2019/02/27

The Spiel ③ (2015.12.27)


                2015.12.27講話  (著作権者了解済み)

ここではあなたに何も教えはしないし、あなたに何かを知らせるわけでもないということを理解してください。それを理解することが大切です。私がするのは、それを指し示し、あなたが自分でそれを調べるように求めることだけです。

なぜなら、何かを受け取る人も何かを与える人もいないからです。私が指し示すものは決して新しいものではありません。何か新しい考えとかそういったものではありません。いにしえの聖書や聖典、宗教を調べてみると、それが一つの基本、基本的な本質から始まっています。

ヒンズー教ではそれを、アドヴァイタと呼びます。アドヴァイタは非二元と翻訳されます。そして彼らは非二元を「他に何もない一つのもの」と表現します。彼らが、他に何もないと付け加えるのは、一つという考えでさえ、他に何かあることを暗示しかねないからです。

他に何かあった場合はもはや非二元ではありません。それは二元的な考えです。(非二元では)それ以外には何もないと言います。仏教の根本的な本質も同じことを言っています。それは別の言葉で表現されています。彼らはそれを「概念化されない、永遠に新鮮な、いまここにある意識」と言います。

彼らはそれに「ただそれだけ他には何もない」と付け加えて、今ここにある意識を指し示し、今この瞬間、自分の存在に気づいていない人や、今ここにある意識が今この瞬間自分とともにはないという人はいないということを示しています。

頭に中にはあらゆる種類の概念があります。あれやこれやや、あのバカが言ったことなど他全部。(笑い)
これらの概念を打ち消すのは非概念だと彼らは言います。概念がどこに現れるかというと、自然に起こる永遠に新鮮な知る働きの中にであり、それがあなたです。それは自然に起こり、そこには時間がありません。

それが、私があなたに調べてみるように尋ねているものです。時間はメンタルの概念であると自分で調べてみてください。
一つの本質に話を戻すと、それはパターンとなりすべての物となって現われます。それはマハヴァキヤの大格言では偉大なマントラ「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と訳されます。誰かこの「それ」が何か言える人はいますか?

あなたは「それ」に、どんな正面も裏も、高さも深さを適用することも、どんな描写をすることも全くできません。どんなラベルを貼ったらいいでしょうか?
それは椅子、それはカーペット、それはビル、それはあなた、それは私。根底にある本質は「それ」ですが、私たちは「それ」にラベルを貼り付けます。

ラベル、すなわち言葉はそのものではありません。あなたは「水」という言葉を言うことはできます。あなたは言葉を飲むことができますか? それに溺れることはできますか? その中を泳ぐことはできますか? 言葉はそのものではないということを理解してください。火という言葉はあなたが話している時、あなたの口をやけどさせることはできますか?

あなたはそれで料理をすることはできません。あなたはそれで自分をやけどさせることはできません。あなたはそれで自分を暖めることはできません。それが、私が指し示していることです。言葉はそのものではありません。言葉はすべて、学んで獲得したラベルです。それを自分で調べて見てください。

あなたは言葉とともに生まれたわけではありません。誰も言葉とともに生まれては来ませんでした。すべての言葉は学んだもの、すなわち途中で身に付けたものです。それはすべて獲得したものです。ですから、あなたは「それ」を言葉で理解することはできません。でもそうできると考えています。

重要な宗教の伝承の中でもこのことは指摘されています。キリスト教ではこのことについて「偏在、全能、全知」と言います。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面を言っています。偏在とは完全な存在、全能とは完全な力、全知とは完全な知性。一つのものの三つの側面です。すべては実在のことを指しています。

それは現れ、パターンとなり、すべてとなって現われます。それは見かけの上では別々のもののように見えます。あなたは分離した感覚を本当だと思っています。その本質を調べてみてください。偽物は調査に耐えません。

中断(来客)

あなたが自分だと思っているのはその体とマインドですか? 私たちはそれがその人だという概念すなわち考えを抱いています。人(person)という言葉はどこから来ましたか? いにしえの言葉、persona、mask(仮面)からです。私たちはこの自分という仮面、概念上のイメージを被ったことを意味しています。それを私たちはこのパターン、形、姿に付け加え、自身を人、個人、分離した存在だと思っています。

