2019/03/22
The Spiel ⑪ (2019.2.10)
(2019.2.10)
(名前の紹介など、1:02まで割愛)
あなたに何かを教えることはできないし、何かを告げることもできません。理解すること、最初から理解することがとても大切です。私が指し示すことを調べて、それを理解してください。誰もあなたに何かを教えはしませんし、何かを告げることもありません。それは何も新しいことではありません。何か新しい流行の思想やセクト、何と呼んでもよいのですが、カルトでもありません。それは、すべてのいにしえの伝承の基礎となって指し示されていることです。
例えばそれはヒンズー教では非二元と呼ばれています。彼らは非二元という言葉で、他には何もない一つのもの、二つではないもののことを表わそうとしています。あなたがそれを調べる時、他には何もない一つのものは、一つ以外何もありえないと理解するでしょう。それが根本にある一つのもので、それがすべてです。
たいていの人がそう呼ぶのを好むと思いますが、聖書の中でそれは神と呼ばれています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」仏教徒は・・・。
(マイクを持つ手が震えるのでカタリーナが持つ)
パーキンソン病のせいです。仏教徒は、「大いなる完成は概念化されない意識である」もしくは「概念化されない意識が究極である」と言います。大いなる完成(great perfection)というところに注目してください。完成(perfection)に何を付け足すことができるでしょうか? 何もありません (nothing)。完成(perfection)から何を取り去る必要があるでしょうか? 何もありません。
究極(absolute)に何を付け足すことができるでしょうか? 何もありません。何を取り去ることができるでしょうか? 何もありません。それは無(no thing)がもととなっているとわかります。無がすべてとなって現れ、表現しています。仏教徒はそれを「認識する空」と呼びます。私たちが空を認識していると思うかもしれませんが、私たちが認識しているわけではありません。
空(くう)に認識する能力、知る働きがあり、自らを認識しています。そして、空は形であると言います。それは、すべての顕現は、空がパターンとなり、姿形となって、あらゆるものとして現われているということを指摘しています。あなた、私、星、その他すべてのもの。
彼らは、「空は形である」を逆にして、「形は空以外のものではありえない」と言います。私はそこで言われていることの意味をこう認識しています。あなたとこの部屋の物すべては、私が貼ったラベルで、知性エネルギーと呼ぶものがもととなってパターンとなり姿形となったものです。
知性とは知る働きです。この部屋の中にいる人で知る働きがない人はいますか? 知識や何かを知っているという意味ではなく、基本となる知る働き、すなわち存在しているということです。あなたは、私は知らない、私は存在しないと言うことはできるでしょう。でもそう言えたとしてもそれは知る働き、存在がそれを可能にしているのです。
知性エネルギー、私はそういうラベルで呼ぶのを好みますが、知性は知る働き(knowing)です。どんな ing も、今この瞬間に起きています。誰か今この瞬間に、知る働きがある人はいますか? それとも知る働きが今無い人は? 知る働きは進行中の他の活動と同じです。見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこと、すべての活動が今この直接性の中にあります。
それは時間の無い直接性です。その知る活動やどんな活動もエネルギーです。知性エネルギーという言葉を使いますが、言葉はそのものではありません。さらに見ていくと、言葉は実在ではないとわかります。言葉は物ではありません。言葉は単にラベルにすぎません。
ヒンズー教では、サット・チッタ・アナンダ・ナーマ・ルーパ(sat-chit-ananda nama rupa )は五つの要素だ、と言います。サットは存在。誰か今この瞬間に存在していない人はいますか? チッタは意識。誰か今この瞬間に意識の無い人、気づいていない人はいますか? いいえ。あなたは存在していて、意識があると知っています。
今、誰か今この瞬間存在していて幸福でない人はいますか。サット・チッタ・アナンダ、存在、意識、存在する幸福。誰か今この瞬間に存在する幸福を感じていない人はいますか? 誰か死にたい人は?
