまでは思い出すことができるでしょうが、それより前のことは覚えていません。

それならどうして、私は生まれたということができますか? あなたが信じている存在が生まれたとどうして言えるのですか? それはできません。

マインドを見てみると、以前も指摘したとおりそれはヴァイブレーションです。それはどのように機能するか見てください。それがどれほど機械的に機能するかを見てください。それはとても役に立つ道具ですが、破壊的でもあります。

詳しく調べると、それは絶えず反対の極へ振動するのがわかります。それを見て調べてみてください。それは記憶、過去にいるか、未来、期待、想像のどちらかにいます。善悪、快不快、幸不幸、愛と憎しみ、肯定否定。それ以外のやり方でマインドが機能するかを見てください。

そして、私たちは学んだ言葉によって限界を作っています。善悪、快不快。それがストッパーになっていて、そこが終わりの地点です。シェクスピアは何百年か前に言いました。良いとか悪いとかは何もない、思考がそう決めているだけだと。

ニサルガダッタは同じことを、「あなたの想像以外何もあなたを苦しめはしない」と言いました。想像(imagination)とは何ですか? imaging inという風に分解してください。イメージを作ることによって、それを現実だと受け取っています。ああいった絵はイメージです。

後ろの鏡を見てください。それは鏡によって映し出されています。それは実在ですか? それはそのように現れているだけですか?それは実在ではないとわかるはずです。あなたが自分だと思っている概念上の存在も実在ではないということがわかるはずです。

あなたが調べてみると、それは単なるイメージにすぎません。あなたがこれを調べると、それは粉々になります。幼い子供は、私(I)や、私に(me)をどうすることもできません。幼い子供は、これは私、これは私ではないと考えるようになります。私は幼いジョニーだ、それは私に当てはまる。私は小さいジョニーだ。私はいいやつ。私はあまりよくない。

すべてのことをそういう風に見るようになり、それは私には当てはまらいからジョニーではない、私ではないと考えるようになります。そうやって、最初の分離感がやってきます。言葉によってイメージ、考えとともに概念上の分離がやってきます。それは私ではない。「それは私ではない」がやってくるやいなや、分離の感覚が生まれ、不安になり、傷つきやすくなります。

そして自分の周りに安全を探し始めます。当然、両親、愛情ある家庭があれば安全を感じるようになります。そしてその生涯には何が起こりますか。家族が部族となり、部族が大きければ大きいほど、より一層安全に感じます。そして今日ではそれが国家となり、国家は不安と傷つきやすさゆえに戦争を起こします。

両親、学校、社会、国家はこのことに気づきません。しかし、歴史を遡ってみるといつも、そのことに気づいて指摘した人たちがいて、そういう人たちは救済者とか預言者とか呼ばれていました。誰も世界を救いはしませんでしたが、もし彼らが言ったことを調べれば、もっと良い解釈を与えることができます。

でも、人々はメッセージを見ずに、メッセンジャーを崇め、メッセージを忘れました。そこで私はメッセージを見るようにと言います。私(I)や私に(me)には大したことはできません。私たちはそれに出来事、経験、条件付け、形を加え、自身がそこにいるというメンタルイメージを作り上げました。

それを調べることなく、「私」という思考を付け加えました。私はボブ。オーストラリア人。いいやつ。私は幸せ。私は落ち込んでいる。不幸な子供だった。あらゆることがやって来て、概念のイメージを作り上げました。そうしたイメージが「私」という思考を形成しています。

純粋な知性が機能する代わりに、この概念上のイメージが機能しています。そのイメージを私たちは自己の中心、基準点またはエゴと呼びます。概念上のイメージを持ち、それがエゴとなり、一方では聖典の中で、エゴを取れ、エゴが問題だと言っています。

それを取り除くために何でもしようとします。でもここで私は、そんなものは存在しないと言います。私たちは架空の概念に縛られています。そのエゴがすべての心理的な苦悩の原因であることに気づいてください。それは原因と結果であり、カルマと呼ばれるものです。

それは心配のもと、不安のもととなります。それは不幸と抑圧をもたらします。その「私」だけが心配をします。その「私」だけが恐れを抱きます。「私」だけが不幸になり、「私」だけが落ち込みます。「私」にすべての概念を付け加えています。そうが「私」のもととなっています。

そこで尋ねてみてください。原因なくして結果があるでしょうか。カーマと呼ばれるものがあるでしょうか。あなたが調べてみると、原因なくして結果はないとわかります。そうやってあなたは、「私」がすべての問題の原因であると知るでしょう。その結果がストレスとなり、心配となります。

それを取り除くためには自身で調べてみることが必要なのではありませんか。このエゴ、「私」がフィクションであると知ることが必要なのではありませんか。それを調べてみて、それがどう機能するか見てください。

何かが起こり、そこにはいまだに小さな子供がいて、それをありのままに見て自然に過去の記憶と関連付けする機能が働きます。何かが起こり、それを好む。どうしてですか。過去にそれを経験して、それが良かったのでそのことを好む。そして、自分の好きなことを留めておきたい。

いにしえの人々が指摘したように、それは束の間のものだということを理解しません。それをどんなに愛し、そんなに執着し欲しようとも、それが留まることはありません。それはとても普通の退屈なこととなり、変化し去っていきます。それはあなたの体と同じように変化していきます。

私たちは、それが変わってほしくない。それでどうしますか。何らかの力が手に入ったらと考え、「私」に頼るようになります。「私」は抵抗します。「私」は変化することを拒絶しようとします。抵抗は対立だとわかりますか。あなたのどんな抵抗も対立です。そして、どんな対立も病気です。

もしあなたが恐れていて心配し、不安なら、それは病気なのではありませんか。あなたが怒っていて落ち着かないなら、それは病気ではありませんか。それが心理的な苦悩をもたらし、あなたはそれを取り除くことができず、閉じ込めます。

何かが起こり、あなたはそれが嫌い、以前に経験したからと思い、それを取り除こうとします。そしてそれがそこにあることに抵抗します。そしてまた対立、また病気です。そうやって心理的な苦悩に常に悩ませられることになります。というのも、あなたは絶え間なく対立しているからです。

あなたはそのことから自由になることができます。あなたは心理的な苦悩に悩まされる必要はありません。私はここで、たわごとを言っているわけではありません。私は事実を語っているのです。私は何年もの間悩まされてきました。そして今この部屋にいる多くの人が同じ状態にいると思います。

もし調査して、それが虚偽のものであるということを理解したら、虚偽は調査に耐えません。虚偽をもはや信じることはできなくなります。それは束の間のものであり、もし信じるエネルギーを与えなかったら、消滅、崩壊します。

この「私」がフィクションかどうかを調査することが必要です。あなたはそれにしがみつきたいかもしれませんが、それはあなた次第です。私はあなたの代わりにやることはできなし、何かを教えることもできません。でも、もし何かが心に響き、何か心を動かされるなら、内在する知性に響いたなら、それが本当かどうかを調べてみてください。

そうやって調べてみるか、たわごとだと片付けるかはあなた次第です。
みなさんは今、見ています。それは事実ですね。今朝目が覚めて目を開けてすぐ、あなたは見ています。昨日も一昨日も、その前そうでした。そしてあなたは、見る働きは変化していないということに気づくはずです。

見る働きは全く変化していませんが、内容は変化します。聞くことに関しても同じです。今朝目が覚めてから、聞く働きがあります。もし深く眠っている時に誰かが声をかけても気が付かなかったかもしれませんが、聞く働きも同じです。聞く働きは変化しませんが、内容は変化します。

見る働きは起こり、聞く働きも起こっています。自分に問いかけてみてください。私の目は「私は見る」と言うだろうかと。私の目は「ボブ、あれを見ろ」「あれはいい」「あれは良くない」とは言いませんが、あなたの目はどうですか? それが本当か調べてください。

あなたは自分の目は何も言わないが、見る働きをつかさどる器官だということがわかるでしょう。それを通して、見る働きが起きています。そして思考が、「私は見ている」と翻訳します。見る働きを翻訳する器官はマインドです。

忘れないでいただきたいのは、単に「私」が誰かを見ているのではないということ。私はボブ、いいやつ。その概念上のイメージが見ていると思っています。私たちはうわべのものにイメージを与えています。その概念上のイメージが見ていると思っています。

聞く働きが今機能しています。私の耳が「ボブ聞いて」「あれは心地よい音」「あれは不快な音」などと言いますか? 私の耳は何も言いません。耳は聞く働きが起きる器官です。見る働き、聞く働きは目と鼻に起こっていますが、思考によって概念化が行われます。そのイメージを思考に関連付けています。

それを調べてみてください。そして、「私は見ている」という思考が本当に見ることができるのか自問してみてください。目を閉じて、あなたの思考が部屋の中を見ることができるか調べてみてください。あなたは思考では何も見ることができないとわかるでしょう。聞くことも同じです。私の耳が「私は聞いている」と言うでしょうか? 「私はボブ」「オーストラリア人」。そういった概念上のイメージを貼り付けています。その概念上のイメージが見ている、聞いていると思っています。

「私は見ている」という思考は見ることはできません。「私は聞いている」という思考が聞くことはできますか? 手で耳をふさいで、思考で聞くことができるか調べてみてください。「私は気づいて(aware)いる」という思考がアウエアネスですか? 私は気づいているという思考がアウエアネスではありません。

「私は選ぶ」という思考が思考を選んでいますか? あなたは自分で思考を選んでいると思っていますが、もし思考を選んでいるのなら、どうしてあなたは不幸でみじめなのですか? あなたは、思考を選ぶことも思考が見ることも聞くことも気づいていることもできないとわかるでしょう。このエゴは全く何もすることができないということに気づくでしょう。

それには実体、独立した性質はありません。それ自体では存在することができないとわかるでしょう。あなたはその体を持ち、そこに思考が現れて、耳、目、肺、心臓などの器官を通して、生命の本質が現れています。死体にどれだけの思考がやって来ますか。死体は話すことも見ることもできません。

それはまるで、たくさんの情報が詰まったコンピューターのようなもの。電源を切ったら、そこから何を引き出せますか? 同じように、この体とマインドの存在から生命の本質を取り除いたらどうなるでしょうか。死体は何もすることができません。

あなたは、「私はこれができる、あれができる」と言うでしょう。例えばこの家は誰かのマインドの中にあったアイデアです。テレビやコンピューターも誰かのアイデアでした。そして人々は「私が作った」と言います。でも、生命の本質無くして、設計図を書くことができたでしょうか?

認めるべきは認めましょう。生命の本質が働いて、パターンとなり、姿形となり、顕現となって現れました。あなたはそれです。偉大なマントラ、マハバキャにあるように、汝それなり、それ以外のものではありません。そして、あなたの言語の中にも本質的に同じことがあります。

あなたは「あれは椅子」「あれは車」「あれは椅子」「あれはビル」「これは私」「これはあなた」と言います。それらはすべて本質的にはそれなのです。私たちはそれにラベルを貼りました。ビル、カーペット、椅子、すべてに言葉のラベルを貼り、うわべの上では区別しました。それは一つの本質がパターンとなりすべてとなって現れたものです。

あなたはそれです。その線にそって、調べてみてください。もしやりたくなければやらなくても構いませんが、ちょっとだけあなたのエネルギーをそそいでみてください。違った言葉を違ったやり方で聞くことによって、ちょっとした理解が起こってくるでしょう。

これは少数の人たちのためのものではありません。人々はあなたに20年30年40年と探したあとで理解できると言うかもしれませんが、どうして20年30年40年も理解できないのでしょうか? 彼らは知的な人々です。彼らは他の多くのことをマインドで解決してきました。どうしてこれを解決できなのでしょうか?

