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2025/05/21

U. G .クリシュナムルティ『悟りという謎』

過去30日間、このブログで一番読まれた記事はU. G .クリシュナムルティ関連です。今googleで「U. G .クリシュナムルティ」を検索すると私のブログがかなり上位に出てくるので、そこからの訪問者が多いのかなと思っています。

そこで、参考になればと思って書くのですが、現在高木悠鼓さんのYouTube(シンプル堂)で、「U. G .クリシュナムルティ『悟りという謎』」というシリーズをやっています。内容は『The Mystique of Enlightenment(悟りという謎)』という本の紹介です。

私のブログでも、この本の一部を取り上げましたが、高木さんのYouTubeでは、もっと詳しくやっていただけるようです。いつもながら、高木悠鼓さんはありがたい情報を提供してくださり、感謝しています。

2025/05/13

自由意志はないのか

前回のブログの続き。

非二元ではよく「自由意志はない」という言葉を耳にしますが、その意味は自由意志を持つ主体としての「私」は実在しないという意味です。でも、多くの人がこれを誤解していて、自由意志がないのだから何をやっても無駄だとか、結果はもう決まっているというふうに解釈している人がいます。

そうではないのです。そもそも、自由意志を持つ「私」が存在しないのです。そういう意味で自由意志はないのです。私たちの行為や努力は起こってくるものであり、その行為や努力は無駄ではありません。うまくいく場合もあればうまくいかない場合もある。そんなの当たり前のことです。

自由意志がなければ、自販機でコーラを買うこともできなければ、ブログを書くこともできません。そういう意味で言うなら自由意志はあります。でも、その自由意志の主体の「私」は実在ではない。コーラを買おうという気持ちも、ブログを書くという行為も、自然に起こっているということです。

私たちは、「私」が実在であると思い込んでいるために、「私」が選択していると思い込んでいます。でも、選択をしているように見える「私」は実在ではないのです。だったら何を悩む必要があるでしょうか。勇気を出して起こるがままに任せて、やりたいことをやってみたらどうでしょうか。

自由意志を持っている「私」も自由意志を持たない「私」も実在しません。自由意志の有無を論じること自体が間違いなのです。

2025/05/09

あまりにもデタラメな非二元論が横行している

私は日本人の方が書いた非二元関連の本をほとんど読みません。でも時々 Amazonが、「あなたにおすすめ」と言ってそうした本を紹介してくるので、その本のコメント欄を読むことがあり、だいたい何が書かれているかがわかります。

でも、あまりにもデタラメな非二元論が横行しているような気がします。一番多い間違いは、「私たちの未来はすでに決まっている」というものです。こんな無茶苦茶なものが非二元論であるはずがありません。

未来は決まっていません。そもそも、未来なんてないのです。時間は私たちのマインドの中にしかないのですから。それに、もし仮に未来を想像するとしても、それを生きる「私」は実在しないのです。「私」が実在しないのに、どうして未来が決まっているのでしょうか? その未来を生きているのは誰なのでしょうか?

非二元とは、二つではないということ。「あなた」も「私」もなく一つのもの。今も未来もなく一つのもの。だから非二元なのです。

「私」は実在しない。「私」は思考の産物。時間は私たちのマインドの中にしかない。こうしたことは非二元の基本です。そんなことも理解しないで、非二元の名を冠した本を書くとはけしからん。

そうした人の中には個人セッションまでしている人もいる。未来はすでに決まっているから努力をしても無駄だ、人生を投げやりに生きろとでも教えているのでしょうか? すべてがすでに決まっているなら、生きることの意味は何なのでしょうか? 努力することに意味はないのでしょうか?

こうした本を読んだ人は、非二元は人々の夢や希望を奪ってしまう厭世的なたわごとだと思って非二元を離れていってしまうでしょう。そうではないのです。あらゆる可能性は今この瞬間に開かれています。あ、いけません。少し時間の観念が入りました。

非二元論は、私たちの間違ったものの見方を教えてくれているだけです。運命論ではありません。非二元は、もっと明るく楽しく生きるためのものです。

2025/04/02

一瞥体験

昨日ブログに掲載したポインターはとても重要だと思うので少し追記します。
私はセイラーボブが言うアウエアネスが何なのかを理解するのに4年かかりました。それが、私たちの普通の意識のことだだったのには唖然としました。ああ、そういうことだったのかと。

私は、ボブが教えていることを理解したら、何かが起きるのだと思い込んでいました。でも、何かが起きるはずはないのです。なぜなら、普通の日常の意識(アウエアネス)のことを教えているのですから。それがわかってから、ボブの「ただそれだけ」やセイラーボブ以外の非二元の教師たちの発言を読んでみると、すべてがすんなりと理解できました。

多くの非二元の探求者たちは、非二元を理解したら、何か特別なことが起きるはずだと思い込んでいます。あたかも、意識に何らかの変容が起こって別次元の意識を体験するかのようなことが起きるのではないかと。非二元の教えをちゃんと理解していない人たちが、「私は一瞥体験をした。そこに私はいなかった」と言うものだから、多くの人たちが自分もそういう体験をするはずだと思い込んでいます。

でも、一瞥体験など起こりようがないのです。当たり前の普通の意識のことなのですから。おそらく多くの一瞥体験者は、間違った情報を鵜呑みにして自分にも一瞥体験が起こるはずだと信じているために、マインドがそういう体験を引き起こすのだろうと思います。それは単なる疑似体験にすぎません。実は私もそういう体験をしたことがあります。

非二元の教えの核は、「もともと私は実在しない」ということです。実在しない「私」が、「私がいないという一瞥体験」などしようがないのです。一瞥体験をした人の多くは「そこに私はいなかった」と言います。では、どうしてそれを覚えているのでしょうか? 「私」がいなかったなら、それを覚えているのは誰なのでしょうか?

