2019/03/15

The Spiel ⑧ (2012.2.6 フルバージョン)


(2012.2.5 フルバージョン)

オーケー。みなさん、お互いがわかるように、名前を言ってください。

(それぞれ名前を言う)省略

みなさんにスピールをお話します。何年もやっていますので、中には以前聞いたことがある人がいますが、それが何なのかというちょっとしたアイディアを提供します。私はここではあなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもありません。私が指し示すポイントを自分で調べてみるように求めているにすぎません。

あなたが何を信じていようが、何をしてこようが、どこかへ行って何かを手にいれようとしてこようが、あなたに何かを与えることができる人は誰もいません。そしてあなたが実際に受け取るものは何もありません。私が指し示すことは何も新しいことではありません。あなたが、いにしえの伝承を調べてみれば、それがすべての伝承の根底にあることがわかるでしょう。

私は、たくさんのたわごとが、そのことを不鮮明にしていることを危惧しています。ヒンズー教ではそれをアドヴァイタと呼んでいます。そしてアドヴァイタは非二元と翻訳されます。彼らは非二元を、「他に何もない一つのもの」と表現します。というのも、「一つ」という表現でさえ、他に何かあることを暗示しかねないからです。

「他に何もない一つのもの」という表現で、それ以外に何かあるのではという考えを打ち消しています。同じことが究極の仏教の教えの中にもあります。そこではそれを「概念化されない永遠に新鮮な今ここにある意識。ただそれだけ、他には何もない」と言います。それを詳しく見てみると、それはあなたが今本当は何なのかを正確に指摘しています。どんな概念も持たずに、今自分が存在していること、もしくは、その今ここにある意識があなたとともにあることを意識していない人はいますか?

繰り返すと、それは、外見上は概念によって見えにくくなっています。ある伝承では、至高の存在は遍在、全能、全知であると言っています。それは三つのことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面のことを言っています。遍在は完全な存在を意味します。全能は完全な力を、全知は完全な知性を意味します。

もし彼らの言うことが本当なら、私やあなたが存在する余地はありますか? それともわたしたちはその完全性の外にいるのですか? あなたや私の中にある完全性は完全なものですか? 彼らはまた、非二元の中には二元性は全くないと指摘しています。それゆえ、二元的な視点から非二元を理解しようとすることは不可能です。

なぜなら、すべての二元的な顕現は見せかけにすぎないからです。あなたは、多くの聖典が顕現をマーヤー、幻影、見せかけと言うのを知っているでしょう。私がここで最初に申し上げるのは、あなたが知っていようがいまいが、あなたはもうすでにあなたが探しているものなのだということです。

それゆえ、探すことそのものが問題となるということを理解しなくてはいけません。なぜなら、どんな探求であれそれは、あなたがその何かを今持っていないということを意味するからです。もしあなたが、この訓練や瞑想やリトリートをすれば、この本を読めば、これをやれば、いつか未来に何かになるというのであれば、あなたは偏在から遠ざかり、時間という概念上の考えに落ち入ることになります。

あなたという二元的な現れは、二つから一つになろうとしますが、それはできません。探すことそのものが問題なのです。私はここでは神という言葉を使いません。なぜなら私たちはその言葉で混乱してしまうからです。ただ単純に私たちはみな異なる伝統や文化からやって来ているからです。

ある人は無神論者かもしれないし、ある人は不可知論者、クリスチャン、ヒンズー、ムスリム、仏教徒、ユダヤ教徒かもしれません。私が神について話し始めると、あなたはそれを歴史的な背景と結びつけてしまい、指摘されたことを少しも理解せず、不鮮明になってしまうでしょう。

ここでは私は知性エネルギーという言葉を使います。そしてそれもまた概念であるということを理解してください。私が知性という時、あなたたちの知性のことを言っているのではありません。というのも、この部屋には程度の違う知性がいるからです。私が言っているのは、自然を見てくださいということです。

というのは、それが私の示す自然な状態だからです。外の自然を見てください。銀河が形成され、惑星が動き回り、地球が太陽の周りを回り、季節がやって来ては去り、潮が満ちては引く。そのことは自然界すべてが内在する知性に満ちていることを暗示しているのではありませんか? すべての粒子に知性が内在しているのではありませんか?

誰か年老いた男が雲の上で糸を引いていて、あなたが祈ると何かをくれたり、あなたが何か悪いことを企むと罰したりしているわけではありません。知性は、すべての粒子に満ちています。自然を見てください。あなたは自然と少しも違いません。自然はあなたが何なのかを思い出させてくれます。

そしてその同じ知性エネルギーが今あなたを呼吸させ、心臓を鼓動させ、髪の毛や指の爪を伸ばし、食べ物を消化し、あなたの体の細胞を置き替えていることを理解してください。それは全く自然に努力なく行われています。もしあなたが自分は実在すると信じているなら、これらのことで、あなたは一体何をしていますか?

あなたは次の呼吸ができたと興奮しましたか? それともそのすべては自然に努力なく起こっていますか? 私が話している知性エネルギーの別の呼び方は、知る働き(knowing)です。私の言っているのは知っていることや、何かを知ることではなく、純粋な知る働きのことを言っています。

この部屋にいるみなさんの中に、知る働きの無い人はいますか? 「わからない」と言う人がいるかもしれませんが、そう言うためには、知る働きがないと、そう言えないということを理解しなくてはいけません。知る働きは今この瞬間に直接起きている何かです。ing を付ける意味は、知っていることや、これから知ることではなく、今起こっていることを知っているということです。

それには始まりも終わりもなく、それがいつ始まったのかを正確に指摘することはできません。それはいつも今この瞬間です。ing を付けることによって、今直接起こっていることを意味します。起こってくることはすべて動きです。動きはエネルギーの動きです。そのため私は知性エネルギーという言葉を使います。それが振動してパターンとなり、すべての顕現を形作ります。

この顕現は二元的な現れです。非二元の中には二元性はまったくありません。私たちはこの二元的な見せかけを受け取るのですが、いにしえの聖典によれば、見せかけは実在ではありません。なぜならそれはマーヤー、幻影、見せかけだからです。それは実在ではありません。それは実在の定義には適合しません。なぜならそれは、やって来ては去っていくからです。

実在の定義は、決して変化しないものです。この顕現は束の間のものであり、常に変化しています。私たちはどうしたらその定義に適合するでしょうか? 決して変化しないものとはなんでしょうか? それは存在しているという感覚、それは直接の知る働き、それはどんな時も働いている。それは時間にとらわれない今ここにある意識。それは私がそう呼ぶのを好む生命の本質。

ブッダは2000年前にそれを「認識する空」と呼びました。それは、知る働き、知性で満ちた空。彼は、「空は形である」と言いました。彼は、すべての顕現は振動して違ったパターンの形となり、それが認識する空であると言いました。そして逆に、「形は空にほかならない」と言いました。そうして二重に二元性を明確に否定しました。

一つの本質がパターンとなって現れ、すべてとなって表現しています。どうしてそれ以外でありえるでしょうか? マハーヴァキヤの大格言では「我はそれなり、汝それなり、これはそれなり、すべてはそれなり・I am That, thou art That,  this is That, that is That」と言います。彼らは、「それ・that」という言葉を充てています。

というのも、それを理解するために、どんなラベルや概念も適合しないからです。そのために「それ・that」という言葉を使います。それそのものは言葉ではありません。私たちは「それ・that」という言葉はずっと知っていました。というのも、「これは車だ・This is a car.」「これは椅子だ・This is a chair.」「あれはギルバートだ・That is Gilbert.」「あれはレアーニだ・That is Leone.」と言うからです。

私たちが付けたラベルを取ってください。車、椅子、ギルバート、レアーニを取ってください。「それ・that」を ラベル無しで、分離することはできますか? 私たちは神を supreme being(至高の存在)と呼び、私たちのことを human being( 人間)と呼びます。supreme、human というラベルを取ってください。

beingness (実在)をラベル無しで分離することができますか? 誰かこの部屋で存在していない (not being) 人はいますか? 私がいつも言うように、あなたが知っていようがいまいが、あなたはもうすでにそれ (that) なのだという事実から始めてください。そうすれば、探求は終了です。あなたは何も探し求める必要はありません。

あなたがしなければいけないことは、何がやってきて、うわべ上でそれを不鮮明にしているかを調べることだけです。あなたが認識したり理解したりすることをうわべ上で隠したり止めたりしているものは何ですか。私は、分離はどこにも無いと言います。あなたは、どうしてそんなことがわかるのかと言うでしょう。あなたはあなたの周りじゅうで分離を目にします。

でも、調査して見てください。私はここでは、虚偽は調査に耐えないと言っています。それは調査され、あなた自身が認識する必要があります。例えば、あなたはこの体ですか? たいていの人が調べてみるまではそう思っているのですが、もしあなたが、自分は体だと思うなら、今の自分が始まったという場所を探してみてください。

好きなだけ体を調べても、体がここから始まったという場所や、これが私だという場所を言うことはできません。あなたは自分の体が常に変化していることを理解します。細胞は今この瞬間にも置き換わっています。この体とは何ですか? 体を調べてみてください。

あなたはこの体が構成要素でできていると理解するでしょう。それは、あなたの周りにあるのと同じ構成要素、空気、土、火、水、空間でできています。自分自身を構成要素と分離してください。空気を体から出して、どれだけ持つかやってみてください。水を取り出してください。体の80%は水です。できるなら体から水を取り出してください。

地球の外に出てください。空間の外に出てください。体から体温を取り出してください。体温は火です。あなたはこれらの構成要素から自身を切り離せないとわかるでしょう。これらの構成要素をもっと詳しく調べてみてください。これらの構成要素は非常に小さな粒子、純粋なエネルギーに分解できるとわかるでしょう。

そしてまたそれは、エネルギーの振動パターンにすぎないことを指摘しておきます。そのエネルギーは分離分割しておらず、形作られ、具現化され、様式化されてすべてとなって現れ表現しています。しかし、形は空に他なりません。どうしてあなたはその体、その分離した存在、その個人だということができるでしょうか?

