2019/02/04

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑭

観念(concept)・マインド・ラベル

今あなたはパソコンか携帯、もしくは何らかの端末機器でこのブログを読んでみえると思います。その時、あなたはどこからこの文章を読んでいますか?

おそらく、「目から」と言うでしょう。では、あなたの目はいくつありますか? 「二つ」。本当にそうですか?

たとえば今、生まれてから今まで学んだことを突然全部忘れてしまったとします。その時、私のブログをどこから読んでいますか? 生まれてから今までに鏡を見て、目が二つあることや、人の顔を見て目が二つあると知ったことの記憶を無くし、学校かどこかで、物は目で見ているのだと教えてくれた記憶も無くした時、自分がどこから見ているかの判断ができますか?
鏡で自分の顔を見た記憶も無くしたとしたら、自分に目があるということがわかりますか?

自分に顔というものがあって、目が二つあって、そこから物を見ているということは、後天的に学んだことであって、もしそれを全部忘れてしまったとしたら。
そこには顔も目もないのではありませんか?

今、あなたの目の前に私のブログが見えていると思いますが、自分の目や頭は見えていません。その時、生まれてから今日まで学んだすべての概念を無くしてしまったとしたら、そこには頭も目もありません。「いや、ある」と言われるかもしれませんが、それは記憶を思い出して言っているのではありませんか? もしその記憶がなかったら、あるとも無いとも言えないのではないですか?

今、体と外部の境界はどこにありますか? 今この質問を読む瞬間まで、体と外部の境界は消えていたのではありませんか?目の前には私のブログを読むデバイスがあって、意識は目の前の視界だけにあり、自分の体、頭、目は消えていませんでしたか?

 目を閉じて、体の境界がどこにあるか確かめてみてください。椅子か地面か体に触れていないところに境界はありますか? 今、体の境界を意識した瞬間に体が現れたと思いますが、それ以前には体はありませんでした。記憶をたどって、体を思い出したとたんに体が現れたのではないですか?
もし意識しなかったら、もし記憶していた観念が消えたら、体の境界はないのではないですか?

車に乗れば、自分の体の感覚は車の大きさまで広がっています。それで障害物を感じて避けています。
私たちは、自分の体の境界を、後天的に学んだ観念を貼り付けているにすぎません。

セイラーボブは脳(頭)や目が見ているのではない、空間が見ているのだ、と言ってダグラス・ハーディングを引用しています(Presence-awareness.p.112)。

私は20年以上前に高木悠鼓さんがダグラス・ハーディングを呼んで日本でやったセミナーに出たことがあります。当時は非二元なんて言葉さえ聞かない頃でしたが、エンライトメントを探していた私は、ダグラス・ハーディングがエンライトメントした人だと勝手に思い込んでそのセミナーに参加しました。紙袋の両端から二人で中を覗いて、どんな感じがするのかとかやりましたが、当時は何をやっているのかサッパリ訳がわかりませんでした。

それで今回ボブの本の中でダグラス・ハーディングの名前を読んで、改めてネットで調べていて、おもしろい実験のサイトをみつけたので、よかったらやってみてください。人によるかもしれませんが、頭なんて無い、目なんて無い、体なんて無いと理解する助けになるかもしれません。

ダグラス・ハーディング「頭がない方法」

私たちは、生まれてから今日までの体験を通して様々な事を学び、それに概念のラベルを貼りつけています。そして物を見る時、そのラベルによって判断しています。
これは Living Reality に出てくる話ですが、ある人類学者が、写真を生まれてから一度も見たことがない未開の部族の家族に、その家族の写真を見せたところ、それが何なのか誰も全く認識できなかったそうです。

マゼランが世界一周で南米最南端のフェゴ島に到着した時、マゼランたちが乗ってきた大きな帆船四隻が目の前の海に停泊しているのに、フェゴ島の原住民には全く見えなかったそうです。フェゴ島の原住民にとって見慣れた海がそこにあり、その景色の中に大型帆船があったのに、彼らは全くそれを認識できませんでした。

マゼラン一行は上陸用の小さな船で島に上陸したのですが、その船は原住民にも見えたそうで、マゼラン一行が突然現れたように見えた原住民は驚いたそうです。
マゼランが、いくら大型帆船を指して、どこからやって来たかを説明しても、原住民はそれを船として認識しなかったそうです。原住民はそれほど大きな船を見たことも想像したこともなく、そうした大きな船という概念がなかったために船を認識することができませんでした。
同じような話が日本の黒船来航の時にも残っていて、浦賀にやってきた幕府の役人たちはそれほど大きな船を見たことがなく、すぐには黒船を認識しなかったそうです。

これは旅先で出会った人が話していた話。その人は小さな道から大きな道に出る時、必ず左右を確認して出るそうですが、しょっちゅう車に轢かれそうになるそうです。その人曰く、遠くから来る車はよく見えるのに、なぜか近くの車が見えないそうです。

私たちが成長する過程で学んだ概念はマインドの中に記憶され、言語と密接に繋がっています。物を表現するためには名前が必要で、その名前に概念が張り付いています。その概念はその人が育った社会環境によって大きく違い、固定されたものではありません。