そして、決定的な誤りは、一瞥体験をした人は、今はまた「私がいる」と思っていることです。一瞥という意味はそういう意味ですよね。非二元の教えの核は「もともと私は実在しない」ということです。「私がいる」と思っている時点で非二元をちゃんと理解していないことになります。

一瞥体験は、もともと実在ではない「私」を作り出して、その架空の「私」が一瞥体験するというトリップをしているにすぎません。エンライトメントがおとぎ話である以上、その世界を一瞥することなどありえません。

非二元の教師たちが教えていることは、何かになることや何かを体験することではありません。ましてや、何かを達成したり手に入れたりするこではないのです。彼らは単に、私たちの思い違いを気づかせようとしているにすぎません。何かが起きるはずだと思っていると、非二元の教えを理解できずにさまようことになります。

2025/03/17

備忘録

Awareness Explorers Episode 182: Kat Adamson, Guest Explorer - VIDEO VERSION

最近カットは、とあるサイトのインタビューを受けたそうです。そこでボブの旅の軌跡や教えを語っています。このサイトのことはよく知りませんが、有名な非二元の教師も何人か出ています。一応備忘録として残しておきます。

2025/03/11

「仏教は、いかにして多様化したか」佐々木閑 著

世界史のリテラシー 仏教は、いかにして多様化したか: 部派仏教の成立 (教養・文化シリーズ)

ギルバートから、仏教の中に非二元があると教えてもらってから、仏教の本をあれこれと読んで学びました。確かにそこには非二元がありましたが、今一つ鮮明ではありませんでした。学んでいく途中で思ったのは、仏教の根本的な教えは諸行無常・諸法無我なのに、諸法無我、つまり、「私」は実在しないということをはっきりと全面に押し出して説く人が、どうして日本の仏教界にはいないのだろうということでした。

そして佐々木閑先生のYouTubeに出会い、やっと仏教の中にある非二元を鮮明に説いている人を見つけたと思いました。私のブログの中の、禅・Buddhism仏教その他の中にある佐々木先生のYouTubeを見ていただければ、仏教がいかに非二元の教えかということがわかると思います。

でも、佐々木先生以外の日本の仏教界の方で、「私」は実在しないということを前面に押し出して説いてみえる方を知りません。私の抱く仏教のイメージは、葬儀や法事を執り行う僧、よくわからない経典、禅宗の座禅、密教などの修行といったイメージで、非二元的なイメージは浮かんできません。まれには世親や唯識について説いてみえる方もみえるのですが、学問的であり、広く一般の人に説いているというわけではありません。

この本を読んで、その理由がおぼろげながらわかった気がしました。この本は、インドで仏教がどのようにして起こったのか、釈迦の死後教えがどのように広まっていったのかが詳しく書かかれています。釈迦の死後、教えの解釈の違いから、仏教徒は二十あまりの諸派にわかれ、やがてそれが大乗仏教に発展。このあたりまでの話は佐々木先生がYouTubeで詳しく語ってみえるところです。

ただ、その大乗仏教がどのようにして日本にもたらされたのか、そしてどのように日本で発展していったのかはYouTubeでは今のところ詳しくは語ってみえません。それが、この本には詳しく書いてあります。

日本に仏教が正式に伝来したのは聖徳太子の時代で、最初は天台宗(密教)をベースにしたものがもたらされたそうです。その頃の仏教は、あくまでも国を統治するための道具、道徳規範の道具としての宗教でした。一般の人たちが広く信仰して、自分も仏陀になれるという大乗仏教の教えが一般大衆に広まったのは、ずっと後の鎌倉時代に入ってからだそうです。

ここからは佐々木先生がおっしゃっているわけではなく私の想像ですが、一般大衆にわかってもらうためには、「私」は実在しないなんてことは説かない。悪行を積めば地獄、善行を積めば極楽に行けると説いた方が国を治めやすい。般若心経には諸法無我がちゃんと説かれているものの、人々はただそれを唱えるだけでよいと習うだけで、「私」は実在ではないなんてわけのわからないことは教えない。

江戸時代になると、盤珪が不生禅を説くのですが、その不生禅ですら、誰もが生まれながらに仏心を持っている、というところまでで、「私」は実在しないなどとは説きません。ところが、原始仏教から大乗仏教まで、どこを学んでも仏教の根本教説は諸法無我であり、「私」はどこにも実在しないと説いています。

その盤珪ですら、鈴木大拙が掘り起こさなければ、ずっとそれまで埋もれたままでした。そして今現在の日本の仏教では、盤珪の教えはまた廃れているように見えます。そうした歴史的背景が今日まで続いていて、それが今日の仏教のイメージとして定着しているのではないでしょうか。もし僧侶が、諸法無我、この世のどこにも永遠不変の「私」など存在しない、なんて説けば、それじゃ誰のための戒名や法事なんだ、なんてことになって、誰もお布施を払わないかもしれない。ちなみに、日本以外の国の仏教では戒名なんてものは無くて、葬式の際にお寺に高額のお布施をすることもないそうです。日本の現在の仏教は、釈迦が教えた当時の仏教(律を守る仏教)ではなく、日本独自の発展を遂げたものだそうです。

般若心経はありがたいお経なので、意味はとにかく、とりあえずお経として唱えれば功徳があります、という程度にしておいた方が都合がいいのではないでしょうか。仏教の中に非二元があるという話は、むしろ欧米の非二元論者たちが言っていることであり、日本ではそれほど言われていない気がします。

私は、日本でどのように仏教が伝播・発展していったのかを知りたくて、こういう本を探していたのですが、なかなかそういう本に出会いませんでした。今回この本を読んで、そのあたりのことがよくわかってよかったです。また、華厳思想、法華経、阿弥陀信仰など、どうしてそうした信仰が起こったのかはよく理解していませんでしたが、そのあたりも詳しく書かれています。

