2024/05/03

あとがき・まとめ

私はこのブログをずっと続けていきたいと思っています。でも、いつどんな理由で更新できなくなるかはわかりません。病気、事故、災害などの理由で、何の断りもなくブログがそのままになることだってあるかもしれません。そんな尻切れトンボで放置するのは嫌だと思って、毎年年末になると、その翌々年の一月一日にタイマー投稿をセットして、「ごあいさつ」の記事がブログのトップに来るようにしています。幸い今までのところ毎年そのタイマー投稿を翌年にずらすことができています。それで一応ブログとしては恰好がつくかなと思うのですが、でもそれだけだと何か物足りないと思うようになりました。そこで、本でいうなら「あとがき」のようなものを先に書いておこうと思います。

私がこのブログに一貫して書いてきたことは、この一言に集約することができます。

本質としての「私」は身体でも思考(マインド・心)でもなく、意識である。

私たちは、ある日人間としてこの世に生まれ、成長して大人になり、この「私」がこの人生を生きていると信じています。私は男性である。私は女性である。私は会社員である。私は母である。私は日本人である。私は町の中で暮らし、休日には山へハイキングに行く。そこには自然がある。こうしたことを、ごく当たり前に信じて生きています。

でも、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは何でしょうか? 非二元を学び、こうした物事の一つ一つを調べていくと、どれもが実在ではなく、後天的に学んだ思考のかたまり、あるいは条件づけであるという理解に至ります。「私」は思考のかたまりにすぎません。そして、時間についても、それは思考の中にしか存在しないということがわかります。

そして、セイラーボブを始めとする非二元の教師たちは、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは、今この瞬間に意識があるということだけだと言います。この意識のことを非二元の教師たちは多様な言葉で表現します。アウエアネス、純粋意識、生、気づき、真我、空間、それ。ニサルガダッタ・マハラジの言葉を借りて言うならば、「私は在る」という感覚、つまり意識があるということだけが今この瞬間に絶対的な確信をもって言えることです。その他のことはすべて仮説か想像にすぎません。

この意識とは、私たちの日常に普通にある意識のことです。何か特別な体験をして手に入れなくてはいけないとか、特別な人にだけにある意識ではなく、誰もが普通に持っている意識のことです。思考のことを意識と言い、思考の背後にある意識のことを純粋意識と呼ぶ教師もいます。呼び方は何でも構いません。それは思考の背景にいつもある普通の意識のことです。私たちが絶対的な確信を持って言えることは、今その意識がここにあるということだけです。

例えば、私たちは自分が生まれて生きていると思っています。でも、生まれるということはどういうことでしょうか? 生きているということはどういうことでしょうか? 生まれるということの定義づけも、生きているということの定義づけも、後天的に人から植え付けられた概念であり、実際にはどういうことなのか誰もわかっていません。心臓が脈を打ち、肺が呼吸をしているから生きているのだと考えていますが、それも誰かから植え付けられた概念にすぎません。

世界は私の意識の中に現れます。そういう点において万物は一つのものです。では、意識の外に世界はあるのでしょうか? それは確かめようがありません。なぜなら、私たちは五感を通して意識の中に現れる世界しか認識しようがないからです。世界は必ず五感を通して意識にやってきます。でも私たちは、世界は私たちの意識とは関係なく存在していると勝手に想像しています。でも、本当にそうでしょうか? 意識の外に出ることができない以上、意識の外に世界があるのかを確認する方法はありません。

時間に関してはどうでしょうか? 明日はまだやって来ていないので、当然存在していません。では、昨日はどうでしょうか? 昨日はどこにあると聞かれても、それは記憶の中にしか存在しません。つまり、意識の中にしか存在しないのです。昨日の時点では昨日は存在したと言われるかもしれませんが、それは今の時点で昨日のことを想像しているにすぎず、昨日の時点の昨日は今だったはずです。すると昨日も私たちの意識の中の想像でしかないことになります。

こうやって、一つ一つのことを突き詰めて考えていくと、今この瞬間に確かな確信をもって言えることは、今ここにある意識だけが確かなものであり、その他のもことは想像か仮説、あるいは思い込みや条件付けにすぎないということがわかります。非二元の教師たちが教えているのは、この意識のことです。私は「意識」という言葉がわかりやすいので意識という言葉を使っていますが、実際のところ、この意識とは何なのかと聞かれると答えることができません。

朝起きるとやってくるもの。思考の背景にいつもあるもの。それでいて、深い眠りの中にもあるもの。そこに世界が現れるもの。この程度の説明しかできません。それが本質としての私だと非二元の教師たちは言うのです。私たちは、この意識を客体として認識することはできません。なぜなら、私たちがその主体である意識だからです。目が自身の目を見ることができないように、意識が意識を認識することはできません。