もう少し調べてみましょう。もしあなたが自分はその体だと思っているなら、その体の中にそこからすべてが始まったという場所を見つけることができますか? ここから始まったという場所を。あなたは、ここから始まったというどこか決まった場所を正確に指摘できないことに気づくでしょう。

この体は何でできていますか? あなたはこの体が構成要素からできていると理解します。それは、土、水、空間、まさにあなたのまわりにあるような構成要素でできています。もしあなたが自分のことを分離した存在だと思うなら、自分自身をそれらの構成要素から切り離してみてください。

息を止めて、空気を取り入れるのを止めて、どれだけ長く自分をそれから切り離していられますか? 水を取り出してください。あなたの体は80%が水です。もしできるなら、水を分離してください。火、体温。もし体温がなかったら、低体温症になってしまい、長くは持たないでしょう。

空間から外へ出てください。あなたが調べてみると、あなたは自分が全くその体ではないことを理解するでしょう。この体は構成要素でできています。そしてそれら構成要素はすべて微粒子、純粋なエネルギーへと分解することができます。あなたは、その体はエネルギーのパターンが振動しているものに他ならないと理解するでしょう。

それならあなたはマインドですか? あなたはこのマインドと呼ばれるものですか? 私たちは、自分たちは、体・マインドの統一体だと思っています。もしあなたは自分のことをマインドだと思うなら、そのマインドと呼ばれるものを私に見せることができますか? あなたが調べてみると、あなたはそのマインドと呼ばれるものを全く私に見せることができないことを理解します。

あなたは、思考は別としても、マインドなどというものはないということを理解します。私たちは考えること、すなわち思考をマインドと呼びます。もしあなたがマインドなら、私たちはそう信じていますが、マインドは思考です、どの思考があなたなのですか? そしてあなたは、存在の感覚、自分が何者かという認識が翻訳され、「私はいる」という思考になってマインドに現われるということを理解します。

それゆえ、「私はいる」というのは原初の思考です。もしその思考があなたなら、あなたは自分を見失うことはない。でもあなたは毎晩眠りにつく時に、まったく自然に簡単にそれを手放します。ということは、あなたはその思考ではありえない。それに、あなたが一日中他のことを考えている時は、それはそこにはいない。

あなたがそれを調べる時、あなたがその思考ではありえないことを理解します。微妙なレベルでは結局思考とは何ですか? 考えること、思考とは何ですか? 思考とはバイブレーションではないですか? そしてバイブレーションはエネルギーの動きではありませんか? すべての言葉、思考は体と同じようにエネルギーの振動パターンです。

もう一度、すべてのものの一つの本質に戻ります。この顕現。この顕現を調べてみてください。そうすると、あなたはこの顕現が二元的な顕現であると理解するでしょう。そしてそれはそれ以外ではありえない。昼は夜無くしてあるでしょうか?静寂は音や動き無くしてあるでしょうか? 夏無くして冬は?

あなたは、この顕現はエネルギーのパターンが振動しているにすぎないと理解するでしょう。そしてそれはまた言葉や概念へと分割されます。昼と夜。冬と夏。私たちが充てた言葉が見かけ上の分割を作り出します。それは振動するエネルギーパターンです。いにしえの人たちは何年も前にこれを指摘する時、この顕現はマーヤーだと言っています。それは幻影です。

それには実体も独立した本質もありません。見かけ上、そう見えているにすぎません。別の言い方をすると、それは現象の宇宙です。現象からなる宇宙。現象の定義を辞書で調べると、「そのように現れる(見える)もの」です。それは見かけ上、そのように現われているだけです。現象の反対は実在で、非顕現です。

辞書による実在の定義は、非顕現、物ではない、空(くう)であり、それが実在です。ブッダはそれを、認識する空と言いました。それは私たちが空を認識するということではありません。そうではなくて、その空に満ちた知性が要素を認識し、すべての認識活動をしているということです。

