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2025/05/13

自由意志はないのか

前回のブログの続き。

非二元ではよく「自由意志はない」という言葉を耳にしますが、その意味は自由意志を持つ主体としての「私」は実在しないという意味です。でも、多くの人がこれを誤解していて、自由意志がないのだから何をやっても無駄だとか、結果はもう決まっているというふうに解釈している人がいます。

そうではないのです。そもそも、自由意志を持つ「私」が存在しないのです。そういう意味で自由意志はないのです。私たちの行為や努力は起こってくるものであり、その行為や努力は無駄ではありません。うまくいく場合もあればうまくいかない場合もある。そんなの当たり前のことです。

自由意志がなければ、自販機でコーラを買うこともできなければ、ブログを書くこともできません。そういう意味で言うなら自由意志はあります。でも、その自由意志の主体の「私」は実在ではない。コーラを買おうという気持ちも、ブログを書くという行為も、自然に起こっているということです。

私たちは、「私」が実在であると思い込んでいるために、「私」が選択していると思い込んでいます。でも、選択をしているように見える「私」は実在ではないのです。だったら何を悩む必要があるでしょうか。勇気を出して起こるがままに任せて、やりたいことをやってみたらどうでしょうか。

自由意志を持っている「私」も自由意志を持たない「私」も実在しません。自由意志の有無を論じること自体が間違いなのです。

2025/05/09

あまりにもデタラメな非二元論が横行している

私は日本人の方が書いた非二元関連の本をほとんど読みません。でも時々 Amazonが、「あなたにおすすめ」と言ってそうした本を紹介してくるので、その本のコメント欄を読むことがあり、だいたい何が書かれているかがわかります。

でも、あまりにもデタラメな非二元論が横行しているような気がします。一番多い間違いは、「私たちの未来はすでに決まっている」というものです。こんな無茶苦茶なものが非二元論であるはずがありません。

未来は決まっていません。そもそも、未来なんてないのです。時間は私たちのマインドの中にしかないのですから。それに、もし仮に未来を想像するとしても、それを生きる「私」は実在しないのです。「私」が実在しないのに、どうして未来が決まっているのでしょうか? その未来を生きているのは誰なのでしょうか?

非二元とは、二つではないということ。「あなた」も「私」もなく一つのもの。今も未来もなく一つのもの。だから非二元なのです。

「私」は実在しない。「私」は思考の産物。時間は私たちのマインドの中にしかない。こうしたことは非二元の基本です。そんなことも理解しないで、非二元の名を冠した本を書くとはけしからん。

そうした人の中には個人セッションまでしている人もいる。未来はすでに決まっているから努力をしても無駄だ、人生を投げやりに生きろとでも教えているのでしょうか? すべてがすでに決まっているなら、生きることの意味は何なのでしょうか? 努力することに意味はないのでしょうか?

こうした本を読んだ人は、非二元は人々の夢や希望を奪ってしまう厭世的なたわごとだと思って非二元を離れていってしまうでしょう。そうではないのです。あらゆる可能性は今この瞬間に開かれています。あ、いけません。少し時間の観念が入りました。

非二元論は、私たちの間違ったものの見方を教えてくれているだけです。運命論ではありません。非二元は、もっと明るく楽しく生きるためのものです。

2025/04/02

一瞥体験

昨日ブログに掲載したポインターはとても重要だと思うので少し追記します。
私はセイラーボブが言うアウエアネスが何なのかを理解するのに4年かかりました。それが、私たちの普通の意識のことだだったのには唖然としました。ああ、そういうことだったのかと。

私は、ボブが教えていることを理解したら、何かが起きるのだと思い込んでいました。でも、何かが起きるはずはないのです。なぜなら、普通の日常の意識(アウエアネス)のことを教えているのですから。それがわかってから、ボブの「ただそれだけ」やセイラーボブ以外の非二元の教師たちの発言を読んでみると、すべてがすんなりと理解できました。

多くの非二元の探求者たちは、非二元を理解したら、何か特別なことが起きるはずだと思い込んでいます。あたかも、意識に何らかの変容が起こって別次元の意識を体験するかのようなことが起きるのではないかと。非二元の教えをちゃんと理解していない人たちが、「私は一瞥体験をした。そこに私はいなかった」と言うものだから、多くの人たちが自分もそういう体験をするはずだと思い込んでいます。

でも、一瞥体験など起こりようがないのです。当たり前の普通の意識のことなのですから。おそらく多くの一瞥体験者は、間違った情報を鵜呑みにして自分にも一瞥体験が起こるはずだと信じているために、マインドがそういう体験を引き起こすのだろうと思います。それは単なる疑似体験にすぎません。実は私もそういう体験をしたことがあります。

非二元の教えの核は、「もともと私は実在しない」ということです。実在しない「私」が、「私がいないという一瞥体験」などしようがないのです。一瞥体験をした人の多くは「そこに私はいなかった」と言います。では、どうしてそれを覚えているのでしょうか? 「私」がいなかったなら、それを覚えているのは誰なのでしょうか?

