2019/03/26
The Spiel ⑮ (2019.6.30公開)言葉は物ですか?
Is the word a thing? Sailor Bob Adamosn interview episode 4
マインドとは何ですか? 思考より前に、どんなマインドが存在していますか?
あなたが母親のお腹にいた時、マインドはありましたか?
人生の最初の2、3年の間はどうですか?
考える能力が発達するまで、あなたは何も理解していませんでした。
あなたが物事を表現できるようになるには、考える能力が必要でした。
エネルギーがパターンとなって脳で働くようになることが必要でした。
他の体の器官についても同じです。それには優先順位がありますが、生命の本質なくしては機能しません。
そしてラベル、言葉。もし言葉を習得しなかったら、考える能力は発達しなかったでしょう。
私たちが今まで話した言葉と、これから話すであろう言葉は今までに学んだものです。
学んだという意味は、習得したという意味です。
私たちが生まれた時は言葉を知りませんでした。私たちは成長する過程で言葉を身につけました。
私たちは言葉を身につける必要がありました。周りの人がそうするように仕向けたからです。両親がそう仕向けたからです。
その時、私たちはそのことを疑問に思うことはありませんでした。
私たちは信念を受け取りました。私たちは言葉だと思うようになりました。
私はボブ。オーストラリア人。いいやつ。自分自身に対するラベルを貼りつけました。
疑問に思うこともなく信念を受け取り、それが実在であると思うようになりました。
私たちは自分のことを言葉だと思っているのですか?
そしてそれは言葉を学んだからですか?
ええ、そうです。
聖書を見てください。それは何と言っていますか?
「始めに言葉ありき。言葉は神とともにあった。」
言葉は神でした。すべては神でした。私たちは物事にラベルを貼り、私たちがものごとを支配していると思うようになりました。
言葉無くしては何もできませんでした。
私たちが信じている神、すなわち言葉無くしては何もできませんでした。
すべてのことは彼によって(言葉によって)作られました。
言葉無くしては何も生まれませんでした。
言葉は肉となり、私たちとなって現れました。ということは、私たちは言葉にすぎません。
私たちは世界全体を、名前をつけることによって作り出したのですか?
そうです。
聖書にあるように、アダムとイブは創造物にラベルを貼る仕事を与えられたのですか?
彼らは善悪の知識の木の実を食べたのです。
善悪の知識の木とは何ですか?
それは言葉ではありませんか?
ええ。
食べたものはリンゴとなっていますが、それは例えであり、良い例えです。
彼らは楽園にいたのです。言葉は知りませんでした。
良いも悪いも無く、蛇とか他のことも知りませんでした。
そうしたことは、そこにあったに違いありませんが、そのことについての疑いや疑問や議論はありませんでした。
それはすべてパターンであり、姿形でした。
でも彼らは知識の木の実を食べ、言葉を知りました。
彼らは言葉を知り、使ったのです。
あなたは分離した存在だと誰があなたに言ったのですか?
言葉無しで、あなたは分離した存在ですか? 誰があなたにそう言ったのですか?
でももし頭痛がしても、私がそれを「痛い」と言わなかったら、それは痛くないのですか?
おそらく痛いでしょう。でも、「痛い」という言葉はどこからきたのですか?
それは私たちがそれに貼り付けたラベルではありませんか?
もしあなたがそのラベルを貼り付けなかったら、それは単に他の感覚にすぎません。
私たちの感じるものや感情はすべて感覚です。それに私たちはラベルを貼り付けます。
そして、その言葉に関連した過去の感じや感情と結びつけます。
もしラベル貼りをしなければ、新鮮で新しい感情がやってきます。
もし過去に関連したラベルを貼らなかったら、それは何ですか?
それを調べてみてください。
私たちが古いラベルを貼りつけるやいなや、過去に経験した感じや感覚でいっぱいになって圧倒されてしまいます。
でももしあなたがそれを新鮮で新しいものとして見て、ラベルを貼りつけることなく見るなら、それは他の物事と同じように去っていくでしょう。
概念で留めようとしなければ、それは去っていきます。それは変化していくでしょう。
あなたが今までの人生で経験した感覚を見てください。
そうした感情は、必要以上に長く留まりましたか?
