2021/11/13

物は実在か?

セイラーボブは、「物は実在ではない」と言いました。その理由を列挙すると、だいたい以下のようなものでした。

1 「実在」の定義は、「永遠に変化しないもの」であり、永遠に変化しないものなどない。どんなものでも、時とともに形を変え、やがては消えていく(見えなくなる)。

2 現代の量子力学において、極微の粒子は質量を計測することもできないようなものであり、物が存在するとは言えない。私たちはスカスカの空間を見て物だと思っている。

3 物は言葉によって概念化されたものであり、実在とは言えない。

では、仏教では物の実在についてはどう言っているのかというと、上記の三つと同じようなことを言います。それは、時代によって、様々に変化する仏教の中で、いろんな説かれ方をします。

釈尊の直接の教えである初期仏教では、五蘊(ごうん)が説かれ、それによって、「私」というものは要素の集まりにすぎないと説明されました。それがのちに「私」だけではなく、あらゆる物がそうであると説かれるようになりました。

そして、あらゆる物も要素の集まりであり、物としては存在するけれども、永遠に変化しないものではなく、時とともに変化して消えていくため、実在ではないと説きます。これは諸行無常と言われ、上記の 1 と同じことを言っています。

この時点での仏教では、物は存在するけれども、実在ではないという解釈です。ここまでは、これまでのブログで書きました。やがて仏教は時代とともに変化していき、大乗仏教にいたっては、物は存在しない。一切は空(くう)であるという空の理論へと変化していきます。

その変化した仏教について書く前に、一般論として、私たちがどういうふうに物を認識しているのかについて考えてみます。これは、唯識の本を読むと出てくる話で、これから書く内容は、そういう本をもとにして書いています。

私たちが物を視覚によって認識する場合、どういうしくみで認識するのか考えてみます。

例えば、台所のテーブルの上に一個のレモンがあったとします。それを私たちが見た時、そのレモンに反射した光(電磁波の波長)が、眼の角膜、水晶体を通り、網膜へと届き、網膜上にレモンの像が映ります。

網膜には識別機能がないので、何らかの形で脳へと伝達されて、脳がレモンを識別しているとされています。しかし、レモンの像がそのまま脳に伝達されているわけではないようです。というのも、脳には像を映し出す装置がないからです。脳にはスクリーンもディスプレイもなく、神経、タンパク質、脂肪の塊です。

網膜から脳へは、像が映像として伝達されるのではなく、なんらかの形で信号化されて、神経経由で脳へ伝達され、脳はその信号を読み取って、何らかの形で、レモンという像を再生しているはずです。そして、脳はその像を見て、過去の学習体験と結びつけ、「あ、レモンだ」と思います。場合によっては、酸味が想起され、口の中に唾液が出てくるかもしれません。レモンが好きな人は、手に取ってかじってみようと思うかもしれません。

さてここで問題なのは、そのレモンが本当に存在していると言えるかということです。レモンに反射した光は信号に変えられて脳に届き、脳はその信号をレモンというものに作り替えて映像化します。その映像を脳がレモンだと認識しています。

つまり、私たちは、実際のレモンを見ているのではなく、脳の中で再生されたレモンを見て、過去の記憶に照らしてレモンだと認識しているということになります。仏教的に言うならば、心が作り出した像を心が見ているということになります。

言い方を変えると、私たちは心が作り出した世界を見ていることになり、心がなかったら世界は存在しないことになります。

何をバカなことを言っているんだ、実際にレモンがあるからレモンが見えているんだろ、と言われるかもしれません。

でも、例えばそのレモンをかじろうとして手に取って見たら、それがロウで作られた食品サンプルだったとわかったらどうですか? 「本当のレモンじゃないのか、ちぇ!」となります。つまり、本物のレモンを見てはおらず、脳の中で再生された架空のレモンを見ていたことになります。もし、直接そのレモンとおぼしき物を認識できていたなら、食品サンプルだとわかったはずです。

長野県の燕岳(つばくろだけ)の山小屋から、満天の星空を眺めて感動したことがあります。空を埋め尽くす星々は実在するのでしょうか? 私たちが肉眼で見ている星の光は、何万光年も昔に星から放たれた光を見ているのであって、今この瞬間の光ではありません。ひょっとすると、もう消滅して存在していない星を見ているのかもしれません。

私たちは、自分の外にあるものが実在であるかどうかを認識する機能を持っていません。脳の中で再生された像を見て判断しているにすぎません。言い方を変えると、世界は脳の中にある、脳の中にしかないということになります。

また、バカなことをいうな、と言われそうです。では触覚はどうなんだ。例えば、石は実在か。石を手に取ってみれば、手が石の肌触りを感じ、石の重さを感じるから、石は実在するではないかと言われるかもしれません。

でも、手が感じているのは、石に触れている肌触りと重さという情報にすぎません。それを石たらしめているのは、私たちの脳です。脳が肌触りと重さという信号を石だと認識しているにすぎません。正確な言い方をするなら、「私は私の手の感触、感じた重さを私の脳内の情報に照らしてみて、これは石だと推定しています」ということにすぎません。

私たちは、五感でしか世界を認識することができません。そして、五感で受け取った情報を脳で再構築して、それを認識しています。世界は脳の中にあるにすぎないということになりませんか? 世界は外側にちゃんとある、そう言っておかないと、病院に連れていかれるかもしれないので、世界が実在だということを否定はしません。でも、正確に言うなら、「私たちは世界を直接認識する方法、機能を持ち合わせていない。経験から、そこに世界があると思っている」ということになりませんか?

もし五感を失くしたら、どうやって世界を認識することができますか? そこに世界はあると、どうやって知ることができますか? 五感を使わずに世界を知るためには、体の外に出なくてはなりません。そんなことができる人がいるとは思えません。

確かにそこには何かがある。
でもその何かが単なるエネルギーや波動のようなもので、それを脳が再構築しているとしたらどうでしょう。

イルカやコウモリは人間が聞くことのできない超音波を聞くことができます。ボア科やニシキヘビ科の蛇は、人間が感知することができない赤外線を感知する器官を持っています。鳥や一部の昆虫は、人間には見えない紫外線を見ることができます。逆に、猫や犬は人間と違って、二色しか見えないと言われています。彼らは、私たちとは違う世界を見ています。

物は本当に実在するのでしょうか?
私たちは、それを確かめるすべを持ち合わせていません。
仏教は様々な説き方で、「物は実在ではない」と説いています。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム