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2023/12/01

自分とは

私たちが自分であると思っている「自分」は、ひとつの思考にしかすぎない
                カリヤニ・ローリー(ザ・グレイテスト・シークレット


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2023/11/28

意識とはものごとを経験するうえでもっとも明白な要素だ

意識とはものごとを経験するうえでもっとも明白な要素だ。それなのに、ほとんどの人々が見落としてしまっているのだ。
                ルパート・スパイラ(ザ・グレイテスト・シークレット

多治見市 虎渓山 永保寺 樹齢700年の大銀杏 11月27日撮影

2023/11/24

エンライトメント、あるいは目覚めとは

過去二回のブログでは、ルパート・スパイラがエンライトメントについて語っているYouTubeを掲載させていただきました。それによって、ルパート・スパイラがエンライトメントをどう考えているのかがはっきりしたと思います。

特に、前回のブログでは、エンライトメント、あるいは目覚めということの定義をはっきり語っています。そこには、何も神秘的な要素はありません。あるのは、認識、あるいは理解です。そして、その理解がどのように起きるかもはっきりと語っています。くどいようですが、もう一度その部分を掲載させていただきます。

「この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。

そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。

その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」

大切な部分は、「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」という部分です。要するに、そうやって個人としての「私」は実在しないということを理解・認識していき、さらには、「私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」

このとをルパート・スパイラはエンライトメント・目覚めと呼んでいるわけです。そこには突然何かが起きるとか、体が光に包まれるとか、自分はいなかった体験をするということは出てきません。これはものすごく重要なメッセージだと思います。

「すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始める」。そういう意味で言うなら、私はすでにエンライトメントしています。また、このブログをずっと続けて読んでいただいている方の多くもすでにエンライトメントしてみえると思います。私は、(エンライトメントある派)のマスターや教師は支持しないし、このブログでは取り上げません。でも、こういう意味のエンライトメントなら支持します。

かつては、グルやマスターの話をYouTubeで誰でも聞けるなんてことはありませんでした。私がセイラーボブに会いに行った9年前ですら、ボブのYouTubeの動画は2~3本があっただけです。ルパート・スパイラのYouTubeで一番古いものは12年前です。ありがたいことに日本語字幕を付けてくださっている方もみえます(4年前から)。

YouTubeが盛んになる以前、非二元関連の情報は翻訳されたごく限られた本しかありませんでした。すると、いくら翻訳者の方が正確に訳しても、読み手の方では勝手に想像して、非二元の教師たちは全員覚醒・エンライトメントした人たちだと思い込んでしまいます。ネット上で、「ただそれだけ」の書評を書いてみえる人の記事を読んでも、ほぼ全員が、セイラーボブをエンライトメントした人だと思っています。あれだけYouTubeで明確に「エンライトメントはない」と本人が言っているにもかかわらずです。ルパート・スパイラにも同じことが言えます。

YouTube以前は、直接会いに行くしか方法がありませんでした。でも今はYouTubeがあります。これってすごいことだと思います。ニサルガダッタ・マハラジの言葉だって聞けるわけですから。

そして、セイラーボブのミーティングにズームで参加することもできます。ルパート・スパイラもオンラインのセミナーをやっています。英語という壁があるので、少しハードルが高いのですが、どうしても知りたい疑問があればメールという手もあります。

インターネットの発達に伴い、もうそろそろ、彼らが私たちとは違う特別な意識の状態にある人たちだという幻想を手放してもいいのではないでしょうか。そこにあるのは、同じ一つの意識、存在(being)だと教えているのですから。

「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」

戻っていく(理解する)ためには、彼らが私たちとは違う特別な人たちだという先入観を捨てて、何も特別なことは起きないということを理解したうえで、手に入る媒体を通じて学ぶことだと思います。そしてそれは、誰にでも可能なことです。

2023/11/21

「エンライトメントとは何か?それはどのように起こるのか?」ルパート・スパイラ

What is Enlightenment? How Can it Happen For Me? Enlightenment is possible for everyone 
エンライトメントとは何か?それは私にどうやって起こるのか? エンライトメントは誰にでも可能です。 

最近、エンライトメント、あるいは目覚めとは何ですかという質問がありました。このことについては、あまりにも多くの誤解があるので、それについて話そうと思います。

私たちの多くは、エンライトメント、目覚め、解放について聞くために、肉体的、あるいは知的に東洋へと向かい、インド、日本、中国、チベット、タイなどを訪れました。こうした国の文化は西洋文化に比べて並外れて魅力的なものであるため、私を含めて多くの人は、エンライトメント、あるいは目覚めをこうした国の並外れて魅力的な文化と混同しました。

エンライトメントそのものが、何か並外れた魅力的なもの、私たちの想像を超えた奇跡のような体験だと信じ、その結果、私たちが読んだり聞いたりしたこの奇跡的な体験をゴールとして作り上げたのです。これほど真実とかけ離れたことはありません。エンライトメント、あるいは目覚めは並外れて魅力的な体験ではありません。実際それは、体験でさえありません。

それは単に私たちの存在の本質を認識(recognition)することです。存在の本質とは、あらゆる体験の根底にあり、さらに言うなら、いかなるものの中にも浸透しているもののことです。こうした理由から私は、認識する方法によるアプローチをしばしば説いています。認識とはもちろん、いつも知っていたにもかかわらず見落とし、あるいは無視したり忘れたりしてしまったことをふたたび知るという意味です。

私たちが見落としたり、無視したりしていることとは何でしょうか? それは私たちという存在(being)、本質としての自己(essential self)のことです。なぜそれを無視したり見落としたりしてきたのでしょうか? それは、私たちが体験、思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性などといった内容の虜になったからにすぎません。

こうしたことが、私たちの注意を独占したために、存在(being)のシンプルな事実を忘れたり見落としたりしたのです。存在(being)は私たちの体験の、いわば背後、あるいは根底にあるものです。エンライトメント、あるいは目覚めと呼ばれるものは、私たちの存在(being)の本質的な性質(essential nature)を認識することにすぎません。

物事の本質的な性質とは、それから取り除くことも分離することもできない性質のことです。私たちから取り除くことができるものをすべて取り除いた時に残るものが私たちの本質です。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性など、こうしたことはすべて私たちに現れ、遅かれ早かれ消えていきますが、私たちには、決して現れることなく、変化することなく、消えることのない一面があります。それは存在(being)、あるいは気づいている存在(being aware)というシンプルな事実です。

そして、認識するという方法は、自身から取り除くというやり方ですが、文字通り取り除くという意味ではなく、想像力を使って自身の中に入っていき、捨て去ること、拒絶するのではなく、私たちの本質ではないものを捨て去ることです。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識などを捨てるのです。そうやって、これ以上何も捨て去ることができない本質的な自己、すなわち存在(being)までさかのぼっていきます。

あたかもそれは、夜に服を脱ぐようなものです。私たちは夜ベッドに入る前に、裸になるまで順に服を脱いでいきます。突然裸の体になるわけではありません。体は日中私たちの体を包んで覆っていた服の層の下から現れるのです。一方、認識による方法も同じようなやり方で進んでいきます。

いわば、脱いでいくのです。私たちの存在( being)が着ている体験、思考、イメージ、フィーリングなどの層を全部脱いでいくのです。そして、ある時点で、これ以上は脱ぐことができない裸の本質的な自己(essential self)、すなわち存在(being)が現れます。この存在(being)になるのではありません。私たちは経験の中ではいつも服を着ていますが、本質的にはこの存在(being)にすぎないなのです。

大多数の人にとって、このプロセスは一度に起きるようなことではありません。一度に起こったとしても、たいていは習慣の力によって、思考、イメージ、フィーリングなどのせいで、私たちの存在(being)は、ふたたび覆い隠されてしまいます。実際には、スクリーンの上に映画が映し出されてもスクリーンが消えるわけではないのと同様に、私たちの本質的な存在(essential being)が消えるわけではないのです。

でも、私たちの存在(being)は、体験した内容によって色付けされ、うわべ上では修正され、その本質的な性質(essential nature)はベールで覆われたり、不鮮明に見えたりするのです。そしてその場合、私たちは再び、認識する方法に乗り出さなくてはいけません。再び逆の道をたどり、層となっている経験を通り抜けて、裸の存在(being)まで戻らなくてはいけません。

これをやるたびに、私たち自身、すなわち存在(being)から私たちを連れ出す外的な経験の持つ力が弱まっていくのがわかります。そうして私たちは私たち自身を見つけるのです。それは短い一瞥や、一時的に私たちの存在(being)を味わうということではなく、その中にそれとして確立されるのです。

