心(しん)と心所(しんじょ)
五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。
五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に不随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)
ここまでは前回のブログに書きました。心と心所について、もう少し詳しく書きます。五根(眼・耳・鼻・舌・身)が、認識対象である五境(色・声・香・味・触)と触れ合うと、そこに反応が起こって認識が生じる。その認識そのものを心(しん)といいます。
例えば、レモンを見ると、その色(いろ)や形が認識される。それが心(しん)。それに付随して、(すっぱいかも)(食べたい)(新鮮そうだ)というように、心に付随して起こってくる反応を心所(しんじょ)という。
心所は大きく分けて六つのカテゴリーがあり、その中に46の構成要素がある。どんなものがあるかは、Wikipedia 五位 を参照してください。全部は説明できないので一つだけ説明すると、例えば夏の暑い日に冷たいかき氷を食べると、受(じゅ:感受作用)という心所が起きる。
受には三種類(楽・苦・不苦不楽)の三種類があり、この場合は楽という受が起きる。なぜなら、かき氷を食べることは好ましいことだから。もし、かき氷を大嫌いな人が、人から無理やり食べさせられた場合は、苦という受が生じる。
では、心と心所は、私たちの体のどこあるのか。現代人なら脳の中にあると考えるでしょうし、昔の人なら心臓の中と考えるかもしれません。でも、倶舎論では、心と心所は特定の空間には存在しないと考えます。あえて言うなら、体全体に遍満しているということになります。
心所は心(しん)から起こり、心(しん)は五根によっておきます。五根は色(しき:物質)であると書きました。でも、物質ではない、もう一つの根があります。それは意根といって、心のことです。
私たちが、何かを思い出したり、何かを考えたりして、その結果として心所が起きる場合、具体的な根(原因)なしで起きるのは、おかしいということになり、倶舎論では物質ではない根があるはずだと考えました。
でも、その根は物質ではない。その根はどこにあるかというと、一刹那前の心が根として働くのだという理論づけをしました。
「私」とは、肉体を構成する色法と、そこに遍満する心・心所を合わせた全体の仮称であり、私などという実体はもともとどこにも存在しないということが重要です。この世で生きる生命すべてが無我であり、それは諸要素の集合体としてのみ機能しているということ。諸法無我です。
刹那滅
仏教では、あらゆるものの存在を刹那滅(せつなめつ)という考え方でとらえます。刹那とはきわめて短い時間のこと。あらゆるものは、無数の基本的要素が法(ダルマ、縁起)によって因果関係を結び、存在を構成します。ただし、その存在は一瞬間(刹那)だけだというのです。瞬間的に物事は起こり、瞬間的に消滅する。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また瞬間に起こり、また消滅する。
私たちにとって、持続して存在しているように見えているものは、瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものであるという考え方を、刹那滅といいます。
私たちは通常、現在だけが実在であり、過去や未来は実在しないと考えています。例えば今、音楽を聴いているとする。音楽は音の連続なので、ある瞬間に音が聞こえる。その音を聞いているのはその刹那だけ。次の瞬間になれば、その音は消滅して別の音が現れるため、前の音はもう存在しない。また、未来の音はまだ現れてはいない。あるのは、この刹那に現れている音だけ。これが一般的な考えかたです。
しかし、倶舎論の刹那滅では、「現在の法が実在しているのと同様に、未来の法も過去の法も実在している」と考えます。その理由は三つ。一つは、煩悩の発生要件。私たちは様々のものを対象として煩悩を起こす。過去のものや未来のものを対象として煩悩を起こすこともある。ということは、過去や未来のものも実在であると考えざるえない。
二つめは、「認識できるものは実在する」というインドで承認されている考え方。「私たちは、実在するものしか認識できない」という理屈。過去や未来のものでも、認識している以上は実在していると考える。
三つめは、業の因果法則。今現在作っている業が、遠い将来、その結果を生むとするなら、その時間的に隔たった未来の法が実在すると考える。現在行っている業が、未来の法に信号を送り、因果則が成立すると考える。
これを説明するのには、映画のフィルム映写機を使うと理解しやすい。映写機は、上下二つのリールとその中間にある投射装置でできている。上のリールには、今から上映されるフィルムが巻かれていて、投射済みのフィルムは下のリールへと巻きとられていく。
フィルムというのは、アニメーション映画かパラパラ漫画を想像してもらえばわかるように、登場人物を一コマ一コマ、少しずつ移動させることで動いているように見える。コマの中の登場人物は静止している。倶舎論では、私たちの世界がそうなっているという。
もし世界が、一コマずつ一刹那に生じては消えていくものだというなら、あらゆる存在物は静止したものであるということになる。ところが、私たちの認識能力は、それが連続したものとしか認識しないため、世界が変化しているような錯覚をする。「私」という存在についても同様に、そこに「私」がいて、時間とともに変化しているように思ってしまう。
ただし、この映写機の例えには一つ問題がある。映写機の未投射のフィルムは順番が決まっているが、私たちが経験する世界では、未来は確定していない。そのため、未投影のフィルムの並びは決まっていない。これが、倶舎論の説く時間論。
五位七十五法では、この世を構成する要素は七十五種類の法(要素)でした。しかし、その法の中に時間は含まれていない。つまり、時間は実在ではなく、実体のない仮設のものということになる。実際には時間などというものはなく、私たちがそう錯覚しているにすぎない。
フィルムの説明で、倶舎論の説く刹那滅はわかったと思うのですが、では、どうして前の一コマと同じような一コマが次に現れるのかという疑問がわいてきます。一コマ一コマ生じては消えているのであれば、どうしてまったく別のシーンが登場しないのでしょうか。
実際問題として、前のコマと全く関係がないコマが次に現れたら、映像はつながらず、無茶苦茶になって、何が何だかわからなくなると思うのですが、それが連続しているかのごとくに、似たような景色が現れるのはどうしてでしょうか。
それは因果(いんが)によってです。倶舎論では「六因(ろくいん)、五果(ごか)」という因果の法則で説明します。六つの因(げんいん)によって、五つの果(結果)をもたらすというものです。その因の一つに同類因(どうるいいん)というものがあります。
同類因とは、法(構成要素)が未来から現在へ、現在から過去へと変移する際に、「未来に存在している法の中から、現在とよく似た法」を引っ張ってこようとする傾向をもっているというものです。
ある法(構成要素)が現在に現れてなんらかの作用を行うと、それはおのずから、あとに自分と似た法を引っ張ってこようとする一種の継続力を生む。したがってもし特別な事情がなければ、その直後には、それと同類の法が現れることになる。
このプロセスが連続すれば、「同じ法がずっと連続して現れ続ける」ように見えるという状態になります。しかし実際には別の因果則の影響を受け、連続性が断たれる場合も多い。
例えば、テーブルの上に一個のリンゴがあったとする。それは色法でできている。細かく言えば、色・香・味・触の各法でできている。もし、他の因が作用しなければ、そのリンゴはずっとそのままということになるが、実際にはそうならない。
一見、何の変化もないように見えるリンゴでも、半年も置いておけば、やがて腐ってしまう。あらゆるものが実際には少しずつ変化していき、年月とともに姿を変えてゆく。花瓶や石でさえ、長い年月の間に姿を変える。
アビダルマの世界にも、永遠に変化しないものはない。諸行無常である。
初期仏教では、こんな複雑な理論を展開することはなかったのに、部派仏教では複雑な理論を発展させました。二千年前に、これほど難しい理論を発展させたというのは驚きです。
この記事は 仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫) を参考、拝借して書いております。興味のある方はぜひご一読を。
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア)