2019/03/18
The Spiel ⑨ (2012.2.19 with John Wheeler)
(2012.2.19 with John Wheeler)
名前を言ってください。
(省略)
新しい人のために少し前口上を言っておきます。私は何も教えはしないし、何かを告げるわけでもありません。私がしていることは、あなたに指摘したことを自分で確かめるように求めているだけです。ここではあなたが何かを受け取ることはありません。また、誰もあなたにあげることもできません。
私は非二元について話しています。すなわちそれは、概念化されない今ここにある意識。ただそれだけ。他には何もない。そして概念の話もします。新しい人は、概念そのものは手引きや認識のためのインデックスにはならないということを理解する必要があります。そしてまた、概念的な視点に立つと、いともたやすく脇道にそれてしまうということを理解してください。私たちが話すことはすべて概念的になってしまいます。
あなたが学ぶ必要があって聞く時には、して欲しいことがあります。私が言ったことを頭で分析しようとして頭と頭で聞くのではなく、ハートとハートで聞いてください。私がハートという時、あなたの心臓のことを言っているのではなく、本質(beingness)の中心、もしくは精神的なシンボルのことを言っています。
私はハートとハートと言っていますが、ハートが何かわかりますか? 「私のハートが開いた」と誰かが言った時、どれぐらいその本当の意味を理解していますか? 私がハートとハートと言う時、そこには自然なコミュニケーションがあります。頭と頭の場合は、あなたが聞いた概念を、頭の中で概念に置き替えていて、何も深くは入ってきません。
ハートとハートの場合は開放がそこにあり、コミュニケーションがあります。それは言葉の中にはありません。なぜなら言葉は概念だからです。そこには自然な共鳴があります。そこには、あなたに内在する本質の自然な認識があります。
今日はここにジョン・ウィーラーがいます。ジョンはここへ来て、他のみなさんと同じようにこれを認識、共鳴して、とてもよく理解していて、明確に話すことができます。この部屋にいる他の人も同じことをしました。
これは多くの伝承や本、いわゆる教師が、そこに到達するか理解するためには、あれこれをしなくていけない、何年もかかると言うような、限られた人たちだけのものではありません。もしあなたが自らオープンになって、信じ込んでいる概念やあなたの障害となっているものを落とすなら、それはすべての人の権利であり、自然な状態であると明言します。
ジョンはとてもよく理解しています。今朝はジョンがみなさんに話しをします。この部屋にいる他のみなさんも同じことができます。話が終わって質問がある人はどうぞ聞いてください。では始めてください。
ジョン:あなたは最初に、あなたが本質的に正しい方向を探すための、いくつかのポインターを聞くことになります。あなたはいろんなタイプのポインターを聞くでしょう。そして私が話し始め、私の経験や理解をシェアします。その時私は特定のポインターや概念を使います。それはボブが指摘する本質に対する私の表現の仕方です。
私はいつもたびたびあなたが何度も聞いた基本的なポインターに戻ります。そこには私たちが理解することができる、実在や真実の本質があります。もし興味があるなら、それがどこにあるのか、どこを探せばいいのか、どこでそれを見つけるのかがわかります。
私たちはまたしばしば、本当の自分、あなたはもうすでそれなのですが、この自然な状態、実在の影響が意味することを耳にします。あなたがそれを実際に直接の認識として、気づいたり認識したりしたい場合にどこを探したらいいのか、どこへ行ったらいいのかという現実的な方法は、正確に厳密にあなたがどこにいるかによって指摘されます。というのは、あなたの自然な本質、自然な状態が、私たちが話している本質だからです。
それが、私たちが簡単に正しい方向を調べて、経験を通じて認識するために言葉やポインターを使う時のやり方です。そして私たちが一旦そのことや、そのことの基本的な感覚を掴んだら、概念やポインターは消えていき、直接の認識の中にいます。それは概念ではなく、私たちの経験の中にあるものです。
それは、概念や言葉や、どういうふうに言われたか、誰が言ったのかというようなことではなく、実際に指し示している何かのことです。それを覚えておくことが、こういう種類の教えやポインターを学ぶ時には重要であると思います。そうして私たちは直接、どんな概念にも影響されないで、私たちの今ここの経験の中に何が存在するかを認識することができます。