私たちが経験したことによって身についた性質が、私たちの存在(being)から脱がされていくに従って、私たちの思考の特徴となっている不安が消えていきます。そしてそれは平安として体験されます。私たちの苦しい感情の特徴である欠乏の感覚が消えていきます。そしてその体験は、私たちが幸福として知っているものです。別の言葉で言うなら、平和と静かな喜びは私たちの存在(being)の本質そのものです。

それは、理解を超えた平和と呼ばれています。それは、私たちの体験の中で起きることや起きないことに左右されることのない平和です。それは原因のない平和、喜びです。その平和、喜びは体験の中に原因があるのではなく、私たちの存在(being)の本質そのものなのです。この、生まれながらの平和と喜びは、経験したことによって私たちの存在(being)と混同されて不鮮明になってしまいました。

この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。

そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。やがて私たちの存在(being)は、実際には私たちの存在ではないと感じ始めます。

別の言い方をするなら、私たちの存在(being)は個人としての私たちに帰属しているものではないのです。私たちの存在(being)は経験したこによって身につけた性質を脱がされ、単なる存在(being)として現れます。それはまったく親密であるにもかかわらず、非個人的で無限なものです。その結果、私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。

その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。

そしてこの認識はもちろん、人々や動物との関係性に対しては私たちが愛と呼ぶもののことであり、物や自然に対しては美と呼ぶもののことです。数週間後、あるいは近い将来、私は週末にオンラインで認識による方法をやるつもりです。そこで私たちは本質的な自己(essential self)へと戻る数々の道を探検します。そしてまた、ふたたび経験の内容へと戻る道、特に体を感じ、世界を認識する方法によって、私たちの存在(being)の本質を認識するだけでなく、あらゆる人や物と私たちの存在(being)を分かち合うことをもっと感じる方法をやります。

では、皆さまのご健勝と平安をお祈りします。またすぐにお会いできますように。お元気で。

2023/11/17

「私が未だに悟れないのはなぜ?」ルパート・スパイラ

Rupert Spira 非二元のエッセンス  私が未だに悟れないのはなぜ?

このYouTubeはまったくすばらしい。字幕をつけていただいた方に感謝します(歯車アイコンをクリック→字幕→日本語)。
このYouTubeの中で、ルパート・スパイラは悟り(エンライトメント)とは何なのかを端的に説明しています。

セイラーボブのミーティングで何十回も聞いたフレーズに似た言葉が出てきました。

「私はまだ目覚めていないのですが」という質問者の問いに対して、

「You are not awake? (あなたは目覚めてないのですか?)」とルパートは問いかけました。

セイラーボブだったら、Are you unaware right now?と聞くところです。ボブの場合は、「それが awareness だ」と続くところですが、この質問者はその意図を理解せず、会話を先へと進めてしまっています。

続いてルパートは、「あなたはまだ、何かが起きることを期待していますね。それが問題です」と答えています。

もし、非二元の教えを理解したら、何かエンライトメントのようなことが起きるはずだと思い込んでいると、非二元の教えを理解することができません。私もそうでした。

このYouTubeの中でルパート・スパイラは、悟り(エンライトメント)とは、何かを体験することや、何かになることではないと明言しています。彼らは私たちと何も違わない普通の人です。

説明の仕方や使うフレーズが、あまりにもセイラーボブと似ているので驚いています。

2023/11/10

「プレゼンス」ルパート・スパイラ


カリヤニと話をした時、ふとしたきっかけで私が、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言いました。するとカリヤニが、「ヨーロッパの教師の中では、ルパート・スパイラがわかいやすい」と教えてくれました。

ルパート・スパイラの名前は知っていましたが、本は立ち読み程度にしか読んだことがありませんでした。せっかくカリヤニがすすめてくれたのだからと、入手してじっくりと読んだところ、すばらしい内容でした。

読み始めは、少し理解するのが難しいところがあり、何回か同じところを読むことがありましたが、次第に慣れて、それほど難しく感じなくなりました。私はセイラーボブに会う前に、「ただそれだけ」を7回読みましたが、さっぱりチンプンカンプンでした。この本は、「ただそれだけ」より難しい気がします。

何が難しく感じさせるかと考えてみました。独特の言い回しと、それを使って緻密かつ厳密に話すこと。また、詩的、感覚的言い回しが多いことではないかと思います。

セイラーボブは、私たちの本質を「意識(アウエアネス)、知性エネルギー、実在、認識する空」などと表現しますが、ルパートの場合は、「気づき、現存、自己、気づいている現存、真の自己、現存の空の空間、気づいている空間、純粋な気づき、気づきの光、いつもここにある存在、見る事、つなぎ目のない全体性、唯一の自己、知、知の光、自身の存在の光、愛」といった表現を使います。こういった表現は、大胆に解釈すれば、「意識」あるいは「気づき」のことを言っているのですが、まず最初にそれが理解できていないと、難しく感じるかもしれません。この本では「気づき」という言葉が中心になっていますが、「気づき」については次回書きたいと思うので、ここでは深入りしません。

内容はというと、非二元の教えの本ですから、「私は実在ではない」ということであり、セイラーボブが教えていることとまったく同じです。説明に使われる例えも、セイラーボブと似ているところもあります。空間の例え、スクリーンの例え、ラベルを貼り付けているといった例えは何回も出てきます。

第1巻の最初は、「私は在る(I am)」から始まります。自分が存在するということは、誰でも知っています。存在するということは、つまり presence であり、それが本のタイトルになっています。そして「私」はただ現存するだけでなく、気づいている存在です。そして私たちは、このシンプルな気づきに、様々な要素を付け足して、体と心(マインド)の中に私がいるという信念が生まれます。そうした信念を私だと思うことによって、様々な苦悩が生まれる課程を順に説明していきます。このあたりの説明は、セイラーボブとよく似ています。

ブログに引用するといいなと思う箇所に付箋を貼って読みましたが、結果的にほとんど全ページに付箋を貼ってしまい、貼る意味がなくなってしまいました。どんな感じで説明されているのか、ちょっと引用させていただきます。このブログで、「物は実在か?」という記事を書いた時、私たちが見ているレモンには実体がないという内容の記事を書きましたが、それとよく似た説明があって、おもしろいなと思ったので、引用させていただきます。

第2巻p150から
 
 リンゴの記憶が心(マインド)の中のイメージにすぎないというのは事実です。しかし、実際のリンゴを見るとき、それもただのイメージにすぎないということを私たちは見落としています。私たちがリンゴについて知っていることは、この場合、「見ること」だけです。そして、リンゴに触るとき、私たちが知っているのは「触ること」だけです。リンゴを味わうとき、知っているのは「味わうこと」だけです。

 通常考えられているような形で、私たちが実際のリンゴを体験することはありません。つまり、分離独立して存在する対象物のリンゴを体験することはないのです。

 ですから、実際の体験において、記憶の中に現れるリンゴの実質と、「現実の時間」の中に現れる実際のリンゴの実質には、何の違いもありません。それらについて私たちが知っている唯一の知識は、心(マインド)からーーー見る事、味わうこと、触ること、嗅ぐことからーーーでできています。そして、心(マインド)の実質は気づきだけです。

 気づきが、それ自身の不在や消滅を体験することなどできるでしょうか? この、常に現存し、いつもここにある気づきが私たちであり、すべての体験の唯一の実質です。私たちはそのことを直接的に、親密に、即座に体験します。体験のこのシンプルな事実を表面的に忘れてしまうと、リンゴや対象物、世界といったものが実在するように見えるのです。

ここだけ読んでも素晴らしいと思いますが、全体がこんな調子で続きます。では、私たちが、実在すると思っている「私」「体」「世界」は、実際には気づきが気づいている対象にすぎないということを理解するにはどうしたらいいのか。

驚くことに、これもセイラーボブと同じで、自分で調べることだと言っています。ルパートの場合は「探求」「探す」という言葉を使っています。そのやり方は、第1巻に順に説明されています。最初に、「分離した自己」次に「体」、そして「世界」を調べていきます。ことの性質上、このあたりの説明は抽象的に思えるかもしれませんが、やり方が書いてあるだけでも私にとっては貴重な本です。

ルパートによると、調べることはそれほど難しくはなく、「私」や「体」が実在ではないということを理解することも、容易にできることだと言います。でも、それを理解したからと言って、「私」や「体」に対する認識や、ボブの言葉で言うなら条件付けのようなものは、すぐには無くならないというのです。その説明はこの本の中で何回も表現を変えて出てきますが、一番印象に残った箇所を引用させていただきます。