ブッダは、空は形であると言って、その認識する空がパターンとなり、形作られ姿となり、全宇宙とその中のすべてとなり、顕現として現われていることを指摘しました。あなたはこの宇宙とその中のものと分離してはいません。言い方を変えると、形は空(くう)に他ならないとわかるでしょう。あなたがあなたや私と呼ぶ形や、その他の形も実在の世界では無であり、見かけ上は何か固い実体のあるものに見えますが、認識する空に他なりません。

そしてあなたは自分が体とマインドではないと知っています。あなたは「私の体」と言いませんか? あなたはまた、「私の車」「私のコート」「私の家」と言います。あなたはそれを言うのをためらいません。なぜならあなたは自分があなたの車やコートや家ではないと知っているからです。同様に、どうして自分が体だと信じることができるでしょうか? 「私のマインド」の場合も同じです。あなたは、あなたのコートや車や家ではないと知っています。

そしてあなたは「私のマインド」と言います。それは誰のマインドですか? あなたがそれを調べてみる時、どんなにそれが調査に耐えないかを知るでしょう。それゆえ私は、虚偽は調査に耐えないと言うのです。私たちは、私たちの言語の中でも同じことがあることを知っています。そしてそれは昔から人々が指摘してきたことでした。

ニサルガダッタは言っています。「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめるものはない」と。あなたはその真実を調べて理解してください。想像(imaging)とは何ですか? imaging-in? それは、私たちが概念のイマージを創造しているという意味です。そしてその本当の本質を理解しないで、そのイメージを実在だと思っています。

あなたが自分はその体とマインドの存在では全くないと調べる時、あなたは自分自身をこの顕現から分離することはできません。それを含んでいます。それはすべてのパターン、すべての姿、すべての形を含んでいます。というわけで私は言うのです。あなたが、それであるということを認識しているかどうかということから始めなさいと。あなたがそれ以外のものであったことなどありません。

そしてあなたは、もう既にあなたがそれである何かを探したり、獲得しようとしたり、それに至る方法を作ろうとしたりする必要はまったくありません。あなたはそれが不可能なことを知るでしょう。私たちが探す時、あらゆる種類の瞑想をします。サットサングに行き、あらゆる種類の実践をします。あなたは何かになろうとします。そして何かになることは(becoming)、在ること(being)ではありません。

あなたは今この瞬間、自身の存在(beingness)を否定することができますか? あなたは、もしあなたが「神」という言葉を使いたければ、至高の存在(Supreme Being)を「神」と呼びます。そしてあなたは自分のことを人間(human being)と呼びます。至高(Supreme)というラベルを取ってください。(human)というラベルを取ってください。ラベル無しで存在(beingness)を分割できるものならやってみてください。

そしてまた同じことは私たちの言語の中にもあります。それは椅子(That's being a chair)。それはカーペット(That's being a carpet)。それがあなた(That's being you)。それが私(That's being me)。それらすべてのラベルを取れば、あなたは存在(beingness)とともに残されます。

誰か自己の存在(beingness)を否定できる人はいますか? この部屋にいる人で、「私はいない」と言える人はいますか? もしそう言うことができたとしても、あなたは、それを言うことができる何かがいるということを認めざるえません。彼らはそれをConsciousness(意識)やAwareness(意識)と呼びます。それで私たちは「アウアネス(意識)」というものがあるという概念を得ます。

そして私たちは「アウエアネス」と呼ばれるものを探し始めます。でも今この部屋の中で今この瞬間、意識のない(unaware)人はいますか? あなたは言うでしょう。いいえ、私は意識がないことはない(No, I am not unaware)、と。もしあなたに意識がないことはないのなら、あなたに意識があるに違いない(You must be aware)。 何かを探すかわりに、あなたはもうすでにそれだということにどうして以前は気づかなかったのか?

