2019/02/24
The Spiel ② (2017.1.1)
2017.1.1講話 (著作権者了解済み)
みなさん、明けましておめでとう。
実際にはすべての年が新しい年ではなく、すべての瞬間が新しい瞬間、すべての秒が新しい秒、すべての分が新しい分、すべての日が新しい日、すべての月が新しい月、そして新しい年となります。それは、新鮮で新しい。
そしてそれはこう言われています。「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識」。そこに時間はなく、新鮮で自然に起こっています。私たちは、その知性エネルギーの自然発生的なパターンです。私たちの本質は知性エネルギーです。
しかし、パターンは絶えず変化しています。あたかも波や、さざ波が海の上でしぶきとなって絶えず変化するように。それはいつも、そしてこれからも水すなわち海です。
みなさん全員が以前ここへ来たことがあるから知っているように、ここではあなたに何も教えはしないし、あなたに何かを伝えるわけでもありません。
なぜなら、それを教えることができないからです。どうして一つの波が別の波にどうしたらいいか、どうやって波になるかと教えることができるでしょうか? それはできません。同じ海が波となり、その波が消えてまた海に帰っていく。また別の波が現れ、それは新鮮で新しい。それは私たちが我々と呼ぶパターンと同じことです。
私たちは、見かけ上はしばらくの間、あたりをうろついています。でもそれは本当でしょうか? というのは、あなたはこの部屋に入って来た時と同じ体ですか? あなたは、この瞬間にもあなたの体の細胞が死んで入れかわって常に変化していると知っています。五年前、六か月前、十年前と同じ体ではありません。
それは常に一時的なもの。顕現そのものが一時的なものと言われるように、一時的なものです。それは常に変化しています。しかし、それは連続、速い動きの中で見かけ上は連続しているように見えます。その自発生の中で、それは同じ本質の連続に見えます。
でも調べてみると、それは同じ本質で、同じパターンです。あなたが、私が言ったように体と呼ぶパターンを調べてみると、それは全くいつも同じ体ではない。あなたが子供の頃のことを聞かれ、あれが起こった、これが起こったと言うでしょう。「どうしてそれがわかる? あなたは今と同じ体でしたか?」とあなたは聞かれる。いいや、違う。
その時あなたは、今と同じ思考や概念やイメージを持っていましたか? そうではありません。何がそれを知っているのですか? あなたはそこに、思い出すことができる本質的なものが内在することを理解しなければいけません。あなたは、それが起こった時、「私はそこにいた」と言うでしょう。何がそこにいたのですか? それは「私」という思考ですか?
あなたがまだ二歳か二歳半になるまでの、物心つく前の幼いころ、あなたは言葉を全く知らなかった。それでどうして「私はそこにいた」と言うことができるでしょうか? 「あなたは自分が生まれた時のことを覚えていますか?」と聞かれ、自分がそれを覚えていないことに気づくでしょう。しかしそれでもそこには、知る働き(knowing)はありました。それが、私たちが理解しなくてはいけないことです。
顕現は常に変化しています。そしてあなたは、顕現と別のものではなく、分離することもできません。いにしえの聖典ではそれをマーヤー、幻影もしくは現象の現われと言います。現象という言葉の定義を辞書で調べると、「現われ出るもの」です。それは見かけの上だけです。それは見かけの上では、固い実体のある現実的なものに見えます。
でも詳しく見ると、偽物は調査に耐えません。それが本物であれば調査に耐えるでしょう。本物でないものは、あなたが調査すれば、持ちこたえられない。誰が、何が、調査しているのか? それは「私はその時のことを覚えている」「私が子供の時そこにいた」と言って「私」というレベル貼りをしている存在ではありえないでしょう。
それは純粋な知性エネルギー、すなわち知る働きと同じ本質です。そして顕現がどういうふうに機能しているか見てください。銀河、惑星、星、山、川、小川などなど。このことは、顕現が内在する知性に満ちていることを暗示しているのではないでしょうか? 誰か雲の上で、あなたの祈りを受けて、あれやこれやをしてくれる年老いた男がいるわけではないのです。もしあなたが悪事を働けば痛めつけるような。
それはそのようなものでは全くありません。それはすべての微粒子の中に満ちています。そしてあなたはその顕現と別のものではありません。あなたの体のすべての微粒子、細胞も同じです。あなたがそれを、私の、あるいはあなたの体と呼ぼうが、それは表現の一方法ですが、それは内在する知性に満ちています。なぜなら、あなたの体の中で細胞が死んでいます。そして次の細胞が生まれています。もしそれが肝細胞なら、それは心臓、目、耳、肺にはなりません。それは肝臓を再建します。
それは、それが知性に満ちていて、どこを再建するのか、再建が必要なのかどうかを知っているということを意味します。私たちは私たちが分離した存在、個人、人間であるという考えを受け入れていますが、調べてみれば、分離した存在ではありえません。個人ではありえないと知るでしょう。
