2019/03/12
The Spiel ⑦ (2016.2.7)
(2016.02.7 私、拓はこのミーティングに出ていました。質問はしていませんが、最後にボブが私の名前を呼ぶ場面があります。2016.2.8ブログ)
2020.6月追記:リンク先のサビーナのサイトから、セイラーボブ関連の動画が全部削除されてしまいました。そのため、Spiel の中にある数本のYouTube は、訳文のみの掲載となりました。
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基本から始めます。何百回も聞いたことがある人がいるかもしれませんが、いつも違った意味を含んでいます。何万回聞いても共鳴しない場合もあるし、すぐに共鳴する場合もあります。私たちは基本から離れることはできません。なぜならそれがすべてだからです。
ここではあなたに何も教えません。それを理解してください。何も伝えません。私が示すポイントを自分で調べてみるように求めているにすぎません。それが最も大切なことです。あなたが何を信じていようと、誰かがあなたに何を言おうと、あなたが何かを受け取ることも、誰かがあなたに何かを教えることもありません。
基礎となっているのは何か新しい考えではありません。調べてみるとそれは、すべてのいにしえの伝承の基礎になっているものです。それはあなたに、万物は一つであると教えています。ヒンズー教ではそれを非二元と言います。そしてそれを、「他には何もない一つのもの」と表現します。
一つという考えでさえ、他に何かあることを暗示しかねないので、「他には何もない」と付け加えています。それによって、他には何もないことを示しています。基本となる原初のマントラに「I am that. They are that. That is that.我はそれなり、彼らはそれなり、それはそれなり」というのがあります。それは単に言葉であると私たちは知っています。
「This is a chair. This is a car. 」これは椅子だ、これは車だ、これはフィルムだと、私たちはものごと(thatness)にラベルを貼り付けます。どうして私たちはそうやって物事(thatness)を表面上不鮮明にしたり、見失ったりしてしまうのでしょうか? それ(thatness)はすべてですが、それには姿形、前後、始まり終わりはありません。
仏教では同じことを違った言葉で表します。「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識」です。「ただそれだけ、他には何もない」と付け足して、それがすべてということを強調しています。今ここにある意識(presence awareness)。この部屋の中で、意識のない(not aware)人はいますか? その今ここにある意識がない人は?
頭の中のどんな思考や概念が見せかけを不鮮明にしているのですか? アウエアネスが無かったら、私は存在することができますか? キリスト教の伝統では、「神は全能、全知、偏在」と言います。それは三つのことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面のことを言っています。
偏在は完全な存在。全能は完全な力。それはあなたの力や私の力や、高パワー、低パワー、中パワーではありません。それは完全な力です。全知とは完全な知性です。私はあなたの知性のことを言っているのではありません。パターンとなって、姿形となり機能して、顕現として現れているものと同じ知性のことを言っています。
どうして顕現は知性に満ちていると言えるのでしょうか? それは、あなたと呼ばれる体の心臓を鼓動させ、呼吸させ、爪や髪の毛を伸ばしています。そのことはそれが知性に満ちているということを暗示しています。あなたは「次の呼吸をしよう」、「次の思考は何だろう」とは言いません。こうしたことはすべて、自然にひとりでに努力なく起こっています。
そしてあなたは自身を認識し始め、どうしてそれ以外のものでありえようかと考え始めます。それがあなたの問題です。私たちはそれを個人、人(person)、分離した存在だと思い始めます。人(person)という言葉はどこから来ましたか? それはいにしえの言葉、persona(仮面)、マスクから来ています。
そのマスクを自分たちの存在証明として概念上の「私」というイメージに被せました。そしてあなたはそれを外見上は真実として信じるようになりました。あなたはマスクですか? そうではありません。でもあなたはこのマスクを概念上のイメージとして手に入れました。
ニサルガダッタは「あなたの想像以外、あなたを苦しめるものは何もない」と言いました。imagination(想像)を細かくすると、image inです。私たちはイメージを作り出しています。パターンや姿形を実在と思っています。それは単なるメンタルイメージにすぎません。いにしえの人たちは、顕現はマーヤー、幻影であると言いました。
それはそう見えているにすぎません。それは見せかけ(phenomena)の顕現です。見せかけの辞書の定義は「そのように見える」です。すべて見せかけであることを指摘しています。シェイクスピアは言いました。「何も良いとか悪いとかはないが、思考がそうしているだけである」と。
あなたが何かを考える時、これは良い、これは悪い、あれはビル、これは私、それはあなたというふうに概念上のイメージを貼り付けます。その分離感がすべての私たちの問題の原因となります。それは、非二元、他には何もない一つのものからの分離です。ユニバース、universe(宇宙)とはなんですか? 何万というパーツですが、ただ一つです。
私たちは、個人、パーソン、分離した存在という考えを持ちました。私はあなたにそれを調べて、本当にそうなのかを調べるよう求めています。誰もそれをあなたのためにはやってくれません。でももしあなたが、私が示すポイントに沿って本当に調べれば、あなたは自分が何なのかを知ります。
人々は、どうやって調べるのかと聞きます。あなたはそれをすることはできません。内在する知性が聞いていて、自然にひとりでに調査が起きます。自分で調べてみてください。調査すれば、虚偽は調査に耐えないとわかるでしょう。いくつかの信じていることはそのまま続くか、調査によって落ちていきます。
信じていること(belief)という言葉を調べてみてください。信じていること(belief)の定義は「理由なく、疑わずに受け入れること」です。疑わしい事実を受け入れることです。
来客中断。
これらのことをテストしてください。この体とマインドの存在という考えが、この考えを受け入れて、継続的にそれを強化しています。私たち自身だけでなく、両親、学校、社会などが強化しています。あなたこれだ。あなたはあれだと。あなたは人ですか? あなたはその個人ですか? あなたは、あなたがそうだと信じている体とマインドですか? あなたは体ですか?
調べてください。それを調査してください。あなたは、その体の中で、そこから体が始まったという明確な場所を見つけることができますか? それはどこから始まりましたか? 私には見つけることができません。あなたはできますか? この体は何でできていますか? あなたはこの体が構成要素でできていると理解するでしょう。
空気、土、火、水、空間。ちょうどあなたの周りにある構成要素と同じです。この顕現はすべて構成要素でできています。あなたが自分は個人、分離した存在だと言うなら、あなた自身をその構成要素から切り離すことができますか? 自身を空気と切り離してください。空気無しでどれほど持ちますか?
水を体から取り出してください。体の80%は水です。水なしでどれだけ持ちますか? 体から体温と取ってください。体温は火です。その構成要素は火です。できるものなら地球から出てください。空間から出てください。調査してみると、あなたは自身をそれから切り離せないとわかります。あなたは空間の外へは出られない。あなたは呼吸を長くは止められない。
あなたが調べてみると、あなたはそうした構成要素とは全く分離していないとわかります。それらを構成している要素を分解して、もう少し調べてみましょう。それを分解すると小さな粒子となり、さらには純粋なエネルギーとなります。そこであなたは、この肉体はエネルギーの振動パターンだと理解します。
この地球が顕現として現れているのと同じです。それはマーヤー、幻影です。それはすべてエネルギーの振動パターンです。あなたはこの体が独立した存在、独立したものだと言うことはできません。マインドとは何でしょう? 私たちは「この体」「このマインド」と言います。あなたは自分をマインドだと考えていますか? マインドを見せてください。
何をマインドと呼んでいますか? できるなら、それを見せてください。あなたはマインドと呼ばれるものを私に見せることはできません。そのようなものはありますか? あなたが調べてみると、マインドと呼ばれるものは思考に他ならないとわかります。思考は続いていても、それを掴むことはできません。
思考とは何ですか? 繊細なレベルでは・・。思考を見てみると、考えている時はそのパターンの中に何か繊細な動きが続いているのがわかります。それが言葉としてやって来た時、ちょうどこの言葉のように。言葉とは何ですか? 言葉とは音です。では音とは何ですか? 音とはヴァイブレーションです。ヴァイブレーションはエネルギーの動きです。
この体もまた、マインドや自然そのものと同じようにエネルギーパターンの振動です。私はここでは神という言葉を使いません。というのもあなたはその言葉で混乱してしまうからです。なぜ混乱してしまうかというと、私たちは異なる伝統や信仰の中で生まれ育っているからです。
ある人はクリスチャンとして生まれ、ある人はヒンズー、ムスリム、ユダヤ、不可知論者かもしれない。どのような信仰を持っていても、最初あなたは伝統的な信仰と結びつけしまい、指摘されたことをそのように理解してしまう。神という概念を持っているためにそれは起きます。そして理解しません。
神は男であるに違いありません。なぜならあなたが神についてそういう概念を抱いているからです。そしてマインドは反対の極へと動きます。神の反対は悪魔です。神は天国と呼ばれる場所に住んでいて、その反対は地獄です。あなたの中にある神聖さは概念化されないものです。それはパターンが姿形となって現れて、この宇宙を機能させているものと同じ本質です。
私は知性エネルギーという言葉を使います。でもそれはラベルにすぎないことを理解してください。それもまたそのものではありません。私たちはすべての物に言葉を貼り付けます。私が知性と言う時、あなたの知性のことを言っているのではありません。この部屋には様々な程度の知性がいます。ある人は人より賢く、ある人はそうではないかもしれません。
私が言っている知性については、自然を見てください。あなたはそれを自然の中に見るでしょう。あなたはそれが機能するやり方の中にそれを見るでしょう。銀河が形成され、惑星が動き、地球が太陽の周りを回り、季節がやって来ては去っていき、潮は満ちては引く。それは、この顕現の中のすべての粒子が知性に満ちていることを暗示しているのではないですか?