メルボルンのヴィクトリアマーケットの魚市場を見て歩くと、日本と別の概念を魚に貼り付けていておもしろいなぁ、と思ったことがあります。例えばヒラメとカレイ。日本ではヒラメとカレイは明確に分けていて、左に向いているのがヒレメで右に向いているのがカレイ。値段は雲泥の差がありますが、向こうだと区別せずに、どっちも flounder で表現しています。

同じような例は動植物の場合たくさんあって、例えばフランス語の場合、蛾と蝶を区別する概念がなく、どっちもパピヨン(papillon) だそうです。
植物の例でいえば、日本では楓とモミジは分けて言いますが、英語では maple だけ。

アマゾンに住む少数民族であるアモンダワ族の人々には、時間の概念がなく、「時間」や「日付」「月」「年」を表す言葉がないそうです。彼らはボブのミーティングに出て、「時間はない!」なんて言われても、「時間???」となるのでしょう。

私たちは、見ている世界をすべて観念で理解しているにすぎません。すべての観念を取り去ったら、そこに世界は見えるでしょうか? もっと言うなら、そこに世界はあるのでしょうか? 世界はマーヤーであり、幻影です。

セイラーボブは部屋の椅子を指さして、観念を取り去ったら、それは何なのですか? と聞きます。

また、セイラーボブがよく引用するシェクスピアの言葉にこういうのがあります。
良いとか悪いとか思考が勝手に決めているだけ。

また、ニサルガダッタ・マハラジの言葉を引用してこう言う時もあります。
あなたの想像以外、あなたを苦しめるものは何もない。

また、こんなことを言う時もあります。
人々はイラクで何人死んだと騒ぐが、メルボルンだけで毎日200人の人が死んでいます。

以下は Presence-Awareness.p.126から

私たちはラベルを現実と思っている

ボブ:「もうどうしょうもない」と言うのはかまわない。それはある意味逃げ出すということです。でも、あなたは理解しなくてはいけません。それは、「私は困っている」から始まります。何が起こっているのでしょう? あなたには意識があります。今ここにいるという意識があなたにありますね?

質問者:はい。

ボブ:それがどうやってマインドに現れていますか? 原初の思考は「私はいる」です。私が存在しているという感覚が言葉となって現れたものが「私はいる」です。マインドは「私はいる」を理解できません。なぜなら、そこには何もないからです。それは単にいくつかの言葉にすぎません。それに何か実体を与えるためには「私は困った」という観念を与えなくてはいけません。そして今あなたは、その「私はいる」という映像を手に入れました。何が起こったかわかりますか? ラベル貼りが起こったのです。今マインドは理解できるようなイメージを手に入れたのです。それはこんなイメージ。「これが私だ」「この困った、この困った感じ、この恐怖、そしてそれが私だ」。あなたは自然と「私はいる」を身につけます。「私はいる」は自分がいるという感覚にすぎません。それは思考。原初の思考にすぎません。私たちは自分自身の心理的イメージを構築するために、その思考に出来事や経験や条件付けを付け加える以外にありません。もしそういった出来事や経験や条件付けを加えなかったら、それは単に「私はいる」でしかない。「私はいる」とは何でしょう? 「いる」というのは「存在する」という動詞。そして「私はいる」というのは単に自分がいるという認識。あなたは自分がいることを認識するために「私はいる」と言う必要さえありません。あなたはその思考さえも捨て去ることができます。

質問者:はい。

ボブ:あなたは一日中「私はいる」と言ってまわることもできます。あなたは「私はいる」とさえ考えないこともできる。しかしあなたはどんな時でも、自分がいることは否定できません。

質問者:はい。

ボブ:すべては、あなたが自分に抱いている「私は困っている」に関連するようになりました。

別の質問者:私が「私はいる」に加えているのは、「私は肉体である」でした。

ボブ:ええ、それもまた別のラベルではありませんか? 「体」、その名前をどこから手に入れましたか?

質問者:社会から学びました。

ボブ:ええ、あなたはそのラベルを貼り付けました。みなさんは自分のことをこの体とマインドだと思っています。でも、体とは何ですか?

質問者:構成要素です。

ボブ:構成要素。構成要素とは何ですか? エネルギー。

質問者:エネルギー、はい、空間です。

ボブ:そうです。それには実体がなく、独立した存在でもありません。それで私たちはラベルでそれを判断し、そのラベルを実在だと思っています。あなたは体の中に中心を見つけることはできません。あなたが「ここから体が始まった」と言えるような場所はありません。そして、どんな構成要素がこの体のどこから始まったのですか? それはこの体から始まったのですか? 体の中にある空間と、体の外にある空間に違いがありますか?

質問者:いいえ。

ボブ:体の中にある空気と、体の外にある空気に違いはありますか?

質問者:いいえ。

ボブ:体の中の水と・・・。

質問者:いいえ。

ボブ:あなたはそれがこの体から始まったとは言えない。それは普遍的なものです。それがあなたです。そういうわけで、あなたが「私は体だ」という時、たわごとを言っているのです。あなたは無限のものに境界や限界を与えています。