そしてあなたは、アウエアネスはずっとあなたとともにあるということを理解します。でもアウエアネスはあなたがラベルを貼って理解したり、パターンや姿形に分割したりできるものではありません。あなたはそれを否定することはできません。この線に沿って調べて、あなたの真の本質を認識してください。

あなたはいつ始まりましたか? あなたは私に「私は生まれた」と言おうとします。でも、誰か自分が生まれた時のことを実際に覚えている人はいますか? そしてあなたは自分が生まれた時のことを覚えていないことに気づきます。あなたは自分が考える能力が発達する二歳か二歳半ぐらいの時点まで遡ることができるだけです。それ以前のことについては覚えていません。

どこであなたは始まりましたか? あなたの父親や母親が生命の本質を生み出すところまで遡ってみてください。知性エネルギーがパターンとなり、形作られ、あなたが父と呼ぶ姿になります。そのパターンが非常に小さな粒を形作り、精子と呼ばれる肉眼では見えないものが作られます。

同じように現れた生命の本質、あなたの母親に宿る知性エネルギーが別の小さな粒、すなわち卵子、パターンを形作る卵を作ります。卵子は他のすべてのパターン同様に、知性に満ちています。なぜならそれは、何をすべきかを知っているからです。それは自分で子宮を出ることを知っています。精子も知性エネルギーに満ちていて、何をすべきかを知っています。

それは泳ぎます。それは知性エネルギーに満ちていることを意味します。その二つが出会った時、精子は卵子の中へ入っていきます。そして細胞は知性を通して二つに分裂し、また二つに分裂します。それで、あなたは分離した存在として何かしましたか? あなたは、手や肺や心臓や脳を成長させなくてはいけない、と言いましたか? あなたはその時まだ脳さえ持っていませんでした。

内在する知性エネルギーは、今日でもあなたが個人として知っていることよりも多くのことを知っていることを理解してください。それは何をすべきか知っています。それは細胞を分裂させることを知っています。あなたを形作る青写真は、二つが出会った時にそこにありました。そしてそれが今日いるあなたです。その青写真はあの本質の中にありました。その本質がそのパターンを作りました。

そしてそれ以来ずっと、「それ」があなたを成長させ、あなたを生き、あなたとなって現われています。そして二歳か二歳半ぐらいの頃、考える能力がその形の中で発達します。ところが一方で、人間が持つその能力を他の動物、鳥、昆虫は人間と同様には持っていません。でも彼らは、私たちが持っていない能力を持っています。

例えば鳥は、私やあなたよりもはるかに良い視力を持っています。鳥は飛ぶ能力を持っています。私たちは通常その能力を持っていません。しかし、私たちは考える能力によって、メガネを作ったり、双眼鏡や望遠鏡など、もっと良く見えるものを作ったりすることを学びました。そしてその考える能力で飛行機、ヘリコプター、カイトやバルーンなど飛ぶことができるもの何でもを作ることを学べました。

犬は嗅覚を持っています。犬は私やあなたよりはるかに良い嗅覚を持っています。トラやレオパードやその類の動物には縞や斑点があり、彼らの毛皮は自然なカモフラージュとなります。そのことが、彼らを優れた捕食動物にします。
内在する知性エネルギーはどんなパターンが必要かを知っていて、そのパターンとなって現れています。

では私たちには何が起こっているのでしょうか? 小さな子供が生まれた時、その小さな子供を見てください。小さな子供は自分が分離した存在だというどんな考えも持っていません。小さな子供は自然に、自発的に、努力することなく機能しています。興味が湧けば手を伸ばし、好きでないなら押しのけます。

悲しければ泣き、幸せなら笑って喉を鳴らします。でも子供はその段階ではどんな言葉や概念も学んでいません。というのも、考える能力がまだ形作られてないからです。二歳か二歳半に考える能力が発達し始める頃、親から言葉を学びます。親はあなたのまわりであれこれ言います。幼いジョニー、かわいいビリー、あなたはいい子ね、おまえは悪い子だ、おまえはあれこれだ、と。

そして子供は「私」「私に」といった言葉を学びます。そして今、あなたのマインドを調べて、それがどういうふうに機能するかを見てください。マインドはそれが機能する時、とても機械的に動くとわかるでしょう。シェイクスピアは言っています。良いも悪いも、快も不快も、幸せも悲しいも、愛も憎しみも、肯定も否定も、いつもそれは互いに関連する反対の極に振れている。そして私たちがそれに与えている境界や限界は、言葉によってです。シェイクスピアは言っています。良いも悪いも人の思考がそうしているにすぎないと。