あなたはもうそれであるということを認識、理解してください。マハーヴァキヤの大格言では、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなりと言います。あなたは生まれつきそれを、あなたの言語で知っています。それは椅子、それはカーペット、それはあなた、それは私、それは誰か、それは星、それは電車、それは惑星。すべてのものに私たちはラベルすなわち概念を貼っています。
あなたは、言葉は物ではないと理解します。言葉はそのものではありません。それを理解してください。水という言葉を見てください。あなたは水という言葉を飲むことができますか? あなたはそのラベルを飲むことができますか?その中で泳ぐことができますか? 言葉で洗濯したり、流したりすることはできますか? できません。
あなたが話す時、火という言葉で口をやけどすることができますか? その言葉で料理をすることができますか? あなたが言葉で何かしようとしてもできません。私たちが信じているこの「私」という言葉はどうですか? それは本当のあなたではないかもしれません。そしてあなたは生まれつきそれを知っています。
なぜなら、言葉は私たちが受け入れ、学んだものだからです。あなたは分離した存在、個人、人(person)であるということを受け入れました。人(person)という言葉はどこから来ていますか? それはいにしえの言葉から来ているのではありませんか? ラテン語かギリシャ語だと思いますが、それはどうでもいいことです。自分で調べてみてください。
ペルソナ(persona)、マスク。私たちはこのマスクを被ることによって、概念を手に入れました。マスクという言葉を私たち自身に貼り付けました。私はボブ、オーストラリア人、いいやつ、私は幸せ、私は憂鬱、怖がり、心配症。こうした概念を、純粋な知性エネルギーである「私」という働きに貼り付け、それがパターンとなり姿形となって、ペルソナ、マスクとなりました。
そこから、私たちのすべての心理的な問題が起こります。それは、自分は分離した存在、個人であると信じていることから起こります。それを調べてみてください。虚偽は調査に耐えません。自分で調べてみてください。私があなたにいろんなことを言うことができます。調べてみてください。人々は、ボブがこう言った、ボブがああ言ったと言います。
また、誰かがこう言った、誰かがああ言ったと言って、あなたはそれが本当だと思います。自分で調べて、それが本当かどうか確認してください。もしペルソナが無かったら、私たちはパターン姿形です。誰があなたに何かを言うことができるでしょうか? 私が言うことは有効なポインターにもなりうるし、破壊的なものにもなります。自分自身で調べてみてください。他の誰にもできません。それがここで起こることのすべてです。
調べて、自分で見てください。なぜなら、虚偽は調査に耐えないからです。間違った考えを受け入れていると、そこにエネルギーが注がれ、絶えず強化され、外見上は強固で実体のあるものとなります。その実体あるものを調査すると、それは落ちていきます。なぜなら、そこには実体はないからです。
聖書を見てください。聖書はあなたに何と言っていますか? もしあなたがクリスチャンなら、 別の見方をします。彼らは三つの言葉を充てています。偏在、全能、全知です。偏在は完全な存在。全能は完全な力です。マインドの力、思考の力、あなたの力、この力、何か他の力というのではなく、完全な力です。マインドの力というものはありません。
もし生命の本質が体を通して機能しなかったら、あなたがマインドを持つことさえありません。あなたが調べてみると、マインドなどというものは存在しません。あるなら私に見せてください。自分で調べてみてください。この体とマインドを自分で調べてみてください。あなたはこの体ですか? 生まれつき、あなたはもうそれを知っています。
あなたは体ではありません。完全に調べるまでは信じられないかもしれませんが。あなたはいつ、私の体と言いますか? あなたは、私のコートと言いませんか? 私の車、私の家、私の靴。あなたはコートですか? あなたは車ですか? あなたは家ですか? あなたは靴ですか? いいえ。それは単に私たちが別々のものに貼ったラベルです。だとすると、あなたは体ではないでしょう。
体が何でできているか調査してください。あなたは、体が構成要素でできていると知るでしょう。それはすべて、土、火、空間、エネルギー、五つの要素、水、火、空間など、体は構成要素でできています。もしあなたは自分が分離した存在、個人、人であると考えているなら、自身を構成要素と分離してみてください。
自分が分離していると言うなら、呼吸を止めて、どれだけ長く自分が空気無しでいられるかやってみてください。できません。水を飲むのをやめてください。どれだけ長く水無しでいられますか? 体の80%は水です。体温、火を取ってください。構成要素無しで、どれだけ長くいられますか? 空間から外へ出てください。空(くう)の外へ出てください。できるものなら。
あなたは奮闘して、空の外へさえも出ようとするでしょう。空間のような意識の外へ出て、どこへ行けるでしょうか? あなたが調べると、それらの構成要素から自分を分離できないとわかります。そして構成要素を分解していくと、原子より小さな粒となり、純粋なスペース、純粋な空(くう)となります。あなたは、パターンや体、すべての顕現は、そこに見みえているようなものではないということを理解します。
経典の中でブッダは、顕現はマーヤーであると言っています。それは幻影です。マーヤーという言葉の意味は幻影です。それは現象として現れた顕現です。辞書で phenomena(現象)を調べてみてください。「そのようにあらわれるもの」です。それはそのように現れているだけです。部屋の後ろの鏡を見てください。たくさんの像がそこに映っています。
近寄って、鏡の中の像を掴むことができるかやってみてください。できません。あなたは、それがそこにないと言うことはできませんが、掴もうとした時には、それがそこにあるとは言えません。あなたがそれを調べると、それは表面に映った像以外ではありえないとわかります。同じことが、この顕現にも言えます。
phenomena(現象)は「そのようにあらわれるもの」です。それは見た目でそう見えるだけです。ですからあなたは、自分が体であると言うことはできません。マインドと呼ばれるものはどうですか? 私のマインド。私はマインドである。では、マインドを見せてください。誰か立ち上がって、これがマインドだと言える人はいますか? 自分だと言える確かな実体のあるものを見せてください。それは実体のあるものですか?