そして、決定的な誤りは、一瞥体験をした人は、今はまた「私がいる」と思っていることです。一瞥という意味はそういう意味ですよね。非二元の教えの核は「もともと私は実在しない」ということです。「私がいる」と思っている時点で非二元をちゃんと理解していないことになります。

一瞥体験は、もともと実在ではない「私」を作り出して、その架空の「私」が一瞥体験するというトリップをしているにすぎません。エンライトメントがおとぎ話である以上、その世界を一瞥することなどありえません。

非二元の教師たちが教えていることは、何かになることや何かを体験することではありません。ましてや、何かを達成したり手に入れたりするこではないのです。彼らは単に、私たちの思い違いを気づかせようとしているにすぎません。何かが起きるはずだと思っていると、非二元の教えを理解できずにさまようことになります。

2025/03/07

非二元を理解すると何が起きるのか

非二元を理解すると何が起きるのか。
つまり、「私は実在しない」「万物は一つのもの」といったことを理解して起きる事は何か。
ひとつの効果としては、自分と他の人、あるいは世界が一つのものだということが理解できれば、人を思いやる気持ち、愛情が増すのではないかと思います。

これはルパート・スパイラも言っていることで、彼は「愛」という言葉で表現しています。
「エンライトメントとは何か?それはどのように起こるのか?」ルパート・スパイラ

内側に愛が増していくと、競争や妬み、嫉妬というものが消えていき、人を思いやることができるようになると思います。

逆に言うなら、非二元を自分では理解したと思っていても、人を妬んだり恨んだり憎んだりする気持ちが消えないうちは非二元を理解しているとは言えないのではないかと思います。逆に、そういった気持ちがあるかないかを、自分が非二元をしっかりと理解しているかどうかの指標にするといいと思います。

仏教で言うなら執着です。自分が金、地位、名誉などに執着してないかを基準とするといいと思います。いくら非二元を理屈として理解していたとしても、人に対する愛情がなく、妬みや嫉妬、怒りや恨みでいっぱいなら、非二元を生きているとは言えないし、ちゃんと理解しているとは言えないと思います。

セイラーボブ、カリヤニ、ピーターに会った時、何とも言えない暖かいもの、心地よさを感じたのは、彼らはしっかりと非二元を生きているからだと思います。
実際にその人が非二元を生きているかどうかは、会って会話してみないとわからない。

過去の嫌な思い出がたびたびやってきて苦しめるなら、まだまだです。人を妬んだり恨んだり憎んだりするならまだまだです。些細なことでイライラしたり動揺したりするならまだまだです。ひるがえって、私はどうかというと、まだまだです。

こんなことを言うと、セイラーボブに叱られます。「あなたがそのことを考えなかったら何が問題ですか?」「あなたはもともとそれです」と一喝されそうです。でも、少しずつ変わってきたなという感じはあります。

非二元の教えそのものはそんなに難しいことではないので、知的に理解することは難しいことではないと思います。でも、それが身に染みて、非二元を生きているかどうかは別の話だと思います。それほど私たちの条件付けは根深いように思いますが、みなさんはどうでしょうか。

2025/01/28

誰かの教えを理解するという事

非二元を理解するのは難しくないと、このブログで何度も書いたのですが、少し後悔しています。というのも、たどり着いてしまえば決して難しくはなかったのですが、とても長い時間がかかったからです。私の場合、セーラーボブの本を読んでから4年かかりました。

最終的に理解するまでに何をやったかちょっと書いてみます。ボブに会うまでに、「ただそれだけ」を7回読みました。ボブに会ってからはミーティングに60回以上出て、個人面接も受けました。ボブを始め、周りの参加者にあれこれとわからない点を尋ねました。

わかったつもりで日本に帰ったのですが、疑念や不確かなところが出てきたため、1年後にもう一度ボブに会いに行きました。今度こそわかったぞと思って帰ってきたのですが、また揺れ戻しが起こり、不確かな部分が出てきました。

それからはボブのYouTubeを何十本も見ました。ボブに関連する本で入手可能なものは全部読みました。参加者のFacebookをあれこれと読みました。そしてやっとボブの教えの全体を理解することができました。

ボブに会った直後に、言葉の上ではボブが何を言っているかは理解できました。でもそれがちゃんと腑に落ちて、体感として理解できるまでにはすごく時間がかかりました。頭で理解するのと、体感として心底理解するのは違うと思います。

もし誰かの教えの全体を明確に理解しようとするなら、本を何冊か読んだり、YouTubeをいくつか見るだけでは理解できないのではないかと思います。やはり一番良い方法は、その人に会って教えを乞うことだと思います。そうしてやっと理解できるのではないかと思います。

非二元の教えを言葉の上で理解するのはそれほど難しいことではないと思います。でも「私は実在しない」「何も起こっていない」「万物は一つのもの」「空間のような意識」。こうした言葉を体感としてちゃんと理解するには、やはりそれなりの時間がかかるのではないかと思います。また、非二元にたどり着くまでの年月を合わせるならば、私の場合は20年以上かかっています。

私がこのブログに取り上げた非二元の教師たちも皆、同じように長い年月をかけてたどり着いた人たちです。セイラーボブ、カリヤニ、ロンダ・バーン、ルパート・スパイラなどなど。こうした人たちは皆、長い年月をかけて師について学んだ人たちです。

大切な事は、もう何の疑念もないと言う段階に到達するまで、非二元の教えを離れないことだと思います。頭でわかっただけでは、深い理解にはならないのではないでしょうか。

なすべきことは、理解が確実なものとなるまで非二元を離れないで、良質な非二元の本を読み、気が済むまで自分で確かめることではないでしょうか。表面的な理解、単なる知識としての理解では、何の役にも立たないばかりか、かえって害になるような気さえします。

2025/01/07

久しぶりに精神世界のコーナーへ

正月に名古屋栄の丸善本店へ行ったら、もともと6フロアーあった本のフロアーが4フロアーに縮小され、2フロアーは駿河屋というホビーショップになっていた。最近は精神世界のコーナーへは行っていなかったが、まだあるのか気になって行ってみた。場所は変わっていたが、まだあった。