ここに何かはっきりとした何かがあります。ここにいる一人一人が今現在存在して、意識があり、それは生き生きとした意識です。実在がどんなものであれ、それは言葉や物やポインターや教えでさえないとあなたは知るでしょう。実際それは獲得したり所有したりするような特別な考え方の教えのはありませんが、それでも自然な実在、本当の自分の認識は、今この瞬間ここに、私たち全員にあります。
私たちは、それを調べて共鳴が起こり、一日の終わりにはそれを見つけると思います。そのポインターが何を指しているのかということを最後には理解すると思います。ですから私は皆さんに、概念を中断して、質問を中断して、マインドを中断して、特別な理解を得るよう努め、ただリラックスして、それはとてもシンプルで、あなたの本質の真実であると指し示すことができる何かであると認識するよう勧めます。
それは内在する今ここにある意識。それが今ここにあります。それが私たちの自然な機能、見る働き、知る働き、考える働きの根底にあります。それはどんな言葉よりも前にあります。あなたが一旦それを理解、共鳴して、それが私たちが認識できるもので、それが指し示しているものであると理解すれば、それは直接の認識、直接の見る働きとなります。
とても興味深いのは、使われているたくさんのポインターが、誰かがあなたの自然な本質とは何かを描写しようとこころみたものに変わるということです。そういうわけで私はいくつかの事の味わいについて話し、そしてあなたに、今ここにあるあなたの本質である努力の要らない自然な実在に気づくようにすすめます。
そしてそれは何かを達成することではありません。それは目覚めることでもありません。それは開放やある種の精神的な状態でもありません。それはもっと単純で、精神より前にあるもの。それを調べて、それが何なのかを認識すると、それは質問や問題でトラブルになるようなものではなく、それは何かで分割されるものではなく、それは何かのために探すものでもありません。
それには限界や欠点などのようなものはありません。驚くべきことは、あなたがポインターに従って、好奇心をもって、ここにいる私たちの本質とは何かを、自分の経験の中で実際に調べると、あなたはすぐに、あなたの本当の実在という明白な否定することができない事実に直面し、あなたが探してきたものの性質を、あなたはもうすでに持っているということを知ります。
いくつかのポインターの価値を認めることができますが、でも常に、あなたはポインターはそのものではないと知っています。その違いを見ることによって、あなたがそれはポンターだと知っていることやあなたがポインターを楽しんでいることや、こういったミーティングに出て、指し示すものについて聞き、ポインターに従うと同時に実際に直接議論されている実在、本当のあなたを認識することが大切です。
そのすぐれた点は、指摘されていることが何なのかについて、私たちの直接の経験の中を今すぐ調べ始めることができることです。そしてこれは人々が間違うことですが、あなたが見つけるのは、達成することではないということです。それは何か特定の経験でもありません。
それは何か特定の瞬間でもありません。それはシフト(変化)でもありません。それはペニー硬貨を落とすことでもありません。何かが起きる必要もありません。スピリチュアルの世界で私たちはしばしば巧みに、もしそれが私に起こったら私はそこへ到達する、誰かはそれを達成した、誰かは達成しなかった、というような考えを抱くのですが、それはあなたのマインドが巧妙に未来を投影しているにすぎません。私に何かが起こるだろうという想像は正しい理解ではありません。
ある種のもっとも崇高な信頼できるタイプの教えでも多少複雑になっていて、例えばあなたはしばしば、「目覚め」という言葉を聞いて、ある時に自分が何かを手に入れると考えます。それが私に起きると考えます。でもそれは概念的で、すべて想像です。それはマインドの中の概念上の想像です。
なぜなら、もしあなたが実際に直接の経験の中を調べれば、目覚め、今ここにある意識は実際にもうすでに機能しています。それはもうすでに完全ではっきりしていて明白です。それゆえ、目覚めを待つことや、シフトや何かが起きることを待つこと、実際に目覚めていることやアウエアネスを気づく必要はありません。実在は実際にそこにあって、シフトや目覚めは必要がありません。
こういうふうに見ると、スピリチュアリティと概念全体の構造がいわば、ピクチャーからすべり落ちていきます。なぜならあなたは、もうすでに自分であるものには何も必要がないと理解し、こうした自然の性質はもう今ある状態でデフォルトとして与えられていると理解するからです。
これはボブが私に指摘してくれたことであり、彼がシェアして、私が彼が言っていることを聞き、ただ単に調べたことです。そしてそうしたポインターの持つ真実の意味のわかりやすさに気づきました。そこには魅力的な目覚めやシフトやそういった類の時間はありませんでした。なぜなら、そうしたことは複雑すぎるからです。
