1998年アムステルダムでのTVインタビュー
(32秒後に英語でのインタビューが始まります。このビデオは「ただそれだけ」p82に出てくるアムステルダムでのドイツのテレビ局によるインタビューです)
聞き手:ようこそ、ボブ。
ボブ:サンキュウ。
聞き手:あなたは内側の世界だけでなく、世界もまた多少旅してみえるわけですが、それは別にしても、セイラーボブというのは興味深い名前ですね。
ボブ:そうですね。
聞き手:あなたはオーストラリア人ですか?
ボブ:ええ、オーストラリア人です。オーストラリアのメルボルン出身です。
聞き手:オーストラリアは広大な国ですが、そこも旅されましたか?
ボブ:ええ。羊毛刈りの他に・・・。
聞き手:え? あ、羊のことですね。
ボブ:ええ。そして炭鉱でも働きました。
聞き手:きつい仕事ですね。
ボブ:ええ、きつい仕事です。他にもそういった仕事などをしました。
聞き手:私が説明しなくてはいけないことの一つは、あなたはたくさんの探求者を引き付けていますが、探求はあなたのメッセージではなく、あなたのメッセージは、私たちは探求する必要がないということです。
ボブ:そのとおりです。
聞き手:どうして私たちは探求する必要がないのでしょうか?
ボブ:なぜなら、あなたはもうすでにあなたが探しているものだからです。いにしえの聖典は教えています。神は全能、全知・・・、全能であると。そうであれば、その他の人や物に、どういった余地が残されていますか?
聞き手:それは、私たちは神の一部、つまり、私たちは神であるということですね。
ボブ:ええ、私たちは神です。
聞き手:たいていの人にとって、それを理解するのは難しいことです。というのも、私たちはそれほど幸せではないと思っていて、常に物質的な物や愛情、そういったものを求めているからです。あなたの人生において、それはどのように起こったのですか? あなたはまだ、「私は探求者ではない」と偶然にも、ええ、たぶん偶然にだと思いますが、言った時の話をしていません。
ボブ:私の人生では自己破壊的になっていた時期がありました。何年もアルコールの問題がありました。私は若いころから、神、高次の力、何と呼んでもいいのですが、どんな信仰も持っていませんでした。言い方を変えれば、そういった分野は閉ざされていました。でも最終的に、「12ステップ」の集まりに出会いました。
聞き手:それはとてもよく知られているものですね。12ステップとはアルコールや薬物中毒者向けの自己認識プログラムのことで、12ステップと呼んでいるのですね?
ボブ:そうです。そのステップの一つは、自分以外の力を信じなくてはいけないということです。なぜなら、その解決は霊的なものだからです。でも話したように、私には信仰がありませんでした。それでも驚いたことに、この集まりに出会い、私は酒をやめることができました。そして、「Sobriety and Beyond by a Catholic priest(カソリック神父による禁酒と超越)」という本を読みました。そこで、「私たちアルコール中毒者は人生において、もう一度チャンスが与えられている」という短い一節に出会い、それは正しいと思いました。なぜかというと、そのころの私は働くにも適さず、無職で、絶望してどうしようもない状態で、そんな時にその集まりに出会ったからです。なんとか酒はやめたものの、しばらくしてエゴの傲慢さが戻ってきて、また酒に手を出しました。でもこの本を手にして「私たちアルコール中毒者は人生において、もう一度チャンスが与えられている」と読み、なんとなくそれが私に必要・・・。
聞き手:それがあなたに必要だったのですね。
ボブ:それは必要でした。それは、まるでお腹を一蹴りされたようなものでした。根底にあったのは、そのもう一度のチャンスをどうやって活かしたらいいのかという問いでした。私がもう一度のチャンスを与えられたと思った時、私はまだ今日のような状態ではなく、そうなりたいと思っていましたが、それでも酒に手を出し、以前と同じような生活に戻る可能性もありました。というのも、そういう生き方を条件付けられていて、それが唯一の生き方だったからです。
聞き手:率直に言わせてください。あなたは酒をやめた。仕事もなく、収入もなく、やめざるえなかった。そして、12ステップに参加して、酒をやめると決心した。でも実際のところは強制的にそうせざるえなかったのであって、あなたの内側からのものではなかった。
ボブ:ええ。それは全く選択の余地のある行為ではありませんでした。もし選べるなら、また酒に手を出していたでしょう。どうしたら、もう一度のチャンスを活かすことができるだろうという問いがまた私を襲いました。その考えが起こった時思ったのは、そのもう一度のチャンスを活かす唯一の方法でした。そして私は、私にもう一度のチャンスを与えたのは何物なのかを探しました。神というようなものがいるのだろうかと。
聞き手:並外れた力?
ボブ:真実、もしくは実在です。それが調査の始まりです。
聞き手:その時何歳でしたか?
ボブ:まだ32歳でした。
聞き手:あなたはまだ若かったが、いくつかの苦難のために探求者になった。私たちはそう呼ぶのですが。そうでしょう?
ボブ:ええ、今はそれが自分の決断ではなかったとわかるのですが。
聞き手:それは起こったのですね。
ボブ:ええ、そうです。
聞き手:それは起こった。それは多くの人に起こった。私たちの多くは探求者です。そして悲しいことに生涯探求者のままです。私たちはある本から別のグルへ、サードチャーチへ、カルトへと、常に探求しています。今日でさえ新聞を開けば、とても多くの魅力的な見出しに出会います。「これは真実です」と。そして私は読み始め、失望するのです。なぜかというと、その本を書いている本人がそれを実践していないからです。
ボブ:ええ。
聞き手:それからあなたは世界を巡り始めたのでしたか? それとも、オーストラリアの街を探索したのですか?