ただ、この本で仏教に中にある非二元を学ぼうと思っても、そのあたりのことは詳しく書かれていません。諸行無常・諸法無我が仏教の根本的な教えであり、常住普遍の実体のある「私」はどこにもないということは、本の中に数行あるだけです。そのあたりのことは、佐々木先生のYouTubeの方が参考になると思います。

2025/03/07

非二元を理解すると何が起きるのか

非二元を理解すると何が起きるのか。
つまり、「私は実在しない」「万物は一つのもの」といったことを理解して起きる事は何か。
ひとつの効果としては、自分と他の人、あるいは世界が一つのものだということが理解できれば、人を思いやる気持ち、愛情が増すのではないかと思います。

これはルパート・スパイラも言っていることで、彼は「愛」という言葉で表現しています。
「エンライトメントとは何か?それはどのように起こるのか?」ルパート・スパイラ

内側に愛が増していくと、競争や妬み、嫉妬というものが消えていき、人を思いやることができるようになると思います。

逆に言うなら、非二元を自分では理解したと思っていても、人を妬んだり恨んだり憎んだりする気持ちが消えないうちは非二元を理解しているとは言えないのではないかと思います。逆に、そういった気持ちがあるかないかを、自分が非二元をしっかりと理解しているかどうかの指標にするといいと思います。

仏教で言うなら執着です。自分が金、地位、名誉などに執着してないかを基準とするといいと思います。いくら非二元を理屈として理解していたとしても、人に対する愛情がなく、妬みや嫉妬、怒りや恨みでいっぱいなら、非二元を生きているとは言えないし、ちゃんと理解しているとは言えないと思います。

セイラーボブ、カリヤニ、ピーターに会った時、何とも言えない暖かいもの、心地よさを感じたのは、彼らはしっかりと非二元を生きているからだと思います。
実際にその人が非二元を生きているかどうかは、会って会話してみないとわからない。

過去の嫌な思い出がたびたびやってきて苦しめるなら、まだまだです。人を妬んだり恨んだり憎んだりするならまだまだです。些細なことでイライラしたり動揺したりするならまだまだです。ひるがえって、私はどうかというと、まだまだです。

こんなことを言うと、セイラーボブに叱られます。「あなたがそのことを考えなかったら何が問題ですか?」「あなたはもともとそれです」と一喝されそうです。でも、少しずつ変わってきたなという感じはあります。

非二元の教えそのものはそんなに難しいことではないので、知的に理解することは難しいことではないと思います。でも、それが身に染みて、非二元を生きているかどうかは別の話だと思います。それほど私たちの条件付けは根深いように思いますが、みなさんはどうでしょうか。

2025/01/28

誰かの教えを理解するという事

非二元を理解するのは難しくないと、このブログで何度も書いたのですが、少し後悔しています。というのも、たどり着いてしまえば決して難しくはなかったのですが、とても長い時間がかかったからです。私の場合、セーラーボブの本を読んでから4年かかりました。

最終的に理解するまでに何をやったかちょっと書いてみます。ボブに会うまでに、「ただそれだけ」を7回読みました。ボブに会ってからはミーティングに60回以上出て、個人面接も受けました。ボブを始め、周りの参加者にあれこれとわからない点を尋ねました。

わかったつもりで日本に帰ったのですが、疑念や不確かなところが出てきたため、1年後にもう一度ボブに会いに行きました。今度こそわかったぞと思って帰ってきたのですが、また揺れ戻しが起こり、不確かな部分が出てきました。

それからはボブのYouTubeを何十本も見ました。ボブに関連する本で入手可能なものは全部読みました。参加者のFacebookをあれこれと読みました。そしてやっとボブの教えの全体を理解することができました。

ボブに会った直後に、言葉の上ではボブが何を言っているかは理解できました。でもそれがちゃんと腑に落ちて、体感として理解できるまでにはすごく時間がかかりました。頭で理解するのと、体感として心底理解するのは違うと思います。

もし誰かの教えの全体を明確に理解しようとするなら、本を何冊か読んだり、YouTubeをいくつか見るだけでは理解できないのではないかと思います。やはり一番良い方法は、その人に会って教えを乞うことだと思います。そうしてやっと理解できるのではないかと思います。

非二元の教えを言葉の上で理解するのはそれほど難しいことではないと思います。でも「私は実在しない」「何も起こっていない」「万物は一つのもの」「空間のような意識」。こうした言葉を体感としてちゃんと理解するには、やはりそれなりの時間がかかるのではないかと思います。また、非二元にたどり着くまでの年月を合わせるならば、私の場合は20年以上かかっています。

私がこのブログに取り上げた非二元の教師たちも皆、同じように長い年月をかけてたどり着いた人たちです。セイラーボブ、カリヤニ、ロンダ・バーン、ルパート・スパイラなどなど。こうした人たちは皆、長い年月をかけて師について学んだ人たちです。

大切な事は、もう何の疑念もないと言う段階に到達するまで、非二元の教えを離れないことだと思います。頭でわかっただけでは、深い理解にはならないのではないでしょうか。

なすべきことは、理解が確実なものとなるまで非二元を離れないで、良質な非二元の本を読み、気が済むまで自分で確かめることではないでしょうか。表面的な理解、単なる知識としての理解では、何の役にも立たないばかりか、かえって害になるような気さえします。

2025/01/07

久しぶりに精神世界のコーナーへ

正月に名古屋栄の丸善本店へ行ったら、もともと6フロアーあった本のフロアーが4フロアーに縮小され、2フロアーは駿河屋というホビーショップになっていた。最近は精神世界のコーナーへは行っていなかったが、まだあるのか気になって行ってみた。場所は変わっていたが、まだあった。

