2019/03/25
The Spiel ⑭ (2019.5.7公開)マインドなどというものがありますか?
Is there a mind? Sailor Bob Adamosn interview episode 3
私たちには考える能力が備わっています。
その能力を使って調べてみてください。
私はこの体なのか?
私はこの分離した個人なのか?
私はこの個人なのか?
調査すると、それは粉々になります。偽物は調査に耐えません。偽物は実在ではありませんが、私たちは調べもしないで実在であると信じています。
真実ではないものを信じていると、それを調べることによって粉々になります。
偽物は調査に耐えません。
どうやって調べればよいのですか?
自分自身に、この「私」とは誰、あるいは 何なのかと自問してください。
私は体なのか? 私はマインドなのか? 私は人なのか? 私はペルソナ、概念上のイメージなのか?
調べてみると、ペルソナは仮面、つまり概念上のイメージです。私は概念上のイメージなのか?
もし私が概念上のイメージだというなら、眠りにつく時に何が起きるでしょうか?
イメージすべてを手放す時に私も終わるはずです。でもそうはなりません。なぜなら、翌朝になればまた目が覚めるからです。
朝、目を覚ますのは誰ですか?
見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことがあなたに始まります。
眠りがあなたから去って、それらのことがあなたに始まります。考える働きがふたたび始まります。それにあわせて、概念化が働き始めます。そこには誰も目を覚ます人はいません。
ただ単に、アウエアネス、つまり本質がうわべ上は不鮮明になっていただけです。意識(consciousness)は、そこに意識があるということに気づきます。あなたが深く眠っている時は、自分の意識に気づいていないだけです。概念なしでは、私はいると言うことはできません。
個人、つまりエゴは目覚めようとして探求を続けていますが、その個人が目覚めるということはないのですか?
ありません。でも、わかり始めるのです。その個人と呼ばれている者は、私が信じているような存在ではないということが。そのことに対する目覚め、つまり、わかり始めるということはあります。
認識するということです。私は体ではない。私はマインドでもない。私はこうした概念でもない。私は個人でもないということを完全に理解するということです。自らの本質、存在を完全に知るということ、私が存在そのものであると理解するということです。私はそれにいくつものラベルを貼りつけていますが、私はそのラベルですらありません。
存在が目覚めるのですか? それとも、アウエアネスが目覚めるのですか?
それは、私たちが実在すると信じこんでいる存在が、実際には実在しないということを認識するということです。自分は間違った方向を探していたということがわかり始めます。私たちはこうした概念を当然のことと受け入れ、信じてきました。それは、両親、学校、社会、その他すべての人によって強化されました。
信じるエネルギーが注がれ、それが現実であると思いました。そしてその信念は見破られました。それが見破られたら、それを信じ続けることができますか? それが真実ではないとわかったら。もう信じることはできません。それが、自然な理解です。あなたはもう信じているようなものではありません。
辞書によれば、信じているという定義は、現実ではないことです。信じていることの定義は、「理由もなく調べもしないで何かを受け入れること」です。それには根拠がありません。「確かな事実や証拠もなく、言われていることを受け入れること」
私たちは生涯、その根拠を探そうともしなかったのではないですか? そしてマインド、概念の中に答えはなかったのではないですか? そして私たちはわかり始めます。おそらく自分は間違った方向を探していたのだと。マインドと呼ばれる場所を生涯探したが、答えはみつからなかったと。おそらく、答えはそこにはない。
マインドの中を調べる時、マインドの外に出る方法は何なのか? そこにはマインドの外に出る方法はありません。どこまで行ってもそれはマインドの中です。マインドの中にいる時、マインドの性質は振動することです。それは二元的に動きます。すべてのバイブレーションがそう動くように。そこに出口はありません。
そして、自分は間違った場所を探しているのだ、どうしたらいいのだろうかと気づき始めます。どうしたらマインドの外に出られるだろうか調べ始めます。思考を一旦停止してみるか、思考ようも前にあるものが何であるかを見ようとします。見る働きの共鳴が起こり、私は思考よりも前に存在する命なのだという理解が起こります。思考よりも前にある。
でも、概念を分析する時は、マインドでじっくりと考えているのではないですか?
ええ。思考を通してです。マインドは思考を活用することができませんでした。「あなたという存在は理解することができない」「あなたは達成しなければならない」「あなたは解放されなければならない」「私は十分ではない」「私は臆病だ」。マインドが今まであなたにこう言ってきた代わりに、今、マインドは活用され、理解されています。
一つの本質、ちょうど太陽が自然に輝き、ひとりでに輝き続けるように、それは自ら輝いています。昼の明かりは自ら輝いています。夜は自ら暗闇となります。それは一つのもの(self)です。それがパターンとなり、姿形となって、すべてのものとなって現れています。そこに分離はありません。概念上のイメージとして展開することもありません。
OK。今それを垣間見ることはできますか?
Yes!
どうやるのですか?
