2019/03/03

The Spiel ④ (2015.10.10)

   
                                         2015.10.10講話       (著作権者了解済み)

みなさん、これは何のことかわかっていますね。

(沈黙)

みなさんの返事には圧倒されました。(笑い)

参加者:「ノー」が正しい返事でしょ?(笑い)

正しい返事は、返事がないことです。(笑い)
ここで話しているのは非二元です。非二元とはどんな物語でも生き方でも出来事や体験でもありません。基礎となるのは、自己の本質を再認識すること。再・認識と言われています。なぜならそれはもうすでに一度認識されているからです。私たちはそれぞれ生きてきた中で、すでにそれを経験しています。

物事は納まるべき場所に納まり、あなたはそれを良かったと言うでしょう。でもまた反対に動いて、またマインドにはまり込み、それを見失います。それは見かけ上不鮮明になって絶えずやってきます。

でもその再認識の状態、状態でさえないのですが、今ここにある意識は、静寂、空(くう)の背景にあって、人生は自然に努力なく納まっていきます。私が何のことを言っているかわかりますね。

あなたの人生のどこかで、何人の人がこれを経験しましたか? 問題は、私たちがこの考えに凝り固まること。それはスピリチュアル。しかしスピリット(精神)は私たちが貼り付けたまた別のラベルです。

スピリット(精神)の反対は物質です。物質。そして私たちはこの顕現は物質であると認識します。顕現は非常にたくさんの物からなっています。そして物やすべての物は、外見上は固い実体のあるものです。一方スピリット(精神)はすべてのものの本質です。

中断(来客入場)

非二元。いにしえの人々は何年にもわたって、非二元を認識し指摘してきました。すべての偉大な文明は非二元的な側面から形成されました。たとえばヒンズー教ではそれをアドヴァイタと呼び、アドヴァイタは非二元と翻訳されます。

彼らは非二元を表現しようとしましたが、容易なことではありませんでした。彼らはそれを「他には何もない一つのもの」と表現し、「他には何もない」をつけ加えました。というのも、一つでさえ、他の何かの存在を暗示しかねないからです。

彼らは「他には何もない一つのもの」ということによって、他に何かあることを否定し、それ以外には何もないことを表現しています。
彼らの伝承や、あなたたちの経験、歴史的背景を調べてみれば、それらすべての根底にそれがあるとわかるでしょう。

彼らはそれを神と呼び、その神は一つの神、一つの本質です。そして彼らは、一つの本質が現われ、すべてとなって現れると言います。仏教でも同じことを言います。それは神とさえ呼ばれていない。彼らはそれを、概念化されない、永遠に新鮮な今ここにある意識、ただそれだけ、他にはなにもないものと言います。ただそれだけ、他には何もありません。

キリスト教では神について、偏在、全能、全知と言います。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面を言っています。完全な存在、完全な力、完全な知性。完全性、非分割、非概念を分割できるでしょうか? そして彼らはそれを「永遠に新鮮」と言います。
彼らは指摘します。それは自然に起こってくるものだと。

マハーヴァキヤの格言の中でこのことについて私たちが聞いたことがあるのは、「私はそれである。・I am that.」です。
聖書の中のモーゼの言葉にもそれを認識できます。
「私がそれであり、それが私だ。I am that I am.」

この「I am ・私はいる」というのは、思考の「私はいる」のことを言っているのではありません。その思考の「I am ・私はいる」は、自分が今存在するという感覚のことです。
あなたたちの誰がそれを言葉で表現することができるでしょうか?その、自分がいるという認識を。

あなたは「私がいる」とは言えないのではないですか? あなたが何者かをあなたは知りません。私たちはずっと、様々な偽のラベルを貼りつけてきました。私たちは、自分たちは分離した存在であると信じています。
この個人、人 パターンが形作られ姿になって現われ、この顕現は異なる形や姿でいっぱいです。

私たちは言葉の中で見失います。言葉はそのものではないと指摘する時、あなたは理解しなければいけません。水という言葉をあなたは飲むことはできないし、泳ぐことも洗うことも溺れることもできません。
火という言葉をあなたが話しても、それであなたの口をやけどさせることはできない。それで料理をすることはできない。あなたはそれで自分を暖めることはできない。