昔からのポインター、「汝それなり」「あなたのマインドはブッダである」「それが私である」で、彼らはこのことを言おうとしていたのだということがわかります。「あなたはもうすでにそれである」「あなたの真実はそれである」「あなたはそれである」。
その点に関して言えば、ポインターの必要性や、そのポインターは何か、それはどこかといったことは、本当の私とは何かを知るためには、もはや必要ありません。なぜなら、真実の自分は何かという自身に対する直接の認識がもうあるからです。それはシンプルな理解であり、認識です。その一つの鍵は、それはとてもシンプルであること。それは完全に基本的なこと。それでいてとても明白ではっきりしています。そのため私たちはそのエッセンスを通りすぎて見落としてしまうほどです。
今日あなたはたくさんのポインターを聞くでしょう。指摘されたことに従うと、何度も何度もそれが違った形で同じ基礎、メッセージへと戻ってきます。あなたにはたくさんのポインターは必要ありません。たくさんのミーティングや議論は必要ありません。そうしたことでそのシンプルさを見失ってしまいます。
こうした一回のミーティングかディスカッションかハートとハートのトークか共鳴するポインターを一回聞きことが、まったく十分なものとなりえます。あなたはそれが簡単に私たちの方向を変え、それを認識させるには十分だとわかります。そういうわけで、私はここで指摘して、シェアしようとしています。こういったミーティングの目的は、人がそれについて話すのを聞いて、質問や疑問や意見が湧いて、自分自身のためにそれをはっきりと明確なものにすることだと思います。そういうふうにミーティングを続けます。
リチャード:あなたはシフト(変化)の時間はなかったと言いました。あなたは、あなたの知覚の窓に現れたことを言ったのだと思いますが、ある人はジャンプや、何か以前とは同じではないことが起こったとシェアしています。
ジョン:彼らはその日、その時の状況の中で、そういったポインターを使ってシェアしたのだと思いますが、それは幾分理論的なことです。本当のあなたは自然な実在であり、今ここの私たち全員もそれです。誰かが言ったことよりも、今ここでそれをもっと調べて見て、話して質問する事ができます。というのも、たとえ誰かが何かを言ったとしても、たとえそれがブッダ・・・、誰であれ、シェアリングは結局それを指し示そうとするにすぎません。ですから、ポインターや、誰があれを言ったこれを言ったということは重要ではありません。なぜなら、そういったことは、自然な存在、本質、アウエアネス、その明確な意味といったシンプルなことを見落とすことになるからです。本当の自分とは何かという明確な理解は私たちを自由にしますが、それはここでやっているようなことによってです。それはまったく可能です。ですから私は、誰かがこう言ったというようなことはしない方がいいと思います。誰かがこう言った、ああ言ったというようなことで、他の話が進行してしまい、概念に陥ってしまうからです。否定することができない今ここにある知る働きとしての本質を、私のようなやり方ではっきり見ることは、何も悪いことではありません。あなたはしばしば違ったグループの中で話しを聞いて議論し、誰かがこれを言った、それはこれか? それはあの事か? それは明確か? それはこれか? といったことをしますが、それも自然なことです。というのも、私たちはメンタルレベルでそれをはっきりさせようとするからです。でも、それが本質を見落とすことになります。ですからここで、その質問の前には何があるかということに戻りたいと思います。あなたや私にとって、質問以前にある今ここにある実在の本質を見てみましょう。
リチャード:私は過去数年間、そういった理解しがたいシフトについて調べてきました。そして私たちが探しているものはおそらく、日常生活における不連続であるという教えによってそれを理解しました。ジャンプ。私たちは、テレビ、映画や特殊効果などによってそれををします。もしあまり大きな効果が得られない時は、フォトショップや、コンピューターが生み出したものによってそれをやります。でも実際の日常生活では、ものごとは一度に一歩ずつ進み、私たちはそれを知覚しさえしません。なぜならそれは非常にかすかなものだからです。生きていくということは私たちが定義しているようなものではないし、探しているようなものでもないからです。エンライトメントという考えそのものは、私たちのマインドの中にある不連続です。不連続が起きるまで、私たちは魂を失っています。それが、なぜ私たちが探求を始めるかという理由です。一日一日を一歩ずつ歩いていく方が容易です。不連続などありわしないのですから。
ジョン:それが私の言っていることです。
