2019/03/21
The Spiel ⑩ (2018.9.23 話者カタリーナ)
(2018.9.23 話者カタリーナ)
カタリーナ:(ボブに向かって)私がやるのですか? (参加者に向かって)彼(ボブ)は途中で入ってきます。約束します。みなさん名前を言ってください。
(それぞれ名前を言う。省略)
たくさんのトニーがいます。
参加者:一つだけです。
カタリーナ:良い答えですね。(笑い)誰か新しい人はいますか? まだこのことを聞いたことがない人はいますか? (返事なし)それは良かった。というのは、初めて来た人は私たちが観念(idea)について話していると思うからです。例えば、一つしかないという事。(ああ、それは魅力的な観念だ、さてどうやったら分離がないという観念を体験できるだろう)。観念は解りづらくて、まごついてしまいます。
そんなふうに感じられるようにと考えるだけでも勇気が必要です。(ああ、そこには一つのものがあるだけだ。形は空である)や、イエスが言った、(父と私は一つである)とかは、なんて素晴らしい考えなんだと魅せられて、その観念の催眠にかかってしまい、それがすごいものだと感じます。
人々はビジネスをやったり、退屈したりすることすべてに対して観念を持っています。私は、宇宙全体が一つだ、あるいは自分はいないという素晴らしい観念を持っている。それはすごい。私たちは現実にその観念を受け入れようとして、どうやってそれを実現されようかと考えます。それが、私たちがその観念をシェアしようとする理由です。
そして誰か他の人にうるさくしようとします。誰かシェアする友達を見つけて、同じ観念で盛り上がりたいと思います。私はかって女友達とエンライトメントという観念でハイになって、一緒になってそれを大きくしてとても興奮して、まあ、なんてとんでもない考えをしていたのでしょうか。
また、私たちがここで哲学の観念について話していると感じる人もいます。この観念が他の観念よりも優れているとか、宗教やその他の観念について。それはここで行われていることとは全く違います。最初はそんなふうに感じるかもしれませんが、これは、もっと良い観念やもっと大きな観念を抱くことや、ある観念を信奉することとは違います。
それはまた、(床にいる猫に対して)Hey! やめなさい。(笑い)ごめんなさい。そしてそれはまた、この観念を他の人に伝授したりシェアしたりすることとも違います。他の人がこの観念を受け入れたり、信じたりすることは重要ではありません。普通の探求者にとって非二元はそんなふうに始まるのですが、探求というプロセス無しで、自然に真実を受け入れる人々が大勢います。
それは、ある時は長い年月をかけて、ある時はアクシデントや病気などでも起こります。探求者はマインドでその観念を抱いて、またマインドから離れて、まるでそこでぐるぐる回るようなやり方をしています。そういうやり方ではいけません。
時々起きるのは、マインドがウイルスに侵されてしまい、「エンライトメントはある。分離はない。私はこれを広めたい。私はこれをシェアしたい。私はこれを誰かに無理にでも押し付けたい。広告すれば人々がやって来て聞くだろう。なぜなら私はボーディ・サットヴァ(菩薩)だから。私はあなたが苦悩から目覚めるのを助ける」というようなことです。
こうしたことは非二元ではありません。非二元は観念を理解することではありません。それは観念の中に真実を見つけることではありません。それはまったく逆です。観念は、観念を超えて理解されたものの表現、描写です。そしてもし私たちが、言われたことを受け入れようとして、それが真実かどうかと座って沈思黙考するなら、それは基本的には非二元とは逆のことです。
それは、観念が無い時にある真実のことです。例えば、私は分離しているという観念、私は分離していないという観念、そうした観念が無かったらどうなりますか? どんな思考も無かったら、どうなりますか? 観念が無い時、何が真実ですか? 例えば、私は体である、私はマインドである、私は個人である、こういった観念は、私たちが信じるよう条件付けられたことです。
さて今私は、私は体ではない、自己はいない、分離はないという興奮するような観念を習得、身に付けようとしています。それは素敵だ。それはとても新鮮で新しく感じる。でも、これもまた観念です。もし、そうした習慣を落としてしまったらどうなるでしょうか?