私たちは、自身に条件づけされた言葉を浴びせ、それによって苦しんでいます。
でも、遅かれ早かれそれは去っていきます。
そしてまた別のものがやってきて、古いものと同じ扱いをします。
そしてまたそれに縛られてしまいます。
でも、自然の中で永続するものは何ですか?
時間という概念を貼り付けなかったら、すべてのものは自然発生的です。
すべてのものは常に変化しています。
それはあなたに、顕現は束の間のものだと教えています。
何も留まるものはありません。それは常に変化しています。
その変化の中で生そのものが動いています。
そしてそれが唯一の生です。それがすべてです。
ニサルガダッタは言いました。
「生があるだけだ。そこには生を生きる何物もいない。」
あなたも私も皆、すべての人は生を生きていると思っています。
でもそうではありません。
生があなたを生きているのです。
生命の本質を体から取り除いてみたら、どうなるでしょうか?
あなたは死体です。
死体には目、耳、心臓、肺、声帯、そして他の器官がすべてあります。
でももし生命の本質がなかったら、それはコンピューターのようなものです。
コンピューターの中には素晴らしい情報があります。
でももし電源が入っていなかったら、何を引き出すことができるでしょうか?
何も引き出せません。
もし生命の本質が体になかったら、私たちはどうなるでしょうか? 私たちはただの死体です。それは知性エネルギーのパターンによって分解が始まります。
それはそのままではなく、腐食し始めます。酵素がそれを腐食させ、分解します。
そしてそれはまた生のエッセンスとなり、ミネラルとなり、土に帰っていきます。
土の中には種があり、種はそうしたミネラルを必要としています。
そして少しの水があれば、それは発芽するか、何かが起こります。
水が海へと流れ込み、あなたは再び同じ水を手にすることはありません。
生命は生命を食べて命を繋いでいきます。
ということは、死体も同じ生命の本質なのですか? たとえ死んでいたとしても。
ええ、そうです。
何が起きるでしょうか。それは体の機能を止めます。
それは、体の姿形を保つことを止めます。
そして反対の極へと振動し始めます。
それは反対の極へ振動して、酵素へと形を変えます。
酵素は体を腐敗させる生命の本質です。酵素は体を食べ始めます。
体を腐らせ、分解します。
そして何が残るかといえば、おそらくミネラル、骨、などで、それは土に帰り、土の中ではそれを再利用しようと待っているものがいます。
(ボブが風に揺れる葉を気にする)
何が風を吹かせているのですか?
バイブレーション、エネルギーの働きです。
それが動きとなって風を起こしています。
それは何の中に現れていますか?
空間の外ですか?
それは空間の外に現れていますか?
空(くう)の外ですか?
ということは、同じものが風を吹かせ、体を作り、そして体を死なせ、分解しているのですか?
すべてはバイブレーションの働きです。
始まりと終わりがある単なる動きではありません。
それは自然な顕現です。始まりも終わりもありません。
始まった時にはもう終わっています。
終わった時にはもう始まっています。
そこには定まった地点はありません。
聖書にもあるように、
何物にも静止した地点はありません。
そして、何物にも自己はありません。
それはすべて自然な顕現です。
様々なパターン、姿形へと振動していきます。
それは確かな実体のあるものとなって現れます。
でもそれを顕微鏡で詳しく調べてみてください。どれだけ確固たるものなのかを調べてみてください。
顕微鏡で、体がどれだけ確固たるものなのかを調べてみてください。
そこにはたくさんの隙間、空間があります。
その空間、空は何ですか?
仏陀はそれを、認識する空と言いました。
その空間そのものが認識で満ちています。
認識の別の言い方は、知る働きです。
あなたは今、知る働きです。それは事実ではありませんか?
はい。
あなたは、自身の知る働き、存在を否定することができますか?