第1巻 p135から

 私たちの実際の体験において、分離した内側にある自己は存在しない、存在していなかったということがはっきりわかると、それは再生されません。ですが、ひとたび真の性質へと溶け込んだからといって、架空の存在の古い余韻が体と心(マインド)から完全に洗い流されるわけではありません。

 それは、波が浜辺に打ち寄せることで、こどもたちが浜辺に描いた砂の絵が少しずつ消えていくのと似ています。波が打ち寄せれば、絵は部分的に消えますが、その線がどれだけ深く掘られたかによって、波がどれだけ打ち寄せなければならないかが違ってきます。

 同じように、分離した内側にある自己の思考と感情の残滓(筆者注: ざんし=残りかすのこと)は、心(マインド)、特に体に爪痕を残します。透明で開かれた、愛に溢れた私たちの真の性質が本当の意味で浸透するには、いくらかの時間、場合によっては数年を要することもあるのです。

ボブのミーティングでも、「あなたの教えは理解しましたが、『私』は消えません」、「知的には理解しました。でも、『私』がいるような気がします」といった類の質問が未だに後を絶ちません。そんな時ボブは、「自分で調べてみてください」「『でも』はあなたをそれから遠ざけます」「今そのことを考えなかったら、条件付けはありますか?」といった、ニサルガダッタ譲りの一喝で終わらせてしまう傾向があり、それがいつも参加者のジレンマになっている感じがします。

ボブは、「私」が消えるには時間がかかるなんてことは決して言いません。「時間は存在しない。それは即時だ。あなたはもともとそれだ」の一点ばりです。ルパートも、「時間はあなたの記憶の中にしか存在しない」と言っていますが、私が消えるには時間がかかると、ちゃんとわかりやすく説明してくれています。

ルパートは、一回や二回の調査ではだめで、調査して、自分は実在ではないという体験を何回も積み重ねることが大事だと言っています。一番やってはいけないのは、その体験をすることなく、「私はいない。体は実在でなない」とマントラのように自分に言い聞かせることだそうです。これは状況を悪化させるだけだと言います。

ここで勘違いしてはいけないのは、物理的な「体」や「私」という認識が消えると言っているのではないということです。そんなことが起きれば、体は家具にぶつかってしまうし、車に轢かれてしまうでしょう。「私」という認識が消えれば、社会で生きていくことさえできなくなります。あくまでこれは、自分は「体」でも「思考」でもなく、「私」は実在ではないという理解のことを言っています。

セイラーボブのように、「あなたはもともとそれだ」と一喝する教師もいれば、ルパート・スパイラのように、「すぐには消えないよ」と優しく説く教師もいていいと思います。

ルパートもボブと同じように、私たちの本質を覆い隠す思考を雲に例えています。「私」「体」「世界」が実在するという思考、雲の後ろには何があるのか。そこには、平安、幸福、愛があると言います。セイラーボブも、サット・チット・アナンダ(存在・意識・愛)として、愛を引き合いに出すこともありますが、ボブの場合は「知性」「ほのかな至福」といったことを強調するのに対して、ルパートの場合は「愛」を強調しています。

これは、健康食品の宣伝の注意書きのようなもので、「個人の感想です」ので、あまり表現にとらわれない方がいいと思います。そして、私はまだ、平安、幸福、愛を感じないからダメだと思う必要もないと思います。ルパートもボブも、私たちはもともとそれなのだと言っています。

ここでルパートが言っている平安、愛、幸福とは、マインドや体が感じる平安、愛、幸福のことではありません。愛する家族がいて幸せだというのはマインドの幸福です。暖かいお風呂に入って幸福だというのは、体の幸福です。そうではなく、愛する人が去った悲しみに打ちひしがれている時も、吹雪の中を歩いている時も、マインドや体の背後にいつもあるものことを言っています。

やってはいけないのは、ルパート・スパイラやセイラーボブが私たちとは違う意識にあるのではないかと思って、それを探してしまうことです。彼らは特別な人ではなく、私たちと何も変わりません。もし彼らが私たちとは別の意識状態にあると思って、それを探し求めるなら、エンライトメントを探し求める人と同じ誤りを犯すことになります。たった一つの、同じ意識があるだけです。


ルパート・スパイラについて

Amazonの著者紹介より

ルパート・スパイラ Rupert Spira
幼少の頃から現実の本質に多大な関心を寄せていた。
20年以上にわたりピョートル・ウスペンスキー、ジドゥ・クリシュナムルティ、ルーミー、シャンカラチャリヤ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ロバート・アダムスらの叡智を探究した後、1996年、彼の師となるフランシス・ルシールに出会う。
ルシールの導きにより、ジャン・クライン、アートマナンダ・クリシュナメノンらの教えに触れ、さらには経験の真の性質を知るに至る。
現在はイギリスに暮らし、ヨーロッパおよびアメリカ各地で、ミーティングやリトリートを定期開催している。

Wikipedia を参考にして、私なりに略歴をまとめてみます。

Rupert Spira 
1960年3月13日ロンドン生まれ イギリス人 現在63歳。職業:著述家・スピリチュアル教師・哲学者・陶芸家。1977年、ロンドンで開催されたマイケル・カーデュの陶芸展に触発され、ウエスト・サリー芸術デザイン大学に入学して美術を学ぶ。1980年から1982年まで、マイケル・カーデュのもとで陶芸家の見習い修行をする。

大学卒業後の1984年、自身のアトリエを持つ。
どんな作品を作っているのかgoogleで画像検索してみました。陶器に言葉を書き込んだものも見られます。
陶芸家として成功していたようで、日本で個展を開催したこともあり、作品は東京国立近代美術館にもあるようです。(情報源はここ
ザ・グレイテスト・シークレットの賢人リストによると、元陶芸家となっているので、今は陶芸家としては活動していないのかもしれません。

スピリチュアル関連
15歳のときにルーミーの詩を読んだことが、スピリチュアルな旅の始まり。ロンドンのコレット・ハウスでフランシス・ロールズ博士に師事した。フランシス・ロールズ博士は神秘哲学者ウスペンスキーとグルジェフ、そしてスワミ・シャンタナンダ・サラスワティのマントラ瞑想を学んだ人物。その結果、古典的なアドヴァイタ(非二元論)にも興味を持つようになる一方、メヴレヴィ・ターニング(祈りと瞑想を組み合わせた神聖な動きの一種)を通してスーフィズムの研究も続けた。また、ニサルガダッタ・マハラジとラマナ・マハルシの教えを読み、1970年代後半にはブロックウッド・パークで行われた J.クリシュナムルティの最後の集会に参加した。1990年代半ば、ロバート・アダムス、フランシス・ルシールとの出会いが彼をアートマナンダ・クリシュナ・メノンのダイレクト・パスの教えに導いた。20年以上にわたる瞑想と修練の結果、自己の本質に目覚め、以後、講演やリトリートを主催。日本でもセミナーを開いたことがあるそうです。
スピリチュアル関連の経緯は、古閑博丈さんのブログによくわかるインタビュー記事があります。


このチャンネルには1000本以上の動画があります。ちょっとした宝物を見つけた気分です。一本だけ紹介させていただきます。この動画の中でルパートは、エンライトメントは東洋で信じられているような神秘的かつ途方もないものではなく、単に私たちの存在(being)の本質を気づくことだと言っています。

日本語で字幕をつけてみえるYouTubeチャンネルもあります。「Rupert Spira非二元のエッセンス」。まだよく見ていませんが、ありがたいことです。

ルパート・スパイラについては、古閑博丈さんのブログ(resonanz360 塩人間の海底探検)にたくさんの記事があります。全部読ませていただきました。古閑さんは、この本が世に出るずっと以前にルパート・スパイラのリトリートに何度も参加されているようです。また、ルパート・スパイラのホームページのQ&Aや教えの概要の翻訳が掲載されています。今のホームページとは連動していないようですが、教えを理解する助けにもなり、貴重なものだと思います。リトリートの体験記もあって、どんな様子なのかを知ることができます。

thE uRbaN guru Cafe には、3回のインタビューがあります。(ポッドキャスト・英語)

ちなみに、「ザ・グレイテスト・シークレット」では、ルパート・スパイラの言葉は17回引用されていて、おそらく最多だと思います。

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ルパート・スパイラのファンになりました。そしてもし、ルパート・スパイラのセミナーに出たことがある方、あるいは陶芸展で会われた方がみえるなら、「こんな感じの人だったよ」「こんなこと言っていたよ」、何でも結構ですので、シェアしていただけるとありがたいです。