なぜなら、このことはマインドでは解決できないからです。マインドで解決することは不可能です。マインドの性質は振動することです。調べてみるとわかるのですが、どうやってマインドの外に出るかといくら調べても、どの方向へ行っても、それはマインドの中なのです。

マインドから外へ出る方法はありません。あなたがマインドの真実を理解することはありません。どうやったらマインドの外へ出ることができるでしょうか? マインドから出る唯一の方法は full stop(全停止)です。

「もし考えなかったら、何の問題があるといいうのか」。ほんの一瞬思考を休止して、思考なしで何を言うことができるかやってみてください。あなたは何もいうことができないと理解するでしょう。それでも、あなたが消えることはありません。呼吸も止まりません。あなたの心臓も止まりません。

あなたはそこにいて、指の爪も伸び続けます。食べ物も消化され続けます。体のたくさんの機能が思考無しで働き続けています。あなたは、思考以前に存在するということを理解するでしょう。あなたは思考を超えたものです。

そして次の思考がやって来た時、その背後にあるもの、純粋な知性エネルギー、すなわちアウエアネスなしではそれが起こりえないということを理解するでしょう。

私があなたに、「あなたは今、気づいて(aware)いませんか?」 と尋ねるとあなたは、「いいえ、気づいています(aware)」と答えるでしょう? ということは、あなたは気づいているということです。

人々は何年にもわたって、アウエアネスというものを探し続けますが、あなたはいつでももうその状態にいました。それは単に気づけばいいだけのこと。私は今ここにいて、気づいて(aware)いる。それはマインドでは理解することができないものです。

なぜならそれには、前も後ろも高さも深さも始めも終わりないからです。それでもそれはそこにあって、自然に機能しています。でも私たちはそれにアウエアネスというラベル貼り、それを探そうとします。そして瞑想や、なんやかやをして探し、道に迷ってしまいます。マインドでそれを見つけることはできません。

マインドをほんの一瞬休止しても、あなたは消えたりしません。あなたは純粋な知性と思考の違いを理解するでしょう。思考が止まっていても純粋な知性は今ここで呼吸、鼓動、成長をつかさどっています。では、始めてください。

以下質疑応答。(略)

***

質疑応答は質問者にマイクが無いので、聞き取れない箇所も多いのですが、この動画は比較的クリアですので、英語が大丈夫な人は聞いてみてください。

なお、一部聞き取り不能な箇所を割愛しています。

2019/03/27

The Spiel ⑯ (2019.8.3公開)あなたは完璧そのものです。



You are that Totality - Sailor Bob Adamosn interview episode 5, final pointers

もしあなたが自身に向かって、それは誰に起こっているのかと尋ねる時、自分という存在を信じているために、その自分という存在が実在かどうかを調べようとするでしょう。

何かが起こって、それは誰に起こっているのか?とあなたは尋ねるのですが、明確な答えとしては、それは私、ボブ、自己の中心、イメージに起こっていると答えるでしょう。
そしてあなたは、ではこの私とは誰なのか?と尋ねます。どうしたらいいでしょうか?

あなたは、答えはマインドの中にはないということを理解するでしょう。なぜなら、あなたは何年もマインドの中を探したからです。マインドの性質は振動することです。それは振動し続けます。

マインドの外に出るにはどうしたらいいでしょうか?
あなたは生涯にわたりマインドの中を探し、答えはマインドの中にはないと気づき始めました。なぜならマインドは振動し続けるからです。

どこを探したらいいでしょうか?どこを探しても、それはマインドの中です。マインドから外へ出るにはどうしたらいいでしょうか?
そしてあなたは気づき始めるでしょう。マインドから出る唯一の方法は全停止です。

停止してください。
マインドに続けさせないで。その先へ行かないで。
マインドなしで何を言うことができますか?
マインドが停止していて何を言うことができますか?

そこに何かがあると言うことができますか?
ほんの一瞬停止することができるだけで、おしゃべりはまた始まります。
でもその停止しているほんの一瞬かそこらのうちに、見る働きは停止していないことに気づくでしょう。

聞く働きも停止していません。
呼吸も止まっていません。
機能、生命の本質はそのまま働いています。でも、思考は止まっていました。

毎晩眠りに落ちる時に起きることは、「私はある」という思考を手放すことです。
もしあなたが、その思考だったとしたら・・・。あなたは、自分はその思考ではないということを知っています。

あなたがその思考なら、あなたは道に迷ってしまうはずですが、あなたは毎晩喜んでその思考を手放して眠ります。何のためらいもなく、喜んで眠ります。
ですから、あなたはその思考ではありません。

そしてあなたは経験します。
もし今そのことを考えなかったら、何が問題だというのか?

もう一度言ってください。車が通りました。

もし今そのことを考えなかったら、何が問題だというのか?

もう一度言うと、
思考なしで、そこには何があるかを見てください。
思考を超えて見てみてください。

そして言うでしょう。
「私は思考なしで見ています」
それはまた別の思考です。そしてそれも捨てます。

次は何ですか?
私は思考を捨てた。それも思考です。
くそ、すべて捨てなくてはいけない。

それも思考です。
あなたは突然それも手放すことを理解するでしょう。
自分は概念、もしくは思考で理解しょうとしていて、それはいつも別の思考をもたらしていたということを。

もしあなたが思考なしで見ると、そこにはわずかな中断、隙間があります。そしてその隙間がだんだん長くなっていきます。
思考はやって来続けます。でももしあなたがそれを見抜いたなら、もうそれを二度と信じることはできません。

信じることができなければ、信じるエネルギーはそこに留まることはありません。
それは動いていきます。それは必ず動いていきます。それは一時的なものです。
思考や信念がそれをそこに留めているにすぎません。

数日、数週間、時には数年の間、身につけた概念上のイメージがそこに残ります。
それは条件付けと呼ばれています。

心理的な苦悩は取り除くことができる、心理的苦悩、心配、不安、怒りはもはや不要であるというのは本当ですか?

そのとおりです。
それはまたやってくるでしょう。以前なら、それは数日、数週間は留まっていました。
なぜなら、あなたはそれと葛藤していたからです。それをものごとに関連づけ、取り除こうとして、それをそのままにしておきませんでした。

そこには葛藤、抵抗がありました。
どんな抵抗も葛藤です。そしてどんな葛藤も不安(un-easy-ness)、すなわち病気(dis-ease)です。
病気は心配であり、恐怖であり、不幸であり、憂鬱です。これらはすべて病気(dis-ease)です。

それでも、それは現れます。それを「苦悩」と呼ばなければ、それは消えていくのですか?

いいえ。それは、しばらくはそこに留まるでしょう。
でももしあなたが、もっとその正体を見抜くようになると、それがあなたを悩ますことはもっと少なくなっていくでしょう。なぜならあなたはもうそれを信じることはできないからです。

もしあなたが、何かを偽ものだと見抜いたら・・・、あなたはもう地球が平であるとは信じることはできません。あなたはそれが嘘だと見抜いたのです。
あなたは、もう海の水は青いと言うことはできません。あなたはそれを見抜いたのです。

あなたは、海と空の出会う場所が地の終わりだとは決して言いません。なぜですか?
それはそのように見えます。そのように見えても、あなたは真実を知っています。
あなたはもはやそれを信じることはできず、それがあなたを長く悩ますことはありません。
あなたが、青い海に騙されることはありません。

あなたは、朝、雲が太陽を覆っているのを見て、太陽が空から去ったということはありません。あなたはもはやそう信じることができません。なぜなら、たとえ太陽が見えなくても、そこに太陽がいつもあるということをちゃんと知っているからです。

たとえ見ための上では個人がいるように見えても、それが真実ではないとあなたは知っているのですか?

そうです。もしそれが嘘だと見抜いたら、どうしてそれを信じることができるでしょうか? もしそれが真実でなかったら、どうしてそれを信じつづけることができるでしょうか? あなたは信じ続けることができますか?

もし信じ続けなかったら、それは去っていきます。
そこには執着することのないアウエアネス。それがあるだけです。

言われているように、完全に五感を広く開いて目覚めていてください。
あなたが五感を開いている時、見る働き、聞く働き、味覚の働き、触覚の働き、嗅覚の働き、思考・・・すべての感覚が働いていて、あなたは完全に目覚めています。

でも、「私」として機能している時は自己の中心から機能しています。
その場合は、ただ単にどれか一つしか機能していません。
それが何であれ、見る働き、聞く働き、味覚の働き、触覚の働きのどれか一つだけ。
たとえ今、他の働きが進行中であるとわかっていても。

今、車が走っているのが聞こえますか?

ええ。

それが背景にあります。
それでもあなたは、私と私が言うことに注意を向けています。

はい。

風に揺れる洗濯ロープの洗濯物を見てください。
私たちはそれを見ていますが、それは背景にあって、気に留めることはありません。
風を肌で感じることができますが、少しも気に留めません。

五感を完全に開いてという意味は、他の働きを背景に追いやらないで、すべての働きを同じように働かせるということです。
見る働きと同じように、聞く働き、味覚の働き、触覚の働き、嗅覚の働きも。
何かに焦点を合わせることなく、五感を完全に開いてください。

どれか一つに焦点を合わせるのではなく、起こるがままに任せて、それぞれの感覚とともにあってください。
もし必要なら、見る働きをそのまま背景に残したままにして、聞く働きや、他の動きに焦点を当てます。

静止した状態から動いているものを見るためには、動いている対象に注意を移す必要があります。でもあなたはその対象に執着することなく、完全性の中を動いていきます。
あなたは、その完全性です。

あなたは、「私は全体を一つにまとめて完全にしなければならない」「私は覚醒するつもりだ」と言う小さな分離した存在ではありません。
そうしたことをするためには時間が必要です。

時間という概念のために・・・。
時間は継続であり、そのようなものは存在しません。

個人がいる余地はないのですか?

ありません。あなたは理解しています。
人々は何年にわたって、あれやこれやと試みます。
でも、個人という存在を信じていようがいまいが何の違いもありません。

やがてパターンは崩壊し、姿形は分解していきます。
それでも人々は不必要な心理的苦悩にとらわれてしまいます。

あなたが今それを認識していようがいまいが、私はもうすでにそれなのだ、という事実から始めてください。

それを知っていようといまいと、あなたはもうすでにそれなのだ、という事実から始めてください。「私はある(I am)」に何を付け加えることができるでしょうか?

概念を付け加えることなしに、「私はある」に何を付け加えることができるでしょうか?
その時あなたは、山上のモーゼのごとくとなります。
山上のモーゼはユダヤ人たちの面倒をみなければなりませんでしたが、それをするための人がいませんでした。

彼はあらゆる種類のトラブルに会い、言いました。
「彼らを救い出すために何かしなければならない」
そして、その時そこで、内在する知性から、生きていくための一連の規則がやってきました。彼は一組の十戒の石版を授かり、言いました。

私は今これを持ち帰って人々に告げなくてはならない。
彼らに伝えるためにはどうすればいいのか。
誰が彼らに伝えるために私を遣わしたのか?
彼はそれを「私」からとして伝えるつもりはありませんでした。

その時ふたたび内側の声がしました。
「私はある(I am)」が、あなたを遣わしたのだと彼らに言いなさい。
「私はある(I am)」が私の名である。

そしてモーゼは理解しました。
くそ!私がその「私がある」なのか。(I am that I am.)
私はずっとその「私はある(I am)」だった。

そして彼は、その時その場で自らの本質を理解しました。

くそ! 私がその「私がある」なのか。(I am that I am.)

(2人笑う)

くそ! その「私がある」ではないものは何ですか? すべてがそれです!

ええ。すべてが「私はある」です。(Yes, everything is that I-am-ness.)
それがニサルガダッタが言っていることです。
彼は「私はある」とともに留まりなさい、と言っています。

思考のことではありません。
存在の感覚、それがあなたなのですが、その知る働きがマインドを通じて翻訳されて、思考の「私はある」となって現れます。
そして偉大なマントラでは「私はそれなり(I am that.)」と言います。
私がその本質です。それが思考として翻訳されます。でも、思考や言葉は物ではありません。

それは本当に本質ですか? それは本当に一つのものですか?
それともそれは空ですか? それとも何もないものですか?

いいえ。あなたはそれにどんなラベルも貼り付けることはできません。それは物ではありません(no-thing)。それは常に物ではありません(no-thing)。

この顕現に現れるすべてのパターン、姿形はすべて単なる物にすぎません。
では、物が何もないところから生まれることがあるでしょうか?
すべての物は空の空間に現れています。

空間は空です。それは概念化されません。
それは永遠の静寂、静止、空です。
その認識する空が振動して様々なパターンや姿形となって現れますが、それはすべて空の中にあらわれた物です。

物が無(nothing)から生まれることがあるでしょうか? ありません。
ということは、そうしたパターンや姿形でさえ、何もないもの(no-thing)が現れたものであり、見ための上では物のように見えているにすぎません。

ということは、一つの本質でさえも一つではないのですか?

ええ。

それをマインドで理解することはできません。マインドが理解できるのは物だけです。

そのとおりです。何もありません。
一つの本質がパターンとなり、姿形となって現れ、すべての物となります。
あなたもおそらく、それ以外のものではありえません。

ということは、あなたは体でもマインドでもありません。
あなたが、「我はそれなり」と言う時、自分は人間だという考えを抱いていませんか?
あなたは完璧そのものです。
それがすべてです。私はその本質であるということから離れないでください。

でも、私たちがそのことをマインドでは理解できないのに、どうして私たちが探す道具はマインドしかないのでしょうか?

ええ。それを使います。マインドはとても役に立つ道具です。
考える能力はとても役に立ちます。

顕現の世界であなたがこうしたものすべてを手に入れ、私がそれを築き上げたと言います。
私がその絵を描いた。私がそれをやった。私がこれをやった。私があの本を書いた。
そしてもう一度言います。生命の本質を体から取り去ったら、それでもマインドや心臓、その他のこともそこにはありますが、あなたは生命の本質なしでマインドで本を書くことができますか?

生命の本質なしで家を建てることができますか?
生命の本質なしで思考、感覚、感情を持つことができますか?
何がそれをやっているのですか?
個人という存在は何もしていません。それは何もできません。

生(life)が人を通じて表現しているのです。
生(life)がその姿形に、考え、感じ、触れ、嗅ぎ、すべてのことを可能にしているのです。
考え、働きかけるという驚くべき能力は、生命の本質(Life-essence)の働きです。
それが、あなたとして、あなたを通して表現し、生きています。
ということは、あなたはその生命の本質に違いありません。

人々は自らを人だと思って過小評価しています。
自らを制限しているラベルを取り除いてください。
もう一度繰り返します。

私は完璧そのものです。
あなたは完璧そのものです。

2019/03/26

The Spiel ⑮ (2019.6.30公開)言葉は物ですか?


Is the word a thing? Sailor Bob Adamosn interview episode 4

マインドとは何ですか? 思考より前に、どんなマインドが存在していますか?
あなたが母親のお腹にいた時、マインドはありましたか?
人生の最初の2、3年の間はどうですか?

考える能力が発達するまで、あなたは何も理解していませんでした。
あなたが物事を表現できるようになるには、考える能力が必要でした。
エネルギーがパターンとなって脳で働くようになることが必要でした。

他の体の器官についても同じです。それには優先順位がありますが、生命の本質なくしては機能しません。

そしてラベル、言葉。もし言葉を習得しなかったら、考える能力は発達しなかったでしょう。
私たちが今まで話した言葉と、これから話すであろう言葉は今までに学んだものです。
学んだという意味は、習得したという意味です。

私たちが生まれた時は言葉を知りませんでした。私たちは成長する過程で言葉を身につけました。
私たちは言葉を身につける必要がありました。周りの人がそうするように仕向けたからです。両親がそう仕向けたからです。
その時、私たちはそのことを疑問に思うことはありませんでした。

私たちは信念を受け取りました。私たちは言葉だと思うようになりました。
私はボブ。オーストラリア人。いいやつ。自分自身に対するラベルを貼りつけました。
疑問に思うこともなく信念を受け取り、それが実在であると思うようになりました。

私たちは自分のことを言葉だと思っているのですか?
そしてそれは言葉を学んだからですか?

ええ、そうです。
聖書を見てください。それは何と言っていますか?

「始めに言葉ありき。言葉は神とともにあった。」

言葉は神でした。すべては神でした。私たちは物事にラベルを貼り、私たちがものごとを支配していると思うようになりました。
言葉無くしては何もできませんでした。

私たちが信じている神、すなわち言葉無くしては何もできませんでした。
すべてのことは彼によって(言葉によって)作られました。
言葉無くしては何も生まれませんでした。

言葉は肉となり、私たちとなって現れました。ということは、私たちは言葉にすぎません。

私たちは世界全体を、名前をつけることによって作り出したのですか?

そうです。

聖書にあるように、アダムとイブは創造物にラベルを貼る仕事を与えられたのですか?

彼らは善悪の知識の木の実を食べたのです。
善悪の知識の木とは何ですか?
それは言葉ではありませんか?

ええ。

食べたものはリンゴとなっていますが、それは例えであり、良い例えです。
彼らは楽園にいたのです。言葉は知りませんでした。
良いも悪いも無く、蛇とか他のことも知りませんでした。

そうしたことは、そこにあったに違いありませんが、そのことについての疑いや疑問や議論はありませんでした。
それはすべてパターンであり、姿形でした。
でも彼らは知識の木の実を食べ、言葉を知りました。
彼らは言葉を知り、使ったのです。

あなたは分離した存在だと誰があなたに言ったのですか?
言葉無しで、あなたは分離した存在ですか? 誰があなたにそう言ったのですか?

でももし頭痛がしても、私がそれを「痛い」と言わなかったら、それは痛くないのですか?

おそらく痛いでしょう。でも、「痛い」という言葉はどこからきたのですか?
それは私たちがそれに貼り付けたラベルではありませんか?
もしあなたがそのラベルを貼り付けなかったら、それは単に他の感覚にすぎません。

私たちの感じるものや感情はすべて感覚です。それに私たちはラベルを貼り付けます。
そして、その言葉に関連した過去の感じや感情と結びつけます。
もしラベル貼りをしなければ、新鮮で新しい感情がやってきます。
もし過去に関連したラベルを貼らなかったら、それは何ですか?
それを調べてみてください。

私たちが古いラベルを貼りつけるやいなや、過去に経験した感じや感覚でいっぱいになって圧倒されてしまいます。
でももしあなたがそれを新鮮で新しいものとして見て、ラベルを貼りつけることなく見るなら、それは他の物事と同じように去っていくでしょう。
概念で留めようとしなければ、それは去っていきます。それは変化していくでしょう。

あなたが今までの人生で経験した感覚を見てください。
そうした感情は、必要以上に長く留まりましたか?
私たちは、自身に条件づけされた言葉を浴びせ、それによって苦しんでいます。
でも、遅かれ早かれそれは去っていきます。

そしてまた別のものがやってきて、古いものと同じ扱いをします。
そしてまたそれに縛られてしまいます。
でも、自然の中で永続するものは何ですか?
時間という概念を貼り付けなかったら、すべてのものは自然発生的です。
すべてのものは常に変化しています。

それはあなたに、顕現は束の間のものだと教えています。
何も留まるものはありません。それは常に変化しています。
その変化の中で生そのものが動いています。

そしてそれが唯一の生です。それがすべてです。
ニサルガダッタは言いました。
「生があるだけだ。そこには生を生きる何物もいない。」

あなたも私も皆、すべての人は生を生きていると思っています。
でもそうではありません。
生があなたを生きているのです。

生命の本質を体から取り除いてみたら、どうなるでしょうか?
あなたは死体です。
死体には目、耳、心臓、肺、声帯、そして他の器官がすべてあります。
でももし生命の本質がなかったら、それはコンピューターのようなものです。

コンピューターの中には素晴らしい情報があります。
でももし電源が入っていなかったら、何を引き出すことができるでしょうか?
何も引き出せません。
もし生命の本質が体になかったら、私たちはどうなるでしょうか?  私たちはただの死体です。それは知性エネルギーのパターンによって分解が始まります。

それはそのままではなく、腐食し始めます。酵素がそれを腐食させ、分解します。
そしてそれはまた生のエッセンスとなり、ミネラルとなり、土に帰っていきます。
土の中には種があり、種はそうしたミネラルを必要としています。
そして少しの水があれば、それは発芽するか、何かが起こります。

水が海へと流れ込み、あなたは再び同じ水を手にすることはありません。
生命は生命を食べて命を繋いでいきます。

ということは、死体も同じ生命の本質なのですか? たとえ死んでいたとしても。

ええ、そうです。
何が起きるでしょうか。それは体の機能を止めます。
それは、体の姿形を保つことを止めます。
そして反対の極へと振動し始めます。
それは反対の極へ振動して、酵素へと形を変えます。

酵素は体を腐敗させる生命の本質です。酵素は体を食べ始めます。
体を腐らせ、分解します。
そして何が残るかといえば、おそらくミネラル、骨、などで、それは土に帰り、土の中ではそれを再利用しようと待っているものがいます。

(ボブが風に揺れる葉を気にする)

何が風を吹かせているのですか?

バイブレーション、エネルギーの働きです。
それが動きとなって風を起こしています。
それは何の中に現れていますか?

空間の外ですか?
それは空間の外に現れていますか?
空(くう)の外ですか?

ということは、同じものが風を吹かせ、体を作り、そして体を死なせ、分解しているのですか?

すべてはバイブレーションの働きです。
始まりと終わりがある単なる動きではありません。
それは自然な顕現です。始まりも終わりもありません。

始まった時にはもう終わっています。
終わった時にはもう始まっています。
そこには定まった地点はありません。

聖書にもあるように、
何物にも静止した地点はありません。
そして、何物にも自己はありません。
それはすべて自然な顕現です。

様々なパターン、姿形へと振動していきます。
それは確かな実体のあるものとなって現れます。
でもそれを顕微鏡で詳しく調べてみてください。どれだけ確固たるものなのかを調べてみてください。

顕微鏡で、体がどれだけ確固たるものなのかを調べてみてください。
そこにはたくさんの隙間、空間があります。
その空間、空は何ですか?

仏陀はそれを、認識する空と言いました。
その空間そのものが認識で満ちています。
認識の別の言い方は、知る働きです。

あなたは今、知る働きです。それは事実ではありませんか?

はい。

あなたは、自身の知る働き、存在を否定することができますか?
存在、知る働き、存在への愛、それがサット・チット・アナンダです。
仏教徒は認識する空と言い、ヒンズー教徒はサット・チット・アナンダと言います。

それは同じことを異なる概念で表しています。
また別の人はそれを究極と言います。それは、大いなる完成と同じ意味です。
それはそう言われてきましたが、私たちはそれを知ろうとしませんでした。
私たちは祖先に従ってきましたが、彼らは言葉が現実のものであると教えてきました。

どうしたら、その純粋な存在を垣間見ることができますか?
マインドはいつも忙しく、様々な気を散らせるものや思考で私を楽しませているように見えます。

もしあなたが、言葉を超えて見ようとするなら・・・。
言葉とは何ですか?
単なる思考ではありませんか?

思考とは何ですか?
思考とは何かを理解することはできますか?

いいえ。

どうやって理解しようとしますか?

別の思考?

別の思考です。思考が思考を理解しようとしています。
そしてあなたは言うでしょう。思考で思考は理解できないと。
それでどうなります?
そうすると、その瞬間に中断が起こります。

その中断の間、あなたは消えましたか?
バラバラになりましたか?
あなたは終わりになりましたか?

起こったことは、思考がほんの一瞬停止したということです。
でも、生は起こっていました。
あなたはそれでも呼吸していました。
考えることなしに、あなたの心臓は脈動していました。

食物は消化され、髪と爪は伸びていました。
食べ物は消化され、こうしたすべてのことは起こっていました。
言葉も思考もなく、起こっていました。
生は続いていました。

言葉を調べてみてください。
言葉は物ではないということを理解してください。
「始めに言葉ありき」
あなたが言葉を覚えるまでは、あなたは始まりませんでした。

あなたが今までに話した言葉はすべて学んだものです。
言葉は物ではありません。言葉は現実ではありません。
水という言葉を考えてみてください。

できるなら、水という言葉を飲んでください。
飲めるなら、言葉を飲んでみてください。
言葉の中を泳いでみてください。溺れてみてください。
できません。

火という言葉があなたの口をやけどさせることができますか?
言葉で体を暖めることはできません。
口をやけどさせることはできません。料理もできません。
ということは、言葉は物ではありません。

あなたが自分だと思って信じている「私」や「私の」という言葉を調べてみると、言葉は物ではありません。言葉はあなたという足場を失います。
考える能力によって言葉は利用され、発達しました。
でも、あなたが自身のことを独立した個人として、実体のないもので責め立てることはできません。

でも言葉は一つだけではありません。感受性、情緒、傷つきやすさ、すべての過去、何千もの言葉がイメージを作っています。

ええ、そうです。でも、それらすべては、貼り付けられたラベルです。
それは何ですか? 可能性あるいは機能?
言葉がなくても、純粋なものはあるのではないですか?

あなたは見ています。
「私は見ている」というラベルなしで、あなたは見ているということを理解してください。
あなたは「私は聞いている」というラベルなしで聞いています。
あなたは「私は考えている」というラベルなしで考えています。
ここにあるすべてのことに、私たちはラベルを貼りつけています。

言葉がなくても、多くのことは起こり続けています。
そして、恐れという感情はあなたが貼り付けたラベルです。
それを、新鮮で新しい感情として見てください。
私たちを困らせる古いラベルを貼るかわりに、新鮮で新しい感情として見てください。

それは過去には決して表現されなかったものです。
もしそれを新鮮で新しい感情と知ったら、それにラベルを貼るでしょうか。いいえ。
それは愛と憎しみ。これは愛しているが、あれは憎んでいる。
何かを憎み続けるのか、それとも新鮮で新しい感情として見るのか。
それとも古いラベルを貼るのか。

彼女が私に先週か去年したこと。
彼女を愛していた。好きだった。そしてあのあばずれを憎んでいる。

それを新鮮で新しい感情として見てください。
そうすれば、条件付けされた信念はどこにも入りこみません。
それが解放です。

あなたは何から自由になったのですか?
あなたは自分自身という束縛から自由になりました。
それが今まであなたを縛っていた唯一の束縛です。
自分自身の束縛とは何ですか?

「私」という信念です。
それを一つの自己(One Self)として見るかわりに、人格を与えてきました。

私たちはそれを自分自身(My Self)と呼んでいます。それを「私」と。
「私」は概念です。実在ではありません。

2019/03/25

The Spiel ⑭ (2019.5.7公開)マインドなどというものがありますか?


Is there a mind? Sailor Bob Adamosn interview episode 3

私たちには考える能力が備わっています。
その能力を使って調べてみてください。
私はこの体なのか?
私はこの分離した個人なのか?
私はこの個人なのか?

調査すると、それは粉々になります。偽物は調査に耐えません。偽物は実在ではありませんが、私たちは調べもしないで実在であると信じています。
真実ではないものを信じていると、それを調べることによって粉々になります。
偽物は調査に耐えません。

どうやって調べればよいのですか?

自分自身に、この「私」とは誰、あるいは 何なのかと自問してください。
私は体なのか? 私はマインドなのか? 私は人なのか? 私はペルソナ、概念上のイメージなのか?
調べてみると、ペルソナは仮面、つまり概念上のイメージです。私は概念上のイメージなのか?

もし私が概念上のイメージだというなら、眠りにつく時に何が起きるでしょうか?
イメージすべてを手放す時に私も終わるはずです。でもそうはなりません。なぜなら、翌朝になればまた目が覚めるからです。

朝、目を覚ますのは誰ですか?

見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことがあなたに始まります。
眠りがあなたから去って、それらのことがあなたに始まります。考える働きがふたたび始まります。それにあわせて、概念化が働き始めます。そこには誰も目を覚ます人はいません。

ただ単に、アウエアネス、つまり本質がうわべ上は不鮮明になっていただけです。意識(consciousness)は、そこに意識があるということに気づきます。あなたが深く眠っている時は、自分の意識に気づいていないだけです。概念なしでは、私はいると言うことはできません。

個人、つまりエゴは目覚めようとして探求を続けていますが、その個人が目覚めるということはないのですか?

ありません。でも、わかり始めるのです。その個人と呼ばれている者は、私が信じているような存在ではないということが。そのことに対する目覚め、つまり、わかり始めるということはあります。

認識するということです。私は体ではない。私はマインドでもない。私はこうした概念でもない。私は個人でもないということを完全に理解するということです。自らの本質、存在を完全に知るということ、私が存在そのものであると理解するということです。私はそれにいくつものラベルを貼りつけていますが、私はそのラベルですらありません。

存在が目覚めるのですか? それとも、アウエアネスが目覚めるのですか?

それは、私たちが実在すると信じこんでいる存在が、実際には実在しないということを認識するということです。自分は間違った方向を探していたということがわかり始めます。私たちはこうした概念を当然のことと受け入れ、信じてきました。それは、両親、学校、社会、その他すべての人によって強化されました。

信じるエネルギーが注がれ、それが現実であると思いました。そしてその信念は見破られました。それが見破られたら、それを信じ続けることができますか? それが真実ではないとわかったら。もう信じることはできません。それが、自然な理解です。あなたはもう信じているようなものではありません。

辞書によれば、信じているという定義は、現実ではないことです。信じていることの定義は、「理由もなく調べもしないで何かを受け入れること」です。それには根拠がありません。「確かな事実や証拠もなく、言われていることを受け入れること」

私たちは生涯、その根拠を探そうともしなかったのではないですか? そしてマインド、概念の中に答えはなかったのではないですか? そして私たちはわかり始めます。おそらく自分は間違った方向を探していたのだと。マインドと呼ばれる場所を生涯探したが、答えはみつからなかったと。おそらく、答えはそこにはない。

マインドの中を調べる時、マインドの外に出る方法は何なのか? そこにはマインドの外に出る方法はありません。どこまで行ってもそれはマインドの中です。マインドの中にいる時、マインドの性質は振動することです。それは二元的に動きます。すべてのバイブレーションがそう動くように。そこに出口はありません。

そして、自分は間違った場所を探しているのだ、どうしたらいいのだろうかと気づき始めます。どうしたらマインドの外に出られるだろうか調べ始めます。思考を一旦停止してみるか、思考ようも前にあるものが何であるかを見ようとします。見る働きの共鳴が起こり、私は思考よりも前に存在する命なのだという理解が起こります。思考よりも前にある。

でも、概念を分析する時は、マインドでじっくりと考えているのではないですか?

ええ。思考を通してです。マインドは思考を活用することができませんでした。「あなたという存在は理解することができない」「あなたは達成しなければならない」「あなたは解放されなければならない」「私は十分ではない」「私は臆病だ」。マインドが今まであなたにこう言ってきた代わりに、今、マインドは活用され、理解されています。

一つの本質、ちょうど太陽が自然に輝き、ひとりでに輝き続けるように、それは自ら輝いています。昼の明かりは自ら輝いています。夜は自ら暗闇となります。それは一つのもの(self)です。それがパターンとなり、姿形となって、すべてのものとなって現れています。そこに分離はありません。概念上のイメージとして展開することもありません。

OK。今それを垣間見ることはできますか?

Yes!

どうやるのですか?

あなたは今、見ていますね?

Yes!

「私は見ている」という思考がやって来る前に、あなたは見ているのではないですか?

Yes!

それはどうやってマインドに翻訳されていますか? 見ることが起こっていて、それが「私は見ている」と翻訳されます。そうではありませんか? あなたが、「私は見ている」という時、あなたは何をしていますか? あなたは、こうした概念すべてを付け加えています。自分自身に抱いている概念上のイメージを付け加えています。「これが私、カット」。その概念上のイメージが見ていると考えています。

今や、その概念上のイメージが見ていると思っています。ビデオや質問、何であれ、カットが見ていると思っています。そうして、カットが主体となりました。あなたが抱いた概念上のイメージのせいで、カットが主体となりました。そして、見られている対象が客体となりました。あなたがラベルを貼って形を与えたからです。

でも、「私は見ている」という思考が実際に見ることはできますか? 思考が見ることができますか?

いいえ。

思考が聞くことができますか?

いいえ。

思考が意識することができますか?

いいえ。

今あなたが、この概念上のイメージを調べてみると、それが見ることはできません。聞くことも意識することも何もできません。選択することはどうですか? できません。
見ることは起こっています。聞くことは起こっています。味覚、触覚、嗅覚、すべての機能は起こっています。

もしそれを思考で主体と客体に翻訳しなければ、それは純粋に自然に起こっていることにすぎません。自然に努力なく起こっています。地球が太陽のまわりを回っているのと同じことです。地球が、「私は太陽のまわりを回っている」と言いますか? 太陽が、「今暗くなった、今は昼間だ」と言いますか? 太陽はそんなことは何も知りません。地球も同じです。

今地球が太陽に表面を向けていれば、それは昼間です。そして地球が回転して反対側になれば夜です。私たちに暗闇がやってきます。でも、暗闇は光のことを何も知りません。光は暗闇のことを何も知りません。それは一つのものの二つの側面です。それは振動して反対へと動きます。

太陽も同じです。太陽は輝くことをやめません。それはいつも輝いています。でも、雲によって見えなくなります。でも太陽はそこにあります。それはいつも新鮮です。それはあなたの本質のようなものです。思考やフィーリング、感情が現れても、それによって不鮮明になることは決してありません。思考やフィーリング、感情はやってきては去っていきます。

どんな名前で呼ぼうと、どんなラベルを貼りつけようと、それは思考であり、あなたはそれを見失います。考える能力はとても役立ちますが、他のものと関連づけてしまうために、思考が反対のものへと分割してしまい、反対のものが現れます。そしてうわべの上で、良いとか悪いとかが起こります。

そこで私は、一方の端しかない棒はない、という表現を使います。どんな棒にも両端があります。良い方の端は丸くてなめらかで、持ちやすく、悪い方の端は先が細くなっていて、黒くなるか、折れてしまうでしょう。それでも一本の棒です。

悪い方が現われと、それが気に入らず、取り除こうとします。それが自然に変化していくことを理解しません。良い方の端は、あなたがどんなにそのままであって欲しいと思っても、そのままではありません。それは自然と同じように変化します。

それは常に反対へと振動します。いつも夏というわけではありません。いつも冬ということもありません。いつも春、いつも秋ということもありません。それらはいつも一時的で、常に変化しています。いつも昼間というわけではなく、いつも夜ということでもありません。

ということは、今でも時々あなたにネガティブな感情や思考がやって来るということですか?

ええそうです。思考はバイブレーションです。それは二元的に振動します。あなたのマインドがどういうふうに機能するかを見てください。良いと悪い。良いことはポジティブと言われ、悪いことはネガティブと言われています。

幸福と悲しみ。幸福は良い事と思われ、悲しみはネガティブだと思われています。喜びと苦痛。喜びは良いこととされ、苦痛はネガティブとされています。マインドを見てください。それはいつも二元的に機能しています。ポジティブとネガティブ。良いと悪い。幸福と悲しみ。愛と憎しみ。

それ以外のやり方では機能しません。どこに中心がありますか? どこが真ん中ですか? ネガティブかポジティブ。私は南極点に行く例えを使うのを好みます。南極点を超えて、どれほど南に行くことができますか? 行けません。次の一歩は北へ向かうはずです。

もしそれでも地球の上にいたいなら、北極点へ行ってください。北極点を超えて、どれほど北へ行くことができますか? 行けません。次の一歩は南へ向かうはずです。さて今、彼らはどこで出会いますか?

彼らは対等(equal)の場所まで戻ってくるはずです。そしてそれを赤道(equator)と呼ぶのではないですか? そしてつり合いがとれた時、もう反対の極へとは機能しません。そのつり合いがとれた時点で、何が良くて何が悪いというのですか? うわべの上ではそれは現われているように見えますが、それを信じることはもはやできず、あたりまえのこととして受け入れることもありません。そしてそれは自然にひとりでに変化していきます。

2019/03/24

The Spiel ⑬(2019.4.12公開) 時間は実在ですか?


Is there a time? Sailor Bob Adamosn interview episode 2

あなたは形あるマスクの下で、自分が空であるという体験をしているのですか?
それとも、姿形はあっても、それが実在ではないと知っているのですか?

知る働き、経験する働き。すべては知る働き、経験する働きの中で起こっています。
しかし私は、物ではありません。
私はパターンでも形でもありません。
私は空です。

見かけの上では物となって現れているにすぎません。
でもそれを調べてみると、すべては言葉です。
言葉を学ぶ前、私は何でしたか?
言葉を学ぶ前、あなたは何でしたか?

自分が生まれた時のことを覚えていますか?
自分は生まれたと言うことができますか?
あなたは自分の生まれた時のことを覚えていません。
なぜなら、言葉を知らなかったからです。

あなたは、どんな言葉も概念も知りませんでした。
どんなラベルも知りませんでした。
関連付けるどんなイメージも知りませんでした。

そこにあったのは、感覚、感情です。
幼い赤ちゃんを見てください。
すべてが自然に起こっているのを見てください。
物事は起こり、去っていきます。

赤ちゃんは、何物にも長く執着しません。
何か他の事が起きると、注意はそちらへ向かいます。
ラベルを貼りつけることなく、次の場所を見ます。
そちらの方がより注意を引くからです。

もし自分が空であると理解したら、日々の生活に興味を無くしてしまうのではありませんか? 例えば、夫を愛せなくなりませんか?

なぜ? どうして? 
それはそのように現れているのです。
あなたの夫を連れてきて、あなたに引き合わせ、一緒にしたのは何ですか?
それは、自然に現れている物事と同じではありませんか?

一つのものが、見かけの上で二つのものになり、二つのものがたくさんのものになりました。
それでもそれは、一つのもののままです。
それは常に一つのものです。

言葉を学んだ時、自分は空以外の何かであると思うようになりました。
それは純粋で自然に起こる働きでしたが、分離した存在となりました。
あなたは、「私」という思考と同化しました。
それは原初の思考です。

言葉を学んだ時に思考が起こりました。
見る働きは起こっています。すべてのことは起こっています。
そしてあなたはこう言います。
「私は考える」「私は感じる」「私は見る」「私は経験する」

あなたは言葉によって主体を作り出しました。
何かを見たり聞いたりして、私はあれやこれを見ているという概念を抱きます。
そしてそれが客体となります。

そしてそれが、見かけの上で、見る働きを分割します。
でも、見る働きなくして、見る人、主体は存在しますか?
見る働きなくして、客体、見られるもの、椅子、テーブルは存在しますか?
見る働きなくしてはありえません。

すべては、見る働きの中で起こっています。
見る働きは、自然でひとりでに起こっている作用です。
聞くこと、味覚、触覚、嗅覚、フィーリング、それは実在です。
そこにつけられている-ingは、この瞬間に実際に起こっている何かということです。

でもそれには実体も独立した性質もありません。それは自然発生的なものであり、そこに分離はありません。
私たちはうわべのものに執着し、それを実際よりも長く心に留めます。

時間を見てください。
時間はいつ始まりましたか?
時間を把握しようとして、「時間は今この瞬間始まった」と言う時、「時間はもう終わった」と言っているのと同じではありませんか。

「時間はもう終わった」と言う時、その瞬間に時間はまた始まっているのではないですか? そしてそれはもう終わっています。
ということは、そこには継続は全くないということです。

一つの部分に執着すればするほど、ああ、私はこれを見ているという時、うわべ上の分割を生み出しているのです。
何かを見ると、うわべ上ではそれが永続しているように見えます。
時間という概念のせいで、継続しているように見えます。
もともとの状態よりも永続しているように見えます。

もし過去のことを考えなかったら、過去は存在するかと自問してみてください。
思考なしで、何を言うことができますか?
思考なしで未来が存在するか考えてみてください。
過去と未来はいつ起こっていますか?

