エンライトメントとは何か?それは私にどうやって起こるのか?
エンライトメントは誰にでも可能です。
最近、エンライトメント、あるいは目覚めとは何ですかという質問がありました。このことについては、あまりにも多くの誤解があるので、それについて話そうと思います。
私たちの多くは、エンライトメント、目覚め、解放について聞くために、肉体的、あるいは知的に東洋へと向かい、インド、日本、中国、チベット、タイなどを訪れました。こうした国の文化は西洋文化に比べて並外れて魅力的なものであるため、私を含めて多くの人は、エンライトメント、あるいは目覚めをこうした国の並外れて魅力的な文化と混同しました。
エンライトメントそのものが、何か並外れた魅力的なもの、私たちの想像を超えた奇跡のような体験だと信じ、その結果、私たちが読んだり聞いたりしたこの奇跡的な体験をゴールとして作り上げたのです。これほど真実とかけ離れたことはありません。エンライトメント、あるいは目覚めは並外れて魅力的な体験ではありません。実際それは、体験でさえありません。
それは単に私たちの存在の本質を認識(recognition)することです。存在の本質とは、あらゆる体験の根底にあり、さらに言うなら、いかなるものの中にも浸透しているもののことです。こうした理由から私は、認識する方法によるアプローチをしばしば説いています。認識とはもちろん、いつも知っていたにもかかわらず見落とし、あるいは無視したり忘れたりしてしまったことをふたたび知るという意味です。
私たちが見落としたり、無視したりしていることとは何でしょうか? それは私たちという存在(being)、本質としての自己(essential self)のことです。なぜそれを無視したり見落としたりしてきたのでしょうか? それは、私たちが体験、思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性などといった内容の虜になったからにすぎません。
こうしたことが、私たちの注意を独占したために、存在(being)のシンプルな事実を忘れたり見落としたりしたのです。存在(being)は私たちの体験の、いわば背後、あるいは根底にあるものです。エンライトメント、あるいは目覚めと呼ばれるものは、私たちの存在(being)の本質的な性質(essential nature)を認識することにすぎません。
物事の本質的な性質とは、それから取り除くことも分離することもできない性質のことです。私たちから取り除くことができるものをすべて取り除いた時に残るものが私たちの本質です。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性など、こうしたことはすべて私たちに現れ、遅かれ早かれ消えていきますが、私たちには、決して現れることなく、変化することなく、消えることのない一面があります。それは存在(being)、あるいは気づいている存在(being aware)というシンプルな事実です。
そして、認識するという方法は、自身から取り除くというやり方ですが、文字通り取り除くという意味ではなく、想像力を使って自身の中に入っていき、捨て去ること、拒絶するのではなく、私たちの本質ではないものを捨て去ることです。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識などを捨てるのです。そうやって、これ以上何も捨て去ることができない本質的な自己、すなわち存在(being)までさかのぼっていきます。
あたかもそれは、夜に服を脱ぐようなものです。私たちは夜ベッドに入る前に、裸になるまで順に服を脱いでいきます。突然裸の体になるわけではありません。体は日中私たちの体を包んで覆っていた服の層の下から現れるのです。一方、認識による方法も同じようなやり方で進んでいきます。
いわば、脱いでいくのです。私たちの存在( being)が着ている体験、思考、イメージ、フィーリングなどの層を全部脱いでいくのです。そして、ある時点で、これ以上は脱ぐことができない裸の本質的な自己(essential self)、すなわち存在(being)が現れます。この存在(being)になるのではありません。私たちは経験の中ではいつも服を着ていますが、本質的にはこの存在(being)にすぎないなのです。
大多数の人にとって、このプロセスは一度に起きるようなことではありません。一度に起こったとしても、たいていは習慣の力によって、思考、イメージ、フィーリングなどのせいで、私たちの存在(being)は、ふたたび覆い隠されてしまいます。実際には、スクリーンの上に映画が映し出されてもスクリーンが消えるわけではないのと同様に、私たちの本質的な存在(essential being)が消えるわけではないのです。
でも、私たちの存在(being)は、体験した内容によって色付けされ、うわべ上では修正され、その本質的な性質(essential nature)はベールで覆われたり、不鮮明に見えたりするのです。そしてその場合、私たちは再び、認識する方法に乗り出さなくてはいけません。再び逆の道をたどり、層となっている経験を通り抜けて、裸の存在(being)まで戻らなくてはいけません。
これをやるたびに、私たち自身、すなわち存在(being)から私たちを連れ出す外的な経験の持つ力が弱まっていくのがわかります。そうして私たちは私たち自身を見つけるのです。それは短い一瞥や、一時的に私たちの存在(being)を味わうということではなく、その中にそれとして確立されるのです。
私たちが経験したことによって身についた性質が、私たちの存在(being)から脱がされていくに従って、私たちの思考の特徴となっている不安が消えていきます。そしてそれは平安として体験されます。私たちの苦しい感情の特徴である欠乏の感覚が消えていきます。そしてその体験は、私たちが幸福として知っているものです。別の言葉で言うなら、平和と静かな喜びは私たちの存在(being)の本質そのものです。
それは、理解を超えた平和と呼ばれています。それは、私たちの体験の中で起きることや起きないことに左右されることのない平和です。それは原因のない平和、喜びです。その平和、喜びは体験の中に原因があるのではなく、私たちの存在(being)の本質そのものなのです。この、生まれながらの平和と喜びは、経験したことによって私たちの存在(being)と混同されて不鮮明になってしまいました。
この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。
そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。やがて私たちの存在(being)は、実際には私たちの存在ではないと感じ始めます。
別の言い方をするなら、私たちの存在(being)は個人としての私たちに帰属しているものではないのです。私たちの存在(being)は経験したこによって身につけた性質を脱がされ、単なる存在(being)として現れます。それはまったく親密であるにもかかわらず、非個人的で無限なものです。その結果、私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。
その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。
そしてこの認識はもちろん、人々や動物との関係性に対しては私たちが愛と呼ぶもののことであり、物や自然に対しては美と呼ぶもののことです。数週間後、あるいは近い将来、私は週末にオンラインで認識による方法をやるつもりです。そこで私たちは本質的な自己(essential self)へと戻る数々の道を探検します。そしてまた、ふたたび経験の内容へと戻る道、特に体を感じ、世界を認識する方法によって、私たちの存在(being)の本質を認識するだけでなく、あらゆる人や物と私たちの存在(being)を分かち合うことをもっと感じる方法をやります。
では、皆さまのご健勝と平安をお祈りします。またすぐにお会いできますように。お元気で。