リチャード:それはとても重要なことだと思います。それはとてとてもよくわかります。不連続は想像にすぎません。もしそれが起きるなら起きるでしょうが、起きるとしたら、今です。なぜなら、今そのことを考えているからです。
ジョン:それは完璧にすばらしい表現ですね。私が言った別の言い方をすると、マインドそのものがシンプルで明白なすでに与えられているものを見落とすことによって不連続を作り出しています。それが錯覚のすべてであり、本質のすべてです。私たちは自分に必要な何かがまだ自分に起こっていないと考えて、どこか他を探します。でも最終的にはそれが達成されることはないと知って、最後にはわかり始めるのです。そしてあなたは考えます。「ちょっと待てよ、ひょっとすると私は間違った場所をさがしているかもしれない。もっと他の道があるかもしれない」。そしたあなたは、こういったミーティングに出くわし、最初それはとてもシンプルに見えるが、本質的なメッセージであり、あなたの問題の根本を切り取ります。
ボブ:シフトというものが本当にありますか? それとも、単なる再認識ですか? それはあなたの人生の中でたびたび認識されたもので、シフトではありません。あなたは気づいていなかったが、いつもそうであったと理解します。
リチャード:何も言葉がみつかりません。本質という文脈の中で言うとすれば、それはニンジンとムチなようなものだと思います。でも私たちは普通、「あなたはすでにニンジンを持っているぞ」とは言いません。ニンジンはありません。そして自分にムチを入れます。ニンジンはもう備わっています。
ジョン:あなたが言っているのは、マインドは受け入れた見解の中で二元性、不連続を作り出すということです。それが私たちが見落としてしまう部分です。私たちはそれを通り越して、自分の見解を達成しようとします。私たちは探求の最初から、多少の誤解によってもうすでにそれが備わっているということを見落としてしまいます。どれだけ多くの伝承や聖人たちが、あなたはもうすでに、あなたが探しているものだと言ってきたでしょうか? 汝それなり、私たちはすでにそれである。それは繰り返し繰り返し、あらゆる文化、あらゆるタイプの指摘の中で言われてきました。ここにいる皆それぞれはもうそれなのですが、絶えず私たちはそう言われて、じゃあ、それがいつ自分に起きるのだろうかと考えてしまいます。でも、本質、何がここにいようと、その本質はシフト(変化)の必要さえありません。それはシフトよりももっとシンプルなことです。それが指摘されても、それはほとんど自明でとてもシンプルなことなので、私たちはそれを見落としてしまいます。本当の自分であることにシフトは必要ありません。その瞬間に目覚めることや、何か特別なものになることや、そういったことは必要ありません。そういった少しの洞察があれば、私たちが想像してしまったことの根底にある前提を取り除くことができます。そしてポインターの持つシンプルな意味が突然、「ああ、彼らはそのことを言っていたんだ」と言うことになります。20年前、私は、「汝それなり」「あなたの本質はそれである」と読んで、それはすごいと思い、心に響きましたが、マインドはくるりと方向を変えて、「それを達成したい」「それを手に入れたい」と言いました。そして必要に駆られ、実際にそうしました。私はもうすでにそれであるということを顧みることなく、概念の中に入っていきました。それが、ボブが私に調べるようにと手伝ってくてたことの一つです。「どうしてあなたはそれをしているのですか? 自分が何なのかを自分で調べて確かめてください」 と。そしてそれが、いわゆる網からすべり落ちました。そこには最初から網なんてなかったとあなたは理解します。
リチャード:すばらしい。この話で、私がキリスト教会やたくさんの教会を調べた時のことを思い出しました。彼らはあなたに、「私は罪人である。そしてイエス・キリストが必要である」と言わせるところから始めます。私たちは同じことを今やっています。あなたはもうすでにそれであるのに、「私はそれではない。私はそれを達成するつもりだ。私たちは罪人です」と言うように。私たちはそれにとても慣れているので、それが教会からのものなのか、人間の性質なのか、それとも、私たちは分離しているという感覚からなのかはわかりません。