そこには私たちが貼り付けた境界があります。これがあれで、あれがあれでと。言葉を貼り付けなかったら、それは何なのでしょうか? 自然を見てください。自然は二元的な顕現です。自然は言葉を学びましたか? いいえ。自然は昼と夜を、冬と夏を、良いとか悪いとか心地良いとか悪いとか比較しません。すべてがあるがままで起こるがままです。私たちが絶えず比較しているかどうかにかかわらず。これは良い、あれは悪い、私はそれが好きだ、嫌いだ、心地良い、不快だ、と。

そしてそれはすべて、「私」という思考に関連しています。「私に」。かわいいジョニーは「私」や「私に」といった言葉を学びます。「私」や「私に」の反対は何ですか? それは「私」や「私に」ではないものではないですか。その時、私たちに分離した感覚が起こります。子供に考える能力が発達する前、すなわち言葉を覚える前は、子供はすべてをあるがままに見ていました。

あるがままというのは、変えたり、修正したり、正したりしないということです。すべてそのまま。そして彼は今や言葉を覚えました。そして、「それはかわいいジョニーには合わない」から、それは「私」のはずがないと考えます。「それは私のはずがない」という感覚とともに、分離感がやってきます。その分離感と一緒に、不安や傷つきやすさがやってきます。

私たちは不安や傷つきやすさを理由に探求を始めます。その不安や傷つきやすさで何が起こったか。幼い子供は暖かくて愛情ある家族を好みます。暖かくて愛情ある家族と一緒にいると、より一層安全を感じ、傷つきにくくなります。家族と離れると良い感じがせず、孤立や孤独を感じます。家族が部族となったのは、そうやってかって起こったことではないですか?

部族がより大きくて強いほど、より安全で傷つきにくくなります。それが今日でも続いているのではないですか? 部族が国家となり、国と国がその不安や傷つきやすさのせいで戦争をします。私たちは立ち止まって、私たちは最初から分離した存在ではないと認識したことが今までにありますか?

私たちはこの分離感を受け入れたために、すべてが相対的になりました。私たちはこの「私」をどうすることもできません。それではどうしますか? 私たちはそれに出来事、経験、条件付けを加えます。出来事が私たちに起こると、それを「私」に付け加えます。私はボブ、オーストラリア人、私はいいやつ、あんまりよくない、みんな私が好き、みんな私が嫌い、などなど。これらは全部、「私」に付け加えられた概念です。

そして「私」は今や概念上のイメージを持っています。「私」は、考えや概念や思考でできた自身のイメージを持っています。それは自分に関して起こった出来事や経験、物事にもとづいています。そしてその概念上のイメージを私は基準点と呼びます。それは自己の中心、すなわちエゴです。聖典では、あなたはこのエゴを取り除かなくてはいけない、このエゴが問題である、取り除いて、踏みつぶし、カーペットの下に押しやれと言っています。

ここで私は、もしあなたが調べてみれば、エゴはフィクションであるとわかると告げます。初めからそれは存在しません。それは概念上のイメージにすぎず、信念のエネルギーが「私」に入って、見た目上本当に見えるものです。そうしてすべてのものがその「私」に対して相対的になります。相対性は二元性です。そのため、すべてがそのエゴと関連しています。関係性。

関係性は二元性です。私は最初に、非二元の中には決して二元性は存在しないと指摘しました。それは見かけ上そのように現れているだけです。そこにはどんな二元性もありません。私がいつも言うように、あなたがそれを知っていようがいまいが、あなたはもうすでにそれであるという事実から始めてください。あなたは今までもずっとそれでした。

あなたは分離した存在であるという架空の見地から何かを理解しようとしても意味がありません。それは決してできません。あなたは、やりたければあらゆる瞑想、あらゆるサットサングや訓練などをすることができます。でもそれは決してうまくいきません。なぜならあなたは、その必要のない何かを定着させようとしているからです。