もう少し調べてみましょう。あなたが「私は生まれた」という時、その体はどこから始まりましたか? 誰か実際に自分の誕生を覚えている人はいますか? あなたは、自分が覚えてない地点を超えては思い出せないことに気づくでしょう。それは二歳か二歳半の頃です。それを超えてはどうだったのかわかりません。

あなたが自分は始まったと思うなら、どこから始まりましたか? 父親まで遡って調べてみることができます。生き生きとした生命の本質、純粋な知性エネルギーがパターンとなり、形となり、具現化してあなたの父となり、あなたの父の中で精子を作ることを可能にしました。それは非常に小さな粒で、あなたは肉眼では見ることさえできません。しかしその精子は内在する知性に満ちています。

同じことが、あなたの母親にも起こりました。生き生きとした生命の本質がパターンとなり、形となり、具現化してあなたの母となり、卵子を作ることを可能にました。卵子は非常に小さなものですが、知性エネルギーに満ちています。というのは、卵子は自分で子宮内膜に着床するからです。それは周りと争うことをしません。

精子も知性に満ちています。なぜならそれは、卵子に泳ぎつくからです。それはどこに行けばいいのかを知っています。その二つが一緒になった時、その二つの中には化学的な設計図がありました。細胞は二つに分裂し、そしてまた再分裂して小さな胎児となります。あなたが自分は実在すると言うなら、このことであなたは何をしましたか?

二つの目ができて、耳、肝臓、心臓、何本かの指もできてきます。あなたはそれが自然に努力なく起こったことを理解するでしょう。何かをしなければならない存在はそこにはいません。あなたが生まれた時、「さあ、最初の呼吸をするか」と言いましたか? それとも内在する知性は呼吸することが必要であると知っていましたか?

あなたは乳首にしゃぶりつくことを学ばなければいけませんでしたか? それとも内在する知性がどうしたらいいのかを知っていましたか? あなたは生かされています。内在する知性はそのパターンを通して生き、形となり現われました。生まれたばかりの幼い子供には自分は分離した存在であるという考えはありません。

子供は全体を一つのものとして見ているため、自分が分離しているとは思っていません。子供は聞き、味わい、触れ、嗅ぎます。でもその段階ではまだいかなる言葉も学んでいません。彼はすべてをありのままに見ています。それは、修正したり、改めたり、正したりすることなく、ただありのまま、分離感などは全く無くということです。

気に入れば手でつかみ、そして押しのけ、楽しければ喉を鳴らし、もし何か我慢できなければ涙や感情がこみ上げる。でも彼には自分が分離しているという考えはありません。二歳か二歳半になるまでに、幼い子供は両親から言葉を学び始め、その人間の形をしたものの中に、考える能力が発達します。

この考える能力は人間の形をしたものが持つ能力で、他の動物、鳥、昆虫は私たちほど発達していません。彼らは私たちが持っているよりもはるかに発達した他の能力を持っています。鳥は私やあなたよりもはるかに良い視力を持っています。犬はあなたよりもはるかに良い嗅覚を持っています。

タイガーやレパードは縞や斑点のことを考えませんでした。あなたは彼らがそうするために何かをしなければいけなかったと思いますか? それとも内在する知性が縞模様は自然のカモフラージュになって彼らを優秀な捕食者にすると知っていたと思いますか? カメレオンのような動物は自身の色を変えることができます。

「私」は生きていくために何かをする必要はありませんでした。生きていく時、生命の本質がパターンとなってあなたを通して振動となって現われたように、生命の本質はそのパターンのために何が必要かを知っていました。私たちは考える能力を手に入れました。それはとても役に立つ能力です。

しかしそれはまた自己破壊的でもあります。なぜなら、エネルギーの振動は反対の極へと動き、自己破壊的になるからです。それはとても役にたちます。この建物はかつて誰かのマインドの中にあったものです。レンガが形となった時も同じです。壁の絵も。テクノロジーも同じことが言えます。

物事を誰かが「私がそれをやった。私がそれを発明した」と言います。でも、生命の本質が生き生きとしたパターンを姿形にすることなしに、それをすることができましたか? レンガを作るために指を動かすことや家を建てたり、何かを描いたり、テクノロジーでネジを形にしたりすることができましたか?

人々はそこに誰かがいて、何かをすることができると思っていますが、生命エネルギーがパターンとなりすべての姿形となって現れなければ何もすることはできません。あなたは自身が生命エネルギーではなく、見せかけであると思っています。それゆえそれは聖典の中では無知と呼ばれています。それは、私たちの頭が悪いとか愚かだと言っているのではありません。

それは私たちが本質を無視して、自分だと思っているものに焦点を充てているということです。ニサルガダッタは言いました。「自分ではないもののふりをするな。本当の自分を拒絶するな」と。私たちは皆、人間、分離した存在、個人のふりをしています。そうではないし、そうであったこともありません。

私たちは皆、本当の自分を拒絶しています。本当の自分は物ではありません。それは非顕現、非二元の純粋なエネルギーです。物ではないものを欲しい人はいません。そのため私たちは誰かが存在すると信じています。でもあなたがそれを調べてみると、それが真実ではないことがわかります。人(person)という言葉はどこから来ましたか?

それは仮面(persona)、マスクから来たのではありませんか? 自らの存在証明としてマスクを被り、その視点から分離した存在、個人として生きています。別のやり方で調べるなら、per は、~を通して、sonaは音(soud)です。ヴァイブレーションを通して、エネルギーの動きを通してです。

私はあなたに、あなたはこの体ではありえないことを指摘しました。あなたは、あなたが信じているような、この体とマインドですか? では誰かそのマインドと呼ばれているものを見せることができる人はいますか? 掴まえて、これが私のマインドだと言えるようなものはありますか? 思考以外でマインドというようなものは存在しません。

もし思考があなただと信じているなら、具体的にどの思考があなたなのですか? あなたは、自分が存在するという感覚がマインドを通して「私はいる」という原初の思考に翻訳されていることを理解するでしょう。でもあなたはその思考なのですか? 調べてみれば、あなたはその思考ではありえないとわかるでしょう。

なぜならあなたは、一日中そのことを考えているわけではありません。一日の中で、その思考がない時がたくさんあります。あなたが眠っている時、それはそこにはありません。麻酔がかかっている時や意識のない時、それはそこにはありません。もしあなたがその思考なら、その思考が消えたら、あなたも一緒に消えて終わりになりますか?

それで終わりにはなりません。あなたが考えていない時でも、その概念化されないエネルギーは、それでも見て、聞いて、味わい、触れて、嗅いで、心臓の鼓動をたくさん打っています。思考なしでたくさんのことが起こっています。あなたはその思考のはずがありません。自分で一日中それを調べてみてください。

思考とは何ですか? あなたが考えている時、かすかな動きが内側で続いていることを理解するでしょう。かすかな動き、かすかなヴァイブレーション。それが言葉となってやって来る時、言葉は音ではありませんか? それは音のヴァイブレーションではありませんか? それはエネルギーの動きのヴァイブレーションではありませんか?