セイラーボブの「ただそれだけ」が棚から消えたのはずいぶん前のこと。今はどんな非二元の本が並んでいるのかと見て驚いた。古閑博丈さんの本も高木悠鼓さんの本も並んでいない。引き寄せ本やチャネリング関連本はまだたくさん並んでいるのに、私が知っているような非二元の本が棚にない。非二元の本のピークはもう過ぎてしまったのだろうか? 非二元の本はすぐに絶版になってしまうし、古閑さんが最近は非二元の本を出されていないせいもあるのかもしれない。

AMAZONのサイトで「非二元」で検索すると、日本人によって書かれた非二元の本がたくさん出てくる。そうした本は立ち読み程度でしか読んだことはない。でも、AMAZONのサイトのコメントや、著者のサイトからでもある程度の内容の推察はできる。一言だけ言わせてもらうと、「非二元」という言葉はもともと日本語にはなかったはず。おそらく、この20年ほどの間に英語の non-duality という言葉を「非二元」と翻訳したものが広まったと思われる。

インド哲学を研究していた人たちは、「非二元」という言葉ではなく、「不二一元論」という言葉を使っていたはずなので、それまで日本では「非二元」、あるいはノンデュアリティという言葉は広まっていなかったと思われる。

だとすると、日本で非二元の本を書いている人たちは、「非二元」という言葉をどこかから仕入れて使っているはず。それならば、その言葉の定義や、それをどこから仕入れたのかを明示すべきだと思うが、そのあたりのことをはっきりと語っている人は少ないように思う。ある日突然一瞥体験をして、非二元の体験をしたと言うなら、なぜそれが非二元の体験と言えるのかを明示すべきではないでしょうか? 

例えば、「私の体験はトニー・パーソンズの書いている体験そのものだった」あるいは、「私の体得したことはジョーン・トリフソンの言っていることと同じだ」というような感じで。もし誰からも非二元を学んでいないと言うならば、「非二元」という言葉をその人が発明したことになるが、そんなことがあるでしょうか? 

私がこのブログで取り上げた非二元の教師の多くは、自分が誰から非二元を学んだかをはっきりと書いています。そうすることで、教えに対する信頼性が高まるし、読み手は他に何を読んだらいいのかがわかります。

非二元という言葉の定義づけをはっきりしないまま、非二元について語っている本やサイトが多すぎるような気がします。どう考えても非二元論ではないのに、「私はいない」と言えば非二元としてまかり通ると思っている人もいる。

良質な非二元の本が書店の棚から次々と消えて、「私はいない」というフレーズをごり押しする類の本が増えていくのは悲しい気がします。もちろん、日本の方で良質な非二元の本を書いてみえる方もみえると思いますし、正しい非二元を教えてみえる方もみえると思います。

でも、今どきは「誰でも非二元教師」の状態で、非二元の本質が理解されないまま、単なる悩み事の相談窓口として広がっているような気がします。非二元を理解すること自体はそれほど難しくはないが、誰もが教師になれるほど簡単でもないし、なっていいわけでもない。真の非二元の教師とは、長い探求の末にやっと本物の非二元の教師と出会い、師の下で教えを学んで手に入れた人たち。理解の深さが全く違う。

彼らの説明には深みと知性があり、人に対する愛情と洞察にあふれている。真の非二元の教師の資質を持つ人は稀有な存在。ちょっと本をかじって毎回オウムのようにコピーした文句を繰り返すだけの人たちが、真の非二元の教師たりえるはずがない。

2024/12/31

良いお年を

大晦日。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
facebookによると、セラーボブは毎日看護師に来てもらって、痛みに対処するための投薬治療をやってもらって静かに過ごしているそうです。
私の中のボブのイメージは、まだ元気旺盛なころ、誰の助けも借りずに週三回90分間、迫力満点でしゃべっていたころのままです。
最近のボブは、話すことさえままならないような様子で、それをYouTubeで見るのは忍びない思いでした。でも、そうした姿を見せることもある種のメッセージなのかもしれません。

セイラーボブは何も特別な存在ではなく、他の人と同じように、老いることも病に苦しむこともあるのだということを見せているのかもしれません。そこには、インチキマスターにありがちな、特別なカリスマ性を演出しようという意図は微塵もありません。
大切なのはグルではなく、メッセージなのだと日頃言っていることを体現しているのかもしれません。そして今はカットや他の数人の語るメッセージに耳を傾けています。
一日でも長く、ボブがそうしていてくれることを願うばかりです。

この一年をブログ上で振り返ると、前半は昨年カリヤニが日本に来たことから引き続いて、ボブ以外の非二元の教師について書きました。後半は、佐々木閑先生のYouTubeと、セイラーボブのポインターを中心に書きました。セイラーボブのポインターは大半がボブのfacebookから拝借したものです。その言葉は、カットが書いていると思われますが、何から引用しているのかは知りません。

日々のポインターは基本的にはネット上にあるものからの引用であり、書籍からのものではありません。書籍、特に「LIVING REALITY」には良い言葉や、おもしろい話がたくさんあるのですが、著作権の問題があるので引用することを控えています。ボブの教えの全体を知るには、やはりこの本が一番良いと思っています。

さて来年も今までと同じような感じで、繰り返しボブのメッセージを伝えていきたいと思っています。自分でも同じようなことばかり書いているなと思うのですが、ボブだって同じことを40年以上も話してきたのだから、これでいいのだと思います。以前のようにミーティングを訳して載せるといいなと思うのですが、あれはけっこう時間がかかるので、今のところは予定していません。それと、残念なことに、ボブが一人で話していたころのYouTubeはあまり残っていません。

