セイラーボブの「ただそれだけ」が棚から消えたのはずいぶん前のこと。今はどんな非二元の本が並んでいるのかと見て驚いた。古閑博丈さんの本も高木悠鼓さんの本も並んでいない。引き寄せ本やチャネリング関連本はまだたくさん並んでいるのに、私が知っているような非二元の本が棚にない。非二元の本のピークはもう過ぎてしまったのだろうか? 非二元の本はすぐに絶版になってしまうし、古閑さんが最近は非二元の本を出されていないせいもあるのかもしれない。
AMAZONのサイトで「非二元」で検索すると、日本人によって書かれた非二元の本がたくさん出てくる。そうした本は立ち読み程度でしか読んだことはない。でも、AMAZONのサイトのコメントや、著者のサイトからでもある程度の内容の推察はできる。一言だけ言わせてもらうと、「非二元」という言葉はもともと日本語にはなかったはず。おそらく、この20年ほどの間に英語の non-duality という言葉を「非二元」と翻訳したものが広まったと思われる。
インド哲学を研究していた人たちは、「非二元」という言葉ではなく、「不二一元論」という言葉を使っていたはずなので、それまで日本では「非二元」、あるいはノンデュアリティという言葉は広まっていなかったと思われる。
だとすると、日本で非二元の本を書いている人たちは、「非二元」という言葉をどこかから仕入れて使っているはず。それならば、その言葉の定義や、それをどこから仕入れたのかを明示すべきだと思うが、そのあたりのことをはっきりと語っている人は少ないように思う。ある日突然一瞥体験をして、非二元の体験をしたと言うなら、なぜそれが非二元の体験と言えるのかを明示すべきではないでしょうか?
例えば、「私の体験はトニー・パーソンズの書いている体験そのものだった」あるいは、「私の体得したことはジョン・トリフソンの言っていることと同じだ」というような感じで。もし誰からも非二元を学んでいないと言うならば、「非二元」という言葉をその人が発明したことになるが、そんなことがあるでしょうか?
私がこのブログで取り上げた非二元の教師の多くは、自分が誰から非二元を学んだかをはっきりと書いています。そうすることで、教えに対する信頼性が高まるし、読み手は他に何を読んだらいいのかがわかります。
非二元という言葉の定義づけをはっきりしないまま、非二元について語っている本やサイトが多すぎるような気がします。どう考えても非二元論ではないのに、「私はいない」と言えば非二元としてまかり通ると思っている人もいる。
良質な非二元の本が書店の棚から次々と消えて、「私はいない」というフレーズをごり押しする類の本が増えていくのは悲しい気がします。もちろん、日本の方で良質な非二元の本を書いてみえる方もみえると思いますし、正しい非二元を教えてみえる方もみえると思います。
でも、今どきは誰でも非二元教師の状態で、非二元の本質が理解されないまま、単なる悩み事の相談窓口として広がっているような気がします。非二元を理解すること自体はそれほど難しくはないが、誰もが教師になれるほど簡単でもないし、なっていいわけでもない。真の非二元の教師とは、長い探求の末にやっと本物の非二元の教師と出会い、師の下で教えを学んで手に入れた人たち。理解の深さが全く違う。
彼らの説明には深みと知性があり、人に対する愛情と洞察にあふれている。真の非二元の教師の資質を持つ人は稀有な存在。ちょっと本をかじって毎回オウムのようにコピーした文句を繰り返すだけの人たちが、真の非二元の教師たりえるはずがない。