ではどうしたらいいのか? 多くの非二元の教師たちが異口同音に言っているのは、思考を見つめることです。良い・悪い、好き・嫌いといった判断をしないで、ただ見つめる。あるいは気づいている。それを変えようとせず、消そうとせず、ただあるがままに見つめる。

非二元の教師たちは映画のスクリーンの例えを使うのが好きなので、ここでも使わせてもらいます。スクリーンが意識です。そのスクリーンの上に物語や世界が映し出されます。私たちには物語や世界は見えますが、スクリーンを見ることができません。そこで、スクリーンに映し出される物語や世界を見つめるのです。それを見つめることによって、それが実在なのかそうでないのかを見るのです。

意識のスクリーンに現れる最大のものは思考です。その思考を見つめるのです。それに気づいていることで、その思考が実在なのかどうか、その思考の背景には何があるのかを感知するのです。

意識に気づくことで何が起こるのかは人それぞれだと思います。至福、愛、やすらぎという人もいるでしょう。物語に巻き込まれなくなったという人もいるでしょう。私の場合は、ニサルガダッタが言った「もう何も悪くない」という表現が一番近いかなと思います。

多くの人は、非二元の教えを理解したら、何か特別なことが起きると信じています。意識がシフトして、悩みや苦しみが消えると思っています。でも、そんな事は起きません。非二元の教えを理解しても、特別なことは何も起きません。非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではないのです。

多くの人は、非二元の探求が終わればエンライトメント、あるいは覚醒が起こるはずだと信じています。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって意識に変容が起こり、あとは至福に包まれて幸福に暮らせるとか、光に包まれるような体験をして意識がシフトして、あとは悩み事もなく幸福に生きていけるというような、おとぎ話のように信じられてきた出来事のことを言っています。東洋、特にインドでは、こうしたおとぎ話が信じられてきた伝統があり、多くの人がそれを求めて探求してきた歴史があります。

でも、そんなものはありません。それはおとぎ話です。私はそれを多くの非二元の教師から学びました。真の非二元の教師たちは、誰一人としてエンライトメント、覚醒を説きません。もちろん、そうした教師の中には、「覚醒」「目覚め」という言葉を使う人もいますが、それは「理解する」「気づく」という意味で使われています。

スピリチュアルの教師、グルの中には、エンライトメントがあるかのように説く教師もいます。自らを覚醒した人だと宣言する人もいます。でも、そうした教師やグルは、誰一人として信奉者を救済することなく、多くの災いをもたらして去っていきます。それは歴史を振り返ってみればわかることです。

私も長い間エンライトメントを求めて探求してきました。その途中で多くの人たちに出会いました。突然仕事をやめてインドに旅だち、周りの人を悲しませた人たち。あ、これは私のことでした。なけなしの貯金を差し出してコミューンという名の共同生活に身を投じた人たち。自称覚醒した人に騙されて大金を失った人たち。日本では、かつて大きなカルト事件がありました。教祖は自らを覚醒した人だと名乗り、それを信じた多くの人たちが自分も覚醒して楽になりたいと教団に飛び込んでいき、最後には地下鉄にサリンをまくという事件がありました。

どれもこれも、覚醒があると信じていたから起こったことです。そんなものはありません。よく考えてみればわかることではありませんか。人間の苦しみや悲しみが、覚醒してすべて消えるなんてことがあろうはずがないではありませんか。でも人は自分ではどうすることもできない大きな苦しみや悩みを背負ったとき、そうしたおとぎ話をいとも簡単に信じてしまいます。私もそうでした。非二元の教えを学んで苦しみから解放されたいと思っている人は、そうしたおとぎ話を信じた人たちを笑うことはできないはずです。ひとつ間違えば、同じ道をたどっていたかもしれません。

今現在でも、多くの人がエンライトメント、覚醒を求めてさまよっています。あるいは覚醒を求めて次々と非二元の本をあさっている人もいるでしょう。そして最後には、自分は覚醒できなかったいう鬱々とした思いを抱えながら生涯を終えるか、トリップして自分は覚醒した言いだして、さらに多くの人に不幸をもたらすかのいずれかです。エンライトメント、覚醒などないということを一人でも多くの人に知ってもらいたいのです。「私はエンライトメントした」という教師、グルはとても危険です。必ず災いをもたらします。

