2019/03/24

The Spiel ⑬(2019.4.12公開) 時間は実在ですか?


Is there a time? Sailor Bob Adamosn interview episode 2

あなたは形あるマスクの下で、自分が空であるという体験をしているのですか?
それとも、姿形はあっても、それが実在ではないと知っているのですか?

知る働き、経験する働き。すべては知る働き、経験する働きの中で起こっています。
しかし私は、物ではありません。
私はパターンでも形でもありません。
私は空です。

見かけの上では物となって現れているにすぎません。
でもそれを調べてみると、すべては言葉です。
言葉を学ぶ前、私は何でしたか?
言葉を学ぶ前、あなたは何でしたか?

自分が生まれた時のことを覚えていますか?
自分は生まれたと言うことができますか?
あなたは自分の生まれた時のことを覚えていません。
なぜなら、言葉を知らなかったからです。

あなたは、どんな言葉も概念も知りませんでした。
どんなラベルも知りませんでした。
関連付けるどんなイメージも知りませんでした。

そこにあったのは、感覚、感情です。
幼い赤ちゃんを見てください。
すべてが自然に起こっているのを見てください。
物事は起こり、去っていきます。

赤ちゃんは、何物にも長く執着しません。
何か他の事が起きると、注意はそちらへ向かいます。
ラベルを貼りつけることなく、次の場所を見ます。
そちらの方がより注意を引くからです。

もし自分が空であると理解したら、日々の生活に興味を無くしてしまうのではありませんか? 例えば、夫を愛せなくなりませんか?

なぜ? どうして? 
それはそのように現れているのです。
あなたの夫を連れてきて、あなたに引き合わせ、一緒にしたのは何ですか?
それは、自然に現れている物事と同じではありませんか?

一つのものが、見かけの上で二つのものになり、二つのものがたくさんのものになりました。
それでもそれは、一つのもののままです。
それは常に一つのものです。

言葉を学んだ時、自分は空以外の何かであると思うようになりました。
それは純粋で自然に起こる働きでしたが、分離した存在となりました。
あなたは、「私」という思考と同化しました。
それは原初の思考です。

言葉を学んだ時に思考が起こりました。
見る働きは起こっています。すべてのことは起こっています。
そしてあなたはこう言います。
「私は考える」「私は感じる」「私は見る」「私は経験する」

あなたは言葉によって主体を作り出しました。
何かを見たり聞いたりして、私はあれやこれを見ているという概念を抱きます。
そしてそれが客体となります。

そしてそれが、見かけの上で、見る働きを分割します。
でも、見る働きなくして、見る人、主体は存在しますか?
見る働きなくして、客体、見られるもの、椅子、テーブルは存在しますか?
見る働きなくしてはありえません。

すべては、見る働きの中で起こっています。
見る働きは、自然でひとりでに起こっている作用です。
聞くこと、味覚、触覚、嗅覚、フィーリング、それは実在です。
そこにつけられている-ingは、この瞬間に実際に起こっている何かということです。

でもそれには実体も独立した性質もありません。それは自然発生的なものであり、そこに分離はありません。
私たちはうわべのものに執着し、それを実際よりも長く心に留めます。

時間を見てください。
時間はいつ始まりましたか?
時間を把握しようとして、「時間は今この瞬間始まった」と言う時、「時間はもう終わった」と言っているのと同じではありませんか。

「時間はもう終わった」と言う時、その瞬間に時間はまた始まっているのではないですか? そしてそれはもう終わっています。
ということは、そこには継続は全くないということです。

一つの部分に執着すればするほど、ああ、私はこれを見ているという時、うわべ上の分割を生み出しているのです。
何かを見ると、うわべ上ではそれが永続しているように見えます。
時間という概念のせいで、継続しているように見えます。
もともとの状態よりも永続しているように見えます。

もし過去のことを考えなかったら、過去は存在するかと自問してみてください。
思考なしで、何を言うことができますか?
思考なしで未来が存在するか考えてみてください。
過去と未来はいつ起こっていますか?

あなたは、今この瞬間から離れたことはありますか?
過去を生きることはできますか?
遡って、昨日を生きてみてください。
明日を生きてみてください。

できません。
過去を生きようと想像、期待、回想することはできます。
昨日、5分前。
でも、実際にさかのぼってそれを生きることはできません。

あなたが想像、期待することは、今この瞬間に起こっています。
あなたは過去に遡ることはできません。
あなたは過去の記憶を思い出し、未来を想像しているにすぎません。
明日何をしようと想像、期待することはできますが、それを生きることはできません。

もしあなたが未来のことを考えなかったら、それはどこにありますか?
あるのは今この瞬間だけです。

過去、未来はどこにあるのですか?