例えば、私は知らない、私は体である、私は体ではない、私はマインドである、私はマインドではない、そういった観念、非二元の観念、典型的な条件付けの観念すべてを取り去ったら、私がマインドで表現できる唯一の観念は、私には全然わからない、私は知らない、一緒に見つけましょうと言えるだけです。神、神無し、一つ、一つ無し、そういったどんな種類のイメージ、メンタルイメージも無かったら、一緒に見つけましょうと言えるだけです。
なぜならマインドはそういうふうに動くからです。私たちが、「空間のようなアウエアネス」や「空(そら)のようなコンシャスネス」について話す時でさえマインドは、すぐにそういうふうに動きます。なぜなら、言葉は何かを対象として表すようにできているからです。言葉は客観的なものです。
「空(そら)のようなアウエアネス」のような大きな観念が対象となるやいなや、私たちはそれを探し始めます。「私」がそのアウエアネスを成し遂げようとしたり、アウエアネスの中に留まろうとしたりします。アウエアネスは物ではありません。言葉は観念を表しています。観念はメンタルイメージです。アウエアネスは観念ではありません。
アウエアネスは、そこに観念、言葉、言語が現れ、表現される空間かスクリーンのようなものです。私たちが指し示しているものは、どんな言語、どんな概念、どんな思考よりも前にあるものです。もし私たちがもうすでに思考、マインドのレベルで、真理を理解することや真の自己を見つけること、エゴを無くすことなどに興奮していると、(頭を指して)ここからの見方、理解という視点から、それを見つけようとするのはとても困難になります。実際にはそれは一度も失ってはいないのですが。
それはそうした観念、思考よりも前にあるものです。でも、マインドはそういうふうには設計されていません。マインドの機能するやり方は、対象物を見つけたり、何かを表すためのシンボルとなる言葉を作ったりする時には非常に素晴らしい能力を持っています。
でもマインドは、マインドが現れているものを理解することができません。もしマインドが、マインドが現れているバックグラウンドを見ようとしたら、バックグラウンドの外へ出なければいけません。そうするためには、マインドが停止して、バックグラウンドの外に出ないといけません。でも、外に出ても何もないのです。ですからそれは不可能です。
概念である思考で非二元を理解、会得、経験することはできません。非二元の実在を経験できる唯一の方法は思考を止めることです。私たちは思考を止めることができますか? 私が行為者でないのに、私が思考を止めることができますか? できません。
そしてまた、この劇全体のすべてが一つの命であるという観念の中では、命は単に顕現であり、様々なヴァイブレーションのパターンが様々な姿形、体、思考などすべてを形作っています。すべては機能の一部として起こっています。草が生え、鳥が鳴き、思考が現れ、心臓が脈動し、髪の毛が伸びるのと同じように。
ひとりでにすべての形となって現れた生命すべては、概念的な思考の外に出て、顕現として現れた別の対象を見ることが可能です。「空(くう)が振動して形となる」とブッダが言ったように、その空(くう)は自身を、形が現れることを可能にするバックグラウンドであると理解することができます。
目覚めを「私」やマインドに当てはめることはできません。マインドが目覚めることはありません。マインドは一連の思考であり、機械的なものです。それはコンピューターのコード(記号)のようなものです。どうしたらコードが目覚めることができるでしょうか? 機械的な思考が目覚めることはできません。
「私」という存在は、「私はいる」と条件付けされています。それは基本的な思考の流れです。「私」、私は体である、私は年寄りである、若い、醜い、愚かだ、美しい、など何でも、それは観念にすぎません。それが「私」という存在を構成しています。その観念は「私」と同化しています。
この観念、すなわち過去の経験で構成された存在は決して真実を理解することはありません。なぜならそれはもう死んでいる思考だからです。思考は目覚めることはありません。真実を理解するのは、真実自身です。真実そのものが目覚める必要はありません。命は目覚める必要はありません。それは完全にうまく機能しています。
それは、どうやって血液を送り出したらよいかを知っています。それは何をしたらよいのか知っています。それはどうやって見たり聞いたりすればよいのか知っています。それが目覚める必要はありません。思考のベールが落ちて、もう世界は概念的思考で翻訳されることはなくなるでしょう。
そして、思考をありのままに見られるように、世界をあるがままに見るようになります。かつて私が思考や観念を見る時、そこには分離はない、なんと素晴らしいのでしょう、どうやってそれを表現したらいいのでしょう、それはわくわくする、と言っていたものが今は、ああ、それは単に思考だ、それは何でもない、それは思考にすぎない、となります。
命は、この観念を、私は十分ではない、私は愛に値しないといった観念と同じで、具現化させたり、興奮したり、高ぶったりすべきものではないと理解します。それは単に思考です。誰がかもうもんですか。それは単に思考です。これは思考だと認識しているのは思考ではありません。それは純粋な気づき、純粋な知る働きです。
純粋な知る働きが、その内容を認識、意識しています。思考が「私たち」は思考であると認識する時、思考が知る働きを止めることはありません。なぜなら思考は死んだものだからです。思考は執筆のようなものです。言葉やコードを書くようなものです。思考には能力はありません。思考は死んでいると言うことができますが、実際には何も死にません。
すべては命です。命は形となって現れます。でも、指し示すために・・・。
(ボブが外を気にしたので中断)
ボブ:続けて。
カタリーナ:OK.