真の非二元の教師たちが教えていることは、エンライトメント、覚醒ではありません。彼らが教えていることを理解しても意識が変容することはありません。至福に包まれることも悩みや悲しみがたちどころに消えることもありません。彼らが教えていることを理解しても特別なことは何も起きません。彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないのです。一瞥体験は非二元の教えとは何の関係もありません。私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。なぜなら、私たちがその主体だからです。

私たちは幸福や平安を求めます。でも、幸福や平安は不幸や苦しみがあってこそ成り立つものです。もし覚醒が起こって不幸や苦しみが消えたら、幸福や平安も消えます。幸福や平安は不幸や苦しみがなければ存在しえないからです。覚醒して毎日至福に包まれて暮らしたなら、その至福は至福ではなく、平凡な日常になります。それが私たちの生きている二元性の世界であり、その外へ出ることはできません。

また、非二元の教師たちのことを、私たちとは違う意識の、覚醒した人たちだと思い込んでいると、彼らが言っていることが理解できません。彼らは決して難しいことを言っているわけではないのですが、ことの性質上、不鮮明な説明や表現を使うことがあります。そうすると、「やっぱり私は覚醒していないから理解できない」となって、理解することを放棄してしまいます。彼らの語っていることはシンプルなことです。勝手に想像して彼らの教えを複雑にしてしまっているのは、彼らは特別な人だという思い込みにすぎません。

多くの人が、彼らには私たちとは違う世界が見えていて、超越的な知識を持っているのではないかと思い込んでいます。彼らは、私たちはどこから来てどこへ行くのか知っているのではないか、来生はあるのか、宇宙の成り立ちはどうなっているのかという類のことを知っているのではないかと思い込んでいます。でも、彼らにそんなことがわかるはずがないではありませんか。

彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。同じ世界を私たちと同じように見ているのであって、超越的な知識を持っているわけではないのです。私たちより少し先に非二元を理解したにすぎません。理解したことによって特別の意識の状態になったということは決してないのです。

多くの人が、探求が終わると何か特別なことが起こって意識の変容が起こると思っています。そんなことは起こりません。なぜなら、探求などもともとないからです。探求という概念そのものに時間という観念が含まれています。探求による成長や変化はマインドの中で勝手に想像した産物に過ぎません。時間がなければ探求などないのです。あるのは今ここにある意識だけであり、成長も変化も探求もないのです。私たちはもともとそれなのです。

覚醒した人なんていません。非二元の教師だって悩みごともあれば心配ごともあります。ただ彼らは、悩みごとや心配は単なる思考に過ぎないということを心底理解しているにすぎません。かつては、自らを覚醒したグルだと宣言して、祭壇の上で覚醒した人を演じるグルや教師もいました。でも今日では数多くの非二元の教師たちが現れ、インターネットの発達と相まってそんなイカサマを暴いてくれています。

自らを覚醒した存在だとして信奉者を集める手口は時代遅れのイカサマです。決して騙されないでください。もし、エンライトメントや覚醒などないと多くの人が知っていたら、数多くの悲劇を防ぐことができたであろうし、今後も繰り返し起こるであろう悲劇を避けることができると思うのです。

非二元の教えを正しく理解すれば、エンライトメント、覚醒がないということは容易に理解できます。非二元の教えを正しく理解すると、「私」は思考のかたまり、条件付けにすぎないということがわかります。つまり、「私」は実在しないのです。実在しない「私」がどうやって覚醒するというのですか? エンライトメント、覚醒があると言ったとたんに、いるはずのない「私」が現れて、その「私」が覚醒するというストーリーをマインドがでっちあげてしまうのです。

エンライトメント、覚醒という概念には、今覚醒していない私がいつか未来に覚醒するという時間の観念が含まれています。非二元の教えでは時間は思考の中にしか存在しないのです。いつか未来に覚醒するという発想そのものが非二元ではなくなってしまうのです。

そして極めつけは、覚醒する前の意識と覚醒した後の二つの意識があると思っているのなら、それは二元であり非二元ではなくなってしまいます。一つの意識しかないのです。今この瞬間、ここにある意識がすべてであり、他には何もないのです。二つの意識を認めることは、非二元の基本を踏み外した思考の産物に他なりません。

最後に非二元を理解する上で誤りやすいいくつかの点について書いておきます。時々、ネット上で見聞きすることですが、非二元を運命論や宿命論のように考えている人がいます。例えば、私たちの人生はすでに出来上がった映画のようなもので、ストーリーはもう決まっているというものです。それは正しくありません。非二元は運命論でも宿命論でもありません。何も決まってはいません。

運命論を語る場合、その大前提になるのは、そこにその運命を生きる「私」がいるということです。でも、非二元の教えでは「私」は実在しません。だとすると、誰がその運命を生きるというですか? そしてまた、運命論には時間という概念が入っています。ところが非二元の教えでは、時間は人の思考の中にしか存在しません。勝手に未来の運命を考えているのは思考の中だけです。運命論を口にしたとたんにマインドが「私」と「未来の時間」を作り出していることを理解してください。

私がセイラーボブに会って間もないころ、「人の未来がすべて決まっているのなら、努力は何の役に立つのですか?」と聞いたことがあります。するとボブは、「誰が努力をするのですか? 努力は自然に起こっています」と言いました。そこには、努力をする「私」も運命を生きる「私」もいないのです。

そしてまた、自由意志についても同じことが言えます。「自由意志はない」と言う人がいますが、それも正しくありません。「自由意志はない」と言ったとたんに、自由意志を持たない「私」が現れます。「自由意志はある」と言っても、自由意志を持つ「私」が現れます。「私」という主体が実在ではないのに、誰が自由意志も持つのですか? 自由意志があるとかないとか言うこと自体がおかしいのです。そしてまた、自由意志という概念にも時間の観念が含まれています。

同じ理屈は、輪廻やあの世の話にも当てはまります。「人は輪廻するのですか?」と問うこと自体が間違いなのです。そこに輪廻の主体となる「私」がないのなら、誰が輪廻するというのですか? そしてまた輪廻や生まれ変わり、あの世にも時間という概念が含まれています。

非二元の教えをきちんと理解していれば、運命論や自由意志、転生やあの世の話は出てこないはずです。「私」は実在しない。時間は思考の中にしかない。今ここにある意識だけが実在である。こうしたことは非二元の教えの基本です。そして、今ここにある意識だけが実在だと理解すると何が起こるのか。私たちの悩みや苦しみはすべて実在ではなく、想像の産物だという理解が起こります。

心理的な苦悩は不要です。逆に言うと、非二元の教えを理解して起こることは、心理的な苦悩からの解放だけです。引き寄せの法則がスムーズにいくとか、社会的に成功するということではないのです。悩みや苦しみは依然として起こってきます。でも、それには実体がないということを理解していて、巻き込まれることがなくなります。得られるものはそれだけであり、それこそがセイラーボブをはじめとする非二元の教師たちが教えていることです。

私は非二元の教えを十分に理解したつもりです。でも、それを体現して生きているかというと、そうとも言えません。いくらそれが実体のない思考にすぎないとわかっていても、悩みや不安にあっと言う間に圧倒され、ありもしない未来をさまようこともしょちゅうです。まだまだだなぁ思う毎日です。でも、基本的なことをしっかりと理解していれば、以前と同じように問題を雪だるま式に大きくしたりせず、問題は自然に解決するとわかっています。もともと問題などありはしないのですから。

セイラーボブと別れる時、彼は私に「このことをたくさんの日本の人に教えてあげて」と言いました。私はセイラーボブから学んだ非二元を一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。でも、非二元の教えを十分に体現して生きているとは言い難い私が教師面してミーティングをしたり個人セッションをしたりする気にはなれません。それに、インターネットがこれほど発達した今日、もはや非二元の教えは誰かに直接会って教えてもらわなければ学べないというものではなくなりました。非二元の教えはこのブログを一通り読んでいただければ十分に学べることです。それを体現して生きるかどうかはそれぞれの人次第です。私はこれからもせっせとブログを書いて、できるだけ多くの人に読んでいただきたいと思っています。それで私の役目は十分に果たせていると考えています。

謝辞

以下の人たちに感謝します。

私にセイラーボブのことを教えてくれた友人に。
一緒にミーティングに参加して、いろいろ教えてくれたトビー、ビル、サビーナ、ラメッシに。
セイラーボブの教えの理解に役立った「LIVING REALITY」を書いてくれたジェームズ・ブラハに。
セイラーボブの教えを最終的に理解することを助けてくれたギルバートとカットに。
さらに深い理解と洞察をもたらしてくれたピーターとカリヤニ、U.G.クリシュナムルティをはじめとする多くの非二元の教師たちに。
セイラーボブの本を翻訳してくださった高木悠鼓さん、たくさんの非二元の本を翻訳してくださった古閑博丈さん、ナチュラルスピリットの皆さんに。
仏教の中にある非二元(無我)の理解を助けてくださった佐々木閑先生、横田南嶺老師に。
ブログを読んでいただいた皆さん、おたよりでブログを盛り上げてくださった皆さんに。
そしてもちろん、私にこんなに素晴らしいものを教えてくれたセイラーボブと、あらゆるものとなって現れている一つのものに。