ボブ:ええ、私は西洋人ですから、当然キリスト教を最初に調べました。そこでたくさんの救いをえましたが、何かに引っ張られかのように、1962年だったと思いますが、マハリシがオーストラリアに来た時・・・。
聞き手:それは、マハリシ・マヘッシ・ヨギですね?
ボブ:ええ。
聞き手:超越瞑想ですね?
ボブ:ええ。私が彼に会ったのは、彼がまだビートルズに会って有名になる前でした。彼の話を聞いた時、何か内側で響くものがあり、自分でテクニックを試して実行したところ、ある程度結果が出たのですが、一日か二日で普通に戻ってしまいました。マハリシは帰りましたが、メルボルンにはグループがあって、もしそう言いたければ、一連の偶然というものがあって、私が新聞を見て、誰かが街に来るか、何か催しがあるかと調べていたところ、小さな広告が載っていて、ヨーガに興味のある人は誰でもこのアドレスへとありました。訪ねてみるとそこで、私がマハリシから聞いた同じ話を録音したものを聞きました。その時は躊躇せずに入門しました。それは私の最初の霊的な経験でした。霊的な経験と霊的な目覚めには大きな違いがあります。
聞き手:そのことについて説明してください。あなたはそのテクニックを試しました。基本的にはマントラですね。彼らはあなたにマントラを授けた。そしてあなたはあなたのマインドの中でそれを繰り返し、最初は大きな声で、そして静かに。そしてそれは浮かんでくるすべての思考を追い払う。あなたはその理論を調べて、マントラを授かり、それでマインドを掃除した。それは機械装置ではないが、トリック、瞑想的手法によって、あなたのマインドを掃除して、普段の最優先の、お金や生活などの心配事の思考を追い払う。それはまるで、空間がやって来て、あなたをもっと幸せにする。ええ、霊的に目覚めるわけではないのですが、それは良い感じ、ええ、私はやったことはないのですが、それは素晴らしいテクニックですね。
ボブ:ええ。それは究極の答えではありませんでしたが、それによって、驚くような経験をして、それが私の人生を完全に変えてしまいました。私はそこで入門し、狭い部屋の中へ入り、マントラを授かり、あなたが想像するような普通のくだものと布切れを受け取りました。テーブルの上には彼のグルの写真がありましたが、わたしはちらっと見ただけで、それ以上注意を向けませんでした。というのも、私はテクニック、マントラに興味があり、それに取り組んでいましたから。それから二、三日後に、私は電車に乗ろうと家から駅まで、それは歩いて20分ぐらいですが、通りを歩いていたところ、写真にあった顔のイメージが私の内側で広がって乗っ取られるように感じました。それはとても大きな・・・。
聞き手:それはマハリシの写真でしたか?
ボブ:いいえ。マハリシのグルでした。
聞き手:それは誰でしたか?
ボブ:名前も知りません。
聞き手:でもそれはインド人?
ボブ:ええ。私は写真に注意を払わず、ちらっと見ただけだったのですが、そのイメージは彼に間違いありません。それがはっきりと私の知覚に侵入してきました。私はどんな薬も服用していませんでした。それはまるで光に照らされているような感じでしたが、その当時はその手のことをよく知らなかったので、何かに乗っ取られるように感じて、それを追い出しました。
聞き手:何か悪霊かなんかを見たと?
ボブ:ええ。でもそれは私の人生を全く変えてしまうほどパワフルでした。その日はそのあとで仕事に行きました。当時私は不安、心配、みじめさ、憂鬱でいっぱいで、とても怒っていて世間に憤慨していました。職場の同僚が変化に気づいて、「恋でもしているのか?」と聞きました。「そうだよ。でも女性じゃなくて、世界にだよ」と言いました。その時は一番高いビルから空中を歩いて降りられるような気分でした。しばらくはマハリシのテクニックを続けましたが、あまり良くなりませんでした。それでも調査は続けました。
聞き手:あなたが言ったあなたの人生の特別な瞬間のことですが、そのイメージはあなたを光で満たした。私たちはしばしばエンライトメントという言葉を使いますが、これは例えば、白い光とかそんな感じのものですか?
ボブ:ええ・・・。
聞き手:それはあなたの内側を変えたのですか、外側も変えたのですか?
ボブ:ええ、そうです。おそらく、説明できるとすれば、純粋な愛のようなものでしょうか。ごめんなさい。はっきり言えなくて。慣れてないので。
聞き手:それは視覚的な経験ですかそれとも肉体的な経験ですか?
ボブ:それは、肉体的視覚的そしてすべての時間、メンタル・・・。でもそれはロバの前にぶら下がったもののように、調査に対する興味を掻き立てるものでした。
聞き手:でもあなたは、それ以前は酒を飲んでいました。時々人々は酔っぱらって興奮状態になって幻覚を見ることがあります。ある人は、しばしば酒を飲む理由は、何と言えばいいか、何か他のものを見るためだと言います。あなたが現在達成した事やあなたが探していたことと、以前酒を飲んでいたこととは、おそらく潜在的に関係しているのではないですか?
ボブ:ええ、おそらく関係はあるでしょう。外側の世界を探す一つの方法として、最初は酒など手近なものに答えがあると思ったものですが、この出来事は、何か内側の世界というものがあるという最初の情報でした。今日では内側には心配症の人はもういません。
聞き手:ええ、もちろん私たちは最後には外側と内側を統合するのはわかるのですが、世界から麻薬やアルコール中毒者として見られている人々も、真摯に何かを探したいと思っているのではありませんか? あなたは、酒は全く生産的ではないと?