セイラーボブの「ただそれだけ」が棚から消えたのはずいぶん前のこと。今はどんな非二元の本が並んでいるのかと見て驚いた。古閑博丈さんの本も高木悠鼓さんの本も並んでいない。引き寄せ本やチャネリング関連本はまだたくさん並んでいるのに、私が知っているような非二元の本が棚にない。非二元の本のピークはもう過ぎてしまったのだろうか? 非二元の本はすぐに絶版になってしまうし、古閑さんが最近は非二元の本を出されていないせいもあるのかもしれない。

AMAZONのサイトで「非二元」で検索すると、日本人によって書かれた非二元の本がたくさん出てくる。そうした本は立ち読み程度でしか読んだことはない。でも、AMAZONのサイトのコメントや、著者のサイトからでもある程度の内容の推察はできる。一言だけ言わせてもらうと、「非二元」という言葉はもともと日本語にはなかったはず。おそらく、この20年ほどの間に英語の non-duality という言葉を「非二元」と翻訳したものが広まったと思われる。

インド哲学を研究していた人たちは、「非二元」という言葉ではなく、「不二一元論」という言葉を使っていたはずなので、それまで日本では「非二元」、あるいはノンデュアリティという言葉は広まっていなかったと思われる。

だとすると、日本で非二元の本を書いている人たちは、「非二元」という言葉をどこかから仕入れて使っているはず。それならば、その言葉の定義や、それをどこから仕入れたのかを明示すべきだと思うが、そのあたりのことをはっきりと語っている人は少ないように思う。ある日突然一瞥体験をして、非二元の体験をしたと言うなら、なぜそれが非二元の体験と言えるのかを明示すべきではないでしょうか? 

例えば、「私の体験はトニー・パーソンズの書いている体験そのものだった」あるいは、「私の体得したことはジョーン・トリフソンの言っていることと同じだ」というような感じで。もし誰からも非二元を学んでいないと言うならば、「非二元」という言葉をその人が発明したことになるが、そんなことがあるでしょうか? 

私がこのブログで取り上げた非二元の教師の多くは、自分が誰から非二元を学んだかをはっきりと書いています。そうすることで、教えに対する信頼性が高まるし、読み手は他に何を読んだらいいのかがわかります。

非二元という言葉の定義づけをはっきりしないまま、非二元について語っている本やサイトが多すぎるような気がします。どう考えても非二元論ではないのに、「私はいない」と言えば非二元としてまかり通ると思っている人もいる。

良質な非二元の本が書店の棚から次々と消えて、「私はいない」というフレーズをごり押しする類の本が増えていくのは悲しい気がします。もちろん、日本の方で良質な非二元の本を書いてみえる方もみえると思いますし、正しい非二元を教えてみえる方もみえると思います。

でも、今どきは「誰でも非二元教師」の状態で、非二元の本質が理解されないまま、単なる悩み事の相談窓口として広がっているような気がします。非二元を理解すること自体はそれほど難しくはないが、誰もが教師になれるほど簡単でもないし、なっていいわけでもない。真の非二元の教師とは、長い探求の末にやっと本物の非二元の教師と出会い、師の下で教えを学んで手に入れた人たち。理解の深さが全く違う。

彼らの説明には深みと知性があり、人に対する愛情と洞察にあふれている。真の非二元の教師の資質を持つ人は稀有な存在。ちょっと本をかじって毎回オウムのようにコピーした文句を繰り返すだけの人たちが、真の非二元の教師たりえるはずがない。

2024/12/31

良いお年を

大晦日。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
facebookによると、セラーボブは毎日看護師に来てもらって、痛みに対処するための投薬治療をやってもらって静かに過ごしているそうです。
私の中のボブのイメージは、まだ元気旺盛なころ、誰の助けも借りずに週三回90分間、迫力満点でしゃべっていたころのままです。
最近のボブは、話すことさえままならないような様子で、それをYouTubeで見るのは忍びない思いでした。でも、そうした姿を見せることもある種のメッセージなのかもしれません。

セイラーボブは何も特別な存在ではなく、他の人と同じように、老いることも病に苦しむこともあるのだということを見せているのかもしれません。そこには、インチキマスターにありがちな、特別なカリスマ性を演出しようという意図は微塵もありません。
大切なのはグルではなく、メッセージなのだと日頃言っていることを体現しているのかもしれません。そして今はカットや他の数人の語るメッセージに耳を傾けています。
一日でも長く、ボブがそうしていてくれることを願うばかりです。

この一年をブログ上で振り返ると、前半は昨年カリヤニが日本に来たことから引き続いて、ボブ以外の非二元の教師について書きました。後半は、佐々木閑先生のYouTubeと、セイラーボブのポインターを中心に書きました。セイラーボブのポインターは大半がボブのfacebookから拝借したものです。その言葉は、カットが書いていると思われますが、何から引用しているのかは知りません。

日々のポインターは基本的にはネット上にあるものからの引用であり、書籍からのものではありません。書籍、特に「LIVING REALITY」には良い言葉や、おもしろい話がたくさんあるのですが、著作権の問題があるので引用することを控えています。ボブの教えの全体を知るには、やはりこの本が一番良いと思っています。

さて来年も今までと同じような感じで、繰り返しボブのメッセージを伝えていきたいと思っています。自分でも同じようなことばかり書いているなと思うのですが、ボブだって同じことを40年以上も話してきたのだから、これでいいのだと思います。以前のようにミーティングを訳して載せるといいなと思うのですが、あれはけっこう時間がかかるので、今のところは予定していません。それと、残念なことに、ボブが一人で話していたころのYouTubeはあまり残っていません。