思考以外で、マインドと呼べるものが存在しないとあなたは理解するでしょう。思考とは何ですか? あなたの思考はどうですか? すべての思考はメンタルの構築物です。それは思考、イメージでできています。ニサルガダッタは言いました。(言い直して)シェイクスピアは数百年前に言いました。「良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけである」と。
区別して分割しているのは思考です。思考だけが区別し分割します。なぜなら、それはヴァイブレーションだからです。すべての思考はヴァイブレーションです。思考を調べてみてください。それがどう機能するかを見てください。それがいつも対極へと機能することを理解してください。喜びと悲しみ、肯定否定、愛と憎しみ、良いと悪い、快と不快。私たちがその境界を設定しているのは、言葉によってです。そしてそれは学んだものです。
あなたはマインドと呼ばれるものですか? ではマインドと呼ばれるものを見せてください。あなたが調べてみると、思考以外にマインドと呼ばれるものなどないと理解するでしょう。もしマインドが思考でできていて、あなたが自分はマインドであると信じているなら、どの思考があなたですか? あなたはそれは原初の思考だと思うでしょう。
原初の思考とは、「私はいる」です。私たちが言葉を学び始めると、振動したオームの音が、「あたしはいる」と翻訳されてやってきます。もしあなたがその思考なら、もしその思考が無くなったら終わりだと思って、それを見失うことを恐れるでしょう。でも、あなたは毎晩眠りにつく時、喜んでそれを手放します。
日中、あなたが他の思考を考えている時は、「私はいる」はそこにはいません。一日中その思考があるわけではありません。ということはおそらく、私はこの想像上の「私はいる」、ペルソナ、マスクではありません。言葉を調べてみてください。あなたが話す言葉、話した言葉は途中で学んだものです。
あなたはどんな言葉も持たずに生まれてきました。遡って、どんな言葉を持って生まれたか調べてみてください。どんな言葉も途中で身に着け、学んだものです。そしてあなたは言葉を忘れた時など、今でも時々辞書で調べて学んでいるでしょう。まだ辞書には私たちが学んでない言葉もたくさんあります。
そしてあなたが、言葉が現実ではない、水という言葉が現実ではないと理解する時、たくさんのメンタルの構築物を私たちは現実であると思っていることがわかります。そしてあなたは、マインドの中には答えはないと理解するでしょう。なぜなら、概念化して、言葉やイメージにするのがマインドのすることだからです。
シェイクスピアは「良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけである」と言いました。ニサルガダッタは同じことを「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめることはない」と言いました。これらの恐怖、心配、心理的なストレスや苦悩を見てください。すべては想像からきています。
それを調べてみて、どうしてそんなことをしているのか、どうしてそんなことをやり続けているのか、想像することをやり続ける必要があるのかを理解してください。もちろんそれはとても役に立つものです。芸術家などが何かを生み出す時は想像力を使います。想像する(imagine)は、image と in に分解できます。あなたは想像上、概念上のイメージを生み出し、それを現実であると思っています。
それは単なる言葉なのですが、私たちはそれに様々な意味を付け足すことを学びました。
どうしてそれは起こったのでしょうか? どんな言葉も無い時、あなたはあなたが始まった時に戻ります。聖書では「はじめに言葉ありき」と言います。言葉と共に神がいました。言葉が神でした。
神という言葉は、私たちが原初の知性エネルギーに貼り付けたラベルに他なりません。あなたがどんなラベルでそれを呼んでもかまいませんが、それは私たちが貼り付けた単なるラベルです。私たちはその上に神という言葉を貼り付けました。そして私たちがそれに何を詰め込んできたかを見てください。
どんな伝統、もともと神を持たない伝統でさえ、違った言葉にその意味を与えました。ヒンズー教ではたくさんの言葉に神という意味を与えました、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ。私は何年も前に1000の名前を持つヴィシュヌの名前を使ってマントラの詠唱をやりましたが、ヴィシュヌは神を表す1000の異なる名前を持っています。
仏教徒は神ではなく、本質の原初のものがすべてとなって現れていると言い、ムスリムは唯一の神がいるだけで、アラーがその名前だと言います。彼らはそう名付けました。モーゼが山の上で石板を授かった時、彼と同胞たちが人々の中で幸福に平和に暮らすため、彼はインスピレーションを得ました。彼は人々の前でどう話したらいいだろうかと思った時に、インスピレーションを得てこう言いました。
"I am sent me"「(私はいる)が私を遣わした」。「I am (私はいる)が私の名前である」。そしてモーゼは、I am (私はいる)が私であると理解しました。同じことがあなたにも言えるのではありませんか? あなたは、今ここにある意識です。それは「私はいる」と翻訳されました。そのラベル無しで、あなたはどうやって自分がここにいると言うことができますか?