あなたは自然と違っていますか? それと同じ知性が呼吸を司っています。それが心臓を鼓動させ、爪や髪の毛を伸ばし、食物を消化しています。それは細胞を置き替えています。あなたはそのことについて、分離した存在として何をしていますか? あなたは呼吸をしようとか、心臓を鼓動させようとさえ言いませんでした。
それは自然に努力なく知性的に機能し続けています。同じようなことを調べてみましょう。あなたが自分だと信じているこの「私」がすべてやっていると思っていて、そのことにたくさんのエネルギーを使っています。そしてそれが、自然なあなたの状態を見えにくくしています。あなたは、自分がこの体とマインドの存在であると言う事はできません。
もう一度、もっと詳しく調べてみましょう。それはいつ始まったのですか? みなさんは「私は生まれた」と言うでしょう。あなたは実際に自分の誕生を覚えていますか? あなたはそれを覚えていません。ということは、それは完全に証明できる事実ではありません。あなたは自身の誕生を覚えていません。
あなたは、いつ、どうのように始まったのですか? 私が知性エネルギーと呼んでいるものが、あなたの父親、母親の中で動き出すまで遡ることができます。あなたの父親が食べた食べ物から、非常に小さな粒が生まれました。それは精子を呼ばれています。同じように動き出した知性エネルギーが母親の中でパターンとなり姿形となって卵、卵子と呼ばれる非常に小さな粒を作りました。
卵子は肉眼では見えないほど小さなものですが、知性に満ちていることを暗示しています。というのは、それはどうしたらよいかを知っているからです。そしてもう一つの同じ本質、精子と呼ばれる非常に小さな粒は、卵子に泳ぎ着きます。それには泳ぐ能力があります。内在する知性エネルギーはどうしたらよいかを知っています。
二つは一つとなって胚となり、さらに二つに細胞分裂します。そしてまたふたたび二つに分裂します。二つが出会った時に、今日のあなたの青写真がもうありました。そしてそれは成長し、パターンとなって現れ続けています。それでどうして私たちは人、個人だと言うことができるでしょうか?
そう言うことはできます。でももし真実を知ったならもう、自分は独立して自立する存在であるということに縛られることはありません。あなたは、同じ生命の本質がこの現れとなって機能していることを理解するでしょう。あなたはその生命の本質です。私たちは言葉によって、境界、限界を設けていることを理解してください。
言葉は物ではありません。言葉は決して実在ではありません。調べてみてください。水という言葉を見てみましょう。あなたは言葉を飲むことができますか? あなたは言葉で洗濯ができますか? 言葉の中を泳ぐことができますか? 溺れることができますか? あなたは言葉ではそうしたことができないと理解するでしょう。
火という言葉であなたの口をやけどさせることはできますか? 言葉で料理したり暖めたり乾かしたりはできません。どうして「I・私」や「me・私に」はそれほど重要なのでしょうか? あなたは「I」や「me」に、形や概念上のイメージを与えています。自分自身に見せかけの実体、独立した性質を与えています。
それは二歳か二歳半までの幼い子供には起こりません。子供は言葉を知らずに生まれます。子供は、見て、聞いて、触れて、味わって、嗅いで、物事を区別したり、ラベルを貼り付けたりしません。子供はまだ言葉を学んでいません。子供は自然の興味によって自然に機能し、自然に行動しています。
好きなら掴み、気に入らなければ押しのけ、お腹が空けば泣き。嬉しいとか何でも子供が自然にひとりでに機能しているのを見てください。二歳か二歳半のころに考える能力が子供に発達します。その能力は鳥や動物よりもはるかに発達した人間の持つ考える能力です。鳥や動物たちは私たちが持っていない特別な能力を持っています。
鳥を見てください。鳥は私やあなたよりもはるかに良い視力を持っています。彼ら飛ぶ能力を持っています。私たちは飛ぶ能力を持っていません。私たちは普通飛べません。でも私たちは考える能力によって、メガネ、双眼鏡、望遠鏡などの見るものを、飛行機、ヘリコプター、カイト、バルーンなどの飛ぶものを作りました。
その能力はとても役に立つ能力です。でもそれは自己破壊的でもあります。同じ考える能力が、「私は十分ではない」「私は怖い」「私は不幸だ」「私は憂鬱だ」「私は不安だ」と「私」に言うからです。エネルギーの動きとしてのヴァイブレーションは関連する反対の極へと動きます。
マインドがそういうふうに機能するかしないのを見てください。過去を調べれば、それは記憶であり、未来は期待の想像であるとわかるでしょう。あなたは先週や去年まで遡ることができます。あなたは明日や来週何が起こるかと想像することもできます。
善悪、過去未来。この思考がどれほど機械的なものかがわかるでしょう。善悪、快不快、喜び悲しみ、愛と憎しみ。マインドを見てください。そしてマインドがそれ以外のやり方で機能するかどうかを見てください。そして私たちが貼りつけているラベルは、私たちが学んだ言葉であるということを理解してください。
シェイクスピアは言いました。「何も良いとか悪いとかはない。思考がそうしているだけである」と。ニサルガダッタは言いました。「あなたの想像以外、あなたを苦しめるものはない」。あなたの想像(image in)、概念のイメージやメンタルのイメージ以外。そしてそれはある種の現実や実体を作り出します。
imagine(想像)。私はあれを想像する。これを想像する。などなど。すべてのイメージは実在ではありません。私たちは考える能力によって、メンタルイメージを作ります。私たちは両親から言葉を学びます。両親もまた彼らの両親から言葉を学び、それによって考える能力が身につきました。私たちはそうして言葉を学びました。
言葉が現実ではないことを見てください。私たちが言葉を学ぶ時には真実を見ません。両親が「ジョニーはいい子だね」「あなたはいい子ね」などと言うと、その言葉を現実だと受け止めます。言葉は「私」や「私に」と一緒にやってきます。幼いジョニーは「私はジョニーだ」「これがジョニーだ」と思い始めます。
子供の時はあるがままに見て何の努力もなく自然にひとりで機能していたことがすべて、手に入れたイメージに関連付けられます。これが「私」、「ボブ」。外を見て何か自分とは相容れないことがあると、「それは私ではない」となります。その感覚がやって来た時、分離の感覚が生まれます。
それは私ではない。当然幼い子供は分離の感覚を持ちます。その分離の感覚とともに、不安と傷つきやすさがやってきます。幼い子供は以前のように安全や安心を感じることができません。私たちは他の言葉も学びます。私たちは「私」ではそれほど多くのことはできません。これらの言葉はすべて学んだものです。調べて見てください。
今までに話した言葉や、これから話そうと思っている言葉はすべて途中で学んだものです。というのも、あなたがこの世界にやってきた時、言葉と一緒ではなかったからです。一言も一緒ではありませんでした。すべては学んだものです。そしてそれを信じて、言葉を現実のものとして受け入れています。
あなたは「私」や「私を」では多くのことはできません。それで子供はどうするでしょうか? 「これは私ではない」「あれは私ではない」「幼いジョニー」「ボブ」「私は幼いジョニーだ」。言葉や概念を幼いジョニーだと思うようになります。「私はいいやつ」「私はそれほど幸せではない」「怖がり、心配症だ」などと。
私たちは自分自身に対して、メンタルイメージを作ります。そのメンタルイメージは自己の中心、基準点、エゴと呼ばれています。エゴは概念上のイメージです。私たちはそのエゴを確かな実体のあるものと思い込みます。それが私たちです。いわゆるスピリチュアルな集まりでは、エゴは問題である言います。
瞑想したり、追い出そうとしたり無くそうとしたりして、何でもするのですが、エゴがエゴを破壊することはできないと理解します。私が最初に指摘しておきたいのは、いにしえの言葉、非二元の中には二元性は全く存在しないということです。いかなる二元性もありません。それでも私たちは二元的な顕現を受け取ります。
どうして私たちは二元的に考えるのでしょうか? すべての物事はパターンとなり姿形となって二元的に現れます。もしそれが二元的に現れなかったら、それは現れなかったということをあなたは理解するでしょう。すべての物事はそのように現れます。夜なくして昼があるでしょうか? 音無くして静けさがあるでしょうか? 制止無くして動きがあるでしょうか? それは二元的な顕現です。
私と他者。他者無くして私はありません。それが、人びとが姿形となって現れる現れ方です。私たちはそれを実在だと思っています。私たちはそれを修正したり変えたり正したりしようとします。私たちはその「私」では大したことはできません。「私はボブ」「オーストラリア人」「いい人」「あそこにいるのは私ではない」。そうやって私は分離感を感じます。