非二元の教えは、理解したら終わりということではなく、それを生きなければ意味がないと思うのです。本当に「私」は実在しないと身に染みているか。いるはずのない「私」が架空の悩み事にどっぷりと巻き込まれていないか。いるはずのない「私」がありもしない明日の心配ばかりしていないか。

繰り返しボブの言葉に触れることが助けになると思っています。このまま引き続きコツコツとやっていきます。あまり目新しいことは書けないかもしれませんが、また気が向いたら読んでみてください。

みんさんにとって来年が良い年となりますように。

2024/12/20

一瞥神話 覚醒神話 覚醒者神話

私は長い間、多くの聖人、賢者たちは覚醒した人だと信じていました。仏陀、キリスト、老子、J.クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシなどなどは全部覚醒した人たちだと信じていました。そして自分も覚醒して苦しみから解放されたいと思っていました。

でも今ではそれは単なる神話、おとぎ話にすぎないということを理解しました。覚醒した人などおらず、人が覚醒することもないということを理解しました。そうなると、そうした世界を一瞥するということも、ある意味おとぎ話であるとわかります。人が覚醒しないのなら、覚醒した世界を一瞥するなんて起こりようがないからです。

なぜ人は、覚醒神話や一瞥神話をいとも簡単に信じてしまうのでしょうか。おそらく自分が生きている現実世界がうまくいかず、辛く悲しいことが多いため、なんとかしてそこから脱出できないかと思うからではないでしょうか? 覚醒したら、悩むことなく毎日幸せに暮らせると言われれば、それを手に入れたいと思うのではないでしょうか?

私もそうでした。どうしても覚醒を手に入れたかった。苦しみや悩みから解放されたかった。セイラーボブに出会い、そんなものはないと知ってなんとがっかりしたことでしょう。なんと無駄なことに人生を浪費したのかと後悔しました。そして、そこには「私」もいないと知りました。

しばらくはがっかりしていましたが、覚醒という逃げ道がないと知って、逆にすっきりしました。自分は、人生につきものの悩みや苦しみを覚醒、あるいは瞑想によって、お手軽に解決しようとしていただけだと悟りました。

人は悩みや苦しみと真正面から対峙して生きていくしかないということを学びました。精神世界の探求者は、自分は倫理的にも精神的にも高尚な道を歩いていると思っていますが、実はお手軽な方法で悩みや苦しみから逃げ出したいだけのような気がします。

生きていくということは、そんなに簡単に悩みや苦しみから逃れることができるようにはできていないし、そうやって逃れるのであれば、生きていることの醍醐味を味わえないのではないでしょうか。

非二元を学んで、「私」も悩みも苦しみも実在ではないと学んでも、問題は次々とやってきます。そんな時、それは実体のないものだということを思い出しながら逃げることなく生きていけばいいのではないでしょうか。

2024/12/06

非二元の教師たちが言っていることはシンプルなこと

非二元の教師たちが言っていることはシンプルなこと。私が「私」だと思っているものは実在しない。ただそれだけ。
彼らが特別な意識を達成した人でもなければ、私たちとは別の世界を見ているわけでもない。
特別な体験をしたわけでもなければ、覚醒して別の意識の次元にいるわけでもない。
私たちと何も変わらない普通の人たち。

あれほどの大男だったボブが今はひどく痩せて小さく見える。
あれほどの迫力とユーモアで語っていたボブが今は多くを語らず休んでいる。
老いることも病に苦しむこともある普通の人。
ボブはごく普通の人。私たちと何も変わらない普通の人。
そして普通の人であることがどれだけかけがえのないことかを教えてくれた偉大な人。

2024/11/19

非二元の教えの胆(きも)

非二元の教えの胆(きも)は何だろうかと時々考えます。「私は実在ではない」とか、「物事は自然に起こっている」とか言われても、じゃあ一体どうすりゃいいの? と思うこともあります。
「私」は実在ではないと理解すると、私たちの悩みはマインドの産物であり、実体のないものだということがわかります。「私」が実在ではないのなら、その「私」の産物である悩みや不幸も実在しない。

非二元の教えは、必要以上に自分を責めたり、不安や精神的苦悩を抱え込んだりしないためにあるのだと思います。責めるべき「自分」も苦悩も想像の産物にすぎない。
10年前、20年前の自分を思い返してみて、その頃何を悩み苦しんでいたかと思い返してみると、そのどれもがそれほどのことでもなかったと気づきます。
そうやって一生を終えると、最後には、この「私」も消えていく。

そうわかっていても、あれこれの悩みや迷いを運んでくるのがマインド。そしてまた「私」はそうした悩みや迷いと格闘、あるいは遊び始める。その繰り返し。
非二元を学ぶと、その格闘、あるいは遊びから、ある種の距離感が生まれ、以前ほどどっぷりと問題に巻き込まれることはなくなる。そこらあたりが非二元の胆なのではないでしょうか?

マインドの活動を停止させることはできなし、架空の「私」を完全に消し去ることもできません。
でも、それが想像の産物だということを知っていたら、起こっている幻想の世界を楽しんで生きる手立てとなるのではないでしょうか。

2024/10/14

AS IT IS. Unaltered Unmodified Uncorrected

セイラーボブの新刊。


今年の二月に発売になっていますが、この本のことを知りませんでした。セイラーボブのホームページやFacebookでも紹介されていません。この本のことを知ったのは、ギルバートのFacebookです。編者はラメッシュとなっています。ギルバートが推薦しているので読みたいなとは思っていますが、ちょっと先になりそうです。

2024/08/05

備忘録

 
このYouTubeチャンネルNothing Mediaには、たくさんの非二元の語り部が出てきますが、このチャンネルの主催者がどういう人なのか知りません。また、登場する人も、ほとんどが知らない人です。一応備忘録としてセイラーボブ関連のものだけ載せておきます。

2024/05/17

世界は幻か?