ボブ:誰かが外で動いていたので・・・。
カタリーナ:OK、ついでに何か話してください。
ボブ:いつも通り始めます。私はあなたに何も教えることはできないし、あなたに何かを告げることもできません。私は単に指摘・・・。(ボブ、言葉が出てこない)
カタリーナ:あなたは誰かに話すわけでも・・・。
ボブ:あなたは体でもなければマインドでもありません。多くの人があなたにくだらない話をたくさんしますが、あなた自身の根本的な真実を調べることにはなりません。この完全性の中で、それが一つのものであるならば、誰もあなたに何も教えることも何かを告げることも、体とマインドに何かを話すこともできません。あなたが体とマインドを調べて理解すれば、それもまた単にパターンが姿形となって現れたものにすぎないと理解するでしょう。
そしてあなたは、探求の無意味さを理解するでしょう。あなたは何者かになることはできないと知るでしょう。あなたはもうそれなのです。探求することが問題です。これは何かになるということではありません。私たちが疑問を持つことなく受け入れ信じているすべての概念や考えなどを捨て去るということです。ほんのいくつか調べるだけで、それは落ちていき、私が本質、自然な状態と呼ぶものが残ります。
それは概念的に想像された考えや体やマインドではない、あるがままの本質。あなたを自然に努力なく機能させているもの。花の中にもあり、空で雲を動かし、自然に機能させているもの。呼吸をさせ心臓を鼓動させ、髪の毛や指の爪を成長させているもの。それはすべての自然の機能です。それは、何かになるとかいう問題ではありません。
それは、あなたが抱いてきたすべての概念、考え、イメージを捨て去るという問題です。それを捨ててください。マインドという考えさえも捨ててください。誰もマインドと呼ばれるものを見せることはできません。あなたが調査をすれば、思考とは別にマインドというようなものはありません。思考を調査すれば、それにはどんな実体も内容もありません。これぐらいでいいでしょう。続けてください。
カタリーナ:OK。マスク、ペルソナの話はどうですか? あなた以上にはうまくできません。
ボブ:(笑い)誰がマスクの話をすると言うのですか? マスクがマスクについて語るのですか。ペルソナという言葉はいにしえのマスクという言葉からから来ています。ラテン語のマスクからです。わたしたちは自身のアイデンティティーとして概念上のイメージとしてのマスクを被りました。
私たちは純粋な存在意識の上にそれを被せ、うわべ上は孤立した人(persona)がいるように見えるようになりました。そして私たちはこのペルソナ、エゴが実在であると思っています。調べてみてください。それはそんなものではありません。そしてエゴがあなたのすべての問題の原因であることを理解してください。エゴ、自己の中心、私、呼びたければ何と呼んでもいいのですが、それはマインドであり、そのようなものはありません。
マインドと呼ばれるものを見せてください。自分で調べてみてください。私たちは「私のマインド」と言いますが、誰のことを言っているのですか? 私の家、私の車、私のコートと言う時と同じで、誰のマインドのことを言っているのですか? あなたは自分が家や車やコートではないことを知っています。おそらくあなたはマインドでもないでしょう。それを調べて理解する必要があります。
私たちがマインドと呼ぶものは単に振動するエネルギーのパターンですが、私たちはマインドにすべてを関連付けました。マインドなどというものはありません。思考、考え、イメージが現れて、私たちがそれを疑うことをせず、それが実在であると受け入れました。この概念上の人(persona)、マスク、マインドは「私」です。どうして完全なものが自己を分割したり、「私」となって現れたりすることができるでしょうか?
私はどんな体にもどんなマインドにも話しかけていません。あなたに何かを教えることも何かを告げることもありません。どうやったらスクリーン上の映像の人が別の映像の人に話しかけることができるでしょうか? 後ろにある鏡を見てください。そこにはたくさんの像が映っています。その中の一つの像が他の像に向かって、今何を考えているとか尋ねることができますか?
鏡の中のそれぞれの像は新鮮で新しいものです。鏡の中以外では像でいることができません。鏡の中の反射と外のものとの違いは、それが、私たちが話していることですが、鏡はその外に反射する何かが必要であるということです。そしてそれが、この直接性の中で起こっています。うわべ上、本質が振動して様々なパターン、姿形となります。
パターン、姿形となったものはマーヤーと呼ばれます。様々なテキストや聖典の中で、マーヤーは幻影であると言われます。それは現象としての顕現です。辞書で「現象・phenomena」を調べてみてください。「そのように現れるもの」という意味です。あなた、私、そしてすべては、そのように現れ、もしくは見えているにすぎません。
もしあなたがそのうわべ上実在に見えるものを調べようとするなら、体を顕微鏡で見てください。その中に、一定の位置があるか見てください。すべての細胞には知性エネルギーが満ちています。それがあなたです。私はそう呼び、それもラベルですが・・・。いずれにせよ、これで十分です。
カタリーナ:ありがとう。
ボブ:引き続き続けてください。
カタリーナ:OK。私たちが、世界は実在ではない、それはマーヤー、現象の幻影だ、それは原子でできていて空であるという時、分離した個人、マスク、エゴ、マインド、体という観念は、間違ったものに感じます。しかし、私は存在しないと言う時、それはもっと間違いであるように感じます。なんてナンセンスなんだ、もちろん私は存在する。私は個人として、ペルソナとして、マスクとして、個人のアイデンティティーであるマスクとして、エゴとして、私は実在ではない? 勘弁して、私はとてもリアルに自分自身で「私はいる」と感じる。私は存在すると感じる。
ボブ:それが、私たちがした間違いです。私たちはそれが実在ではないことを知りました。パターンが姿形となって現れたものは実在ではありません。実在は一つの本質がパターン、姿形になって現れたものですが、パターンや姿形は実在ではありません。それは単にスクリーン上の映像にすぎません。スクリーンの上にすべてが現れ、それは一つのものであり本質です。それにはどんな実体も独立した性質もありません。それがすべてです。空間のようなアウエアネスの外には何もありません。すべての顕現は現象としての現れですが、うわべ上はリアルに見えます。その本質は実在ですが、現れはそうではありません。本質は一つです。