ということは、繊細なレベルでは、言葉、音、声、考え、イメージは同じ知性エネルギーです。体も同じです。その同じ知性エネルギーが振動してパターンとなり形となり具現化してすべての顕現となります。顕現として現われているヴァイブレーションエネルギーと純粋な知性エネルギーとは同じものです。つまり、一つの本質、一つのエネルギーがすべてとなって現れています。

もう一度、あなたはそれであると指摘します。マインドと呼ばれるものを見て、それがどう動くかを見てください。それはとても役に立つ道具ですが、それがどんなに自己破壊的で機械的に動くかを見てください。あなたのマインドを見て調べてください。ヴァイブレーションとしてのマインドは常に互いに関連する反対の極に動くとわかるでしょう。

もしあなたが過去にいない時、過去は記憶ですが、未来にいます。未来は期待の想像です。互いに関連する反対の極へと動く間、良いと悪い、快と不快、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、肯定と否定、マインドがそれ以外のやり方で動くか見てください。それはいつも二元的に動きます。

昔、シェイクスピアは言いました。「良いとか悪いとか何もない。思考がそうしているだけである」と。思考は反対の極へと振動し、私たちはそれに言葉を充て、それが自分自身に設けた限界です。ニサルガダッタは言いました。「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめるものはない」と。それは素晴らし言葉なので、あなたが今までに直面した問題はあなたが想像もしくは予期したものであるということを理解するでしょう。「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめるものはない」。

この思考によって考え出された存在は本当のあなたではないということを理解するでしょう。幼い子供が考える能力によって言葉を学び始める二歳か二歳半のころ、まわりにいる親をどうすることもできません。そして子供は「幼いジョニー」というような言葉を学び始めます。親は子供に向かって、「幼いジョニー」「良い子だ」などあれこれと、子供のまわりでうるさく言います。

そして子供は「私はこの幼いジョニーだ」と考え始めます。そして子供は「私」「親」や「私」「私に」というような言葉を覚えます。「私」や「私に」の反対は何ですか? それは「私ではない」や「私以外」ではないですか? それまでは、あるがままに見ていたものが今は自分が分離した存在だと思い、「幼いジョニー」を彼らが言っている「私」や「私に」と関連付けるようになります。

「幼いジョニー」という表現に合わないものは「私」ではないと考えるようになります。そして当然あなたは分離を感じることになります。その分離感とともに不安と傷つきやすさがやってきます。そして探求が始まります。その時から、より安全になることや、全体性すなわち完全性を求めるようになります。なぜなら、自分は分離した存在であるという考えを受け入れてしまったからです。

幼い子供は暖かくて愛情にあふれた家族を好みます。なぜなら、もし暖かくて愛情にあふれた家族と一緒にいると、より安全で傷つきにくくなると感じるからです。かつて家族は部族を形成しました。部族は大きくて強くなればなるほど、より安全で傷つきにくくなりました。そして今日では国家を形成し、不安と傷つきやすさのために国と国が戦争をします。

隣の国が石油を手に入れた。注意しないとやつらに支配されて富を奪われてしまうかもしれない。それではこっちは先に爆弾でも何でも手に入れよう。こうした考えと分離のために絶え間のない紛争が続きます。「私」や「私に」には大したことはできません。それでこの「私」や「私に」に何が起こりましたか?

幼い子供はもっと言葉を学びます。あなたが今までに使ったすべての言葉と、これから話すであろうすべての言葉はどこか途中で学んだか習得したか身につけたものです。あなたは、習得するか身につけるか学ぶまで、言葉を知りませんでした。言葉は物ではありません。それは全部学んだものです。

言葉が物ではないということを理解するためにこう指摘します。「水」という言葉を選んで、好きなだけ考えてください。水という言葉では渇きを癒すことはできません。火という言葉を話しても口はやけどしません。言葉は物ではないということを理解してください。

幼いジョニーは「私」という思考を手に入れましたが、「私」という思考では大したことはできません。それで彼は「私」という思考に何を付け加えたでしょうか? 出来事、条件付け、私たちに起こったことなどを貼り付けました。その結果どうなったでしょうか? 「私はボブ」「私はオーストラリア人」「いいやつ」「あんまりよくない」「自尊心が低い」「私は怖がりだ」「私は不幸だ」。

私に起こった物事に関する概念はすべて、「私」という思考に貼り付けられ、メンタルピクチャー、メンタルイメージ、すなわち私が自分だと信じているものになりました。信じるエネルギーがそこへ入り込み、見かけ上はリアル、実在、現実に見えるようになりました。なぜなら、それは検証されることなく、毎日毎日そう信じられたからです。

それは私だけではなく、両親、学校、社会、国家によって強化されました。彼らは私たちに、自分たちを完全で完璧にするために、どんなものでも獲得し、集め、加え、蓄積するよう外を探すようにと言いました。最初から自分たちは完全で完璧だということを理解することなく、私たちは探し続けました。

そうして私たちはある種のメンタルイメージを手に入れ、それを「私」という思考に加えました。それを私は自己の中心、基準点、エゴと呼びます。そのエゴは自分で手に入れた概念上のイメージです。そしてあなたはすべての聖典の中で、エゴは大きな問題であると読むでしょう。

それはあなたに、エゴを昇華(しょうか)するようにと言います。カーペットの下に押しやったり、潰そうと踏みつけたり、できることを何でもやってみるのですが、あなたはそれを取り除くことができません。エゴを取り除こうとしているのがエゴ自身であり、それは不可能であるということを理解できません。

あなたがしなくてはいけないのは、調べてみて、エゴが最初からフィクションであるということを理解することです。それは存在していません。何かがやってきたら、それが役立つかどうか見てください。私たちは何年にもわたり、基準点、「私」に関係づけることで自然さを失ってきました。

私たちの問題はすべて、関係性の問題、すなわちこの基準点に関連した問題です。そして、どんな関係性、どんな関連も二元性です。最初に私は、二元性から非二元を手に入れることはできないと指摘しました。それは不可能なことです。何かがやってきて、「私」に関連付けると、記憶によって自然さが失われます。

そして「私はそれが好きだ。そうだ。以前に経験した。それは良かった」と言い、それを留めようとします。でも良い事も他の物事と同じで、顕現は束の間のもので常に変化しています。それは結局とても普通のものとなるか、変化してどこかへ行くことになります。でも私たちはそれを手放したくない。

そうすると何が起きるでしょうか? そこには抵抗があります。想像上の「私」はそれを留めようとします。そしてその抵抗は葛藤を生みます。どんな抵抗も葛藤です。葛藤は病です。あなたが葛藤していると、あなたは不安です。あなたが不完全な時、あなたは不安で病気であり、それが病気となって現れると気づいてください。

同じことが嫌いな事がやってきた時にも起こります。私はそれを取り除かなくてはいけない。「私」に関連づけた記憶では、それはあまり良くなかった。そしてまた抵抗。そしてまた葛藤。そしてまた病気。そしてその絶え間ない葛藤が形となり、心理的な苦悩となります。それが恐怖、怒り、心配、ストレス、嫉妬、ねたみ、罪悪感、恥辱、後悔を引き起こします。こうした心理的葛藤は抵抗から起こります。

「私」がすべての私の問題の原因です。そしてこうした心理的な問題、怒りや恐怖などは「私」が起こした結果です。いわゆるカルマは、この原因と結果です。でももしあなたが原因である「私」を調べて、それがフィクションであり、いかなる存在でもなく、何の実体も持たないと知ったら、何が起きるでしょうか?

もし「私」が原因と関連付けられなければ、原因無くして結果があるでしょうか? あなたは原因無くして結果はないということを理解するでしょう。そして、「私」はこれらの結果のすべてを取り除こうとしたり、逃れようとしたり、昇華しようとあれこれしたりを何年も試みます。私はその必用はないと考えています。なぜなら、そうしたことは、関連付けるものがなければ自然と落ちていくからです。

私は自然の状態について話しています。自然な状態を調べて、自分自身を助けてください。顕現はすべて二元性です。昼無くして夜はありません。音無くして静寂はありません。動き無くして静止はありません。冬無くして夏はありません。自然を詳しく調べてみれば、基準点はありません。どんな基準点もありません。

昼は夜と争いません。冬は夏と争いません。静止は動きと争いません。静寂は音と争いません。それぞれはやってきて自分の役割を果たして消え、もう一方へと引き継がれます。顕現の世界には絶え間のない分割がありますが、問題の原因となる想像上の基準点に張り付いてはいません。

同じことが二元的なパターンであるこの体で起こっています。そこでは基準点ゆえに絶え間のない葛藤が起こっています。私たちのすべての問題は関係性の問題であり、関係性は二元性です。私はここで、二元性などというものは存在しないと最初に指摘しました。他に何もない一つのもの、ただそれだけ、他に何もない。一つ以外何もない。

私たちはこの自己の中心を調べて、それが実在かどうかを見る必要があります。私はそれを指摘し、調べるよう求めています。みなさんは今見ていますね? それは事実ではありませんか? そしてみなさんは聞いています。調べてみてください。あなたは今朝目を開け、見ることを始めなければいけませんでしたか? それとも、見る働きがすぐにそこにありましたか?