あなたは自分の存在を否定することができますか? できません。存在ということに関して言えば、あなたはいつ始まりましたか? あなたは、私は誕生の時に始まったと言うでしょう。でもどうしてそう言えるのですか? あなたは自分が生まれた時のことを覚えていません。誰か自分の誕生を覚えている人はいますか? あなたは覚えていません。なぜならあなたは、それを認識する言葉を持っていなかったからです。
いつあなたは始まりましたか? 私たちはあなたの父親や母親まで遡ることができます。もしあなたが遡って調べようと思えば、好きなだけ遡ることができます。あなたが父と呼ぶパターンの中で、彼が食べた食べ物の本質と呼吸、プラーナによって、知性エネルギーが父親の中に満ち、精子と呼ばれる小さな粒を作りました。あなたがそれを肉眼で見ることはできません。
精子は内在する知性に満ちています。同じように、あなたの母親の中で、内在する知性エネルギーがパターンとなり、姿形となって、卵、卵子と呼ばれる小さな粒を作りました。あなたはそれを肉眼で見ることはできませんが、内在する知性は何をすべきか知っていて、それを子宮内膜に着床させます。それは内在する知性エネルギーに満ちています。
そして精子も何をすべきか知っていて、卵子へと泳ぎ着きます。あなたはその二つの中に知性エネルギー、生命の力を見るでしょう。精子は卵子へ泳いでいき、中へ入ることを知っています。そして二つが一緒になると、内在する知性エネルギーが細胞を二つに分裂させ、さらにもう一度二つに分裂させ、その中にはすべての遺伝子情報があり、小さな胚、胎児を形作ります。それが今日のあなたです。
あなたが、人としてこのショーを仕切っているというのなら、このことに関して、あなたは何をしましたか? あなたは「心臓や肺を成長させなくては」と言いましたか? あなたは脳さえ持っていませんでした。指も足先も持っていませんでした。でも内在する知性はその瞬間あなたに満ちていて、何をすべきか知っていました。
それは命。あなたの生命がその時あって、それが今日のあなたの命であり、それが今も現れています。私たちはそれを見失いました。キリストは言いました。「私が道であり、私が真実であり、私が存在の感覚がマインドを通して現れたものである」。彼は、彼自身のことを言ったのではありません。
人々は彼が何か、正しい、優劣、あなた、私、その他のことについて言ったのだと思いました。人々は、すべては一つの本質がパターンとなり姿形となって現れたものであり、あなたと同じ本質であるということを理解しませんでした。
(少し言葉に詰まって)どこまで話しましたか? 誰もどこまで聞いたか私に言うことができません。(笑い)
私たちはパターン、姿形となって胎児となり、9か月後に生まれました。でもあなたはそれを覚えていません。なぜならあなたは言葉を知らなかったからです。あなたはなぜあなたが言葉を知らなかったかを理解しています。
なぜならあなたは、二歳か二歳半になるまでは言葉を習得しなかったからです。もう少し前まで、あるいはもう少し後までかもしれませんが、そんなことは問題ではありません。正確な統計があるわけではありません。それくらいの頃、純粋な知性エネルギーがあなたの中で機能し始めて言葉を学びます。
その時が始まりです。聖書の中の言葉が、概念や観念によって違った意味を持ち始めます。私が、「始めに言葉ありき」と言うと、あなたは何十億光年か前に自分が始まったのだと考えます。でもそうではありません。なぜなら、時間は存在しないからです。それは任意の機能です。
時間について調べてみてください。時間は任意のものだとわかるでしょう。時間などというものは無く、それは今この瞬間の直接性の中にあるものです。考える能力が人間に発達して、人生が始まります。それは人間が持っている能力であり、動物、鳥、昆虫などは違った形のもっと発達した能力を持っています。
鳥は私やあなたよりもはるかに良い視力を持っています。そして飛ぶ能力を持っています。私たちは普通では飛べません。私たちは鳥ほど良い視力を持っていませんが、考える能力によってメガネを作り、望遠鏡や双眼鏡を作りました。それは良く見えることを可能にしました。
私たちは飛行機、ヘリコプター、気球などを作り、飛ぶことができるようになりました。考える能力はとても役に立つ能力ですが、とても自己破壊的でもあります。考える能力が振動してすべてとなり、それがこう言います。「私は十分ではない」「私は恐ろしい」「私は心配だ」「私は不幸だ」「私は悲しい」「私は落ち込んでいる」「私は自尊心が低い」「誰も私を好きではない」。
すべてのこうした心理的な苦悩の概念的イメージによって、認識する空、存在の感覚、純粋な知性エネルギーが妨げられ、私たちはすべての他のものから分離した存在であると思うことになります。でも実際には私たちはそうではありません。犬は嗅覚を持っています。それは私たちよりもはるかに発達しています。
カメレオンやある種の昆虫は色を変えることができます。自然を見てください。違った能力で、あらゆる種類のことが起こっています。私たちは考える能力を持っています。この考える能力によって、私たちが顕現と呼ぶものを認識しています。でも私たちは、それが自然に起きているものだということを理解しません。
私たちは言われてきたことを信じ込んでいますが、古くから言われてきたことを見落としてはいけません。それは束の間のものです。それは自然に起こってくるものです。仏陀は言いました。「それはマーヤーである。それは幻影である。それは束の間のものである。それは絶えず変化している」と。