前回のブログの「ミリンダの問い その29」は、仏教が世界をどのように認識しているのかがわかって、とても良い話でした。ミリンダ問経にあるような初期仏教では、世界は実在するが、「私」は実在ではないという立場をとっています。さらに仏教が発展して大乗仏教になると、世界も実在ではないと説く人たちが現れます(唯識など)。

セイラーボブに会った最初の頃、世界が実在なのかどうかが知りたくてしかたがありませんでした。セイラーボブは、ヒンズー教を引き合いにだして、世界はマーヤー(幻)だと言われているという話を時々します。それで私は、世界が自分の意識の外にあるのかどうかが知たくてしかたなかった。私が眠っている時にエジプトのピラミッドは消えているのか? メルボルンのヴィクトリア通りの建物は消えているのか?

そういう質問をしたことがあるのですが、ボブはいつも決まって「そこにあるのは何ですか?」と言って、部屋の隅にある椅子を指すのです。そこから、それが椅子なのかどうか? それは実在か? という話になっていくのです。私としては、もっと単純に、私たちが見ている世界は実在なのかどうかが知りたかったのですが、いつもはぐらかされたような印象を受けました。

非二元の教師たち皆が世界は幻だと言っているわけではないのですが、そのように解釈できるように語る人もいます。ジャン・クラインは、「意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます」と言っています。

個人的には、おそらくジャン・クラインの言う通りなのだと思います。おそらく、私の意識が消えれば世界は消えるだろうと思います。例えば、私が死んだら世界は消える。私が空の上から残された人たちの活動を見るなんてことにはならないと思っています。参照点が消えればもうこの世界を見ることも感じることもないだろうと思います。ただ、まだ生きている人に参照点を置くなら、そこには依然として世界はあるでしょう。

でも、それも想像にすぎません。いくら考えてみたところで、私たちは五感を通してしか世界を認識できないのだし、五感の外に出て確かめることは不可能なので、意識の外に世界があるのかどうかは確かめようのないことです。私が死んだあとに世界はどうなるかも、確かめようのないことです。

人によっては、世界は実在しないという考え方は行き過ぎで、世界も身体も実在するが、「私」は実在しないという初期仏教の考え方の方がしっくりいくという人もいるのではないでしょうか。昔の私だったら、覚醒した人はそういった意識の外の世界さえ見えているはずだと思っていましたが、今ではそんなことはまったく信じていません。

以前は、非二元の教えを理解する上で、世界は幻であるということを理解しなくてはいけないと思っていましたが、今はそうは思っていません。非二元の教えの核は「私」は実在ではないということです。世界が実在かどうかは考えてもしかたがないことだと思います。現実問題として健康診断にも歯医者にも行かなくてはいけません。身体は無いなんて言ってられない。

以前、非二元にまったく興味のない友人に、「ひょっとするとリンゴは脳の産物で、実際には存在しないかもしれない」と言ったところ、ひどく怒られて、あんまり変な本ばかり読んでるいからそうなるんだと言われたことがあります。世界は幻だなんて言おうものなら・・・。

認識論については、今のところ前回のブログ(ミリンダの問い その29)が一つの答えになるのではないでしょうか。科学は、物質は存在しないということを証明する手前まで来ていますが、まだそれは量子力学の段階でしかありません。現段階ではまだよくわかっていません。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。

わからないものはわからなくていいのではないかと思います。非二元の教師が、世界は幻だと言ったとしても、彼らでさえも確かめることはできないと思います。現実的なことを言えば、私の世界は私の意識の及ぶ範囲だけであり、それ以外はないと同じではないかと思います。

2024/03/26

TEDTalks- ヘザー・ラニエ: 物事の「良し悪し」は思い込みに過ぎない


日本語字幕付きのものが貼り付けできません。日本語字幕付きは以下で見てください。


とても良かったので、転載させていただきました。もしよかったら見てください。

2023/11/24

エンライトメント、あるいは目覚めとは

過去二回のブログでは、ルパート・スパイラがエンライトメントについて語っているYouTubeを掲載させていただきました。それによって、ルパート・スパイラがエンライトメントをどう考えているのかがはっきりしたと思います。

特に、前回のブログでは、エンライトメント、あるいは目覚めということの定義をはっきり語っています。そこには、何も神秘的な要素はありません。あるのは、認識、あるいは理解です。そして、その理解がどのように起きるかもはっきりと語っています。くどいようですが、もう一度その部分を掲載させていただきます。

「この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。

そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。

その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」

大切な部分は、「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」という部分です。要するに、そうやって個人としての「私」は実在しないということを理解・認識していき、さらには、「私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」

このとをルパート・スパイラはエンライトメント・目覚めと呼んでいるわけです。そこには突然何かが起きるとか、体が光に包まれるとか、自分はいなかった体験をするということは出てきません。これはものすごく重要なメッセージだと思います。

「すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始める」。そういう意味で言うなら、私はすでにエンライトメントしています。また、このブログをずっと続けて読んでいただいている方の多くもすでにエンライトメントしてみえると思います。私は、(エンライトメントある派)のマスターや教師は支持しないし、このブログでは取り上げません。でも、こういう意味のエンライトメントなら支持します。

かつては、グルやマスターの話をYouTubeで誰でも聞けるなんてことはありませんでした。私がセイラーボブに会いに行った9年前ですら、ボブのYouTubeの動画は2~3本があっただけです。ルパート・スパイラのYouTubeで一番古いものは12年前です。ありがたいことに日本語字幕を付けてくださっている方もみえます(4年前から)。