その同じ見る働きが午前中ずっとあったのではないですか? その見る働きの中で、あらゆる種類の出来事が起きたのではありませんか? それは常に起きています。見る働きそのものは変化しませんが、その内容は絶えず変化しています。今この瞬間あなたが部屋の中を見渡せば、あなたは異なるものを見るでしょうが、それでもそれはありふれた毎日の普通の見る働きです。

同じように今この瞬間あなたは聞いています。今朝起きた時あなたは、私は聞くことを始めようと言う必要はありませんでした。聞く働きは既にそこにありました。深い眠りの中で誰かが呼んでも、あなたはそれを聞いています。聞く働きはいつもそこにあって機能しています。あなたが違った物音やその他の音を朝聞いても、それは同じ聞く働きの中で起こっています。

聞くことと見ることは起こっています。そこでお尋ねします。あなたの目は「私は見る」と言いますか? 調べてみてください。あなたは目を通して見ていますが、目は「あれを見ろ、これを見ろ」と言ったり、分析して、「これはいい。あれは悪い」などと言ったりはしないということを理解してください。

見ることは目を通して起こり、思考はそれを「私は見る」という思考に翻訳します。でもそれが「私は見る」という思考によって翻訳される時、それは単に「私は見る」という翻訳ではなく、「それは私」「ボブという存在」となり、今やそれには見る能力があります。同じことが聞くことにも起きています。耳は「私は聞く」とは言いませんが、聞くことは耳を通して起きています。

そしてそれもまた「私は聞く」という思考に翻訳されます。そしてまた、その思考に翻訳されるやいなや、「それは私、ボブ」となり、それには聞く能力があると信じるようになります。あなたは見ること聞くことは単に翻訳であり、思考に見る能力や聞く能力はないと理解するでしょう。

自分自身に尋ねてください。その「私は見る」という思考が実際に見ることができるのか、その思考が実際に見ることができるのかと。あなたは、思考が見ることはできないと理解するでしょう。思考は何も見ていません。思考がやっていることは、見る働きの中で起こったことを翻訳しているにすぎません。思考自体は見ることはできません。

「私」という思考は聞くことができるでしょうか? あなたは、「私は聞く」という思考が聞くことはできないと理解するでしょう。ということは、「私」という思考は、見る能力、聞く能力を持っていないということになります。「私は意識している」という思考はあなたのアウエアネス(意識)ですか? それがアウエアネスのはずがないとわかるでしょう。

「私は選ぶ」という思考が選ぶことができますか? あなたは「私は選ぶ」という思考が選択者ではないと理解するでしょう。そして今あなたは「私」という思考には実体はなく、どんな独立した性質もないことを理解するでしょう。このエゴにはいかなる実体もいかなる独立した性質もありません。

思考はそれ自身では存在することができません。死体に生命の本質が無くて、死体はどれだけの思考を持つことができますか? 死体には目も耳もすべての器官もありますが、それを生かしたり、動かしたりする働きをする知性エネルギーがありません。そのため、それ自体では何もすることができません。

思考は、コンピューターが電源オフの時はすべての情報を引き出せないように、何もすることができません。情報に何ができるでしょうか? このことから、この信じられているエゴは今、どんな力も、どんな独立した性質も、何かをしたことも、どんな独立した実体も持たないということが理解できます。

それが本当にあったのはいつですか? それが実在であったのはいつですか? 同じことは、あなたの誕生かそれ以前まで遡ることができます。そこにはいかなる分離した存在も、いかなる個人の力も、いかなる独立した個人の性質もありません。あなたは、自分はずっとその生き生きとした生命の本質、知性エネルギーだったと理解するでしょう。

それは命の本質、あなたの真のあるがままの実在。それはマインドにとっては無です。あなたは、どんな聖人が救済のことや終末のことを語ろうと、イエス・キリスト、ブッダ、ラマナ・マハリシ、モーゼ、誰であれ、誰一人、無を超えて行ってはいないということを理解するでしょう。その無の中にすべてが現れ、すべてが消えていきます。

パターンが形となり具現化してその中に現れるものは、そういう形やヴァイブレーションとなって現れないかぎり、本質的には無です。すべてがその本質の中にあります。それが、私が指し示すものです。そのことについて、質問、議論、どう取り組むのか、どうしたいのか、もしくは、あなたの解釈を聞かせてください。さあ始めてください。

(Spiel 終了)

リチャード:あなたの言われたいくつかのことは、とても身近で明白でよくわかります。例えばその一つは、私たちは皆自分ではないもののふりをしていて、いろんな状況で、すべてをそれに関連付けて、いろいろな顔を装っているということです。ふりをすることが誰かでいる方法であり、それがそのことの始まりだということは知っています。そしてまたあなたは、私たちは皆、本当の自分を拒絶していると言いましたが、それは私には少し理解しがたいことです。つまり、知的には理解できるのですが、本当の自分を拒絶することが自分ではないもののふりをすることで感じるほど際立った障害だとは感じません。それを経験に関連づけて述べたり、経験として感じたりするのは難しい気がします。それは良い考えに思えますが、もう少しわかりやすくお願いします。

ボブ:もし今あなたがそのことを考えなかったら、何か問題はありますか? そうするには、あなたは思考をちょっとの間止めてみてください。もし思考を一瞬止めたら、何を言うことができますか?

リチャード:あなたはたぶん私に、「もし今あなたがそのことを考えなかったら、何か問題はありますか?」と聞き、そして思考を止めて・・・。

ボブ:思考無しで何を言うことができますか?

リチャード:思考。私が思うには何か振り返って言う・・・。

ボブ:あなたはそのことを考えずには何も言うことができません。でもあなたは消えはしません。あなたは依然として見ていて、聞いていて、味わい、触れ、嗅ぎ、マイクロホンを握っています。その時あなたは無でした。あなたは概念を持っていませんでした。それでも傷つくことは全くありませんでした。あなたは、たとえ無であったとしても、何かになろうと、自分自身に概念を貼り付けることができます。そこには今ここにある意識があります。心臓が鼓動し、思考無しで多くの機能が続いています。あなたは基準点、概念に関連していませんでした。ブッダはある表現で表しました。ゾクチェンでは、「大いなる完成は概念化されない意識である」と言います。私たちは非概念、アウエアネス、あなたがアウエアネスと呼ぶもの、知る働きに思考を注ぎました。その中に「あなた」は消えました。すべては虚偽でした。それについて何か言えることはありますか? それは見えません。それは表現されません。それは束の間のものです。でもそれを否定することはできません。あなたは思考なしでも消えませんでした。

リチャード:こんなふうに言うことができるかと思うのですが、本当の自分を拒絶するということは、私はそれを概念化しなければならないという主張であり、そういう意味で・・・。

ボブ:それは習慣的なパターンです。あなたはそれを概念化することができません。あなたは何もすることができません。でも、そのパターンが信じていること(belief)の中で続いています。私たちは虚偽の考え(belief)を受け入れ強化し続けています。あなたは理解しなくてはいけません。信じていることは実在ではありません。信じていること(belief)の定義は、「理由もなく、調べもしないで何かを受け入れること。疑わしい事実を肯定的は情報や証拠無く受け入れる」です。あなたが絶対的に確信している唯一の事実はあなたが存在するという事実です。もし私があなたに、自分がいると信じているのか? または、自分がいると知っているのか? と聞いたら、何と答えますか?

リチャード:私は、知っていると答えるに違いありません。

ボブ:その通りです。誰もそれを否定することはできません。あなたは自分がいるということを知っています。あなたはそれを否定することはできません。それが知っていることと信じていることの違いです。思考を止めて、今そのことを考えなかったら、何か問題はありますか? あなたが思考を止めても、あなたは消えません。あなたはばらばらになりません。見る働きや他のことは起こっていますが、思考は止まっています。その瞬間、あなたは思考よりも前にいます。というのも、その思考が現れる本質はまだそこにあるからです。もしあなたが思考なら、思考が止まったら終わりです。知る働きはまだそこにあります。人々は、神は思考の前にあって、そこに到達するために、これをしてみよう、あれをしてみようとしますが、ちょっと思考を止めて、あなたは思考よりも前にいるという事実を理解してください。思考を止めて、しばし留まり、純粋な知性エネルギーと思考の違いを見てください。それが純粋な知性エネルギーです。そしてそこへ思考がやってきてあらゆる種類の出来事を翻訳します。思考はその知性と密接に関係しているため、思考は、自分は知性であると信じるようになりました。それはあたかも、あなたがひとかたまりの鉄を火に入れれば赤くなって熱くなり、触れればやけどするなど、火の性質を帯びるのに、鉄を火から取り出せば、その性質が無くなってしまうようなものです。それと同じで、思考が生命の本質だと思い込んでいて、思考が生命の本質の性質を帯びているため、あなたは生命の本質を自分だと信じることができません。その思考でできた存在は自分が生命の本質だと思っています。分離した存在をあなたは自分だと思っています。そしてあなたは生命の本質無しでは何もできないことを理解しなければなりません。それにはどんな力も全くありません。そうやって私たちは機能してきました。機能は続いていますか? あなたは呼吸していますか?

リチャード:ええ、続いています。

ボブ:知る働き、生命エネルギー無しでそれが可能ですか?

リチャード:いいえ、できません。

ボブ:あなたはその生命エネルギーに違いありません。それがパターンとなり姿形となり現れます。生命エネルギーとは何ですか? あなたは決してそれを概念で理解することはできません。でもそれはこの瞬間のものであると言うことはできます。あなたはそれにあらゆる種類のラベルを貼ることができます。

リチャード:あなたがおっしゃるのは、私の目が見ている、つまり、私が見ている、私は自分の目が見ている、と考えている。私は聞いている。私は、自分の耳が聞いていると思っている。でもそこにはもう聞く働きがすでにあって、私はそのことでは何もしていない。そして私は自分のしていることを翻訳する。自分がそれをしていると考えている。見ることも同じで、それはすでに起こっている。そして私はスピリチュアルな習慣をやり、結果を得る。詠唱を唱え、エネルギーを感じるなど。これらも同じで、私がやっているのではなく、単に起こっている。

ボブ:ええ、そうです。大切な事は、あなたがそれをやっていると思っているうちはまだ罠にはまっているということです。あなたが何らかの結果を求めてやっていると思っているなら、罠にはまっています。もしやるなら、単にやるだけ、自然の機能が起こるに任せてください。

リチャード:もし詠唱や礼拝をするなら単にやり、喜びを感じて、祝福して感謝して、詠唱したり内側のエネルギーを感じたりするのがどんなに奇跡的な事かと言う。私がそれをやっているわけではないのですが。そうでしょう?