あなたは、今この瞬間から離れたことはありますか?
過去を生きることはできますか?
遡って、昨日を生きてみてください。
明日を生きてみてください。

できません。
過去を生きようと想像、期待、回想することはできます。
昨日、5分前。
でも、実際にさかのぼってそれを生きることはできません。

あなたが想像、期待することは、今この瞬間に起こっています。
あなたは過去に遡ることはできません。
あなたは過去の記憶を思い出し、未来を想像しているにすぎません。
明日何をしようと想像、期待することはできますが、それを生きることはできません。

もしあなたが未来のことを考えなかったら、それはどこにありますか?
あるのは今この瞬間だけです。

過去、未来はどこにあるのですか?

それは記憶です。
あなたは過去を思い出すことはできます。
でも、あなたがそのことでできることは、今この瞬間に思い出すことだけです。
あなたが今この瞬間に思い出せなかったら、
あなたは過去の出来事を覚えていますか?

少し前に言ったことを覚えていますか?
少し前に考えていたことを覚えていますか?
少し前に何をしたか覚えていますか?
あなたが思い出さないかぎり、あなたは覚えていません。

未来に何かをすると期待、想像することは可能です。
でもそれは現実ですか?
それは期待、想像、考え、概念です。
それは見かけ上の未来の時間です。

でもあなたは決してこの瞬間から離れたことはありません。
概念上で離れたにすぎません。
概念や思考の上だけです。それがあなたのマインドの中で起こっています。

時間は単に概念上のものですか?
それはマインドの中にあるだけですか?

そうです。
それが、私たちが理解しなければいけないことです。
あなたの過去の出来事、経験、条件付けはすべて死んだイメージです。
それは過去のものです。

もし今この瞬間に考えなかったら、条件付けはどこにありますか?
もし今この瞬間に考えなかったら、過去はどこにありますか?
それはすべて思考があって成り立っています。
もし期待、想像しなかったら、未来はどこにありますか?

でももし考えなくても、私個人は存在するのではないですか?

本当ですか?
それは、どれほどリアルですか?
それは自然に起こっている現象です。
あなたはそれに個人というラベルを貼りつけています。

人(person)という言葉はどこから来ましたか?
もともとの言葉はペルソナ、マスクです。
人は概念上のマスクを被りました。
それは両親から言葉を学んだ時に起こりました。

2歳かそこら。2歳半。考える能力が発達し始める前は、人(person)ではありませんでした。
そこには人はいませんでした。
それまで物事は自然発生的に起こっていました。
というのも、あなたは言葉に翻訳することができなかったからです。

あなたはどんな言葉も知らなかったからです。
まだ考える能力が十分発達していなかったので考えることができませんでした。
その能力は2歳か2歳半までは発達しません。

人間のその能力は他の動物、鳥、昆虫よりも発達しています。
でも、動物たちは他の能力が発達しています。
鳥は私たちよりよく見ることができます。
鳥は飛ぶことができますが、私たちは普通はできません。

でも私たちは考える能力によって、メガネや双眼鏡を作ることを学びました。
望遠鏡でよく見ることができます。
飛行機、ヘリコプター、気球によって飛ぶことができます。

犬には嗅覚があります。
私たちは犬と同じように嗅ぎ分けることはできません。

あらゆる種類の感覚が起こっています。
私たちはそれを概念化することができます。
動物や昆虫は私たちよりももっと感じることができます。

そして、私たちは分離した存在、個人であるという考えを受け入れました。
それを調査することも、疑問に思うこともありませんでした。

あなたは違った能力について話しています。
あたかも私たち人間が特別ではないかのように。

ええ、無(NO-thing-ness)、純粋な本質、すなわち知性エネルギーの中ではあなたは何であれ、基本的な空間、概念化されない意識の空間、純粋なる知性、貼り付けたければどんなレベルを貼り付けてもかまいませんが、概念なしで、いったい誰があなたより優れているのですか?
概念なしで、一体誰があなたより劣っているのですか?

あなたは自身に対して概念を持ちました。
そして、他の人に対しても概念を持ちました。
そしてその概念を自分だと思うものに結び付けました。
あなたは、自身を他者よりも優れているとか劣っているとか考えます。

概念なしで、誰があなたより優れているのですか? 誰が劣っているのですか?
もしそれがすべて空、認識する空だとしたら。
知る働き、すなわち知性で満ちているとしたら。
一体誰が優れていて、誰が劣っているのですか?

そしてあなたは他者に何を望みますか?
あなたは概念を抱いています。
彼らは私の持っているものを手に入れた。
私は彼らが持っていないものを手に入れた。
だから私は彼らよりも優れている。

彼らは私の持っていないものを手に入れた。
だから彼らの方が優れている。
そうした概念なしで、あなたはどうなりますか?
その平静の中で。概念化されないアウエアネスの中で。

それがまた聖典の中で言われていることです。
根底にある空間、すなわち、大いなる完成は概念化されない意識です。
どんな概念もない意識(アウエアネス)です。
それはすなわち、究極のもの、大いなる完成です。

概念無しで、究極に何を付け足すことができますか?
もしそれができるなら究極ではありません。
そこから何を取り去ることができますか? 何も。
もしそれができるなら、究極ではありません。

大いなる完成についても同じことが言えます。
もし何かを付け足せるなら、それは完成ではありません。
それから何かを取り去ることもできません。
もしそれができるなら完成ではありません。

あなたはそれです。忘れないでください。

2019/03/23

The Spiel ⑫ (2019.4.10公開) Am I this PERSON?


 Am I this PERSON? Sailor Bob Adamosn interview episode 1

どうして人々は苦悩するのでしょうか?

人々は自分に対して、間違った考えやイメージも抱いているからです。自分自身で調べて見ることです。
言葉は、実際にその物ですか?
自分自身に対して抱いている概念、言葉、思考が、本当のあなたですか?

私たちは皆、あなたも私も誰もかれも、自分は人、個人、分離した存在であるという信念から始まっています。
両親、学校、回りのみんなが、その信念を植え付けます。そして、それが自分だと信じて、さらにそれを強化します。

しかし、いにしえの昔から、聖人、救済者、賢者と呼ばれる人たちは、その本質を見抜いてこう指摘しました。
独立した個人、分離した存在というものはいません。
それが偉大な聖典の中に書かれていることです。
一つの本質(エッセンス)がパターンとなり、姿形となり、すべての物となって現れています。

本質(エッセンス)と私たちが呼ぶものでさえ、それは私たちがそれに貼りつけたラベルにすぎません。
それはすべて、知性エネルギーが振動してパターンとなり、すべての顕現として姿形となったものです。

ヒンズー教ではそれを、ナーマルーパ、名前と形と表現します。名前は私たちが付けたラベルです。形はパターン、姿。私たちもそうです。人、体、マインドなどはすべて姿形です。木、雲、その他すべても姿形、パターンです。

どうして私たちは自身のことを姿、すなわち形だと思っているのですか?

私たちが言葉を覚えた時に、そう教えられたからです。2歳から2歳半の頃に、考える能力が発達し、自身のことをこの名前、すなわち自身に貼られたラベルであると信じました。
そしてそれを調べることはなく、それが間違いであるとは知りません。

でも、私には体があり、両目を通してしか見ることができないように感じます。私は(体を通して)痛みを感じます。

でも、それを感じているのは誰なのですか?
それは分離した存在、個人ですか?
それともそれは起こってくる感覚にラベルを貼ったものですか? 他のものすべてにラベルを貼ったように。

私(me)、私のもの(mine)。その二つは概念であり、それが問題となる私(me)、私のもの(mine)です。
もしそこに「私」がいると考えていると、たくさんの概念や考えを受け取ることになります。

これは私のものだ。私、私のもの、は二つの概念であり、それが問題を引き起こします。

どうして私たちは感覚を自分の体と目から受け取るのでしょうか? どうして他の人の体や目を通して受け取ることができないのでしょうか?

パターンはそれぞれ独自の現われだからです。一つの本質がそれぞれ独自のパターンとなって現れ出ています。
それぞれ、無数の違ったやり方で、驚くべき顕現となって現れています。
木として、花として、その他すべてとなって。

でも、木は自分が木であることを知りません。
花は自分が花であることを知りません。
でも、私たちには考える能力があります。考える能力は非常に役に立つ能力ですが、それはまた自己破壊的でもあります。

それはエネルギーの振動であり、二元的に動くからです。善へと動いたあとは悪の方へと動きます。喜びと苦しみ、幸福と悲しみへと動きます。
どうしてそれ自身が自分を認識することができるでしょうか?それは分割できない一つの本質なのです。それについては何も言うことができません。あるのは「それ」だけです。

そしてそれが顕現となって現れた時、もしそれを区別しなかったら、それは何もないもの(no-thing-ness)、静寂、空です。それは今までも、そしてこれからもそうです。
それは自己を認識して表現するために、振動して様々なパターンとなり姿形となって現われます。

仏陀は、空は形であると言いました。空がパターンとなり、すべての形になって現れています。そしてまた、形は空であると言っています。
私たちは、この姿形を本当の自分だと思っています。

どうしたら、自分は形ではないという経験をすることができるでしょうか?

それはできません。なぜなら、自分は形ではないという経験をしようとしているもの(あなた)が形だからです。それが自身を形のないものとして経験しようとしています。

でも、あなたがそれを調べると、共鳴、知る働きとしての真の実在があります。
それがブッダの言う、「空は形であり、形は空に他ならない」ということです。
あなたが、この形を調べて詳しく見る時、実際それにどんな実体、中身があるかがわかります。

体を調べてみてください。あなたは体ですか?
生まれつきあなたは、自分は体ではないと知っています。
なぜなら、あなたは「私の体」と言います。
「私のコート」「私の家」「私の車」と言うように。

あなたはコートですか? あなたは家ですか? あなたは車ですか?
あなたはそれではないと知っています。
だとしたら、おそらくあなたは体でもありません。

では私は一体何ですか?

あなたは一つの本質です。
もしそう呼びたければ。
それが振動して様々なパターン、姿形となって現われています。

概念、言葉や思考は人間という形が持っている考える能力です。
その能力は他の動物、鳥、昆虫よりも発達しています。
その能力で言葉、すなわちラベルを学びました。

私たちはラベルを貼ることができないもの、形のないもの、空にラベル、名前、形を貼りつけました。

私がその空であり、自分自身とその他すべてのものにラベルを貼ったのですか?

そうです。
そしてそれはすべて見せかけであり、そのように見えているだけです。
空が振動してパターンとなり、姿形となって現れています。
形は空に他なりません。
でもそれは現実のよう見えます。
それはいわゆる現象としての顕現です。

現象の定義は、「そのように現れるもの」です。
それが指摘しているのは、パターン、姿形はすべて現われであり、そうように見えているだけであるということです。
私たちは姿形を実在だと思っています。どうして?

概念上のイメージが働いているからです。その概念は見かけ上の人(ペルソナ)から来ています。私たちは概念のマスクを自身に付けています。

あなたは何ですか? もしその概念のマスクを外したら?