2023/11/07

黄檗 Huang-po

カリヤニのおすすめの禅マスターは、黄檗(Huang-po)だそうです。
黄檗は、このブログでも一度取り上げています(黄檗希運)。あの時は、どこかの英文サイトから拝借して書いた記憶があるのですが、どこだったかよく覚えていません。もう一度、黄檗について学びなおそうと思って、何か参考になる本はないかと調べたのですが、黄檗に関する本はあまりない。一冊だけ手頃なものを見つけたので、アマゾンで買った。


おそらくこれは読めないだろういうことは、注文の時点で察しがついた。著者は有名な仏教学者の宇井伯寿。この時代の人の文章は、古くて読めない漢字が使ってある。文章も漢文調だったりする。復刻版なので、現代語に直してあるかもしれないと思って買ったが、だめだった。この時代の人の文章はおいそれとは読めない。鈴木大拙にも同じことが言える。鈴木大拙全集を読もうとしても、全く歯がたたなかった。

黄檗に関する記録はそれほど多くないようなので、おそらくこの本の元となったものが英訳されたのではないかと思います。

英語版としては、これが良さそう。
今、時間的な余裕があまりなくて、英語の本をじっくり読もうという気になりません。また時間に余裕ができたら読もうと思っています。一応備忘録として書いておきます。この本の参考サイト(Buddhist Wisdom)。

カリヤニがおすすめのヨーロッパの非二元の教師は、ルパート・スパイラだそうです。次回はルパート・スパイラについて書きます。

2023/11/03

引き寄せの法則と非二元の教え

前回のブログで、ロンダ・バーンの「ザ・グレイテスト・シークレット」について書きました。でも、私の中のひねくれ爺さんが、もう少し言いたいことがあるというので書いています。

一般的に非二元の教えでは、自由意志はないと言います。そもそも、その自由意志の主体である「私」はいないというのが非二元の教えの根幹ですので、自由意志があるかないかと問うこと自体がおかしい。もし、「自由意志はある」と言えば、その主体である「私」がいることになる。もし、「自由意志はない」と言っても、そこには自由意志を持っていない「私」がいることになってしまう。

それゆえ、自由意志があるとかないとか問うこと自体が間違い。「私」は実在ではない。そこで終わり。では、「引き寄せの法則」はあるのか? これも同じ理屈が成り立つような気がします。誰が引き寄せるのかと問うてみれば、答えは明らかな気がします。そこに、「引き寄せる私」がいないのなら、引き寄せの法則は成り立たない。

でも、そのあたりの整合性を、ロンダ・バーンはこの本の中でまったく説明していません。もちろん、誤った思い込み、信念を消し去れば、そこにあるのは意識だけだという趣旨の説明はしていて、非二元の説明としては全く正しいのですが、じゃあ、今までの本で、思考や信念の力で金や物、幸せを引き寄せましょうと言っていたことはどうなるのか、という疑問がわきます。

ロンダ・バーンの引き寄せの法則の基本は「信念、あるいは思考は現実化される」というものです。そしてロンダ・バーンはこの本の中で、否定的な思考を持てば、否定的な現実を引き寄せてしまうので、否定的な思考を持たないようにと言っています。

でも、そもそも、肯定的な思考だけを持つということが可能でしょうか? 肯定的な思考の裏には必ず否定的な思考が潜んでいます。肯定的な思考だけ持つことが可能なら、誰も悩んだりしません。思考で現実を引き寄せることが可能なら、誰も願望が実現して欲しいと思って「引き寄せ本」を読んだりしません。

ロンダ・バーンは、「否定的な思考、信念は、それを意識した瞬間に消える」と書いています。このあたりは非二元の教師と同じことを言っていて間違いではありません。でも、思考は現実化されるという前提が間違っている気がしてなりません。

変節漢の私としては、「引き寄せの法則」ある派の立場に立って、理屈を考えてみました。非二元の教えでは、私たちが見ている現実社会は夢、幻想であり、例えていうなら、意識というスクリーンの上に映し出された物語だという例えがよく使われます。ロンダ・バーンもスクリーンの例えを使っています。

もし私たちの見ている現実が、夢や物語であるなら、そこには「私」がいて、その「私」には自由意志があって、仕事を選んだり、結婚相手を選ぶ自由意志があると思っていてもいいと思います。夢や物語の中にはなんだってある。体だってあるし、「私」だっている。

本当は「私」は実在ではないけれど、夢や物語の中では「私」が存在するように見える。それゆえ、自由意志もあるように見える。なんかややこしい話になってきました。

夢だ物語だと言ってみても、実際には現実問題として、会社に行って働かなくてはいけないし、家族だって養っていかなければいけない。そうなると、意思を使って起きて会社へ行き、意思を使って働かなくてはいけない。

それが夢であろうと物語であろうと、そこには夢や物語のルールがあって、どうせ夢なんだからと働かなければ食っていけない。夢だからとむやみに人を傷つけたら刑務所に行かなくてはいけない。私たちはそういう世界に生きている。自由意志がなかったら、マクドナルドにもスタバにも行けない。カフェモカにホイップ増量も頼めない。(セイラーボブは、それは自由意志ではなく、起こってくることだと言うでしょうけど、ややこしくなるのでひとまず脇に置いておいて)

ニサルガダッタ・マハラジが言うように、夢を夢だと理解して、その夢の中で自由意志でも引き寄せの法則でも何でも使って生きていけばいいのではないでしょうか? と、ここまで、引き寄せの法則ある派の立場で考えてみました。でも、こんな理屈がなり立つなら、夢や物語の世界には、転生や輪廻や天国だってあることになってしまう。

「ザ・グレイテスト・シークレット」は、手っ取り早く非二元の教えを学ぶことができる(ロンダ・バーンは非二元という言葉は一切使っていないが)。そういう意味では画期的な本だといえる。でも、何か釈然としないものを感じる。非二元の教えを学ぼうとする場合、いろんな人の本をあれこれと読むよりも、一人の人の本をじっくり読んだ方がいいような気がします。人によって説き方が違うし、言っていることが細部で多少違う。あれこれ読んでもかえって混乱してしまうような気がします。

ちょっと思ったのは、ロンダ・バーンの引き寄せ本を読んで、今まで願望の実現に必死になっていた人が、いきなりこの本を読んで、「私」は実在ではないという教えをすんなり理解できるだろうかということ。じゃあ、今まで必死になっていた「私」は何なのかということになりはしないかということ。

amazonのサイトの書評を読む限り、この本を違和感なく受け入れている「引き寄せの法則ある派」の人も結構いるようですので、あんまりとやかく言わなくてもいいのかもしれません。引き寄せの法則はあってもなくても、それは夢の中なのだと気づいていれば、それでいいのかもしれません。

個人的には「引き寄せの法則」はないと思っています。でも、宝くじでも当ったら、「夢の中では引き寄せの法則はある」と言うに決まっています。私の場合。

2023/10/31

「ザ・グレイテスト・シークレット」ロンダ・バーン

前回からの続き。

ザ・グレイテスト・シークレットを読みました。結論から先に言うと、この本は紛れもなく非二元の教えについて書かれた本です。そして、ロンダ・バーンは、「ザ・シークレット」も「引き寄せの法則」も否定しておらず、それはそのままで自説を曲げてはいない。「引き寄せの法則」の上に、もっとグレイトな秘密として非二元の教えがあるというのです。ただし、ロンダ・バーンは、この本の中では「非二元」「ノンデュアリティ」「アドヴァイタ」という言葉は一切使っていません。それは、ザ・グレイテスト・シークレット。勝手に訳すと、最も偉大な秘密なのです。

本の紹介のため、冒頭部分を少しだけ引用させていただきます。黒字は引用部分。

p17
はじめに
 2006年に『ザ・シークレット』を世に送り出してからというもの、私は夢という言葉でしか言い表すことのできない人生を歩んできました。『ザ・シークレット』に書かれた原則の数々を心から実践し続けることで、私の心は考えられないほどポジティブになり、そのポジティブな心が日々の幸せに、健康に、人間関係に、そして経済面にも表れるようになりました。そして気づけば、自分を取り巻くあらゆるものに、心からの感謝を抱くようにもなっていたのです。
 それでも胸の中で何かが、真理をもっと探究しなさいと私をずっと駆り立て続けていました。私自身まだ何を探せばいいのかもわからないというのに、私の背中を押していたのです。
 私は自分でも知らないうちに、10年の旅路に続く道へと歩み出しました。はじまりは古代ヨーロッパの伝統、薔薇十字団の教えを学びはじめたことでした。何年にもわたり、私は薔薇十字団の深淵な教えの数々学んでいたのです。それだけでなく、仏教、キリスト教神秘主義、神学、ヒンドゥー教、道教、イスラム教神秘主義も長年かけて学びました。そうして古代の伝統と歴史に残る教えの数々を学んだ私はふたたび今の時代へと立ち返り、J・クリシュナムルティ、ロバート・アダムス、レスター・レヴェソン、ラマナ・マハルシなど近代の賢者たちや、現代を生きる賢者たちの教えを学びはじめました。(引用おわり)