ボブ:よく理解しています。「私はいる」という生命の本質がなければ、これは起きません。グッド! 認めるべきところは認めましょう。もしあなたが I am-ness.(私そのもの)が翻訳された「存在の感覚」という言葉を使いたければ、それでもかまいません。

リチャード:あなたが話した一つの点についてですが、人が身につける論理の能力、概念化や論理化する能力についての話がよく理解できません。それはヴァイブレーションエネルギーすなわち振動で、時々破壊的になりうるとあなたは言われました。

ボブ:この部屋全体はかっては誰かのアイディアでした。アイディアは役に立ちます。でもあなたが境界を設ける時、例えば、「あなたは十分ではない」「あなたはこれができない。あれができない。」と言葉のラベルを貼り付け、良い悪い、快不快という境界を作ります。その一番大きなものは「結局、私は人間にすぎない」というものです。あなたが自分を人間(human being)と呼び、神を至高の存在(supreme being)と呼びます。humanという言葉を取ってください。supremeという言葉を取ってください。そうすればそこにはbeingnness(存在・本質)があります。あなたは自身の境界、限界を取り、ただ単にbeingnness(存在・本質)になりました。もはや自分が限界のある人間であるという概念はありません。あなたはそのbeingnness(存在・本質)です。そこには何もありません。「私」もいません。

リチャード:抽象化する能力の限界は、何か体が縮むような、絞るような、私たちが不安と呼ぶものとしてやってくるような気がします。

ボブ:ええ。不安、恐れ、憂鬱などすべては限界のある分離した存在だという考えに基づいています。私たちが見ているたくさんの発明品や物は、何日も考えて、ある夜眠ったら次の日にはあったというものではないとわかるでしょう。ものごとはそんなふうには起こりません。「私」を取ってください。パターンの中のそれをどう活かすかを神はもうすでに知っています。

参加者:人生におけるすべてのことから「私」を取り払うというのは素晴らしい事です。

ボブ:ええ、それは可能です。誰でもできます。そしてそのように現れます。

参加者:マインドを縛り付けていることに関して、あなたが使うマインドの論理はとてもすばらしいです。あなたの話すやり方は、どこにも行くべきところはなく、あなたは対話することによって直接核心を突いて切り落とし、それは消えて無くなりました。

ボブ:他に何もない一つのものです。

参加者:私は全部理解できました。それがどんなに易しいことか。ありがとう。

リチャード:私は論理的能力について考えようと思っています。あなたが言った破壊的な・・・。

ボブ:それについて考えようとしないでください。あなたは決してマインドの中に答えを見つけられません。なぜならマインドは二元的な振動だからです。あなたがマインドの中に答えを探せば、それはまた別の問いを持ち出し、また別の問い、また別の問いと永遠に振動して、もっともっと概念を生みます。それが多くの偉大な伝承に起こったことです。それは振動して、分割して概念化しました。人々は10年20年30年と探求してマインドの中を必死に探しますが、答えは見つかりません。その後で知性は気づくでしょう。どうしてこんなに探しても見つからないのか。おそらく間違った場所を探しているのだろうと。あなたは必至に探したが見つけられなかった。そして自身に尋ねます。マインドの外はどうだろうかと。そしてあなたは、どの方面を向いてもそれはマインドの中だと気づきます。マインドから出る唯一の方法は全停止です。思考を全停止することです。その停止の瞬間、概念化や考えることが停止しても、自分は消えもしないし、ばらばらにもならない。そして純粋な知性エネルギーと思考の違いを理解します。そしてあなたはすでにそこにいます。それが偉大な伝承に起こったことです。それはヒンズー教ではアドヴァイタと呼ばれています。アドヴァイタは非二元と翻訳され、それは「他に何もない一つのもの」と表現されます。でもそこで彼らは議論を始めました。彼らは三つのグナ、五つのチャクラを作りました。そして永遠にそれは続きます。仏教でも同じで、セラバーダ、ヒナヤーナ、マハヤーナ、ゾクチェン、禅。それらは違うものではありません。ゾクチェンでは、「概念化されない意識」「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識、ただそれだけ、他には何もない」と言います。そうしたすべての分割が続きます。キリスト教でも同じです。ホーリーゴースト(三位一体)、トリニティ(三位一体)・・・(ボブ話しながら笑ってふき出す)(笑い)
一つのものとしてそのままにしておくかわりに、彼らはたくさんの概念化をします。

参加者:それはいつもそうです。それは熱心さと言えるほどです。マインドは複雑なことを始めます。それは考えたい。それはそういうものを作りたい。でもそれは重要ではない。私はいつもそれが自分の中でそう機能するのを見ます。それは単純さを好みません。

ギルバート:実際には、それは欲しいとか欲しくないとかなどの力を持っていない。仏教に良い例があります。ブッダの頭に入っていっても、そこには自己はない。でもあなたが仏教徒と話しをすると、彼らは、「あなたはエンライトメントを手に入れることはできない。それを手に入れるには1000回生まれ変わらないといけない」と言います。でも頭の中に入って行っても、そこには自己はありません。2000年後に誰かがこんなことを言うのは明らかにそれが誤った考えになったということです。なぜなら、手に入るものは今ここだけで、それがすべてです。それが私です。それを切り取ることも、否定することができません。本質。それには概念はありません。それがその美しさなのですが、誰もそれを欲しがりません。でも、みんなそれなのです。

参加者:「一つ」という言葉を使うのは間違いです。でも何を使うのが正しいのかわかりません。(笑い)マインドは競走馬のようなものだと感じます。ゲートが開く前の瞬間は複雑な時間です。そしてゲートが開き、すべての問題が・・。

ボブ:その時、自分自身に尋ねてください。「マインドとは何ですか?」。そんなものがありますか? 誰か私にマインドと呼ばれるものを見せてください。そこには独立した性質のあるどんな実体もありません。思考とは何ですか? 思考もまた振動するエネルギーのパターンです。

参加者:ただ単に見えないから、どこが始まりかどこが終わりか知らないから、それが存在しないということになりますか?

ボブ:もしあなたが見えないなら、それは見えないものです。あなたは決して見えない。見ようとしないでください。もしあなたが、それは見えないものだと知っているなら、それについて話す機会はありますか? あなたは見えないのだからフルストップです。

参加者:でも、見えないものもあって、それを経験することもできます。

ボブ:ええ、あなたは存在の感覚がそこにあるのは知っています。でも、あなたはそれを認識しているとか、していないとかいうことは言えません。それはものではない。無です。でもそれを否定することはできません。

参加者:できない(can't)とはどういう意味ですか? 私たちが「できない」ということは、必ずしも答えにはなりません。0+0+0は必ずしも無限の知性や「一つ」にはなりません。私にはわかりません。

ボブ:あなたが全停止(フルストップ)したらどうなりますか? 答えが要りますか?

参加者:もし何も起きなかったら、それはどういう意味ですか? 起こったことを結論づけることはできますか?

ボブ:あなたが全停止する時、そこには認識されないたくさんのことが起こっています。あなたは呼吸を止めていません。あなたの心臓は拡張と収縮を止めていません。体の中で細胞は置き換わっています。食物は消化されています。髪の毛や指の爪は伸び続けています。

参加者:だからです。だから、何も止まってばらばらになりません。髪の毛は伸び、指の爪も伸びています。私たりは消えたりしません。だから、概念化されない意識という概念が私たちにやってきます。

ボブ:でもあなたはそれも概念だということを理解しました。

参加者:その通りです。

ボブ:それであなたは全体を理解しました。概念を持ち、それを理解するというのもまた概念です。あなたはたくさんの概念を持っています。体の中にいる時、あなたはいつも同じように関連する反対の極に向かって考えるということを忘れてはいけません。でももしあなたが言葉は物そのものではないと知っていたら、本質はすべてエネルギーパターンの振動であるということを理解します。全体であるその本質は決して変化しません。

参加者:「概念化されない意識」もまた概念です。どうしたらそれは概念上の意識という概念より確かなものとして理解できますか?

ボブ:私は「確かなもの」とは言っていません。それも落としてください。概念化されないという時、それを表現するために翻訳されています。ただ単に思考を止めて、概念無しで、あなたは何なのですか?

