釈尊のもともとの教えは対機説法(悩みを持つ個人に対して個別に説いた教え)であり、決まった聖典というものはありませんでした。釈尊の死後、弟子たちによって、釈尊が語った教えが口頭で伝承され、それがのちに、ニカーヤ(阿含経:あごんきょう・アーガマ)という一連の経典となりました。阿含経はそうした断片的な教えの総称のことです。弟子たちは、そうした断片的な教え(ニカーヤ:阿含経)をたよりに修行をしていました。
釈尊の死後100年ほどたつと、教団が分裂を始めます。最初は大きく二つに分裂し、その後さらに20ほどへと分裂して、たくさんの部派が生まれます。それを部派仏教といいます。
部派仏教は、のちに起こった大乗仏教(乗は乗り物、教義を意味する。偉大な教義の意)側から、小乗仏教(劣った教義)と呼ばれました。大乗仏教は北伝といって、中国やチベット、朝鮮半島、日本に伝わりました。小乗仏教はスリランカを経由して東南アジアに伝わり、現在もタイなどで存在します。そこでは今でも釈尊存命時と同じように、出家した僧は結婚することなく、托鉢によって生計を立て、修行に専念しています。彼らは、自分たちの仏教をテーラワーダと呼び、それこそが釈尊以来の正統であると自認していて、日本の仏教(大乗仏教)を、僧侶たちの生活も含めて、堕落したものと見なしているそうです。
釈尊が亡くなって300年から900年後、部派仏教ではさかんに阿含経の解釈研究がなされ、解説書が作られました。そうした営み、文献研究をアビダルマ(法:ダルマについての研究という意味)といいます。そのため部派仏教はまた、アビダルマ仏教とも言われています。
なぜそのような研究、解説書が必要だったかというと、断片的な教えではなく、体系化された一つの解釈書を必要としていたからです。
部派仏教の教えは、大半の原典が残っていないのですが、後世になって部派仏教の教えを解説した解説書がいくつか残っています。部派仏教の中でも特に有力だった部派の一つに説一切有部(せついっさいうぶ)という部派があり、その教えを解説した注釈書の一つが、世親(せしん:ヴァスバンドゥ 400~480年)の倶舎論(くしゃろん:阿毘逹磨倶舎論:あびだるまくしゃろん)です。
僧侶や学者の間では、「唯識三年、俱舎八年」と言われていて、もし仏教の唯識(ゆいしき)の教えを習得しようとするなら、その前に俱舎論を八年間学ばないと習得できないというのが一般論だそうです。それも、漢文やサンスクリッドなどの古代インド語が読めることが前提での話ではないかと思われます。
原典や、それを翻訳したものは、とても私の手におえるものではありません。私でも理解できるものはないかと探して、佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を見つけました。この本は倶舎論の入門書として、とてもわかりやすい説明がされています。私がこれから書くことは、この本をもとにしています。この本はアビダルマの世界観を知ることができ、とても有益な本なので、興味のある方は、ぜひ一読されることをおすすめします。
般若心経をはじめとする日本の仏教(大乗仏教)では、「すべてが空である」ということが強調されますが、倶舎論ではそうではありません。「この世の多くの存在は虚構だが、その奥には間違いなく実在するものがある」と言います。
このブログの初期仏教の回、五蘊のところで、「私」は実在ではないと書きました。その思想が発展して、物も実在ではないと説くようになりました。ミリンダ王の問いのところで出てきたように、例えば車は実在か? 車輪が車なのか? 荷台が車なのか? そうした様々な部材の集合体を車と呼んでいるだけで、車という存在は実在ではないと説きます。
ほとんどすべての物は、私たちが勝手に名前をつけてそう呼んでいるだけで、実在ではありません。では、そこには何もないかというと、そうではありません。そこには、その物を構成する要素があると説きます。仏教では、その構成要素のことを法(ほう)と言います。また、法には原理、法則という意味もあります。その法によって世界は構成されている。それが倶舎論のおおもとの世界観です。
釈尊は、無我、無常を説きました。私はおらず、不変なる物(常なる物)は存在しないと説きました。では、私たちが、そこにあると思う人や物は一体何なのか、どうしてそう思うのかということを定義する必要があります。そこにあるのは、実在としての私や物ではなく、構成要素、法則、原理(法:ダルマ)であり、その理論的裏付けとして、部派仏教では五位七十五法が生まれました。これは、五蘊とは別の分類法です。(この他にもいくつかの分類法があるのですが、仏教は時代によって、解釈する人たちよって変化して、様々な分類法が生まれました)
五位七十五法
説一切有部の世界観では、我(が)や実在としての物の存在は否定されます。ただし、個々の法(自性を維持するための法則・原理、構成要素)は有るという立場をとります。それゆえに、説一切有部と呼ばれています。説一切有部では、あらゆる存在を五つに大別し、それをさらに七十五に分けて定義しています。これを五位七十五法と言います。
要するに、現象としての世界のすべては、七十五の構成要素(法則・原理)に分けることができるというもの。
そうして分類することで何を言おうとしているかというと、この世界を構成する人も物も実在ではなく、それを構成する構成要素(法則、原理)のみがあるということを言おうとしています。五位七十五法の全体を説明するのは私の手に負えないし、このブログの趣旨でもないので、概略だけ書きます。
五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。
五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に付随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)