個人という言葉(individual)でさえ、それは分割できない(undivided)という意味ではありませんか?それでも私たちは個人を分離した存在、人間と考えています。でもそうではありません。今までも、これからも。それが、私がここで指摘していることです。それが、その線に沿ってあなたに自分自身で調べてほしいことです。なぜならすでに述べたように、一つのパターンが別のパターンに向かって何かをしろとは言わないからです。
振り返って鏡を見てください。鏡の中にはたくさんの像が映っています。その像があなたの隣に座って、あなたにあれをしろ、これをしろ、あれになれと言うことができるでしょうか? それは像なので、そんなことはできません。それは固い実体のあるものとして見えているにすぎません。行って掴んでみてください。自分自身で、それがあるのかないのか確かめてみてください。あなたはガラスを掴むだけです。私たちは鏡そのものを実際には見ません。
私たちは決して鏡の表面を見ません。なぜならその鏡は映った像でいっぱいだからです。どんな鏡をのぞき込んでもそうなるでしょう。空間、すなわち空白は空間のように映ります。それは空間を映します。それは何もないガラスのようではありません。でも私たちは調査したので、それが鏡で、その前に何もなかったら何も映らないということを知っています。反射面は像が反射するようにガラスの後ろが塗られています。
このように、ほんのちょっと調べるだけで違いが明らかになります。私たちが自分自身だと信じている体と心の正体を調べることを忘れないでください。あなたは、それは同じもの、同じ生命の本質だと知るでしょう。それがパターンとなり形作られ姿となって現われます。同じ生命の本質が雲となり、太陽の周りで地球を回し、潮の満ち引きを起こし、季節、冬と夏、秋と冬、これらすべての顕現となって現われます。
自然に、絶えず、常に、新鮮で、常に新しい。そしてそれは自ら輝き、自ら意識していて、自ら認識している。私たちは(自己実現)を達成しなければならないとは言えないのではないでしょうか? 私たちは私たちが自己と呼ぶこの存在を自己実現しようと考えるが、その自己実現はそれ自身で自己実現しています。
太陽はそれ自身で輝いています。アウエアネスはそれ自身で意識しています。それは一つの本質が現われてパターンとなり、すべてとなって現れているものです。それがあなたの本質です。あなたはそれです。マハーヴァキヤの大格言では、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言います。その「それ」とは何でしょう。私たちは「それ」を耳にします。「それ」はいい。あなたはその「それ」を調べたことはありますか?
あなたは彼らが何のことを言っているのか、すなわち彼らが五つの独立した要素のことを言っているということを知るでしょう。ヒンズー教の五つの要素。彼らがそれを、サット・チット・アナンダ・ナマ・ルパと呼ぶ時、それは存在、意識、至福、名前、形です。そして名前と形は実在ではありません。それは見せかけです。それは現実のものではありません。それは見せかけだけのものです。
でも、サット・チット・アナンダは実在です。サットは存在、チットは意識、アナンダは至福です。誰か今この瞬間に存在していない人はいますか? 誰かこの瞬間に意識のない人はいますか? 誰かこの瞬間に存在することを愛していない人はいますか? それは至福の別の言い方です。私たちは至福という考えに凝り固まり、取り違えたり見失ったりしています。私たちはそれをそのままの状態で永遠に留まる何か恍惚とした高揚した精神状態のことだと思っています。
しかし、至福とは、あなたが前日ぐっすり眠った時に、至福の眠りだったと言うように、それは平穏すなわち平静です。そこには正しい悪い、高い低い、心地良い悪いはありません。それは単に存在する喜びです。存在の喜び。ただ単に存在への愛です。この瞬間の直接性の中で、自然に起こって常にそこにある。それが彼らの言っていることです。
あなたが、「我はそれなり」と、そして彼らが、「それとして生きる」と言う時、彼らは何のことを言っているのでしょうか。存在として生き、意識として生き、存在する喜びとして生きること。それをまた別の表現で言うと、存在する意識は至福であるということ。サット・チット・アナンダ。存在する愛情のこもった意識。その本質を大切にしてください。自分自身を愛してください。
それを表現するにはたくさんの違った方法があります。意味は同じですが、言い方が違います。もしあなたがそう言いたければ、神の本質という言葉を使ってもいい。
アウエアネス、コンシャスネス(意識)、または自ら知る働きもしくは、目覚めている状態、純粋な存在。すべて異なるラベルが貼られています。自ら認識し、自ら輝く、あらゆる異なるラベルが同じ本質に付けられています。
そして私達は異なる概念を貼り付けた言葉によって見失います。そしてもう一度言うと、自ら輝き、永遠に新鮮で概念化されない意識。仏教徒はそれをある言葉で言いました。彼らはそれをゾクチェンの教えと呼びました。ゾクチェンは「大いなる完成」という意味です。大いなる完成は概念化されない意識です。