2019/03/22

The Spiel ⑪ (2019.2.10)


(2019.2.10)

(名前の紹介など、1:02まで割愛)

あなたに何かを教えることはできないし、何かを告げることもできません。理解すること、最初から理解することがとても大切です。私が指し示すことを調べて、それを理解してください。誰もあなたに何かを教えはしませんし、何かを告げることもありません。それは何も新しいことではありません。何か新しい流行の思想やセクト、何と呼んでもよいのですが、カルトでもありません。それは、すべてのいにしえの伝承の基礎となって指し示されていることです。

例えばそれはヒンズー教では非二元と呼ばれています。彼らは非二元という言葉で、他には何もない一つのもの、二つではないもののことを表わそうとしています。あなたがそれを調べる時、他には何もない一つのものは、一つ以外何もありえないと理解するでしょう。それが根本にある一つのもので、それがすべてです。

たいていの人がそう呼ぶのを好むと思いますが、聖書の中でそれは神と呼ばれています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」仏教徒は・・・。

(マイクを持つ手が震えるのでカタリーナが持つ)

パーキンソン病のせいです。仏教徒は、「大いなる完成は概念化されない意識である」もしくは「概念化されない意識が究極である」と言います。大いなる完成(great perfection)というところに注目してください。完成(perfection)に何を付け足すことができるでしょうか? 何もありません (nothing)完成(perfection)から何を取り去る必要があるでしょうか? 何もありません。

究極(absolute)に何を付け足すことができるでしょうか? 何もありません。何を取り去ることができるでしょうか? 何もありません。それは無(no thing)がもととなっているとわかります。無がすべてとなって現れ、表現しています。仏教徒はそれを「認識する空」と呼びます。私たちが空を認識していると思うかもしれませんが、私たちが認識しているわけではありません。

空(くう)に認識する能力、知る働きがあり、自らを認識しています。そして、空は形であると言います。それは、すべての顕現は、空がパターンとなり、姿形となって、あらゆるものとして現われているということを指摘しています。あなた、私、星、その他すべてのもの。

彼らは、「空は形である」を逆にして、「形は空以外のものではありえない」と言います。私はそこで言われていることの意味をこう認識しています。あなたとこの部屋の物すべては、私が貼ったラベルで、知性エネルギーと呼ぶものがもととなってパターンとなり姿形となったものです。

知性とは知る働きです。この部屋の中にいる人で知る働きがない人はいますか? 知識や何かを知っているという意味ではなく、基本となる知る働き、すなわち存在しているということです。あなたは、私は知らない、私は存在しないと言うことはできるでしょう。でもそう言えたとしてもそれは知る働き、存在がそれを可能にしているのです。

知性エネルギー、私はそういうラベルで呼ぶのを好みますが、知性は知る働き(knowing)です。どんな ing も、今この瞬間に起きています。誰か今この瞬間に、知る働きがある人はいますか? それとも知る働きが今無い人は? 知る働きは進行中の他の活動と同じです。見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこと、すべての活動が今この直接性の中にあります。

それは時間の無い直接性です。その知る活動やどんな活動もエネルギーです。知性エネルギーという言葉を使いますが、言葉はそのものではありません。さらに見ていくと、言葉は実在ではないとわかります。言葉は物ではありません。言葉は単にラベルにすぎません。

ヒンズー教では、サット・チッタ・アナンダ・ナーマ・ルーパ(sat-chit-ananda nama rupa )は五つの要素だ、と言います。サットは存在。誰か今この瞬間に存在していない人はいますか? チッタは意識。誰か今この瞬間に意識の無い人、気づいていない人はいますか? いいえ。あなたは存在していて、意識があると知っています。

今、誰か今この瞬間存在していて幸福でない人はいますか。サット・チッタ・アナンダ、存在、意識、存在する幸福。誰か今この瞬間に存在する幸福を感じていない人はいますか? 誰か死にたい人は? 

あなたはもうそれであるということを認識、理解してください。マハーヴァキヤの大格言では、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなりと言います。あなたは生まれつきそれを、あなたの言語で知っています。それは椅子、それはカーペット、それはあなた、それは私、それは誰か、それは星、それは電車、それは惑星。すべてのものに私たちはラベルすなわち概念を貼っています。

あなたは、言葉は物ではないと理解します。言葉はそのものではありません。それを理解してください。水という言葉を見てください。あなたは水という言葉を飲むことができますか? あなたはそのラベルを飲むことができますか?その中で泳ぐことができますか? 言葉で洗濯したり、流したりすることはできますか? できません。

あなたが話す時、火という言葉で口をやけどすることができますか? その言葉で料理をすることができますか? あなたが言葉で何かしようとしてもできません。私たちが信じているこの「私」という言葉はどうですか? それは本当のあなたではないかもしれません。そしてあなたは生まれつきそれを知っています。

なぜなら、言葉は私たちが受け入れ、学んだものだからです。あなたは分離した存在、個人、人(person)であるということを受け入れました。人(person)という言葉はどこから来ていますか? それはいにしえの言葉から来ているのではありませんか? ラテン語かギリシャ語だと思いますが、それはどうでもいいことです。自分で調べてみてください。

ペルソナ(persona)、マスク。私たちはこのマスクを被ることによって、概念を手に入れました。マスクという言葉を私たち自身に貼り付けました。私はボブ、オーストラリア人、いいやつ、私は幸せ、私は憂鬱、怖がり、心配症。こうした概念を、純粋な知性エネルギーである「私」という働きに貼り付け、それがパターンとなり姿形となって、ペルソナ、マスクとなりました。

そこから、私たちのすべての心理的な問題が起こります。それは、自分は分離した存在、個人であると信じていることから起こります。それを調べてみてください。虚偽は調査に耐えません。自分で調べてみてください。私があなたにいろんなことを言うことができます。調べてみてください。人々は、ボブがこう言った、ボブがああ言ったと言います。

また、誰かがこう言った、誰かがああ言ったと言って、あなたはそれが本当だと思います。自分で調べて、それが本当かどうか確認してください。もしペルソナが無かったら、私たちはパターン姿形です。誰があなたに何かを言うことができるでしょうか? 私が言うことは有効なポインターにもなりうるし、破壊的なものにもなります。自分自身で調べてみてください。他の誰にもできません。それがここで起こることのすべてです。

調べて、自分で見てください。なぜなら、虚偽は調査に耐えないからです。間違った考えを受け入れていると、そこにエネルギーが注がれ、絶えず強化され、外見上は強固で実体のあるものとなります。その実体あるものを調査すると、それは落ちていきます。なぜなら、そこには実体はないからです。

聖書を見てください。聖書はあなたに何と言っていますか? もしあなたがクリスチャンなら、 別の見方をします。彼らは三つの言葉を充てています。偏在、全能、全知です。偏在は完全な存在。全能は完全な力です。マインドの力、思考の力、あなたの力、この力、何か他の力というのではなく、完全な力です。マインドの力というものはありません。

もし生命の本質が体を通して機能しなかったら、あなたがマインドを持つことさえありません。あなたが調べてみると、マインドなどというものは存在しません。あるなら私に見せてください。自分で調べてみてください。この体とマインドを自分で調べてみてください。あなたはこの体ですか? 生まれつき、あなたはもうそれを知っています。

あなたは体ではありません。完全に調べるまでは信じられないかもしれませんが。あなたはいつ、私の体と言いますか? あなたは、私のコートと言いませんか? 私の車、私の家、私の靴。あなたはコートですか? あなたは車ですか? あなたは家ですか? あなたは靴ですか? いいえ。それは単に私たちが別々のものに貼ったラベルです。だとすると、あなたは体ではないでしょう。

体が何でできているか調査してください。あなたは、体が構成要素でできていると知るでしょう。それはすべて、土、火、空間、エネルギー、五つの要素、水、火、空間など、体は構成要素でできています。もしあなたは自分が分離した存在、個人、人であると考えているなら、自身を構成要素と分離してみてください。

自分が分離していると言うなら、呼吸を止めて、どれだけ長く自分が空気無しでいられるかやってみてください。できません。水を飲むのをやめてください。どれだけ長く水無しでいられますか? 体の80%は水です。体温、火を取ってください。構成要素無しで、どれだけ長くいられますか? 空間から外へ出てください。空(くう)の外へ出てください。できるものなら。

あなたは奮闘して、空の外へさえも出ようとするでしょう。空間のような意識の外へ出て、どこへ行けるでしょうか? あなたが調べると、それらの構成要素から自分を分離できないとわかります。そして構成要素を分解していくと、原子より小さな粒となり、純粋なスペース、純粋な空(くう)となります。あなたは、パターンや体、すべての顕現は、そこに見みえているようなものではないということを理解します。

経典の中でブッダは、顕現はマーヤーであると言っています。それは幻影です。マーヤーという言葉の意味は幻影です。それは現象として現れた顕現です。辞書で phenomena(現象)を調べてみてください。「そのようにあらわれるもの」です。それはそのように現れているだけです。部屋の後ろの鏡を見てください。たくさんの像がそこに映っています。

近寄って、鏡の中の像を掴むことができるかやってみてください。できません。あなたは、それがそこにないと言うことはできませんが、掴もうとした時には、それがそこにあるとは言えません。あなたがそれを調べると、それは表面に映った像以外ではありえないとわかります。同じことが、この顕現にも言えます。

phenomena(現象)は「そのようにあらわれるもの」です。それは見た目でそう見えるだけです。ですからあなたは、自分が体であると言うことはできません。マインドと呼ばれるものはどうですか? 私のマインド。私はマインドである。では、マインドを見せてください。誰か立ち上がって、これがマインドだと言える人はいますか? 自分だと言える確かな実体のあるものを見せてください。それは実体のあるものですか?

思考以外で、マインドと呼べるものが存在しないとあなたは理解するでしょう。思考とは何ですか? あなたの思考はどうですか? すべての思考はメンタルの構築物です。それは思考、イメージでできています。ニサルガダッタは言いました。(言い直して)シェイクスピアは数百年前に言いました。「良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけである」と。

区別して分割しているのは思考です。思考だけが区別し分割します。なぜなら、それはヴァイブレーションだからです。すべての思考はヴァイブレーションです。思考を調べてみてください。それがどう機能するかを見てください。それがいつも対極へと機能することを理解してください。喜びと悲しみ、肯定否定、愛と憎しみ、良いと悪い、快と不快。私たちがその境界を設定しているのは、言葉によってです。そしてそれは学んだものです。

あなたはマインドと呼ばれるものですか? ではマインドと呼ばれるものを見せてください。あなたが調べてみると、思考以外にマインドと呼ばれるものなどないと理解するでしょう。もしマインドが思考でできていて、あなたが自分はマインドであると信じているなら、どの思考があなたですか? あなたはそれは原初の思考だと思うでしょう。

原初の思考とは、「私はいる」です。私たちが言葉を学び始めると、振動したオームの音が、「あたしはいる」と翻訳されてやってきます。もしあなたがその思考なら、もしその思考が無くなったら終わりだと思って、それを見失うことを恐れるでしょう。でも、あなたは毎晩眠りにつく時、喜んでそれを手放します。

日中、あなたが他の思考を考えている時は、「私はいる」はそこにはいません。一日中その思考があるわけではありません。ということはおそらく、私はこの想像上の「私はいる」、ペルソナ、マスクではありません。言葉を調べてみてください。あなたが話す言葉、話した言葉は途中で学んだものです。

あなたはどんな言葉も持たずに生まれてきました。遡って、どんな言葉を持って生まれたか調べてみてください。どんな言葉も途中で身に着け、学んだものです。そしてあなたは言葉を忘れた時など、今でも時々辞書で調べて学んでいるでしょう。まだ辞書には私たちが学んでない言葉もたくさんあります。

そしてあなたが、言葉が現実ではない、水という言葉が現実ではないと理解する時、たくさんのメンタルの構築物を私たちは現実であると思っていることがわかります。そしてあなたは、マインドの中には答えはないと理解するでしょう。なぜなら、概念化して、言葉やイメージにするのがマインドのすることだからです。

シェイクスピアは「良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけである」と言いました。ニサルガダッタは同じことを「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめることはない」と言いました。これらの恐怖、心配、心理的なストレスや苦悩を見てください。すべては想像からきています。

それを調べてみて、どうしてそんなことをしているのか、どうしてそんなことをやり続けているのか、想像することをやり続ける必要があるのかを理解してください。もちろんそれはとても役に立つものです。芸術家などが何かを生み出す時は想像力を使います。想像する(imagine)は、image と in に分解できます。あなたは想像上、概念上のイメージを生み出し、それを現実であると思っています。

それは単なる言葉なのですが、私たちはそれに様々な意味を付け足すことを学びました。
どうしてそれは起こったのでしょうか? どんな言葉も無い時、あなたはあなたが始まった時に戻ります。聖書では「はじめに言葉ありき」と言います。言葉と共に神がいました。言葉が神でした。

神という言葉は、私たちが原初の知性エネルギーに貼り付けたラベルに他なりません。あなたがどんなラベルでそれを呼んでもかまいませんが、それは私たちが貼り付けた単なるラベルです。私たちはその上に神という言葉を貼り付けました。そして私たちがそれに何を詰め込んできたかを見てください。

どんな伝統、もともと神を持たない伝統でさえ、違った言葉にその意味を与えました。ヒンズー教ではたくさんの言葉に神という意味を与えました、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ。私は何年も前に1000の名前を持つヴィシュヌの名前を使ってマントラの詠唱をやりましたが、ヴィシュヌは神を表す1000の異なる名前を持っています。

仏教徒は神ではなく、本質の原初のものがすべてとなって現れていると言い、ムスリムは唯一の神がいるだけで、アラーがその名前だと言います。彼らはそう名付けました。モーゼが山の上で石板を授かった時、彼と同胞たちが人々の中で幸福に平和に暮らすため、彼はインスピレーションを得ました。彼は人々の前でどう話したらいいだろうかと思った時に、インスピレーションを得てこう言いました。

"I am sent me"「(私はいる)が私を遣わした」。「I am (私はいる)が私の名前である」。そしてモーゼは、I am (私はいる)が私であると理解しました。同じことがあなたにも言えるのではありませんか? あなたは、今ここにある意識です。それは「私はいる」と翻訳されました。そのラベル無しで、あなたはどうやって自分がここにいると言うことができますか? 

