セイラーボブの教え(詳しく)を①から読む方はこちらから
最終回
今回の「詳しく」では以下の点を重点的に何度も書きました。
・エンライトメント(覚醒)はフィクションである。
・セイラーボブの教えを理解しても何かが起きるわけではないし、非二元の世界を体験するわけでもない。
・セイラーボブの教え(アドヴァイタ)は、経験したり体験したりして手に入れることとは関係がなく、「今ここにある意識」を理解することである。
・セイラーボブの教えは未来に起きるエンライトメントではなく、今ここにある意識である。
・「今ここにある意識」だけが実在であり、それがセイラーボブの教えていることである。
ブログを書くためにボブ関連の本をあちこち読んでいて思ったのは、ボブの教えは結局、金太郎飴のようなもので、どこを切り取っても結局は awareness アウエアネス(今ここにある意識)の話になるということです。
それを考えていて、なぜセイラーボブが自分でテキストになるような本を書かないのかがわかった気がしました。ボブの教えていることは、体系化するようなことではないし、言葉で教えるようなことでもないのではないかと思います。
awareness アウエアネスも、私は便宜上、「意識」という訳をあててブログを書きましたが、特定の和訳を与えた時点で、固定化、概念化が始まります。ボブはそれを避けるために、「知性エネルギー」「認識する空」「空間のような意識」など、多様な形で表現します。
もしボブが自分でテキストを書けば、それが固定化され、概念化されて聖典となり、人々が誤解し始めます。それが多くの宗教で起こったことではないでしょうか。
セイラーボブに限らず、多くの非二元、アドヴァイタの師たちが、対話形式での伝達を好むのはそのためではないでしょうか。
ボブや他の師たちの教えていることは、概念化できないこと、概念化や固定化された時点で死んでしまうようなことなのではないでしょうか。
私はこのブログで誰かを、「もう助けが要らないところ」まで導けたかどうかには自信がありません。でもおそらく何人かの人はボブの教えを正確に理解されたのではないでしょうか。
そういう方たちにお願したいのは、私がブログで使った言葉や概念を固定させることなく、自らの言葉でセイラーボブの教えを広めていっていただけたらと思います。
ボブは「あなたは理解した、私は理解していない」という言い方を嫌います。「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」という言い方をします。
でもあえて書かせていただくと、私は私のブログだけがボブの教えとしてまかり通るのは健全な姿だとは思いません。ボブの教えの理解にはそれなりの自信を持っていますが、私がブログで使った言葉や説明がそのまま概念化して固定化することを望みません。
そもそも、たった一つのことを言っているだけなので、「教え」という言い方さえもおかしいのではないかと思っています。また、「セイラー・ボブ・アダムソンの教え」という書き方も、図々しいかなと思っています。でもそうしないと、ネット上で検索してもこのサイトにたどり着けない。できるだけたくさんの人にこのブログを読んでもらって、もっとたくさんの人が、「セイラー・ボブ・アダムソンの教え」について書くようになればいいと思います。
もっともっとたくさんセイラーボブの本が翻訳出版されて、もっともっと多くの人がボブに関するサイトを立ち上げて、もっともっと多くの人がセイラーボブの教えについて語って欲しいと考えています。英語の世界ではそれが起こっています。中には、「ボブはネオアドヴァイタだ」「ボブは覚醒してないから十分ではない」という批判もあります。でもネガティブな批判もあるのが健全な姿だと思います。
私は「それ」をセイラーボブという入り口から学びました。でも今回ブログを書いているうちに、まったく同じことを違う表現、違うやり方で説いている非二元・アドヴァイタの師たちが他にもたくさんいるということを再認識しました。このブログがセイラーボブの教えに限らず、非二元・アドヴァイタの教え、さらには禅などに広がっていけばいいなと思っています。
多少の世界観の違いはあっても、言っていることが同じなら構わないと思っていますが、非二元・アドヴァイタなら何でもいいかというとそういうわけではなく、自分なりの基準としてはおおむね次のとおりです。
・エンライトメントはない。
・エンライトメント、目覚めをエサにして客寄せない。
・何かになることではなく、すでにあるものを説いている。
・いまここにある意識がすべてである。
・私も世界も実在ではない。
・込み入った瞑想やメソード、覚醒体験で客寄せしない。
・私は理解した、あなたは理解していないといった上下関係がない。
・グルではなくメッセンジャー。
・メッセンジャーは反社会的ではなく、いわゆる普通の人である。
・メッセンジャーは金や名声に執着しない。
話をセイラーボブに戻します。
セイラーボブの教えは、ただ単に理解して終わりでは何の役にも立ちません。
いくら「私はいない」と思っていても、マインドと体があるかぎり、「私」という基準点は繰り返し戻ってきます。そうしたら、何度も何度もセイラーボブの教えを思い出してください。
それを実践していくうちに、セイラーボブのように「もう何が起こっても大丈夫」となるのだと思います。
「(あなた)が考える(あなた)という存在は幻影です。何か、もしくは分離した誰かとしての(あなた)がいるという考えは、自分の周知のことと関連させて、物事を受け入れたり拒絶したりする原因となります。幻影が自らを欺く話をしています。知る人と知ることというのは、自然な概念化されない知る行為そのもの(knowing)を見かけ上分割した概念にすぎません。(私はいる)という思考を信じることは、絶えず変化し続ける客体としての世界に見せかけの現実味を与えますが、それでもすべては本質においては変化することのない自然な知る行為そのもの(knowing)に他なりません。思い起こし、思い出し、さらに思い出してください。私はそれであり、それが私です( I am That I am.)。それは意識。誰に対してどんな活動、思考、出来事や事件が起こるというのでしょうか。出来事や活動はあたかも草が自然に生えるように、誰が優っているとか劣っているかではなく、そういうふうにしか起こりようがないということを理解してください。自ら働きかける知性エネルギー、まさにそのもの、それ以外のものではありません。自ら輝く今ここにある意識は努力の結果ではありません。その意識が突然そこにあることを期待して何かをする必要があるわけではありません。今ここにある意識はあなたが気づいていなくても、うわべ上見えなくても、いつも今ここにあります。それは作り出したり破壊したりする何かではありません。概念上の思考は雲のようなもので、見かけ上では太陽を見えなくします。概念化されない自然な状態でくつろぐのはいつも今ここにある意識です。何度も何度も何度も思い出してください。何が現われようが消えようが、それを認識することはいつもそうなのです。自ら認識し、自ら輝く。ただそれだけ、他には何もありません」
Sailor Bob Adamson
長い間読んでいただきありがとうございました。
私はこの「詳しく」の中で、言葉(英語)の壁がなかったら、ボブの教えをもっと早く理解できたのではないかと書きました。でも、私はボブの教えを完全に理解できるまでの4年の間に、ボブのミーティングに何回も出ましたし、日本に帰ってからもボブの本を何度も読みました。YouTubeも何回も繰り返し見ました。同じ話をそれこそ何十回も聞き、読みました。
ここまでの私のブログを読んで理解したつもりでも、実感が持てないと思ってみえる人は多いのではないでしょうか。私もそうでしたが、セイラーボブの言葉を何度も何度も繰り返し読んでいるうちに機が熟し、何かが共鳴して、確信、理解が起きるのではないかと思います。
そしてそれはエンライトメントや何か特別なことが起きる理解ではなく、普通の自然な理解です。そういう意味を込めて、次回からThe Spiel でセイラーボブの家の居間へご案内します。