参加者:experience(経験)。

ボブ:experienceing(経験している状態)。経験している状態は今ここで直接起こっている何かです。経験には経験する人が必要です。経験する人はこれを経験します。経験している状態は今ここでこの瞬間直接起こっている何かです。そしてあなたが「私は経験する」という時、あなたは主体、経験者を作り出し、「私はこれを経験する」と言って客体を作ります。そうやって経験することに概念上の主体と客体を作ります。見る働き(seeing)も同じです。ingをつけることによって今ここで直接起こっていることを認識します。そこであなたは「私は見る」と言って、主体を作り出します。「私は椅子を見る」と言って、うわべ上で主体と客体という分離を作り出します。でも調べてみてください。見る働き(seeing)無しで、見る人は存在できますか?

参加者:あなたは私たちに概念を調べるようにと言い、それは概念上の挑戦であり、それによって私たちは概念を超えて行き、経験、おそらく純粋で概念を超えた経験、概念化されない経験をして、その利点は大きく、私たちを解放するでしょう。でもあなたが言うように懸命に見て調査すれば、必ずそれが私に自然の摂理や宇宙の事に関しての洞察や答えを与えると言えるでしょうか?

ボブ:洞察は自然にやってきます。それは言葉や思考、アイディア、イメージとなってやってくるでしょう。あなたがそのことを考えてもいない時に、「あ~!」と言い、その言葉の意味は理解しないかもしれませんが、そんなふうに起こります。洞察を受け取るのはあなたではありません。それが私たちの問題です。私たちは素晴らしい出来事やビジョンを経験し、それを基準点にしてしまい、そこへ帰着するようになります。でも、あなたが経験したものが何あれ、それはもう死んでいて、終わったことだということを理解してください。それは終わったこととして、そのままにしておいてください。あなたが今この瞬間の直接性の中に入れば、それはどんなことでも新鮮で新しく、起きるべきことは起こります。それなのに、どうしてあなたは以前の経験にしがみつくのですか? それはもう起きないというのに。

参加者:わかります。ポインターに取り組むということは、概念を超えて概念化されない意識を達成すること。私たちは概念に囲まれていて、物事の性質が概念なら、実際にはたくさんの概念があり、マインドにも概念があり、そこには二元性があります。そしてあなたが指摘するように、概念も自然の一部なのだと思います。

ボブ:この顕現すべてにおいて、あなたは顕現がそこにあることを否定することはできません。でも、二元的な顕現は実在の定義に適応しません。実在の定義は「決して変化しないもの」です。顕現は束の間のものであり、常に変化しています。思考や感情も同様に束の間のものです。それは現れ続けます。でもあなたがそれをありのままに見て、それが現れ、マーヤーなら、マーヤーは幻影ですが・・・。

参加者:ええ、それが物事の性質であり、それは二元的です。それは私たちをどこへも導かないし、解放もしません。でもそれが物事の自然な性質ですか?

ボブ:物事となって現れているものは実在ではありません。その本質が実在です。しかし、パターンが姿形となって現れるのは顕現としてだけです。一つの本質が振動してパターンとなり、すべてを形作ります。それを理解してください。概念について話していますが、概念とは何ですか? あなたは、概念はメンタルの構築物だと理解しています。もしそれが姿形となって現れなければ、それは単に振動するエネルギーのパターンです。その視点に立つなら、あなたは概念を良い概念と悪い概念とに分割する必要はありません。グルと信奉者の話のように、すべてがそれであると理解してください。ある信奉者がグルにどうしたらよいか尋ねると、グルは「すべては神であることを理解しなさい」と言いました。信奉者の男は、「オーケー、あれも神、これも神、すべて神」と言いました。男がある村にやって来ると、大勢の村人が走ってきて、「急げ、急げ、逃げろ。象が暴れてやって来るぞ」と言いました。男は、「いや大丈夫。おれは、すべては神だと知っている」と言って、逃げませんでした。象がやって来て男を掴まえて木の上に放り投げ、男はあばらや腕の骨を何本か折り、病院に入院するはめになりました。グルが男を病院に見舞うと男は「あなたはすべてが神だと言ったではありませんか? 象は神ではないのですか? 」とグルに言いました。するとグルは、「いまいましい。なぜ村人の言うことを聞かなかったのだ?(逃げろ。象が暴れているぞと)言っていた村人たちが神なのだ」と言いました。(笑い)私たちは、これはそれ、あれはそれではないというふうにはえり好みはできないのです。すべてがそれなのです。でも、すべての本質は無(no thing)です。それは何かとなって現れているにすぎません。そして今まで誰も無を超えて行った人はいません。

参加者:一瞬思考を止めることに成功して、停止状態をできるだけ長く続けることができたとしても、思考はしつこくやって来ます。ある程度、概念化されない意識の中に留まることはできるかもしれませんが、私たちは二元性、二元的な顕現、思考に囲まれることになります。私たちはそういうふうに生きています。私たちがすることはすべて何らかの思考に関係しています。あなたはうわべ上の選択についての話をされます。私は個人的に、こうした思考の攻撃を発見しました。実際は私たちが絶えずそれに逆らっています。それは難しいことではないのですが、なぜ私は自由になるために、私の存在に埋め込まれたマインド、脳に打ち勝つための絶え間のない戦いに繋がれているのでしょうか? マインドは考え、「なぜ」と質問し、二元性を見ます。この戦い、絶え間のない比較はそれ自体が二元性の典型であり、私たちはそこで生きています。そうでしょ? 原因があろうと無かろうと。思考を組み立て、思考を一瞬止めて。どれほどそれをうまくやったとしても、それはその二つの現れ方の二元的な経験です。

ボブ:では、誰が質問者ですか? 誰が「なぜ?」と聞いているのですか? 質問者が質問そのものだということを理解してください。「なぜ?」。もしその質問が聞かれなかったら、そこには質問はありません。質問者がいなくて、質問はあるでしょうか? それは互いに相殺されます。私は指し示すためにたくさんの例えを使います。これはここで以前使ったものですが、あなたが海に行く前に、「バケツ一杯の青い水を汲んできてください」と私が言えば、あなたは「ばかなことは言わないでください」と言うでしょう。なぜならあなたは海の水が青くないのを知っているからです。でもそれでも海の水は青く見えます。あなたはバケツ一杯の水をどんなやり方で汲んでも青くはありません。あなたは海の水が青かったことなど一度もないと知っていますが、それでもそれは青く見えます。そしてあなたは依然として青い海をたたえます。大切なことは、あなたは海へ行って海をたたえますが、バケツ一杯の青い水を汲もうとは思わないということです。いにしえの聖典では、「真実を知れば、真実があなたを解放する」と言います。あなたは真実を知っているので、もはや海の水は青いとは信じてはないが、それでも海の水は青く見えます。それが現れるのを許してください。それが好きなように現れるのを許してください。もう一つの例は、昔人々は浜辺に立って、水平線、海と空の境界あたりを見て、「陸地を見失わないように、さもないと海の端から落ちてしまう」と言いました。今日、誰がそんなことを信じていますか? あなたが浜辺に行って、海と空が出会うあたりを見れば、今でもそこが地球の端のように見えます。でも、そうではないとあなたは知っています。なぜならそれは調査済みだからです。調査され、真実を知る。聖典では「真実を知れば、真実があなたを解放する」と言います。あなたは信じていたことから解放されます。それを現れさせてください。他にもたくさんの例があります。その一つが水の蜃気楼です。道路に水たまりがあるように見えて、車を走らせることができない。でもあなたが一度そこを走っても車が濡れないことを経験すれば、その次にそれが現れてそこを走っても自分の車が濡れないことを知っています。あなたはそこで溺れることもなければ、それを飲むこともできません。同じように、自己の本質についても調査してください。二元性は引き続き現われます。概念も現われ続けます。思考、感覚、感情、も現われ続けます。でも、あなたは一つの本質であり、それがすべてとなって現れ表現しているという真実を知っています。あなたは認識する空、空を知る働きです。空がこの顕現すべてを形作っています。そして形やパターンは空に他なりません。「なぜ?」「何が?」「どうやって?」「いつ?」はすべて消えていきます。そしてそれは自然に努力なく明らかになります。

参加者:あなたがおっしゃるのは、思考の停止に留まる間・・・。

ボブ:思考の停止に留まろうとしないでください。それはできません。思考は起こるに任せてください。しばらくすれば思考は自然にやってきます。あなたが、何かが虚偽であると知れば、もはやそれを信じることはできません。あなたがもはや思考のすべてを信じていなければ、感情や恐れや恐怖がやってきても、強烈さはありません。エネルギーが無ければ何も生きられません。あなたがそれを信じることにエネルギーを注がなければ、それは足場を失います。それは自然に消えて無くなります。何かをできるあなたは今までも、これからも存在しません。私が言ったように、何かをしようとすること自体が抵抗なのです。そして抵抗は葛藤です。葛藤は病です。