その分離感とともに、不安と傷つきやすさがやってきます。何が起こったか見てください。思考がやってきても幼い子供の時のように自然の機能はひとりでに働いていますが、私たちは記憶の「私」に関連付けてしまいます。以前に良い経験をしたことがまたやってきたら、「私はそれが好きだ」となり、良い経験は手放したくありません。なんとかそれを留めようとします。
この顕現がマーヤーであり、束の間のものであるということを理解しません。それは確実な実体のある存在ではなく、絶えず変化しています。自分の体を見てください。あなたがこの部屋に入ってきた時は今と同じ体ではありませんでした。細胞が死に、置き換わっています。思い出せる限り思い出してみてください。絶えず変化しています。
そのパターンが小さな子供から男の子や女の子に成長して中年に、老年に変わります。常に変化しています。良い記憶に関連したことが起こり、私はそれを留めたい。どんなにそれが好きで留めておきたくても、それは束の間であり、変わっていくということが理解できません。
普通の出来事が最後には退屈でありきたりのことになり、片付けるか無くなるかばらばらになります。物事は必ず変化します。私たちは物事が変化して欲しくない。永遠にそのままであって欲しい。私たちは物事が変化して欲しくない。そのままにしておきたい。そのため抵抗します。抵抗することによって、それにしがみつこうとします。
すべての抵抗は葛藤であると理解できますか? すべての葛藤は病です。もしあなたが葛藤していると、不安(uneasy)になります。あなたは心配して恐れていて不幸で憂鬱です。それは不安(uneasiness)であり、病気(disease)です。嫌いなことが起こった時も同じ事が起きます。飛びのいて取り除こうとします。抵抗します。葛藤。病気。
すべての心理的な病気はこの絶え間のない抵抗が続いていることから起きると理解できますか? 自然の中では対極のものが現れて機能していますが、自然にはエゴがありません。昼は夜と葛藤しません。地球は太陽の周りを回り、暗闇が明るくなるが、そこには抵抗がありません。冬は夏と争いません。静寂は音と争いません。動きは制止と争いません。
それは二元的に現れますが、そこには基準点がありません。何物にも関連付けされません。盤珪は「不生の中ではすべてが解決されている」と言いました。彼はそれを「不生の仏心」と言いました。関連付けは二歳か二歳半のころに考える能力が発達したころに起こったことを理解してください。
私たちは概念上のイメージを形作り、マインドを信じ込み、信じるエネルギーがそこに入り込みました。それはあなたの責任ではありません。親、学校、社会、国家、すべての人々がそれを強化します。でもどんな時代にもそれを調べてみる人たちがいました。調べたことを聞いてください。少し詳しく調べれば、あなたは自分が信じているようなものではないとわかります。
聖人賢者と言われる人の中には世界を救うとさえ言った人がいました。でも彼らは世界を救いませんでした。なぜなら、ほとんど彼らの言うことを聞く人がいなかったからです。人々はメッセージを聞くかわりにメッセンジャーを崇拝しました。さて、この線に沿って調べてみてください。あなたは自然と違いがありません。あなたは自然と分離してはいません。
あなたは自然を機能させているのと同じ知性エネルギーです。あなたの考える能力は動物や鳥、昆虫よりもはるかに発達しています。それは利用できます。その同じ能力が、「おまえは十分ではない」「おまえは怖がりだ」「おまえは不幸だ」「落ち込んでいる」と言っていることを理解してください。
そして最後には自分に対して最悪なこと、「私は人間にすぎない」を付け加えます。私たちは自分たちのことを人間(human being)と呼び、神を至高の存在(supreme being)と呼びます。その、至高(supreme)を取ってください。humanというラベルと取ってください。存在(beingness)から遠ざけてしまうラベルを取ってください。
そして部屋の中を見渡してください。私たちはラベルを受け取っています。タク、ジム、ビル。そうしたラベルを取ってみてください。そこにいるのはただ単に存在(being)です。ラベルがうわべ上の分離を生み出しています。言葉は私たちが貼り付けたラベルです。言葉はジム、ビル、タクではありません。
それを調べてみてください。そこに何か独立した実体のあるものが存在するのか調べてみてください。
(一部聞き取り不能な箇所を省略しています)