2019/03/27
The Spiel ⑯ (2019.8.3公開)あなたは完璧そのものです。
You are that Totality - Sailor Bob Adamosn interview episode 5, final pointers
もしあなたが自身に向かって、それは誰に起こっているのかと尋ねる時、自分という存在を信じているために、その自分という存在が実在かどうかを調べようとするでしょう。
何かが起こって、それは誰に起こっているのか?とあなたは尋ねるのですが、明確な答えとしては、それは私、ボブ、自己の中心、イメージに起こっていると答えるでしょう。
そしてあなたは、ではこの私とは誰なのか?と尋ねます。どうしたらいいでしょうか?
あなたは、答えはマインドの中にはないということを理解するでしょう。なぜなら、あなたは何年もマインドの中を探したからです。マインドの性質は振動することです。それは振動し続けます。
マインドの外に出るにはどうしたらいいでしょうか?
あなたは生涯にわたりマインドの中を探し、答えはマインドの中にはないと気づき始めました。なぜならマインドは振動し続けるからです。
どこを探したらいいでしょうか?どこを探しても、それはマインドの中です。マインドから外へ出るにはどうしたらいいでしょうか?
そしてあなたは気づき始めるでしょう。マインドから出る唯一の方法は全停止です。
停止してください。
マインドに続けさせないで。その先へ行かないで。
マインドなしで何を言うことができますか?
マインドが停止していて何を言うことができますか?
そこに何かがあると言うことができますか?
ほんの一瞬停止することができるだけで、おしゃべりはまた始まります。
でもその停止しているほんの一瞬かそこらのうちに、見る働きは停止していないことに気づくでしょう。
聞く働きも停止していません。
呼吸も止まっていません。
機能、生命の本質はそのまま働いています。でも、思考は止まっていました。
毎晩眠りに落ちる時に起きることは、「私はある」という思考を手放すことです。
もしあなたが、その思考だったとしたら・・・。あなたは、自分はその思考ではないということを知っています。
あなたがその思考なら、あなたは道に迷ってしまうはずですが、あなたは毎晩喜んでその思考を手放して眠ります。何のためらいもなく、喜んで眠ります。
ですから、あなたはその思考ではありません。
そしてあなたは経験します。
もし今そのことを考えなかったら、何が問題だというのか?
もう一度言ってください。車が通りました。
もし今そのことを考えなかったら、何が問題だというのか?
もう一度言うと、
思考なしで、そこには何があるかを見てください。
思考を超えて見てみてください。
そして言うでしょう。
「私は思考なしで見ています」
それはまた別の思考です。そしてそれも捨てます。
次は何ですか?
私は思考を捨てた。それも思考です。
くそ、すべて捨てなくてはいけない。
それも思考です。
あなたは突然それも手放すことを理解するでしょう。
自分は概念、もしくは思考で理解しょうとしていて、それはいつも別の思考をもたらしていたということを。
もしあなたが思考なしで見ると、そこにはわずかな中断、隙間があります。そしてその隙間がだんだん長くなっていきます。
思考はやって来続けます。でももしあなたがそれを見抜いたなら、もうそれを二度と信じることはできません。
信じることができなければ、信じるエネルギーはそこに留まることはありません。
それは動いていきます。それは必ず動いていきます。それは一時的なものです。
思考や信念がそれをそこに留めているにすぎません。
数日、数週間、時には数年の間、身につけた概念上のイメージがそこに残ります。
それは条件付けと呼ばれています。
心理的な苦悩は取り除くことができる、心理的苦悩、心配、不安、怒りはもはや不要であるというのは本当ですか?
そのとおりです。
それはまたやってくるでしょう。以前なら、それは数日、数週間は留まっていました。
なぜなら、あなたはそれと葛藤していたからです。それをものごとに関連づけ、取り除こうとして、それをそのままにしておきませんでした。
そこには葛藤、抵抗がありました。
どんな抵抗も葛藤です。そしてどんな葛藤も不安(un-easy-ness)、すなわち病気(dis-ease)です。
病気は心配であり、恐怖であり、不幸であり、憂鬱です。これらはすべて病気(dis-ease)です。
それでも、それは現れます。それを「苦悩」と呼ばなければ、それは消えていくのですか?