顕現は束の間のものです。それは絶えず変化しています。それを自分で調べてみてください。あなたは気づいていないかもしれませんが、あなたの体はこの部屋に入って来た時と同じではありません。どれほど、とあなたは思うかもしれません。調べてみると、数千の細胞が今この瞬間に死んで入れ替わっていることがわかります。
あなたの体を振り返って見てください。例えば、10年前、20年前、あなたが小さな子供だった頃、赤ちゃんだった頃。同じ体ではありません。でも、同じ存在の感覚が体を通して機能しています。知る働き、純粋な知る働き、存在する働き、見る働き、聞く働き、味わう働き、触れる働きはそこにありました。
たくさんの知識を身に着けましたが、見る働きは同じままです。知性エネルギー、自然な生命の本質は変化しませんが、現れる内容は変化します。それは今ここにある見る働きも同じです。あなたは気づいていませんが、今朝起きた時にあった見る働きが今もここにあり、それは昨日も先週も去年もありました。
あなたが思い出せる限り遡っても、同じ見る働きがあり、見る働きは変化しませんが、その内容は変化します。その内容は絶えず変化し、この部屋の中でも変化しています。聞く働きについても同じことが言えます。考える能力がやってきた時、私たちは、自分たちは考える能力がある存在であるという大きな概念上のイメージを作り上げました。
「私はボブ」。周りの人や両親がそう言うから。「幼いジョニー」「あなたはいい子」「あなたは悪い子」「あなたは不幸」「私はオーストラリア人」「いいやつ」「あんまりよくない」「自尊心が低い」「怖がり」「私は不幸だ」。起こった出来事を様々な概念やラベルに貼り付け、それが両親、学校、社会、周りの人すべて、そして自分自身によって強化されます。
なぜならそれは決して調べられることがないからです。でも、時代を遡ってみれば、それに気づいて、それを語り継いだ人たちが少しはいました。当時は私たちが今日持っているような伝達手段はなかったので、村の中の限られた人々に限られていました。また、すべての人がそれを聞きたいと思ったわけでも、実際に聞いたわけでもありませんでした。
それが伝承となり、聖典のもととなり、解釈されました。そして人々はそれに自分たちの信仰や伝承に基づいて勝手な解釈を加え、異なる言語でそれを伝え、それが異なる伝承や宗教となりました。でも、根本は同じものです。そして人々に何が起こったのでしょうか?
人々はそれを指摘した人を、聖人、救済者、聖者、預言者、場合によっては神としてあがめ、そのメッセンジャーを崇拝し、メッセージを見失いました。メッセージはずっと同じで「あなたはそれである、あなたが唯一のものであり、今までもこれからもずっとそうである、そしてそれがすべてであり、他には何もない」です。
私たちは言語よって、それは椅子、それは車、それはあなた、それは私、と、椅子や車や物事に異なるラベルを貼り付けています。存在するという言葉を見てください。存在すること、知ること、存在することを愛すること。あなたはそのラベルを様々なものに貼り付けました。
私は何かにならなくてはいけない。悟る、自己実現する、自己解放する。何かになること(becoming)は、being(存在すること・本質)ではありません。何かになることは未来の時を表す概念であり観念です。もしあなたが何かになれるものならやってみてください。あなたは記憶や期待という想像上の概念の中で、できると信じています。
あなたは、できると信じていますが、実際にはできません。あるのはいつもこの瞬間だけです。あなたが神を信じていて、神を呼ぶ時は、至高の存在(supreme being)と呼びませんか? そしてあなたは自分のことを、人間(human being)と呼びませんか? あなたが学んだラベルを取ってください。supreme を取り、human を取る。
この部屋にある存在(beingness)からラベルを取ってください。あれが椅子(That's being a chair.)、あれがあなた(That's being you.)、それが私(That's being me.)。すべてのものが存在(beingness)です。それに私たちは、概念、ラベルを貼りつけています。そして私たちは事実を見失います。存在(beingness)、存在する喜び(lovingness to be)、本質としての存在(existence of being)に概念を貼り付けて概念化しています。
あれが椅子。あれが車。あれがカーペット。そして私たちは本質を見失います。思考は必要な時に起こってきます。それは戻ってきて、自分はもうそれであったということを再認識します。なぜならあなたは今までの人生の中でそれを味わったことがあったからです。そしてあなたは、私はそれを失ったと言うでしょう。
必要なことはすべて起こってきます。それは認識する空(くう)です。仏陀はそう言いました。私たちが認識するのではありません。認識するの別の言葉は、知る働きです。それは私たちが認識するのではありません。認識そのものが、自らを認識します。知性エネルギーそのものが知る働きとして機能します。
知る働きがパターンとなり、姿形となって内容物となります。空間、星、植物、木、花、人間、昆虫などの言葉は、知る働き、純粋な知性がもととなっています。知性無しではパターンもありません。空(くう)が認識しています。空があなたを生きています。ニサルガダッタが指摘したように、そこには命があるだけであるとあなたは理解します。
そこには命を生きている体はありません。命が生きています。命がパターンとなり姿形となって、あなたに呼吸させ、あなたを鼓動させ、あなたの爪や髪の毛を伸ばし、食べ物を消化しています。それを調べてみてください。生命の本質無くして、呼吸をすることができますか? 何かを考えることができますか? あれこれの言葉を聞くことができますか?