存在、知る働き、存在への愛、それがサット・チット・アナンダです。
仏教徒は認識する空と言い、ヒンズー教徒はサット・チット・アナンダと言います。
それは同じことを異なる概念で表しています。
また別の人はそれを究極と言います。それは、大いなる完成と同じ意味です。
それはそう言われてきましたが、私たちはそれを知ろうとしませんでした。
私たちは祖先に従ってきましたが、彼らは言葉が現実のものであると教えてきました。
どうしたら、その純粋な存在を垣間見ることができますか?
マインドはいつも忙しく、様々な気を散らせるものや思考で私を楽しませているように見えます。
もしあなたが、言葉を超えて見ようとするなら・・・。
言葉とは何ですか?
単なる思考ではありませんか?
思考とは何ですか?
思考とは何かを理解することはできますか?
いいえ。
どうやって理解しようとしますか?
別の思考?
別の思考です。思考が思考を理解しようとしています。
そしてあなたは言うでしょう。思考で思考は理解できないと。
それでどうなります?
そうすると、その瞬間に中断が起こります。
その中断の間、あなたは消えましたか?
バラバラになりましたか?
あなたは終わりになりましたか?
起こったことは、思考がほんの一瞬停止したということです。
でも、生は起こっていました。
あなたはそれでも呼吸していました。
考えることなしに、あなたの心臓は脈動していました。
食物は消化され、髪と爪は伸びていました。
食べ物は消化され、こうしたすべてのことは起こっていました。
言葉も思考もなく、起こっていました。
生は続いていました。
言葉を調べてみてください。
言葉は物ではないということを理解してください。
「始めに言葉ありき」
あなたが言葉を覚えるまでは、あなたは始まりませんでした。
あなたが今までに話した言葉はすべて学んだものです。
言葉は物ではありません。言葉は現実ではありません。
水という言葉を考えてみてください。
できるなら、水という言葉を飲んでください。
飲めるなら、言葉を飲んでみてください。
言葉の中を泳いでみてください。溺れてみてください。
できません。
火という言葉があなたの口をやけどさせることができますか?
言葉で体を暖めることはできません。
口をやけどさせることはできません。料理もできません。
ということは、言葉は物ではありません。
あなたが自分だと思って信じている「私」や「私の」という言葉を調べてみると、言葉は物ではありません。言葉はあなたという足場を失います。
考える能力によって言葉は利用され、発達しました。
でも、あなたが自身のことを独立した個人として、実体のないもので責め立てることはできません。
でも言葉は一つだけではありません。感受性、情緒、傷つきやすさ、すべての過去、何千もの言葉がイメージを作っています。
ええ、そうです。でも、それらすべては、貼り付けられたラベルです。
それは何ですか? 可能性あるいは機能?
言葉がなくても、純粋なものはあるのではないですか?
あなたは見ています。
「私は見ている」というラベルなしで、あなたは見ているということを理解してください。
あなたは「私は聞いている」というラベルなしで聞いています。
あなたは「私は考えている」というラベルなしで考えています。
ここにあるすべてのことに、私たちはラベルを貼りつけています。
言葉がなくても、多くのことは起こり続けています。
そして、恐れという感情はあなたが貼り付けたラベルです。
それを、新鮮で新しい感情として見てください。
私たちを困らせる古いラベルを貼るかわりに、新鮮で新しい感情として見てください。
それは過去には決して表現されなかったものです。
もしそれを新鮮で新しい感情と知ったら、それにラベルを貼るでしょうか。いいえ。
それは愛と憎しみ。これは愛しているが、あれは憎んでいる。
何かを憎み続けるのか、それとも新鮮で新しい感情として見るのか。
それとも古いラベルを貼るのか。
彼女が私に先週か去年したこと。
彼女を愛していた。好きだった。そしてあのあばずれを憎んでいる。
それを新鮮で新しい感情として見てください。
そうすれば、条件付けされた信念はどこにも入りこみません。
それが解放です。
あなたは何から自由になったのですか?
あなたは自分自身という束縛から自由になりました。
それが今まであなたを縛っていた唯一の束縛です。
自分自身の束縛とは何ですか?
「私」という信念です。
それを一つの自己(One Self)として見るかわりに、人格を与えてきました。
私たちはそれを自分自身(My Self)と呼んでいます。それを「私」と。
「私」は概念です。実在ではありません。