2019/03/09

The Spiel ⑥ (2015.3.12)


(2015.3.12)

あなたに何かを教えはしないし、何かを告げるわけでもないということを理解してください。あなたにポイントを指し示し、自分で調べるよう求めているにすぎません。あなたが何を信じていようが、何を言われていようが、誰かがあなたにあげることができるものは何もありません。

そしてあなたが受けとることができるものもありません。私は目新しい考えについて話しているわけではありません。もしあなたが、いにしえからの伝承を調べれば、そのすべての根底にそれがあることを知るでしょう。例えばヒンズー教ではそれをアドヴァイタと呼んでいます。アドヴァイタは非二元と翻訳されます。

彼らは非二元を、「他には何もない一つのもの」と表現します。なぜなら、一つという考えでさえ、それ以外のものを暗示しかねないので、「他には何もない一つのもの」と言います。仏教でも同じことを少し違う表現で言います。「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識」と言います。

そして彼らは、「ただそれだけ、他には何もない」と付け加えます。それはそこにあるすべてを指しています。今この部屋の中で、意識のない人はいますか? 今ここにある意識はあなたにありますか? あらゆる種類の概念が続いて起こっているかもしれませんから、認識するのは難しいですが、どんな概念も、今ここにある意識の外では起こりません。

キリスト教や他の偉大な伝承ではそれを、「偏在、全能、全知」と言います。それは三つのことを言っているのではありません。一つのことの三つの側面のことを言っています。偏在は完全な存在、全能は完全な力、そして全知は完全な知性のことです。一つのことの三つの側面のことを言っています。

それらは一つのことを指しているとあなたは理解するでしょう。そしてそれが指しているのは、非二元の中には二元性は全く存在しないということです。あなたは、もしあなたが何かをやったり、マントラを繰り返したり、リトリートや本を読んだりすれば、いつか未来に何かになれると考えました。

もしあなたが、未来に何かになるという考えを持つと、あなたは偏在、完全な偏在から遠ざかり、時間というようなものがあるという考えを持つことになります。ここでは私は、あなたが知っていようがいまいが、もうすでにあなたはそれなのだという事実から始めるようにと言います。

そうすれば、あなたは何かを探して時間を浪費しなくて済みます。あなたがしなくてはいけないのは、何がやってきて、理解、知る働きを不鮮明にするかを見ることです。どんな思考、概念、考え、イメージ、信念がそれを不鮮明にしているのかを見ることです。あなたがすべき唯一のことは、あなたが信じていることを調べて、それを落とすこと。それでも残っているもの、それがすべての人の根底に今あるものです。

信じていることが実在ではないということは、私がここで指摘するもう一つのことです。あなたは私たちがあれこれについてたくさんのことを信じていることを見るでしょう。辞書による「信じていること」の定義は、「理由もなく何かを疑わずに受け入れること」です。疑わしい事実を、明確な知識や証明なく受け入れることです。

今その信じていることをテストして、それが耐えうるかを見てください。私たちが個人、分離した存在、人だと信じていることを。私は、虚偽は調査には耐えないと指摘します。あなたがそれらを調査する時、それが調査に耐えないとわかるでしょう。あなたが人、分離した存在であるという考えはどこから来ましたか?

人(person)という言葉を見てください。それはどこから来ましたか? いにしえの人たちはこの言葉を他の言語の(persona)、マスク(仮面)から作ったのではありませんか? 私たちは、個人という概念上のイメージを選んだ時、マスクを被りました。persona のもう一つの本当の意味を調べるやり方は、sona、つまり sound (音)です。

考えは音を通してやってきます。それはエネルギーのパターンが振動となったものです。それがそこにあるだけです。自分がこの体とマインド、分離した存在であると信じていても、調べてみると、あなたはその体ですか? どこかその体に中に、そこからあなたが始まったという場所を見つけることはできますか?