良い例を挙げるなら、コンピューターです。たくさんの情報がコンピューターの中にあります。あなたは好きなだけキーを打つことができますが、電源がオンになっていなければ、何も起こりません。あなたは体とマインドを手に入れました。それはパターンとなり姿形となって現れたものです。それは顕現となって現れ、機能し、表現し、認識しているものです。
死体にも心臓、肺、目、耳、腎臓がありますが、生命の本質が満ちていなければ、機能しません。あなたとは何ですか? 体、マインドには命、機能が必要です。あなたは命がパターンとなり、姿形となって現れたものです。あなたが命であることを認め、活用してください。そうあることを許してください。それが表現することを許してください。
それがあなたを成長させ、パターンとなり姿形となって今日のあなたがいることを認識してください。それは今この瞬間も生きて呼吸をしています。聞く働きは続いています。見る働きは続いています。もし聞く働きが何かに共鳴してベルを鳴らすなら、真実に従って、あなたを連れて行くままに任せてください。
認識する働きを起きるがままに任せてください。それが連れて行くところへ行ってください。あなたは今成人して、おそらく今まで経験したことがなかったことや、何か心を動かされたあらゆる種類のことをやってきたでしょう。マインドの中でそれを解決しようとしました。あらゆる種類の瞑想をやり、あらゆる種類の本を読み、リトリートや、いわゆる精神的探求をやってきたでしょう。
しかしあなたは、決して答えを見つけることはできませんでした。もしあなたが答えを見つけたなら、ここには来ませんでした。あなたは何も学ぶ必要はないし、何かを必要としません。でもあなたは答えを見つけませんでした。あなたはずっと何をしているのですか? あなたはマインドの中に答えを探していました。
次のマントラ、次の本、次の概念、イメージ。あなたはマインドの中に答えを見つけることはないということを理解してください。そしてあなたは、決してマインドの中に平和を見つけることはありません。いにしえの人たちが聖書の中で言っているではありませんか? 平和への道はすべて理解の道であると。理解するという意味はマインドの中で何かを探すということです。純粋な理解とはマインドの中を探すことです。
しかし、平和は、マインドが無い時に理解となってやってきます。そして共鳴が起き、認識します。「ああ、これだったのか」。どうして以前はわからなかったのか。どうして私は見失ったのか。あなたは概念的な理論に陥ったために見失いました。良いとか悪いとかは何もない。思考がそうしているだけです。
あなたの想像以外、あなたを困らせるものは何もない。思考はとても役に立つものですが、破壊的にもなります。何か共鳴するものがあれば、それに従ってください。真実が真実を認識するということを理解してください。聖書の中ではこう言っています。「真実を知れば、真実があなたを自由にする」と。
そこには自由があります。本当のあなたを知るここです。他にもいろんな点から指摘することができます。自己の中心、エゴがやってくるとどうなるかを見てください。考える能力がやってくると、あなたは言葉を覚えます。あなたは自分で調べることなく、「幼いジョニー」「小さなビリー」と誰かが言ったことを信じてしまいます。
ああ、私は幼いジョニー、それが私だ。「私はいい子だ」「私は悪い子だ」「私は幸せだ」「私は怖がりだ」。それは概念であり、それが概念上のイメージとなります。そしてそれを信じて毎日強化します。「私は強情だ」「私はオーストラリア人だ」両親がそう言ったからそう信じている。
その概念上のイメージが今や基準点となりました。自己の中心、エゴ。その三つは同じもの違った表現です。聖典の中では、エゴは取り除かなくてはいけないと言っています。エゴが問題であり。エゴがあなたを殺す。取り除け。見破れ。あれをしろ、これをしろ。カーペットの下に押しやれ。でも、本物の聖典では、エゴというようなものは無いと言います。
あなたは何もする必要はありません。すべてはフィクションであると理解してください。それにはいかなる実体も独立した性質もありません。でも私たちはそれを理解しません。私たちは基準点を手に入れました。すべての物事が基準点に関係するようになりました。すべての問題が、関係性、すなわち結びつきから起こってきます。
関係性は二元性です。結びつきは二元性です。ここで私たちが話しているのは、非二元です。私が指摘していることは、二元性はかってもこれからも決して存在しないということです。それは完全はフィクションです。それを理解して、二元性から自由になってください。何か好きなことがやってきたら、どうなるでしょうか?
どうしてそれがあなたにわかりますか? 私はボブ。基準点。この経験は良かった。何が欲しい。私たちは良い経験をしたい。良い感じを失いたくない。それが束の間のものであることを理解しないで、あなたがどんなにそれが好きでも、どんなにそれをキープしたいと思っても、それは去っていきます。それを調べてみてください。
あなたが愛した人が死ぬこともあります。誰かがあなたから去ることもあります。他の人も去っていきます。あなたのまわりの物事は絶えず変化していきます。現象としての顕現は絶えず変化していきます。私たちは失いたくない。それでどうしますか? 私たちは抵抗して、それをできるだけ留めようとします。
抵抗は葛藤であると理解できますか? どんな葛藤であれ、不幸、心配、恐れ、自己憐憫、怒り、何であれ、それは病気です。抵抗、葛藤、病気、不安は絶えず続きます。これは私がいつも言ってきたことですが、もし、私がこれが嫌いだと言ったら、何が起こりますか? 私はこれが欲しくない、これを取り除きたいと言ったら何が起こりますか?