ボブ:最初の「イズム・主義」が私たちにやって来た時に二元性がやってきます。アルコールイズム、ドラッグイズム、キャピタリズム、コミュニズム、すべての「イズム」は二元性です。
聞き手:二元性が、私とあなたという分離を生むと。
ボブ:ええ、二元性は私と他者です。分離した自己と考えます。
聞き手:話を探求に戻します。超越瞑想を実践したあと、次のステップは何でしたか?
ボブ:いろんなことを調べました。1960年代に活躍した西洋人の神秘家ジョエル・ゴールドスミスにしばらくかかわり、1970年までにまた、いろんな出来事が続けて起こりました。そうした小さな出来事のつながりが納まるべき場所に納まるのは驚くべきことで、それはまるで今日私がこうしてここにいるなんて思いもしなかったのにそれが起こったようなものです。一つの出来事が別の出来事へと導き、私はジョエル・ゴールドスミスを知り、1970代の終わりに、新聞にインド人のグルの写真が載っていて彼がメルボルンに来ることを知りました。それもまだ彼が有名になる前でしたが、それがムクタナンダでした。写真を見た時に何かが、「この人に会わなくてはいけない」と言ったのです。そして彼に会ったのですが、私は彼を飛行場で出迎えた中の一人でした。そして1973年にインドにある彼のアシュラムへ行きました。そしてそこに、いわゆる悟りを開くまでいるつもりでしたが、一か月しか続きませんでした。雰囲気が強烈で受けつけませんでした。
聞き手:あなたは強烈と言いますが、あなたはオーストラリア人の船乗りで、たぶん多少荒っぽい男でしょう。あなたはインドに行き、そこは極端な世界で、貧困、富、寒さ、極端な暑さの世界。それに馴染めなかった?
ボブ:雰囲気がとても強烈で、怒りや憤慨などを掻き立てました。それはどこかに根深くあった・・・。
聞き手:それは、興味深い意見ですね。あなたはアシュラムへ行き、アシュラムに泊まることはいとわなかった。そしてあなたは怒りを感じて、それが掻き立てられて、あなたの中にあったものが外に出てきた。
ボブ:もしあなたがそう言いたければ、そこで起こっていたのは浄化のプロセス・・・。
聞き手:あなたはそれを得る前に、怒りと向き合わなくてはいけないのでは。
ボブ:それから私は帰国して、結婚しました。
聞き手:大きな変化ですね。どうして?
ボブ:当時45歳でしたが、その5年前に妻と出会い、付き合っている間はいくぶん山あり谷ありでしたが当時は安定していて他になすべきこともなかったので結婚しました。でも1975年までに、結婚生活があまりうまくいかなくなりました。私たちは別れ、その時もまだムクタナンダを師事していたので、彼のアシュラムへ戻りました。でもその時はすべてがまったく違いました。そこへ着くやいなや、やすらぎを感じ、雰囲気に馴染みました。おそらく、もしそう言いたければ、馴染むほど十分に浄化されていたからだと思います。そして私はアシュラムの規律に従いました。
聞き手:ちょっと待ってください。最初にアシュラムに行った時は、強烈すぎて帰った。そしてあなたは結婚を経験した。それは必要でしたか?
ボブ:ええ、でも私は一定の瞑想などをずっとしていましたから、探求そのものは1973年から1975年までは続けていました。それが私を開き、浄化したのかもしれません。本も読みました。1975年から1976年の3月の終わりまで、アシュラムで規則正しく熱心に誠実に修養しました。アシュラムの中には私を掻き立てて怒らせるような人もいましたが、グルへの忠誠心のため気になりませんでした。そしてある日私はボンベイの本屋に行ったところ、店員が「I am that」を手渡し、「この本を読むべきですよ」と言いました。私はこれもまた何度か私を導いた偶然の一つかもしれないと思いました。というのも何度も人から勧められたのに読まなかった本だったからです。何ページかめくってみたら、胸に響くものがありました。
聞き手:それは誰の本でしたか?
ボブ:それはニサルガダッタによって書かれたものではなく、モーリス・フリードマンによって翻訳された本でした。それは、ニサルガダッタの講話と質疑応答の本でした。
聞き手:その名前は初めてですね。彼の名前はニサルガダッタ? インド人のグルですか?
ボブ:そうです。
聞き手:彼はムクタナンダと関係ありますか?
ボブ:いいえ。全く関係ありません。全く違います。ムクタナンダはクンダリーニです。
聞き手:クンダリーニはヨーガのテクニックですか?
ボブ:ええ。シャクティパットを通じてクンダリーニを目覚めさせるテクニックです。
聞き手:それは肉体的なことですか?
ボブ:ええそうです。それは肉体的な経験です。たくさんの種類の違った霊的な経験をします。
聞き手:あなたはニサルガダッタの本を読んだ。彼はニサルガダッタ・マハラジと呼ばれていたのですね? それは偉大な師という意味ですか?
ボブ:ええ、それが彼の名前ですが、彼はボンベイの狭い家に住んでいて、ちょうどこのカメラのところぐらいまでの。そこは毎日何万という人たちが家の前を通る場所でしたが、誰も彼のことを知りませんでした。それでも人々は彼を見つけて世界中からやってきました。
聞き手:そしてあなたは彼に会った。
ボブ:ええ、本がそれほど助けにならないとわかったので直接会いました。
聞き手:それは興味深いですね。あなたが最初に彼に会った時、何か特別なことが起こりましたか? それとも・・・。
ボブ:ええ。
聞き手:私が何か特別な事と言うのは、とても素晴らしいグルで、とても有名で、後光がさしているとか・・・。
ボブ:ええ。彼は私に、「私」は私が信じているような人ではないとはっきり理解させてくれました。
聞き手:彼はあなた自身が見える鏡を差し出してくれたということですか?