あなたは自分の存在を否定することができますか? できません。存在ということに関して言えば、あなたはいつ始まりましたか? あなたは、私は誕生の時に始まったと言うでしょう。でもどうしてそう言えるのですか? あなたは自分が生まれた時のことを覚えていません。誰か自分の誕生を覚えている人はいますか? あなたは覚えていません。なぜならあなたは、それを認識する言葉を持っていなかったからです。

いつあなたは始まりましたか? 私たちはあなたの父親や母親まで遡ることができます。もしあなたが遡って調べようと思えば、好きなだけ遡ることができます。あなたが父と呼ぶパターンの中で、彼が食べた食べ物の本質と呼吸、プラーナによって、知性エネルギーが父親の中に満ち、精子と呼ばれる小さな粒を作りました。あなたがそれを肉眼で見ることはできません。

精子は内在する知性に満ちています。同じように、あなたの母親の中で、内在する知性エネルギーがパターンとなり、姿形となって、卵子と呼ばれる小さな粒を作りました。あなたはそれを肉眼で見ることはできませんが、内在する知性は何をすべきか知っていて、それを子宮内膜に着床させます。それは内在する知性エネルギーに満ちています。

そして精子も何をすべきか知っていて、卵子へと泳ぎ着きます。あなたはその二つの中に知性エネルギー、生命の力を見るでしょう。精子は卵子へ泳いでいき、中へ入ることを知っています。そして二つが一緒になると、内在する知性エネルギーが細胞を二つに分裂させ、さらにもう一度二つに分裂させ、その中にはすべての遺伝子情報があり、小さな胚、胎児を形作ります。それが今日のあなたです。

あなたが、人としてこのショーを仕切っているというのなら、このことに関して、あなたは何をしましたか? あなたは「心臓や肺を成長させなくては」と言いましたか? あなたは脳さえ持っていませんでした。指も足先も持っていませんでした。でも内在する知性はその瞬間あなたに満ちていて、何をすべきか知っていました。

それは命。あなたの生命がその時あって、それが今日のあなたの命であり、それが今も現れています。私たちはそれを見失いました。キリストは言いました。「私が道であり、私が真実であり、私が存在の感覚がマインドを通して現れたものである」。彼は、彼自身のことを言ったのではありません。

人々は彼が何か、正しい、優劣、あなた、私、その他のことについて言ったのだと思いました。人々は、すべては一つの本質がパターンとなり姿形となって現れたものであり、あなたと同じ本質であるということを理解しませんでした。

(少し言葉に詰まって)どこまで話しましたか? 誰もどこまで聞いたか私に言うことができません。(笑い)
私たちはパターン、姿形となって胎児となり、9か月後に生まれました。でもあなたはそれを覚えていません。なぜならあなたは言葉を知らなかったからです。あなたはなぜあなたが言葉を知らなかったかを理解しています。

なぜならあなたは、二歳か二歳半になるまでは言葉を習得しなかったからです。もう少し前まで、あるいはもう少し後までかもしれませんが、そんなことは問題ではありません。正確な統計があるわけではありません。それくらいの頃、純粋な知性エネルギーがあなたの中で機能し始めて言葉を学びます。

その時が始まりです。聖書の中の言葉が、概念や観念によって違った意味を持ち始めます。私が、「始めに言葉ありき」と言うと、あなたは何十億光年か前に自分が始まったのだと考えます。でもそうではありません。なぜなら、時間は存在しないからです。それは任意の機能です。

時間について調べてみてください。時間は任意のものだとわかるでしょう。時間などというものは無く、それは今この瞬間の直接性の中にあるものです。考える能力が人間に発達して、人生が始まります。それは人間が持っている能力であり、動物、鳥、昆虫などは違った形のもっと発達した能力を持っています。

鳥は私やあなたよりもはるかに良い視力を持っています。そして飛ぶ能力を持っています。私たちは普通では飛べません。私たちは鳥ほど良い視力を持っていませんが、考える能力によってメガネを作り、望遠鏡や双眼鏡を作りました。それは良く見えることを可能にしました。

私たちは飛行機、ヘリコプター、気球などを作り、飛ぶことができるようになりました。考える能力はとても役に立つ能力ですが、とても自己破壊的でもあります。考える能力が振動してすべてとなり、それがこう言います。「私は十分ではない」「私は恐ろしい」「私は心配だ」「私は不幸だ」「私は悲しい」「私は落ち込んでいる」「私は自尊心が低い」「誰も私を好きではない」。

すべてのこうした心理的な苦悩の概念的イメージによって、認識する空、存在の感覚、純粋な知性エネルギーが妨げられ、私たちはすべての他のものから分離した存在であると思うことになります。でも実際には私たちはそうではありません。犬は嗅覚を持っています。それは私たちよりもはるかに発達しています。

カメレオンやある種の昆虫は色を変えることができます。自然を見てください。違った能力で、あらゆる種類のことが起こっています。私たちは考える能力を持っています。この考える能力によって、私たちが顕現と呼ぶものを認識しています。でも私たちは、それが自然に起きているものだということを理解しません。

私たちは言われてきたことを信じ込んでいますが、古くから言われてきたことを見落としてはいけません。それは束の間のものです。それは自然に起こってくるものです。仏陀は言いました。「それはマーヤーである。それは幻影である。それは束の間のものである。それは絶えず変化している」と。

顕現は束の間のものです。それは絶えず変化しています。それを自分で調べてみてください。あなたは気づいていないかもしれませんが、あなたの体はこの部屋に入って来た時と同じではありません。どれほど、とあなたは思うかもしれません。調べてみると、数千の細胞が今この瞬間に死んで入れ替わっていることがわかります。

あなたの体を振り返って見てください。例えば、10年前、20年前、あなたが小さな子供だった頃、赤ちゃんだった頃。同じ体ではありません。でも、同じ存在の感覚が体を通して機能しています。知る働き、純粋な知る働き、存在する働き、見る働き、聞く働き、味わう働き、触れる働きはそこにありました。

たくさんの知識を身に着けましたが、見る働きは同じままです。知性エネルギー、自然な生命の本質は変化しませんが、現れる内容は変化します。それは今ここにある見る働きも同じです。あなたは気づいていませんが、今朝起きた時にあった見る働きが今もここにあり、それは昨日も先週も去年もありました。

あなたが思い出せる限り遡っても、同じ見る働きがあり、見る働きは変化しませんが、その内容は変化します。その内容は絶えず変化し、この部屋の中でも変化しています。聞く働きについても同じことが言えます。考える能力がやってきた時、私たちは、自分たちは考える能力がある存在であるという大きな概念上のイメージを作り上げました。

「私はボブ」。周りの人や両親がそう言うから。「幼いジョニー」「あなたはいい子」「あなたは悪い子」「あなたは不幸」「私はオーストラリア人」「いいやつ」「あんまりよくない」「自尊心が低い」「怖がり」「私は不幸だ」。起こった出来事を様々な概念やラベルに貼り付け、それが両親、学校、社会、周りの人すべて、そして自分自身によって強化されます。

なぜならそれは決して調べられることがないからです。でも、時代を遡ってみれば、それに気づいて、それを語り継いだ人たちが少しはいました。当時は私たちが今日持っているような伝達手段はなかったので、村の中の限られた人々に限られていました。また、すべての人がそれを聞きたいと思ったわけでも、実際に聞いたわけでもありませんでした。

それが伝承となり、聖典のもととなり、解釈されました。そして人々はそれに自分たちの信仰や伝承に基づいて勝手な解釈を加え、異なる言語でそれを伝え、それが異なる伝承や宗教となりました。でも、根本は同じものです。そして人々に何が起こったのでしょうか?

人々はそれを指摘した人を、聖人、救済者、聖者、預言者、場合によっては神としてあがめ、そのメッセンジャーを崇拝し、メッセージを見失いました。メッセージはずっと同じで「あなたはそれである、あなたが唯一のものであり、今までもこれからもずっとそうである、そしてそれがすべてであり、他には何もない」です。

私たちは言語よって、それは椅子、それは車、それはあなた、それは私、と、椅子や車や物事に異なるラベルを貼り付けています。存在するという言葉を見てください。存在すること、知ること、存在することを愛すること。あなたはそのラベルを様々なものに貼り付けました。

私は何かにならなくてはいけない。悟る、自己実現する、自己解放する。何かになること(becoming)、being(存在すること・本質)ではありません。何かになることは未来の時を表す概念であり観念です。もしあなたが何かになれるものならやってみてください。あなたは記憶や期待という想像上の概念の中で、できると信じています。

あなたは、できると信じていますが、実際にはできません。あるのはいつもこの瞬間だけです。あなたが神を信じていて、神を呼ぶ時は、至高の存在(supreme being)と呼びませんか? そしてあなたは自分のことを、人間(human being)と呼びませんか? あなたが学んだラベルを取ってください。supreme を取り、human を取る。

この部屋にある存在(beingness)からラベルを取ってください。あれが椅子(That's being a chair.)、あれがあなた(That's being you.)、それが私(That's being me.)。すべてのものが存在(beingness)です。それに私たちは、概念、ラベルを貼りつけています。そして私たちは事実を見失います。存在(beingness)、存在する喜び(lovingness to be)、本質としての存在(existence of being)に概念を貼り付けて概念化しています。

あれが椅子。あれが車。あれがカーペット。そして私たちは本質を見失います。思考は必要な時に起こってきます。それは戻ってきて、自分はもうそれであったということを再認識します。なぜならあなたは今までの人生の中でそれを味わったことがあったからです。そしてあなたは、私はそれを失ったと言うでしょう。

必要なことはすべて起こってきます。それは認識する空(くう)です。仏陀はそう言いました。私たちが認識するのではありません。認識するの別の言葉は、知る働きです。それは私たちが認識するのではありません。認識そのものが、自らを認識します。知性エネルギーそのものが知る働きとして機能します。

知る働きがパターンとなり、姿形となって内容物となります。空間、星、植物、木、花、人間、昆虫などの言葉は、知る働き、純粋な知性がもととなっています。知性無しではパターンもありません。空(くう)が認識しています。空があなたを生きています。ニサルガダッタが指摘したように、そこには命があるだけであるとあなたは理解します。

そこには命を生きている体はありません。命が生きています。命がパターンとなり姿形となって、あなたに呼吸させ、あなたを鼓動させ、あなたの爪や髪の毛を伸ばし、食べ物を消化しています。それを調べてみてください。生命の本質無くして、呼吸をすることができますか? 何かを考えることができますか? あれこれの言葉を聞くことができますか? 

良い例を挙げるなら、コンピューターです。たくさんの情報がコンピューターの中にあります。あなたは好きなだけキーを打つことができますが、電源がオンになっていなければ、何も起こりません。あなたは体とマインドを手に入れました。それはパターンとなり姿形となって現れたものです。それは顕現となって現れ、機能し、表現し、認識しているものです。

死体にも心臓、肺、目、耳、腎臓がありますが、生命の本質が満ちていなければ、機能しません。あなたとは何ですか? 体、マインドには命、機能が必要です。あなたは命がパターンとなり、姿形となって現れたものです。あなたが命であることを認め、活用してください。そうあることを許してください。それが表現することを許してください。

それがあなたを成長させ、パターンとなり姿形となって今日のあなたがいることを認識してください。それは今この瞬間も生きて呼吸をしています。聞く働きは続いています。見る働きは続いています。もし聞く働きが何かに共鳴してベルを鳴らすなら、真実に従って、あなたを連れて行くままに任せてください。

認識する働きを起きるがままに任せてください。それが連れて行くところへ行ってください。あなたは今成人して、おそらく今まで経験したことがなかったことや、何か心を動かされたあらゆる種類のことをやってきたでしょう。マインドの中でそれを解決しようとしました。あらゆる種類の瞑想をやり、あらゆる種類の本を読み、リトリートや、いわゆる精神的探求をやってきたでしょう。

しかしあなたは、決して答えを見つけることはできませんでした。もしあなたが答えを見つけたなら、ここには来ませんでした。あなたは何も学ぶ必要はないし、何かを必要としません。でもあなたは答えを見つけませんでした。あなたはずっと何をしているのですか? あなたはマインドの中に答えを探していました。

次のマントラ、次の本、次の概念、イメージ。あなたはマインドの中に答えを見つけることはないということを理解してください。そしてあなたは、決してマインドの中に平和を見つけることはありません。いにしえの人たちが聖書の中で言っているではありませんか? 平和への道はすべて理解の道であると。理解するという意味はマインドの中で何かを探すということです。純粋な理解とはマインドの中を探すことです。

しかし、平和は、マインドが無い時に理解となってやってきます。そして共鳴が起き、認識します。「ああ、これだったのか」。どうして以前はわからなかったのか。どうして私は見失ったのか。あなたは概念的な理論に陥ったために見失いました。良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけです。

あなたの想像以外、あなたを困らせるものは何もない。思考はとても役に立つものですが、破壊的にもなります。何か共鳴するものがあれば、それに従ってください。真実が真実を認識するということを理解してください。聖書の中ではこう言っています。「真実を知れば、真実があなたを自由にする」と。

そこには自由があります。本当のあなたを知るここです。他にもいろんな点から指摘することができます。自己の中心、エゴがやってくるとどうなるかを見てください。考える能力がやってくると、あなたは言葉を覚えます。あなたは自分で調べることなく、「幼いジョニー」「小さなビリー」と誰かが言ったことを信じてしまいます。

ああ、私は幼いジョニー、それが私だ。「私はいい子だ」「私は悪い子だ」「私は幸せだ」「私は怖がりだ」。それは概念であり、それが概念上のイメージとなります。そしてそれを信じて毎日強化します。「私は強情だ」「私はオーストラリア人だ」両親がそう言ったからそう信じている。

その概念上のイメージが今や基準点となりました。自己の中心、エゴ。その三つは同じもの違った表現です。聖典の中では、エゴは取り除かなくてはいけないと言っています。エゴが問題であり。エゴがあなたを殺す。取り除け。見破れ。あれをしろ、これをしろ。カーペットの下に押しやれ。でも、本物の聖典では、エゴというようなものは無いと言います。

あなたは何もする必要はありません。すべてはフィクションであると理解してください。それにはいかなる実体も独立した性質もありません。でも私たちはそれを理解しません。私たちは基準点を手に入れました。すべての物事が基準点に関係するようになりました。すべての問題が、関係性、すなわち結びつきから起こってきます。

関係性は二元性です。結びつきは二元性です。ここで私たちが話しているのは、非二元です。私が指摘していることは、二元性はかってもこれからも決して存在しないということです。それは完全はフィクションです。それを理解して、二元性から自由になってください。何か好きなことがやってきたら、どうなるでしょうか?