「私」は何をしますか? 「私」は抵抗します。ボブ、オーストラリア人はそれを押しのけ、取り除こうとします。私はそれを欲しくない。そしてまた抵抗です。葛藤、病気、不幸。抵抗、葛藤、病気が絶えず続きます。心配、恐れ、落ち込み、不幸。私が好きなことは短期間しか続きません。なぜなら、それは他の物事同様に束の間のものだからです。
すべての物事は変化していきます。でもどうしてあなたは、一方よりももう一方の方を好むのですか。一本の棒には両端があり、コインには裏と表があります。物事には常に二つの面があり、そのどちらかに振動しています。あの偉大な信心銘はこうあなたに教えています。「大いなる道は難しくない。選り好みをせず、愛することも憎むこともなければ、すべてははっきりと明らかになる。だがわずかでも分別をすれば、天と地は遙かに隔たる」。
私たちが言葉によって区別して差別をすれば、言葉を差別の道具として使えば、それが問題となります。私たちは、概念上のイメージを絶えずすべての物事に関連付けてきたために、心理的な苦悩の中にいます。それはいつも「私」に起こります。「私」が原因です。概念上のイメージ、エゴが心理的苦悩の原因です。
その結果が、恐れ、心配、ストレスです。そして私たちはそれを過去にもとづく死んだイメージに付け足しました。死んだイメージは命とは相容れないものです。それがいわゆるカーマと呼ばれるものではありませんか? 原因と結果。でも、もし私が簡単な質問をしたらどうなるでしょうか。
もし、物事を原因に関係付けられなかったら、結果はあるでしょうか? 調べてみてください。もしあなたが、悲しみ、恐れ、憂鬱を原因と関係付けなかったら?それが誰に起こったのか? もしそれを「私」に関係付けなかったら、それはどこにあるのか? それは概念でありイメージです。パターンが純粋な感覚となって現れたものです。概念のラベルを貼らずにおいて、どれだけそれが留まり続けることができるか見てください。
それに対する抵抗がない時、どれだけ長く物事が留まることができるでしょうか。太陽と太陽を遮る雲を見てください。どれだけ長く雲が太陽を遮ることができるでしょうか? 雲が空に張り付いているわけではなく、動いていきます。昨日の思考はどこへ行きましたか? それはあなたの頭に張り付いていますか? 先週の思考、去年の思考はどうですか? 感覚は? 活動は? それらはすべて束の間のものではありませんか?
何が張り付いていて、何が変化しますか? 人々はそれを留めようとしてエネルギーを費やします。それが私たちがやっていることです。私たちは時間を遡って、それを取り戻そうとします。あなたは、「私」がすべての問題の原因であると知るでしょう。この「私」は過去の出来事や経験にもとづく死んだイメージです。
life(命・人生)は続いていて、常に新鮮で新しく、自然にひとりでに起こってきます。ここで続いていることは、何かになること(becoming)ではなく、それは常に在る(being)ものです。今はいつ始まりましたか? 始まりを今この瞬間に掴んで見てください。それを掴まえようとしてもできません。なぜなら、これが始まりだという時、それはもう終わっているからです。
始まりも終わりも過去のものです。では、ちょっと前を生きてみてください。昨日を生きてみてください。先週、去年に遡って、生きてみてください。あなたはそれを思い出すことはできます。でも実際にそれを生きることはできません。あなたができることはただ思い出すだけで、あなたは今思い出しているだけです。
それはもう過ぎたことであり、思い出して認識しているにすぎません。では未来はどうですか? あなたは、この先や来週どうなるかを、期待したり想像したりすることはできます。でもあなたは一瞬先ももっと先も生きることはできません。期待や想像はそのとおりには起きないかもしれません。
人びとはあなたに、今に留まれと言います。私は、今からも出てみなさいと言います。なぜなら、今しかないからです。今ということも概念上のイメージなのですが、いずれにせよ、この直接性、すなわち自然に起こってくる働き、それがすべてなのです。あなたはその外に出たことはありません。
学び、認識し、リラックスして、何が去ってもそれはうわべのものであるという認識を保ってください。また、あなたが自分だと思うものを調べて理解してください。みなさんは今この瞬間見ていますか? みなさんは今この瞬間聞いていますか? それは事実ですか? ええ、私は見ています。私は聞いています。あなたと同じように。
私の目は、「私は見ている」と言いますか? 私の目は私に「ボブ、これを見て」とは言いません。「あれを見て、あれは良い、あれは悪い」とは言いません。見ることは目を通して起こってくることです。そしてそれは生命の本質ゆえに起こっていることであって、「私」、ボブ、何かの存在が見ているからではありません。
見ることは目を通して起こっています。そして思考によって「私は見る」と翻訳されます。そして、「私は見る」はもはや純粋な見る働きではありません。「私」、ボブ、利己的な概念上のイメージを自身に持っている今、思考が見る能力を持っていると思っています。メンタルイメージが、見る能力を持っていると思っています。
聞くことについても同じことが言えます。みなさんは今聞いていますか? あなたが今朝目覚めた時そこには聞く働きがありました。深い眠りについている時誰かに呼ばれれば、聞く働きはどこかへ行っているわけではなく、そこにあります。自身にこう尋ねてみてください。私の耳は私に「私は聞く」と言うでしょうか? 私の耳は私に、「ボブ、これを聞いて、あれを聞いて」「これはくだらない」「これは真実だ」とは言いません。
私の耳は私に何も言いません。それは聞く働きが起こってくる能力を持っていますが、「私が聞く」という思考にはその能力はありません。調べてみてください。その「私は見る」という思考が実際に見ているのかを。目を閉じて部屋の中を見回して、思考で部屋の中を見ることができるか調べてみてください。
あなたは概念のイメージを想像したり考えたりすることはできますが、目を閉じた時に実際に見えるのは自分のまぶたの裏の暗がりだということを理解します。そしてまた少しの間部屋を離れると実際に部屋の中の物を見ることはできません。そしてあなたは思考の「私は見る」は見ることができないということを理解します。
見る働きを「私が見る」が概念やイメージに翻訳していますが、「私は見る」は物を見ることはできません。聞くことも同じです。手で耳をふさいでください。そして思考で聞くことができるかやってみてください。あなたは、「私は聞く」という思考が全く聞くことができないということを理解するでしょう。
今、意識の無い人(not aware)はいますか? いいえ。あなたは今自分の意識が無いということはないと知っています。ということは、あなたは意識があるに違いありません。あなたは今意識があると知っています。では、「私は意識がある」という思考があなたのアウエアネス(意識)ですか?