どんな概念もラベルも貼られていない意識のことです。そしてそれはまた、私達が今まで、そしてこの先持つであろう唯一の問題は概念化であると指摘しています。概念とは言葉です。私達が頭の中で作り上げたものです。それはとても役に立つものですが、それが私たちの唯一の問題でした。私たちがマインドと呼ぶものを調べると、それは概念です。マインドなどというものはありません。
思考の力、マインドの力、その他の力。たった一つの力があるだけです。全能の完全な力。偏在、直接性、完全な即時性。それはすべての未来、すべての過去の時間だけではありません。それは偏在です。そして全知、完全な知性。それはあなたが明日や昨日のことを知っているということではなく、今この直接性の中、全知の中で起こっているということです。純粋な知性、純粋な知る働きです。
誰か今、その知る働き、すなわち存在、見る働き、聞く働きを否定できる人はいますか? これらのことを調べると、それはすべて、この直接性の現実の中で起こっています。そして私たちはそれを概念化して、過去や未来のことや過去の出来事や経験、概念や想像した未来の出来事に関連付けて話します。
ニサルガダッタは言います。あなたの想像以外、何もあなたを苦しめない。私達がうまくいかない時、何を想像しているのでしょうか。別の言い方をするなら、私達はメンタルイメージを作り出しています。ちょうどあの鏡の中の像のように。そしてあなたは鏡の中の反射、すなわち像が実在ではないことを知っています。
そして壁にかかっている絵や写真。それはイメージであり、実在ではありません。あなたが自分自身に対して抱いている思考や概念がメンタルなイメージだと理解した時、それらの概念はメンタルイメージであると理解した時、あなたはそれを信じ続けますか?
あなたはそれについての真実を知り、それを自由に利用することができます。でも、それが何か現実のものであると考える時、何かを避け、何かに執着しようとします。私達はそのあるがままを変えたり、修正したり正したりしたくなります。そして、ありのままを変えたり、修正したり正したりしたいと思って葛藤し、拒絶します。葛藤と拒絶は不健全な状態です。それは不安、不幸、罪悪感、恥辱、後悔、憂鬱を引き起こします。
これらのことは、いつも私たちに起こっている葛藤によって引き起こされます。そしてそれは、一本の棒の一方の端である良い方にばかりには動きません。それは逆方向にも動きます。両方の端へと動きます。なぜなら、あなたがそれを見る時、そこに何かあなたの好きなものがあれば、あなたはそれをそのままにしておきたいと思います。
そしてそれが行ってしまいそうになると、それに抵抗して、そこに留めようとします。もし何か嫌いなものがあると、あなたはそれを取り除こうとします。そしてまた抵抗します。そうやって絶えず抵抗が続きます。ありのままをそのまま受け入れるかわりに。
二元性のために、それは一時のこと、それは変化するということを理解してください。あなたの体、あなたの命は変化します。あなたの思考、フィーリングと感情、すべては束の間のもので絶えず変化します。でも私たちは手に入れられないものを手に入れようとします。
実在は常に新鮮でいつも存在する本質です。それがあなたです。あなたのありのままの存在を認識し、愛する。それが、私が指摘し、あなたに問うていることです。そのように調べてみてください。もしあなたが調べるためにもっと興味のある方法があれば、今は新しい年の始まりですから、それをしたらどうなるか、どうあなたの生活に影響するのかちょっと振り返ってみてください。それを調べたら何が起こるか。調べなかったら何が起こるかを。
もしあなたがそれをしても何も得られないだろうと、そうすることをためらわないでください。ある人は、こんなことやあんなことを言ったら人があなたのことをどう思うだろうかと恐れるかもしれません。もちろん人はそう思うかもしれません。でも彼らはそのことに対して概念を抱いているだけかもしれません。あなたは彼らが言うことに対して違った概念を抱くでしょう。
ではどちらの概念が正しいでしょうか? あなたは概念の無いのが正しいと知っています。多くの聖典の中ではそう言われています。あなたはもうすでにそれであるという確かな信念を持ってください。確かな信念を。我はそれなり。ただぶつぶつと言うのではなく、私がその実在であり、私がその意識であるということを理解してください。その事実を確信してください。そうすればきっとそれが実在として、認識として、現実として、真実として現れるでしょう。
その認識とともに、あなたはそれから逃れることはできないと理解するでしょう。あなたはそれが思考、フィーリング、感情などによって、見かけ上不鮮明になっているということを知りません。それは見かけ上そう見えているだけです。それは決してそうではなかったし、これからも決してそうではありません。それがそこにあるすべただということを理解してください。すべてのものがそれです。調べてみてください。
それは椅子、それはカーペット、それは虫、それは木、それは花、それはあなた、それは私。「それ」というラベルを私たちは貼りつけます。私達が学んだ、私達が必要な言葉を貼りつけています。それに気づいてください。あなたが今までに使ったすべての言葉やこれから使うために学んだすべての言葉は、あなたが生まれてきた時には知らなかったものです。私達は言葉に概念を加えました。言葉は物ではりません。例えば、水という言葉。もしできるなら、その言葉を飲んでみてください。言葉で洗濯ができるかやってみてください。その中を泳げるか、溺れることができるかやってみてください。できません。
あなたが話す時、火という言葉があなたの口をやけどさせることができるでしょうか? できません。その言葉で料理ができますか? 自分を暖めることができますか? できません。言葉ではできません。では、「私」「私に」という言葉は何ですか? それは私達が自分たちに抱いている概念上のイメージから自動的に来ています。私、ボブ、オーストラリア人、いいやつ、などなど。それは既には死んだイメージです。なぜなら、それは過去の出来事や経験に基づいているからです。それは今この瞬間のそのものに基づいてはいません。
「私」は死んだイメージに関係付けられています。人生をうまくやっていけないのも無理はありません。人生はいつも瞬間的なものです。それは常に変化していて、常に新鮮です。それを認識し、それとともに変化してください。そういうものとして受け入れるのです。絶えざる変化を受け入れるのです。川のように、それは絶えず変化しています。
川からバケツ一杯の水を汲んでみてください。土手に置かれた、そのバケツ一杯の水は死んでいます。それは淀んでいます。それは少しも良くない。それはもう生きていない。私達がマインドと呼ぶものも同じことです。マインドは死んでいます。それにはどんな実体もなく、どんな独立した本質もありません。すべての思考は新鮮で新しい。それは新たな始まりです。古い思考、過去の出来事は死んでいます。それはもう終わっています。
私たちは過去のことを持ち出して生活に関連付けようとします。常にこの瞬間にいて、常に新鮮で永遠に新しい概念、イメージ、考えが絶えず現れるのを許してください。それはどこから現れるのか? あなたは体のどこかにそれを見つけることができるでしょうか? あなたは脳、頭からと言うでしょうか? 生命の本質が体の中をめぐっていなくて、脳はどれだけの思考を利用できるでしょうか?
それは思考がやってくるための装置です。目が見ることが起こってくるため装置であるのと同じです。耳は聞くことが起こってくるための装置です。それらは装置です。でも、生命の本質がなかったら、あなたのコンピューターはあらゆる種類の・・。
半導体とかそういったものは情報伝達の装置です。でも、電気が通ってなかたら、コンピューターは・・・。
生命の本質があなたの体になかったら私たちの体はどうなるでしょう? 昨夜メルボルンで死んだ人全部のことを考えてみてください。人々はその人たちをどうするでしょうか? 回復させるために体を叩いて、命が戻ってくるようにするでしょうか? それとも、彼らは死んだと理解するでしょうか? 私達は死を理解しません。私達は死のあれやこれやや、殺人や起こっている事を心配しています。でも、おそらく200人の人が昨日メルボルンで死んだことを理解してください。
私たちはそんなことを考えもしません。毎晩同じ事が起こっています。翌日書類を受け取ると死亡通知が記載されています。人々はいつも死に、人々はいつも生まれています。数千人の人が災害で死にます。人々は餓死します。時代を遡ってみれば、数百万の人が飢饉、疫病などで死にました。でも、自然、知性エネルギー、生命の本質は何をすればよいか知っています。それは自然にひとりでに回復させます。ひとりでに解決させます。ひとりでに再生させます。永遠に新鮮で永遠に新しい。
16世紀の僧、盤珪 (ばんけい)はそれを「不生の仏心」と呼びました。そのマインドは生まれていない。思考が生まれるマインドがない。マインドは二歳か二歳半ぐらいに、「私はいる」という思考とともにやってきます。その時それが生まれたように見えます。現実の世界にやってくるように。彼は、不生の仏心の中ではすべてが解決されていると言います。言いかえれば、自然はひとりでに解決するということです。
私たちの視点から見れば、自然界はとても無秩序の状態に見えます。全体性から見れば、自然は見事に解決しています。火山が噴火し、津波がやってきて、火災が起こり、高波が押し寄せ、あらゆることが起きています。氷河期やその他の時代があり、自然はいつもひとりでに自然に解決しています。
私たち、この小さな存在はこれを変えようとします。その思考もまた、知性エネルギーがなかったらやってきません。多くの人が世界のいくつかの出来事を変えようとするでしょう。でも、それをやっていると信じている存在はいません。彼らは、それなしではそうした考えを持つことさえできません。
同じように、自然(本質)そのものが、ひとりでにそれをやって、私たちの問題を解決しています。
今日はこんなところです。
受け取ってください。
(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)