カリヤニに、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言ったのも、その程度の理由で、じっくり本を読んで言ったわけではありません。前回ブログに書いた、ルパート・スパイラの「プレゼンス」では、それこそ山のように「気づき」という言葉が出てきます。そこで、この「気づき」という言葉の裏にはどんな英語があるのか、ちゃんと調べようと思い、「プレゼンス」英語版を買おうと思って調べたところ、日本語版の三倍もする。円安の影響かどうか知らないけど、あんまりなので買うのをやめて、ルパート・スパイラのYouTubeを何本か見て確認しました。
それから推理すると、「気づき」に相当する言葉は awareness。やっぱりな、と思う一方で、どうして、ある本では「意識」と訳され、またある本では「気づき」と訳されるのだろうかと思いました。翻訳家によって違うのかと思って、あれこれ調べてみましたが、そうでもないらしい。高木悠鼓さんは、「ただそれだけ」では、「意識」を使い、「何でもないものが あらゆるものである」では「気づき」が多い。古閑博丈も「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」では「気づき」なのに対して、「すでに目覚めている」では「意識」が多い。
おそらく、こうした本に出てくる言葉の原語は、awareness もしくは aware だと思います(「プレゼンス」には一部に cosciousnessという言葉もあります)。私の場合、非二元の本として最初に読んだのが「ただそれだけ」なので、「意識」という言葉がしっくりきて、「気づき」だと違和感がありました。
awareness という言葉は、英語の場合、「気づき」という意味と「意識」という意味があって、英語ネイティブは、awareness と聞いたとたんに、「気づき」と「意識」が同時に頭に浮かぶわけですが、日本語にはそんな便利な言葉はないので、どちらかの訳語をあてなくてはいけません。また、非二元の教師によっては、awareness と consciousness の両方を同時に使う人もいて、その場合には consciousness を「意識」と訳して、awareness を「気づき」と訳すなどの区別が必要になると思います。
今回、「プレゼンス」を読んでいくうちに、「気づき」という言葉に対する違和感や苦手意識がなくなりました。最初のうちは「気づき」が出てくるたびに「意識」と直して読んでいましたが、途中からどっちでも同じではないかと思うようになったからです。
「気づき」とするか「意識」とするかは、翻訳家の方も気分でやってみえるわけではなく、原文の微妙なニュアンスを嗅ぎ取って、どちらかに決めてみえるのだろうと思います。というのも、「プレゼンス」の1巻では、ほぼ「気づき」だったものが、2巻の後半には「意識」という言葉が使ってあって、その場面では「意識」という言葉の方がしっくりくる感じを受けました。そして今は、「プレゼンス」の場合は、前述の一部の場面を除いて、「気づき」という言葉の方が的確だと思っています。気づきという言葉については、古閑博丈さんのブログが参考になると思います(気づきとはルパート・スパイラ)
この「気づき」という言葉に対する苦手意識が消えたことや、カリヤニからロンダ・バーン、ルパート・スパイラを教えてもらったことで、もっといろんな人の本をちゃんと読んだ方がいいのではと思いました。セイラーボブのミーティングだけせっせと見て、セイラーボブのことだけをせっせと書いて、まるでセイラーボブ教、セイラーボブ原理主義みたいになっているのではないか。セイラーボブの言っていることを理解したからといって、非二元の教え全体を理解したと思うのは短絡的ではないのか。もっと広い視野で非二元を捉えるべきではないかと思いました。
そして、図書館で、
人生を変える4つの質問 バイロン・ケイティを借りました。
ほとんどがよく見聞きする人や本です。今ごろになって、何を読んでいるのかと言われるかもしれませんが、もしセイラーボブを通じて非二元を理解する前にあれこれ読んだとしても、おそらくチンプンカンプンで、非二元難民なっていたと思います。
少しずつ読んで、思うところを書いていきたいと思っています。こういう本の性格上、そんなに急いで読んでも役に立たないので、ゆっくりやっていきます。