ジョン:私はしばしばみんなに言うのですが、私たちは、伝統的な宗教のせいで、私はここにいて、いつかあそこへ行く、といった基本的なモデルを持っています。あなたはあらゆる種類の違った概念や信仰や言い回しを作り変えることができます。でも基本的なモデルは、私はここにいて、すばらしい状態が向こうにあるというものです。不思議なことに人々はこのモデルを取り払ってサットサングやミーティングなどに参加することができるということを理解しません。人々は言います。「私はそれです。でも私はまだそこには到達していなので、まだこれをしなくてはいけない」。無用な言い回しを取り除くと、あなたは基本的にあなたが始めたと同じ場所に立っていて、あなたはそこにいて、向こうにエンライトメントと呼ばれる素晴らしいものがあると信じているということです。そのため、あなたが始めた時と違いがありません。どうしてあなたは同じところに帰っていって言葉を変えようとしないのですか? どうして、私はここにいて、向こうにすばらしいことがあるという前提を調べてみて、それが本当か確かめようとはしないのですか? 向こうにある驚くべきことというのは実際は概念であり、そこに何かがあるというのは仮定で、私たちの経験の中での実際の現実は、今ここにあります。あなたはここからはるか遠くに離れてしまっています。今ここから。
ボブ:私たちは、「私たちは分離している、私たちは罪人である」といったことを信じています。でも伝承を調べてみると、伝承は私たちに、私たちは他に何もない一つのものであると言っています。他には何もない。他には誰もいない。だとしたら、その罪人には何が起きすか? もしくはその瞬間にあなたは自分に対して違った概念を抱くでしょう。
リチャード:これが助けになるかどうか聞かせてください。初めの頃に「オーケー、あなたはここにいる。あなたはその存在であり、それがすべてである。あなたが考えるものはもうここにいる。それがアウエアネスであり、自分で調べてください」と言われました。それを聞いた時、ある種の感覚が、たぶんそれは目を閉じていたからだと思いますが、私の目の前で何かが開花したような感覚が実際にあって、額と頭に強い感覚を感じました。あなたが、「あなたは本質である。あなたはアウエアネスである」と言った時、それが包括的なことに思えて、オーケー、それは何だ?。ある伝統では、あなたに自分の体を調べさせて、こう聞きます。「あなたのへそに何が起こっていますか? あなたのハートに何が起こっていますか? あなたの喉に何が起こっていますか?」。それは単にそこで起こっていることで、エソテリックなことでも概念的なことでもありません。でも誰かがあなたの体の異なるパーツを調べるように、またあなたがどんな感じがしたかをガイドします。それも良いポインターだと思うのですが、それともそれは不要でしょうか?
ジョン:それはポインターです。おそらく別の事に発展していくのでしょう。それが役立つのか、その結果何かを経験するのかはわかりません。でも結局最後には、あなたはそれを始めた時と同じ状態にいます。
ボブ:そこで何が起きましたか? あなたが見た時。あなたは、額に何か感じたと言いました。実際には何が起こっていましたか?
リチャード:それは生き生きした感じでした。
ボブ:まさしく。それは命そのものです。
リチャード:それは思考ではありませんでした。
ボブ:それは命がそれを可能にしたに違いありません。
リチャード:ええ。命です。
ボブ:そこに生きているのは実体のあるものではなく、純粋な命です。うわべ上では頭、胃、おそらくその他全部にそれがあります。私たちはそれをどこか特定の場所に見つけることはできません。
リチャード:先日誰かといて、私の喉が固くなって小さなものになった感じがした時、「それは悲しみではないか」と彼は言いました。その時私は、おお、という感じがして、おそらくそうだと思いました。彼はある意味概念的なやり方で導いてくれました。悲しみがどこに閉じ込められているのか私は知りませんが、それは悲しみのように感じました。おそらくそれは概念的なルーツがあるのだと思います。
ボブ:あなたが理解した時、思考、フィーリング、感情は三つの側面を持つ一つの同じものです。あなたは今突然泣き出すことはできません。悲しい思考がやってくるかもしれません。何がその思考の引き金になったのですか? あなたは知りません。その悲しい思考としばらく一緒にいると、フィーリングがやってきます。そしてフィーリングがしばらくそこにあると、感情、涙がやってきます。私たちはしょっちゅうこれをやっているため、感情が直接やってくると思っています。その背後にかすかな思考があるということを理解しません。生き生きとした生命の本質が思考をフィーリングと感情に翻訳しています。それでもそこには命があるだけです。それは、どんな思考、フィーリング、感情でも汚されることはありません。ニサルガダッタが言うように、命は恐れることなく自由です。それはどこか特定の場所にいるのではなく、生き生きとした本質のパターンとして宇宙全体を機能させています。
リチャード:それでも感情はやってきます。それをどうしたらいいのか私はわかりません。
ボブ:あなたが言うように感情はやってきます。でもそれはどこで感情であると認識されますか? つまり、それは何と関連付けされますか? どこかに基準点がありますか? それとも、もしそれが何物にも関連付けされなかったら、それは単なる純粋なフィーリングですか?