それは記憶です。
あなたは過去を思い出すことはできます。
でも、あなたがそのことでできることは、今この瞬間に思い出すことだけです。
あなたが今この瞬間に思い出せなかったら、
あなたは過去の出来事を覚えていますか?

少し前に言ったことを覚えていますか?
少し前に考えていたことを覚えていますか?
少し前に何をしたか覚えていますか?
あなたが思い出さないかぎり、あなたは覚えていません。

未来に何かをすると期待、想像することは可能です。
でもそれは現実ですか?
それは期待、想像、考え、概念です。
それは見かけ上の未来の時間です。

でもあなたは決してこの瞬間から離れたことはありません。
概念上で離れたにすぎません。
概念や思考の上だけです。それがあなたのマインドの中で起こっています。

時間は単に概念上のものですか?
それはマインドの中にあるだけですか?

そうです。
それが、私たちが理解しなければいけないことです。
あなたの過去の出来事、経験、条件付けはすべて死んだイメージです。
それは過去のものです。

もし今この瞬間に考えなかったら、条件付けはどこにありますか?
もし今この瞬間に考えなかったら、過去はどこにありますか?
それはすべて思考があって成り立っています。
もし期待、想像しなかったら、未来はどこにありますか?

でももし考えなくても、私個人は存在するのではないですか?

本当ですか?
それは、どれほどリアルですか?
それは自然に起こっている現象です。
あなたはそれに個人というラベルを貼りつけています。

人(person)という言葉はどこから来ましたか?
もともとの言葉はペルソナ、マスクです。
人は概念上のマスクを被りました。
それは両親から言葉を学んだ時に起こりました。

2歳かそこら。2歳半。考える能力が発達し始める前は、人(person)ではありませんでした。
そこには人はいませんでした。
それまで物事は自然発生的に起こっていました。
というのも、あなたは言葉に翻訳することができなかったからです。

あなたはどんな言葉も知らなかったからです。
まだ考える能力が十分発達していなかったので考えることができませんでした。
その能力は2歳か2歳半までは発達しません。

人間のその能力は他の動物、鳥、昆虫よりも発達しています。
でも、動物たちは他の能力が発達しています。
鳥は私たちよりよく見ることができます。
鳥は飛ぶことができますが、私たちは普通はできません。

でも私たちは考える能力によって、メガネや双眼鏡を作ることを学びました。
望遠鏡でよく見ることができます。
飛行機、ヘリコプター、気球によって飛ぶことができます。

犬には嗅覚があります。
私たちは犬と同じように嗅ぎ分けることはできません。

あらゆる種類の感覚が起こっています。
私たちはそれを概念化することができます。
動物や昆虫は私たちよりももっと感じることができます。

そして、私たちは分離した存在、個人であるという考えを受け入れました。
それを調査することも、疑問に思うこともありませんでした。

あなたは違った能力について話しています。
あたかも私たち人間が特別ではないかのように。

ええ、無(NO-thing-ness)、純粋な本質、すなわち知性エネルギーの中ではあなたは何であれ、基本的な空間、概念化されない意識の空間、純粋なる知性、貼り付けたければどんなレベルを貼り付けてもかまいませんが、概念なしで、いったい誰があなたより優れているのですか?
概念なしで、一体誰があなたより劣っているのですか?

あなたは自身に対して概念を持ちました。
そして、他の人に対しても概念を持ちました。
そしてその概念を自分だと思うものに結び付けました。
あなたは、自身を他者よりも優れているとか劣っているとか考えます。

概念なしで、誰があなたより優れているのですか? 誰が劣っているのですか?
もしそれがすべて空、認識する空だとしたら。
知る働き、すなわち知性で満ちているとしたら。
一体誰が優れていて、誰が劣っているのですか?

そしてあなたは他者に何を望みますか?
あなたは概念を抱いています。
彼らは私の持っているものを手に入れた。
私は彼らが持っていないものを手に入れた。
だから私は彼らよりも優れている。

彼らは私の持っていないものを手に入れた。
だから彼らの方が優れている。
そうした概念なしで、あなたはどうなりますか?
その平静の中で。概念化されないアウエアネスの中で。

それがまた聖典の中で言われていることです。
根底にある空間、すなわち、大いなる完成は概念化されない意識です。
どんな概念もない意識(アウエアネス)です。
それはすなわち、究極のもの、大いなる完成です。

概念無しで、究極に何を付け足すことができますか?
もしそれができるなら究極ではありません。
そこから何を取り去ることができますか? 何も。
もしそれができるなら、究極ではありません。

大いなる完成についても同じことが言えます。
もし何かを付け足せるなら、それは完成ではありません。
それから何かを取り去ることもできません。
もしそれができるなら完成ではありません。

あなたはそれです。忘れないでください。