「私は意識がある」という思考がいつもあなたにあるわけではありません。ということは、「私は意識がある」という思考はあなたのアウエアネス(意識)ではありません。別の例を挙げると、「私は選ぶ」という思考です。あなたは調べることもなく、「私は選ぶ」という思考が選ぶことができると思うようになりました。
ではどうしてあなたは、不幸で、みじめで、悪い、いやな思考、感覚、感情を選ぶのですか? あなたは、不幸や嫉妬などは欲しくありません。あなたはそれを取り除こうとします。もしあなたが選ぶことができるなら、どうしてそういったものを選ぶのですか? というわけであなたは、それがすべてを行っていると思っている概念上のイメージ、思考は選ぶことができないと理解します。
思考は選ぶことができません。思考は見ることができません。聞くことも、意識することも、選ぶこともできません。生命の本質無くしては何もできません。もし生命の本質が体に無かったら、考えることも見ることも聞くことも触れることも嗅ぐこともできず、あなたは死体も同然です。
そしてその生命の本質には、いわゆる想像された利己的なイメージがありますが、それはフィクションと言った方がいいでしょう。そしてこれが私が指摘して、この線に沿ってあなた自身で調べるように求めていることです。私はたくさんのたわごとを告げますが、調べるまではそれを受け入れてはいけません。聞くだけでは何も良くありません。
他の人は多少違ったやり方で指摘するかもしれません。それを聞き、あなたの中で共鳴が起きるかもしれません。あなたが聞いて共鳴が起こったのなら、自分で調べてみてください。あなたが調べることによって、もっと明晰さ、もっと理解、もっと洞察が言葉を通じてあなたにやってきます。
私はそれであり、ずっとそれだったという理解、認識、自信がそこにはあります。誰もそれをあなたから奪うことはできません。でも、あなたは今ここにいてこれを聞いて世間に帰ると、世界の99.9%は、「私」という基準点からやってきて、あなたを巻き込もうとします。あなたをもとの世界に戻そうとします。
それがあなたが調べることもなく、受け入れてきたものです。そして今あなたは調べて何が真実であるかを認識しました。あなたが脇に避けると、人々はあなたに起こった変化について考え始めます。彼らはまたあなたを巻き込もうとしてあなたに何が起こったかを尋ねに来ます。そして何人かは、あなたが言っていることを理解します。
そうやって、逆にあなたが彼らを巻き込んでいきます。彼らは認識し、共鳴が起こり、真実が彼らを自由にします。そうやって、このメッセージ、理解が伝えられていきます。私は教育を受けていませんから、私よりももっと上手に明快にやる人もいるでしょう。またある人はそれほど明快ではないかもしれません。
もし共鳴が起こったなら、どんなやり方でもかまいませんからそれを受け取って利用してください。そして疑問があったらどうぞためらわないで尋ねてください。それは理解する助けになります。なぜなら、そのためにあなたはここにいるのですから。
自分のストーリーを話すために出かけないでください。あなたが精神分析医や精神科医のところへ出かけていって、ストーリーを話してそれを解決しようとすることはできます。それはある程度は助けになるかもしれません。でも、本当の自分とは何かという真実の理解、共鳴は、あなた自身によってしかできません。
あなたがこれまで学んで、今まで助けになったことに反するかもしれませんし、今まであなたを助けたマントラやなんかを打ち消すことになるかもしれません。私があなたの助けになるとも言えないし、ならないとも言えませんが、あなたが何を得るかを見てみましょう。もしあなたが共鳴するようリスクを取らなければ、あなたは永久にそこへは行けません。ではみなさん、始めてください。
(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)