リチャード:何も付け足さず、どこからやってきたかとか言わなければ、純粋なフィーリングです。
ボブ:もし何かに関連付けられなければ、純粋なもの以外ではありえません。信じられている存在に関連付けすることが分離分割の原因です。関連付けなければ、単にあるがままです。それは改めたり、修正したり、正したりしないということです。
リチャード:もし私が、「ほら、私は単なる空間です。感情がやってきたので・・」と言ったら、・・・。
ボブ:ええ、そう言うのは危険です。誰がそれを言っているのですか?
リチャード:いえ、私が言いたいのは、別の思考が、「私はこれを取り除く」と言って、生活の一部を取り除いて・・・、というのが危険かどうかということです。
ボブ:あなたは理解していません。誰が考えているのですか? あなたが思考を考えたのですか? あなたは信じられている存在として思考したのですか? それとも思考がやってきて、そこらをうろつき、消えたのですか?
リチャード:ええ、感情も同じです。
ボブ:ええ、それは信じられている存在に関連付けしたために起こったことです。自然を見てください。反対の極のペアが常に機能していますが、自然には基準点がありません。昼は夜と戦いません。冬は夏と戦いません。嵐は静けさと戦いません。満ち潮は引き潮と戦いません。それぞれが現れることが必要でした。もしそうでなかったら、どんな顕現も現われなかったでしょう。そこには関連付けはありません。私たちは分離した存在、呼びたければ何と呼んでもいいのですが、という考えを持ちました。それが絶え間のない葛藤と抵抗なのです。抵抗は葛藤です。そして葛藤は病であり、それは、私たちが、この宇宙全体をパターンとなり姿形となって形成している生き生きとした生命エネルギーと同じものだと理解するまで続きます。それを認識してください。
リチャード:この劇は私とは関係なく単に続いているというような、あなたが実際に見ているような見方で理解することはできます。そこには「私」はいないので、一方を支持することには重要ではありません。潮は満ち、引いていきます。その劇を見て、それはそのままです。でもまた別の時に私は、退ける、別の言い方をするなら、この劇に執着する理由もはないし、退ける必要もないと感じます。
ボブ:ええ。それに執着することも退けることもまた基準点です。自然と同じようにそれがやってきては去っていくなら、問題ではありません。あなたは一定時間起きていて、それから眠ります。そしてまた起きて、また眠ります。そこに、私は寝ていないというような個人的な関心があると、それは問題となります。それは今あなたが呼吸しているのと同じように、自然に機能しています。あなたは、さあ呼吸をするぞとは言いませんでした。生命エネルギー、そう私は読んでいて、それは概念ですが、それがすべてを行っています。リチャードは決して何もしません。あなたがやっているようなことは何も。(笑い)
リチャード:もう質問はしません。(笑い)あなたは完全に明解です。あなたは二週間前こんなことを言いました。今、良い思考がやってきた、今、傷つくような思考がやってきたといっても、その思考には何の違いもないと。
ボブ:何にも関係付けなければ、です。
リチャード:そして今でも私はこんなふうに言います。潮の満ち引きを見ているのは私ではない。潮の満ち引きを退けようとするのはトラブルとなる。私は明確に言うことができると思うので、私たちは退けたり、執着したりする必要はない。
ボブ:もしそれが退けられるなら、退ける人も退けられます。それが自然の機能の働きです。改めたり修正したり正したりしないという意味は、執着も無関心もなく、受け入れることも好みもなく、ひいきも比較もないということです。もし好みが現れたら、そのままにしてください。そうするとそれは去っていきます。無関心がやってきたらそのままにして、執着がやってきたらそのままにして、何がやって来ても、自然がひとりでに動いていくように、ただそのままにしておいてください。今起こっている何かと同じです。あなたの心臓が広がって収縮するように。すべては自然に努力なく。今この瞬間にもあなたの体の中で細胞が置きかわっています。その細胞は内在する生命エネルギーに満ちています。