カタリーナ:ええ。誰もあなたに、あなたはいないと言おうとはしません。ポインターが指し示そうとしているのは、あなたは自分が考えているようなものではないということです。あなたは自分自身に抱いている一連の思考ではありません。私はエゴである、私は分離した人である、私は体の中にいる、私は体であるというのは観念であり、思考です。
「私」は私が存在するという事実を否定することはできません。私は、誰も打ち倒すことができない・・・。(ボブに聞く)何て言うのでしたか? (笑い) あなたのスピリチュアルアルを打ち倒す・・・。ええ、知っています。ええ、これは信じることではない。これは観念ではない。これは思考ではない。存在の真実は観念ではありません。
それは、私は生きているとか存在するとか、誰かに言われたことではありません。ここにいる、私は存在するという内在する感覚は確かなものであり、それを否定することはできません。その存在の感覚、存在の意識の上に、「私はいる」は究極の真実であるという概念を置きました。
でも、私は体であるというのは嘘です。私は人間というマスクであるというのは嘘です。私は人、エゴ、存在、私はあなたと分離している、私は宇宙から分離しているというのは嘘です。これは興味深い観念を取り上げて考え抜いて具現化しょうとか、経験しようとかいうものではなく、見つけることです。それは観念を落として、思考なしで、私はあれこれであるという観念無しで、何が真実なのか、何が本当なのかを理解することです。
「私はいる」。それは確かです。誰もそれを否定することはできません。否定する場合でも、「私はいない」という前には私がいなければ言えません。「私は存在しない」と言うためには、私が存在しないと言えません。ですから、「私はいる」を否定することはできません。
でも、本当の私はまた別の話です。私たちが概念上のイメージやエゴやマスクについて話している時、私たちは、これは思考の塊 過去の経験の概念と過去の思考である言います。例えば、私は女性である、なぜなら私は女性であると言われたから。私は、かつては少女だったなど。でも、私たちが学んだことはすべて(頭を指して)ここにあるコンピューターのファイルのメモリーに蓄えます。私たちはメモリーに関連付けしますが、メモリーは学んで知ったことであり、概念上のイメージです。
そしてもう一つの構成要素があります。それは感情的な構成要素です。例えば、私は思考の塊というだけではなく、もし私がイメージや体のルックスやマインドを占める好き嫌いを信じているなら、それが構成要素となります。そしてまた私は「私」のストーリーに夢中です。私は「私」のストーリーと同化しています。
「私」のストーリーは他のどんなストーリーよりも重要です。私は時間の90%を「私」のストーリーに使い、あれこれします。そしてもし、自分を思いやる瞬間が来るとすれば、それは自然に、「私」への執着からのほんの休憩として起きる時だけです。「私」への執着は、明日私に何が起きるのだろう、彼らは私をどう思うだろう、もしお金や健康が無くなったら、年を取ったらどうしよう、などというストーリーへの同化です。
ストーリーは思考のかたまりです。概念のイメージは過去の経験、条件付けでできています。ストーリーとの同化は、私が存在することを確かなものにし、私とストーリーを結び付けます。そして私が存在するという確かさは、体と同化します。体は見ること聞くとこ味わうこと触れること嗅ぐことができます。そして今や、私は体であり、私が見ている、私はマインドであり、私が考えています。
自分が存在するという感覚が体とマインドという上着を着て、それが、自分は別のものであると考えています。根底にある生命の存在感覚が自分は他のもの、分離したもの、媒体、私たちとなって現れている媒体だと思っています。でもそれが本当に真実なのでしょうか? 私は他のものなのでしょうか? 私は体なのでしょうか? 私は私の周りのものすべてから自分を分離することができるでしょうか?
できません。なぜなら体は、すべての顕現を作っているのと同じ構成要素でできているからです。私たちは原子と素粒子などついて話すことはできます。すべてのものは原子と素粒子でできていますが、実際それは微粒子でさえありません。それは可能性のフィールドであり、エネルギーの波です。
そして私達は古来のやり方で調べることもできます。それらは構成要素です。体が現われるのは空間です。空間は空気であり、そこで体は生きています。空気無しでは体は生きられません。空気は絶えず行き来しています。二回同じ空気を呼吸することはできません。それは絶えず動いています。この塊(体を指して)の80%は水です。その上水は食べ物、飲み水など様々な形で供給されます。
肉体を構成する物質は原子であると言うことができます。食べたものを、この機械全体(体を指して)が骨や筋肉など様々なものに変えます。ですから、実際には何も分離していないのです。私たちが思っている分離は学習したものです。赤ちゃんはこの世界のすべてを全く分割できないものして見ています。
赤ちゃんが親しい人の顔を認識し始めるには2、3か月かかります。さらに、その顔は意識のフィールドに現れたり消えたりしているのではなく、どこか他の場所にいて、やって来ては去っていくのだということを理解するのにまた2、3か月かかります。脳はそうやって条件付けされます。私たちが世界を認識するやり方は、注意を向けた先からどうやって選び出すか、どうやって別個の対象に焦点を合わせるかという初期の学習からきています。
それは素晴らしいことです。なんと適切なんでしょう。なんと美しい夢なんでしょう。もしそれが無かったら・・・。考えられません。なんと素晴らしいのでしょう。見る能力、別個の対象を見る能力、別個の音を聞く能力、別個の経験を経験する能力。味、触れること、そうしたものがすべての現れの素晴らしさです。
ボブ:もしあなたがその媒体、体を知らなかったら、どうやってそれは現れたでしょうか?