いいえ。それは、しばらくはそこに留まるでしょう。
でももしあなたが、もっとその正体を見抜くようになると、それがあなたを悩ますことはもっと少なくなっていくでしょう。なぜならあなたはもうそれを信じることはできないからです。
もしあなたが、何かを偽ものだと見抜いたら・・・、あなたはもう地球が平であるとは信じることはできません。あなたはそれが嘘だと見抜いたのです。
あなたは、もう海の水は青いと言うことはできません。あなたはそれを見抜いたのです。
あなたは、海と空の出会う場所が地の終わりだとは決して言いません。なぜですか?
それはそのように見えます。そのように見えても、あなたは真実を知っています。
あなたはもはやそれを信じることはできず、それがあなたを長く悩ますことはありません。
あなたが、青い海に騙されることはありません。
あなたは、朝、雲が太陽を覆っているのを見て、太陽が空から去ったということはありません。あなたはもはやそう信じることができません。なぜなら、たとえ太陽が見えなくても、そこに太陽がいつもあるということをちゃんと知っているからです。
たとえ見ための上では個人がいるように見えても、それが真実ではないとあなたは知っているのですか?
そうです。もしそれが嘘だと見抜いたら、どうしてそれを信じることができるでしょうか? もしそれが真実でなかったら、どうしてそれを信じつづけることができるでしょうか? あなたは信じ続けることができますか?
もし信じ続けなかったら、それは去っていきます。
そこには執着することのないアウエアネス。それがあるだけです。
言われているように、完全に五感を広く開いて目覚めていてください。
あなたが五感を開いている時、見る働き、聞く働き、味覚の働き、触覚の働き、嗅覚の働き、思考・・・すべての感覚が働いていて、あなたは完全に目覚めています。
でも、「私」として機能している時は自己の中心から機能しています。
その場合は、ただ単にどれか一つしか機能していません。
それが何であれ、見る働き、聞く働き、味覚の働き、触覚の働きのどれか一つだけ。
たとえ今、他の働きが進行中であるとわかっていても。
今、車が走っているのが聞こえますか?
ええ。
それが背景にあります。
それでもあなたは、私と私が言うことに注意を向けています。
はい。
風に揺れる洗濯ロープの洗濯物を見てください。
私たちはそれを見ていますが、それは背景にあって、気に留めることはありません。
風を肌で感じることができますが、少しも気に留めません。
五感を完全に開いてという意味は、他の働きを背景に追いやらないで、すべての働きを同じように働かせるということです。
見る働きと同じように、聞く働き、味覚の働き、触覚の働き、嗅覚の働きも。
何かに焦点を合わせることなく、五感を完全に開いてください。
どれか一つに焦点を合わせるのではなく、起こるがままに任せて、それぞれの感覚とともにあってください。
もし必要なら、見る働きをそのまま背景に残したままにして、聞く働きや、他の動きに焦点を当てます。
静止した状態から動いているものを見るためには、動いている対象に注意を移す必要があります。でもあなたはその対象に執着することなく、完全性の中を動いていきます。
あなたは、その完全性です。
あなたは、「私は全体を一つにまとめて完全にしなければならない」「私は覚醒するつもりだ」と言う小さな分離した存在ではありません。
そうしたことをするためには時間が必要です。
時間という概念のために・・・。
時間は継続であり、そのようなものは存在しません。
個人がいる余地はないのですか?
ありません。あなたは理解しています。
人々は何年にわたって、あれやこれやと試みます。
でも、個人という存在を信じていようがいまいが何の違いもありません。
やがてパターンは崩壊し、姿形は分解していきます。
それでも人々は不必要な心理的苦悩にとらわれてしまいます。
あなたが今それを認識していようがいまいが、私はもうすでにそれなのだ、という事実から始めてください。
それを知っていようといまいと、あなたはもうすでにそれなのだ、という事実から始めてください。「私はある(I am)」に何を付け加えることができるでしょうか?
概念を付け加えることなしに、「私はある」に何を付け加えることができるでしょうか?