参加者:あなたは、修正したり正したりせずにそのままにしておくと言われました。執着などがやってきても、すべては自然にやって来ては去って行くと。でも、もし何かに執着したり、何かが欲しかったりすると、引く力があります。例えばそれは何か強い味覚の経験みたいなものです。そこへ入ろうとする強い引く力です。そしてそこに入って、そしてそれに気づいて、ああ、私はまたそこにいた、そしてそこから出ます。執着であれ、そこにいることであれ、その経験が何であれ、その引く力は何だろうと思います。あなたが少し前に話したシフト(変化)の話に戻ると、何年も前、まだスピリチュアルの道を探していなかった時に何回かとても強い・・。あとになって、私のマインドは実際に停止したと気づきました。何かがひとりでに止まりました。それはとても短いものでしたが、その経験の後数か月の間はとても静かで平和で幸福でした。その時はその状態に入ることがとても簡単で、あれこれ心配しませんでした。でも、それが終わってしまったら、何が起こったのだろうという思考がやってきて、その状態、あなたがいう自然な状態に入るのがとても難しくなりました。
ボブ:あなたがそれをしょうとすると難しくなります。それは私たち皆が内側やそういったことで経験することです。そして私たちはまたそれを手に入れようとします。それはもう去ってしまったのです。そのままにしておいてください。でもあなたが完全にオープンなら、また別の機会がやって来ます。私たちはヴィジョン(幻)や素晴らしい洞察やそういった類のものを見て、それをもう一度取り戻そうとします。それをもう一度取り戻さなくてはいけないと考えます。でもそれは忘れてください。それはもう死んでいます。オープンにして、何が引こうが連れていこうが、それを許してください。生命エネルギーは絶えずあなたを引っ張っています。今、息を吐いて、どれだけ呼吸を止めらるかやってみてください。やってみて。やりましたか? できるだけ長く止めてください。どんなに激しく止めても、強い引く力が次の呼吸を起こします。あなたのマインドがそれをしているわけではありません。あなたの信じている存在がそれをさせているわけではありません。あなたはそうしようと激しくやりました。でも生命の本質そのものがそれをするために引く力を起こしました。そしてあなたは、知性、純粋な知性と思考の違いを見ています。あなたの知性と思考の違いについての別のポインターは、もしあなたが思考を止めると、そこには思考は無いが、あなたは消えない、あなたはばらばらにならない、心臓は鼓動し、呼吸は続いている。髪の毛や指の爪は伸びている。思考無しでたくさんのことが起こっている。もう一度言います。あなたは思考と自然で純粋な知性の違いを見ました。自然で純粋な知性があなたであり、生命の本質です。思考は破壊的にもなりうるし、役立つ道具にもなります。個人としてのあなたが考えているわけではありません。思考は起こっています。
ジョン:もし自分の経験を見回せば、この教えや見方が瞬間瞬間私たちの生活に現れているということを、私たちは時々見逃しているということに気づくのは良いことです。あなたが明解に適格に言ったように、本質はとてもシンプルで努力がありません。ふたたび現れたのはおそらく思考であるとあなたは言いました。そうれはずっとあったものではないかもしれないし、そのシンプルさがやってきては去るのは実際の状態や経験ではないかもしれませんが、私たちはしばしばそんなふうに翻訳します。何かを見たからか、概念化されたことが落ちていくからか、理由はどうかはわかりませんが、突然そこにはシンプルさがあります。そしてあなたが明確に言ったように、それはあなたが何かをしようとすることではないし、維持しようとすることでもない。それはその状態に留まろうと努力することでもない。それはシンプルにただ単にそこにあります。それはあなたの直接の経験です。そこに教えや指摘されたことがあります。あなたは実際にある状態を維持できるわけではないし、思考の産物でもありません。概念の翻訳が基準点にやってきて・・・、でもあなたは実際にはそれを知っています。だからあなたはそれはたぶんまた思考だと言ったのです。
参加者:私はまったく理解できません。それはやってきて去り、ええ、それは良かった。私は実際それを分析したり、それが何だとか、その時は考えませんでした。それはおそらく、私がある種の瞑想やスピリチュアルな過程を・・・。