非二元の教えは、理解したら終わりということではなく、それを生きなければ意味がないと思うのです。本当に「私」は実在しないと身に染みているか。いるはずのない「私」が架空の悩み事にどっぷりと巻き込まれていないか。いるはずのない「私」がありもしない明日の心配ばかりしていないか。

繰り返しボブの言葉に触れることが助けになると思っています。このまま引き続きコツコツとやっていきます。あまり目新しいことは書けないかもしれませんが、また気が向いたら読んでみてください。

みんさんにとって来年が良い年となりますように。

2024/12/20

一瞥神話 覚醒神話 覚醒者神話

私は長い間、多くの聖人、賢者たちは覚醒した人だと信じていました。仏陀、キリスト、老子、J.クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシなどなどは全部覚醒した人たちだと信じていました。そして自分も覚醒して苦しみから解放されたいと思っていました。

でも今ではそれは単なる神話、おとぎ話にすぎないということを理解しました。覚醒した人などおらず、人が覚醒することもないということを理解しました。そうなると、そうした世界を一瞥するということも、ある意味おとぎ話であるとわかります。人が覚醒しないのなら、覚醒した世界を一瞥するなんて起こりようがないからです。

なぜ人は、覚醒神話や一瞥神話をいとも簡単に信じてしまうのでしょうか。おそらく自分が生きている現実世界がうまくいかず、辛く悲しいことが多いため、なんとかしてそこから脱出できないかと思うからではないでしょうか? 覚醒したら、悩むことなく毎日幸せに暮らせると言われれば、それを手に入れたいと思うのではないでしょうか?

私もそうでした。どうしても覚醒を手に入れたかった。苦しみや悩みから解放されたかった。セイラーボブに出会い、そんなものはないと知ってなんとがっかりしたことでしょう。なんと無駄なことに人生を浪費したのかと後悔しました。そして、そこには「私」もいないと知りました。

しばらくはがっかりしていましたが、覚醒という逃げ道がないと知って、逆にすっきりしました。自分は、人生につきものの悩みや苦しみを覚醒、あるいは瞑想によって、お手軽に解決しようとしていただけだと悟りました。

人は悩みや苦しみと真正面から対峙して生きていくしかないということを学びました。精神世界の探求者は、自分は倫理的にも精神的にも高尚な道を歩いていると思っていますが、実はお手軽な方法で悩みや苦しみから逃げ出したいだけのような気がします。

生きていくということは、そんなに簡単に悩みや苦しみから逃れることができるようにはできていないし、そうやって逃れるのであれば、生きていることの醍醐味を味わえないのではないでしょうか。

非二元を学んで、「私」も悩みも苦しみも実在ではないと学んでも、問題は次々とやってきます。そんな時、それは実体のないものだということを思い出しながら逃げることなく生きていけばいいのではないでしょうか。

2024/12/06

非二元の教師たちが言っていることはシンプルなこと

非二元の教師たちが言っていることはシンプルなこと。私が「私」だと思っているものは実在しない。ただそれだけ。
彼らが特別な意識を達成した人でもなければ、私たちとは別の世界を見ているわけでもない。
特別な体験をしたわけでもなければ、覚醒して別の意識の次元にいるわけでもない。
私たちと何も変わらない普通の人たち。

あれほどの大男だったボブが今はひどく痩せて小さく見える。
あれほどの迫力とユーモアで語っていたボブが今は多くを語らず休んでいる。
老いることも病に苦しむこともある普通の人。
ボブはごく普通の人。私たちと何も変わらない普通の人。
そして普通の人であることがどれだけかけがえのないことかを教えてくれた偉大な人。

2024/11/22

以前ケンさんからいただいたおたよりについてもう一度

以前このブログにいただいたケンさんからのおたより。それを時々思い出して考えることがあります。
「私」が実在ではないのなら、そこには何があるのか。セイラーボブが知性エネルギーと呼ぶものは何なのか? 多くの非二元の教師がアウエアネス(意識・あるいは気づき)と表現するものは何なのか? いくら非二元の本をあれこれ読んでも、結局はそれは私たちが確認することも理解することできないものだというような説明に行き着くだけです。
それ以上の説明を聞くと、ケンさんが言われたように、それを「我」の置き場にすることは避けられないような気がします。

非二元の教師の中には、「『私』は思考の産物であり、実在しない」というところまで説明して、それ以上の説明をしない教師もたくさんいます。時々思うのですが、非二元の教えの一番大切なところは、「『私』は思考の産物であり、実在しない」ということだと思います。説明はそこで終わりにしてもいいような気がします。これは私の勝手な解釈ですが、仏教もそこをゴールにしていて、それ以上のこと(そこに何があるのか)を説いていない気がします。

それ以上のことを説けば、神話や想像の世界に入って行かざるえません。
非二元は宗教でもカルトでもなく、日々の生活に役立つ実践的な教えだと思うし、そうあるべきだと思います。だとすると、「『私』は思考の産物であり、実在しない」ということの理解だけで十分ではないかと思います。それ以上の理解を手に入れようとするのは無駄であり、危険でさえあるような気がします。多くのカルトマスターたちが、あたかもそれを手に入れられるもののように説いて多くの人を誤らせた歴史を見ればわかることです。

セイラーボブの言葉であっても、例えば「知性エネルギー」という説明を鵜呑みにする必要はなく、神話として片付けてもいいし、別の解釈もあっていいと思います。
私はといえば、「『私』は思考の産物であり、実在しない」という理解までで終わりにしています。「私は実在しない」ということは確信を持って理解しました。でも、それ以上のことは知らない。そこには何があるのか。それは何なのか。それは誰にもわかりようのないことだと思います。U.G.クリシュナムルティが言うように、意識なんてものがあるのかどうかも疑ってみる必要がある。