その時あなたは、山上のモーゼのごとくとなります。
山上のモーゼはユダヤ人たちの面倒をみなければなりませんでしたが、それをするための人がいませんでした。
彼はあらゆる種類のトラブルに会い、言いました。
「彼らを救い出すために何かしなければならない」
そして、その時そこで、内在する知性から、生きていくための一連の規則がやってきました。彼は一組の十戒の石版を授かり、言いました。
私は今これを持ち帰って人々に告げなくてはならない。
彼らに伝えるためにはどうすればいいのか。
誰が彼らに伝えるために私を遣わしたのか?
彼はそれを「私」からとして伝えるつもりはありませんでした。
その時ふたたび内側の声がしました。
「私はある(I am)」が、あなたを遣わしたのだと彼らに言いなさい。
「私はある(I am)」が私の名である。
そしてモーゼは理解しました。
くそ!私がその「私がある」なのか。(I am that I am.)
私はずっとその「私はある(I am)」だった。
そして彼は、その時その場で自らの本質を理解しました。
くそ! 私がその「私がある」なのか。(I am that I am.)
(2人笑う)
くそ! その「私がある」ではないものは何ですか? すべてがそれです!
ええ。すべてが「私はある」です。(Yes, everything is that I-am-ness.)
それがニサルガダッタが言っていることです。
彼は「私はある」とともに留まりなさい、と言っています。
思考のことではありません。
存在の感覚、それがあなたなのですが、その知る働きがマインドを通じて翻訳されて、思考の「私はある」となって現れます。
そして偉大なマントラでは「私はそれなり(I am that.)」と言います。
私がその本質です。それが思考として翻訳されます。でも、思考や言葉は物ではありません。
それは本当に本質ですか? それは本当に一つのものですか?
それともそれは空ですか? それとも何もないものですか?
いいえ。あなたはそれにどんなラベルも貼り付けることはできません。それは物ではありません(no-thing)。それは常に物ではありません(no-thing)。
この顕現に現れるすべてのパターン、姿形はすべて単なる物にすぎません。
では、物が何もないところから生まれることがあるでしょうか?
すべての物は空の空間に現れています。
空間は空です。それは概念化されません。
それは永遠の静寂、静止、空です。
その認識する空が振動して様々なパターンや姿形となって現れますが、それはすべて空の中にあらわれた物です。
物が無(nothing)から生まれることがあるでしょうか? ありません。
ということは、そうしたパターンや姿形でさえ、何もないもの(no-thing)が現れたものであり、見ための上では物のように見えているにすぎません。
ということは、一つの本質でさえも一つではないのですか?
ええ。
それをマインドで理解することはできません。マインドが理解できるのは物だけです。
そのとおりです。何もありません。
一つの本質がパターンとなり、姿形となって現れ、すべての物となります。
あなたもおそらく、それ以外のものではありえません。
ということは、あなたは体でもマインドでもありません。
あなたが、「我はそれなり」と言う時、自分は人間だという考えを抱いていませんか?
あなたは完璧そのものです。
それがすべてです。私はその本質であるということから離れないでください。
でも、私たちがそのことをマインドでは理解できないのに、どうして私たちが探す道具はマインドしかないのでしょうか?
ええ。それを使います。マインドはとても役に立つ道具です。
考える能力はとても役に立ちます。
顕現の世界であなたがこうしたものすべてを手に入れ、私がそれを築き上げたと言います。
私がその絵を描いた。私がそれをやった。私がこれをやった。私があの本を書いた。
そしてもう一度言います。生命の本質を体から取り去ったら、それでもマインドや心臓、その他のこともそこにはありますが、あなたは生命の本質なしでマインドで本を書くことができますか?
生命の本質なしで家を建てることができますか?
生命の本質なしで思考、感覚、感情を持つことができますか?
何がそれをやっているのですか?
個人という存在は何もしていません。それは何もできません。
生(life)が人を通じて表現しているのです。
生(life)がその姿形に、考え、感じ、触れ、嗅ぎ、すべてのことを可能にしているのです。
考え、働きかけるという驚くべき能力は、生命の本質(Life-essence)の働きです。
それが、あなたとして、あなたを通して表現し、生きています。
ということは、あなたはその生命の本質に違いありません。
人々は自らを人だと思って過小評価しています。
自らを制限しているラベルを取り除いてください。
もう一度繰り返します。
私は完璧そのものです。
あなたは完璧そのものです。