ジョン:これを、ある種の理解というもっと直接の観点から見ると、もし私たちが見落としたとしても、私たち自身の経験は実際には真実を表しています。なぜなら私たちはそれ以上知らないし、明確でもないからです。でも、たとえばもし私たちがそれに気づけば、もし私たちが実際に答えの全体を見ていたら、そこには直接の経験があります。そして私たちは今ここにいて、それに気づけば、基本的な原理があり、私たちの経験は引き続き続いています。あなたの自然な本質は、今この瞬間にさえ、維持するものではありません。それは奮闘するものではないし、努力に満ちたものでもありません。実際それは今この瞬間に私たちに与えられているものです。もし私たちが認識しようとした場合に起こることは、思考やフィーリングや感情でさえ、そこに漂って、何かを変えようとしょうとはしなということです。もしあなたが感情や思考を直接見たなら、そこには良いも悪いも、分割も問題もなく、ただ単にそれが過ぎるのを経験するだけです。それを今ここでも経験しています。本当の私たちの自然な状態がここにあります。生命の機能は続き、もしそれを単純にあるがままに見れば、問題はなく、困難も奮闘もありません。それは単に起こってくることであり、完全性の一部です。もし、分割やラベルや、これは正しいとか間違いとかといったような基準点や思考が現れたら、おそらくあなたは、概念や二元性や起こってくる概念による具現化が始まるのを感じるでしょう。でもそれも私たちの直接の経験の中で現れていることです。ありのままのあなたの完全な真実が、現われ、表現していて、自然な本質、問題のない瞬間瞬間もまた起こっています。もし、概念や分離という思考が現れて、あなたを捕らえ始めると、もし注意していれば、それもまた、そこに現れます。あなたが直接の経験に敏感に対応すれば、聖典や本や、そういうものをどうしたらよいかというようなマニュアルは必要ありません。生活そののもが、ある意味聖典です。それは実際あなたに瞬間瞬間、こういう種類の真実や教えを見せてくれています。それは以前も可能なことでした。私たちは認識することを止めたことはありません。そして今私たちは意識しています。
ボブ:私がすでに言ったように、あなたはあなたの人生の中でそれに似た出来事をもう何度も何度も認識したことがあります。そこで起こっていることは再認識することです。何かをふたたび手に入れようとすることではなく、それが起こった時はただ単に認識することです。そこではかすかな概念化が続いています。思考を一旦止めると、概念化が続かなくなることに気づくでしょう。思考を一旦止めると、何が起きますか? その他の機能は続いています。呼吸、見ること、味わうこと、触れること、嗅ぐことは続いていて、思考はしばらくの間止まっています。それはもう信じられている存在には結びつけられていません。あなたは、それを認識している生命の本質です。そこにはそれを認識するあなたはいません。
参加者:問題は、私はまだそこに存在がいると信じていることだと思います。それが続いていると思います。なぜなら、言うは易く行うは難しで、日々の生活の中で、物事が起こってくると、私はまだしばしば捕らえられてしまうのがわかるからです。それは減ってきていますし、それを避けることができるようにもなりました。でももし何か出来事があって、心配事などがあると、それがまたやってきて、たくさんの強いフィーリングを感じて、頭の中が激しく動きます。もし静かにしばらく座ることができれば、落ち着くことができて、それがまた起こって落ち着き、それがまた起こって落ち着く・・・。
ボブ:それを落ち着かせようとしないで、そのままにしておけば、ひとりでに納まります。それが好きでなかったり、欲しくなかったりしたら、そのままにしておいてください。永続させようという考えから分離感が生まれます。あなたは簡単に思考を一旦停止することができます。思考がなければ、ロープと蛇の話のように、何かをはっきりと見抜くことができます。ある男が暗い夜に小屋の中で濡れたロープを踏み、蛇を踏みつけたと思いました。たちまち蛇の感覚が恐怖を駆り立て、恐怖で鳥肌が立ち、髪の毛が逆立ちました。あらゆる思考がマインドからやってきました。懐中電灯で照らすと、それはロープでした。すぐに安心感がマインドに広がりましたが、恐怖や震えはすぐには納まりません。なぜなら、肉体的なことは少し時間がかかるからです。蛇ではなかったという安心感はすぐにマインドに広がりました。彼はマインドを通して見抜きました。でも肉体的な感覚はすぐには納まりません。ではどうしたらいいですか。まだそこで見ています。そしてそれは見ている間は繰り返し繰り返し続きます。でももしそのままにしておけば少しは時間はかかりますが、やがて納まります。恐怖や震え、鳥肌のようなどんな肉体的感覚も納まります。もし、ノーと言ってこれを取り除こうとすれば、葛藤がやってきて抵抗が生まれ、それを永続させることになります。
(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)