カタリーナ:そのとおりです。あなたは生命として、もしあなたが自分は帰る道を探している分離した物であるという観念を落とすと、あなたは命であり、愛の命、様々な形のbeing(本質・存在)として生まれた愛です。そして自身がbeing(本質・存在)として、他の形のbeingに与え、受け取り、交流します。空間はbeing(本質・存在)です。体はbeing(本質・存在)です。カーテン、カーペットはbeing(本質・存在)です。
そしてすべては一つのbeing(本質・存在)が振動して様々な形となったものです。振動して音となります。光、X線、超音波などすべての波はそれぞれの波長を持っています。それは一つの命、一つの基本的な本質、エネルギーレベルでは一つの可能性のフィールドです。区別はマインドからやってきます。(頭を指して)これは世界を翻訳する機械です。
それはすべてのものにラベルを貼り付けます。ラベル貼りをすることによって、そこに物が存在すると思い込みます。それはそういった物を創造し、受け取ります。それが起こったことです。あなたがその劇を、プレイヤーとしてではなく、空間として理解するなら、自身が生命としてダンスをするのを見るなら、
(映像中断二箇所。文章が繋がらないため割愛)
もしその考えが落ちれば、思考のスペースはきれいになります。そこにはいつもラベル貼りをしていたメンタルノイズはなくなります。そこにはそれを把握したり、理解しようとしたりすることを続けようということはありません。何かをしようとすることのないリラックスしたフィールドで、生活はそのままそのように続いていきます。
そこでは、単に見ることが起こってきます。たくさんの物が見え、見るプロセスがあります。その見る働きの中に分離した形があっても、それを見ている人も分離しているという考えを強化する必要はなくなります。考えることや概念化は不要となります。もし考えることが脇に押しやられると、そこには単に見る働きがあります。
なんという奇跡なんでしょう。誰も見ていません。誰も、命がどうやって見ているのかを理解しません。私たちは装置が働くかを確かめることはできます。同じような機能のカメルを作ることはできますが、命が見るという奇跡をどうやって起こしているのかは全くわかっていません。そしてそれを思考の働きのせいにすることは、奇跡を殺してしまうことになります。
同じことがすべてに起こっています。聞くこと、触れること、味わうこと。もしそういう知覚の働きという奇跡の世界に思考が無かったら。呼吸を止めて、ここにいて、ここが静かになって、この瞬間から逃れようという思考は無く、例えば、こんなやり方はダメだ、次に何をやるか考えなくては、明日何しよう。そういったすべての自己執着が無かったら、命は輝き、生き生きしたものとなります。
命は常に変化します。何も同じままではいません。音は同じ音のままではありません。注意はスムーズに動き、それ自身で自身を見ます。世界は思考無しでそれ自身を取り囲みます。観念がない時、何も変える必要はありません。変化する必要も、何かに取り組む必要もありません。
そこには自然のリラクゼーションがあります。それが自然な状態です。それが、猫があそこのカーペットの上で座っている状態です。(猫を指さす)完全にリラックスして、感覚をオープンにして、耳をオープンにして、長い毛で空気の流れを感じて、全身の皮膚隅々まで意識していて、臭いを感じています。それて私が見ているのを見ています。彼はすべてを感じています。
その感覚的経験、経験するbeing(本質・存在)は、もしそれが概念化によって、曇ったりベールでその上を覆われなかったりしたら、それはとても心地良いものです。何も変える必要はありません。何も変化する必要はありません。他には何も、永遠の至福も必要ありません。なぜなら、このbeing(本質・存在)の心地良さは永遠に新鮮だからです。
それは例えば、OK、私は一度それを感じた、私はそれが何か知っている、さて、今度は何か別のものをください、というものではありません。それは過去には存在しません。それは、今ここにだけに存在します。この瞬間は今ここだけです。この感覚は今この瞬間にだけしかありません。
存在の感覚、本質の存在感は、感覚が現れてくるバックグラウンドです。感覚はこの瞬間の内容物です。見る働きの内容物です。聞く働きの内容物です。味わうこと、触れること、嗅ぐこと、思考、続いている思考もその内容物です。でも、being(存在・本質)の心地良さは、内容物よりも前にあります。