そこからあなたが始まったという場所を見つけられるか、できるだけ詳しく調べてみてください。この体は何でできていますか? この体は、土、水、火、空間という構成要素でできています。もしあなたは自分が分離した存在であると考えているなら、その構成要素を再び分離してください。

息を止めて空気を体から出してください。実在から分離した存在として存続することはできません。体から水を取り出してください。体の80%は水です。水を取り出してどれだけ持つかやってみてください。火、体温を取り出してみてください。地面から離れてみてください。空間の外に出てみてください。詳しく調べてみれば、あなたはこれらの構成要素とは全く切り離せないとわかるでしょう。

そしてこれらの構成要素は非常に小さな粒子に分解することができ、純粋なエネルギーとなります。ということはこの体はエネルギーの振動に他なりません。あなたは、この顕現が二元的な現われであると知るでしょう。二元的なヴァイブレーションとして現われなかったら、現われことができなかったでしょう。

夜なくして昼があるでしょうか? 音なくして静寂があるでしょうか? もちろんこれらのことが二元的に現れなかったら、あなたがそれを認識することもなかったでしょう。いにしえの人たちは、この顕現はマーヤーであると言いました。それは幻影です。それはエネルギーの振動パターンに他なりません。

そしてあなたもその顕現の一部です。あなたはその体であるとは言えません。マインドはどうでしょうか? あなたはまた、「私の体」「私のマインド」と言い、「私のコート」「私の車」「私の家」と言います。あなたはコートですか? あなたは車ですか? あなたは家ですか? あなたはそうではないとよく知っています。

あなたは「私の体」ですか? それとも「私のマインド」ですか? もしあなたは自分がマインドだと考えるなら、マインドと呼ばれるものを見せてください。あなたはこれが私のマインドだというものを出そうとしても、それは実体のないものです。マインドとは結局何なのでしょうか? あなたが言葉無しで静かに考えている時、かすかな動きが進行しているのに気づくでしょう。それはかすかなヴァイブレーションです。

それが言葉となってやって来る時、この言葉と同様、それは音です。音とは何ですか? 音とはヴァイブレーションです。それはエネルギーの動きのヴァイブレーションに他なりません。ということは、私たちがマインドと呼ぶものもまた、エネルギーのパターンのヴァイブレーションに他なりません。ありのままに見て、それが振動するやり方を調べてみてください。

ヴァイブレーションであるマインドに、境界や限界を設定しているのは言葉であると、あなたは理解するでしょう。シェクスピアは数百年前に言いました。「何も良いとか悪いとかはない。思考がそうしているだけである」と。私たちは言葉によって概念を考えます。

調べてみれば、あなたが今までに話した言葉や、これから使おうと思っている言葉は今までに学んだ言葉であるとわかるでしょう。あなたが使った言葉はどこか途中で学んだものです。生まれてから一年か二、三年の子供を見てください。まだどんな言葉もありません。見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことが極めて自然に機能しています。

言葉がないために、何も区別をせず、何にも関連づけられていません。見ることは自然に起こっていて、興味のないものや知らないものが道に現れれば押しのけ、お腹が空いたとかお腹がいっぱいだとか、幸せとか良いとか、言葉を知らないために、その段階では何の問題も起きません。

あなたはこの体とマインドであると言うことは全くできません。あなたはこのマインドと呼ばれるものを調べて、それがどう機能するかを知ることができます。それがどんなに素晴らしい道具で、注意していれば機械的に動くかを知ることができます。マインドがそれ以外のやり方で機能するかを見てください。

あなたは過去にはいません。それは記憶です。あなたは未来にもいません。それは想像、期待といったものです。それはいつも、互いに関連する反対の極へと振動します。良いと悪い、快と不快、幸せと悲しみ、愛と憎しみ、肯定と否定。そして境界、限界は私たちが言葉によって設定したものです。

過去と未来と現在、幸せと悲しみ、その境界、限界は名前を付けられないものです。私たちは、体とマインドという考えを持ちました。私は神という言葉を使いません。というのも、その言葉で混乱してしまうからです。単純な理由としては、私たちはみな、違った伝統や背景からやってきているからです。

ある人は無神論者かもしれないし、不可知論者かもしれません。ある人はクリスチャンで、ある人はヒンズー、モスリム、仏教徒、ユダヤ教徒かもしれません。あなたが伝統的に信じている考えが何であれ、常に関連した伝統的な考えをもとに考え始めます。そのため人々はそれが何を指しているのか理解しません。

私は知性エネルギーという言葉を使います。あなたはそれもまた概念にすぎないということを理解しなくてはいけません。それはそのものではなく、単にそれに張り付けた概念的なイメージです。私が知性という時、私はあなたの知性について言っているのではありません。

というのも、程度の違う知性がこの部屋にはいるからです。ある人はとても賢くて、ある人はそうでもありません。程度の違いがあります。私が話している知性とは自然の状態のことです。自然を見てください。自然の中で、銀河が形成され、惑星が動き、地球が太陽の周りを回り、季節がやって来ては去っていき、潮が満ちては引く。