YouTubeが盛んになる以前、非二元関連の情報は翻訳されたごく限られた本しかありませんでした。すると、いくら翻訳者の方が正確に訳しても、読み手の方では勝手に想像して、非二元の教師たちは全員覚醒・エンライトメントした人たちだと思い込んでしまいます。ネット上で、「ただそれだけ」の書評を書いてみえる人の記事を読んでも、ほぼ全員が、セイラーボブをエンライトメントした人だと思っています。あれだけYouTubeで明確に「エンライトメントはない」と本人が言っているにもかかわらずです。ルパート・スパイラにも同じことが言えます。

YouTube以前は、直接会いに行くしか方法がありませんでした。でも今はYouTubeがあります。これってすごいことだと思います。ニサルガダッタ・マハラジの言葉だって聞けるわけですから。

そして、セイラーボブのミーティングにズームで参加することもできます。ルパート・スパイラもオンラインのセミナーをやっています。英語という壁があるので、少しハードルが高いのですが、どうしても知りたい疑問があればメールという手もあります。

インターネットの発達に伴い、もうそろそろ、彼らが私たちとは違う特別な意識の状態にある人たちだという幻想を手放してもいいのではないでしょうか。そこにあるのは、同じ一つの意識、存在(being)だと教えているのですから。

「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」

戻っていく(理解する)ためには、彼らが私たちとは違う特別な人たちだという先入観を捨てて、何も特別なことは起きないということを理解したうえで、手に入る媒体を通じて学ぶことだと思います。そしてそれは、誰にでも可能なことです。

2023/11/14

「気づき」と「意識」

私は「気づき」という言葉が苦手でした。非二元の本を読んでいて、「気づき」という言葉が出てくると、そこに気づいている人がいるように思ってしまい、とたんに不鮮明になってしまいます。私はセイラーボブ以外の非二元の教師の本をあまり読んではいませんが、書店の精神世界のコーナーにあるような非二元の本はたいてい立ち読みしたことがあります。その時、「気づき」と出てくると、わかりづらく感じていました。

カリヤニに、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言ったのも、その程度の理由で、じっくり本を読んで言ったわけではありません。前回ブログに書いた、ルパート・スパイラの「プレゼンス」では、それこそ山のように「気づき」という言葉が出てきます。そこで、この「気づき」という言葉の裏にはどんな英語があるのか、ちゃんと調べようと思い、「プレゼンス」英語版を買おうと思って調べたところ、日本語版の三倍もする。円安の影響かどうか知らないけど、あんまりなので買うのをやめて、ルパート・スパイラのYouTubeを何本か見て確認しました。

それから推理すると、「気づき」に相当する言葉は awareness。やっぱりな、と思う一方で、どうして、ある本では「意識」と訳され、またある本では「気づき」と訳されるのだろうかと思いました。翻訳家によって違うのかと思って、あれこれ調べてみましたが、そうでもないらしい。高木悠鼓さんは、「ただそれだけ」では、「意識」を使い、「何でもないものが あらゆるものである」では「気づき」が多い。古閑博丈も「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」では「気づき」なのに対して、「すでに目覚めている」では「意識」が多い。

おそらく、こうした本に出てくる言葉の原語は、awareness もしくは aware だと思います(「プレゼンス」には一部に cosciousnessという言葉もあります)。私の場合、非二元の本として最初に読んだのが「ただそれだけ」なので、「意識」という言葉がしっくりきて、「気づき」だと違和感がありました。

awareness という言葉は、英語の場合、「気づき」という意味と「意識」という意味があって、英語ネイティブは、awareness と聞いたとたんに、「気づき」と「意識」が同時に頭に浮かぶわけですが、日本語にはそんな便利な言葉はないので、どちらかの訳語をあてなくてはいけません。また、非二元の教師によっては、awareness と consciousness の両方を同時に使う人もいて、その場合には consciousness を「意識」と訳して、awareness  を「気づき」と訳すなどの区別が必要になると思います。

今回、「プレゼンス」を読んでいくうちに、「気づき」という言葉に対する違和感や苦手意識がなくなりました。最初のうちは「気づき」が出てくるたびに「意識」と直して読んでいましたが、途中からどっちでも同じではないかと思うようになったからです。

「気づき」とするか「意識」とするかは、翻訳家の方も気分でやってみえるわけではなく、原文の微妙なニュアンスを嗅ぎ取って、どちらかに決めてみえるのだろうと思います。というのも、「プレゼンス」の1巻では、ほぼ「気づき」だったものが、2巻の後半には「意識」という言葉が使ってあって、その場面では「意識」という言葉の方がしっくりくる感じを受けました。そして今は、「プレゼンス」の場合は、前述の一部の場面を除いて、「気づき」という言葉の方が的確だと思っています。気づきという言葉については、古閑博丈さんのブログが参考になると思います(気づきとはルパート・スパイラ

この「気づき」という言葉に対する苦手意識が消えたことや、カリヤニからロンダ・バーン、ルパート・スパイラを教えてもらったことで、もっといろんな人の本をちゃんと読んだ方がいいのではと思いました。セイラーボブのミーティングだけせっせと見て、セイラーボブのことだけをせっせと書いて、まるでセイラーボブ教、セイラーボブ原理主義みたいになっているのではないか。セイラーボブの言っていることを理解したからといって、非二元の教え全体を理解したと思うのは短絡的ではないのか。もっと広い視野で非二元を捉えるべきではないかと思いました。

そこで、ザ・グレイテスト・シークレットの賢人リスト、the urban guru cafe古閑博丈さんのブログ高木悠鼓さんのブログを参考にさせていただき、以下の本をアマゾンで買いました。


そして、図書館で、

ほとんどがよく見聞きする人や本です。今ごろになって、何を読んでいるのかと言われるかもしれませんが、もしセイラーボブを通じて非二元を理解する前にあれこれ読んだとしても、おそらくチンプンカンプンで、非二元難民なっていたと思います。