そこにはベールは無く、翻訳は止まっていてマインドは静かで完全で、私は知らない、かまいわしない、ああ、といった感じの自然な状態です。これは自然な状態と呼ばれています。これが、非二元が指摘しているポイントです。それはいつもそこにあり、それは状態ですらなく、状態無き状態。なぜならそれは、練習したり、訓練したりして達成する何かではなく、到着する何かではなく、状態以前にあるものだからです。
それは海の表面のようなもの。それは静かであったり、荒れていたり、波が5メートルだったり15メートルだったり。でも、海の底は静か。それは単に水。それは単に目撃者で、どんな状態が現れても自然な状態です。感情的な種類の混乱、肉体的な楽しみ、知的な熟考、それらは表面です。でも、being(存在・本質)の状態、being(存在・本質)の深みはもうすでにそこにあります。
それを取り去ることはできません。それは「私はいる」を知る働きです。その「私はいる」を知る働きが、非二元が指し示していることです。探求の初期の段階で私たちは高揚した考えを持ちます。「私は非二元(oneness)を経験したい」「私は宇宙との神秘的な融合を経験して、永遠の至福を経験したい」。
ええ、なんて素敵な考えなんでしょう。ドラッグにふけっていなさい。(一同笑い)
それは長続きしないという意味ですよ。(笑い)それは長続きしません。非二元で言っているのは、もしそれがあったとすれば、もちろん楽しい状態でしょう。私の言いたいのは、チョコレートケーキは楽しい状態です、至福、オルガズムは素晴らしい心地良い状態です、それの悪いことは何もありません。でもそれは続きません。それは束の間のもので、やって来ては去っていく、アウエアネスの内容物です。
もし至福などというものがあって、あなたが今それを経験していないのなら、あなたは明日か、10年後か、10秒後かに経験することを期待するでしょう。でも、その価値はありません。なぜなら、それは今ここに無いからです。それはやって来ては去って行きます。もしやって来たなら、去っていきます。それは束の間のものです。
それは単なる花火です。それは単にチョコレートケーキです。それは重要ではありません。それは観念です。私はそういった観念に10年前に引きつけられました。エンライトメントは永遠の至福で神秘的な融合です。だから私はそれを追い求めました。「私」は完全にペルソナ(仮面)で、劣っていると感じていて、内側に空虚を感じて、私はまったく愛するに値しないと感じていました。
私は委縮した痛み、シャイであること、無価値観を解放したいと思っていました。もちろんその反対はエクスタシーです。なぜならそれは苦悩だったからです。それは全く極度の苦悩でした。分離した存在であるという観念。誰かがここ(胸を指して)にいて、体の中に座っていて、体の中に住んでいて采配をふるっていて、見ることや心臓の鼓動や髪の毛を伸ばすスウィッチをオンにしていて、もしここに誰かがいて、それが私だとしたら、もちろん私はいつも自分のことに夢中です。
でももし私が内側を見ると、そこには何もありません。誰も見ている人はいません。誰も考えている人はいません。それは単にアウエアネスの中を漂っている物にすぎません。単に思考がアウエアネスの中を漂っているだけです。(胸を指して)この送受信機はある思考に同調しています。食べ物の好み、音楽の好みを、この(体を指して)一連のパターンに。
でもそれは私の好みではありません。それは、個人というパターンに条件付けられた好みです。でも、私は個人ではありません。(口を指して)これは私のスピーカーです。(目を指して)これは私の双眼鏡、カメラです。これは命が自身を垣間見る方法です。(自分を指して)これは夢の登場人物で、それがあたりを見回し、劇の中、夢の中で人と交流しています。
そしてそれは登場人物としては何もしません。なぜならそれは死んでいるからです。でも、命(life)は命自身を知っています。それは自己の反射を他者の中に見ることによって知っています。空(くう)が形となって反射しています。oneness(非二元・一つであるもの)は、決してそれ自身を知ることができません。one(一つ)はそこから出ることができず、自分が何なのかを知りません。それは他者、基準点がなければ、それを知ることができません。
そのため、知る働き、二元性が戯れとなって現れます。これは play(戯れ・劇)です。これは ride (遊園地の乗り物に乗ること)です。これは単に ride です。ビル・ヒックス、コメディアンがよく言っていました。これは rideです。もしあなたがあまりシリアスにならなければ、あなたは乗り物に乗ることを楽しむことができます。でも、もしあなたがシリアスになると、・・・。(ボブに向かって)何かありますか?