参加者:二元的なものの見方をしないということは受容をもたらすような気がします。

ボブ:でもあなたは、私たちがあるがまま残されるということを理解していません。あるがままというのは、改めたり、修正したり、正したりしないということです。それは、受け入れることでも、拒絶することでも、執着することでも、執着しないことでもありません。好みも、ひいきも、他に何でも・・・忘れました。(笑い)気にしません。すべてをあるがままにしておいてください。あるがままにしておくかわりに、受け入れることが起きるかもしれませんし、必要ななすべきことが起きるかもしれません。拒絶が起きるかもしれません。すべてをそのままにして生きてください。それはずっと最初から自由です。恐怖がやって来たら、逃げ出すかわりに恐怖の中へ入って行ってください。もし逃げ出せば、そこには恐怖を抱いた存在がいることになり、それが嫌で拒絶することになります。でももしあなたが恐怖とともにいて、完全な恐怖そのものとなれば、その時それは何ですか? そこにはそれを判断する基準点がありません。あなたが恐怖そのものであるかのように振る舞ってください。その時恐怖はありますか? それは、あなたが今までに経験したことがない新鮮で新しい何かかもしれません。感覚。そしてそれはひとりでに消えていきます。

参加者:母が良いことを言っていました。私が恐怖について話した時、母は言いました。「自分の影を見てみなさい。太陽が燦燦と照っている時、あなたは影から逃げ出して、振り返って影を見たら、そこには何があるの? そこには何もない」

ボブ:そうですね。古いことわざがあります。「あなたが恐れていることをやりなさい。そうすれば恐怖が死ぬことは確実だ」

参加者:肉体的な事に関してはどうですか? 例えば肌に問題が起きて、動きまわったり、金切り声をあげたりしている人が・・・。

ボブ:肉体的な痛みは肉体からの合図、ベルです。体の何かがうまくいっていないというサインです。何かして欲しい、何か世話が必要だという肉体の叫びです。それで医者がアスピリンを処方するか傷口に何かを塗ります。でも、心因性の痛みの場合はすべてメンタルの痛みです。肉体的な痛みは、知性があなたに何かがうまくいっていないと告げます。心因性の痛みは困難で重要な問題で、それはあなたの喉に人工的なかたまりを作り、それがとてもリアルなものに見えます。でももしあなたがそれをよく調べてみれば、思考が原因であり、それは消えていくとわかるでしょう。肉体的な痛みには何らかの原因があります。傷、骨折、リューマチなど。そしてそれは肉体からの、このパターンを何とかして欲しいという叫びなのです。

質問:ある人が他の人に苦痛を与える時、それは二元性の現われなのですか? それとも知性が自分で引き起こしているのですか?

ボブ:先週も言ったと思いますが、こうしたことすべては、自己の衝動を満たすために起きています。どうして誰かをレイプするのか? どうして略奪するのか? どうして人を支配するのか? 自己の中心が思考の中にあると信じているなら、世界中どこであれ、戦争のようなすべての心理的な苦悩が続きます。いいですか。この部屋にいる人は皆、あなたに対して概念を持っています。あなたは皆に対して概念も持っています。そしてあなたは自分自身に対して概念を持っています。いいですか、実在には概念はありません。皆があなたに対して持っている概念も、あなたが自分自身の対して持っている概念も実在ではありません。では一体、誰がより優れているのでしょうか? 誰がより劣っているのでしょうか? もしそういったイメージを守ろうとしないなら、誰もそんなくだらないことは言いません。誰も何かになるために何かを欲しがりません。それはあなたの人生において、全く自然に努力なくやってきて、人生の外へ追いやるか、自然に努力なく消えていくでしょう。でも、内側に自己の中心が続いている場合は痛みや苦悩は続きます。自己の中心を満足させたり喜ばせたりする世界がうわべ上は正当化されます。それが他の人の自己の中心を満足させるかどうかは問題ではありません。

リチャード:私がこの考える能力について気づいたことは、経験を調べる時、ええ、あなたは思考を一瞬止めても生きている、プロセスは続いて、すべては起こっていると言いました。論理的なプロセスは思考を一瞬止めて調べることをさっさとおしまいにして、それは大したことはないと言いたがる傾向にあります。物事を一般的な概念にする場合はその過程が重要視されます。その場合、一瞬思考を止めるということは簡単に片付けられてしまうため、ものごとは複雑な方向に向かうことになります。国連の機能がまさにこれで、私たちは世界平和をそうやって実現しようとしています。わたしたちはそうやって、すべての国を動かそうとしています。そして彼らは世界の動きに関して複雑なシステムを作り上げ、それが重要視されています。それが、私たちが求めているものであるために、それ自身が重いものとなり、複雑で思考に満ちたものになります。

ボブ:それが、私が指摘することです。思考が思考に振動を与え続けます。それは永遠に続きか何か別のものがやってきます。

リチャード:私には、思考を一瞬止めるということを簡単におしまいにいしていると気づいた時はとても力強い瞬間になると思います。その時は自分に「簡単におしまいにする必要があるのか?」と聞くかもしれません。つまり、そのことから逃げようとしているのか? それともちゃんと調べるべきなのか? どうしたらいいのでしょうか?

ボブ:でも、それを話しているのは誰ですか? 私は簡単におしまいにする、と言っているあなたは誰ですか?

リチャード:これは人間が持つ抽象化する能力のプロセスです。そして・・・。

ボブ:そこでもう一度止まってください。またあなたはまた間違っています。それは人間の能力ではありません。それは生命の本質がパターンとなって現れて機能しているのです。それが能力を持っているのです。人間は何もしたことがなかったし、この先することも、何かできることも全くありません。正当に評価してください。生き生きとした生命の本質がこの宇宙全体で機能して現れています。一つの本質です。

リチャード:ところで、なんとかして認識するためのキーはありますか? というのは、時々自分が沈黙を失ったことを認識すのはとてもパワフルだと思うからです。沈黙を失うと自動的に興奮状態においやられてしまうからです。それが起こっていることを認識ことはできますか。

ボブ:もともとあなたはすでに認識しています。あなたの人生においてずっと認識していて、何度もそれを経験していますが、うわべ上不鮮明になっているだけです。つまり、あなたはもうずっと認識していました。ブッダはこれを認識する空と言っています。私たちが空を認識するのではなく、空が認識する、すなわち知る働きの能力を持っているということです。あなたがすべきことは再認識することだけです。思考を止めると何かがやって来るかもしれません。そしてもう一度調べます。そこには再認識があります。それはもっと頻繁に起きるでしょう。そうすればあなたは、思考が間違った方向を見るという古い習慣が始まるのを打ち破ることができます。自然な認識がひんぱんに起きるようになり、あなたが見失うことはなくなるでしょう。あなたは、その停止した瞬間に、かすかな幸福感がそこにはあるのを気づくようになります。私はそれを、「原因のない喜び」と呼んでいます。それは悲しみの反対にある喜びのようなものではありません。「原因のない愛」は愛と憎しみの愛ではありません。一番近い表現は、「自然な状態」「幸福感」です。それは常にすべてが現れる背景として存在しています。あなたはその存在に気づき始めます。思考を止めた瞬間、そこにあるのは単に真空や空虚ではありません。そこには知る働きが内在しています。それは純粋な知性です。

リチャード:それは良いヒントですね。思考が停止した瞬間、そこには起こる理由のない幸せがある。それを認識できるかもしれない。

ボブ:あなたは理解しないかもしれませんが、マインドの平和というのはありません。人々は、マインドの平和について語りますが、それは決してありません。なぜなら、マインドは振動していて、平和な時がないからです。平和はマインドがない時です。そのためいにしえの人たちは「平和はすべての理解を超える」と言いました。なぜなら、それは概念ではとらえることができないし、マインドでは理解できないからです。思考が一瞬止まった時、そこに自然な平和があります。あなたがそこに留まりたいかどうか、より自然に認識し始めます。あなたが自然な本質に留まるようになれば、混乱や複雑さはますます無くなっていくでしょう。あなたは一日中意識してそうする必要はありません。あなたは一度もそれから離れたことがないと理解します。いいですか。曇りの日に外に出て、「空に太陽が無い」と言いますか? なぜ言わないのですか? なぜなら、あなたは太陽が空から去らないことを知っているからです。雲が太陽を見えなくしています。あなたは自分に「何が雲を作っているのか」と聞くでしょう。そしてあなたは太陽自身が雲を作っていることを理解します。そしてあなたは、太陽が直接雲を作っているのではないことを理解します。太陽がすることのすべては、自ら輝くことだけです。太陽は他を輝かせる方法は知りません。その本質は輝くことです。自ら輝くことによって、熱を起こし、水を蒸発させます。それがやってきて、不鮮明にします。太陽がやるのは輝き続けることです。雲や風がやってきては去り、雲が冷えて雨やあられなど何でも降らせます。ただ単に自ら輝く太陽のおかげで、雨が降り、水から地中の種は養分をもらって発芽する。すべて自ら輝く太陽の性質のおかげで、生命は機能しつづけます。そして人はそれを「自ら輝く、永遠に新鮮な、今ここにある意識」と言います。それがあなたです。自ら輝く今ここにある意識の中に、体のパターンが形となり、思考、複雑なもの、良い悪い、何もかもが形となり、現れては消えます。もし太陽が輝かなかったら、雲も植物もないでしょう。生命の本質がなかったら、思考も感覚も感情も何もないでしょう。もう一度、物事は正しく評価しましょう。あなたはそれです。忘れないで。そしてあなたそれを概念で理解することは決してできません。それを否定することもできません。

リチャード:それがキーです。忘れないで。

ボブ:はい。(笑い)

参加者:前回もあなたに言ったのですが、あなたは私の理解を助けてくれました。あなたは私の本当の姿をはっきりさせてくれて、私はそれを理解しました。一方で、マインドは以前よりももっとおしゃべりになり、考えるようになり、思考が駆け巡るようになりました。私はそれを信じなければよいということはわかっているのですが、同時にそれは疲れることでもあります。私が例えばそれを書き出せば、最後にはそれは消えていくとは思うのですが、このことについてあなたはどう思うか聞きたいのです。

ボブ:ええ。あなたはおそらく、ブレーキを外しました。限界や境界をなくしたのです。しばらくの間、おしゃべりは続くでしょう。でもそのままにしておいてください。それは静まっていきます。変えようとしたり、正したりしようとしたり、またブレーキをかけたりしないようにしておいてください。そのままにしておけば収まっていきます。

参加者:一か月ぐらいは狂ったようになっていました。人によって違った経験するのは明らかですが、それが一か月、一年と続くかもしれません。

ボブ:ええ。十分に余裕を持ってやっていますか?

