Live spontaneously・起こるに任せて自然に生きる
セイラーボブは、私たちの意識をスクリーンに、そしてそのスクリーンに映し出される映像を世界に例え、何も起こっていない、映画が終わればすべては消える、起こっていることに意味などない、と言います。
また、セイラーボブの教えや、アドヴァイタの教えでは、物事は起こってくるものであり、私たちに選択権や決定権はない、私もあなたも実在ではなく、物事は自然に起こっているにすぎない、と説きます。これを聞いて多くの人が、同じような反応を示します。
・何も起こっていないなら、好き勝手に何をしてもいいという考えにならないか。
・自分たちの意思にかかわりなく物事が起こってくるなら、生きている意味がないではないか。そんなことを言われると、何もする気にならず、厭世的になる。
・アドヴァイタの教えは人の命や人生を粗末に扱うことにならないか。
・何も起こっておらず、決定権もないのなら、困っている人を助けたり、世の中を良くしたりしようとする努力は無駄なことなのか。
ある時ミーティングで、体の不自由な子供たちのいる施設で働く女性が、言いました。
「私はあの子供たちを見ていると、かわいそうで、とても何も起こっていないなんて思えない」
そしたらボブは、
「あなたが同情するのは自然なことだよ。そういう子供たちを助けようと思えば手を差し伸べればいい」という内容のことを言いました。
そんな時セイラーボブはいつも、何も起こっていないのだからと知らないふりをするのではなく、起こるに任せて自然に行動すればいいと言います。
野生動物には意識はあるでしょうが、マインドはない。でもマインドがなくても、例えばトラの母親は外敵が現れれば、外敵から子供を守ろうとする。鳥だって、自然に巣作りをして子育てをする。
どうせ何も起こってないのだから、子供を守らないということは起きない。自分たちに決定権はないから、子供にエサを与えないというふうにはならない。本能が自然に働くようになっている。
ライオンのオスは自分のテリトリーに別のオスが入ってくれば、全力で追い払う。野生の猿は人から食べ物を奪う。こうしたことは、彼らのマインドから起こる行動ではなく、自然の本能です。彼らには「私」というマインドがない。人間だけが「私」を持っていて、その「私」はもっと何か持っていれば幸せになれると思っている。
努力して幸せになりたい。困っている人を助けたい。より良い社会や未来を作りたい。それは人間の持って生まれた自然な本能だと思います。
例えばあなたの友人や愛する人が苦境にある時に、セイラーボブの教えを説いたり、「私たちはいない」とか、「世界は幻だ」と説いたりするのが役に立つかというと、まったく役に立つたないばかりか返ってその人を苦しめることになります。
そんな時は、そっと寄り添って、話を聞いてあげる方が、よっぽどその人の助けになる。内発的で自然な行動に任せておけば、自然と行動は起きてきます。
私たちの生きる映画の結末はもう決まっているのだから、努力などしても無駄というのも違うと思います。努力することが自発的に自然に起こってくる。それは人間の本能のようなもの。セイラーボブの教えは運命論ではないし、結果も決まっていません。
何か悪い事が起きると、(結果は決まっていた)と思うかもしれません。でも、何か良い事が起こった時はどうですか? それも(結果は決まっていた)のですか? あるのは、今ここにある意識だけです。何も決まっていないし、次の瞬間に何が起きるかは誰にも予測できないことです。
どうせ何も変わらないのだからとネガティブを引き起こすのはマインドであり、「私」です。自分自身を「私」という個人に限定しなければ、どんな可能性だってあると思います。今この瞬間には未来のことは未定であって、結果は決して同じではなく、努力次第で未来は変わると思います。厳密なことを言えば、未来などというものは無く、今しかないのですから、未来が変わるという表現は適切ではないでしょうけど。
私たちが生きている現実が夢だったしても、それが夢であると理解した上で、良い夢を見て、努力するのは悪いことではないし、それによって夢の内容は変わってくると思います。顕現の世界には無限の可能性がある。ただ一つ覚えておかなければいけないのは、それは顕現であり、実在ではないということ。それをわかっていて顕現の世界を楽しむのは何も悪いことではありません。
人を助けることも、結果はどうあれ、手を差し伸べたいという気持ちが自然に起こってくるなら、手を差し伸べればいい。あなたも私も実在しないのだから、と言って知らんぷりするのが自然な人なんていないと思います。
アドヴァイタの教えは、私たちに選択権はないのだから努力しても無駄であるというような厭世的な教えではなく、起こってくる出来事にあまりシリアスに巻き込まれないで距離を置いて見ることを教えているのだと思います。
ボブが知性エネルギーと呼ぶのは、そこに何らかの知性があるから。という事は、その知性エネルギーに起こるに任せて自然な行動をとれば、厭世的になったり、ネガティブになったりすることもないと思います。投げやりになったりネガティブなったりするのは「私」です。その「私」はマインドがでっちあげた架空のものです。
私たちは海の一つの波のようなもので、死んだら海に帰るだけで、また次に同じ波として現れることはない。来世も次の一生もない。あるのはこの瞬間だけ。私はアドヴァイタの教えを学んで、命や人生を粗末に考えるどころか、だからこそ逆にこの命が大切なものであり、人生を大切に生きていかなければならないと思うようになりました。
「あなたはあなたが世界と呼ぶものの夢を見ているということを理解して、出口を探すのをやめなさい。夢があなたにとって問題なのではない。問題はあなたが夢のある部分が好きで、ある部分が嫌いだということだ。全体を好きになるか全部を嫌うかして、不平を言うのをやめなさい。あなたがその夢を夢だと理解する時、あなたのすべきことは終わる」
Sri Nisargadatta Maharaj
「自らの自然な状態を思い出してください。基準点(自己の中心)を持たず、いかなる実体も独立した存在形式も持たない、純粋で、偏在、空間のような、現われ続ける、自然な今ここにある意識を。自然な状態(顕現と空、空間と内容物の統一体)を思い出さなければ、錯覚が起き、見せかけへの執拗な固着、私と他者、うわべの二元性、が起きます。固着がなければそこには自然な状態としての自由があり、錯覚は消え均等性(非二元)が残ります。それは自然な状態であり、それがあるだけで、他には何もありません。自然さ(平静)として自然に残るのは、誰にも何に対しても瞑想することのない自然な(努力の要らない)瞑想です。何かを得ようとしたり避けようとしたりすることのない、今までもずっとそうであった努力の必要のない実在。それを何度も何度も繰り返し思い出してください」
Sailor Bob Adamson