少しずつ読んで、思うところを書いていきたいと思っています。こういう本の性格上、そんなに急いで読んでも役に立たないので、ゆっくりやっていきます。

2023/11/03

引き寄せの法則と非二元の教え

前回のブログで、ロンダ・バーンの「ザ・グレイテスト・シークレット」について書きました。でも、私の中のひねくれ爺さんが、もう少し言いたいことがあるというので書いています。

一般的に非二元の教えでは、自由意志はないと言います。そもそも、その自由意志の主体である「私」はいないというのが非二元の教えの根幹ですので、自由意志があるかないかと問うこと自体がおかしい。もし、「自由意志はある」と言えば、その主体である「私」がいることになる。もし、「自由意志はない」と言っても、そこには自由意志を持っていない「私」がいることになってしまう。

それゆえ、自由意志があるとかないとか問うこと自体が間違い。「私」は実在ではない。そこで終わり。では、「引き寄せの法則」はあるのか? これも同じ理屈が成り立つような気がします。誰が引き寄せるのかと問うてみれば、答えは明らかな気がします。そこに、「引き寄せる私」がいないのなら、引き寄せの法則は成り立たない。

でも、そのあたりの整合性を、ロンダ・バーンはこの本の中でまったく説明していません。もちろん、誤った思い込み、信念を消し去れば、そこにあるのは意識だけだという趣旨の説明はしていて、非二元の説明としては全く正しいのですが、じゃあ、今までの本で、思考や信念の力で金や物、幸せを引き寄せましょうと言っていたことはどうなるのか、という疑問がわきます。

ロンダ・バーンの引き寄せの法則の基本は「信念、あるいは思考は現実化される」というものです。そしてロンダ・バーンはこの本の中で、否定的な思考を持てば、否定的な現実を引き寄せてしまうので、否定的な思考を持たないようにと言っています。

でも、そもそも、肯定的な思考だけを持つということが可能でしょうか? 肯定的な思考の裏には必ず否定的な思考が潜んでいます。肯定的な思考だけ持つことが可能なら、誰も悩んだりしません。思考で現実を引き寄せることが可能なら、誰も願望が実現して欲しいと思って「引き寄せ本」を読んだりしません。

ロンダ・バーンは、「否定的な思考、信念は、それを意識した瞬間に消える」と書いています。このあたりは非二元の教師と同じことを言っていて間違いではありません。でも、思考は現実化されるという前提が間違っている気がしてなりません。

変節漢の私としては、「引き寄せの法則」ある派の立場に立って、理屈を考えてみました。非二元の教えでは、私たちが見ている現実社会は夢、幻想であり、例えていうなら、意識というスクリーンの上に映し出された物語だという例えがよく使われます。ロンダ・バーンもスクリーンの例えを使っています。

もし私たちの見ている現実が、夢や物語であるなら、そこには「私」がいて、その「私」には自由意志があって、仕事を選んだり、結婚相手を選ぶ自由意志があると思っていてもいいと思います。夢や物語の中にはなんだってある。体だってあるし、「私」だっている。

本当は「私」は実在ではないけれど、夢や物語の中では「私」が存在するように見える。それゆえ、自由意志もあるように見える。なんかややこしい話になってきました。

夢だ物語だと言ってみても、実際には現実問題として、会社に行って働かなくてはいけないし、家族だって養っていかなければいけない。そうなると、意思を使って起きて会社へ行き、意思を使って働かなくてはいけない。

それが夢であろうと物語であろうと、そこには夢や物語のルールがあって、どうせ夢なんだからと働かなければ食っていけない。夢だからとむやみに人を傷つけたら刑務所に行かなくてはいけない。私たちはそういう世界に生きている。自由意志がなかったら、マクドナルドにもスタバにも行けない。カフェモカにホイップ増量も頼めない。(セイラーボブは、それは自由意志ではなく、起こってくることだと言うでしょうけど、ややこしくなるのでひとまず脇に置いておいて)

ニサルガダッタ・マハラジが言うように、夢を夢だと理解して、その夢の中で自由意志でも引き寄せの法則でも何でも使って生きていけばいいのではないでしょうか? と、ここまで、引き寄せの法則ある派の立場で考えてみました。でも、こんな理屈がなり立つなら、夢や物語の世界には、転生や輪廻や天国だってあることになってしまう。

「ザ・グレイテスト・シークレット」は、手っ取り早く非二元の教えを学ぶことができる(ロンダ・バーンは非二元という言葉は一切使っていないが)。そういう意味では画期的な本だといえる。でも、何か釈然としないものを感じる。非二元の教えを学ぼうとする場合、いろんな人の本をあれこれと読むよりも、一人の人の本をじっくり読んだ方がいいような気がします。人によって説き方が違うし、言っていることが細部で多少違う。あれこれ読んでもかえって混乱してしまうような気がします。

ちょっと思ったのは、ロンダ・バーンの引き寄せ本を読んで、今まで願望の実現に必死になっていた人が、いきなりこの本を読んで、「私」は実在ではないという教えをすんなり理解できるだろうかということ。じゃあ、今まで必死になっていた「私」は何なのかということになりはしないかということ。

amazonのサイトの書評を読む限り、この本を違和感なく受け入れている「引き寄せの法則ある派」の人も結構いるようですので、あんまりとやかく言わなくてもいいのかもしれません。引き寄せの法則はあってもなくても、それは夢の中なのだと気づいていれば、それでいいのかもしれません。

個人的には「引き寄せの法則」はないと思っています。でも、宝くじでも当ったら、「夢の中では引き寄せの法則はある」と言うに決まっています。私の場合。