それは、自然そのものが内在する知性に満ちていることを暗示しているのではりませんか? 物事は自然に起こっています。あなたも自然と同じです。あなたは自然そのものです。調べてみると、同じ知性があなたを呼吸させているとわかるでしょう。それがあなたの心臓を鼓動させ、髪の毛や爪を成長させ、食べ物を消化し、体の細胞を置き換えています。

あなたが分離した存在として采配を振るっていると思っているのなら、それらのことについてあなたは何をしていますか? あなたはいつも何もすることができません。それは自然にひとりでに起こっています。これを調べてみてください。あなたはいつ始まりましたか? あなたは誕生の時と言うでしょう。

でも、あなたがたの中で、実際に自分が生まれた時のことを覚えている人はいますか? あなたは自分の誕生のことを覚えていません。あなたは、二歳か二歳半ぐらいまでの考える能力が育ち始めるまでしか思い出すことができません。その考える能力は人間というパターンが持っている能力であり、動物、鳥、昆虫はその特別な能力を持っていません。

彼らは別のもっと発達した能力を持っています。例えば鳥は見る能力を持っています。彼らはあなたや私よりもはるかに優れた視力を持っています。しかし私たちは考える力によって、メガネ、双眼鏡、望遠鏡を作ることを学びました。そしてヘリコプター、飛行機などで飛ぶことができます。

この考える能力はとても役立つものになりえますが、ヴァイブレーションとしては自己破壊的でもあります。なぜならそれは、私に向かって、恐れから、私はまだ十分ではない、私は心配だ、みじめだ、憂鬱だと言う能力と同じ能力だからです。犬は嗅覚を持っています。それは私やあなたより優れています。犬は動物です。動物には毛皮に縞模様を持つものもいます。

それは自然な能力です。あなたは小虎が生まれた時に、毛皮に縞模様を生やそうと言ったと思いますか? レオパードが斑点を作ろうと言ったと思いますか? 私たちが木に登って、葉に紛れて自然のカモフラージュになりますか? カメレオンは色を変えることができます。昆虫も同じようなことができます。

こうしたことは、自然がすべて、内在する知性に満ちていることを暗示しているのではありませんか? 私たちは自分の誕生を覚えていませんが、父親と母親にまで遡ってみましょう。生き生きとした生命の本質、知性エネルギーがパターンとなって姿形となり、あなたの父親となり、精子、とても小さな粒となります。それは肉眼では見ることができません。

同じ生命の本質が、パターンとなって姿形となり、あなたの母親となり、卵、卵子なります。その卵は内在する知性に満ちています。なぜならそれは子宮内膜に着床するからです。精子も内在する知性に満ちています。なぜなら卵子に泳ぎつくからです。それは偶然に任せて漂っているわけではなく、何をしたらいいのか知っています。

どうやって泳いだらいいのかを知っています。それは知性を暗示していませんか? そしてそれはどうしたらよいかを知っていて、卵子の中へ入ります。二つが一つになった時、そこにはすでに青写真があって、細胞を二つに分裂させ、さらに分裂させます。青写真によってそれは胎芽となり、胎児となり、今のあなたとなります。

そのことに関して、分離した存在であると信じている「私」は何かをしたでしょうか? 肺や心臓を成長させようと、脳もないのに考えることもできませんでした。でも、内在する知性は何をしたらいいのか知っていました。そしてそれ以降ずっとあなたとともにあり、あなたを成長させているということを理解してください。

では問題はどこにありますか? 問題は、二歳か二歳半のころに発達した考える能力にあります。両親があなたのまわりにいて、「かわいいジョニー」「あなたはいい子ね」「あれをして、これはしないで」などと、うるさく言い、あなたは両親から言葉を学び始めます。「私」や「私に」という言葉を学び始め、この「かわいいジョニー」とは私のこと、つまり「私」だと考え始めます。

わたしは、かわいいジョニーだ。それまで私たちは、物事を区別したり分離したりせず、自然にひとりでに機能するのをありのままに見ていました。でも今彼は、「これは私ではない」と言います。「これは私ではない」と言うと、不安や傷つきやすさ、分離した感覚が起こります。

そして今や彼はいつも不安で分離していて傷付きやすいと感じています。子供は、暖かくて愛情にあふれた家族があると、より安全で傷つきにくくなります。そしてかつて家族は部族を形成しました。部族がより大きくて強いほど、より安全でより傷つきにくくなります。同じことが今日でも起こっているのではありませんか?