あなたは今、見ていますね?
Yes!
「私は見ている」という思考がやって来る前に、あなたは見ているのではないですか?
Yes!
それはどうやってマインドに翻訳されていますか? 見ることが起こっていて、それが「私は見ている」と翻訳されます。そうではありませんか? あなたが、「私は見ている」という時、あなたは何をしていますか? あなたは、こうした概念すべてを付け加えています。自分自身に抱いている概念上のイメージを付け加えています。「これが私、カット」。その概念上のイメージが見ていると考えています。
今や、その概念上のイメージが見ていると思っています。ビデオや質問、何であれ、カットが見ていると思っています。そうして、カットが主体となりました。あなたが抱いた概念上のイメージのせいで、カットが主体となりました。そして、見られている対象が客体となりました。あなたがラベルを貼って形を与えたからです。
でも、「私は見ている」という思考が実際に見ることはできますか? 思考が見ることができますか?
いいえ。
思考が聞くことができますか?
いいえ。
思考が意識することができますか?
いいえ。
今あなたが、この概念上のイメージを調べてみると、それが見ることはできません。聞くことも意識することも何もできません。選択することはどうですか? できません。
見ることは起こっています。聞くことは起こっています。味覚、触覚、嗅覚、すべての機能は起こっています。
もしそれを思考で主体と客体に翻訳しなければ、それは純粋に自然に起こっていることにすぎません。自然に努力なく起こっています。地球が太陽のまわりを回っているのと同じことです。地球が、「私は太陽のまわりを回っている」と言いますか? 太陽が、「今暗くなった、今は昼間だ」と言いますか? 太陽はそんなことは何も知りません。地球も同じです。
今地球が太陽に表面を向けていれば、それは昼間です。そして地球が回転して反対側になれば夜です。私たちに暗闇がやってきます。でも、暗闇は光のことを何も知りません。光は暗闇のことを何も知りません。それは一つのものの二つの側面です。それは振動して反対へと動きます。
太陽も同じです。太陽は輝くことをやめません。それはいつも輝いています。でも、雲によって見えなくなります。でも太陽はそこにあります。それはいつも新鮮です。それはあなたの本質のようなものです。思考やフィーリング、感情が現れても、それによって不鮮明になることは決してありません。思考やフィーリング、感情はやってきては去っていきます。
どんな名前で呼ぼうと、どんなラベルを貼りつけようと、それは思考であり、あなたはそれを見失います。考える能力はとても役立ちますが、他のものと関連づけてしまうために、思考が反対のものへと分割してしまい、反対のものが現れます。そしてうわべの上で、良いとか悪いとかが起こります。
そこで私は、一方の端しかない棒はない、という表現を使います。どんな棒にも両端があります。良い方の端は丸くてなめらかで、持ちやすく、悪い方の端は先が細くなっていて、黒くなるか、折れてしまうでしょう。それでも一本の棒です。
悪い方が現われと、それが気に入らず、取り除こうとします。それが自然に変化していくことを理解しません。良い方の端は、あなたがどんなにそのままであって欲しいと思っても、そのままではありません。それは自然と同じように変化します。
それは常に反対へと振動します。いつも夏というわけではありません。いつも冬ということもありません。いつも春、いつも秋ということもありません。それらはいつも一時的で、常に変化しています。いつも昼間というわけではなく、いつも夜ということでもありません。
ということは、今でも時々あなたにネガティブな感情や思考がやって来るということですか?
ええそうです。思考はバイブレーションです。それは二元的に振動します。あなたのマインドがどういうふうに機能するかを見てください。良いと悪い。良いことはポジティブと言われ、悪いことはネガティブと言われています。
幸福と悲しみ。幸福は良い事と思われ、悲しみはネガティブだと思われています。喜びと苦痛。喜びは良いこととされ、苦痛はネガティブとされています。マインドを見てください。それはいつも二元的に機能しています。ポジティブとネガティブ。良いと悪い。幸福と悲しみ。愛と憎しみ。
それ以外のやり方では機能しません。どこに中心がありますか? どこが真ん中ですか? ネガティブかポジティブ。私は南極点に行く例えを使うのを好みます。南極点を超えて、どれほど南に行くことができますか? 行けません。次の一歩は北へ向かうはずです。
もしそれでも地球の上にいたいなら、北極点へ行ってください。北極点を超えて、どれほど北へ行くことができますか? 行けません。次の一歩は南へ向かうはずです。さて今、彼らはどこで出会いますか?
彼らは対等(equal)の場所まで戻ってくるはずです。そしてそれを赤道(equator)と呼ぶのではないですか? そしてつり合いがとれた時、もう反対の極へとは機能しません。そのつり合いがとれた時点で、何が良くて何が悪いというのですか? うわべの上ではそれは現われているように見えますが、それを信じることはもはやできず、あたりまえのこととして受け入れることもありません。そしてそれは自然にひとりでに変化していきます。