ボブ:ええ。そう言えると思います。彼は私に示してくれました。もし私が自分の信じているもの、考え、概念を見て調べれば、虚偽は調査に耐えることができません。そして彼は、私が信じているものはそうではないとはっきりと示してくれました。
聞き手:ちょっと待ってください。あなたは彼に会い、彼はあなたにそれを教えたと言いました。それはどんなふうに起こったのでしょうか? それは認識が起こったのでしょうか?
ボブ:ええ。最初の日に外に出て「もう二度とマインドには捕らえられないぞ」と言いました。私ははっきりと理解しました。でも習慣のパターンはとても強力で、当然私がドアを出るやいなや、それはまた戻ってきました。でもそれは、もう二度と同じではありませんでした。それは、つかまる場所を失ったのです。
聞き手:あなたは、以前はマインド、自分の考えに閉じ込められていたと言うのですか?
ボブ:ええ。
聞き手:それが止まったと。そして、あなたがドアから出ると、それがあまり活発ではなくなったと言うのですか? それは普通そんなふうに起きるのですか? 人々は強烈な経験をしてそしてそれが去り・・・。
ボブ:そんなふうには去りません。思考はすべて習慣的なパターンとして起こってきますが、その時以降、根底には常に幸福感、つまり何も悪くはなく、すべてうまくいっているという感覚があります。
聞き手:何も悪くない。
ボブ:悪い習慣が、つかまる場所を失ったら、何も悪いことはありません。どうして以前のままでいられるでしょうか。
聞き手:オーケー。(手元の文書を読みながら)「私は誰かに話しかけいるわけではありません。私がマインドに話しかけているわけでもありません。私はその(私はいる)に話しかけています。それが私、今ここにある意識です。そしてそれはマインドに(私はある)という思考となって現れます。それが私であり、他のものではありえません。それは自然な状態、実在、汝それなりへの直接かつ即時の手引きです。これはセイラーボブが表明していることの一つです」。さてこれは、ある文書にある文章で、これは世界中で読まれています。そして人々はあなたの教えに引き付けられています。それが、あなたが最近行っていることですね。あなたは世界をまわり、この「私は誰か」を教えています。
ボブ:教えるということではなく、人々に彼らが自分自身であると信じているものがそうではないと指摘しているにすぎません。私は自分で調べるようにと言っているだけです。私は誰にも何も教えはしません。
聞き手:あなたの教えの本質は、彼らが自分だと思っているものは投影にすぎないと?
ボブ:私の教えの本質は、誰も自身の存在を否定することはできないということです。自分が存在するという事実は彼らが絶対に否定できない唯一の現実です。誰も自身の存在を否定することはできません。みなそれぞれ、「私はいる」と知っています。その思考の「私はいる」は実在ではありません。それが、あなたがマインドでそれの一番近くまで行けるところです。
聞き手:でもそれはマインドですね。「私はいる」と言うのはマインドですね。
ボブ:「私はいる」と言うのはマインドですが、実在は思考の「私はいる」より以前にあります。私たちは一日中、「私はいる」「私はいる」と言っているわけではありません。知る働きは常にそこにあります。でも、それは「私はいる」という思考となってマインドに現われます。そして、思考となってマインドに現われやいなや、それは二元性です。「私はいる」が現れるやいなや、あなたや他の人もいるにちがいないとなるからです。
聞き手:ということは、あなたがあなたの存在、「私はいる」を認めるやいなや、あなたは直接の経験から離れてしまう?
ボブ:ええ。
聞き手:でもその何がいけないのですか? たいていの人は世間に出て、「私はいい恰好をしていない」「ちゃんと髭を剃らなかった」などと言って行動したり、行動を変えたりします。そのどこがいけないのですか?
ボブ:もしあなたが現実は実在ではなく見せかけにすぎないということを理解していれば、何も悪いことはありません。もしそう言いたければ、すべては純粋な知性エネルギーです。それは知る働きの活動です。その知る働きがマインドを通して現れるやいなや、それはそのように見えるだけで、それはもはや実在ではありません。あなたがそれは実在ではないと理解している限り、何の問題もありません。それは現れ続けます。あたかも私たちが外に出て、きれいな青い空だと言うようなものです。でもあなたも私も空が青くないことを知っています。私は二週間前にここへオーストラリアから数千マイルを飛行機で飛んで来ましたが、青さが消えることはなく、はるかかなたにありました。空は空間であり、そこには青さはありません。青さは見せかけにすぎません。私たちは真実を知っています。あなたも私も、なんてきれいな青い空と言いますが、私たちは真実を知っています。それでもまだ、それは青く見えます。でも私たちはもうそれに縛られることはありません。もし・・・。
聞き手:でもあなたの人生の物語によれば、私は酒浸りだ、私はこれだという自分のイメージを持っていて、今やそれは見せかけにすぎないと手放した。その見せかけは私の一部で、マインドが私に対して観察、判断しているにすぎない。
ボブ:その見せかけも、実在以外のものではありません。でもそれは実在とは違って現れています。あなたは腕輪、ブレスレット、イアリングを手に入れます。それらの本質は何ですか? それらは金でできています。その本質は金です。あなたは腕輪を溶かして腕輪にすることはできません。それを溶かせば金になります。この見せかけが何であろうと、それは全能、全知、偏在から外れることはありません。それは、他に何もない一つのものです。ヒンズーの言葉では、他になにもない一つのものと言います。仏教の最高の教えのゾクチェンの言葉では、ただそれだけ、今ここにある意識と言います。
聞き手:超越瞑想の話に戻りたいと思います。それはマインドのラベルを押しのけるテクニックですね。なぜなら、私たちが「私はいる」と言っても、それはラベルにすぎないとあなたは言いました。私たちはそれを調べて、そこには私はいないということを調べなくてはいけない。そのテクニックでそれを押しのけて、一定の静けさを達成する。もし全く名前を付けたり枠にはめたりレベルを貼ったりせずに、このアウエアネスの中で生きると私たちはとても静かで幸せに暮らせるとおっしゃるのですか?