あなたは今まで、そしてこれからも、それです。あなたは自分で調べて、自分は決して分離してはいないと理解すればいいだけです。このエゴ、信じられている存在を認識してください。どう思いますか?私たちはエゴもコントロールしていると思いますか? 私たちはそれを実在だと思っています。幼い子供にはエゴはありませんが、そこへ何かがやってきます。おさない子供が機能するやり方を見てください。

あなたはその子が見て、聞いて、味わって、触って、嗅ぐのを見るでしょう。その子はそれを何にも関連付けていません。子供は何か好きなものに引き付けられ、好きでないものは押しのけます。子供はまったく努力なく、自発的に自然に機能します。今では言葉を知っているので、私たちは自分のことを、内在する知性よりも賢いと思っています。

それは知性エネルギーと呼ばれています。あなたは、それもまた概念だということを理解しなくてはいけませんが、私は「神」という言葉を全く使いません。なぜなら、その言葉を使うと混乱してしまうからです。というのも、私たちは異なる伝統、異なる背景から来ています。ある人は不可知論者で、ある人は無神論者、ある人はクリスチャン、ヒンズー教徒、ムスリム、仏教徒、ユダヤ教徒です。

もし私が「神」について話し始めると、あなたはそれをあなたの条件付けられた信仰と関連付けてしまうでしょう。では何と言いましょうか。私は知性エネルギーという言葉を使います。あなたは、またそれも概念であることを理解しなくてはいけません。それはそのものではありません。それは指し示す方法です。言葉は実在ではないと理解してください。

あなたは言葉を使うことはできますが、それが何か物であるという概念に縛られないでください。そしてあなたは、「私はいる」という概念を身に付けました。あなたは「私はいる」という言葉を学びました。あなたは「私がいる」や「私」という言葉では大したことはできません。私たちはそれに、出来事、経験や条件付けなど、私たちに起こることを、その「私」に付け加えました。

私たちは、うわべ上ではそれに実体を与えます。私はボブ、私はオーストラリア人、私はいいやつ、みんなは私が好き、みんなは私が嫌い、私は不幸、私は憂鬱。これらの概念はすべて、それに付け加えられます。そして信じるエネルギーがそこに入り、うわべ上は本当のように見えます。それは実在で確かな実体のあるもの、私、ボブがここにいるように見えます。

幼い子供は自然に機能して、これらの言葉を学び、同じことが起きます。子供はうわべ上確かな存在を受け入れ、それが自分と関連しているものになります。そして自然な機能はどこかへ行ってしまう。なぜなら、私たちはその内在する知性エネルギーよりももっと賢いと思っているからです。

私が知性エネルギーと言う時、この宇宙を機能させている知性と同じもののことを言っています。この宇宙を見て、それを調べてみてください。銀河は形成され、惑星は動き、地球は太陽の周りを回る。季節がやってきては去り、潮は寄せては引く。そのことは、自然はそれ自体が内在する知性エネルギーに満ちていることを暗示しているのではありませんか?

もしあなたが気に入ればあなたのためにそれをやり、もしあなたが気に入らなければあなたを痛めつける誰か年老いた男が雲の上でひもを引いているわけではありません。それは機能しています。すべては内在する知性エネルギーの中でパターンとなり、形作られ、姿となります。あなたもその自然と同じです。

あなたはその同じ知性エネルギーが心臓を鼓動させていることを理解します。それがあなたに呼吸させています。それがあなたの髪や爪を伸ばし、食べ物を消化します。体の中で細胞を置き換えています。あなたはそれについて何をしていますか? あなたはそれが自発的に自然の起こっていることを理解します。

私たちはそれを見失っています。なぜならこの「私」がやって来るからです。私たちは、「私」がそれをやていると思っています。私が仕切っていると。それが、思考がやって来た時に起こっていることです。それが自然に起こるに任せるかわりに「私」という記憶に関連付けてやっていることです。そして「私はそれが好き」となります。どうしてあなたにそれがわかりますか?

ええ、私には以前にその経験があります、それは良い経験でした。私たちは良い経験を手放したくありません。でも思い出してください。この顕現はマーヤー、すなわち幻影であると言われています。私たちはそれを手放したくありません。

(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)