2024/11/19

非二元の教えの胆(きも)

非二元の教えの胆(きも)は何だろうかと時々考えます。「私は実在ではない」とか、「物事は自然に起こっている」とか言われても、じゃあ一体どうすりゃいいの? と思うこともあります。
「私」は実在ではないと理解すると、私たちの悩みはマインドの産物であり、実体のないものだということがわかります。「私」が実在ではないのなら、その「私」の産物である悩みや不幸も実在しない。

非二元の教えは、必要以上に自分を責めたり、不安や精神的苦悩を抱え込んだりしないためにあるのだと思います。責めるべき「自分」も苦悩も想像の産物にすぎない。
10年前、20年前の自分を思い返してみて、その頃何を悩み苦しんでいたかと思い返してみると、そのどれもがそれほどのことでもなかったと気づきます。
そうやって一生を終えると、最後には、この「私」も消えていく。

そうわかっていても、あれこれの悩みや迷いを運んでくるのがマインド。そしてまた「私」はそうした悩みや迷いと格闘、あるいは遊び始める。その繰り返し。
非二元を学ぶと、その格闘、あるいは遊びから、ある種の距離感が生まれ、以前ほどどっぷりと問題に巻き込まれることはなくなる。そこらあたりが非二元の胆なのではないでしょうか?

マインドの活動を停止させることはできなし、架空の「私」を完全に消し去ることもできません。
でも、それが想像の産物だということを知っていたら、起こっている幻想の世界を楽しんで生きる手立てとなるのではないでしょうか。

2024/07/29

人間は高性能のロボットと同じではないでしょうか

私は常々、人間は高性能のロボットと同じではないかと思っています。バッテリーの代わりに食べ物を補充して動きます。脳はAIのようなもので、ChatGTPのように、自分で学習する能力を持っています。

それで、何がロボットと違うかというと、後天的に植え付けられた情報によって、「私は人間だ」「私は生まれた」「私は生きている」「私は死ぬ」と思い込んでいます。でも、非二元を学ぶと、そんなことは後天的に植え付けられた情報にすぎないということを理解します。そして、常住普遍の魂なんてものも、「私」なんてものも存在しないという理解に至ります。

そうだとすると、私たちはロボットと何もかわらないことになります。バッテリーが切れたら身体が動かなくなって、意識が消えるだけです。動物も同じです。だとすると、ロボットも動物も人間も、実際には同じようなものではないでしょうか。人間だけが、自分は特別だと思っていますが、実際には自然の一部にすぎません。

ロボットや動物と人間が決定的に違うのは、人間だけが心理的な苦悩を持つという点です。なぜ心理的な苦悩を持つかというと、「自分が生きている」、あるいは、「自分がこの生をコントロールしている」と思っているからではないでしょうか? 悩み事は、本来自分ではコントロールできない物事を、なんとかしてコントロールしようとするから起きるのではないでしょうか。

ロボットだったら、そんなことは考えもしないでしょうし、動物だったら、少しは悩むかもしれませんが、悩んでいるより先にエサを探さなくてはならず、悩んでいる暇なんてないのではないでしょうか。

私も心理的な苦悩をいくつも抱えていた苦しい時期がありました。周囲の状況から起こる悩みばかりでなく、病的なものもありました。振り返って今思うのは、そうしたことの特効薬は、放置しておくというか、忘れてしまうことが一番ではないかと思います。もちろん、原因がある悩みについては、原因を解決すべく、できるだけの努力はすべきだと思いますし、病的なものについては医者や薬の助けも必要かもしれません。

でも、基本的には、そうしたことをコントロールできる「私」はいない、悩みの主体となる「私」は実在ではない、ということを理解して、今やるべきこと、やりたいことに焦点をあてることが解決の近道ではないいでしょうか。問題や悩みを解決しようともがけばもがくほど、エネルギーはそちらへ流れ、悩みや問題は大きくなっていきます。もともと問題はマインドが作っているものにすぎず、実体などないのですから。

悩みや問題の解決は、非二元の教えを理解することがベストだと思います。でも、大きな悩み事を抱えている方で、非二元の教えよりももっと即効性のある解決策を探してみえる方は、以前ブログに書いた、こちらを参考にしてみてください。何かの参考になるかもしれません。

2024/06/25

根底にあるものは何か

佐々木閑先生のYouYubeを見ていると、一言で仏教と言っても、いろんな教えや考え方があって面白いなと思います。世界の認識の仕方一つとっても、初期仏教と説一切有部や唯識では同じではありません。でも、根底にあるものは「諸法無我」であり、それは変わりません。

同じことが非二元の教えでも言えるのではないでしょうか。説き方は人それぞれであり、場合によってはそれぞれが互いに矛盾したことを言っているように思える場合もあります。でも、根底にあるものは「私には実態がない」ということであり、それから外れていなければいいような気がします。

でも、私はエンライトメントある派のマスターを支持しません。エンライトメントある派のマスターを支持しないというのは少し狭量だと思われるかもしれませんが、そこだけはどうしても譲れません。それを許してしまうと、そこには誰かエンライトメントする人がいることを認めてしまうことになります。

エンライトメントある派のマスターも存在していてかまいませんし、エンライトメントを目指している人たちのことをとやかく言うつもりもありません。でも、彼らの教えていることは非二元ではないし、彼らを非二元を教えるマスターと同じように扱うのはよくありません。そして、非二元の教えをエンライトメントとごちゃ混ぜにして理解しようとするのは間違っていると思います。非二元の世界にエンライトメントはありません。