この「私」や「私を」の本当の意味は何ですか?
すべてのラベルは単にポインター(指し示すもの)です。それはあなたがビューク通りとホワイトホース通りの交差点に行くために通りに行って、メイウエイを抜けて行くようなものです。つまり、ビューク通りはこちらという標識を見るようなものです。

地図は土地ではないという時、同じことを指摘しています。私たちが使う言葉やポインターはそのものではありませんが、それは何らかの方向の感覚を与えます。方向の感覚は、私たちが言葉を編み出した時、私たちが言語を学んだ時に失われました。学校や社会や仲間の話を聞くうちに、私たちは個人という主体がいるという考えを強化し、自分を見失いました。

それはポインター(指し示すもの)にすぎません。ポインターに従えば、あなたはビューク通りとホワイトホース通りの交差点に着けます。あなたは情けないと思うかもしれませんが、そこへ着くことができます。(笑い)

私たちがここで使うポインターはどれ一つ現実のものではありません。どんな言葉も実物ではありません。私達は言葉の中で自分を見失います。これはどういう意味だろう、あれはどういうことだろうと、迷います。

それが指し示すものを見てください。そして自分に問うてみてください。
「もしそのことを考えなかったら、何が問題なのか?」と。
それを認識する時、その瞬間の空白の間も物事は起こっているとわかりませんか?
それならば、私は思考よりも前に存在する。

私たちは「私」という言葉を使いますが、それは言葉ではなく、おれはその空白の一瞬にもありました。思考は停止していました。そしてほんの一瞬かそこらで次の思考が始まり、あなたはそれを止めることはできません。それは再び始まるでしょう。でもあなたには違いがわかります。そしてあなたはたくさんのスピリチュアルなテキストの中で、マインドを超えて行かなければならないと読むでしょう。

人々は、マインドを超えてそれを手にいれるために、あらゆる種類の奮闘努力をします。そのシンプルさを理解することなく。ただほんの一瞬、思考を止めて、それでも命は続いていると理解するだけでいいのです。なぜなら、もしあなたがその思考なら、もしあなたがそのラベルなら、思考が止まったら、あなたは終わってしまうでしょう。

でもそうはなりません。そしてあなたは毎晩眠りに着く時に、喜んで「私」という思考を手放しています。しかも、あなたがそれを手放す時、少しも恐れていません。それは何を意味しているのでしょうか?あなたはそこに何か内在する知性や本質を認識しませんか?ラベルを貼らなければ、それはこの命です。そしてこの命には、「私」や「私に」や「概念」や「思考」や「考え」や「意味」は不要です。

外を見て、自然から自身の解決策をみつけてください。自然は機能していて、今この瞬間現れています。銀河は形成され、惑星は動き、地球は太陽の回りを回る。あなたは、誰か年老いた男が雲の上にいてそれをやっていると思っていますか? 地球を太陽の周りで転がしていると? そしてちっぽけなあなたが、もし正しいことをしないと、その男があなたをぶったたくと思っていますか? それとも、あなたが正しいことをすれば、あなたを素晴らしく神聖なものにしてくれるとでも思っていますか?

あなたは理解していますか? すべての微粒子の本質は同じで、その微粒子のパターンが形作られ姿となってすべての物となるということを。あなたがそれを調べるとそのパターンは物質や独立した物ではありません。それは私たちがその物質に与えている名前のような何か固まったり凝縮したりした実体のあるようなものではありません。

私がマインドを呼ぶとき、空(くう)のマインドと呼びます。認識する空(くう)。認識、すなわち知る働きで満たされた空(くう)です。私はそれを、知性エネルギーと呼びます。それはエネルギーの働きです。だれか今、認識できていない人はいますか? あなたはあれやこれやを知っているとか、何も知らないとか言うかもしれませんが、認識、すなわち自分の存在する感覚を否定できますか?