ボブ:書名「Self realization through naked awareness」(むき出しのアウエアネスによる自己実現)。あなたはこの本を読む必要ありません。タイトルを見てください。むき出しのとは何ですか? むき出しの意味は何ですか? 服を着ていない、裸という意味です。あるがままです。このアウエアネスを認識してください。
今、認識していない人(unaware)は誰もこの部屋にはいません。みなさんに意識があります(aware)。それができるとか、できないとは言えません。認識することには何も付け足す必要がありません。
そして、ネイサン・ギル。名前を聞いたことがあるかもしれませんが、彼はすでに亡くなっています。彼が、「ボブ・アダムソンが本を出した。What's wrong with right now? if you don't think about it.(もし今そのことを考えなかったら、何も問題はないじゃないか?)。 本は読む必要はない。すべてはタイトルにある。そのとおりにやりなさい。もしそれを見たら」と言いました。
もう一度、むき出しのアウエアネス。What's wrong with right now? if you don't think about it.(もし今そのことを考えなかったら、何も問題はないじゃないか?)。おびただしい数のテキストが言っています。マインドを止めよ。思考を止めよ。思考が問題である。でももしそれが理解されれば、問題ではありません。あなたは言葉が様々に表現されているにすぎないという事を理解するでしょう。
あなたは好きなだけ考えることができますが、捕らえられことはありません。言葉は実在ではないということを理解してください。描写は描写されるものそのものではありません。地図は土地ではありません。これらのことを理解してください。それはとてもシンプルです。今までも、これからもそうです。
でも私たちは、獲得しようとしたり、何かを手に入れようとしたりして間違えます。なぜなら、いつもすべてを「私」に関係付けるからです。自己は一つのものがパターン、姿形となり、すべてとなって現れたものだということを理解してください。私たちは、私、私自身、私の車、私の体、私のマインドというふうに分割します。あなたがこれらのものを調べると、そんなものは存在しないと理解するでしょう。
カタリーナ:OK。基本的に、認識すべきこと、瞬間瞬間に理解すべきことは、物事をありのままに見ること、思考をありのままに見ることです。私は体であるというのは観念であり、それは真実ではありません。それは実在ではありません。もしそれを聞いても、私は劣っているという観念があるなら、それもまた観念です。それは真実ではありません。
でも、そう感じます。ええ、そんな感じがします。縮こまった感じがします。ええ、それはフィーリングです。フィーリングは思考がフィーリングを感じていると認識できます。私は縮こまっている、私は体の中にいるといったフィーリングは単なるフィーリングです。誰がそのフィーリングを意識しているというのでしょうか?
誰が、その縮こまった感じのフィーリングを意識しているのでしょうか? それは純粋な命です。瞬間瞬間にアウエアネスが意識しています。命が意識する働きを意識しています。知る働きと同じように。そしてその内容物。何が「私はいる」という観念や経験の背後にやって来ようと、生活上の経験は概念となります。
「私はいる」、それを私は知っている。でももし私がその後ろにどんな概念もくっつけなかったら、「私」とは何ですか? 「私」は体ですか? いいえ、それは概念です。「私」は劣等感ですか? いいえ、それはフィーリングです。私は個人ですか? いいえ、それは観念、メンタルイメージです。「私はいる」。でもそれは何? どこにいますか?
OK、ここにいる(体を指して)。でもここで終わりですか? もし体の形を受け入れなかったら、ええ、私はいる、私はここにいる。でも、どこで「ここ」は終わりますか? もし私が上を向いて自分の体が見えなかったら、もし目を閉じて自分の体が見えなかったら、体のサイズの観念を完全に取り去ったら、もし私がそういう思考を落としたら、「私はいる」「私はここにいる」という観念には終わりがありません。
それには終わりがありません。それは、私の体が宇宙全体に広がっているという意味です。宇宙というのも観念です。それは観念です。目を閉じて、座って、あなたがどんな観念も持たないとしたら、あなたはどこから始まって、どこで終わりますか? 姿形や距離 を持たず、ただ存在するだけです。
目を閉じると、空間が消えます。遠くや近くを知るためには目を開ける必要があります。これはすべて感覚から来ます。マインドが静かな時、時間は消えます。もし私たちが物事を空間や時間の観念無しで見るなら、外側や内側、遠くや近くとは何ですか? 無です。純粋で明白な存在です。それには始まりも終わりもありません。そして私はその存在です。
目を開けると、メンタルイメージや概念がやって来ます。考え始めると、時間や未来や過去という観念がやって来ます。そしてそれが現実であると強化していきます。でもそれは素晴らしいことです。現実はありのままで、全く愛すべきものであり、感謝すべきものです。それはどれほど現実に見えることでしょうか? それはどんなに壮大でしょうか?
でもそれは観念、目が空間の感覚を与えている、マインドが時間の感覚を与えている、時間と空間の感覚は、明白な本質の概念による翻訳からやってくると認識されるべきです。それは条件付けからやってきます。それは明白な存在が様々な形の存在に分割されたものです。
それは見えないものではある必要はありません。空間を見ることはすばらしいことです。対象物を見ることは素晴らしいことです。実際には私たちは空間を見るのではなく、対象物を見ています。うわべ上の分割を見ることは素晴らしいことです。そしてそれをそのまま知ってください。
それは私たちが夜に夢を見るようなものです。私たちは眠りの中で体を創造します。夢を見ている体はベッドの上に横たわっていてどこへも行きません。でも、夢の中の体は動き回り、手を振ります。私は通常自分の顔が見えません。何回かは見たことがあるのですが、顔が違っていました。