参加者:疲れてしまいます。私はみじめでも幸せでもありません。

ボブ:その状態がまだ定着しないのですか?

参加者:時々は没頭できるのですが、たとえば夜中の一時に目が覚めて、その状態を経験して、朝七時に目覚ましが鳴るまで繋ぎとめておくことはできるのですが、休憩する暇もないほどです。

ボブ:思考にも出口が必要です。そんなふうにはやらないでください。

参加者:そんなふうにはやっていません。

ボブ:そう思いますか? 最後の障害が起こっています。時々はおしゃべりがあり、時々は長い沈黙があります。でも、どちらが好ましいということはありません。なぜなら、どちらも経験(experience)だからです。本当の私は、経験する働き(experiencing)です。それはそれらをもたらしたり、追いやったりすることはできません。そのままそれと留まってください。経験をどうすることもできません。思考とは何ですか? おしゃべりとは何ですか? それは取るに足りません。なぜなら、それは生命の本質無しでは起こってこないからです。それはあなたの本質、本当のあなたをを明確に示すものです

参加者:あなたがした花の話が好きです。花が自分で養分を吸収するように、マインドも自ら供給します。花が自分で養分を吸収するのを見て、世話をするのを止めると、最後には枯れてしまいます。そして静寂がやってきます。ボブが言うように、マインドがやってきても問題はありません。今、床に置いてあるおしゃべり箱のモンキーようにそれはそのままにしておいけば、何の問題もありません。ある意味、マインドは自身を見つけるようにできています。思考は思考を見つけるようにできています。思考に思考の中にある静寂を見つけるようにさせます。

ボブ:あなたは静寂を探す必要はないということを理解してください。もっとこの部屋に静寂があって、それは何ですか? もっと静止があって、動きはどうですか? 外へ行っても同じことです。音や動きが現れるベースとなるものは、いつもあなたとともにあります。あなたは座って一人になる必要はありません。それはすべての背景にあります。

リチャード:それはあなたから以前聞いたことに似ています。どんな環境でももっと静寂がある。どんなスピーチや雑音の中でも静寂がある。単に気づくだけのこと。

ボブ:ええ、気づくだけ。いつもそこにあります。

参加者:たいていの人は思考や雑音という部分にとらわれていいます。私は自身を雑音の中に置きます。それが雑音から出る唯一の方法だからです。雑音をそのまま起こるがままに任せます。たいていの人は雑音の中にいて雑音を探します。雑音の中で何か物を探そうとします。でもそこから出て、一歩さがって見れば、静寂が雑音の中にあるのがわかります。それはまるで、塀に囲まれた場所のようなものです。あなたが歩いていて、塀の割れ目から覗けば中が見えます。でも割れ目から見ないで塀を見ます。塀は雑音です。塀を見ないで割れ目から中を見れば、中は空間です。割れ目は広大な空間です。塀以外は空間です。塀は思考です。いつでも立ち止まって、割れ目から中を覗くことができます。そこには広大さがあり、永遠です。私の言っていることがわかりますか?

リチャード:ええ。塀の話は以前も話したと思います。塀の横を通って、囲いの中や空間を見るには塀ではなく、小さな割れ目です。そこからあなたの意識が中へ入っていきます。それはいい例えですね。

ギルバート:また別の例えです。実際にあなたはいつも、見る働きの中で起こっていることすべてを見ています。分離した存在としてのあなたは、見る働きの中で起こっていることすべてを自分が見ていないとは思っていません。洞察の本質は見る働き(seeing)です。洞察はやってきては去っていきます。アウエアネスの内容物は現れては去っていきます。あなたが、思考の二元性を見ようとすれば、実際にはそれは起こっていないと気づきます。それは束の間現れては消えていきます。見る働きとは何ですか? あなたはどこから見ていますか? 私たちはいつも外を見ています。そして自己のアイデンティティーを物や状況や出来事、感情、他に何でも、それはここかもしれませんが、の中に見つけます。でもそれは単に幻覚、マーヤーです。私の本当のアイデンティティーは実体を持たず、他のことから離れて独立した性質を持っていません。でも、思考や物に同化してしまうと、「私」はこのうわべ上分離した存在に何か実体を与えようとして何かにしがみつこうとします。でもそれは見せかけにすぎません。本当の自分は物ではありません。この知る働きを満たすものです。知る働きが起こっていることです。そこには、知る人も知る事もありません。知る事は、いわゆる出来事や物として現れては消えていきます。今この瞬間が実際にあるだけです。そしてあなたは今この瞬間から出ることはできないと理解するでしょう。今この瞬間に留まるために、練習したり、メソードをやったりする必要はありません。あなたは決してこの瞬間からは出られません。ボブ曰く、あなたはもうそれなのだという事から始めください。そうすればとてもシンプルです。真実はいつもシンプルです。私たちの問題はすべて、いわゆるジグソーパズルの複雑さの中にあります。私たちは一つのピースが欠けている、どうしてもそれを見つけなければと思っています。でもそのすべては単に空想です。それはまるで鳥かごのようなものです。あなたが鳥かごのドアを開けても、鳥はそのまま動こうとしません。私が指摘したいのは、鳥かごのドアが開いているということだけではなく、鳥かごそのものが存在しないということです。あなたはもうすでにそれなのです。あなたはもうすでに自由なのです。何もなすべきことはないのです。どこかへ行く必要も、何かを手に入れる必要もないのです。ただ単に、すべては完璧であると理解するだけです。

リチャード:あなたが私たちは皆外を見ていると言う時に気づきました。私はあなたを見ている時、左右、上下を見て、下を見て、この言葉はどういう意味だろうと考えていて、理解できることもあれば、理解できないこともあると気づきました。というのも、私は外を見ていて、ここや、自分の反応を、例えば目撃者になって横に立って見たり、ここにリチャードがいてギルバートを見ていたりというほどには見ていませんでした。私はそれをこの部屋全体の会話として聞いていたのではなく、私の前にあるスクリーンのような感じで見ていました。私は今このパートに参加していなかったかと思ていて、あなたが「いつも外を見る」言った意味がわかりませんでした。

ギルバート:ええ、一般的に、それは人々が今進行している世界や今起こっていることが嫌いで、それゆえ何かを理解したり、避けたりするドラマを演じるたりしているのだと思います。ニサルガダッタはとても興味深いことを言っています。「be conscious of the consciousness 意識を意識していなさい」。それがすべてです。とてもシンプルです。Being present to the presence that you are .だ単に、本当の自分という存在でいること。すべては意識です。この知る働きの活動とは意識のことです。分離は消えます。もう問題はありません。それはとても微妙なものです。それがまるで、自由を提示されて、「わからない」「まだ準備ができたていない」「また後で」「明日」。

リチャード:ええ、自由を提示されて「ああ、それだ。もうすぐそこに着く」(笑い)

ギルバート:まさしく。それが皆がやることです。たくさんの人があなたに自由を手に入れる方法を示してくれます。これをやって、あれをやって。

ボブ:リチャード。あなたが聞いている時、どこから聞いていますか?

リチャード:私がいないということを理解してからは、よくわかりませんが、部屋全体を見ているだけです。洞察が全部を包んでいます。

ボブ:分離したあなたが聞いているのではなく、聞く働きがあるだけです。

リチャード:わかります。以前は「私」という分離した何かがここにいるという無意識な何かがありましたが、それは仮説の塊のようなものです。

ボブ:それがあなたが何年も抱いてきたもので、今、外側も内側もないという理解が始まりました。ただ、聞く働き、見る働き、味わう働き、触れる働き、嗅ぐ働きがあるだけです。外で車が走る音がしました。あなたは、私がここからそれを聞いていると言うことはできますが、あなたはどうですか? 一方の端を取り払ってください。車がある場所を取り払ってください。そういう経験です。オーケー、時間です。

(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)