そして2016年に、デーヴィット・ヴィンガムという人物と出会ったことで、彼女の10年間の探求は終わります。その後も彼女は様々な人から教えを学び、それをもとにして、この本を書きあげます。

本の内容は、彼女が様々な人から学んだことを12章からなる文章で説明していきます。主となる説明はロンダ・バーンの言葉で説明され、それを補完する形で、様々な人の言葉が引用されています。形式としては「ザ・シークレット」と似たような形式です。各章の最後には、「ザ・シークレット」の時と同じように、その章のまとめがあって、わかりやすい言葉で説明されています。

本の中の太字で書かれている題目から、いくつか選んで引用させてもらいます。

p35
あなたは肉体ではない

p37
あなたはマインドではない

p39
本当にあなたは自分が考える自分自身だろうか?

p43
大胆ななりすまし屋

p50
あなたは、すべてに気づいている意識

p54
マインドという覆い

p69
意識で在り続けるために(ここでは、意識で在り続けるためのプラクティスが説かれています)

p72
ステップ1:「意識がありますか?」と自分に訊ねてみる

p87
覚醒する(エンライトメントという言葉はなく、例えば、「私たちではないものから覚醒する」というムージの言葉が引用されています)

p102
トラブルの源を信じてはいけない(トラブルの源とはマインドのことです)

p186
意識は幸せと同じ

p187
外界に幸せは存在しない

p218
すべては意識

p220
世界映画(意識は世界を投影するスクリーンであると説いています)

p242
終わりなどないのです(私たちは永遠の意識)

この太字の部分を読むだけでも、非二元の教えそのものだと思いませんか? でも、彼女は非二元という言葉は一切使っていません。非二元よりも、もう少し大きな枠組みでとらえています。というのも、引用する人たちが、必ずしも非二元という枠組みで語られる人たちばかりではないからです。

この本の巻末には、「賢者たち」として、言葉を引用した主な人たちや団体など、30人以上のリストとその説明が掲載されていますが、その人たちは、必ずしも非二元という枠組みには納まらない人たちも入っています。

私が知っている、もしくは聞いたことがある人の名前を挙げると、
セイラー・ボブ・アダムソン、
ディーパック・チョプラ™医学博士、
ジョエル・S・ゴールドスミス、
バイロン・ケイティ、
J・クリシュナムルティ、
ピーター・ロウリー、カリヤニ・ロウリー、
ラマナ・マハリシ、
ムージ、
スリ・プーニャ(パパジ)、
ルーミー、
ルパート・スパイラ、
エックハルト・トール、
ウパニシャド、
アラン・ワッツ、
バラマハンサ・ヨガナンダです。
この他にも20人ほどの名前がありますが、私はその人たちの名前を聞いたことがありません。

このブログは、あくまでもセイラーボブのことを中心に書いているブログなので、リストの中から、セイラーボブとカリヤニ、ピーターの部分を引用させていただきます。光栄なことに、セイラーボブは、その「賢者たち」のリストの最初に掲載されています。

セイラー・ボブ・アダムソン
 セイラー・ボブ・アダムソンはオーストラリア人で、私のふるさとであるメルボルンに住んでいます。私が彼を知ったのは2016年、私たちの真の姿に気づいたあとのことでした。当時私はアメリカに住んでいたのですが、その何年も前にまだメルボルンに住んでいた当時、通勤のために毎日毎日、何年にもわたり、セイラー・ボブの家の前を通っていました。まさか、将来自分の人生にとって重要な役割を果たすことになる自己実現の導師の自宅を車で通り過ぎていたなどとは、思いもよらなかったのです。2016年にセイラー・ボブのことを知った私は、すぐに彼に会おうと飛行機に飛び乗りました。彼はもう80代になっていましたが、私は何度か彼のセミナーに参加し、一対一のセッションを持つこともできました。そして彼に会うたびに気持ちが軽くなり、幸せが増し、解放感が増えていったのです。まだ私はスピリチュアル的に覚醒しはじめたばかりで、今はもうはっきりと理解していることをなんとか把握しようと必死になっていました。セイラー・ボブがニサルガダッタ・マハラジの弟子としてインドで自分の本質に目覚めたのは、もう数十年も前のこと。それ以来ボブは真実を聞きたいと願う人々に、自宅から彼の教えを教え授け続けてきたのです。今は90代になっていますが、まだ自宅でセミナーを開催し続けています。「今それを考えるのをやめて、何か問題があるかね?」という彼の言葉ほどシンプルで重要なものは、そうありません。セイラー・ボブは『今何か問題が?(What's Wrong With Right Now?)』『存在と意識:ただこれがあるだけ(Presence-Awareness: Just This and Nothing Else』という本を出版しています。また、彼のウェブサイトを見れば、彼のことをよく理解できるでしょう。sailorbobadamson.com

ピーター・ロウリー、カリヤニ・ロウリー
 ふたりは、私のふるさとであるメルボルンに住む、オーストラリア人の夫婦です。長年の壮絶なスピリチュアルの探求とインドへの旅を経て、ピーターとカリヤニはふたりとも自分の本質に覚醒しました。そろって覚醒する夫婦は非常に珍しいのですが、おかげでふたりがメルボルンで開くセミナーは本当に特別なものになっています。数年前にメルボルンを訪れた私はふたりのセミナーで、人生が変わるような体験をしました。そして幸運にも何度か、カリヤニと電話でのセッションを持つ機会にも恵まれたのです。ふたりの本『宝石の輝き(A Sprinkling of Jewels)』『ただそれだけ(Only That)』(邦訳はナチュラルスピリット)は、カリヤニの執筆によるものです。詳細はウェブサイトにて。nonduality.com.au

正直なところ、この本を読んで、どう評価していいのかわかりませんでした。これは、まぎれもなく非二元の教えについて書かれた本だと思います。わかりやすくて、内容もいい。具体的にどうしたらいいのかというプラクティスも書いてある。一部、引き寄せの法則と絡めて語られる部分があったりして、全面的に賛同するわけではありませんが、ずいぶんと参考になることがありました。

ちなみに、この本の中では、ざっと数えたところ、セイラー・ボブ、カリヤニ、ピーターの言葉がそれぞれ5回ずつ引用されています。もちろん、ニサルガダッタ・マハラジからの引用もあります。大半の引用はわかりやすく、すばらしいものです。ただ、一見非二元とは関係ないと思われるものもあります。

昔からある教えなのに、大げさなタイトルをつけて、こんなに多くの人の言葉を引用して、あざといではないか!と、私の中のひねくれ爺さんがつぶやきました。でも、ロンダ・バーンは、掲載された人の多くに会っているし、何度もセミナーに出たり、可能なかぎりの資料を読んだりして、ちゃんと体験、理解して書いています。もちろん、そうした人の了解も取っていることでしょう。

引用されている人の中には、私的には疑問を感じる人もいます。でも、私はその人たちの本を少しかじった程度の知識しかなく、会ってもいないので、偉そうなことは言えません。また、そうした人たちの言葉もすばらしいものなので、どうしたものかと困ってしまいます。

もっと困るのは、「引き寄せの法則」は自由意志にかかわる問題であり、非二元の教えの根本は、自由意志はないという点です。ロンダ・バーンは、「引き寄せの法則」は真理であるといい、その上にもっと偉大な秘密があると言って、この本を書きました。この本の中にも、「引き寄せの法則」について述べる箇所が何か所も出てきます。大前提が矛盾している気がしてなりません。

釈然としない思いをカリヤニにメールしたところ、カリヤニの答えは明快でした。カリヤニはロンダ・バーンの「ザ・シークレット」は読んだことはないけれども、「ザ・グレイテスト・シークレット」にカリヤニの言葉や名前が出たおかげで、何人かの人から連絡があり、まったく非二元を知らなかった多くの人たちを非二元に導いたのだから、それでいいのだということでした。