2024/05/24

非二元的な生き方

非二元を学んで理解して、その後で「非二元的な生き方」があるかというと、そんなものはないと思います。非二元の教えの目指しているところは心理的な苦悩からの解放だけです。その後はどんな生き方をするかは、人それぞれ個人の意思にかかっていると思います。

「私」が実在ではないということを理解して、それならもっとやりたいことをやって自由に生きようとする人もいるでしょうし、以前にも増して成功や願望実現へ向けて精を出す人もいるでしょう。精神的な問題や悩みが無ければ、成功する確率は高くなるかしれません。

私も精神的には随分と楽になりました。それで私の生き方が変わったかというと、非二元を学んだから生き方が変わったということはないように思います。すべては起こってくることだと思うと、何かをどうかしようという思いもあまりおこりません。その影響もあると思うのですが、佐々木閑先生の教える仏教を学んで多いに納得することがありました。そして今は、できるだけ「欲望や願望を追及しない生き方」をしようと思っています。

年齢的にもこれから世に出て何かをしようという年齢ではないし、どうしても何かが欲しいという願望もありません。もっと英語が上手になりたいとか、もう少しビビらないようになりたいとかいうささやかな願望はありますが、大したことではありません。とりあえず食べるものがあって、その上健康ならありがたいなと思う程度です。

もともと多少ドロップアウト気味に生きてきたこともあって、佐々木閑先生の説く仏教には随分と救われました。もちろん、「欲望や願望を追及しない生き方」の人が増えてしまっては、経済も社会もうまくいかなくなってしまうので、そういう生き方は社会では息苦しさを感じる少数の人に限定されるべきものなのでしょう。できるだけ人や社会に迷惑をかけないようにして、「欲望や願望を追及しない生き方」をしていこうと思っています。

「人並みに」とか、「人と同じように」生きなくてもいいんだよ、というお許しをもらった気がして救われた気持ちです。どうせある意味でヴァーチャルな世界に生きているんだから、自分の思うように生きればいいのだと思います。

佐々木閑先生はたびたび「欲望や願望を追及しない生き方」(佐々木先生の使われる表現とは多少違うかもしれませんが同じ意味だと思います)が仏教の目指すところだと語ってみえます。私には、それが幸福をもたらす鍵のような気がしてなりません。


佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その33」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

2024/05/17

世界は幻か?

前回のブログの「ミリンダの問い その29」は、仏教が世界をどのように認識しているのかがわかって、とても良い話でした。ミリンダ問経にあるような初期仏教では、世界は実在するが、「私」は実在ではないという立場をとっています。さらに仏教が発展して大乗仏教になると、世界も実在ではないと説く人たちが現れます(唯識など)。

セイラーボブに会った最初の頃、世界が実在なのかどうかが知りたくてしかたがありませんでした。セイラーボブは、ヒンズー教を引き合いにだして、世界はマーヤー(幻)だと言われているという話を時々します。それで私は、世界が自分の意識の外にあるのかどうかが知たくてしかたなかった。私が眠っている時にエジプトのピラミッドは消えているのか? メルボルンのヴィクトリア通りの建物は消えているのか?

そういう質問をしたことがあるのですが、ボブはいつも決まって「そこにあるのは何ですか?」と言って、部屋の隅にある椅子を指すのです。そこから、それが椅子なのかどうか? それは実在か? という話になっていくのです。私としては、もっと単純に、私たちが見ている世界は実在なのかどうかが知りたかったのですが、いつもはぐらかされたような印象を受けました。

非二元の教師たち皆が世界は幻だと言っているわけではないのですが、そのように解釈できるように語る人もいます。ジャン・クラインは、「意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます」と言っています。

個人的には、おそらくジャン・クラインの言う通りなのだと思います。おそらく、私の意識が消えれば世界は消えるだろうと思います。例えば、私が死んだら世界は消える。私が空の上から残された人たちの活動を見るなんてことにはならないと思っています。参照点が消えればもうこの世界を見ることも感じることもないだろうと思います。ただ、まだ生きている人に参照点を置くなら、そこには依然として世界はあるでしょう。

でも、それも想像にすぎません。いくら考えてみたところで、私たちは五感を通してしか世界を認識できないのだし、五感の外に出て確かめることは不可能なので、意識の外に世界があるのかどうかは確かめようのないことです。私が死んだあとに世界はどうなるかも、確かめようのないことです。

人によっては、世界は実在しないという考え方は行き過ぎで、世界も身体も実在するが、「私」は実在しないという初期仏教の考え方の方がしっくりいくという人もいるのではないでしょうか。昔の私だったら、覚醒した人はそういった意識の外の世界さえ見えているはずだと思っていましたが、今ではそんなことはまったく信じていません。

以前は、非二元の教えを理解する上で、世界は幻であるということを理解しなくてはいけないと思っていましたが、今はそうは思っていません。非二元の教えの核は「私」は実在ではないということです。世界が実在かどうかは考えてもしかたがないことだと思います。現実問題として健康診断にも歯医者にも行かなくてはいけません。身体は無いなんて言ってられない。

以前、非二元にまったく興味のない友人に、「ひょっとするとリンゴは脳の産物で、実際には存在しないかもしれない」と言ったところ、ひどく怒られて、あんまり変な本ばかり読んでるいからそうなるんだと言われたことがあります。世界は幻だなんて言おうものなら・・・。

認識論については、今のところ前回のブログ(ミリンダの問い その29)が一つの答えになるのではないでしょうか。科学は、物質は存在しないということを証明する手前まで来ていますが、まだそれは量子力学の段階でしかありません。現段階ではまだよくわかっていません。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。