これでは何のことかわからないと思います。Wikipedia 五位 を読んでも、やっぱりわからない。佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を読んでもらうのが一番いいと思うのですが、それでは先へ進めないので、私なりの勝手な要約で説明させていただきます。
例えば、レモンがテーブルのあったとします。物質であるレモンが色(しき)。レモンを見て、こころ(意識、脳)の中に映像として現れるものが心(しん)。その、こころに現れた映像(心)に不随して起きる(すっぱそう)(かじりたい)という心(こころ)の反応が心所(しんじょ)。
そうした色、心、心所がバラバラにならないように結びつけておく一種のエネルギーを心不相応行の一つの得(とく)という。他にも心不相応行は13あるが、説明は省略。それらは、物質でも心でも心所でもない、一種のエネルギーのようなもの。
無為法(むいほう)とは、物が存在する場所としての空間(虚空:こくう)や、煩悩が消えた状態(択滅:ちゃくめつ)など、因果関係によって生滅する可能性のない法のこと。有違法(ういほう)とは、因果関係によって生滅する可能性のある法のこと。色・心・心所・心不相応行の四つは、因果関係によって生滅する可能性のある法なので、有為法と呼ばれる。
「物は存在するのか?」という、このブログのテーマに関係するのは色(しき)なので、色(しき)について説明します。色(しき)は物質的なもの、と書きました。
例えば、石を見た場合、常識的な考え方として、そこに石があるから石の色や形が見えるのであり、手に持てば石の肌触りや重さを感じるため、そこに石があると考えます。ところが、倶舎論の場合は、その逆です。
実在するのは、色や形、肌触りや重さだけです。それを五感を使って認識し、その色や形、肌触りや重さという要素から、石を意識の中で想定しているにすぎません。実在するのは、その構成要素である色、形、肌触り、重さだけです。その構成要素のことを色(しき)と言います。
色(しき)は11あります。そのうち、無表色(むひょうしき)は、説明が難しいのと、このブログに関連していないので省略。(仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) p122参照)。残りの10の色(しき)について説明します。
眼・耳・鼻・舌・身(げん・に・び・ぜつ・しん)…この五つを五根(ごこん)と言う。認識する側の物質。
色・声・香・味・触(しき・しょう・こう・み・そく)…この五つを五境(ごきょう)と言う。認識される側の物質。ここに出てくる色(しき)は、色(いろ)と形と言う意味。
五根は、五感をつかさどる感覚器官。その五根によって認識される物が五境です。眼で何かを見た時の、いろや形を色(しき)と言い、耳で聞いた音を声(しょう)、鼻で嗅いだものを香(こう)、舌で味わったものを味(み)、身(しん:体)で触れたものを触(そく)と言う。
なぜ物質を五根と五境に分けているかというと、根は心とつながっているからです。例えば、眼で何かを見ると、その認識は心の中で起きる。眼は物質でありながら、心とつながっている。眼は他の物質とは異なる。石は心とは結びついていない。同様に、耳・鼻・舌・身も心と結びついている。心に結びついている法(根)と結びついていない法(境)で物質を分類しています。
ここで重要なことは、倶舎論では、五境を物質として分類しているということ。例えば、石を手に取った場合、石があるのではなく、手が感じる肌触りと重さという触だけが実在だということ。レモンを見た時、レモンがあるのではなく、眼が認識する黄色とレモンの形だけが実在だということ。色(いろ)や形を物質として分類しています。
石やレモンは心の中で勝手に想像したものであり、実在ではなく、仮想の存在であり、法ではない。実在するのは、石の肌触りやレモンの色形だけと説く。
倶舎論では、色(しき)を認識する物質(根)と、認識される物質(境)を分けて分類している。でも、眼は認識される物質でもあるのではないか、という疑問がわくかもしれませんが、倶舎論では、眼が物を見ているのではなく、眼の奥にある眼根(げんこん)という物質が物を見ていると説きます。
同様に、耳の奥にある耳根(にこん)が聞き、鼻の奥にある鼻根(びこん)が臭いをかいでいます。眼そのものは眼を守るための単なる土台であり、物を見る能力がないと説きます。そのため、眼が見えない時は、眼に何か問題があるのではなく、眼根に問題があるのだといいます。
では、その眼根を見ることができるのかというと、それは眼の奥に細かく点在する物質であり、決して見ることができないと説きます。他の五感の構造も同じです。
まとめるとこうなります。倶舎論では物質世界を、「認識する物質」と「認識される物質」に厳密に分ける。両方を兼ねるものはない。認識する物質とは、肉体に備わる五種の感覚器官、(五根:眼・耳・鼻・舌・身:げん・に・び・ぜつ・しん)。それは「認識されることがない」から、肉体上に備わっていても、私たちがそれを認識することはできない。
「認識される物質」とは何かといえば、その五根以外のすべての物質。石を見る時、石は「認識される物質」ではなく、石の「いろとかたち」が眼によって「認識される物質」。石そのものは仮想のものであり、実在ではない。
では、その「認識する物質」と「認識される物質」は何でできているか。それは、極微(ごくみ)という粒子でできている。粒子は、四大種(しだいしゅ:地・水・火・風)と呼ばれる基本粒子と、所造色(しょぞうしき:眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触)と呼ばれる可変粒子の組み合わせでできている。詳しい説明は省略しますが、要するに、色(しき=物質)はすべて粒子でできていると説いています。
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア)