2019/03/06
The Spiel ⑤ (2018.9.2 話者カタリーナ)
2018.9.2講話 話者カタリーナ
ボブ:ここ二、三週間は休養中です。ここ二、三週間はカット(カタリーナの愛称)が(ミーティングを)引き受けてくれて、スピールと話をしてくれています。すべてうまくやっています。
カット:それで終わりですか?
ボブ:ええ。
カット:もう少し話してもらえると思っていました。
ボブ:これで十分です。
カット:ええ、彼は休養中です。彼は自重しています。しっかり歩けるようにと訓練にたくさんのエネルギーを使うので、みなさんの前で話すのは控えています。でも、電話をかけてくる人やスカイプ、個人面談の人もいるので、個人的に話すことは休んでおらず、しっかりとこなしています。
個人面談は、テリーも言う通り、相手がどの程度理解しているのか言葉でわかるので、大勢に向かって一般的なことを言うよりわかりやすいのです。ボブは、希望者のために、馬鹿馬鹿しいほど安い謝礼で、そのための良好な状態をとっておいています。かつて私はボブと個人面談する以前は心理療法家に通っていました。
その心理療法家は、一時間で180ドルも取りました。おまけにずっと通わなくてはいけません。私は船乗りだったのでお金は持っていました。でもボブは、相手が払うと言っても、その心理療法家の三分の一の謝礼しか受け取りません。払うお金を持ってない人もたびたびいますが、それでもボブはその人を追い出したりはしません。
人々に求められるのは、機が熟しているかどうかです。ええ、このことはテリーにも話したのですが、他のことは重要ではないということを知る地点に自分がいるということです。家族との関係や仕事、キャリアは重要ではない、今の私の最優先事項は、この「私」という幻影を見破ること。私はもうすべての事を個人的な事だと思いたくない。こういうことが重要で他の事は重要ではない。
そういう地点にいるということです。そういう人から質問を受けて個人的に話すことがボブにとっての喜びです。そのレベルの献身、それをニサルガダッタは真剣さと呼びました。
実在の世界と、私たちの目を通して見る世界の間には厚いベールがあります。それはとても手に負えないほどで、とても困難で、とても確かなものに感じます。でもそこに、あなたの献身、真剣さがあれば、その壁は一つのポインターで打ち破ることができます。それが、機が熟しているという意味です。
その地点は、果物が熟して実となって重くなり、触れさえすれば木から落ちるようなものです。でもまだ途中にいる人は普通、その瞬間瞬間で他のもっとたくさんことを重要と思っています。そしてそれもまた自然なことです。その重要性が認識された時、他のことは自然に落ちていきます。
それはあたかも私が、「あらたいへん。それはとても重要だから時間どおりに仕事にとりかからなくては。誰か私をとても必要とする人が待っている。きっと心配している。それはとても重要なこと。ええ、もちろん重要です。でもこの重要なことや関係性の中で重要なことだという考えも、夢の中のことで、夢の一部だということを理解しています」と言うのに似ています。
私は今でも車で飛ばすことがあるのですが、どんな感覚や批判や思考がやってきても、それは夢にすぎず、束縛されないと知っています。なぜなら、そこには、その結果を引き受ける人は誰もいないからです。それは完全に私の手の及ぶ範囲ではありません。そして今、例えば何か重要な事が起こっても、例えばボブに薬を渡すのを忘れてはいけません。もちろんそれは重要です。その薬は脳の神経伝達物質に関わるものなので忘れると危険です。
そういった比較的重要なことが生活の中で起こってきますが、それでもオーケーです。ああ、それはもちろんこの瞬間、この夢の中では比較的重要だと認識するだけのことです。でも本当に重要なこと、あなたが献身すべき本当に重要なことは、真実を見ることです。その夢が、私は急がないといけないとか、用心しないといけないとか、注意しろとか、請求額を払うことを忘れてはいけないとかなど、真に迫る話を与えているということを知ることです。
素晴らしく真に迫った話は、非二元の一つのものが表現されるやり方です。でも、本当に重要なことは、その実体は物語であると知ることです。なぜなら、もし私がその物語を調べるなら、それがどんなに素晴らしくても、どんなに大切でも、どんなにストレスに満ちていても、どんなに恐ろしくても、実体は物語にすぎません。私は束縛されていません。
そして物語は私に影響を与えません。それは前のミーティングでも言ったように、もし痛みがあれば涙が出ます。感情的な痛みや悲嘆することがあれば悲しくなります。それがないという意味ではありません。でもその悲しみの中には実は甘美さもあります。
そこには甘美さもあります。最近友達を失ったことを思い出します。その友人は去っていったのですが、私は彼女にとても愛情を持っていて、毎日一時間も電話で話をして、とても多くの愛情を注ぎ、とても多くの世話をしたのですが、彼女は去って行き、それが彼女のしたことでした。
ええ、そうです。もちろん、むなしさはあります。まるで手足を切断した時に感じるファントムペインのように。それは喪失の空虚感、ある種の切望のようなもの。でもその悲しみの中で、うわあ、彼女が恋しい、彼女が大好きだった、さみしい。でもそこには甘美さもあります。おや、なんて美しいのでしょう。その悲しみはなんて美しいのでしょう。なんて甘美なのでしょう。
それは現れ出ています。それは私の悲しみではありません。それは体とマインドに現れている悲しみであって、私のものではありません。そしてその甘美さは、これは愛なのだという認識からやってきます。それは愛がこの瞬間に表現しています。なんて美しいのでしょう。
もしそこに「私」がいれば、即座に拒絶するでしょう。私はこんなことは感じたくない。私は痛みを感じたくない。私は心地よく感じたい。でも、どんなふうに感じても、それを受け入れると、それはなんと美しいのでしょう。悲しみの喜び。嫉妬。怒り。すべてが美で包まれています。
夢が、そのまま夢であると認識されれば、夢を見ている人もそのまま認識されます。非二元の空間のようなスクリーンで、誰がそこで受け取るのですか? 誰が何を拒絶するのですか? それが美しさです。
このことは、さらに調べてみる必要があります。私はこのやり方は嫌だ、私はあのやり方がいい。その「私」とは誰なのですか? それを求めている人は誰なのですか? 今、とてもとても正直に言うと、「私は欲しい」と言っている体の構成部分を感じます。それはとても欲しがっています。それは内側から何か違ったものを欲しがって、吸い込むように欲しがる欲求。それは肉体的な感覚です。
来客。中断。
抵抗がスクリーンに現れたら、それは、誰が抵抗しているのか、誰がそれを嫌っているのか、誰がその悲しみや悲嘆に同意しないのか、誰がねたんでいるのかなどを調べる招待状です。その一つが構成要素です。その構成要素の中でもっとも顕著なのが肉体的な構成要素です。切望や空虚感や吸い込むような感じは胃からやってきます。
例えば、おやたいへん、胃がとても狭く感じる。とても小さく感じる。でも、私のその感覚でしょうか? もちろんそうではありません。どうして私が感覚でありえるでしょうか。感覚はやって来たり去っていったりします。それは意識というスクリーンの上に現われます。ということは、感覚は私ではありません。
「私」が拒絶するそれは何か別のものです。「私」という考えが、その抵抗にプレッシャーや拒絶を与えます。でも誰かそれを見つけたことはありますか? 抵抗は明らかです。それは感じることができます。それは肉体レベルや感情レベルでさえ不快感として経験することができます。誰かが抵抗のプレッシャーをかけているとか、筋肉に緊張を与えているということを誰か経験したことがある人はいますか?
酸素が血管の中をめぐり、血が頭にのぼり、違ったホルモンが出て、違った神経伝達物質が出て、全宇宙、その宇宙が感覚を起こしているのであって、「私」が体全体ではありません。もちろん体は宇宙全体と繋がっています。体は、呼吸する空気、飲む水、食べるもの、存在する空間がなければ維持することはできません。
実際は「私」が拒絶しているのではありません。世界全体が意識のスクリーンの上に抵抗として現われているだけです。ではそれは実際「私」の抵抗ですか? 今私が抵抗はスクリーンの上に現れた別の現われであると理解した瞬間、私は全く自由です。私はそれを知る働きです。私はスクリーンです。そして抵抗は現われているにすぎません。
その抵抗はこういう見方をした場合どれだけ長く続くでしょうか? ほとんど分解して、おや、これは単に肉体的感覚だ、感情的感覚だ、どこか他の場所からやってくるものだとなるでしょう。その何が問題なのでしょうか? これが抵抗を調べる一つのやり方です。「私」を調べるやり方、見えない抵抗を見つけるやり方と言えます。
抵抗は単に現われで、それが調べられると消えていきます。そしてそこに残るのは、起こってくるもの。見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこと。それが残ります。そこに経験する誰かがいないという考えは、命は自由であり、束縛されていないということです。
経験はひとりでに起こって現われます。そこに分離した個人はいないと考える時、そこには抵抗がなく、何も悪いことはありません。私たちがここに座っていて、誰も何も要求しないなら何も悪いことはありません。でもたぶん、誰か、例えば私がボブに何か話して欲しいとか?