ボブ:いいえ。瞑想の対象となるものは何もありませんし、私は瞑想したいとも思いません。その点から見れば、あなたが瞑想していなかった時はありません。それは継続的な瞑想です。私たちが、どんなに懸命にどんなに長く探してもマインドの中には答えはないと知ってマインドの中を探し続けなければ、それでもそこにはマインドはあるのですが、それがあなたを苦しめることはもうありません。
聞き手:無くなりますか?
ボブ:ええ。
聞き手:もし、「あれをしろ、これをしろ」「これは良い、あれは悪い」「このテーブルはこうしなくて」というようなマインドの中のこの継続的なプロセスを、もし私たちがこうした思考、投影を脇に置くことが出来れば。でも、そうなると、私たちは空の貝殻のようになりませんか? 私はわかりやすく、空の貝殻と言ったのですが。
ボブ:実在はこの瞬間です。それが命です。私たちが昨日に縛られて、明日を憂いて生きるなら、今を生きていません。完全にここにいて、今ここを生きていることにはなりません。もし、私たちが昨日に縛られて、明日を憂いて生きるなら、今この瞬間にいる機会を失います。あなたが頭の中にいようがいまいが、まさにこの瞬間だけが現れです。すべてのことがありのままに現れています。純粋な知性がすべてとなって現れています。聞く働き。あなたは私の声だけを聞いているわけではありません。外の他の物音も聞いています。あなたは単に見ているだけではありません。あなたは私を含めてすべてを見ています。あなたはこの部屋の中のあなたの周りのいろんな色や物などを見ています。すべてはありのままに現れています。それはありのままなのです。それは変えることも修正されることも正されることもありません。人間の思考がやってきてやろうとするのは、過去のイメージや未来の想像に基づいてそれを変えようとしたり、修正しようとしたり、正そうとしたりすることです。どうして私たちはそうあるべきではないと考えるのでしょうか? なぜそのままではいけないのでしょうか? その比較上の観点からすべてが判断され、見かけ上、私たちは瞬間から遠ざかり、見ているものをありのままに見ることがありません。私たちは、それがこうあるべきだというふうに物事を見ます。そしてそれが葛藤を生みます。私たちは葛藤の中にいます。
聞き手:さて、このメソッド、教えは、マインドを捨て去るとは言いませんが、それは私たちの一部であり、それ自体は物ではないと知ることです。あなたはヨーガの教えについては話しませんが、ヨーガはもっと体全体を感じて、その他の物事を取り除く。もし我々を体、ハートか感情、マインドと分けた場合、ハートと体はマインドよりも重要ではなく、それも脇に置くべきだと思いますか?
ボブ:この体を見てください。今この瞬間、それは何の努力もなく機能しています。今この瞬間私の髪の毛、私の髪とは言いませんが、私の髪の毛は成長しています。私の指の爪も成長しています。細胞は置き替えられています。私は呼吸し、心臓は拡大収縮しています。でも私はそれをするためにいかなる努力もしていません。それは努力なく起こり、純粋な知性エネルギーが機能しています。そして思考も起こっています。そしてその思考を通して、それを私がやっていると思っています。その自己の中心である「私はいる」という思考がそれをやっていると信じています。そしてそれはこのショー全体を支配していると思っています。もしあなたがこの存在、つまりアウエアネス無しでは一片の思考も持てないと理解したら・・・。私たちの体は子宮の中で成長します。子宮の中で脳が形成される以前に、マインドが形成される以前に心臓は自然に鼓動しています。
聞き手:でも生まれ出てから、エゴを必要とし、発達させ、そしてそれを私たちは「私」と言います。そしてそれは「私はいる」「これは私の体」「私はこれをしている」と言います。もし私たちがそのエゴを無くすと、エゴと一緒に良い事も無くすことになりませんか。ドライブをしたり、世界を変えたり、貧しい人たちに食べ物を与えたりとか。
ボブ:あなたは、エゴは幻影であると知るでしょう。あなたにお尋ねします。あなたは今見ています。あなたは今聞いています。あなたの目は「私は見ている」と言いますか? あなたの耳は「私は聞いている」と言いますか? 答えはノーです。「私は見ている」「私は聞いている」という思考は起こってきます。でも、その「私は見ている」という思考は見ることができますか? 「私は聞いている」という思考は聞くことができますか? できません。「私は見ている」という思考は見ることはできません。ということは「私は見ている」という思考には力がありません。それはアウエアネスすなわち意識、あなたが使いたければどんな表現でもかまいませんが、思考はそれに頼っています。それはまるで私たちがコンピューターの中にすべての情報を持っているのに電源がオンになっていなかったら、どんな情報も引き出せないのに似ています。同じことが思考の「私」にも言えます。私たちが「私」という思考を信じるやいなや、その単なる「私」という思考にすべての過去の経験や条件付けが付加されます。それが自身のイメージを形成し、エゴとなります。自身が自分対して抱いているイメージは過去の出来事や経験に基づいています。
聞き手:でもあなたはそれを取り除くことができるとおっしゃいました。それは理解しました。
ボブ:それは取り除くということではなくて・・・。
聞き手:それは架空のものであると? それはマインドの構築物であると。わかります。
ボブ:ええ。それは空のようなもので、それをあなたはどうする必要もありません。あなたはそれを理解してそれをありのままに見ることです。そうすればそれは以前のようにあなたを縛りつけることはなくなります。
聞き手:オーケー。さて、人々があなたを求め、あなたが説明していることは、あなたがニサルガダッタという人に会って、あなたのエゴが変化した。もしくは、あなたはエゴではないと理解した。それは強烈な変化です。たくさんの人が世界中からやってきてあなたの話を聞きましたが、彼らはそういう強烈な変化を感じていません。彼らは依然としてエゴに縛られています。彼らは依然としてエゴに取り組んでいます。例えば、ボブは、エゴは私の主人であるべきではない、それを現実の中で調べるべきだ、と言っている。それは理解した。でも、それを達成するには恐怖があります。私たちはエゴ無しでは生きられません。私が幼い時、それはよく機能しました。泣かなかったら食べ物にありつけません。もっと泣けばママは食べ物やなんかをくれます。それはとてもよく機能しました。なぜ私たちはこの幻影を片付けなければいけないのでしょうか?
ボブ:あなたはそれを片付ける必要はありません。顕現はマインドを通してやってきます。私たちが唯一持っている道具はマインドです。それが、唯一私たちが持っているものです。そしてもしそれが理解されれば、それはとても創造的は道具となります。あらゆる芸術や美などすべてがマインドからやってきました。このビルも誰かのマインドにあった考えです。それが現れているのを見てください。私たちはそれをどうする必要もありません。そうでなければ自己破壊的になります。その「私」という思考が全体になりたいと思った時、その「私」という思考が最初にすることは、最初の分離を生むことです。それがマインドにやって来るやいなや、マインドは反対の極に向けて考えるようにと機能するからです。もしそれが過去、それは記憶、でなければ未来、それは想像の期待。その間で機能します。善悪、肯定否定、幸不幸、なんでも。マインドをありのままに見ることができれば、マインドがあなたを拘束することはもうありません。あなたはもう分離していません。そこにもはや分離はありません。「私」という思考がやって来るやいなや、分離は差し迫った不安となります。それは差し迫った傷付きやすさです。それがやってくる二歳のころ、私たちは安全を探し始めます。私たちは幸福を探します。そして条件付けが起こります。誰かが悪いわけではありません。両親や誰かが悪いわけでもありません。私たちはそれを探すように条件付けられています。何よりもまず暖かい家族が「私」の周りにいれば、「私」はもっと安心します。そして「私」がお金、富、良い車、良い家、良い人間関係を手に入れれば、これらのことはもっと安心感を与えます。そしてそうしたことがもっと起きるようにと思うようになります。そして私たちは神を創造しました。もしそれをこの一生で手に入れられなければ・・・。
聞き手:次の一生?
ボブ:そうです。でもそういったことはすべて期待であり想像、概念です。
聞き手:人々はあなたのところへ話しを聞きに来て、あなたがそうであったように、彼らはこの理解を手に入れることができるでしょうか? というのも、あなたが「マインドにやってくる」と言う時、私はそれを聞いてそれが自分のマインドにやってきて、その感覚を手に入れて、毎回私の指の間をすべって落ちるような感じがしてこう言っています。「ちょっと待って。私の存在を受け入れているのは私で、それを片付けるのも私です」。それが「私」、エゴに支配されない状態に恒久的になりえるでしょうか?
ボブ:その「私」を、もしありのままに見ることができれば、もうそれに縛られることはありません。それがそこにあるかないかは問題ではありません。あなたは、そこに「私」という思考があろうとなかろうと、機能は以前と同じように続いているということを理解しなければいけません。私が言ったように、それは今も起こっています。普段の状態で、呼吸など命に関わる事でマインドが果たしている役割はほんのわずかです。「私」という思考はそこにあります。それは利用できます。それが何を捕らえていようと、それは本当の私ではないという認識があれば、私が言ったように、青い空や、私たちが美しい日の出と言う時、太陽が東から登って西に沈むのは真実ではなく、地球が太陽の周りをまわっているという真実を知っていれば、私たちはもうそれに縛られることはありません。それでも私たちは言うでしょう・・。
聞き手:美しいと。
ボブ:ええ。それを認識することで、自己の中心への束縛はすべて落ちていきます。もし私が自己の中心がここにないと理解すれば、他者にもそれはないと理解するはずです。そうなれば、誰が私よりも優れているのでしょうか? 誰が私より劣っているのでしょうか? 分離の感覚はもはやありません。
聞き手:でも今でも私は例えばアンドリュー・コーエンのような人たちがやっていることを耳にします。彼は世界中を巡り、エンライトメントに関する本を書いて、エンライトメントした人と、エンライトメントしていない人がいると言っていて、その本にはどうやってそれを手に入れるかについて書いてあります。コーエン氏がそれを成し遂げたと仮定して他の何人かもそれを成し遂げたと仮定して、私はそういったことに少し反感を感じます。なぜかと言うと、あなたは私とは違うし、私たちはアンドリュー・コーエンとは違う。目覚めた人がいて、目覚めていない人がいるというように、世界を分けて見るようなことがどうして可能なのでしょうか? もし神が、あなたが言うように私たちみんなの中にいるのなら、私たちはみんなエンライトメントしているのではありませんか? でもそんなふうには見えません。
ボブ:そのとおりです。エンライトメントなどというものはありません。それは作り話です。もし私がいなければ、もしここに(自己の)中心がなければ、そこに分離はありません。もし分離がないのなら、誰がそこにいるのですか、つまり、誰がエンライトメントするというのですか?
聞き手:ということは、私たちはありのままなのですね、
ボブ:あなたはあなたのままです。あなたはもうすでにあなたが探しているものなのです。あなたはずっとそうでした。自分は分離しているという考えがあなたの束縛です。あなたがその考えを調査すれば、それは単に思考であり、それは何の力も持っていないとわかるでしょう。「私」に何ができるでしょうか。もしここに自己の中心がなければ、今までも無かった。そして、人生におけるすべての活動は起こりました。私の人生で起こったことは私の個人的な意思で起こったわけではありません。それは偶然に起こりました。私はアルコール中毒になろうとしてなったわけではありません。私は精神世界の探求者になろうとしてなったわけでもありません。それはそんなふうに起こり、私をさまざま出来事へと連れていったのです。私が今いるところに話を戻しますが、実際には何が起こったのでしょうか? 概念、経験、呼びたければ何と呼んでもいいのですが、それは見せかけのことであり、私の本質は何も変わっていません。誰も何も変化しません。私が言ったように、腕輪であろうとブレスレットであろうとイアリングであろうと、それは依然として金なのです。それがどんなふうに見えようと。
聞き手:現実的な事に戻りましょう。これはあなたがニサルガダッタに会った1976年に起きました。私たちは今、1996年にいます。えっと、1998年にいます。その22年間に何が起きましたか?
ボブ:インドから帰ったのは1977年の初めだと思いますが、このことを話したいと思っていて、そして話し始めました。それ以来話し続けています。
聞き手:あなたは、それについて話すとおっしゃる時、あなたが、それとも人々があなたを見つけるのですか、そして人々が質問するのですか? それともあなたが私にしたのと同じ話をするのですか?
ボブ:ええそうです。
聞き手:人々はどんな質問をするのですか?
ボブ:私は様々な異なることから始めます。ドラッグやアルコールの問題を抱える人がやって来ます。
聞き手:それが一つの視点ですね。別の視点は探求している人々ですね。
ボブ:ええ、探求している人は、自分が分離しているという思考を抱えて常にやって来ます。それを抱えてすべての人がやって来ます。そして彼らにこう指摘します。分離などというものはありません。どんな分離もありません。それは現れにすぎません。調査してそれを彼ら自身で見ることによって。ええ、見ることはとてもシンプルです。そこに分離というものがあるというのはあなたが抱いているイメージにすぎません。あなたは自身を空気と分離することはできません。あなたは自身を地球と分離することはできません。
聞き手:ボブ、現実の話をします。ローマ法王は、反宗教者たちのことについて人々に向けて手紙を書いたばかりです。その中でこう言っています。(手元の文書を読みながら)「ニューエイジの考え方や東洋の哲学はとても悪い。なぜならそれは人々が神と等しいと感じさせてしまうからです。そして我々教会としてはむしろ教義に基づく保護者的な考えを信じてもらいたい。私たちは何が真実か告げるので、あなたたちはそれに従わなければなりません。すべてのニューエイジ思考、(ええ、実際にはオールドエイジの思考だと私は認めますが)東洋の思想は良くありません」。あなたは西洋と東洋両方を旅しました。どうしてローマ法王はこんなことを言うのでしょうか?
ボブ:もし彼が神は全能、全知、偏在であると理解するなら、変えようとしている彼は誰なのですか? 彼は何を変えようとしているのですか?
聞き手:でもあなたがインドを旅した時、このメッセージはヒンズーの人々や仏教徒の人たちにとってはより理解しやすいものでしたか?
ボブ:いいえ、彼らが立ち止まって自分自身を調べ始めないかぎり簡単ではありません。私たちは外を見るように条件付けられています。そして答えは決して外にはありません。それは単に向きを変えて、自分が信じているものが何なのかを調べるということです。これが私の条件付け、これが社会の条件付けと。最初に家族、そして部族、国家と調べます。国家は不安感、分離の感覚のために戦争を起こします。でも立ち止まって調べてください。虚偽は調査に耐えません。いったんあなたが調べて見始めると、そこには私たちが自分だと思っているイメージがあり、それは何の力も持っていません。火の中の鉄の例え話があります。ひとかたまりの鉄を火の中に入れると、それは火のように赤くなります。それは火のように熱くなってあなたが掴むと火のようにやけどします。でもそれを火の外に出すと、それに何ができるしょうか? この「私」という思考に何ができるでしょうか? あなたはそれが見ることも意識することもできないことを知っています。「私」に何ができるでしょうか?
聞き手:それは戦争を起こしました。それは貧富の差をもたらしました。
ボブ:そう信じられているだけです。それは調査されていません。もし調査されれば、それには何の力もありません。
聞き手:でもボブ、人々は言います。私たち二人はここアムステルダムの西に座っていて、今朝朝食を食べました。適度に暖かいし、私たちは世界の中でも比較的裕福です。でももし私がインドにいて、とても貧しい男で、何も食べてなくて飢えていたら、私は言うでしょう。「マスターボブ、あなたの言うことはわかるが私はお腹が空いています」。そしたらどうしますか? あなたのメッセージによれば、「ああ、お腹は空いている。でもそれは思考にすぎない」と言うべきですか? 思考は現実ではありません。現実は空っぽのお腹です。世界の現実の問題にはどう対処したらよいのでしょうか?
ボブ:でもそれは現実に起こっていることです。私がこれを理解する時、すべては見せかけです。実際には何が起こっていますか? それでも私は本質からは離れていません。もしそれが起きるなら、起きるのです。なんと説明したらいいでしょうか・・・。
聞き手:でも現実にあなたはインドを旅しました。そこにはとても貧しい人々がいます。そのことについてはどうでしたか? あなたは彼らにお金をあげましたか?
ボブ:もし私がお金を持っていて、彼らにあげる気が起きればあげるでしょう。もし持っていなければあげません。何がやってこようと、自然の機能が何をここに運んでこようと、それは起きます。
聞き手:それは現実的なことですね。例えばそれが私の人生の中で私に起こったら、もし私が貧しい人に会ったら、私は彼らを助けるでしょう。私たちはそれほどはっきりと自分たちの外のことを考えてはいません。例えば、もしインドに行って人々に会ったらお金をあげるかとか、テレビでアフリカの貧しい人びとを見てお金をあげたことがあるかとか。それはマインドのゲームだということには同意します。でも実際の状況では私たちと、私たちが毎日会う人では違いがあります。あなたはそれが真実ではない、違いはないと言いうのですか?
ボブ:私は、違いはないと言います。それでもすべては現れです。それでもそれは一つの実在で、それは決してそれ以外ではありませんでした。見せかけはそう見えているだけです。
聞き手:でもどうしたらいいか教えてください。もし私がお金を持っていても、物乞いの前を通り過ぎるべきでしょうか?
ボブ:あなたは物乞いの前を通り過ぎたいのですか? それとも通り過ぎたくないのですか? ある時は通り過ぎたいと思い、また別の時は通り過ぎたくないと思う。何があなたを私にインタビューする気にさせたのですか? あなたは私のことを知らなかったし会ったこともなかった。
聞き手:それは起こりました。私が選択したのではないと言うことはできると思います。なぜなら、それは起こり、私は人生で起こったことを良かれ悪しかれ喜んで受け入れます。
ボブ:それを人々がやることに適用できると思いませんか? 金持ちであろうと貧しかろうと。私もあなたと同じように選択権があると思っていました。そして私は、「私」には選択権がないと知っています。それは起こっています。
聞き手:話を元に戻すと、あなたの言うのは、人生を自分で変えられるという考えを求めること、霊的な師を探してエンライトメントを得るということは幻想ということですか? 私たちは仕事に精を出し、必要なことをすべきなのですか?
ボブ:ええ、あなたは仕事をして、何であれ必要なことをします。でも、あなたに選択権はありますか? いいえ。もしあなたが探求者なら、そういうところへ行くのもいいでしょう。私たち、いわゆる人間は、「私」がとても重要だと思っています。でも、何千人という人々が、蚊が原因の病気やネズミが原因の疫病などで、あちこちで亡くなっています。私たちはそれに注意を払いますか? すべてのことは私たちが自分に対して抱いている自己の中心のイメージに帰結します。それが基準点となり、すべては基準点に関連しています。でもその基準点は真実ではありません。なぜならそれはまだ、意識(consciousness or awareness)の内側にあるからです。あなたが物事を判断しようとすれば、真実の基準点から見る必要があり、そうするためには意識の外に出なければなりません。でもそれは不可能です。そんなに前ではないのですが、太陽に関するビデオがありました。それは拡大鏡を建設した時のビデオで・・・。
聞き手:望遠鏡?
ボブ:ええ。望遠鏡は宇宙のはるかかなたに到達して地球が小さな点に見えるまで倍率を上げました。そこにはよく知られた太陽系の姿はありませんでした。そして、私は、ここオランダのどこかで裏庭に出て、コップ一杯の水を汲みました。その中にはあらゆる種類の生命がいました。その小さな微生物たちには人間の70年、80年という一生を想像することはできません。外の世界、例えば240億光年のはるかかなたに行って、振り返ってみれば、それはほんの一瞬のことかもしれません。それはちょうど人間が昆虫の一週間を理解できないようなものです。すべての物事は基準点に関連していて、どこに基準点があってもそれは真実ではありません。世界の矛盾を見る時も、それは言葉に基づいたイメージにすぎません。そして言葉は決して現実ではありません。私は「水、水」と残りの一生で言い続けることはできますが、それで喉の渇きをいやすことはできません。「火、火」と言っても口をやけどしません。私が「私」という時、それは何のことを言っているのでしょうか? 私は自分自身のイメージを持っています。それは言葉です。昔のことわざに「棒や石は骨を砕くかもしれないが、言葉は少しも私を傷つけない」というのがあります。もし誰かが私を侮辱したとします。そうしたら私はどうするでしょうか? 私は何週間も何週間もその言葉のことを考えて、それが怒りとなります。それはどんどん大きくなって動き始めます。私は言葉に支配され、たたきのめされます。でももし私が殴られて傷や打撲を負っても、もっと早く治っているでしょう。
聞き手:それは現れに私たちの人生を支配することを許すことになる。今日はボブ・アダムソンから学ぶことができました。現れはそのように見える。「私」という私たちが思っている内側の存在は想像、投影であり、ありのままの私ではありません。それは思慮深いメッセージです。サンキュー、ボブ。
ボブ:サンキュウ。
(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)