ビフォーアフターセイラーボブ
私がセイラーボブの教えを完全に理解したと感じたのは、2018年10月末ぐらいで、まだそれほど日がたっていません。教えそのものを理解したのは2014年の年末頃でしたが、教えそのものに確信が持てず、その時点では大きな変化はありませんでした。
エンライトメントはないということはわかったものの、ではどうしたら、ボブの言っていることに実感、確信が持てるだろうかと漠然と思っていました。2018年10月末に完全に理解してからは、いろいろと大きな変化がありました。まだそれほど日が経ってないので、その変化を客観的に見るにはもう少し時間がかかると思うのですが、一応今現在の変化と心境を思いつくままに書いておきます。
私は長年生きているので、人並みに不幸なことはたくさん経験してきました。自然に生きていれば普通の人生だったと思うのですが、人生を何とかコントロールしたいと思った「私」のせいで、あまり普通とは言えない人生を歩いてきました。
ストーリーを語ってもしかたがないので詳しくは書きませんが、メンタルの不調、転職、身内の死、人との別れ、経済的な破綻、パワハラ、介護などなど。
全員がそうだとは言いませんが、スピリチュアルに魅かれる人の多くは何か問題を抱えてそういう世界に入っていくのではないでしょうか。
いろんな出来事が起こって、本当に苦しい時期を過ごした時期もありました。でも不思議なことに、自殺しようと思ったことは一度もありませんでした。自殺する勇気がなかったといえばそれまでですが、それ以上に、いつかエンライトメントが起きれば、すべてがチャラになるだろうという希望があったからです。そういう意味ではエンライトメントは私を長年助けてくれました。そのエンライトメントも最終的にはセイラーボブによって蹴り出されたわけですが。
スピリチュアルなことばかりやって生きてきたわけではないのですが、私の最大の願望はエンライトメントであり、苦しい人生から抜け出すためにそれを得ようと多くの時間やお金を費やして生きてきました。人から見れば、普通に生きているように見えたかもしれませんが。
エンライトメントを求めていたころは、ジェームズ・ブラハと同じで、気持ちよく目覚めたことなど、ほとんどありませんでした。いつも自分は不完全でエンライトメントしないかぎりは幸せになれないと思っていました。
毎日欠かさず瞑想をしていた頃は、何かの都合で瞑想できないと一日中イライラして、何のために瞑想しているのかよくわからない状態でした。エンライトメントを追うことに嫌気がさして、瞑想をしなくなってからは、毎日人生を無駄に生きている感覚が離れませんでした。
当時やっていた仕事は全く生きがいを感じられるようなものではなく、毎日ただ金をもらうためだけに時間と人生を浪費している感覚しかありませんでした。
セイラーボブの教えを理解して一番大きく変化したのは、エンライトメントなんてないと知った解放感です。それを知ってから、人生を無駄に生きているという感じがなくなりました。その感覚は、ボブの教えを完全に理解してから強くなりました。
エンライトメントを得るための焦りや苛立ちというのは完全に無くなりました。今思うと、どれだけそれが自分を苦しめていたのかがわかります。メンタルの面ではずいぶんと楽になりました。
もともと不眠症のような状態でしたが、最近はよく眠れるようになったし、眠らなくても全然気にしなくなりました。以前だったら、眠れないことそのものよりも、眠れないことへのいら立ちの方が大きかったのに、今はそれがありません。
睡眠をコントロールしようという「私」がいないのです。以前だったら、眠るためにはどうしたらいいのか、何時に床につけばいいのか、コーヒーは午後からは飲まない、などあれこれ考えて、それでも眠れないといらいらしていたのですが、今は毎夕食後にコーヒーを飲んでいます。それでも不思議と熟睡できて、仮に眠れなくても全然気になりません。
私もブラハと同じで、朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。何か人生の宿題を終えたような気分で、あとは楽しんで生きていけばいい、今日もまた一日始まるぞ、みたいな気分で起きます。
以前は一日の半分は過去の出来事を後悔して、残りの半分は未来の心配をするような生活で、まったく今ここを生きていませんでしたが、今は過去のことも未来のこともあまり考えません。無理にそうしているわけではなく、過去を悔んだり、責めたりする「私」がいないのです。未来をコントロールしようという「私」もいません。
遠い将来に計画を立てることもなくなりました。少し前までは、もう一度セイラーボブに会いに行って、そのあとあれをしてこれをしてという計画で、がんじがらめだったのに、今は自然に任せています。
以前は私を散々苦しめてきた強迫観念もどこかへ行ってしまいました。抵抗する「私」も、それをなんとかしようとする「私」もいなくなりました。恐怖や恐れが無くなったというのではなく、そういうことを考えるのを忘れてしまったような感じです。恐れる「私」がいないのだから当然なのかもしれません。
以前はあった孤独感がまったくなくなりました。孤独を感じる「私」もいません。そのかわりに、あらゆるものに神が宿っているのを実感するようになりました。今までは何とも思わなかった犬や猫にも自分と同じものが宿っていると実感して、かわいいと思うようになりました。草や木々にも神が宿っているのを感じます。万物に神が宿っているというのはこういうことなのかと思うようになりました。
人に対して抱いていた劣等感も優越感もなくなりました。人のことを好き嫌い、良い悪いで判断していたのが、今はただその人も表れとして現われているだけで、そこに独立した何かが存在するとは思えなくなくなりました。争う必要も見下す必要も卑屈になる必要もなくなりました。
電車に乗って大勢の人込みを歩いても、そこにいる人々は自然に生まれ、自然に死んでいく自然現象の一部にすぎないと思うようになり、何か、いとしい気がします。
以前は白髪を嫌って染めていたのですが、今では、何でそんな無駄なことをしていたんだろう、不自然じゃないかと思うようになりました。汚れた格好をしようとは思いませんが、清潔であれば外見はどうでもよくなりました。人が何と思おうと気にしません。「人」も「私」もいないのですから。
愛想は相変わらず悪いのですが、人に対する受け止め方が以前とはまるで違います。他の人も私と同じように実在ではなく、自分の役割を演じているにすぎず、私と同じものです。争う必要も見下す必要もない。困っていたら助けてあげればいい。
ジョギングを毎日30分欠かさずするようになりました。ただ気持ちいいから。走っていると、景色が鮮明に見えるようになりました。視力が良くなったわけではないと思うのですが、どんな景色もすばらしい一枚の幻影に見えます。その景色の中に犬を散歩させる人がいて、遊んでいる子供たちがいて、彼らは一種の自然現象で、実際にはそこには誰もいない。わけもなく幸せです。
いろんなことを臨機応変にやるようになり、直感を信じて迷わなくなりました。以前は計画して心配して石橋を叩いて、それでいて渡らないみたいなことばかりしていましたが、今は自然に任せています。
嫌な思考や悩み事、心配事も時々やってきますが、そんなに真剣に相手をしなくなり、いつの間にか去っていきます。
今までの人生を振り返ってみると、セイラーボブの言うように、どんな時も、そこには意識がありました。苦しい事や嫌なことはあったけど、それは去って行き、意識(アウエアネス)だけが残っています。
これからもいろんなことが表面上は起こってくるでしょう。でもそれは見せかけであり去って行くものだと知っています。
もう何があっても大丈夫です。