何も悪いことがない時、そこにエゴはありません。そこには何も構築されていません。何も反対のものが生み出されていません。その場合、世界は敵対していません。抵抗していません。分離もしていません。その時、何も悪いことはありません。誰かが内側にいて、体や皮膚によって外側の世界と分離しているという考えがない時、そこには何の問題もありません。
そこに何の問題もない時、それは自然な状態と言われています。自然な状態は、もともと私たちに備わっている状態です。自分は「私」つまりエゴであると考えない限り、そこには誰もいません。思考、そういった思考がなければ、人生において記憶や何層にも積み重なって確かなものに見える概念に関連付けられて、そういった構築物が生み出されなければ、体があって、思考が体を成長させていて、それは女性であるというような考えがなければ、それはただ単にそれです。
この瞬間には何も悪いことはありません。それが自然な状態です。エンライトメントという問題はそこから始まります。私たちがもう自然な状態にいる時、架空の存在を構築しない時、こう言うのです。いいや、これではない。この自然な状態? いや違う! それはもっと重要で偉大なものであるに違いない。
それはもっと大それた経験に違いない。それは光に包まれた至福、恍惚のはずだ。私はまだそれを達成していない。私は今そのことを考えなければエゴではないが、それでもまだそこへは到達していない。さて、それは誰が何に基づいて言っているのですか? (笑い)
自然の中には、それから外れるものは何もありません。顕現の中ではそうでないものはありません。すべてのものがそれです。「私はそうじゃない!」どうして? どうしてそんなことが言えるのですか? 「私」は、「私はそうじゃない」と信じているにすぎません。自然な状態や努力の要らない存在を不鮮明にしているのは、私はまだそうじゃないと信じている思考です。
自分が究極の自由、偉大なエンライトメントから分離しているという考えを落とすことです。それは基本的に、分離した私はいないという信念です。今それを言うのは簡単ですが、私はそれを2010年にインドで理論的に学びました。でも、「私」はそのままでした。それはあたかも何か構築物、何かの構築物がそこにあるかのような感じでした。
ええ、私はそれを概念的に私の頭の中で、それが敵のはずはないと理解した感じでした。ええ、私はそれに同意しました。でも、私はまだ誰かがそこにいるという経験をしていて、誰かがそこにいると感じました。そこには誰もいないという教えと、実際の私個人の経験の違いをどうしたらいいのかと思いました。
私は自分の経験をとても信じていたので、そこに誰かがいるように見えて、それがとても現実的に思えました。でもそうではありません。ですから、この顕現全体はマーヤーと呼ばれているのです。私たちは体や壁を確かな実体あるものと思っています。なぜなら、それがとてもリアルなものに感じられ、それを現実として経験するからです。
でもそうではありません。ちょっと面白い話ですが、二、三日前、私の妹に私がここで何をしているかについて電話で話しました。彼女は英語がよくわからないので、(ミーティングの)ポーランド語の吹き替えを送ったところ彼女は、あなたや他の人が何を話しているのかわかったと言いました。
私は妹に、馬鹿な人たちが一緒に座って、あなたはいない、あなたに自由意志はない、あなたに選択権はない、分離した個人はいない、それを理解するのは難しいが、私たちは目を見開いて調べてそれを理解しようとしていると言いました。そうしたらもっと・・・。(笑い)私たちは大笑いしました。笑って笑って。
私はわざと、それはとても馬鹿げているというふうに説明しました。それを理解しようとするのはとても馬鹿げているので、止めることです。理解しようとすることさえ止めることです。実際私のママは何度か私に尋ねました。彼女は全く理解できず、どうして非二元が他の信仰よりもいいのか、どうして分離した個人はいないということが他の、例えばイエス様やなんかより良いのかと尋ねました。
それは少しもよくありません。もしあなたが、そこには自己はいないと信じたくて、それでもそこに誰かがいるという経験をするのであれば、それは何か他のものを信じるより、少しも良くありません。信じているレベルでは馬鹿げていておかしくて混乱します。私は妹と気持ちよく笑いました。おかしい、馬鹿みたい。あなたはいない。でもあなたは喋っている。やめてよ。
あなたに自由意志がない? ちょっと待ってよ。私の責任はどうなるの? 私は状況を選べないけど、どう対処したらいいかは選べる。ええ、もちろん。でも、それがどれほど正しいですか。楽観主義を学ぶこともできます。私たちには何千という感謝の姿勢についての証拠があります。NLPには科学的な証拠があります。もちろんそうなることもできます。