わからないものはわからなくていいのではないかと思います。非二元の教師が、世界は幻だと言ったとしても、彼らでさえも確かめることはできないと思います。現実的なことを言えば、私の世界は私の意識の及ぶ範囲だけであり、それ以外はないと同じではないかと思います。

2023/03/25

苦悩は不要なもの

昨日まで掲載したミーティングでは、最初にヘイマンが「自殺を考えるほど苦悩している」と言ったものだから、あとは全員でよってたかって、「苦悩には実体がない」「あなたは実在しない」と教えていました。優しい人たちですね。

ヘイマンは何か月もミーティングに出ていて、いつもふさぎ込んでいたのですが、その原因がやっとわかりました。難民の人たちがどんな心境なのかは察して余りあるものがあります。

セイラーボブが言う、「私」は実在ではないということは理解できます。でも、苦悩の真っ最中にある人は、それを聞いてもすぐには苦悩から抜け出すことができないのではないでしょうか。ましてや、国を追われ、見知らぬ土地で身寄りも仕事もなく生きて行かなくてはいけないとしたら・・・。

いくらそれはマインドが創作した物語だと言われても、その物語をもっと素晴らしい物語に変えられないかとジタバタします。

素晴らしい物語に変えたとしても、それが物語である以上は実体のないものであり、いつかは消えていくとはわかっていても、できるものなら変えたいと思うもの。

私も過去にはたくさんの苦悩を抱えていました。中には病的なものもあり、普通に暮らしていくことさえかなり苦しい時期がありました。今思うと、何を悩んでいたんだろうと思うのですが、悩みの最中にいるときは、そんなふうに客観的に物事を見ることができませんでした。

多くの場合、苦悩や悩み事は、具体的な問題が解決したわけでもないのに、しばらくすると消えていきます。あきらめたわけでも、受け入れたわけでもないのに、あまり苦悩しなくなります。そうすると、まさにそれは物語にすぎなかったとわかるのですが、しばらくあとにならないとそれがわかりません。

「もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?」というポインターほど強力なものはないのではないでしょうか。これは、問題に目をつむれとか、目をそむけよということではなく、悩む必要はない、すべては思考の産物だと気づけということではないでしょうか。

悩み事があれば解決策を探す。見つからなければそのまま見守る。悩む必要はないということだと思います。今苦悩の最中にいる人には、わかっていても容易なことではないかもしれません。でも、それは単に物語にすぎないということを忘れないでください。

2023/03/18

振り返ってみると

昨日のミーティングの中でディーンは、振り返ってみると、以前のように苦悩している自分はいなくなっていたと言っていました。私も自分の昔を振りかえってみると、随分変わってきたなという実感があります。

以前の私はものすごく神経質で心配性でした。ささいなことでくよくよ悩んだり心配したりしてばかりいました。もちろん今でも悩んだり心配したりすることはありますが、以前と比べると、それほど強烈ではありません。悩んだり心配したりしても、切り替えや回復がずいぶんと早くなりました。

ああ、また「私」が心配している、と客観的に見ることができるようになったのです。その「私」が物語にふけっているのがわかっていて、見方や状況が変わるのを待つだけです。抵抗しなければ、物語は消えていきます。後悔することも減ってきたし、あれこれとジタバタしなくなりました。もう以前のようにどっぷりと病的な苦悩にひたることはないような気がします。

ボブのミーティングに来る人は誰しも苦悩を抱えてやってきます。ギルバートもそうだと言っていたし、カットもそうでした。そして、苦悩は必要のない物語にすぎないということに気づいて解放されます。ボブの教える非二元がもたらす唯一のものは、心理的な苦悩の消滅だけです。そしてその方法は、「私」は実在ではないということを自分で調べることだけです。

以前の私は、精神世界の本のコーナーに通い詰めで、いろんな道や法を求めてジタバタする毎日でした。何を試そうが、どうあがこうが、苦悩の消えない日々でした。それが今では、あれほど足繁く通った精神世界のコーナーにはまったく行かなくなりました。行く必要がなくなってしまったという言い方が正確なのかもしれません。ボブの言っていることは普遍的な真理であり、それ以上の真理はないように思えます。探求は終わったと言うと、ギルバートに叱られます。探求などもともとありはしないのですから。

2023/03/11

理解の起こり方

非二元の教えを理解するとはどういうことか、それはどういうふうに起こるのかについてブログに書く時、いつもうまく表現できないと、もどかしく思っていたのですが、昨日のブログのミーティングの中でカットが上手に説明してくれていました。

その中で、ミーティングにやって来た人のほとんどの人は、ボブの話を聞いて、少しずつ理解が根を張るように起こってくると言っていました。たいていの人の理解はそうやって起きるのだと思います。私がボブの教えを明確に理解したと思ったのは、ボブに会ってから4年後のことで、ギルバートやカットの言葉がきっかけになりました。

ギルバートの「それはあなたの普通の意識のことだよ」と言う言葉と、カットの言う「非二元の世界を実際には見ることも体験することもできない」と言う言葉がきっかけになりました。同じ内容の言葉をセイラーボブからも何度も聞いていたのに、それまではよく理解できていませんでした。ある時バスに乗っていて、景色を見ていたら、ギルバートの言葉とカットの言葉が浮かんできて、(ああ、そういうことか)という理解が起きました。

シフトが起こったとか、そういうことではなく、普通の理解です。普通の理解なのですが、今までしっくりこなかったことが、あたりまえのことのように思えた瞬間でした。セイラーボブの言うことが、何の疑問も抵抗もなく、全部あたりまえのことのように思えたのです。