自分が本当は何なのかを味わって、自分が今まで一度もそこから離れたことがなかったということを認識してください。あなたはどんなことをしてもそこから離れることはできません。実際それはやって来ますが、どんな思考や感覚、感情や考えが浮かんでも、あなたはそこから離れることはできません。私が前に言ったことに戻ると、言葉は現実のものではありません。思考は単にエネルギーのパターンが振動したものです。

私たちはもっと信念のエネルギーをこれらの思考、言葉、感覚や感情に注ぐのか? それを現実と受け取り、それによって苦しむのか?

プリントを見てみましょう。ここにあったはずだ。
「あなたは悲しみを乗り越え、激痛に耐えているが、あなたが耐えているそのあなたを苦しめる言葉は、災害からやってきたものではない」
それは本当でしょうか? 私たちは言葉で自らを痛めつけています。

ニサルガダッタは言っています。
「予期せぬことはいつも起きる。期待したことや想像したことは決して起きない」
私たちは言葉を信じ、名前を付け、それが状況、言葉、考え、感覚、感情となって現れます。しかし、それらのうちのどれが実体や独立した性質を持っていますか?

私はこの「私」という言葉、今この「私」という言葉を使うが、どんな言葉を使うことも恐れないでください。巧妙に言葉を正さないでください。私はこんなふうやあんなふうに言わなければなりません。言葉ではないものが実在です。どんな言葉を私が使っても、それは単にラベルです。あなたはそれに縛られません。それを信じることにエネルギーを使わないでください。

聖書によれば、希望と恐れという二つの大きな問題があります。希望とは何ですか? それは今何かあなたが持っていないものがあるが、あなたがこの訓練をすれば、これを学べば、何かそういったものを身につければ手に入れる希望があるということを意味しませんか?それは未来の時間のことです。恐れもそうです。心配、不幸があります。なぜなら、私たちは自分のことを何か自分ではないものであると信じているからです。私たちは完全ではないし、完璧ではないと。これらのことを認識しなさい。それはフィクションであると。

私がここでおしゃべりしている間、あなたのうちの誰かが思考、感覚、呼吸、鼓動を止めましたか? 命は引き続き起こっています。たくさんのことがあなたの頭の中を占めているかもしれません。何人かの人はそれをあなたが得た信念と結びつけて、ゴミだと考えるかもしれません。また何人かはそれを現実ととらえ、放置しないかもしれません。

私たちが heart to heart と呼ぶもの。それがあなたの本質によって認識される場所。そしてその再認識の中で、それをありのままに見ることができ、それがあなたのものとなります。それは理解されるべきもので、対立して捨て去るとか、好きとか嫌いとか考えるものではありません。heart to heart は共鳴します。私は肉体の心臓のことを言っているのではありません。

ハートの中心は存在の中心です。私たちはそれからハートを取り除いてしまった。私たちはそれから本質を取り除いてしまったのではありませんか? 存在の本質を取り除いて、自己の中心から生きています。それが私たちのやっていることです。そしてそれが引き起こす問題を見てください。

なぜあなたは不幸だと人は言うのでしょうか? なぜなら、あなたが言う事すべて、あなたがすることすべて、あなたが考えることすべてが、あなたの問題だからです。そして本質はあなたにはっきりと示すでしょう。そこには誰もいないと。

もしあなたがそれを受け入れて、そこに自分を見つけられなかったら、あなたはそれを何に関連付けしますか? もしあなたが関連付ける概念上の態度やイメージがなかったら、あなたは何に関連づけしますか? 思考や感覚や感情はいつ止まるのですか?

調べてみてください。
アウエアネス(意識)やコンシャスネス(意識)のどこかに思考が張り付いていますか? そうではありません。顕現も同じように、空間に張り付いていますか? すべては空間の中に空間の内容物として浮かんでいますが、どれも空間には張り付いていません。

どんな思考もあなたの本質であるそれとは張り付いていません。
それは本当に何かに張り付いているでしょうか?
私たちはそれを貼り付けて概念や考えとして固定しようとします。
思考が思考にしがみつこうとします。
そして私たちが混乱するのも不思議ではありません。

もし自由に漂うことができるなら、この顕現に再び何が起こるでしょうか?
地球はどこか空で完全に張り付いているでしょうか?
それとも自由に空を動いているでしょうか?

(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)