過去一年ほどの間、セイラー・ボブのミーティングのYouTubeを見ていて思ったのは、アメリカやヨーロッパからやってくる人が以前より多いような気がするということでした。今では、アメリカとヨーロッパ向けに時間をずらして、それぞれズームミーティングをやっています。ひょっとすると、この本のせいかもしれません。この本は、世界中で、ものすごい数の人に読まれているはずです。

カリヤニの話を聞いて、ロンダ・バーンに対する評価が変わりました。ロンダバーンは、非二元とは無縁の人たちを、非二元という言葉は使わないにしても、非二元的な教えに目を向けさせたということで、その功績は大きいのではないでしょうか。また、セイラーボブや、カリヤニ、ピーターのことを的確に理解していて、好意的に書いているところも好感がもてます。

私がこの本で一番感心したのは、非二元の教えの理解というのは、ともすると、特別な人にしか起きない神秘的な出来事(例えばエンライトメントのようなもの)としてとらえてしまう傾向がありますが、ロンダ・バーンはそういうものとしてはとらえておらず、誰にでも理解できる教えとして書いているところです。

そしてまた、私たちの本質は意識であり、それは手に入れたり、何かになったりするものではなく、すでにあるものだということをちゃんと書いているところです。この本の非二元(あるいは非二元的教え)は、一般の人にとっては、例えば、「I AM THAT」や「ただそれだけ」よりもはるかにわかりやすいと思います。

非二元の教えはスピリチュアルの分野でもマイナーな教えで、それほど多くの人に興味を持たれている分野ではないと思います。でも、ロンダ・バーンのおかげで、徐々に一般の人に広がっていくかもしれません。

非二元の教えを理解した人の中には、世界は幻想や夢だと知って厭世的になる人もいるかもしれません。幻想や夢だと理解したうえで、この世界の中で、引き寄せの法則はあると思って、希望に満ちて生きることは悪いことではないし、願望が実現した人にとっては、引き寄せの法則はあるということになると思います。

あれこれと書きましたが、非二元の本をあれこれ読んだけど、非二元で教えていることが何なのかよくわからないという人には、この本がわかりやすいかもしれません。とりあえず引き寄せの法則は脇に置いておいて読んでみてください。あ、新品なんか買わなくていいですよ。そんなことをすると、また印税が彼女に入って、ほら、引き寄せはある、と言いかねません。

ただ、一言だけ言わせてください。「ザ・グレイテスト・シークレット」の裏表紙には、ロンダ・バーンの写真が載っています。この本を書いた時点で、ロンダ・バーンは70歳のはずなのに、それがどう見てもせいぜい30代か40代にしか見えない。しかも美しい。その15年前に書かれた「ザ・シークレット」の写真より若く見えるやないか! 若さも引き寄せたと言うのか!と、また余計なことを書くと、しかられる。でも私の中のひねくれ爺さんがどうしても書けという。
ロンダ・バーンは変節漢ではない。変節漢とは私のこと。

2023/10/27

ロンダ・バーン

前回のつづき

私がロンダ・バーンの「ザ・シークレット」を読んだのは、2007年頃だと思います。私の住んでいる街の小さな書店でも山積みになって売られていました。すぐに引き寄せ本だとわかったのですが、当時とっても苦しい状況にあった私は、キャッチ―なタイトルにつられて、またしても引き寄せ本に引き寄せられてしまいました。当然、何も状況は変わらず、いつものごとく、本は処分しました。

詳しい内容はまったく覚えていません。そこで図書館でロンダ・バーンの本を五冊借りてきました。


ロンダ・バーンはWikipediaによると、1951年生まれの72歳(日本語版Wikiは1945年生まれになっているが、英語版では1951年生まれ)。ロンダ・バーンWikipedia
もともとはテレビのプロデューサーで、2006年にインタビューを集めた映画「ザ・シークレット」を制作。それを下敷きにして書籍の「ザ・シークレット」を書いた。(以上ザ・シークレットWikiより)

ロンダ・バーンと「ザ・シークレット」の一般知識はWikipedia を読んでもらったほうが手っ取り早いのでそちらを読んでください。要するに引き寄せの法則です。「ザ・シークレット」は「ザ・グレイテスト・シークレット」の帯の記載によると、2021年の時点で3500万部を売り上げているそうです。印税はいかほどか。勝手に想像すると、一冊100円としても35億円。映画や、その後の関連書籍の印税も含めると、彼女の手にした額は、もう一つゼロが多いかもしれない。

英語版Googleの画像検索で、ロンダ・バーンを検索していたら、彼女のカリフォルニアの家が売りに出されているという記事が出てきた。そのお城みたいな家の売値は23億9000万だそうです。(ロサンゼルスタイムズ)。まさに引き寄せそのもの。

「ザ・シークレット」はどんな本かというと、いわゆる「引き寄せの法則」がシークレット(秘密)であり、それを24人の人の言葉を引用して裏付けする形式になっている。もともとは、秘密を知っている偉大なマスターたちを探してインタビューをするという映画がベースになっている。実際には秘密でも何でもなくて、何十年も昔からある「引き寄せの法則」を化粧直しして映画、あるいは本にしたにすぎない。

彼女の巧みなところは、そのパッケージ化の仕方と売り方。登場人物の大半は著名な作家か博士であり、昔からある手垢のついた本や人を登場させていないところ。いろんな博士や作家の言葉引用して、無理やり「引き寄せの法則」にしてしまう。

「ザ・シークレット」の中に、どれほど「非二元的な教え」が書かれているかと、読み直してみました。すると、不思議なことに、「非二元的な教え」と読み取れないこともないところが何か所かある。しかも、そこから「引き寄せ」のパワーがくるのだそうだ。

p256(以下引用部は太線で表示)
宇宙の一つの意識
ジョン・ハガリン博士
「宇宙は本質的に思考から発生しました。量子力学や量子宇宙学がこれを確認しています。私たちの周りに物質も凝結した思考から出来ているのです。究極的には私達は宇宙の源です。ですから、私達は自らの体験を通し、自分の力を本当に認識した時、その力を利用して、もっともっと多くの事を達成できるようになります。何でも創造してください。私達の内なる意識の場で全てを知ってください。それが最終的に宇宙を動かしている宇宙意識でもあるからです」

p258
「神の心は一つのもので、それだけが唯一の現実です」チャールズ・フィルモア

p261
ジョン・アサラフ
「私たちは全員繋がっています。それが見えないだけです。『あちら』も『こちら』もありません。宇宙の全てのものは繋がっています。ただ一つのエネルギーの場なのです」
 私たちが全て一つだという観点から「引き寄せの法則」を考えるとその完璧さがわかるでしょう。
これで、なぜあなたが他の人に否定的な思いを抱いた場合に、それがあなたに戻って来て、なぜあなた自身を害するかが理解できるでしょう。私たちは一つなのです!
 あなたが否定的な思いや感情を放射し、害を現実化しなければ、あなたは害される事はありません。あなたには選択する自由意思があります。あなたが否定的な思考をして、否定的な気持ちになると、こと一つであることや全ての善から自分を引き離してしまうのです。あなたには否定的な思考が、全て恐れに基づいていることがわかるでしょう。恐れは分離の思考、自分が他の人から切り離された存在だと思うことから来ているのです。
(このあとも非二元的ととれる文章が続くが、ちょっと長いので省略)

p278(秘密のまとめの中の一節)
私達はみんな繋がっていて、すべては一つです。

時々、ネット上で、「引き寄せの法則」と「非二元の教え」をごちゃ混ぜにしている人を見かけますが、ひょっとするとそれはロンダ・バーンからきているのかもしれません。私としては「引き寄せの法則」は「非二元の教え」とは相容れないと思っています。

他の四冊も内容を検証してみましたが、どれも完全な「引き寄せの法則」本です。

「ザ・マジック」・・・魔法の実習法の書。28日間の実習によって引き寄せる。
「ザ・パワー」・・・ザ・シークレットの続編。この本では、イエス、仏陀、ハーフェズの言葉までも引用して「引き寄せの法則」を補足している。
「ザ・シークレット日々の教え」・・・一日一ページの日めくりになった言葉で「引き寄せ」を実践する。
「ザ・シークレット人生を変えた人たち」・・・引き寄せた人たちの実例集。

五冊の本を検証してみましたが、ここまでのところでは、ロンダ・バーンは非二元の語り部ではなく、「引き寄せの法則」の人です。これを非二元について書かれた本だと読むのはかなり無理がある。そのロンダ・バーンが、「ザ・グレイテスト・シークレット」では非二元について書いている。

次回につづく。

2023/10/24

引き寄せの法則

私は、いわゆる「引き寄せの法則」を全く信じていません。「引き寄せの法則」というのは、強く信じていると、それが現実化するという教えです。この類の教えは、「引き寄せの法則」という呼ばれ方をされるはるか昔からあって、時代によって、体裁を変え、説き方を変えて繰り返し説かれてきたものです。

私の場合は、「引き寄せの法則」系の教えをもう50年以上前から知っていて、その教えを信じては捨て去り、またしばらくしては信じては捨て去るということを繰り返してきました。最初は父からでした。父は当時、「信念の魔術」という本を私に読むようにと勧めてくれました。当時まだ中学生だった私は、この本を読んで、強く心に念ずれば、思考は現実化するのだと思うようになりました。

病この治りやすきもの」という本は、「治る、治る」と念ずることによって、病気が治るという本でした。その他に、本のタイトルは思い出せないのですが、ジョセフ・マーフィーの本も父のすすめで読んだ記憶があります。

それから月日は流れ、30代の頃に、弟が癌を患ったため、なんとかそれを思考の力で治せないものかと思い、生長の家の本(生命の實相全40巻)や日本教文社の本をたくさん読みました。それも、思考は現実化するという類の教えです。

それからしばらくして、強迫神経症、いろんな悩みや苦しみの時期があり、それを思考の力で乗り越えられないものかとナポレオン・ヒル関連の本に凝った時期がありました。また、ワクワクしたことをやれば、願望が実現するというのも一種の引き寄せと考えるなら、広い意味ではバシャールも引き寄せの教えかもしれません。

そしてまた月日は流れ、お金にひどく困った時期があり、思考の力でなんとかならないものかと思い、エスター・ヒックス(エイブラハムの教え)やロンダ・バーンの本を読んだ時期がありました。でも、そうした本に傾倒しても、しばらく必死になってやってみるものの、しばらくするとやめてしまうのです。

どうしてやめてしまうのかというと、いくら信じても念じても、何も思い通りにならないからです。お金も健康も恋愛も、何もうまくいかなかった。今だって、経済的に裕福でもないし、あえて嫌いな表現を使うなら、人から見れば負け組。家庭を持たなかったおかげで、世界を回る長期旅行はできたのですが、それだって、いい歳をしてバックパッカー宿ばかり泊まる旅でした。

社会的な成功とは程遠い人生で、人生は苦しみの連続であるというのが私の人生観です。そういう人生観を持っているからそうなるのだというのが、「引き寄せ」本の常套句なのですが、初めからそんなふうに思っていたわけではなく、人生は思い通りになると思っていた時期もありました。でも、人生が思い通りにいっている人は精神世界の本なんか読まないし、引き寄せの法則なんかに興味を示さないのではないでしょうか。苦しいから、解放されたいと思ってあれこれの本を読み、探求をするのではないでしょうか。

もちろん今では、そんな「私」は実在ではないと知っているので、何も問題はありません。セイラーボブに出会えたのは友人のおかげですが、まったくの偶然であり、非二元の教えに出会いたいと思っていたわけではなく、むしろエンライトメントしたいと思っていました。それなのに、エンライトメントはないだなんて、ひどい。

引き寄せの法則は、非二元の教えとは関係ないと思っています。セイラーボブや、その関係者から、引き寄せの法則の話を聞いたことはありません。そもそも非二元の教えでは、私たちの生きている現実は幻想であり夢なのですから、その幻想や夢の中での成功を目指してジタバタするのは意味がないような気がします。それに、セイラーボブの教えでは、思考は起こってくるものであり、それを自分でコントロールすることはできないというのが基本です。

なぜこんなことを書いているかというと、カリヤニ、ピーターと話をした時、日本ではどんな非二元の本が読まれているのかと聞かれたため、日本で出版されている非二元の教師の名前を何人かあげたあとで、精神世界の本の中でも、非二元という分野はマーケットが小さくて、あまり読まれておらず、むしろ願望実現のためのロンダ・バーンのような本の方が売れている、ロンダ・バーンなんてちっともよくないと私は言いました。

すると二人が、驚くべきことを教えてくれました。ロンダ・バーンは、カリヤニのミーティングにも出たことがあり、カリヤニからいろいろと学んで本を書いたが、その本は引き寄せの法則のさらに上にある教えの本として、「ザ・グレイテスト・シークレット」を書いたというのです。

私が読んだのは「ザ・シークレット」が最後で、その後のロンダ・バーンの本は気にもとめていませんでした。ザ・グレイテスト・シークレットは2021年4月発行なので、最近はもうあまり精神世界のコーナーへは行かない私が知らないのも無理はありません。

それにしても、引き寄せの法則の教えのロンダ・バーンが非二元の教えの本を書くとはどういうことだろうと思いました。それまでの自説を曲げて、もっと上の教えがあるよなんて本を書く変節漢は許せないと思い、そんなのは良くないのではと言ったのですが、カリヤニはロンダ・バーンのことを悪くは言いませんでした。

家に帰ってからロンダ・バーンの本を読めばいいかと思い、それ以上のことは聞きませんでした。帰ってきてさっそく図書館へ行き、ロンダ・バーンの本を調べたところ、多治見市図書館には7冊のロンダ・バーンの本がある。非二元の本なんて、誰の本も一冊も置いてないのに、ロンダ・バーンだけで7冊もある。人間の欲望の深さが知れようというもの。

そのうち2冊は貸し出し中で、肝心のザ・グレイテスト・シークレットは貸し出し中だった。いつ返却になるかわからないので、しかたなく、ザ・グレイテスト・シークレットはAMAZONに中古を注文し、在架の5冊を借りた。

次回に続く。

2023/10/20

カリヤニとピーターがやってきた。

「10月になったら、観光旅行で日本に行くから、機会があれば会いましょう」というメールをもらったのは4月のこと。待つこと半年。日程が届いたら、京都がメインの旅。京都なら日帰りできると、カリヤニ夫妻に会ってきました。

8年前、カリヤニとピーターは私をメルボルンの自宅に招いてくれて、ボブを囲んでとても親切にしてくれた。カリヤニには、その翌年にも会っているが、ピーターとは8年ぶり。何か手土産をと思ったが何にしたらいいのか思いつかない。名古屋には美味しい銘菓はたくさんあるが、それをオーストラリアの人が美味しいと思うかがわからない。あれこれ考えたあげく、スーパーで売っているお菓子をたくさん買って、浮世絵の絵はがきを添えて持っていった。


海外のスーパーに行っていつも思うのは、日本のように美味しいお菓子が売っていないということ。メルボルンのスーパーでは、せいぜいポテチ、クッキー、ビスケット、チョコレートぐらい。万一口に合わなくてもお土産にしてもらえばいい。


新幹線に乗って、ちょっとした旅気分。名古屋から30分で到着。彼女たちの旅の時間の多くを使ってしまっては申し訳ないし、会って話をするだけで十分だと思っていたので、午後に待ち合わせ。さりとて半日あるので、カリヤニのホテルから歩いて行ける範囲をちょっと観光して夕食を食べる計画。

ホテルのロビーで再会の挨拶。お茶を飲みながら、今日の打ち合わせ。さっそく歩いて八坂神社へ。

本殿の前で、「お賽銭を投げて、二回頭を下げて、二回手を叩いてお祈りする」と手本を見せたら、ピーターも同じようにやってお祈り。
「みんなは何をお祈りしてるの?」と聞くので、ここは縁結びの神様として有名だから、良いパートナーが見つかるようにとお祈りしてるよと教えたら、
「ひえ~つ、もうカリヤニがいるから要らないよ~」だって。
カリヤニがおみくじを引いたら中吉でした。


丸山公園を抜けて知恩院へ。友禅苑という庭園を見学。カリヤニもピーターも日本庭園が大好きだそうで、喜んでもらえた。


さらに歩いて祇園の花見小路通へ。平日だというのに、結構な数の外国人観光客でにぎわっていた。やっぱりここが外国人にはうける。

さて夕食。もちろん京都には何回か来たことはあるが、最後に来たのはもう15年ぐらい前。全然詳しくない。ネットで事前に夕食の店をあれこれ検索してみたが、どの店が良いのかよくわからないうえに高い。どうしたものかと思ったが、気取った店なんかより、私がいつも行くような庶民の行く店がいいだろうと思って、スシローにしようと思った。事前にネットで調べたところ、四条にあるスシローは外人観光客に人気で、予約しても1時間以上待たされることがザラだと口コミにあった。

何か他にないかとGoogle mapを見ていたら、くら寿司がある。くら寿司は全然混まないと判明。しかも、そこは個室風のつくりになっていて、まだ多少コロナを恐れている私にはもってこい。くら寿司で夕食。全然混んでなくて、待ち時間ゼロだった。メルボルンにも回転ずし屋は何軒かあり、彼女たちもよく行くという。でも、本場日本の回転ずしだから、これでいいのだ。

夕食後、また歩いてホテルへ。ホテルのロビーでお茶を飲みながら、またお話。この旅のこと。お互いの近況。非二元の話など。街歩きをしながらも、あれこれと話をしたが、話は尽きない。

メルボルンのカリヤニの家に行った時、とても大きな家と庭に驚いたが、そこは山火事の多いところなので、引っ越す予定だと言っていたのを思い出し、引っ越したのか聞いたところ、携帯に入っていた新しい家の庭の写真をたくさん見せてくれた。

ピーターはガーデニングが好きだそうで、自分で庭を手いれしているという。その庭がどうみても大きい。藤棚のコーナー、日本庭園風のコーナー、木がいっぱい植えてあるコーナーなどがある。「今度の家も馬鹿でかい(huge)家だね」と言ったら、「そんなことはないよ。日本の家に比べたら大きいけど、オーストラリアでは普通だよ」とピーター。そういう問題じゃないでしょ!

非二元の話では、彼女たちがU.G.クリシュナムルティに会った時の話がとても興味深かった。非二元の話には、いくつか参考になるような話があり、シェアしたいと思いますが、長くなってしまうので、また別の日に書きます。

話は尽きないが、二人の貴重な旅の時間をあまり多く使わせてもらってもいけないと思い、一時間半ほど話したあとで帰路につきました。別れ際、まだコロナの影響もあるいし、握手をしたものかどうかと一瞬迷っていたら、カリヤニがしっかりハグしてくれて、ホッペにチュー。ピーターもがっちりハグ。あちらにしてみたら、ごく普通の挨拶なんでしょうけど、こっちは慣れないので照れることしきり。

二人に会って思ったのは、彼女たちはまぎれもなく非二元の教えを体現して生きているということ。私と話をするときも、しっかりと目を見て話し、決して上から目線ではなく、気取ることもなく、あなたも私も同じ一つのものだよという雰囲気を感じさせる。一緒にいて、なんともいえず心地良い。

非二元の教えを理解することはそれほど難しくない。でも、それを体現して生きることはそれほど容易ではない。さらに、それを体現して生きている人が、非二元の教師となって教えることは誰にでもできることではない。非二元の教師になること自体はそれほど難しくない。誰かの教えを読んで、丸暗記するか少しアレンジして、あとはオウムのように繰り返しそれを話せばできる。

ただ、その人が心底教えを体現して生きているかどうかが問題。それは、その人に直接会って、目と目を見つめあって話せばわかる。それはボブが言うところの「共鳴」であり、「heart to heart」というもの。

カリヤニとピーターは、もう何十年も非二元を教えていて、不定期ではあるものの、今もミーティングを続けている。本物の非二元の教師は稀有な存在であり、教えを理解したからといって、誰でもなれるわけではない。なったとしても本物であるかどうかはすぐにバレてしまう。カリヤニとピーターは、信頼に足る非二元の教師。

カリヤニとピーターとの再会は忘れられない思い出になりました。帰ってきて、カリヤニとピーターのホームぺージやYouTubeを見返していたら、参考になるようなことがいっぱいある。了解が得られたら、少しづつそれもブログに載せていきたいと思います。

2015/01/10

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ③

メルボルンに着いた翌週に、「ただそれだけ」を書いたカリヤニが、彼女の家へ昼食に招いてくれた。

私はメルボルンに着く前にカリヤニにメールして、ボブのミーティングの詳細を尋ねた。
カリヤニは、私が数日しか滞在しないと思ったらしく、ちゃんとボブの教えを理解できるようにと、個人的に招待してくれたのだという。(たまたま久しぶりにカリヤニがボブに会う口実として私を招いてくれたようです。すべての来訪者にそうしているわけではありません。)
                                        ボブと私
                                  真ん中がカリヤニ・左は夫のピーター

そこで、私は、かねてから疑問に思っていたことを聞いた。

以下は、ボブの家に置いてあるパンフレットからの抜粋(同じ文章はボブのホームページにも掲載あり)

The idea of enlightenment or self-realization as a onetime event or a lasting and permanent state or experience, is an erroneous concept.

エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは誤った考えです。(訳は拓)

要するに、この文章を読む限りでは、エンライトメント(覚醒、悟り)なんてものはありませんと言っているように取れる。
そこで私は、ボブ、カリヤニ、ピーターを前にして、この文章の意味するのはどういうことなのか?エンライトメントはしないのか?と聞いた。

そしたらボブは、「エンライトメントはありません。なぜなら、あなたはもうそれなのです」と言った。
そこで私は、「いいえ、私は覚醒なんかしていません。それを求めてここへやってきたのですから」と言うと、今度はカリヤニが、

「そんなものは無いのよ。私たちはみんな同じ。もうすでに、それなのよ。それに気づいていようが、いまいが、もうそれなのよ」

テープに録音していたわけではないので、言い回しは正確とは言い難いが、こんな感じのやりとり。

「ということは、私たちは皆エンライトメントしているけれども、気づいていないだけですか?それに気づいた時がエンライトメントなのですか?」と、なおも尋ねた。

「エンライトメントするという考えそのものが間違っている。誰もエンライトメントなんかしやしない」と今度はピーター。
私は三人の言っている意味がわからなかった。ボブは、「覚醒などない」と言う。
ということは、ボブも覚醒していないということか?

なおも質問を繰り返したが、なぜエンライトメントがないのかわからないままランチは終了。

私は覚醒するためにここへやって来た。それが無いとはどいうことなのか。
メルボルンにやってきて二週間ほど経過し、本も何冊か読み、ボブの話も少しは聞き取れるようになったので、ミーティングで思い切って質問した。

「私がここへ来て二週間、あなたの教えを大体理解しました。でも、まだ私に覚醒が起きません。一体それは、いつ、どのようにして起こるのでしょうか」

「エンライトメント(覚醒)なんて起きません。なぜなら、あなたはもうすでにそれ(覚醒している)だからです」とボブ。

「いいえ、私はまだエンライトメントしていません」

「では、あなたは、エンライトメントはどういうふうに起こると思っていますか?」とボブ。

「いろんなマスターの話によると、急に周りのものが光に包まれて、すべてのことが鮮明で、真理が理解できたと言う人もいれば、突然に幸福感がとめどなく湧き起ってきて、それが続くと言っている人もいます」

「そんなものは単なる経験です。それは誰にでも起きることで、やってきては去っていく。それをエンライトメントと結び付けてはいけません。エンライトメントなんてことは起こらない。なぜならあなたはもうそれなのです(You already are!)」

なおも同じ質問を繰り返すと、ボブの脇に座っていたギルバートが言った。
(ギルバートはもう10年以上ボブのもとにいて、彼がテープを起こして編纂した「What is wrong right now unless you think about it?」という本のおかげで、ボブは広く世界に知られるようになった。)

「もしヴィクトリア・マーケットへ行って、エンライトメントが売っていたら、あなたは買ってくることができるかい?たとえ、売っていたとしても、どれがエンライトメントかわからないんじゃ、手に入れようがないじゃないか」

そう言われて、反論のしようがなかった。私は、エンライトメント(覚醒)するという状態が、どういうものかも知らずに探し求めきた。

ボブの世界には、覚醒する(エンライトメントする、悟りを開く)という概念がないということはわかった。だとすると、ボブはエンライトメントしていないのか。
私は、こっそりとギルバートにそのことを聞いた。

「ボブの意識は、お釈迦様やキリストと同じレベルにある。でも、エンライトメントしたわけじゃない。もともとそうなんだ。そして、あなたも私も同じだ。私たちは、気づいていようがいまいが、一度もそこから外れたことはない」

明日から詳しく書きますが、セイラー・ボブ・アダムソンの教えでは、エンライトメントする(覚醒する・悟りを開く)ということは、一切ありません。
私たちは、気づいていようがいまいが、もう覚醒しているのです。

注:英語で、(覚醒する、悟りを開く)という表現は、(become enlightenment, be enlightenment, attain enlightenment)。enlightenという単語だけで、(覚醒する、悟り)を開くという意味の動詞としては使いません。