どうしてそれがあなたにわかりますか? 私はボブ。基準点。この経験は良かった。何が欲しい。私たちは良い経験をしたい。良い感じを失いたくない。それが束の間のものであることを理解しないで、あなたがどんなにそれが好きでも、どんなにそれをキープしたいと思っても、それは去っていきます。それを調べてみてください。

あなたが愛した人が死ぬこともあります。誰かがあなたから去ることもあります。他の人も去っていきます。あなたのまわりの物事は絶えず変化していきます。現象としての顕現は絶えず変化していきます。私たちは失いたくない。それでどうしますか? 私たちは抵抗して、それをできるだけ留めようとします。

抵抗は葛藤であると理解できますか? どんな葛藤であれ、不幸、心配、恐れ、自己憐憫、怒り、何であれ、それは病気です。抵抗、葛藤、病気、不安は絶えず続きます。これは私がいつも言ってきたことですが、もし、私がこれが嫌いだと言ったら、何が起こりますか? 私はこれが欲しくない、これを取り除きたいと言ったら何が起こりますか? 

「私」は何をしますか? 「私」は抵抗します。ボブ、オーストラリア人はそれを押しのけ、取り除こうとします。私はそれを欲しくない。そしてまた抵抗です。葛藤、病気、不幸。抵抗、葛藤、病気が絶えず続きます。心配、恐れ、落ち込み、不幸。私が好きなことは短期間しか続きません。なぜなら、それは他の物事同様に束の間のものだからです。

すべての物事は変化していきます。でもどうしてあなたは、一方よりももう一方の方を好むのですか。一本の棒には両端があり、コインには裏と表があります。物事には常に二つの面があり、そのどちらかに振動しています。あの偉大な信心銘はこうあなたに教えています。「大いなる道は難しくない。選り好みをせず、愛することも憎むこともなければ、すべてははっきりと明らかになる。だがわずかでも分別をすれば、天と地は遙かに隔たる」。

私たちが言葉によって区別して差別をすれば、言葉を差別の道具として使えば、それが問題となります。私たちは、概念上のイメージを絶えずすべての物事に関連付けてきたために、心理的な苦悩の中にいます。それはいつも「私」に起こります。「私」が原因です。概念上のイメージ、エゴが心理的苦悩の原因です。

その結果が、恐れ、心配、ストレスです。そして私たちはそれを過去にもとづく死んだイメージに付け足しました。死んだイメージは命とは相容れないものです。それがいわゆるカーマと呼ばれるものではありませんか? 原因と結果。でも、もし私が簡単な質問をしたらどうなるでしょうか。

もし、物事を原因に関係付けられなかったら、結果はあるでしょうか? 調べてみてください。もしあなたが、悲しみ、恐れ、憂鬱を原因と関係付けなかったら?それが誰に起こったのか? もしそれを「私」に関係付けなかったら、それはどこにあるのか? それは概念でありイメージです。パターンが純粋な感覚となって現れたものです。概念のラベルを貼らずにおいて、どれだけそれが留まり続けることができるか見てください。

それに対する抵抗がない時、どれだけ長く物事が留まることができるでしょうか。太陽と太陽を遮る雲を見てください。どれだけ長く雲が太陽を遮ることができるでしょうか? 雲が空に張り付いているわけではなく、動いていきます。昨日の思考はどこへ行きましたか? それはあなたの頭に張り付いていますか? 先週の思考、去年の思考はどうですか? 感覚は? 活動は? それらはすべて束の間のものではありませんか?

何が張り付いていて、何が変化しますか? 人々はそれを留めようとしてエネルギーを費やします。それが私たちがやっていることです。私たちは時間を遡って、それを取り戻そうとします。あなたは、「私」がすべての問題の原因であると知るでしょう。この「私」は過去の出来事や経験にもとづく死んだイメージです。

life(命・人生)は続いていて、常に新鮮で新しく、自然にひとりでに起こってきます。ここで続いていることは、何かになること(becoming)ではなく、それは常に在る(being)ものです。今はいつ始まりましたか? 始まりを今この瞬間に掴んで見てください。それを掴まえようとしてもできません。なぜなら、これが始まりだという時、それはもう終わっているからです。

始まりも終わりも過去のものです。では、ちょっと前を生きてみてください。昨日を生きてみてください。先週、去年に遡って、生きてみてください。あなたはそれを思い出すことはできます。でも実際にそれを生きることはできません。あなたができることはただ思い出すだけで、あなたは今思い出しているだけです。

それはもう過ぎたことであり、思い出して認識しているにすぎません。では未来はどうですか? あなたは、この先や来週どうなるかを、期待したり想像したりすることはできます。でもあなたは一瞬先ももっと先も生きることはできません。期待や想像はそのとおりには起きないかもしれません。

人びとはあなたに、今に留まれと言います。私は、今からも出てみなさいと言います。なぜなら、今しかないからです。今ということも概念上のイメージなのですが、いずれにせよ、この直接性、すなわち自然に起こってくる働き、それがすべてなのです。あなたはその外に出たことはありません。

学び、認識し、リラックスして、何が去ってもそれはうわべのものであるという認識を保ってください。また、あなたが自分だと思うものを調べて理解してください。みなさんは今この瞬間見ていますか? みなさんは今この瞬間聞いていますか? それは事実ですか? ええ、私は見ています。私は聞いています。あなたと同じように。

私の目は、「私は見ている」と言いますか? 私の目は私に「ボブ、これを見て」とは言いません。「あれを見て、あれは良い、あれは悪い」とは言いません。見ることは目を通して起こってくることです。そしてそれは生命の本質ゆえに起こっていることであって、「私」、ボブ、何かの存在が見ているからではありません。

見ることは目を通して起こっています。そして思考によって「私は見る」と翻訳されます。そして、「私は見る」はもはや純粋な見る働きではありません。「私」、ボブ、利己的な概念上のイメージを自身に持っている今、思考が見る能力を持っていると思っています。メンタルイメージが、見る能力を持っていると思っています。

聞くことについても同じことが言えます。みなさんは今聞いていますか? あなたが今朝目覚めた時そこには聞く働きがありました。深い眠りについている時誰かに呼ばれれば、聞く働きはどこかへ行っているわけではなく、そこにあります。自身にこう尋ねてみてください。私の耳は私に「私は聞く」と言うでしょうか? 私の耳は私に、「ボブ、これを聞いて、あれを聞いて」「これはくだらない」「これは真実だ」とは言いません。

私の耳は私に何も言いません。それは聞く働きが起こってくる能力を持っていますが、「私が聞く」という思考にはその能力はありません。調べてみてください。その「私は見る」という思考が実際に見ているのかを。目を閉じて部屋の中を見回して、思考で部屋の中を見ることができるか調べてみてください。

あなたは概念のイメージを想像したり考えたりすることはできますが、目を閉じた時に実際に見えるのは自分のまぶたの裏の暗がりだということを理解します。そしてまた少しの間部屋を離れると実際に部屋の中の物を見ることはできません。そしてあなたは思考の「私は見る」は見ることができないということを理解します。

見る働きを「私が見る」が概念やイメージに翻訳していますが、「私は見る」は物を見ることはできません。聞くことも同じです。手で耳をふさいでください。そして思考で聞くことができるかやってみてください。あなたは、「私は聞く」という思考が全く聞くことができないということを理解するでしょう。

今、意識の無い人(not aware)はいますか? いいえ。あなたは今自分の意識が無いということはないと知っています。ということは、あなたは意識があるに違いありません。あなたは今意識があると知っています。では、「私は意識がある」という思考があなたのアウエアネス(意識)ですか? 

「私は意識がある」という思考がいつもあなたにあるわけではありません。ということは、「私は意識がある」という思考はあなたのアウエアネス(意識)ではありません。別の例を挙げると、「私は選ぶ」という思考です。あなたは調べることもなく、「私は選ぶ」という思考が選ぶことができると思うようになりました。

ではどうしてあなたは、不幸で、みじめで、悪い、いやな思考、感覚、感情を選ぶのですか? あなたは、不幸や嫉妬などは欲しくありません。あなたはそれを取り除こうとします。もしあなたが選ぶことができるなら、どうしてそういったものを選ぶのですか? というわけであなたは、それがすべてを行っていると思っている概念上のイメージ、思考は選ぶことができないと理解します。

思考は選ぶことができません。思考は見ることができません。聞くことも、意識することも、選ぶこともできません。生命の本質無くしては何もできません。もし生命の本質が体に無かったら、考えることも見ることも聞くことも触れることも嗅ぐこともできず、あなたは死体も同然です。

そしてその生命の本質には、いわゆる想像された利己的なイメージがありますが、それはフィクションと言った方がいいでしょう。そしてこれが私が指摘して、この線に沿ってあなた自身で調べるように求めていることです。私はたくさんのたわごとを告げますが、調べるまではそれを受け入れてはいけません。聞くだけでは何も良くありません。

他の人は多少違ったやり方で指摘するかもしれません。それを聞き、あなたの中で共鳴が起きるかもしれません。あなたが聞いて共鳴が起こったのなら、自分で調べてみてください。あなたが調べることによって、もっと明晰さ、もっと理解、もっと洞察が言葉を通じてあなたにやってきます。

私はそれであり、ずっとそれだったという理解、認識、自信がそこにはあります。誰もそれをあなたから奪うことはできません。でも、あなたは今ここにいてこれを聞いて世間に帰ると、世界の99.9%は、「私」という基準点からやってきて、あなたを巻き込もうとします。あなたをもとの世界に戻そうとします。

それがあなたが調べることもなく、受け入れてきたものです。そして今あなたは調べて何が真実であるかを認識しました。あなたが脇に避けると、人々はあなたに起こった変化について考え始めます。彼らはまたあなたを巻き込もうとしてあなたに何が起こったかを尋ねに来ます。そして何人かは、あなたが言っていることを理解します。

そうやって、逆にあなたが彼らを巻き込んでいきます。彼らは認識し、共鳴が起こり、真実が彼らを自由にします。そうやって、このメッセージ、理解が伝えられていきます。私は教育を受けていませんから、私よりももっと上手に明快にやる人もいるでしょう。またある人はそれほど明快ではないかもしれません。

もし共鳴が起こったなら、どんなやり方でもかまいませんからそれを受け取って利用してください。そして疑問があったらどうぞためらわないで尋ねてください。それは理解する助けになります。なぜなら、そのためにあなたはここにいるのですから。

自分のストーリーを話すために出かけないでください。あなたが精神分析医や精神科医のところへ出かけていって、ストーリーを話してそれを解決しようとすることはできます。それはある程度は助けになるかもしれません。でも、本当の自分とは何かという真実の理解、共鳴は、あなた自身によってしかできません。

あなたがこれまで学んで、今まで助けになったことに反するかもしれませんし、今まであなたを助けたマントラやなんかを打ち消すことになるかもしれません。私があなたの助けになるとも言えないし、ならないとも言えませんが、あなたが何を得るかを見てみましょう。もしあなたが共鳴するようリスクを取らなければ、あなたは永久にそこへは行けません。ではみなさん、始めてください。

(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)