通常は夢の中の体が動き、時々は飛びます。時々は落ちます。時々は誰かに追いかけられているのに動けない。悪夢です。でもそこには体があり、夢の中の世界があります。私は目を閉じていて、命が脳の中の神経のフラッシュを通して情報を伝えて現実を作り出しています。それは夢の中でしか存在しないが、とてもリアルに感じます。
それは確かなものに感じます。山はそこに数百万年あるように感じます。建物。あなたは建物に登ることができ、それはとてもリアルに見える。そしてあなたが目を覚ますと、それはどこにあるのか? その現実はどこへ消えたのか? 動き回っていた体は消えた。体はベッドの上に横たわっています。
夢の中で私たちは世界を体験します。時々人々は、全員ではないですが、夢を覚えています。一晩に五回、十回夢を見る人もいます。それは、一晩に五つ、十の現実です。生命の本質はなんて創造的なんでしょう。でもそれはすべて無です。それはすべて無でできています。ちょうどこの夢のように。ちょうどこの夢と同じように、それが夢であると認識するのは困難です。
ええ、それは夢だった。でもこれはリアルです。ええ、夢の中で私は、それはリアルだと思っていました。類推してください。眠っている時に夢がどんなにリアルに見えるかを。そして目がさめると、それがどんなに非現実的に見えるかを。同じように、私たちはこの夢から覚めることができません。でも、夢の中へと覚めることはできます。私たちは、これが夢であると理解することはできます。
ここに(自分の体を指して)夢のキャラクターがいて、そこに夢の世界があります。そしてそれに目覚めます。それが何なのかを理解します。それがそれを明るいものにします。それがそれを楽しいものにします。それがそれを易しくします。それは、必ずしも、夢が消えて、私は完全な無であるという意味ではありません。
時々はそうなるでしょう。なぜなら、目を閉じれば夢が簡単に消えるからです。でも、夢はまたやってきます。そして目を閉じれば、また夢から夢の中へと目覚めます。ここで招待していることは、本当のあなたが何なのかを理解することです。もしあなたが、自分はここ(胸を指して)にあるつまらない感覚、存在であり、それは縮こまっていて抵抗していると思うなら、あなたはそれではありません。
それは単に体の中のフィーリングです。なぜなら、私が、私には価値がないという思考を受け入れる時、その思考が体の化学反応を変化させます。体の中の化学物質、ホルモンを分泌させます。コルチゾールを増加させ、ひどく気分が悪くなります。血液が内蔵や手足に流れ、ひどい効果をもたらします。それが、思考を信じることによって肉体レベルに起きることです。
もちろん私が、私は個人であり、私は劣っていると信じていると、感情的な構成要素と肉体的要素ができます。それが体の化学反応を変えてしまいます。もちろんそれは本当だと感じて、見て、これはすべてリアルだと言う時、誰がそのことを知っているのですか? それはアウエアネスの中に内容物です。これは、体、思考、感情的な構成要素と肉体的要素の反応を知る働きです。それは思考の中で体に起こったことです。
そしてこれはすべて、知られています。目撃(witnessed)されています。witness(目撃)は難しい言葉です。なぜなら、witness(目撃)という言葉は、瞑想の間や別の訓練の間に、私たちがもう一人の架空の存在を創造して、それが witness(目撃者)で、その目撃者がエゴや体の内容物を目撃しているように思うからです。
これもまた別のメンタルイメージです。目撃者などというものは存在しません。それは単なるイメージです。しかし、witnessing(目撃する働き)、意識しているというプロセス、気づいていること、知る働きは、代理人を必要としません。それは、誰かそれをする人を必要としません。
見る働き(seeing)にも同じことが言えます。見る働き(seeing)は起こっていることです。それは、見ていると信じている存在を必要としません。誰も見ることはできません。誰もそれがどうやって起こっているのが知りません。人生におけるどんな活動も、媒体(体を指さして)を必要としていません。
そこに誰かいて決定したり、選択したりしているように感じるのですが、実際にそこで起こっているのは、人が決定したり、選択したりしているという観念であり、ここで何かをしている人はいません。小人やサンタクロースが内側にいて糸を引いているわけではありません。
体は何をすべきか知っています。体はどうやって細胞を置き替えるのか、髪の毛を成長させるのか知っています。それをやっている存在はいません。思考を考えている存在はいません。もしいるなら、肯定的で幸福な思考しかないはずです。誰も、私には価値がないなんて考えません。
思考がやって来て、私がそれを考えず、それを止めることができないなら、明らかに思考は私の手の及ぶところにはありません。もし思考が私の手の内にないのなら、どうやって私が決定を下せるでしょうか? 決定は思考に基づいています。もし私が、映画に行きたい、劇に行きたいという二つの思考を持っていて、もし私がそのどちらかを選ぶ場合、実際に選んでいるのは誰ですか?
ある思考はとても強くて興味深くて訴える。もう一つの方はそっけない。選択の余地はありません。起こっていることは明らかです。思考は何をして何をそのままにしておくべきかすべてをすでに含んでいます。それはちょうど、猫がどんな決定や選択も概念化もしないのに似ています。もし猫に二種類のエサをあげても、強く感じる方を食べるだけです。
人生は間に代理人がいない方が簡単になります。すべてのことが命によってありのまま自然に認識されるなら、思考は思考、フィーリングはフィーリング、感情は感情です。肉体の感覚は感覚です。それだけです。それが起こっていることです。内容物の知る働き、アウエアネス、アウエアネスのアウエアネス、知る働きの知る働き。知る働きは続いていて、自らを気づいています。それは自身に気づいています。(ボブが見ているのでマイクを向ける)
ボブ:みなさんに質問するチャンスをあげてください。時間が過ぎています。
カタリーナ:ああ、本当ですか?
(一部聞き取り不能の箇所を割愛しています)
参考:セイラーボブが休んでいた時期(2018年6月)にカタリーナが一人でミーティングを開いていた時期があります。そのYouTubeは、Sailor Kat(YouTube)にあります。