私はこのブログで、「確信」という言葉を何度が使いましたが、確信という言葉には、「信じている」というニュアンスがある気がします。信じているわけではなく、「あたりまえのことのように思える」と言った方が適切なのかもしれません。「地球は丸い」と確信しているわけではなく、それがあたりまえだ思っているのと同じです。

理解の起こり方は人それぞれでいいのだと思います。ジェラルディーンは以前にもミーティングのYouTubeに登場していて、同じような質問をしています。彼女の言う「カチッという音がしない」や「自販機にコインが落ちない」という状態は、私も長らくそうだったので、よくわかります。

意識のどこかに、何か劇的なことが起こるのではないか、何かが変わるべきだ、もっとスッキリした状態になるはずだ、というような思いがあると、なかなかカチッという音がしないのではないかと思います。理解が起きたら何かが起きるはずだと私も長らく思いこんでいました。残念ながら、私が想像していたようなことは何も起こりませんでした。でも、ある意味ではすべてが変わりました。そこには、もう何も探していない自分がいました。以来、「でも」も「もし」も消えました。

私のブログを読んで、セイラーボブの教えをすんなり理解された人は大勢いると思っています。そのために、せっせとこのブログを書いているつもりです。でも中には、「カチッという音がしない」人や「自販機にコインが落ちない」人もみえるかもしれません。でも、あきらめないで、心の片隅にセイラーボブの言葉を置いておいてください。

誰の言葉か忘れましたが、「アドヴァイタに咬まれた人は必ず毒がまわる」とどこかで読んだ記憶があります。やがては全身に毒がまわって、自然に理解が起こってくるはずです。そうなると、自然といろんなものが落ちていきます。

2023/03/04

探求などなかった

ギルバートはしばしばミーティングの中で、「探求などなかった」と発言しています。それはとても深い言葉だなといつも感心します。

私は長い間、自分は探求をしていると思っていました。探求を続けていけば、覚醒が起きて、すべての苦悩から解放されると思い、半分イカれた頭を抱えて精神世界をあちこちと探求してきたつもりでした。

でも、セイラーボブと出会って、自分は一歩も元の場所を動いていないということを知りました。そして、20年以上にわたって精神世界に費やした時間や労力、お金のことを考えて、随分と後悔もしました。でも、ギルバートの、「探求などなかった」という言葉を聞いて救われた気がしました。

自分では探求しているつもりでも、自分は北極点にいて北極点を目指している探検家のようなもので、どこへも行く必要はなく、ただそうやって自己満足してきただけだったと知ったからです。

精神世界の旅人の多くは、自分は何か尊いことをやっているという幻想に取り付かれています。でも、精神世界の本をどれだけ読もうと、何人のグルに会おうと、どれほど瞑想しようと、本質的には何も変わりはしないのです。なぜなら、もともと「私」は完全なものだからです。

探求を続ければ何かになるだろう、何かを手に入れるだろうというのは幻想です。探求者は幻想の中で探求ごっこをして遊んでいるにすぎず、それが尊いとかそうでないということは少しもありません。お金儲けや娯楽に懸命になるのと少しも変わりません。

私がこのブログを書く目的の一つは、一人でも多くの人が探求という幻想から抜け出して、あるがままの自分にくつろいで欲しいからです。そして、それをやり遂げる唯一の方法は自分で調べて、「私」は実在ではないということを知ることです。

たくさん本を読む必要も、グルに会う必要も瞑想する必要もありません。セイラーボブもギルバートもあなたのかわりにそれをやってくれはしません。自分で調べるしかないのです。そして、それを知った時、探求などなかったと知って、くつろぐことができます。

2023/02/27

バイロン・ケイティ

昨日のブログには載せませんでしたが、別の場面でカットは、以前はバイロン・ケイティのアドヴァイス通りに思考を書き出して、それが真実かどうかをチェックしていた時もあったが、今はやっていない、いずれにしても、それは単なる思考にすぎない、と片付けて終わりにしていると言っています。

またカットは、普段の生活で余計な思考がやってくると、「はい、次どうぞ」と言ってその思考をやり過ごすそうです。私の場合はどうか。私も依然として嫌な思考がたくさんやってきます。嫌な思い出、忘れたいこと、人からの批判、後悔、人との比較、嫌いな奴のこと、恥をかいたこと、異常な妄想、私を傷つけた人のこと、私が傷つけた人のこと。ありとあらゆるネガティブな思考がやってきます。

ひどい時などは、気が付くと毒づいて独り言を言っている時があります。昔はそういった思考がどっかりと居座ってしまって頭を離れない時があると、たいていは酒で紛らわしていました。今は家で一人で酒を飲むということはまったくなくなりました。飲みたいとも思いません。

そうした思考は単なる思考であって、実態のないものだということが身についてきたのだと思います。昔はたくさんの気晴らしが必要でした。人に会ったり、おいしいものを食べたり、飲んだり歌ったり旅をしたり。でも、今そうしたことがあまり必要ではなくなってきて、興味が向かなくなってきました。いいのか悪いのかわかりませんが。

今回、バイロン・ケイティの本を読もうかと思ったのですが、「今そのことを考えなかったら、何が問題ですか」というボブのポインターを知っていれば十分な気がして、読む気が起きませんでした。(ネットやアマゾンで読む限りでは、バイロン・ケイティはすばらしことを言っていると思います)

「思考は実体がないものであり、それが世界が形成している」という真実を学ぶことこそが、非二元を学ぶ鍵だと思います。