部族がやがて国家となりました。そして国家同士の戦争が起こります。なぜなら、不安や傷つきやすさのため、隣の国が何をしようとしているのかを信頼していないからです。そのため、自分自身を守るか、相手を支配して、安心を確実なものにしょうとします。この分離しているという考え、不安、傷つきやすさのために、そうしたことが国、人々に起っています。

もともとは、私たちは自然にひとりでに機能していました。あなたは、「私」や「私に」をどうすることもできません。それは言葉にすぎません。でも私たちがやっていることは、出来事や経験、条件づけ、その他の言葉、概念、考えなどを貼りつけることです。私はボブ、どうして知ったか、家族がボブだと教えた、オーストラリア人、いいやつ、あんまりよくない、自尊心が低い、恵まれない子だった、あれこれの中毒がある、何かが上手くいっていない、憂鬱だ。

これらの概念が「私」という概念に張り付けられて、概念上のイメージ、自分が自身と信じているものを作ります。その概念上のイメージは毎日毎日、何の疑いもなく、強化されて、表面上は強固で実体のあるものに見えます。あなたはその「私」をどうすこともできません。ではどうしたらよいでしょうか? 私たちは、出来事や経験を貼り付けて、今私たちが私だと思っているイメージを作ります。

そしてすべてがそのイメージに関連したものになります。あるがままに見ていたことが、私に関連したものとなり、最初に指摘したように、すべての問題が関係性の問題、関連した問題となります。それは私たちがたくさん話す男女間の関係性だけではありません。それはすべての関係性、すべての自己の中心、このエゴ、「私」に関係するものです。

それがどんなふうに働くのか見てください。何かが起こると、以前のように自然に行動するかわりに、記憶と関連付けて行動しています。何かが起きて、「私はそれが好きだ」となると、私たちは良いことを失いたくありません。良いことはいつもそこにあって欲しい。私たちはこの顕現は二元的な顕現で束の間のものであるということを理解しません。

それは絶えず変化しています。良いことに、あなたがどんなにしがみついて、そのままにしようとしても、それは動いていき、変化していきます。あたかも、とても素晴らしいものがしばらくすると、とても退屈なものになり、普通のものなったり、忘れ去られたり、片づけられたりするようなものです。

私たちは物事が確実に変化することを知っています。でも私たちは良い事を失いたくありません。良い事はいつもそこにあって欲しい。それでどうしますか? それをそのままにしようと抵抗します。どんな抵抗も葛藤であるとわかりますか? あなたが抵抗するやいなや、葛藤が生まれます。

すべての葛藤は病(disease)です。もしあなたが心配していたり、恐れたいたり、怒っていたり、悲しかったら、不安(uneasy)ではないですか? そこには不安や病があります。何か以前に経験した嫌なことと同じことが起こりそになって欲しくないなら、また抵抗します。それを病にしてしまいます。葛藤を病にしてしまいます。

それが私たちに常に起こっていることです。この心理的な苦悩があなたにいつも起こっていることを理解してください。抵抗と葛藤がそれに関連しています。すべての問題は関係性の問題です。「私」が原因です。この分離した存在、個人がすべての問題の原因です。その結果が、心配、恐れ、憂鬱などです。

それがいわゆるカルマではありませんか。原因と結果。なぜいわゆると言ったかというと、調べてみると、そこにはたくさんのくだらないことがあるからです。もしこの「私」に関連させなかったら何が起こるでしょうか? もし自身を原因に関連させなかったら何が起きるでしょうか。原因無くして結果があるでしょうか?

もし原因がなかったら、それはどこに帰着するでしょうか? それはどこに留まるでしょうか? すべての思考が常に変化し束の間のもので去っていくように。私たちは、それがそこに留まっているように見えて、私たち自身で混乱させているということを理解しません。子供たちが石や木で骨を折るのは知っていますが、名前ではそうなりません。

誰かが口汚くあなたをののしったら、どれくらい長くそれが残りますか、何日、何週、何年? 私たちは自身を言葉で打ちのめしています。それが、私がここで指摘していることです。あなたはそうしなければいけないわけではないのですが、誰も止めはしませんから、あなたがそうしたかったらそうできます。

あなたがどんなに必死でマインドの中を探しても、答えをマインドの中に見つけることはありません。マインドの本質は振動です。それがどのように振動するかを見てください。良い悪い、いつもとどまらない。あなたは答え見つけられない。あなたは10年、20年、30年と探します。そしてあなたは知性的な人なので、なぜ見つからないかと思う。

おそらく自分は間違った場所を探していたのだろう。私はマインドやあらゆる種類の記事、本を読んでそれを理解したように思うが、決して答えや解決は見つからなかった。良い体験もした。良いヴィジョンも見た。でも決して平和を見つけられなかった。マインドの平和というのは、人びとが話すことです。

あなたは決して、決して決してマインドの平和を得ることはありません。純粋に単純にマインドの本質は振動することです。いにしえの人たちは、平和への道はすべて理解にあると言いました。あなたが振動しないとき、あなたがマインドに執着しない時、そこには自然な平和があります。

そこにはおしゃべりがなく、静けさ、空(くう)があります。
あなたがマインドの中を探しても、マインドの中には答えはありません。どこを探してもマインドの中なので、マインドの出口はどこなのかと、あなたは言うでしょう。あなたがどこを探しても、それはマインドの中です。あちこち探しても見つからないので、あなたはきっと気づくでしょう。

たった一つだけマインドから出る方法があります。もしマインドの中に答えが無いのなら、マインドの外はどうだろう。それは全停止(フルストップ)ではありませんか? 今一瞬思考を止めたら、何が起きるでしょうか? だれでも一瞬思考を止めることができます。もし今ここに思考が無かったら、あなたは何を言うことができますか?

あなたは、良い悪い、快不快、愛と憎しみなど、思考が無かったら何もありません。あなたは何もないと理解します。何が起きるかについて私は何も言えませんが、あなたは消えましたか? 思考が無かったら、ばらばらになりましたか? いいえ。あなたは依然としてここにいて、依然として見て、聞いて、味わって、触れて、嗅いで、心臓は鼓動し、思考が止まっている間も、生命の本質によって多くのことが続いています。

思考が止まっている瞬間に、それらのことは、思考よりも以前にあるということを理解してください。あなたは人々がマインドを超えてとか、マインド以前にと言うのを聞くでしょう。人々はマインドでマインドを超えて行こうとしますが、決してそれはできません。それは血で血を洗うようなもので、できません。

思考をほんの一瞬止めてみて何が起きるか見てください。純粋な知性が呼吸をさせ、心臓を鼓動させるのと、思考の違いを見てください。思考は止まっても、他のすべてのことは続いています。思考、すなわちマインドは答えではありません。それは本当のものではりません。生命の本質こそが答えです。

それが命を司っています。その同じ生命の本質がパターンとなり、姿形をつくり、顕現となります。私はこの顕現は二元的な顕現であると指摘しました。それ以外ではありえません。でも、顕現がエゴを形作るのではないことを理解してください。それは自己の中心を作りません。何とも関連しません。

昼は夜と戦いません。冬は夏と戦いません。それはやってきて、去っていきます。貼りつくことも執着することもありません。もしあなたが、この「私」や記憶に関連させなければ、この部屋でも同じことが起こります。自然にひとりでに機能が働いています。それは張り付いたり、問題になったりはしません。

あなたは、「私」があなたのすべての問題の原因であることを理解します。私がくだらないことを言っているとか、それが真実ではないとか言うためには調査が避けられないのではないですか? エゴはフィクションです。あなたは聖典の中で誰かにエゴを取り除くように言われて、秘密裡に何とかしてエゴを取り除こうとしますが、取り除こうとすればするほど、あなたは病気になります。

エゴでエゴに反対して、エゴを取り除くことはできません。それは決して起こりません。エゴはフィクションであることを理解して、その線に沿って、自身を調べてみてください。今みなさんは見ていますか? それは本当ですか? 今朝目を開けた時にあなたは、「今これから見ることを始めるぞ」と言いましたか? それとも、そこにはすぐに見る働きがありましたか? その同じ見る働きが一日中続いたのではないですか?

その見る働きは昨日、先週、去年と同じものではありませんか? 私たちは別の見る働きだと思っています。でもそうではありません。それは同じ見る働きですが、内容は変化します。見る働きの内容は常に変化します。でも見る働きそのものは変化しません。聞くことも同じです。

今朝起きて、そこに聞く働きがあって、あなたがぐっすり眠っていると、誰かが大きな声で呼ぶのが聞こえました。ということはそこに聞く働きはありました。あなたは同じ聞く働きをずっと持っています。言う働きも同じですが、内容が変化します。今、見る働きや聞く働きが続いています。自分に聞いてみてください。私の目は「私が見ると言うだろうか?」と。

調べてみてください。あなたがやりたくないならできませんが、私はかまいません。私の目は「これを見ろ」「ボブ、これを見て」「ええ、あれはいい」とは言いません。私の目は何も言いません。それは何も言うことができません。

見る働きは目を通して起こっています。目は見る働きが起こるための器官です。そしてそれは思考によって「私は見る」と翻訳されます。今、この「私は見る」という思考は、そのまま私が見ることではありません。私たちはこの私は見るという思考に、たくさんの出来事や経験や概念上のイメージを貼り付けました。

それは私だ、オーストラリア人、あらゆる種類の良い面、悪い面などすべての概念上のイメージを貼り付けました。そして今や、それは見る能力を持っています。同じことが聞く働きにも起こっています。私の耳は「それはいい」とか「それは悪い」とか言いません。私の耳は何も言うことができません。それは聞く働きが起きる器官です。

そしてそれがまた思考によって翻訳されます。「私は聞く」。そしてこの思考の「私は聞く」は単に思考ではありません。それもまた、関連した概念上のイメージとなります。そして今や、ボブが見て、聞いているというイメージを持っています。でも自問してみてください。

「私は見る」という思考が実際に見ることができるのか? 目を閉じて、部屋の中を見渡して、思考で何が見えるか私に言ってください。あなたは思考では実際には何も見えないということを理解するでしょう。手を耳に当てて、思考で聞くことができるか確かめてください。ごらんのように、あなたは思考では何も聞くことができません。

このことから、あなたは理解しませんか。この思考の「私は見る」、エゴという信じられたものの思考の「私は見る」は見ることができないということを。思考の「私は聞く」は聞くことができません。それは思考によって作られた存在です。私は気づいている(aware)は、アウエアネスではありません。

「私は選ぶ」という思考は選ぶことはできません。それは選択者ではありません。このことからあなたが理解することは、この思考でできたエゴは何の実体も持たず、それ自体どんな独立した性質も持たず、それ自身で存在することさえできないということです。考えてみてください。

生命の本質が体に無かったら、死体はいくつの思考を持つことができるでしょうか? 死体には声帯があり心臓があり肺がり耳があり、すべての器官があります。でも、生き生きとした生命の本質、私が知性エネルギーと呼ぶものが無かったら、それは一片の思考も持つことができません。

あなたはそれから外れ、ここに、見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことなどこれらの機能がある存在、個人、人がいるという考えを持ちました。あなたはそれを調べて、そうではないと知るでしょう。認めるべきことは認めたらどうでしょうか? それは生命の本質です。それがこの宇宙を機能させています。

それは地球を太陽の周りで回しています。それは潮の満ち引きをやり、この体に呼吸をさせ、たくさんのことをしています。あなたは実在としては何もしていないし、することもできません。そのパターンが形を作り、生命の本質がそれを通して現われ、そのすべてを可能にします。パターンは生命の本質無しでは役に立たちません。それはあなたのコンピューターのようなものです。情報をたくさん持っていても、電源がオンになっていなかったら、あなたはコンピューターから何を得ることができるでしょうか?

これが、私があなたに指し示し、この線に沿ってあなたに調べるように求めていることです。自己の中心の解体のことについて言うと、「私」だけではなく、この実在すべてにおいて、すべての心理的苦悩が落ちていきます。「私」だけが恐れる。「私」だけが心配する。「私」だけが自己憐憫、不幸でいっぱいになる。「私」だけが憂鬱になる。

「私」が私のすべての問題の原因です。私は、原因はフィクションにすぎないと指摘しました。では、問題を架空の「私」と関連付けなかったら、何が起きるでしょうか? 私はこうした問題に何年も取り組んできました。玉ねぎの皮むきのように、一枚めくってはまた次、また次と。でも、次々と新しいものが現れました。

自己の中心無しで、私はもう何年もそうした心理的ながらくたから解放されています。わたしはここで嘘を言っているわけではありません。というのも、ここにやって来た他の人たちも同じことを言っているからです。やりたければ、調べてみることは皆さんの権利です。

これが、私が指摘し、この線に沿って自分で調べてみるように求めていることです。
何か質問はありますか?

(一部聞き取り不能箇所を割愛しています)