2025/03/11

「仏教は、いかにして多様化したか」佐々木閑 著

世界史のリテラシー 仏教は、いかにして多様化したか: 部派仏教の成立 (教養・文化シリーズ)

ギルバートから、仏教の中に非二元があると教えてもらってから、仏教の本をあれこれと読んで学びました。確かにそこには非二元がありましたが、今一つ鮮明ではありませんでした。学んでいく途中で思ったのは、仏教の根本的な教えは諸行無常・諸法無我なのに、諸法無我、つまり、「私」は実在しないということをはっきりと全面に押し出して説く人が、どうして日本の仏教界にはいないのだろうということでした。

そして佐々木閑先生のYouTubeに出会い、やっと仏教の中にある非二元を鮮明に説いている人を見つけたと思いました。私のブログの中の、禅・Buddhism仏教その他の中にある佐々木先生のYouTubeを見ていただければ、仏教がいかに非二元の教えかということがわかると思います。

でも、佐々木先生以外の日本の仏教界の方で、「私」は実在しないということを前面に押し出して説いてみえる方を知りません。私の抱く仏教のイメージは、葬儀や法事を執り行う僧、よくわからない経典、禅宗の座禅、密教などの修行といったイメージで、非二元的なイメージは浮かんできません。まれには世親や唯識について説いてみえる方もみえるのですが、学問的であり、広く一般の人に説いているというわけではありません。

この本を読んで、その理由がおぼろげながらわかった気がしました。この本は、インドで仏教がどのようにして起こったのか、釈迦の死後教えがどのように広まっていったのかが詳しく書かかれています。釈迦の死後、教えの解釈の違いから、仏教徒は二十あまりの諸派にわかれ、やがてそれが大乗仏教に発展。このあたりまでの話は佐々木先生がYouTubeで詳しく語ってみえるところです。

ただ、その大乗仏教がどのようにして日本にもたらされたのか、そしてどのように日本で発展していったのかはYouTubeでは今のところ詳しくは語ってみえません。それが、この本には詳しく書いてあります。

日本に仏教が正式に伝来したのは聖徳太子の時代で、最初は天台宗(密教)をベースにしたものがもたらされたそうです。その頃の仏教は、あくまでも国を統治するための道具、道徳規範の道具としての宗教でした。一般の人たちが広く信仰して、自分も仏陀になれるという大乗仏教の教えが一般大衆に広まったのは、ずっと後の鎌倉時代に入ってからだそうです。

ここからは佐々木先生がおっしゃっているわけではなく私の想像ですが、一般大衆にわかってもらうためには、「私」は実在しないなんてことは説かない。悪行を積めば地獄、善行を積めば極楽に行けると説いた方が国を治めやすい。般若心経には諸法無我がちゃんと説かれているものの、人々はただそれを唱えるだけでよいと習うだけで、「私」は実在ではないなんてわけのわからないことは教えない。

江戸時代になると、盤珪が不生禅を説くのですが、その不生禅ですら、誰もが生まれながらに仏心を持っている、というところまでで、「私」は実在しないなどとは説きません。ところが、原始仏教から大乗仏教まで、どこを学んでも仏教の根本教説は諸法無我であり、「私」はどこにも実在しないと説いています。

その盤珪ですら、鈴木大拙が掘り起こさなければ、ずっとそれまで埋もれたままでした。そして今現在の日本の仏教では、盤珪の教えはまた廃れているように見えます。そうした歴史的背景が今日まで続いていて、それが今日の仏教のイメージとして定着しているのではないでしょうか。もし僧侶が、諸法無我、この世のどこにも永遠不変の「私」など存在しない、なんて説けば、それじゃ誰のための戒名や法事なんだ、なんてことになって、誰もお布施を払わないかもしれない。ちなみに、日本以外の国の仏教では戒名なんてものは無くて、葬式の際にお寺に高額のお布施をすることもないそうです。日本の現在の仏教は、釈迦が教えた当時の仏教(律を守る仏教)ではなく、日本独自の発展を遂げたものだそうです。

般若心経はありがたいお経なので、意味はとにかく、とりあえずお経として唱えれば功徳があります、という程度にしておいた方が都合がいいのではないでしょうか。仏教の中に非二元があるという話は、むしろ欧米の非二元論者たちが言っていることであり、日本ではそれほど言われていない気がします。

私は、日本でどのように仏教が伝播・発展していったのかを知りたくて、こういう本を探していたのですが、なかなかそういう本に出会いませんでした。今回この本を読んで、そのあたりのことがよくわかってよかったです。また、華厳思想、法華経、阿弥陀信仰など、どうしてそうした信仰が起こったのかはよく理解していませんでしたが、そのあたりも詳しく書かれています。

ただ、この本で仏教に中にある非二元を学ぼうと思っても、そのあたりのことは詳しく書かれていません。諸行無常・諸法無我が仏教の根本的な教えであり、常住普遍の実体のある「私」はどこにもないということは、本の中に数行あるだけです。そのあたりのことは、佐々木先生のYouTubeの方が参考になると思います。