でも、「あなた」とは誰ですか? 概念的、論理的思考のレベルで物事を聞いて経験すると、このショー全体が馬鹿げたことになります。内側に自分がいないという論理は論理的ではありません。私が妹に言ったように、おかしなことになります。ええ、あなたの内側に何か小さなものがあって、それが操ってコントロールして船を運転している。誰もそれを見たことがないのに、そうだと思い込んでいます。
そして誰もそれを調べません。どうして調べないのですか? 誰も調べません。でもそこには誰もいないのです。私は母にはうまく説明できません。これは、信じるかどうかの問題ではありません。あなたが、あなたはいないということを信じて物事を個人的に受け取らなかったら、もっと楽になるとか、幸せになるとか、明るくなるということではありません。違います。
これは個人を、何か良いとか悪いとか信じる必要から自由にするものです。もちろん、もしあなたがより良い信仰を持てば、もっと態度が良くなって、習慣も良くなるでしょう。ええ、あなたの夢はもっと愉快になるでしょう。でも問題は気づくことであって、変えたり、タイタニックの上の椅子を調整したりすることではありません。それは沈みます。それが良い夢かどうかは関係ありません。
もしそれが夢であると理解されれば、そこに自由があります。そこに「私」がいないと信じることとは違います。それはスタート地点、もしくは調べてみることへの招待状かもしれませんが、信じることとは違います。「私」を信じることが生命の本質を見る目を見えなくします。
もし私がそこに「私」がいると信じたら、私はもう閉じ込められて目が見えなくなって、分離を経験するでしょう。これは、信じることそのものを落とすことです。より良い信仰を獲得するということではありません。今私は「私」がいると信じているとか、今私は「私」がいないと信じているとか、そういうことでは全くありません。
それは調べるかどうか、証明するかどうかの問題です。誰にも何もあなたに言わせないでください。今、「私」がいるかどうかを調べてください。もし「私」が見つかるなら、それは素晴らしいことであり、それを信じるといい。もしそこに「私」がいるのなら、信じる必要すらありません。
でも本当にそうですか? 誰もそれを見つけた人はいません。多くの人は調べていません。多くの人たちは調べたことさえありません。でも、もし調べれば、そこには誰もいません。どれほど、何を「私」に関連づけているかを理解することが大切なことです。
「私」がそこにいるというのはどんな感じがするのか、それはどんな感覚なのか。たとえば、自分の体に触れて感じることはできるが、誰か人の体に触れても何も感じないから、これが「私」でそれは私ではないというのは仮説です。何か感覚を経験するためにはそのための道具が前提となります。私は道具をもっています。私はいたるところにカメラを持っています。
私はそれらを私の目、目の延長であると言うことができます。私は車を所有することができ、それは私の延長です。でもそれは「私」ではありません。そういうふうに、媒体(体)が世界を感じるために与えられています。それは必然的に「私」ということにはなりません。究極的にはすべてのものが私です。ただ単にこの体ではなく、すべての人が私です。
指摘することに関して言えば、これは昔から否定的なものとして扱われてきました。あなたは本当の自分を理解できません。なぜならそこにはあなたが理解できるような何かがいないからです。もし「私」がいるなら、おそらく何らかの方法でそれを知ることができるでしょう。でもそれは私によってではありません。というのも、私が私を知ろうと思えば、私の体の外に出なければならなくなります。
でもそれはできません。でもたぶん、ボブは私の「私」を知ることができるかもしれません。でもそれは起こりません。ボブは単に私のイメージを持つだけです。それは変化します。私が月経前症候群の時、ボブは私に対して違ったイメージを持つと断言します。(笑い)いらいらして怒りっぽくなるでしょう。
彼は私に違ったイメージを持つでしょう。猫がいらいらしている時、私は猫に対して違うイメージを持ちます。それは流動的で、何も現実ではなく、実体もありません。そしてそれはいつも、思考とイメージ、概念でできています。
そして概念や過去の経験はいつも過去との比較にもとづいています。そのためそれを信頼することはできません。私が「私」を見つけることができないなら、誰も私のためにそれを見つけることはできません。「私」を見つけられないことは明らかです。ではどうしたらいいでしょうか? 逆の方法があります。
それは仏教における典型的な調査の方法で、ネーティネーティと呼ばれています。逆のことができます。私は何でないかを理解する方法です。私が意識しているものは意識(アエウアネス)のはずがありません。なぜならそれはアウエアネス(意識)の内容物だからです。そして今私が自分の体を意識することができるなら、私は体ではありません。
体が常に変化しているというのは事実です。体はいつも変化しています。私はその変化を意識することができます。私が体の変化を意識することができるのであれば、私は意識であって、体ではありません。同じことがすべてのことで言えます。体が変化するように、感覚や感情も変化します。そして思考も変化します。
生きていく環境も変化します。関係性も変化します。知ることができるすべてのものは意識に現れた内容物です。一つだけ変化しないのは、アウエアネス(意識)です。そしてそれは私が意識の対象にできない唯一のものです。私は自分のアウエアネスを意識することができるでしょうか? いいえ。もしそうしようとするなら、アウエアネスをアウエアネスの中の対象物としなくてはなりません。アウエアネスをマインドで理解しようとするどんなポインターも間違いです。時間の無駄です。
マインドはそれをしようとします、それは問題ではありません。それに気づいていることは良いことです。マインドはアウエアネスを理解しようとします。マインドは空間を理解しようとします。それを対象物としてそれに同化しようとします。オーケー、私は今、空間と同化する。いいえ、そこには動作を起こす「私」はいません。空間になろうと想像したり同化しようとしたりする「私」はいません。
それはまだ、マインドの活動です。今、同化しようとする活動は知られてしまいました。その知る行為はまったく努力なく起こりました。それはどんな動作も試みも要りませんでした。知る働きは努力なく起こり、それを否定することはできません。その存在と知る働きを否定することはできません。そしてまたそれを、対象物として理解することはできません。
何らかの理由で、もしそれができると思うのは、人々がとてもとても活発な想像力を持っているからです。でも、私たちがその中で自分を知ることができる空間とは何でしょうか? 疑問も生ぜず、否定もできない一つのことは存在するという事実。存在するということを知っているということです。
前回のミーティングで、私たちが眠っている時はどうかというのがありました。あなたが眠っている時にその質問をしてください。もしあなたが眠っている時にもその問題を抱えているなら、素晴らしいことです。それに取り組みましょう。でも私の経験では、眠っている時に疑問は起きてきません。
ですから、その質問に答える必要もないし、マインドにかまう必要もないし、何かに注意を向ける必要もありません。眠っている時の活動の記憶は、思い出すには欠落があって、「私」と同化することにも欠落があるので、それを確かめてみる必要はありません。ですから、何も問題はありません。
眠るという考えはマインドのもので、それは時間という考えを意味します。リチャードがとても素晴らしポインターを示しましたが、経験から考えてみると、朝早く起きた時に生命の本質がその存在を構築し、私はその記憶がないし、今日は何曜日かもわからないのですが、ゆっくりとダウンロードされて、ああ、そうだ、日曜日だ、あれをしよう、そうだ、私はこれだとなって、起きた時にひとりでに構築されるような感じで、眠る時になると、それが自然に解体されてすべて落ちていって何もなくなる。そしてまた体が戻ってくる。
私たちは体があるかどうかも知らない。誰か他の人が教えてくれるかもしれませんが、その誰かも夢の中で構築された人です。私たちは真実を教えてくれる人を夢の中で見ることもできます。私たちは真実を教えてくれる科学者の夢を見ることもできます。でも、それもまた夢であると認識することは素晴らしいことです。そしてそれを認めることです。
でも、この体と生体コンピューターの存在、構築、解体のモデルもすばらしいもので、利用できます。でももしあなたが、それが連続していて、何か連続的に起きていると感じていても、それは今この瞬間の実在ではなく、どんなにそれが時間に依存しているかを見るとき、それを簡単に捨て去ることができます。
もし昨日というものがあるなら、今それはどこにありますか? それは私の記憶の中にしかありません。(ボブの背中をさすりながら)あなたはどうですか?(笑い)
私たちにとって昨日は大変な日でした。ボブは少し疲れていて、ミーティングの前に自転車こぎのエクササイズをしました。ええ。
どの瞬間も違うものだというどんな考えも思考であり、私が今この瞬間に創造しているメンタルイメージです。それは私が創造しているわけではなく「私はいる」が創造しています。ある意味、それは現れています。
私は体とマインドの全体性を通してそれを表現しています。でも、体とマインドとしての「私」は全く何もしていません。私が自分の髪を伸ばすのに何もしていないように。私が思考を作り出したり選んだりしていないように。
参考:セイラーボブが休んでいた時期(2018年6月)にカタリーナが一人でミーティングを開いていた時期があります。そのYouTubeは、Sailor Kat(YouTube)にあります。